学会からのお知らせ

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第17回「地中海学会ヘレンド賞」(第16回受賞者:望月典子氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第36回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間: 1月10日(火)〜2月9日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第36回地中海学会大会
 第36回地中海学会大会を6月16日,17日(土,日)の二日間,広島県尾道市しまなみ交流館において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月9日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。
テーマ:古代モニュメントの再建方法「アナスティローシス」の歴史研究──その語源からアテネ会議(1931年)まで
発表者:大場 豪氏
日 時:2月18日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学美術学部中央棟1階第2講義
室(最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」http
://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 アナスティローシスという概念が国際的に認知されたのは,1931年の芸術的歴史的記念建造物の保護と保存に関する国際専門家会議(アテネ会議)時に遡る。この会議の決議にて,「遺構の場合,可能であれば発見された当初材を元の位置に戻すこと(アナスティローシス)と共に,細心の保存が不可欠である」と成文化された。本研究では,アナスティローシスの語源や意味の変遷,再建例より,上記の概念が形成された背景に着目する。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には振込用紙を344号(11月)に同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2012年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報344号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月23日(木)です。ご協力をお願いいたします。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
 すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
















マイアンドロス川に翻弄された町
──ミレトス再訪──

師尾 晶子


 月報339号に佐藤昇氏による「イオニア考」が寄稿され,ミレトスの歴史について語られたばかりだが,違った切り口からふたたびミレトスを取り上げたい。
 古代都市ミレトスはマイアンドロス川(Maiandros = 英語Meander,現メンデレス川)の河口の南側に位置した。メアンダー文様(Meander)という装飾文様の名称の由来ともなったマイアンドロス川は,メアンダー文様が示すとおり,文字通り蛇行し,その流れは時代とともに変わった。そして水の流れとともに上流から大量の土砂を運び,河口に広大なデルタ地帯を形成した。沖積土によってつくられたデルタは,地域有数の肥沃な土地となりこの地域に繁栄をもたらした一方,大量の土砂による景観の変容は人々の生活を翻弄してきた。今日,周辺一帯は一大綿花生産地として知られるが,古代,マイアンドロス川の河口にはラトモス湾が広がり,エーゲ海へと続いていた。ミレトスをはじめ,湾岸につくられた町々は,湾内に自然の良港を得たことで発展してきた。紀元前479年にペルシア軍とギリシア軍との海戦場となったミュカレは,湾内奥に位置する小島であった。現在はミレトス東部に残る湖がかろうじて湾の名残を伝えている。
 ミレトスにはこれまで季節を変えて3回訪れている。はじめて訪れたのは2005年3月半ばであった。遺跡は水に埋もれ,幻想的な風景が広がっていた。獅子港として知られる地域の周囲は水深も深く,そこがかつて海であったということを想像するに難くなかった。川の神メアンデルの像の基壇と台座は完全に水に埋もれていた。2回目に訪れたのは2009年9月上旬であった。太陽がじりじりと照りつけ,遺跡の土は乾燥しきっていた。以前の幻想的な風景とは対照的に,典型的な地中海の乾いた古代遺跡の風景が広がっていた。
 昨年10月9日から13日まで滞在した今回の旅では,たった一度の雨がミレトスの光景をどう変容させるかをつぶさに見ることとなった。夏が終わって最初の雨は,旅の途上の10月8日にあった。雨は数時間で上がったものの,その後の強風は一気に気温を下げ,9日夜の雷をともなった強雨はミレトスの風景を一瞬にして変えた。瞬く間にアポロン・デルフィニオスの神域であったデルフィニオンには水が上がりはじめ,ドイツ考古学隊によって設置されていた水をくみ上げる電動ポンプのモ
ーター音が半ばむなしく周囲に響き渡っていた。周辺はぬかるみ,水の中では早くも蛙や亀が泳ぎはじめていた。獅子港からそう遠くない場所に位置したデルフィニオンは,地形上,雨の影響を最初に受ける場となるらしい。水は真水ではなく淡い塩水だという。雨は地形ばかりでなく,気候の変化ももたらした。滞在最後の12日夜は暖炉に薪をくべるほど冷え込んだ。
 ミレトスの中心は,もともとは丘の上にあった。海上交易で繁栄を極めたその居住地域は,しかしながら丘の上だけでは不十分となり,前6世紀までには半島の先端部の平地部へと広がっていった。前494年,ミレトスの町はペルシアによって蹂躙され,住民は一掃された。それでも前479年のミュカレの戦いでは15隻の船を出すほどに復興していた。デロス同盟期には周辺の小島や地域を支配下におき,それなりの繁栄を取り戻したと思われる。しかしながら,ヘレニズム時代以降,マイアンドロス川の土砂は徐々に周辺地域の生活を困難にし,やがてそれはミレトスにも迫っていった。湾の北側に位置したライバル都市プリエネは,早くも前4世紀にはその港が土砂に埋まりはじめた。近郊の町ピダサとミュウスは前1世紀には独立のポリスであることを放棄し,ミレトスとの統合を選択した。ミレトスの町自体も川の影響からは逃れられなかった。港が閉鎖に追い込まれることこそなかったものの,河口に近い低地は湿地と化していった。それでもミレトスはデルタ地帯を領土に加え,湿地をコントロールすることで繁栄をつづけていった。
 ミレトスはビザンツ時代以降もそれなりの重要性を保ったようだ。港の利用はつづき,セルジューク時代にはヴェネツィアとの交易にも使われた。実際,ミレトスに出入りした船乗りたちはその足跡を残した。デルフィニオンに隣接するセルジューク時代の浴場の壁には,船の落書きが大量に残されている。傍にギリシア語が刻まれたものもある。船乗りたちはこの浴場でしばしの休息をとったのだろう。彼らはヘレニズム・ローマ時代以来の建造物が林立するこの町をどのような目でながめていたのだろうか。沖積する土砂による港湾の変容をどうみていたのだろうか。現在もくっきりと残る彼らの無邪気な帆船の落書きは,港湾の町として栄えたミレトスの様子をもっとも直接的に伝えてくれる。













秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」講演要旨

エル・グレコとトレード

松原 典子


 クレタ島出身のイコン画家ドミニコス・テオトコプロスは,20代半ばに西欧的画家への転身を期してイタリアで修業し,その後,長い後半生をスペインで過ごした。今日ではその人生の軌跡を象徴するかのような「エル・グレコ(El Greco)」という通称(「ギリシア人」を表すイタリア語greco+スペイン語男性定冠詞el)で知られるが,この混成的呼称が広まるのは彼の死のずっと後のことで,それ以前はスペイン語で「ギリシア人」を意味する「エル・グリエゴ(El Griego)」と通称された。この通り名はしばしば,彼が終の住処としたトレードの名とともに,「エル・グリエゴ・デ・トレード(トレードのギリシア人)」として同時代および死後の記録に登場する。
 西欧絵画史上,類するもののない孤高の様式を確立したギリシア人画家と,イスラム,ユダヤの深い痕跡を留めつつカトリック・スペインの精神的支柱であり続けたトレード。20世紀初頭のエル・グレコ再評価の過程で誕生した,「スペイン人以上にスペインの宗教精神と同化した異邦人」という神話的評価はすでに見直され,画家と作品の理知的側面が強調されるようになって久しいとしても,エル・グレコとトレードが分かち難く結びついていることに変わりはない。しかしトレード定住にいたる経緯や,かなりの規模を誇ったと推測される工房の詳細,画業に限らないより広い意味でのトレード社会との関わりなど,両者の結びつきの実体には不明な点も多く残されている。
 エル・グレコ到来に先立つ1561年,国王フェリペ2世によってマドリードが首都に定められたことは,伝統的な移動型宮廷の逗留地のひとつで,イスラム侵攻以前のスペインの首都だったトレードに,少なからぬ衝撃を与えただろう。とはいえエル・グレコが出会ったトレードは,政治的役割を失ってもなお,スペイン首座司教座たる大聖堂を中心に26の教区聖堂,200を超える礼拝堂,40もの修道院がひしめく一大宗教都市であった。しかもそうした宗教施設の美術パトロネージが一元化されず,聖俗の個人によって個別に提供されていたこと,画家組合が弱体であったことは,この町に何の縁もない外国人に,イタリアではおよそ望めなかったような活躍の場を与えた。ただし,他の画家に比べて高額の報酬を要求するのが常だったエル・グレコは,到着直後の大聖堂との苦い係争をはじめとして,絶えず注文主との間でトラブルを抱えることにもなる。
 トレードでエル・グレコは肖像画,若干の世俗画も手掛けたが,活動の中心は大型の祭壇装飾から個人用礼拝画にいたる宗教画であり,その中であの長身痩躯の優美な人体や神秘的な光を特徴とする独特の様式を生み出していった。ビザンティンの造形的記憶とヴェネツィア派の色調主義,ローマ・マニエリスムの美意識という異種の伝統を撚り合わせた,大胆で斬新な,しかし宗教的には正統なそれらの作品の創造を可能にしたものは何だったのか。究極的には個人の芸術の自律的展開のうちに跡づけるべきだとしても,トレードという環境,とりわけその人的環境を抜きには考えられないだろう。芸術的にも人間的にも強烈なエル・グレコの個性を評価し,作品の注文や仲介,係争の仲裁,金銭的援助を通じて支援したのは,主に聖職者からなる町の知的エリート層であった。彼らにとっても,教会の理念と美術的独創性を両立させ,さらにギリシア学や歴史記述,地誌学など多岐にわたる関心事を共有することのできたエル・グレコの存在は,魅力的だったにちがいない。
 エル・グレコの住んだ町の西部の一角は旧ユダヤ人街で,多くのコンベルソ(改宗ユダヤ人)が暮らした地域だが,近年,彼の交友関係におけるコンベルソの存在が改めて注目を集めつつある。代表作の一つ《オルガス伯爵の埋葬》の注文主は裕福なコンベルソの家系であったし,この人物に連なる別のコンベルソ一族の複数のメンバーが,エル・グレコに対するいくつかの大型の注文に直接,間接に関与したことも明らかにされている。すでに聖俗両界の中枢にまで浸透していたコンベルソを社会の異分子と捉え,そこに異邦人画家との相身互いの交流を見出すといった短絡的発想は排除されなければならないが,有力なコンベルソのネットワークとの結びつきは,トレードにおけるエル・グレコの成功の背景をより深く知るうえで,新たな突破口となり得るかもしれない。
 2014年はエル・グレコ没後400年にあたり,トレードでも新装なって昨春開館したエル・グレコ美術館を中心に,“El Griego de Toledo”と銘打った展覧会が企画されている。1982年にプラド美術館他で開催され,先の神話的エル・グレコ像を見直す機会となった回顧展は,“El Greco de Toledo”と題されていた。同時代の呼称El Griegoを冠した今度の記念展には,当時のトレードの文脈に一層忠実に,画家の実像を捉えなおそうとの関係者の意気込みが見て取れる。大いに期待したい。














秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」講演要旨

アントニ・ガウディとバルセロナ

鳥居 徳敏


 カタルーニャ(スペイン)の建築家ガウディ(1852〜1926)とバルセロナとは相互の依存関係にある。しかし,相互とは言え,ガウディがバルセロナに寄与することよりも,後者が前者に寄与することの方が圧倒的になろうことが容易に推測される。
 例えば,他の地中海都市同様,バルセロナでは屋外生活に多くの時間を費やす。このこととガウディ建築の外観とは無関係ではない。すなわち,ガウディ建築が都市の重要な装飾要素であり,屋外生活に舞台装飾を提供するような建築という性格を持つのは,地中海の風土から来るこの生活習慣に由来すると考えられる。
 そもそもガウディ建築出現の基盤はカタルーニャの当時の経済力にあった。ガウディも言うように,十分な資金と時間がなければよい作品は生まれない。産業革命の導入で蘇った19世紀バルセロナの資金力が豊かなガウディ建築誕生の基礎にあったのである。また,この経済復興こそ建築家ガウディ誕生に不可欠な条件でもあった。なぜなら,繁栄の継続と更なる発展を担保するものとして人材育成が急務となり,カタルーニャ初の建築学校が1870年に生まれているからだ。
 経済復興はまた,量的な側面での変化を生んだ。産業の集中するバルセロナへ草木がなびくように人口が集中し,都市の整備と拡張が急を要した。前代未聞の建築需要が出現し,新設の建築学校から生まれた新鋭の建築家たちの活躍舞台が用意された。この経済復興はまた,教育機関の創設に見られたように,文化の再生にも向かった。ここで重要なことは,バルセロナを首都としたカタルーニャには中世に西地中海を制覇した黄金時代が存在したことである。この中世の栄華期が存在したからこそ,経済の復興とか,あるいは文化の再生とかが理念となり得た。建築は経済の復興のみならず,文化の再興をも表現する必要があった。すなわち,産業革命という近代性と過去のカタルーニャの栄華を示す中世性,換言すれば,合理主義と歴史主義を旨とする建築である。この二つの性格がガウディ建築を含む当時のカタルーニャ建築,すなわちムダルニスマ建築の特徴となる。
 この経済復興を牽引したのが新興の産業ブルジョアたちであり,国家に貢献することにより貴族にも叙任された。貴族の本源は由緒来歴のある家系をもつこと,そしてその証しとして広大な土地(領地)を所有し,都市内の館と郊外のヴィラ的な屋敷を持つことにあろう。新興貴族はその達成に勢力を注いだ。ガウディのパトロンと
して知られるグエイ・コミーリャス財閥は正にそうした新興のブルジョアであり,伯爵と侯爵に叙任される貴族でもあった。彼らは社会的ステータスの向上を目指し,その象徴を建築に求めたのである。グエイはさらにその上を行き,ガウディを使い,バルセロナ,さらにはカタルーニャを世界にアピールしようとする意図を持った。これもまた,バルセロナがガウディに寄与した決定的な要因であった。
 さらに具体的な建築造形の事例から同様の寄与,すなわちバルセロナがガウディ建築誕生に寄与した面を見ることにする。
 バルセロナ大聖堂は,877年以来,同市の守護聖人サンタ・エウラリアにも捧げられている。この聖女の亡骸は地下祭室中央に祭られ,その石棺は8本の円柱で支持されるのだが,それら円柱は前後対になった4種類の柱身(14世紀前半)よりなる。束柱の円柱,垂直稜線の走る円柱,稜線円柱をねじったラセン円柱,そして同じ稜線円柱を左右両方向にねじった二重ラセン円柱の4種類である。ガウディはこの円柱造形をサグラダ・ファミリアの「降誕の正面」内部で応用し,4種類の柱頭デザインに導く。この二重ラセン造形のテーマはグエイ公園待合館の塔,カザ・ミラー屋上の階段塔や煙突・換気塔で抽象彫刻的な造形に発展し,最後にはサグラダ・ファミリアの円柱デザインに導く。他方,ガウディ建築の根幹を成す2要素に,隔壁アーチ群による空間構成とカタルーニャ式レンガ造薄版ヴォールト工法がある。前者は中世バルセロナの主要建築,王宮,教会,修道院,病院や造船所などで使用され,後者は中世以来の伝統的な安価な工法であった。前者は誰もが認めるガウディ建築に特徴的な内部空間を出現させ,後者は洞窟造形を可能にし,線織面幾何学の建築への初導入に寄与する。
 逆にガウディがバルセロナに貢献した側面で言えば,先ず,当時の建築界での影響力を指摘できる。そして,サグラダ・ファミリアの「降誕の正面」が姿を現して以来今日に至るまで,ガウディ建築は極めて重要な観光資源としてバルセロナに寄与する。2010年には約700万の外国人訪問者中,約250万がガウディの聖堂を訪れているのである。
 われわれの歴史的世界が作られたものから作るものへと進み行く世界(西田幾多郎)であるように,ガウディもまたバルセロナにより作られ,そしてバルセロナを作って行った建築家であった。














歴史の暗黒に浮かぶ「豊饒の島」

古山 夕城


 昨年8月下旬4年ぶりにクレタを訪れた。5日間という限られた日程であったが,宮殿崩壊からポリス成立までの手掛かりに乏しい暗黒時代に的を絞った現地踏査は,荘厳なミノア文明のイメージとは全く違う姿に出会う機会となり,忘れ難い体験である。その中からここではクノッソスとカヴーシを紹介したい。
〈クノッソスの墓地遺跡〉 ギリシア本土では王宮焼失後,姿を消すトロス墓が,クレタでは粗末な造りではあるが存続しており,また,クノッソスの墓の墓からは早くから外部世界,とくに東方との関わりを示す金属製品や陶器が出土している。イラクリオン博物館の臨時展示場で遺物を確認した後,暗黒時代の墓が存在した状況と周辺の景観を見るため,観光客で賑わう宮殿を背にして,暗黒時代の墓をひたすら探して歩いた。
 現在ほとんどの墓は,宅地化と農地整備によって原形をとどめておらず,危険防止にと植えられたイチジクが成長し,オリーブ畑の中にポツンと立っているのが,その名残である。暗黒時代を通じて埋葬が続いた規模の大きい「テッケ墓地」は,商店脇の一区画が保存されたが,もう一つの中心墓域であった「北の墓地」には病院が建ち,ほんの一部が忘れられたように荒れ果てていた。
 それでも,墓を確かめた上で改めて遺跡マップを眺めると,興味深い事実に気付く。「テッケ墓地」「北の墓地」を除き,クノッソス集落周囲に点在する墓地は,一時利用のものが多く,時期によって分布に大きなズレがある。このズレは何を意味するのか。暗黒時代に安定した大集落であったとされるクノッソスでも,以前の墓地を避けて別の場所に新たな墓を設けたのは,社会に大きな変容が生じたからではないか。その夜土埃に塗れた体を洗いながら,そんな考えが頭に浮かんだ。
〈カヴーシの集落遺跡群〉 クレタ東部ミラベロ湾のカヴーシ村後背の山塊にある暗黒時代の三つの小集落は,平野を避け高所に造営されたことから「避難集落」とされ,古くから大集落が存続するクノッソスとは対照的な特徴を持つ,きわめて重要な遺跡である。
 ヴロンダ:カヴーシ村出口の橋の袂から脇道に入り,看板と矢印の示す方に20分ほど車で登ると到着。ヴロンダは暗黒時代初期(LMVC-SM)に居住され,その後放棄され墓地となった特異な遺跡である。緩やかな斜面に幾つもの家屋遺構が残り,その内部に後の石櫃墓がある。周辺にはミニサイズのトロス墓も点在している。
 注目を引くのは,他の家屋から独立している建物G
と他の家屋の倍の規模をもつ建物A/Bである。前者は多数の「万歳女神」(両手を挙げた陶製女神像)が出土したことで祭祀場,後者は広い部屋の構成と大型甕の出土から共同食事儀礼の場所と推定され,宗教社会状況の変遷を知る上で極めて貴重な遺構である。だが,ヴロンダと以下の二つの集落遺跡に深い関わりがあるとしても,ここを放棄した人々がどこへ行ったのか,その後に墓地にしたのが誰であったのかは謎である。
 アゾリア:2004年のアテネオリンピックでマラソン競技優勝者に贈られた冠の枝を採集した,樹齢3250年の巨大オリーブを通り過ぎてしばらく進むと,小高い丘に発掘現場が見えてくる。ヴロンダに比べるとずっと急な山腹に,家屋跡がひしめき合って並んでいる。
 この集落は暗黒時代を通じて居住された。眼下にはミラベロ湾と谷間の細い平野部が一望のもとに見渡せる。丘の頂上部分は堅牢に要塞化されていて,その時代の緊張感が伝わってくる。西斜面には三方を2段ベンチで囲う祭壇広場が存在した。各家屋の部屋の真ん中にある竈の跡が印象的で,遥か3000年近く前にそこで暮らしていた人々の姿が目に浮かぶようであった。
 カストロ:今回の最大の目標だが,容易には到達できなかった。九十九折りの農道を走り,行く手を遮る柵をこじ開け,高地の葡萄畑の中に車を乗り捨て,30分ほど歩くと遺跡向かいの崖に出る。恐る恐る降りて,また目の前の岩塊を登り,やっと遺跡入口に到達した。
 よくこんな場所に暮らしたものだが,もっと感心したのは,区画毎に設置された図面解説の立派なプレートである。おかげで,出土品や建物の機能などを知ることができたのだが,発掘以降はたして何人がここまでよじ登り,このプレートを参照したのだろうか。
 この岩塊の遺跡は,谷の平野を挟む東の山塊の突端に位置し,真下にカヴーシ村を,その先に農地と海を睥睨している。平野や海の資源にどのようにアクセスしたのかを考えながら雄大な景観を眺めていると,「避難集落」の代表とされるカストロ遺跡は,むしろ戦略的立地にある「特権集団の拠点」のようにも思えてきた。
〈クレタの特殊性〉 ギリシア世界の中でもクレタは,非ギリシア文化の先史ミノア文明,本土とは大幅に異なる土器編年,さらには大植民活動やペルシャ戦争への不参加など,特異な道筋を辿った。実際に遺跡を訪ね歩いてみて,クレタは暗黒の時代にも独特の歴史と文化を紡いだ「豊饒の島」であったと思うのである。















自著を語る66

ロビン・オズボン著,佐藤昇訳『ギリシアの古代』

刀水書房 2011年6月 261頁 2,800円+税

佐藤 昇


 薄墨色に棚引く雲の下,夕暮れの空が染み込んでいくかのように,静かに佇むパルテノン神殿。表紙は2008年晩秋に撮影したものである。誰もが知るこのギリシア神殿は,観光客で賑わう8月の昼間ならば,照りつける光線を真っ青な夏空に力強く跳ね返し,眩しいほどに白く煌めく。パルテノンと言って多くの人が思い描くのは,概してこのような姿ではないだろうか。やがて日が落ち,夜ともなれば,人工の光で金色に染められた神殿が,青黒い夜闇に浮かび上がる(個人的にはフィロパポスの丘から眺めるのがお気に入りだ)。表紙の写真は,刻々と姿を変え,さまざまな表情を見せる神殿の一面をとらえたものである。本書『ギリシアの古代』(原著:Robin Osborne, Greek History, London, Routledge, 2008)もまた,古代ギリシア人が織りなすさまざまな事象を取り上げ,それぞれに固有の時間,同時代の文脈が備わっていたことを解き明かしてくれている。
 円盤を投げる,あのお馴染みのギリシア彫刻は,何故に裸体を晒しているのだろうか(古代ギリシア展に足を運び,円盤投げの像を眺めつつ,こんな疑問にかられた人も多いかもしれない)。スポーツ選手をめぐって,どんな「恋」の花が咲いていたのだろうか。母国を離れ,海原を渡り,地中海沿岸各地に都市国家(ポリス)を構えたギリシア人。彼らはそこでどんな生活を営んでいたのだろうか。何を口にしたのか。食糧はどうやって手に入れたのか。どんな病気に苦しめられ,どれだけの人が亡くなり,どれだけの子供を産まなければならなかったのか。高校世界史でも学ぶ「僭主」の登場は,ドラコンやソロンが作った「法」と一体どのような関係にあるのか。正々堂々,雄々しくぶつかり合う重装歩兵密集戦隊。歴史家たちが描く戦闘場面の裏側に,如何なる知的,政治的背景があったのか。民主政治を育んだ古代ギリシアの市民平等は,何を犠牲に成り立っていたのか。興味深い問いの数々。それらが同時代の文化や社会,政治的な文脈に置き直され,問い直されて行く。広い読者層を意識して書かれた入門書だが,単なる面白情報の詰め合わせではない。そこには(古代史に限らず)歴史研究を専門とする者の営為が,手のうちを明かすようにして記されている。如何なる史料で,どのように考えるべきなのか。史料が記された背景は如何なるものだったのか。どのような偏向があるのか。そしてそこから何を考
えるべきなのか。ページをめくるうちこちらの思考も刺戟され,読者も知らぬ間に「歴史を創る」現場に立ち会わざるを得ない。そんな原著の魅力を,日本の学生,知識人,西洋古代史以外の専門研究者にも共有してもらいたい,そうした思いから訳業が始まった。
 訳すというのは,ただ読むのに比べれば何倍も骨の折れる作業だが,ときに新しい理解の鍵を見つけ,またときに日英の文化差に思い至り,振り返って見るに愉悦だったと言うべきかもしれない。無論それは容易いということではない。練られた措辞,機智に富んだ語り口をそのまま写し取ることなど叶わない。とは言え,込められたニュアンスを無視できるほど大胆でもなく,不格好な日本語を放置できるほど無神経でもなく,結局,原稿にはくり返し手を入れた。多くの方々に読んでいただくならば,日本語として「ささくれている」ところは極力研磨すべき,そう考え,力を傾注した。絶えず湧き上がる不安に,入稿後も改稿をくり返したのには,出版社も閉口したに相違ない(その点,刀水書房から刊行できたというのは,私にとっては幸運だったに違いない)。「ささくれ」が残っているとすれば,ひとえに訳者の力不足による(ただし,原著者が意図的に読者に「引っかかり」を感じさせているところもあり,……というのは些か言い訳がましいだろうか)。また,他分野の成果を援用した箇所には聞き慣れない病名や技術用語,社会学や経済学の術語も用いられており,調べるのに手間取ることも少なくなかった(梅毒の歴史やカタパルトの歴史なども,この際改めて読み返したりした)。しかしこの点は,先に述べたことと比べれば楽しい作業だったと言えるのかもしれない。
 入門書とは言え,時間軸に沿って叙述したオーソドックスな通史とは異なる。前古典期の叙述に古典期の話がカットインすることもあれば,オズボン独自の見解が反映され,読み進めるうち戸惑いを覚えることもあるかもしれない。訳書では,古代ギリシアに縁遠い日本の読者も想定し,理解の一助となるような簡単な導入文を各章の冒頭に添えた。ここで準備運動をしたら,是非オズボンの誘いに乗って,史料解釈の現場に飛び込んでいただきたい。古典期以前に紙幅を割き過ぎていると感ずる向きもあろう。それについては私自身のこれからの課題としたい。













地中海世界と植物23


表紙説明 地中海世界と植物23
 杏/櫻井 康人


 『私には,キリスト教徒による十字軍によってもたらされたのは,杏のような果物しか思いつかない。』「地中海と植物で文章を……」というお話をもらった時,植物にまったく興味の無い私の頭に浮かんだのはジャック・ル・ゴフの著作の一文のみであった。それからの私は何とか文章にできるネタを探すのに躍起になっていた(後述のようにネタは思いがけずやって来たが)。以下,そのような人間が作成した,絵に描いたような雑文である。
 まずは,図鑑などからの情報を。Prunus armeniacaという学名が示すように,長らくヨーロッパ人はアルメニアをその原産地と思いこんでいたが,実際は中国である。ただし,西方でも古くはアレクサンダー大王がギリシアに,共和政ローマの軍人ルキウス・リキニウス・ルクッルスがローマにその苗木を持ち込んだとされる。しかし,西ローマ帝国の崩壊後にヨーロッパではその栽培は廃れ,再び杏がヨーロッパで用いられるようになったのは十字軍時代を経てのことである(「アプリコット」はアラビア語の「バルクーク」が語源とのこと)。ただし,アマレット・ディ・サロンノやビスコッティ・アマレッティ(実際にはアーモンドよりも杏が用いられることが多いらしい)などが親しまれるようになったのは16世紀以降のことであり,イングランドで杏の栽培がされるようになったのもやはりヘンリー8世の時代のことである。14〜15世紀でもなお,ヨーロッパ人に
とって杏を含むプラムが地中海を挟んだオリエンタルな果物として物珍しかったことは,シモーネ・シゴーリの作品など幾つかの聖地巡礼記からも知ることができる。
 1461年に聖地巡礼を行ったルイ・ド・ルシュシュアールは,多難な航海の後に到着したヤッファにて現地の物売りからプラム・無花果・メロンなどを購入し,それを食した後に「生き返った」と感激している。時は下って2011年9月,私はモンテネグロを旅した。幸か不幸かバスの接続がよく,休む暇なく第一の目的地ヘルツェグ・ノヴィの木賃宿に着いたのは夜遅くであった。朝から何も食べていなかったが食欲よりも睡魔が勝り,翌朝の食事を期待しながら眠りについた。しかし,翌朝台所にあったのは干涸らびたパンとジャムだけであった。「バターも卵も切らしていて……」と明るく微笑む女将さんに引き攣った笑いを返した。ジャムは私が最も嫌いな食べ物である。「何のジャムですか?」との問いに「アプリコット!」との返事。嫌々ながらパンにジャムを塗り食したが,空腹ゆえか,はたまた環境のせいか非常に美味しく感じ,6枚のジャム付きパンを食した後に「生き返った」と感激した。場所は違えど15世紀の巡礼者と似たような経験をした私は,ジャック・ル・ゴフの言葉を次のように言い換えたい。『私には,キリスト教徒による十字軍は杏のような何と素晴らしい果物をもたらしてくれたのか,ということしか思いつかない。』