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学会からのお知らせ


* 4月研究会

 下記の通り研究会を開催します。発表概要は月報347号(2月)をご参照下さい。

テーマ:初期アルメニア正教教会堂建築におけるドーム架構の展開
発表者:藤田 康仁氏
日 時:4月14日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学美術学部中央棟1階第2講義室(最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」 http://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

* 第36回大会

 第36回地中海学会大会を6月16日,17日(土,日)の二日間,広島県尾道市において下記の通り開催します。

6月16日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演
  「地中海と瀬戸内海──島の歴史と伝承と」
 樺山紘一氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「崖に住む」
  パネリスト:太田敬子/陣内秀信/益田朋幸/真野洋介/司会:野口昌夫 各氏
16:40〜17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総 会(会員のみ)
18:00〜20:00 懇親会

6月17日(日)
10:00〜12:30 研究発表
「ギリシア青銅器時代の印章の硬度と図像──《星形モチーフを伴うライオン》図像」 小石絵美氏/「アッティカにおける神話表現の成立──墓標陶器の図像変遷に着目して」 福本薫氏/「オウィディウスのメルクリウス──『変身物語』第2巻676-832」 西井奨氏/「古代ローマの皇帝親衛騎馬部隊騎士の墓碑と,その浮彫の「馬」図像」 中西麻澄氏/「メディチ家支配下のピサ平野とナヴィチェッリ運河の描写と政治的事実について」 吉田友香子氏
13:30〜16:30 シンポジウム
  「海の道──航路・文化・交流」
  パネリスト:荒又美陽/亀長洋子/武田尚子/尹芝惠/司会:末永航 各氏

* 春期連続講演会

 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会「地中海世界の歴史,中世〜近代」(5月12日〜6月9日の各土曜日 全5回)を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)。各回の講師・テーマは決まり次第お知らせします。

* 会費納入のお願い

 新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(月)に引き落とさせていただきます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
 退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月13日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続となります(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,4月6日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

* ホームページの変更

 国立情報学研究所のサービス停止により本学会のホームページは下記に変更になりました。

 新:http://mediterr.web.fc2.com/
 旧:http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/






中世こそ女性の地位は高かった

福本 秀子



 「中世は暗黒の時代」ではなく,ヨーロッパ中世にあっては人々は自由な生を営み,ことに女性は財産権も発言権も決定権ももち,権威があった事は多くの個人伝記が示してきたところである。その筆頭は12世紀を舞台に精力的に生きた王妃アリエノール・ダキテーヌ(1122〜1204)であり,西欧中世の傑物たちは皆,アリエノールにまつわる人々だという事は大変に興味深い。例えば次に述べるマルグリット・ド・プロヴァンスの夫聖王ルイ9世はアリエノールの初婚の夫ルイ7世の曾孫であり,十字軍がパレスチナに建国したエルサレム王国の第3代王フルク5世アンジュー伯の孫がアリエノールの再婚の夫ヘンリー2世,救国の乙女ジャンヌ・ダルクがランスで聖別させたフランス王シャルル7世はアリエノールの初婚の夫ルイ7世から数えて11代目のフランス王,といった具合にアリエノールの系統は西洋にオリエントに綿々と続き,しかも彼女の23代目の子孫が18年前の在日フランス大使館員(彼は自分の血統書を任地の国々に持参していた)であったとは歴史の面白さを感じさせる。この偉大なる「西欧の母」アリエノールは余りにも有名なので他に3人の中世の女性を挙げて女性が持っていた権威の偉大さを見てみよう。
1. マルグリット・ド・プロヴァンス(1221〜1295)
 本月報316号(2009年1月)の表紙に筆者が「地中海の女と男」として示した王妃である。聖王ルイ9世の王妃であった彼女は1248年,王と共に十字軍に出征した。対エジプト戦であった。1250年,フランス軍が降伏するとヴェネチアの商人たちも港の入口を見張っていたピサの艦隊もダミエッタを引きあげようとした。ダミエッタは王や捕虜達を取り戻す唯一の切り札である。王妃は艦隊の主だった艦長達を自室に呼ぶ。出産の翌日であった。彼女は街に残っている食料を全部買い取り彼らに渡してダミエッタを救い,手腕を発揮してスルタンを説得して王と生き残った軍勢を助け出したのである。中世の女性はこのように政治的能力を示す習慣も機会もあった。王妃の義母ブランシュ王妃も,聖王ルイ夫妻の十字軍出征中はフランス王国を一人で統治していたのであるから女性の政治的・経済的権威は当然の事として認められていたのである。
2. ブリジット・ド・スエード(1303〜1373)
 女性は宗教界に於いても実力があった。当時ローマ教皇は混乱と殺戮の街ローマを去り,アヴィニョンに住ん

でいた。教皇位はフランス人によって占められ,キリスト教圏全体を代表するはずの教皇はフランスとパリ大学の支配下にあった。そこへ一人の女性がアヴィニョンのウルバヌス5世教皇に会いに来る。スウェーデンのブリジットである。8人の子をなした彼女は才能と行動力に長け,スウェーデン王家の執事となった。夫に先立たれて巡礼の旅に出,途中ローマに立ち寄りライ患者及びスウェーデンの学生のための病院を建立,アヴィニョンに来て教皇に会い,本来のローマ教皇庁に戻るよう懇願した。そういう願いを決然と教皇に進言できる者のいなかった中で一女性がそれを行い教皇がそれを受け入れたのは稀有な事である。ウルバヌス5世は一度はローマに戻るが2,3年でまた住みよいアヴィニョンに逃げかえってしまったが,次の教皇の時,また一人の勇気ある女性が現れたのである。
3. カテリーナ・ダ・シエナ(1347〜1380)
 スウェーデンのブリジットは貴族の娘であったがイタリアのカテリーナは貧しい染物屋の19人の子供の末子で,ドミニコ会の第三修道会員であった。読み書きが出来なかった彼女の言葉を筆記したのがドミニコ会のライモンド・ダ・カプア,のちのドミニコ会総長で,カテリーナの「悔悛」の人生を書く事となる。彼女は「教皇はローマにあってこそ世界の教会の長たり得る」として教皇グレゴリウス11世にローマへの復帰を決意させたのである。こうしてアヴィニョン教皇庁の時代は終わりをつげたのであった。

 カテリーナから遅れること1世紀,1412年に生まれたジャンヌ・ダルクも庶民で学問もない娘だが,彼女もまたフランス王太子シャルルに働きかけてランスで戴冠させた(奇しくも今年はジャンヌ生誕600年祭がルーアンで開催される)。こうして教皇を動かし,国王に決心させ,14世紀と15世紀に世界の均衡をくずしたのは女性達なのであった。中世・近世の初頭までは男女が均衡のとれた才能の発揮場所があったのではなかろうか。その後女性の輝きは消される方向に下降を始め,その輝きは20,21世紀に入ってやっと取り戻された。そして今や,ミャンマーのアウンサン・スーチー女史やドイツのメルケル首相などのように全世界に偉大なる影響を与える女性達が現れて,その力を発揮している事は誠に力強く,喜ばしい事である。







古代ギリシア恋愛小説と地中海世界

中谷 彩一郎



 古代ギリシア恋愛小説と聞くと,紀元前のギリシアで書かれた恋物語を想像されるかもしれない。あるいは小説など古代にあったのかといぶかしむ向きもあるだろう。実際,このジャンル名そのものは後世名付けられたもので,1〜4世紀頃,ローマ帝政下のギリシア語圏で書かれた散文による恋物語群を指す。現存するのは,カリトン『カイレアスとカリロエ』,エフェソスのクセノフォン『エフェソス物語』,アキレウス・タティオス『レウキッペとクレイトフォン』,ロンゴス『ダフニスとクロエ』,ヘリオドロス『エティオピア物語』の五作品。主人公の男女の恋が物語の中心となるのはもちろんだが,同時に二人はエロースやテュケー(巡り合わせ,偶然)に翻弄されながら,地中海世界を股にかけた波瀾万丈の旅を繰り広げる。そこでは当時の第二次ソフィスト運動の影響もあいまって,修辞技巧を凝らして地中海世界の姿が活写される。たとえば,『レウキッペとクレイトフォン』の第五巻冒頭を見てみよう。そこにはアレクサンドレイアの整然とした街並が描かれている。

 いわゆる太陽の門から入った私は,たちまち街の輝く美しさに遭遇し,目は喜びで満たされました。円柱の真っ直ぐな列が太陽の門から月の門まで両側に並んでいます。この二神は街の門番なのです。列柱の間には街のひらけた平地部分があります。その平地を通る多くの道があって,街の中にいながら,遠出しているようです。街を数スタディオン進むとアレクサンドロスの名にちなむ場所にやって来ました。私はそこでもう一つの街を見ましたが,その美しさは分割されていました。というのも円柱の列が真っ直ぐに延びるだけ,同じだけの列柱が横切っていましたから。私はすべての道に目を配りましたが,飽くことを知らぬ見物人には美しさの全容を見ることはできませんでした。あるところを見ると,ほかのところを見ようとし,あるところを見ようと逸り,またあるところを見逃せないと思いました。見ているものが目を圧倒しては,また新たな期待が目を引き寄せました。こうして私はあらゆる道を歩きまわって見るものに恋焦がれ,疲れて言いました。
 「目よ,われわれの負けだ。」

 さらに,ゼウス(セラピス)の祭りの松明行列(第五巻二)やファロス島の大灯台の「並はずれた驚異の構

造」(第五巻六)も描かれる。他の四作品とはいささか趣が異なる牧歌的恋物語の『ダフニスとクロエ』でさえ,物語冒頭(第一巻一)はレスボス島のミュティレネの街が掘割でいくつにも区切られ,白大理石の橋がかかっている様から始まっている。
 街並ばかりではない。古代ギリシア恋愛小説にはエジプトの河馬や鰐といった動物,ペルシオンのゼウス・カシオス像や神殿に奉納された絵画,エフェソスのアルテミス女神の祭礼行列やデルフォイのピュティア競技祭,ナイル河の「牛飼い」と呼ばれる盗賊,地中海の嵐や海賊等々,各地のさまざまな風物が描かれている。同じ漂流譚でも,ホメロスの『オデュッセイア』のように,英雄が女神や怪物の住む島や冥府を訪れるような空想の冒険ではなく,等身大の男女の現実的な世界での旅・冒険を描いた点に,このジャンルの特徴があるといえよう。
 とはいえ,これらの描写には必ずしも執筆された当時の地中海世界の様子がそのまま反映されているわけではない。カリトンがヒロインを紀元前5世紀のシュラクサイの将軍ヘルモクラテスの娘としたように,そもそも舞台設定自体が同時代とは限らない。一方,先に引用した太陽の門と月の門は,アキレウス・タティオスが現存最古の証言であり,実際に見た門の姿を描いた可能性が高い(写本の著者名に「アレクサンドレイアの」とあることやパピルス断片が複数発見されていることからも,著者はアレクサンドレイア出身だったと考えられている)。さらに恋物語作者たちは,時には想像力豊かに,時にはホメロスやヘロドトスといった先達たちの表現を模倣しながら,未知の土地や風俗を描くこともある。かつてはこうした詳細な描写は,物語の本筋とは関係のない脱線として批判されることが多かった。しかし近年では,読者の好奇心を満足させるためのスペクタクル性の証左としてむしろ肯定的に捉えられている。物語を通して読者もまた,地中海世界各地を旅することができるのである。
 このように古代ギリシア恋愛小説は,実世界に一見近いものの,同時にアナクロニズムや創作をも含んだ,もう一つの古代地中海世界をわれわれに味わわせてくれる。そして,ローマ帝政下のギリシア語世界に生きる人々の社会や文化,アイデンティティをも垣間見せてくれるのである。







戦うパッシニャーノの修道士たち

西村 善矢



 ヨーロッパを代表するワインの産地にして,中世修道院改革運動の震源地といえば,フランスのブルゴーニュ地方がただちに思い浮かぶであろう。しかし,キアンティ・クラシコの里トスカーナもまた,カマルドリ修道会およびヴァロンブローザ修道会という二つのベネディクト派改革修道会の生まれた改革揺籃の地であった。以後,完徳な修道生活の理想をめざす修道士たちが,トスカーナを中心とするイタリア北・中部各地に修道院を建設し,あるいは既存の修道院の改革に着手した。ここでは,ヴァロンブローザ修道会に属するパッシニャーノ修道院を取り上げよう。
 キアンティ丘陵のほぼ中央部,ペーザ河谷を見下ろす丘の中腹に立つパッシニャーノ修道院は,890年フィエーゾレ司教ゼノビオとその兄弟によって創建されたとされる家修道院である。初期の文書がほとんど伝来していないこともあり,この修道院は創建から約一世紀の間,歴史の闇に消える。しかし,新たな修道院建設の波が訪れる紀元1000年の少し前,パッシニャーノ修道院は息を吹き返した。
 だが11世紀半ば,パッシニャーノ修道院は折しも到来した教会改革の荒波にもまれ,ヴァロンブローザ修道会の創建者ジョヴァンニ・グアルベルトの手にわたる。改革を委ねられたジョヴァンニは,全幅の信頼をおく弟子レトを院長職に就けたが,自らもまた晩年の大半をヴァロンブローザ修道院ではなく,この娘修道院で過ごした。彼は改革派教皇レオ9世をこの修道院で迎え入れ,1073年ここで没し,ここに葬られた。ジョヴァンニは1193年に列聖されるが,これに先立って列聖準備のため1170年頃に作成されたテクストによると,彼はこの修道院からわずか5キロの地点にあるペトロイオなるカストルムで生まれ,育ったという。また近年の歴史家は,ジョヴァンニとパッシニャーノ修道院の古くからの庇護者たちとの間に親族関係を想定している。俗世の絆をすべて断ち切って禁欲生活を送るはずの修道士としてはやや考えにくいことではあるが,パッシニャーノ修道院の改革を委ねられたことは,ジョヴァンニにとって故郷に錦を飾るような出来事だったのだろう。
 もっとも,ジョヴァンニ・グアルベルトは徹底的な改革を志向する修道士でもあった。実際に,彼は聖職売買の罪を犯したとしてフィレンツェ司教ピエトロ・メッツァバルバを断罪している。妥協を許さないヴァロンブローザ修道会創設者のこの熱き思いは,彼に共鳴してパッシニャーノの修道士となったピエトロ・イニェオに

も見てとれる。1068年,この修道士は燃える炭の上を歩くという火の神判を通して,身をもってジョヴァンニの主張の正しさを証明したのである(イニェオとは「火の」という意味)。
 パッシニャーノの修道士たちが聖職者を前に示した気性の激しさは,俗人に対しても発揮された。実際に,周辺領域で領主権力の確立をめざしていた修道院長は,1170年代以降お抱えの武装集団を投入して,世俗領主とのあいだに抗争を展開した。聖俗権力入り乱れての「戦争guerra」は,自らの権威を相手に認めさせることを主な目的としていたため,通常は家屋の焼却や家畜の窃盗など敵対者の財産に損害を与えるか,せいぜい人身に危害を加えるにとどまっていた。ところが修道院に近いカストルム,ポッジャルヴェントの支配権をめぐるマラプレーザ家との「戦争」は,修道院側の武装従者による殺害事件に発展した。1193年,修道院側は賠償金を支払ってマラプレーザ家と和平を結んでいるが,この「戦争」に勝利したのは修道院であった。修道院長に従う武装従者の刃は,修道院領民へも向けられた。彼らはしばしば領主制的賦課を徴収するため,領民を暴力で威嚇している。
 これほどの勢威をきわめた修道院も,19世紀初頭ナポレオン時代に廃止の憂き目にあう。ガリレオがかつてここで数学の講義を行ったというエピソードが伝わるように,パッシニャーノ修道院は知の拠点としても名を馳せていたが,廃院にともない多数の蔵書もまた失われてしまった。しかし歴史家にとっては幸運なことに,1200年以前のものにかぎっても2,000点を越える羊皮紙文書は,その飾り気のない外観のためか散逸を免れた。
 昨秋,私はこの修道院を訪れる機会を得た。夕刻の迫る頃,ブドウ畑で覆われたなだらかな丘に佇む修道院に到着した私は,門前のレストラン兼エノテカに立ち寄った。修道院の見学が可能かどうかを尋ねるためである。店員は徒歩でここに辿りついた私の労をねぎらってか,その名も「バディア・ア・パッシニャーノ」という銘柄のワインを一杯振舞ってくれた。このワインの製造者は,修道院周辺のブドウ畑を所有するフィレンツェの老舗アンティノリ家である。店員によると,修道院は21世紀に入ってから扉を固く閉ざしたままだという。私は収穫を終えたブドウ畑が夕闇の静寂に包まれていくさまを窓越しに眺めつつ,ワイングラスを傾けた。血の気の多い修道士たちのためにブドウや小麦の収穫に勤しんだかつての農民の姿を思い浮かべながら。







ハイム・ナホム

──オスマン帝国最後の首席ラビ──

宮武 志郎



 アブデュル・ハミト2世期から青年トルコ革命を経たオスマン帝国末期の政治的混乱の中,オスマン帝国内のユダヤ教徒コミュニティーも変革の大きな波の中にあった。19世紀後半から,パリで設立された万国イスラエル連合(Alliance Israélite Universelle,以後連合と略す)がオスマン朝領内のユダヤ教徒に近代的教育を施した結果,オスマン朝領内の多くのユダヤ教徒が,コミュニティーの近代化を目指すようになった。このような時代に,オスマン帝国最後の首席ラビとなる運命のハイム・ナホム(Haim Nahum, 1873〜1960)がこの世に生を受けた。
 ナホムはマニサのユダヤ教徒の家庭に生まれ,幼少時にティベリアのイェシヴァでユダヤ教学などを学んだ。そこで彼の優れた才が見いだされ,マニサの知事から支援を受け,イズミールでリセ,イスタンブルで帝国法律学校で学んだ。そこで彼の才能に着目したのが,イスタンブルに進出していた連合のメンバーであった。そして,彼らはナホムを次世代のユダヤ教徒コミュニティーを担う指導者として育てようとした。ナホムは連合の奨学金を受けて1891年にパリに留学し,法律とユダヤ教学,さらにイスラーム学を学び,ラビの資格と法律の学位を取得した。1897年にイスタンブルに戻ったナホムは,連合が設立した学校で教師としての経験を積みながら,連合と協力しつつ改革を望む人々を連合派に組み入れていった。その結果,ナホムは進歩的ラビの中心的存在としての名声を得ることとなった。
 1908年に青年トルコ革命が起こると,様々な政治活動が大幅に認められるようになった。それはユダヤ教徒コミュニティーの中でも,進歩的改革派が勢いを増していくことを意味しており,彼らに推されてナホムは首席ラビの選挙に立候補し見事に当選したのである。しかし,首席ラビとなったナホムの前にはコミュニティー改革の為に対処しなければならない問題が山積していた。そして,それ以上に彼にとって大きな障害が彼の前に立ちはだかった。それはシオニストの出現であった。シオニストがイスタンブルを拠点に活動し始めると,皮肉なことに連合の学校で育った若者らが,一挙にシオニスト支持者となっていった。また,パレスティナがオスマン帝国領であったことから,ベングリオンはじめ,シオニストの大物が次々とイスタンブルに到りプロパガンダ活

動を行った。しかし,オスマン当局がパレスティナでの国家建設を唱えるシオニストを危険視していたため,オスマン帝国内のユダヤ教徒の安全を図らねばならないナホムにとって,シオニストの拡大は認められるものではなかった。そして連合支持者とスファラド系ユダヤ教徒がナホムを支援し,一方で遅れてオスマン帝国に進出してきたドイツ・ユダヤ教徒支援協会(Hilfsverein der Deutschen Juden)支持者とアシュケナーズ系ユダヤ教徒がシオニストを支援するに到り,ユダヤ教徒コミュニティーは完全に分裂することになった。
 第一次大戦後,ナホムは大宰相イッゼト・パシャの依頼を受け,少しでも良い条件での講和条約締結を目指すため,1918年10月ヨーロッパに発った。その間に,イスタンブルのユダヤ教徒コミュニティーでは,シオニスト側が一挙に攻勢に出て主導権を奪う。帰国したナホムは,権力奪回を図るも失敗,1920年に行われた選挙ではシオニストに敗北し,首席ラビを辞任した。その後,ナホムは失意のうちにイスタンブルを去りパリに向かうことになり,ナホムの政治生命もここで潰えたかと見えた。しかし,その後アタテュルクによる祖国解放戦争が勃発,ギリシアの敗北とオスマン帝国の滅亡という大きな政局の変化の中で,ナホムは再び歴史の場面に登場する。新生トルコ共和国と連合国との講和会議であるローザンヌ会議に,トルコ側代表団の一員に選ばれ顧問として参加,条約締結に貢献したのである。そしてナホムはこれを最後にトルコから完全に姿を消すことになった。1923年,カイロのユダヤ教徒コミュニティーからエジプトの首席ラビとして招待され,さらにエジプト立法議会の上院議員にもなった。また,学者としても数々の業績を残した。その後,ナホムはイスラエルとの関係悪化の下,エジプトのユダヤ教徒の地位を守ることに尽力する中で1960年にカイロでこの世を去った。
 天賦の才に恵まれていたハイム・ナホムは,本来であれば極めて有能な首席ラビとしてユダヤ教徒コミュニティーを支えていたはずであった。しかしながら,シオニズムの出現により,同胞との対立を余儀なくされ,政治生命をも失ってしまうことになる。シオニズムをめぐるユダヤ教徒の対立は,ハイム・ナホムという一人の人間の運命を翻弄したのであった。







自著を語る67

『イメージの地層 ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』

名古屋大学出版会 2011年9月 902頁 13,000円+税

水野 千依



 ルネサンスの図像文化といえば,輝かしい芸術的技巧を打ち出した巨匠を誰しも思い浮かべることだろう。しかし,本書を手にとられた方は,少なからず驚かれたのではないだろうか。名もない聖母像や破壊の痕跡をとどめる聖像のみならず,蝋で型取りしたマスクや奉納像,さらには怪物表象など,およそ想像を裏切る図版が鏤められているからだ。たしかに本書にも,ドナテッロ,ラファエッロ,ティツィアーノら錚々たる芸術家が登場する。しかしそれは,彼らが成し遂げた偉業を解明するためではなく,古代異教の像呪術的慣習と型取肖像との関係や,奇跡を起こす礼拝像をめぐる儀礼,あるいは予言を託されたモザイク装飾をめぐる裁判という文脈において言及されるにすぎない。なぜなら,本書を貫く問いは,近代以降に遡及的に再定義された「芸術」という概念からとりこぼされてきた「イメージ」をすくい取り,その歴史をいかに語りなおすかという点にあるからである。
 たしかにルネサンスという時代は,造形物を美的な尺度で制作し受容する態度を発展させた時代である。しかしそれは,近代の「芸術」という規範に収まるものではない。「美的価値」といいうるものが前景化したこの時代にあえて焦点を定めることで,「芸術」に包摂しえないイメージの地位や機能,ひいてはそのあり方自体を,当時の文化における多様な表象や象徴的行為の体系のなかで浮き彫りにできるのではないかと考えたのだ。
 こうした視点は,近年,「歴史人類学」と称されている学際的研究と少なからず共振するものである。たとえば,中世史家ジャン=クロード・シュミットは『中世歴史人類学試論』のなかで次のように述べている。「歴史家が儀典上の表象ないし慣行を理解しようとする場合に,中世ヨーロッパのル・ディヴァンの表象に関連して,そもそも〈宗教ルリジオン〉という観念そのものが正しいのか〔……〕今日我々が定義するような意味での〈宗教〉の観念は,我々の文化が考え出した比較的新しい産物なので,18世紀の啓蒙思想の時代より以前に遡ることはない。中世には宗教なるものなど,存在しなかったのだ。〔……〕むしろ,人類学者のように象徴体系システーム・サンボリーク〔……〕について語る方がよい。それはつまり,一社会の表象と実践の全体に行き渡っている信念や神話や儀典のことで,今日我々はそれらの間に〈経済〉や〈社会〉あるいは〈宗教〉を識別する傾向が強いのだが,それこそ時代錯誤に他なら

ない」(渡邊昌美訳,刀水書房,2008年)。この議論を,美術史学における「芸術」の概念にあてはめても,あながち見当違いではないだろう。
 本書が,「芸術」というより「イメージ」という言葉を選択しているのは,こうした理由からである。本書における「イメージ」には,いわゆる芸術作品だけでなく,奇跡像,正統な図像規範からの逸脱や偶像性ゆえに破壊の対象とされた図像,聖遺物,エクス・ヴォート,蝋人形といった「周縁的」対象から,さらには瞑想や記憶や幻視にまつわる心的イメージまでが含まれる。
 もっとも,歴史学のみならず美術史学においても,アビ・ヴァールブルクやユリウス・フォン・シュロッサーの知的遺産を再評価する流れのなかで,人類学への関心は高まりつつある。『イメージ人類学』を著した美術史家ハンス・ベルティンクは,ヴァールブルクのいう「文化学(Kulturwissenschaft)」を継承し,「芸術作品」(絵画であれ彫刻であれ版画であれ,歴史をそなえた触知可能なもの)ではなく「イメージ」(物理的存在と心的存在の境界のあわいにあるかぎりで具象化を拒むもの)を人類学的視点で論じることを主張している。また,非知へのまなざし,アナクロニスムの復権,歴史の無意識=「残存(Nachleben)」といった概念を通じて,ヴァールブルクの「名前のない科学」の継承を訴えるジョルジュ・ディディ=ユベルマンのイメージ人類学もある。一方,人類学の側からのアプローチも看過できない。「記憶の人類学」を提唱するカルロ・セヴェーリや,フィリップ・デスコラらの貢献はじめ,美術史と人類学との対話は,近年,ますます開かれつつある。
 こうした問題意識のなかで,本書は,いくつかのケース・スタディを通じて,イメージの複雑な地層を掘り下げることを試みた。14世紀以降トスカーナ地方で高揚した聖母像崇敬を,キリスト教における表象の問題や像を価値づける論理という点から考察し,さらに後世の修復的処理や破壊行為のもつ両義的意味を分析することで,「もの」としての礼拝像に接近した。また,模倣の技ではなく対象の「痕跡」に派生する肖像の系譜とその「分身」としての機能を人類学的に考察した。さらに,瞑想や幻視や終末論的予言とイメージとの関わりについても,多角的に分析を試みた。いずれも美術史を開くためのささやかな試論であり,残された課題は多い。本書で撒いた種を,今後,しっかり育てていきたい。






表紙説明 地中海世界と植物 25


マンドラゴラ / 尾形 希和子


 マンドラゴラの名を澁澤龍彦の著作で知った方も多いのではないだろうか。改めて『エロスの解剖』中のマンドラゴラの章を読んでみると,この不思議な植物についてのあらゆる伝説や奇譚が網羅されている。マンドラゴラは動物誌(ベスティアリー)などで,特に12世紀以降独立した項を形成するようになるが,『フィシオログス』の中では象の性質の一つを語る際に登場する。澁澤がブルネット・ラティーニのヴァージョンで紹介するそのエピソードの概略は次のようである。

 象は肉欲をもたない動物である。そこで子供を作ろうと思いたつと,雄と雌が連れ立ってパラダイスの近くに生えるマンドラゴラの木を探しに東へと赴く。まず雌がマンドラゴラの実を食べ,雄にも勧める。そうするとたちまち子が産まれる。象には関節がなく一度倒れると起き上がれないため,雌はころばないように水の中で子を生む。雄は出産の間ずっと彼らの敵,ドラゴンから子と妻を守るために見張っている。

 この物語では象の雄と雌は原罪を犯す前のアダムとエヴァであり,マンドラゴラの実は知識の木の禁断の実を表している。動物誌の象の挿絵中に時折小さな裸の人間のようなものが描かれるとき,それは朝鮮人参同様人間の形をした根を持つマンドラゴラの姿であり,時には象の雌雄に対応して,雌雄二体のマンドラゴラが描かれる。
 ギリシア語を語源とするマンドラゴラは,猛毒を持つベラドンナなどと近縁種のナス科で,根に麻薬効果があるが,オリエントで懐妊効果があると言われたのはその小さなリンゴのような実である。旧約聖書中ではラケル

はドゥーダイームという果実の効能で身ごもった。その同定には諸説あるが,一般にそれはマンドラゴラを指すと言われている。
 かのマキャヴェッリが書いた La mandragola という喜劇を,いつだったかある夏の夜,ローマのジャニーコロの丘の小さな野外劇場に見にいったことがある。ある間抜けな法律学者の美しい奥方に横恋慕するカッリマコのために友人リグーリオは一計を案ずる。それに従ってカッリマコは医者に扮し学者に会い,子供を作るためには奥方にマンドラゴラを飲ませねばならないが,その後最初に床を共にした男は死んでしまうから,そこいらの若者を捕まえてその役を担わせなくてはならない,と説得する。そして実際には若者のかわりに奥方のところに行くのはカッリマコというわけだ。一見恋のどたばた喜劇のように見えるが,舞台となった1504年当時のフィレンツェの腐敗した社会へのマキャヴェッリの痛烈な皮肉なのである。マンドラゴラは大地から引き抜かれる時に世にも恐ろしい叫び声をあげ,それを聞いたものは死んでしまう。そこで犬の首につけた縄の反対の端をマンドラゴラに結びつけ犬にひっぱらせ,人間は耳栓をしてまんまとマンドラゴラを手に入れるという古い伝承がある。中世の医薬書でもマンドラゴラと共に,犠牲と なる気の毒な犬が描かれている。劇中で使われる,マンドラゴラ服薬後最初に交わった者は死んでしまうというでっちあげを,マキャヴェッリはこの伝説から思いついたのかもしれない。

mandragora