学会からのお知らせ

*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。
テーマ:古代モニュメントの再建方法「アナスティローシス」の歴史研究──その語源からアテネ会議(1931年)まで
発表者:大場 豪氏
日 時:2月18日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学美術学部中央棟1階第2講義室(最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」http
://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 アナスティローシスという概念が国際的に認知されたのは,1931年の芸術的歴史的記念建造物の保護と保存に関する国際専門家会議(アテネ会議)時に遡る。この会議の決議にて,「遺構の場合,可能であれば発見された当初材を元の位置に戻すこと(アナスティローシス)と共に,細心の保存が不可欠である」と成文化された。本研究では,アナスティローシスの語源や意味の変遷,再建例より,上記の概念が形成された背景に着目する。

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第17回「地中海学会ヘレンド賞」(第16回受賞者:望月典子氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第36回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2012年1月10日(火)〜2月9日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第36回地中海学会大会
 第36回地中海学会大会を2012年6月16日,17日(土,日)の二日間,広島県尾道市しまなみ交流館において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月9日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には振込用紙を344号(11月)に同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2012年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報344号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月23日(木)です。ご協力をお願いいたします。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
 すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。














地中海学会大会 地中海トーキング要旨

地中海の女

パネリスト:桜井万里子/鷹木恵子/瀧本佳容子/村松真理子/司会:木島俊介

 とんでもない主題の,しかもトーキングという,何が出てきても不思議はない時空で,悠然として役をこなされてきた歴代の司会者にならって,この難役を受けるという事態に至った心痛も,幸いにして杞憂に終ったのであったが,ここに要旨を記し始めてみると,時空は,桜井さんの古代ギリシアに始まり,鷹木さんのアルジェリア,瀧本さんの中世スペイン,そして村松さんのイタリアへと進みつつ,今日世界にまで達するに至って,わが心痛は頭痛に変容する。
 桜井さんのお話は「古代スパルタの女」。わたしはかねてより,ドガの歴史画《少年たちに挑戦するスパルタの少女たち》に登場する裸の女の子たちを見て痛快な思いにかられていたが,桜井さんによると,アリストテレスの『政治学』には,スパルタの女は放縦であると書かれているそうだ。スパルタの家付き娘(パトルウコス)は,アテナイの家付き娘(エピクレーロス)とは異なり,父の遺産である不動産を所有することが出来,家付き娘以外の娘でも兄弟の2分の1に当たる遺産を相続できたという。ここで興味深いのは,スパルタの例の方が通常なのであって,娘には相続権の無いアテナイの例の方が特殊な形態だったということである。軍事力によって国家の覇権を維持するためには女性に相続権を与えて,財を分散させることは好ましからざることとされる。
 思えばブルゴーニュ公国を継いだマリ・ド・ブリュゴーニュがハプスブルク家のマクシミリアンに嫁したため公国を消滅させてハプスブルクの大帝国発祥のもととなった。スパルタの少女たちの放縦が国を滅ぼしたと考えるとすると面白い。しかしこれはわたしの勝手な幻想である。
 鷹木さんのお話は「地中海南北におけるムスリム女性とヴェール」。地中海南北におけるムスリム女性のヴェールをめぐる社会政治的動向についてであったが,最近話題となったフランスの「反スカーフ法」や,ベルギー,フランスの「ブルカ着用禁止法」の法的根拠となるところが私には今ひとつよく理解できない。女性がスカーフなどで頭髪や顔を隠すことは,社会における女性の孤立化に繋がるから,これは,それを避けるための良心的法律であるとされているところが何か怪訝である。オランダでは顔全体をすっぽりと隠してしまうムスリムのブルカとともに,バイク運転のヘルメットやスキーのマスクなども同じく対象とされるのだという。予言者ムハンマドが,成年に達した女性は顔と手以外の肌をさらし
てはならないと語ったというところに発しているとされているこの習慣は,聖なるものは隠されていなくてはならないという否偶像崇拝とも関連するだろう。千数百年の歴史を持つものの本質を現代の法律が何処まで変換させられるのか。
 瀧本さんのお話は「レオノール・ロペス・デ・コルドバのMemorias『回想録』」であった。ここでは,徹底的に宗教信念に生きた女性について語られる。家政も国政も同じであるという意味からソクラテスは,「ひとつの家の助けにもなれないとしたら,どうして沢山の家の助けになり得よう」と語ったと伝えられているが,14世紀半ばから15世紀半ばに生きたレオノール・ロペスは,個人的な信念と社会的な行動をひとつのものとして動じない。挫折もあるが,その悲劇も彼女にとっては当然なものとして受けとられる。それを彼女は「私の人生の出来事と聖母が私に示し給うた奇跡の全て」として『回想録』に記す。
 私たち近代人はともすれば,たとえば15世紀の女性を対象に選ぶ時,彼女のなかに近代的な自立した人間の要素を見てこれを価値付けようとしてきた。しかしながらこのレオノール・ロペスの『回想録』は徹底的に中世的であり,宗教的であって,ここにかえって,時代の真実が表れる。その意味で彼女自身,まさに自立した女性であるといえるのではないか。
 村松さんのお話は「イタリア文学における女性の表象」であった。その際,女性の表象は,男性詩人や作家の文学のなかにおける女性の表象から語られたから,ダンテ,ペトラルカ,ボッカチオがあげられることとなり,ルネッサンスの女性詩人や作家を経て,現代の須賀敦子からばななにまで至った。私は日頃,ルネッサンス時代の女性像に興味を抱いているので,彼女たち,お話にあったヴィットリア・コロンナをはじめとして,イザベラ・デステ,さらにジネヴラ・デ・ベンチやエレオノーラ・ディ・トレドといった名流夫人たちが一様にペトラルカを敬愛しペトラルカ風の詩を詠んでいる理由について考えていたところであったから,「女性の表象」というお話は興味深かった。
 皆様のお話を聞きながら,「知性は感覚的知覚の存在をとおしてのみそれ自身の完成と現実態に到達できる」といったクザーヌスの言葉を思い出して,地中海の女性表象にこれを結びつけられたのは幸運であった。
(木島俊介)












秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」講演要旨

ニコラ・プッサンとローマ

望月 典子

 「フランスはプッサンの幸いなる母であり,イタリアは彼の師であり第2の祖国であった。」これは17世紀の美術理論家G.P. ベッローリの言葉である。ニコラ・プッサン(1594〜1665年)はフランス人でありながら,画家としての生涯の大半を,地中海都市ローマで過した。30歳の時にローマにやってきた画家は,古代美術の遺産,盛期ルネサンスの精華,根強く残るマニエリスム美術,初期バロックの作品群に触れ,盛期バロック美術の急速な開花を目の当たりにする。そのローマにあって,プッサンは大規模装飾画ではなく中型のタブロー画に勝負をかけ,主知的な絵画制作に取り組んでいく。その際,彼の芸術形成に多大な影響を及ぼしたのが,ローマの芸術的・人的環境であり,ローマの都市景観と近郊の自然風景であった。彼はローマの芸術・文化・風土に育まれながら,結果的にフランス「古典主義」を代表する独自の芸術世界を形成していくのである。
 プッサンは,庇護者であった詩人G. マリーノの伝手で,教皇ウルバヌス8世周辺の知識人たち,バルベリーニ枢機卿やその秘書カッシアーノ・ダル・ポッツォらの知遇を得た。カッシアーノはタブロー画を収集する新しいタイプの美術愛好家であり,ローマきっての碩学として知られていた。画家は彼の下で,美術理論,遠近法,光学など様々な知識を吸収している。カッシアーノが集成した『紙の博物館』──古典古代と初期キリスト教遺物および博物学関係の素描集──は,プッサンの絵画制作上の重要なイメージ・ソースとなった。バルベリーニ枢機卿の注文による《ゲルマニクスの死》(1628年)は,画家の劃期となる初期作品である。プッサンは,古代石棺浮彫や書物の挿絵など,カッシアーノの下で得た知識を存分に活用しながら,古代の英雄の死を厳格な構図で描き出し,中型カンヴァスに「悲劇」のドラマを再現することに成功した。1630年頃の作品《叙事詩人の霊感》では,絵画も詩と同様に,芸術神アポロの霊感に従う高貴な芸術であることを明瞭に表した。そこにはバルベリーニ枢機卿周辺の知識人たちとの交流から得た人文主義的教養の一端を見出せよう。この作品の色彩表現はティツィアーノの作品と関連するが,この頃から,構図やモティーフのみならず,色彩においてもラファエッロの様式を取り入れ始めた。
 垂れ幕のような背景に代って,建築物を用いた奥行き空間を導入するのもこの時期である。《アシドドのペスト》(1631年)は,ラファエッロに基づく版画《疫病》
や,古代彫刻からの引用が見られ,都市の広場で物語が展開する構成は,ウィトルウィウス『建築書』の舞台背景と関連する。画家は,宮殿や神殿によって奥へと収束する悲劇の舞台設定を利用し,それをただの枠組ではなく,登場人物たちの悲劇的感情を増幅するために用いた。同様の遠近法的空間をもつ《サッピラの死》(1654〜56年)では,ラファエッロの《アナニアの死》を参照し,背景にはローマの実際の建造物──ミケランジェロ,ペルッツィ,ラファエッロ,ジュリオ・ロマーノらによる──を引用している。古代遺跡そのものではなく,いわばルネサンスの美術家を通した古代の解釈を用いることで,聖書の物語に新しいキリスト教の中心地ローマを持ち込み,厳格な空間構成によって,人間の愚行に対する神の懲罰という物語の意味を補強したのである。
 さらに画家は背景に自然を描く際にも,画面に平行なプランを後退させる手法で奥行きのある舞台空間を作り出すようになった。主に後半生に取り組んだ「理想的風景画」は,自然観察に基づく要素を自由に組み合わせて,空間を厳密に秩序づけ,あるべき理想の風景を構成したものである。こうした風景画の成立には彼が好んでスケッチしたローマ近郊の風景が重要な役割を果たした。M. プラーツによれば「物語の精神状態をも表す風景の誕生,つまり地平線や丘の斜面,木々の葉などが感情に照応するもの,そうしたものが誕生し,最初の明快な勝利を遂げたのは,プッサンが描いた《聖マタイと天使のいる風景》である」(『ローマ百景』)。アックア・アチェトーザ近くのテヴェレ川をモティーフにしたとされるこの作品では(1640年),風景がもつ晴朗で荘厳な静けさと,聖マタイと天使の宗教的交流が巧みに調和する。
 極めて知的であると同時に深い詩情をたたえたプッサンの「古典主義」世界は,地中海都市ローマでの経験なしには成立し得なかった。だがウルバヌス8世の死後,画家の主要な顧客がフランス人へと移り,また世紀後半のフランス王立絵画彫刻アカデミーが,プッサンを古代美術とラファエッロに並ぶ理想の画家に据えたことによって,その芸術はローマではなく,以後のフランス美術に決定的な影響を与えることになる。プッサンは,美術の中心がローマからパリへと次第に移行する時代にあって,まさにその仲立ちとしての役割を果たしたと言えよう。A. フェリビアンは次のように語っている。「プッサンは絵画のあらゆる知識を,ギリシアとイタリアの手から取り上げて,フランスにもたらしたのだ」と。












秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」講演要旨

ティツィアーノとヴェネツィア

池上 英洋


 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90 Pieve di Cadore(Belluno)〜1576 Venezia)の一生を追うことは,ヴェネツィア派のルネサンスを語るうえで,実に理想的なモデル・ケースである。それは,彼があやつる色彩などによって同派の様式が特徴づけられるという理由だけでなく,彼をとりまく環境とその一生とが,ルネサンス時代のヴェネツィアでなくてはありえないものだったという理由による。
 彼が生まれた年は二説あって定かではないが,いずれにせよ彼がまだ幼児の頃に,ジェノヴァ人コロンブス(クリストフォロ・コロンボ)が新大陸に到達した。そこから先は,よく知られているようにスペインとポルトガルが,次いでイギリスとオランダが全世界的な規模で覇権を競うようになる。当然ながら彼らの主な舞台は最初は大西洋から始まって,徐々に他の大洋へと広がっていった。それまで,ヨーロッパと他地域との交易と衝突は主として地中海において繰り広げられており,その中心に位置するイタリア半島が最も有利な状況にあったのも当然であった。しかし,大航海時代によってヨーロッパへともたらされた物品,たとえばポルトガル船によってリスボンに運ばれた胡椒は,それまで地中海経由でヴェネツィアに輸入されていた価格の五分の一に満たない。そうなると,もはやヴェネツィアには競争力は残されていない。こうして,経済活動の重心が大西洋岸諸国に移動するにつれて,イタリアの斜陽は決定的となった。そのきっかけのひとつを,イタリア人の船乗りたちが作ったことは皮肉である。
 ティツィアーノが軍人の家に生まれたことも,時代の特色をよく示している。ルネサンス時代とはコムーネが割拠する戦国時代にほかならず,経済力はあれども,もともと商人や職人たちの組合によって運営されるコムーネのこと,自分たちが戦場に赴くよりは期間雇用で済む傭兵と契約する方を選ぶ。この国防システムはしかし,いちはやく絶対王政のシステムへ移行したフランスやスペインが動員できる軍隊の規模には,まるで歯が立たないほどの差を生んでしまう。結果的に,ルネサンスのコムーネをささえた擬似共和制は次第に消え去ることになる。
 しかしティツィアーノが生まれた頃にはいまだ,ヴェネツィアはヨーロッパの一大強国として君臨していた。15世紀末の時点で,ヴェネツィアの人口は18万人を突破。これはパリに次いで,実にヨーロッパ第二の規模
である(当時,かつての百万都市ローマは見る影もない)。おまけに,十字軍にガレー船や人員を貸すついでに「新たな獲得領土があればその一部を割譲してもらう」との条項を加えていたおかげで,数世紀間の十字軍遠征によって膨れ上がっていた領土は,キプロス島やダルマチア,クレタ島などを含む広大なものとなっていた。それらをあわせると総人口は210万人に達する。大国となったヴェネツィア共和国は,海軍力と経済力で他を圧倒していた。ティツィアーノの手になる肖像画で知られるドージェ(統領)たちは,議会によって選ばれた元首であり,個人への権力集中を嫌うフィレンツェ型の徹底した共和政に,意思決定を早くするためのシステムを加えて生まれた存在であった。
 ティツィアーノはまた「油彩+カンヴァス(画布)」の組み合わせを確立した画家の一人であるが,これもまたヴェネツィアならではの理由による。初期ルネサンスの頃は,タブロー画といえばフィリッポ・リッピらのように「テンペラ+板」であった。油彩画の誕生に大きく寄与したヤン・ファン・エイクにしても,「油彩+板」の組み合わせであった。しかし,広義のヴェネツィア派に含まれるアンドレア・マンテーニャのように,ヴェネツィア周辺では早くから「テンペラ+カンヴァス」という組み合わせも一般的なものとなっていた。なぜなら港町ヴェネツィアには,そこかしこに帆布がころがっていたからである。北方との交易も盛んなヴェネツィアにはネーデルラントの作品も相当数もたらされており,結果的に,ティツィアーノらヴェネツィア派において「油彩+カンヴァス」の組み合わせが確立されたのである。
 富裕市民層が多数存在し,国家や教会と並ぶ芸術パトロンとなっていたことも,ティツィアーノに肖像画が多いことと無縁ではない。しかし前述したように,彼の長い一生の間にヴェネツィアの転落はもはや決定的となっていた。《三世代》や《ヴァニタス》といった彼の寓意画は,こうした当時の世相を反映してはいないだろうか。同様に,彼の代表作《聖母被昇天》の主題は,宗教改革直前の空気をうけてのものではなかろうか──。
 講演では以上のように,ヴェネツィア派と同派を生んだ社会そのものを俯瞰する窓として,ティツィアーノの作品群を用いることを試みた。また,「マニエリスムの“対角線(前後配置)構図”の先駆者」としての,ティツィアーノの(あまり強調されない)側面も知っていただけるようつとめた。












ギリシアの夏

杉山 晃太郎


 ギリシア人は夏を「カロケリ」と呼ぶ。これは文字通り「よい季節」を意味する。日本人は,『枕草子』冒頭に見られるように,春夏秋冬のそれぞれによさを見つけ,季節ごとに楽しみ方を工夫してきた。しかし,典型的な地中海性気候のギリシアでは,夏は圧倒的に「よい季節」である。もちろん,夏の太陽はじりじりと照りつけ,容赦ない。40度を超える日もあり,大規模な山火事が日本のニュースで伝えられたことも何度かあった。最近は日本でも40度近くになる地域は珍しくないが,それでも,40度を超えることはまずない。近年の世界規模の気温上昇もあって,おそらくギリシアではそうした日が増加していると想像される。
 夏の暑さは遺跡を訪れる人間にとって殺人的である。冷えた2リットルのペット・ボトルをリュックに入れ,炎天下の遺跡を歩いていると,これでもかと太陽が襲ってくる。ギリシアの古代遺跡には,隣接する博物館を除けば,建物はほとんどなく,あるものと言えば礎石や台座ばかりで,日差しを遮ってくれるものがほとんどない。ミネラル・ウォーターはすぐにぬるくなり,ひっきりなしに飲むので,あっという間に空になる。売店を見つけたときにその都度買って持ち歩くほかはない。しかし,地中海性気候のよいところは,周知のように,とにかく夏は乾燥していて湿気がないところである。要するに,強烈な日差しさえ避ければよい。遺跡を巡りつつ,木陰に入ると実に心地よい。そのとき風が吹いてくれば,これはもう至福のときと言っても過言ではない。東京では,べたっとした湿気と建物や車のエアコンからまき散らされる熱気のせいで,日陰に入っても,風が吹いても,鬱陶しい空気が塊となって移動してくるだけで,屋外に逃げ場はない。
 1999年秋から2000年秋までの1年間,私はアテネにいた。当時のギリシアは2001年のユーロ導入,2004年のアテネ・オリンピックを控え,期待と不安の入り混じった微妙な時期だった。地下鉄や空港をはじめ,オリンピックに向けたインフラ整備があちこちで進められていた。その一方で,EU諸国と歩調を合わせる必要から,既成の制度や権利の変更を巡る衝突も絶えず聞こえてきた。既得権を剥奪される不安から,公務員や学生,さらには正教の聖職者たちまでが,しばしばデモやストライキを行なった。オリンピック後の雇用の消失や物価の高騰を危ぶむ声も一部では囁かれた。あれから10年以上経った今,毎日のように TV を賑わすギリシアに端を発したヨーロッパ金融危機とその渦中にいるアテネ市民の
様子を見るにつけ,10年前の光景と重なって,複雑な思いが去来する。
 「夏」に話を戻そう。アテネ滞在中に記したメモを読み直してみると,2000年の5月から9月までの間でまともに雨が降ったのは,6月17日と9月5日の2日だけである。もちろん,曇りの日もあったが,多くは絵に描いたように青い空,暑い日が続く。メモの6月17日の項には,雹混じりの激しい雨がしばらくの間降り続き,道路が水浸しになったとある。それは,アテネの夏のたった1度の出来事だった。
 そして,2度目は,帰国の日が近づいていた9月5日である。その日は,アクロポリスの西に広がるプニュクスの丘(現在はプニカ)の周辺を歩き回っていた。プニュクスとは,紀元前6世紀から4世紀末まで民会が開かれ,アテナイ市民が実際に集まって民主政治を行なっていた現場である。テミストクレス,ペリクレス,デモステネスといった古代アテナイを代表する名だたる政治家たちもこの場所で弁舌を振るい,政策を論じ合った。当時の議場とでも言うべき場所は,扇形をしたかなり広い何もない空間である。扇の要の位置には,岩を削って造られた立派な演壇(ベーマ)が残っている。現地に立つ看板の説明によれば,プニュクスはゼウス・アゴライオス(市民集会の守護神ゼウス)ならびにゼウス・ヒュプシストス(最高神ゼウス)に捧げられた神域であり,演壇の背後には,前者の祭壇もあったという。その他,議場に隣接した二つのストアとその周囲を取り囲む市壁の遺構がところどころに残る。
 その日はほかに人影もなく,私は演壇に登って,持参したデモステネスの古典ギリシア語テクストを大声で読み上げ,ひとり悦に入っていた。顔を上げれば,アレイオス・パゴスの先にアクロポリスのプロピュライア(前門)が,さらにその奥にはパルテノンが見える。プニュクスとアクロポリスの間には,樹木や岩肌が見えるほか,視線を遮るものはほとんどなく,目に入る光景は2400年前とさほど変わらないに違いない。しばらくすると空が曇ってきて,ぽつぽつ雨が降り出した。6月以来の雨である。この雨は,アテネの「よい季節」が去りゆくことを告げる雨であったが,私にとっても,1年間に渡ったアテネ滞在の終わりを意味した。雲を集めるゼウスが降らせる久しぶりの雨の中,女神アテナの都も別れを惜しんでいると勝手な解釈をしながら,私はゼウスの神域をあとにした。












サンミシェル・ド・クシャ修道院小景

森重 勝


 フランス南西部の片隅,ピレネー山塊の僻地に,古刹サンミシェル・ド・クシャ修道院はある。キュクサと記されている文献を間々見るが,土地の人は必ずクシャという。修道院前庭には三色旗はなく,カタルーニャの旗がカニグーから吹き降ろす風にはためいている。
 ほど近い巌上の僧院サンマルタン・ド・カニグーは,懸崖に危うく建つ聖堂群の姿が,内外のロマネスク愛好家を惹きつけるが,一方わがサンミシェルは,プレロマネスクからロマネスク盛期に至るまでの各時代の美が読み取れるにも拘らず,観光客が群をなすことはなく,自若として〈神の平和〉を愉しんでいる。事実,ここでは奉献時のプレロマネスク(10世紀),象徴的建築体系を意図した初期ロマネスク(11世紀),ルシヨン地方独自の彫刻群を創造した盛期ロマネスク(12世紀)が,今でも現役の修道院の中に息づいている。ただ周知の如く,聖堂の北側に展開する広大な回廊だけは,柱頭彫刻の半分が,1906年にアメリカの彫刻家バーナードに依って持ち去られて,北廊,東廊の大部分を欠き,いささか寂寥の感は免れない。
 この小文では,クシャ・ロマネスクの美の世界を紹介しつつ,夫々の時代に指導的役割を果したピレネー中世の知識人の姿を垣間見ることにしたい。
 9世紀,慎ましい信仰共同体に源を発したクシャ修道院は,セルダーニュ・コンフラン伯の保護を受け,早くからローマ教皇の免属特権を得ていた。974年9月28日,大天使ミカエルに献げる新聖堂が聖別される。建堂の推進者はオリバカブレタ伯と彼の弟ジローナ司教ミロン三世。事業を完成に導いたのは僧院長ガランであった。ミロンが作成した奉献証書が聖堂建設の次第を今に伝える。ファサード,身廊,側廊,交差廊,方形祭室,交差廊に開く4小祭室が,ガランのプレロマネスク作品である。聖堂の壁体は不規則な割石と漆喰で構成され,身廊の角柱は粗い切石を積み,一切の装飾を排した重厚豪毅な空間である。馬蹄形アーチの多用が目立つ。翼廊入口のアーチや内陣周辺のアーチは,古形をよく保っている。上部曲線の落ちる場所の相違からみて,モサラベというより,西ゴート建築の継承とする論考が多い。内陣周歩廊の入口が異色で,石の壁に高々と開かれた狭い開口部の中間に,太い楣(まぐさ)石が横に架かっている。楣石の下部は長方形,上部は馬蹄形アーチの吹き抜けで,西方世界に例を見ない構造を示している。
 さて院長ガランだが,アリエージュのクリュニー系修道院長として登場,964年クシャの修道院長の地位に就
いた。多才な国際人というべき人で,教皇の意を受け,帝国再興を目論むオットー二世に同調する外交活動をも行った。エルサレムで宣教したこともあり,当代の碩学ジェルヴェール・ド・オーリヤックの親友であった。ジェルヴェールは数学や科学をリポユ修道院に学び,カペー朝誕生にも力を貸した。即ち,西暦千年の教皇シルヴェストル二世である。
 ガランはヴェネツィアに赴き,時の総督オルセオロを密かにクシャに亡命させた。ヴェネツィアでは伝統的な親ビザンツ派と,神聖ローマ帝国を支持する派との抗争があり,オルセオロの前任総督が暗殺される事件さえ起きていた。オルセオロは廉直な人であった。ガランと共に夜半ヴェネツィアを発ってアルプスを越え,短時日でクシャに入った。同行した貴紳の中に,後にカマルドリ会を創設した聖ロムアルドの名がある。修道士オルセオロは,最後は隠士として10年の後に世を去った。彼の庵の跡は,桃畑を通して遥かに修道院を望む丘の麓に残っている。
 1008年オリバが院長に推される。父はオリバカブレタ伯。カブレタ伯は家督を譲った後モンテカッシーノ修道院に入り,僧となって死んだ。三男オリバは小伯の地位を捨てリポユ修道院に入り,6年後ほぼ同時にリポユとクシャの院長に選ばれた。1017年ヴィック司教兼任,クシャ,リポユの改修,サンペラ・ダ・ロダ献堂,モンセラート創設,サンマルタン・ド・カニグー建設に尽力した。〈神の休戦〉運動を主導,ラテン詩文を残すなど文藻も豊かだった。
 院長オリバの時代にクシャは盛期を迎える。オリバ時代の初期ロマネスクは,東の後陣,西のトリニテ円型礼拝堂(遺構),秣桶の聖母のクリプト,ロンバルディア風鐘塔(南塔のみ)に見られる。地下聖所は,棕櫚の樹の如き太い円柱が中央にあって穹窿に枝を伸ばし,環状廊を造形した圧倒的な石の空間である。オリバの業績には,同時代のクシャの僧ガルシアの貴重な証言がある。
 回廊とトリビューンは,12世紀院長グレゴワール時代の盛期ロマネスクの遺品である。コリント様式から派生した柱頭彫刻は,植物文動物文にオリエントの香りが漂う。北扉口に残る旧トリビューンの彫刻群とともに,ルシヨン・ロマネスク彫刻の華といえよう。
 最後に,974年奉献時の祭壇が,今も主祭壇として用いられていることを伝えたい。ナルボンヌ産白大理石,オリバ,ミロン,ギフレ……,額づいた人々の署名が無数に残る祭壇にも,実は苦難の物語が秘められている。










地中海世界と植物22


 イタリア庭園の柑橘類/桑木野 幸司


 地中海の植物相は,過去に,異国産種の大量移入を受けて,その容貌を何度か大きく変えている。たとえば9世紀から10世紀にかけては,柑橘類やアーモンド,モモ,アンズ,ザクロ,ナツメヤシといった品種が移植され,それがいつしか,地中海の典型的な植物として風景に溶け込んでいった。その次に大きな変化があらわれるのが,新大陸からの新種が大量に流れ込んだ16世紀である。古典文献には未記載のそれら珍花奇葉を前に,当時の自然学徒たちは実物観察に基づく比較研究の方法論を精錬させ,分類体系の創案に意を凝らし,テクストと図譜を駆使して異邦の植物がはらむ驚異を馴致していった。植物学が医学から独立し,大学に植物学講座と近代的な植物園が設置され,腊葉標本の技術が発展したのも,まさに16世紀のことであった。
 だが,まだリンネ式二命名法が学界の通用言語となる以前の世界のことである。種の同定や分類作業は錯綜し,学者間でも甲論乙駁が日々繰り返された。そのあたりの混乱と熱狂をよく伝えているのが,たとえば当時の植物名である。フィレンツェのドミニコ会修道士アゴスティーノ・デル・リッチョは,著作『経験農業論』(1592〜97)の中で,アダムのリンゴだの,ウェルギリウスの指輪だの,悪魔の噛跡だの,キリストの涙だの,珍妙な名の植物を嬉々として列挙している。
 このうち,「アダムのリンゴ」(伊:pomo d’Adamo / 羅:poma Adami)は当時はよく知られた果樹であったようで,16世紀のヨーロッパを代表するイタリア人植
物学者ピエトロ・アンドレア・マッティオーリの『ディオスコリデス注解』(1565)にも,その魁偉といってもいい姿が堂々と収録されている。写真に掲載したのが,その図譜だ。リンゴ(pomo)とはいうものの,実際にはでこぼこした厚手の皮をまとった新大陸産の柑橘類である。マッティオーリは,かつてアダムが楽園で手にした禁断の果実の末裔である,との伝承を紹介しているが,さすが当代の前衛科学者らしく,「そんな話は単なる言い伝えにすぎない」と一蹴したうえで,ひたすら形や色,味,芳香,薬効,各国語での名称などを,淡々と記述してゆく。
 だが,このアダムのリンゴが,当時の人々の想像力を激しくかきたてたことは,間違いない。かつてエデン神苑に自生していた植物をふたたび一か所に集め,原初の楽園を再創造する夢想に取りつかれていた人々にとっては,貴紳の大庭園の植物蒐集花壇や,大学付属の大植物園こそは,失寵以前の叡智を回復するための特権的な空間でもあったのだ。
 やがて柑橘類は,その気候特性もあって,イタリア庭園になくてはならない果樹となってゆく。太陽を燦々と浴びて黄金にまばゆく光る果実を見たアルプス以北の人士たちが,イタリアの庭に,楽園の姿を重ね合わせたのも無理はない。エデンのリンゴ,さらにはヘスペリデースの黄金の果実を暗示する柑橘類は,今なお,イタリアの庭を飾り続けている。