学会からのお知らせ

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催します。
テーマ:19世紀イタリアにおける美術品流通
    ──クリヴェッリの祭壇画売却に関する史料を中心に
発表者:上原 真依氏
日 時:12月10日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学美術学部中央棟1階第2講義室(最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」http
://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 19世紀のイタリア教皇領では,自国美術品の海外流出を防止すべく,美術品保護法令や調査委員会が徐々に整備されていった。この保護制度成立期に売却された作品については,売却許可申請書や,不法に売却したことに対する申立書を確認することができる。本報告では,15世紀の画家カルロ・クリヴェッリの祭壇画に関する不法売却記録を中心に,何点かの未刊行史料から美術品売却の様相を明らかにし,その流通の実態を探ってみたい。
*常任委員会
・第3回常任委員会
日 時:2月19日(土)16:30〜18:00
会 場:東京芸術大学上野キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXIV(2011)に関して/研究会に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/2010年度財政見込みに関して/NHK文化センター企画監修講座に関して 他
審議事項:第35回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して 他
・第4回常任委員会
日 時:4月23日(土)16:30〜18:30
会 場:東京芸術大学上野キャンパス
報告事項:第35回大会に関して/研究会に関して/事務所移転に関して 他
審議事項:2010年度事業報告・決算に関して/2011年度事業計画・予算に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他
・第5回常任委員会
日 時:6月18日(土)11:00〜12:00
会 場:日本女子大学
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/研究会に関して/事務所移転に関して 他
審議事項:第35回大会役割分担に関して/第36回大会会場に関して/学生会員の見直しに関して 他












地中海学会大会 シンポジウム要旨

さまよえる地中海


パネリスト:石川清/武谷なおみ/畑浩一郎/堀井優/三浦篤/司会:陣内秀信


 このテーマを仰せつかった際には,面白いがどこか捉えどころがないと,正直少し戸惑った。しかし,実際に蓋を開けてみると,いかにも地中海学会らしい良いテーマで,分野,時代,地域を越える横断的な議論が展開できた。「さまよえる」は,人(個人),人々,民族,あるいは国家もありえるし,モノ,情報や人々が伝えた文化や様式,技術,制度,信仰の伝播なども考察の対象となる。
 そもそも旅,移動には,主に経済的目的,支配・占領,政治・軍事,経済交流に加え,文化的な憧れもまた大きな動機となる。大会初日(6月18日)に行われた西山力也先生のゲーテとイタリアに関する記念講演も,まさに歴史のある南国への憧れに駆り立てられ長い旅に出たゲーテの内面世界を感銘深く論じるものだった。
 今回は,中世以来のキリスト教世界とイスラーム世界の交流と対立の図式も意識におきつつ,15世紀以後を対象に,地中海を媒介とした異なる文化圏からの発信,伝播,受容,反発などを主に人の交流の中で扱った。
 先ず最初に,石川清氏(西洋建築史)が15世紀後半におけるクロアチアのラグーザを取り上げ,コンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国の脅威に対抗して都市を要塞化するためイタリアの建築家を招き,結果として文化の薫りがもたらされたことを論じた。ヴェネツィアの覇権主義にも抗して,アドリア海に勢力を伸ばし始めていたフィレンツェからミケロッツォ等を招いた点が興味深い。まさに,都市国家が政治状況の変化の中でさまよい,建築家が要請に応える旅に出たのである。
 次に,堀井優氏(オスマン帝国史)が舞台を16世紀のエジプトに移し,当時のエジプト駐在ヴェネツィア人領事の報告書等を史料として用い,オスマン権力及びムスリム商人とヨーロッパ商人やユダヤ人らとの交流と対立の状況を詳細に論じた。特に,ヴェネツィア商人とムスリム商人・ユダヤ教徒の間の香辛料の売買,価格をめぐる駆け引きや争いの一方,オスマン帝国の総督がヴェネツィアに好意をもち良好な関係にあった事実など,政治と文化の両面でさまよえる関係が続いたことが興味深い。
 次に,武谷なおみ氏(イタリア文学)がシチリアを舞台に,シャーシャ,ピランデッロ,ランペドゥーサというこの島が生んだ3名の作家の作品を取り上げ,その描写に見出せる地中海世界との深い繋がりを論じた。中
世のイスラーム,ノルマン以来,外国勢力の支配を受け続け,暗く重たい過去を背負い込んだシチリア人はどう自分の身を処すのか。近代国家として生まれ変わる機会があった際にも,新しい体制を信じず拒否の姿勢を貫く『山猫』の描写が印象的である。支配の体制がさまよえる中,逆にシチリア人の心の底に相通じる独特の原風景が形づくられたのかもしれない。戦後もアメリカ嫌いの心性がある一方,ギリシアの光の存在は大きく,しばしば古典教師の姿が救いとして登場するという指摘も心に残った。
 次に,畑浩一郎氏(フランス文学)がポーランド人作家,ヤン・ポトツキの『サラゴサ草稿』を取り上げ,その作品構造と内容に,いくつもの物語が入れ子状に語られる手法,主人公アルフォンスの61日間に及ぶ旅日記の小説化など,『千夜一夜物語』とボッカチオの『デカメロン』からの影響が強く見られることを解き明かした。複雑な作品構造,錯綜する語り等が,物語の虚構性を高めると述べるその語り口そのものが,見事な物語性をもつ発表だった。ヤン・ポトツキの身体には,マルタ騎士団をはじめ,地中海をさまよって得た様々な体験がゴッタ煮状態で存在したというのが面白い。
 最後に,三浦篤氏(西洋美術史)が19世紀フランスの画家マネの芸術形成にとって,イタリアのラファエロ,ティツィアーノ,スペインのベラスケスが大きな意味をもったことを詳細に論証した。地中海世界の憧れの国,イタリア,スペインへのさまよえる旅を通じて,古典的な価値をもつ美術の中に自己の芸術の養分になるべきもの,真に共感できるものを摂取した上で,自身にとっての新たな時代の主題へ応用するなかで独自のスタイルを確立した軌跡を魅力的に論じた。
 討論では,古典あるいは古典主義への憧れが18世紀のグランドツアーの時代から19世紀半ば過ぎまで力をもち,今なおローマへの憧れは続いていることが確認される一方で,19世紀の植民地主義,万国博覧会の開催等を背景に,東方の異文化への憧れが生まれたことが議論された。オリエンタリズムへの批判があるが,その正当な分析考察もまた必要という指摘がなされた。
 このテーマをめぐり,まだまだ多くの興味深い論点が潜んでいることは明らかである。地中海学会らしい異なる専門分野,対象地域を横断する刺激的な議論がさらに深まることを期待したい。(陣内秀信)












春期連続講演会「地中海世界の歴史,古代〜中世:異なる文明の輝き」講演要旨

ローマと地中海世界
──ローマ帝国が遺したもの──

島田 誠


 今回の講演では,まず古代ローマの歴史を大きく概観した上で,ローマがギリシアから受け継いだ都市国家とその文明,そして古代ローマの生み出した共和政と帝国という政治理念に注目して,ローマ帝国が後世に残した遺産について論じた。
 古代ローマの歴史は,通常はその政治政体から王政期,共和政期,帝政期に時代区分されるが,今回は「都市国家ローマ:王政から共和政」,「地中海世界の支配へ:共和政の下での「帝国」の出現と共和政ローマの混乱」,「帝政ローマ」の三つに分けて,その歴史の流れを概観した。まずギリシア勢力の西進への対抗として都市国家ローマが建国され,エトルリアの影響で都市化を進め,王政から共和政への変化の中でエトルリアの影響下から自立したこと,都市国家ローマが「身分闘争(紀元前494〜前367年)」という深刻な内紛を経験し,その後に急速な対外的拡大を開始し,前272年までにイタリア半島を征服したことを述べた。次いで,ローマが,ポエニ戦争・マケドニア戦争などを経て前2世紀中葉までに地中海世界の単独支配者となり,「ローマ市民たちの帝国(支配)Imperium populi Romani」と呼ばれる事実上の帝国を築いたことを述べた。最後に帝政ローマについて,前期帝政が広大な帝国を支配するための手段として君主政(軍事独裁体制)であって共和政体を建前としており,共和政理念の下での君主政であったこと,後期帝政においてはカエサリアの司教エウセビオスの神寵帝理念によって君主政の正当化が実現したことを指摘した。
 次に今回の講演の第一の主題である都市文明の普及・推進者としてのローマ帝国に話題を移した。まずローマ人が,ギリシア人のポリスの文明を当初はエトルリア人を経由して,後には直接に学んだことを述べ,次のようなギリシア人ポリスの特徴を指摘した。ギリシア人のポリスは,城壁で囲まれた中心市と周辺領域(農村部)から成り,神殿などの公共建造物,野外の集会場であるアゴラを備えていること,政治体制としては市民の参加する民会や評議会が存在しており,1年任期の公職者が選出され,市民皆兵の軍隊が存在したことである。このギリシア人のポリスは,言わば古代地中海世界におけるグローバルスタンダードであり,地中海西部地域の多くの地でギリシアのポリスを真似た都市国家が建てられたのである。ローマは,このようにギリシア風都市国家を真似た中で,
最も成功した例であると言える。
 イタリアと地中海世界の支配権を握ったローマが,各地にギリシア人・エトルリア人から学んだ都市を建設し,その都市の生活と文明を広めることになった。ローマの都市の特徴としては,東西と南北の街路で市域が格子状に区分されていたこと,中央広場の一端に,ローマ市に倣って,カピトーリウムと呼ばれる神域が建設されていたこと,皇帝の戦勝を讃える凱旋門や皇帝礼拝の神殿(神域)が設けられ,さらに図書館や体育館,競技場等の設備を併設した公共浴場が最大の特色として挙げられる。そして,このような都市とその生活の普及こそがローマにとって支配のための重要な手段であった。これらローマ帝国が建設した多くの都市は,現代に至るまでヨーロッパ世界の政治・経済・宗教・文化の中心として大きな影響を与え続けているのである。
 最後に中世から近代に至るまでローマの歴史とそこで産み出された政治理念が常に西欧の政治思想に大きな刺激を与え続け,時には実際に政治過程にも影響を与えたことを指摘した。ローマ人たちが創り上げた都市国家の共和政,共和政下の帝国とその変質した独裁体制,キリスト教的帝国がそれぞれの時代の要請に応じた形で想起されたことが注目されるのである。
 カロリング朝期には,キリスト教的ローマ帝国が注目され,君主の権限,教会と世俗権力の関係などが注目された。11世紀に『市民法大全』の一部『学説集彙』の写本が再発見され,権力の正統性の根拠としての「市民の同意」が必要とされるようになり,ルネサンス期には人文主義者たちによって古代ローマの共和政理念が再発見された。啓蒙主義から市民革命の時代には,古代ローマだけではなく古代ギリシアも注目されるようになり,さらに古代の直接民主制に対して,代表制の優位を主張するなど,古代に対する近代の優位が主張し始められた。そして,18世紀には古代ローマの政治理念はアメリカ独立革命やフランス革命・ナポレオンの第一帝政にまで影響を与えていたのである。
 このように古代地中海世界に生まれた都市国家とそこでの政治体制(民主政・共和政)とさらに都市国家から大帝国となったローマの政治体制(帝政)も変革期において人々にインスピレーションを与え続けてきたのである。











春期連続講演会「地中海世界の歴史,古代〜中世:異なる文明の輝き」講演要旨

中世イスラームと地中海世界
──華麗なるイスラーム帝国の繁栄──

私市 正年


1. アラブ・イスラーム教徒の地中海進出
 7世紀初めアラビア半島に誕生したイスラーム(宗教・文明)はアラブによる軍事的征服に伴って半島から出て,東西に広がっていった。
 アラブ軍はエジプトを征服し,642年フスタート(後のカイロの一部)に軍営都市を築くと,ここを拠点に北アフリカ(マグリブ)への軍事遠征を行った。彼らは,670年,チュニジアにあらたな軍営都市カイラワーンを築き,ここからさらに西方へと征服を進め,710年ころにモロッコの大西洋岸に到達した。
2. スペイン(アンダルス)の征服
 イスラーム軍の勢いは止まらず,ジブラルタル海峡を越えて,スペインに達した。711年ターリクに率いられた軍勢(ベルベル人)が,そして712年ムーサーに率いられた軍勢(アラブ人)がスペインに侵入,西ゴートの勢力を倒したが,間もなくシリアのカリフから両指揮官に帰還命令が届く。征服活動は部下によって継続され,フランス中部にまで進軍し,732年ツール・ポワチエでフランク王の宮宰カール・マルテルと相まみえることになる。この戦いで敗れたイスラーム軍は領域的にはピレネー山脈の北側から撤退したが,散発的な略奪(山賊)は10世紀以降まで南フランスおよびアルプス山中で行われ,当時の史料にサラセン人(Saracen)の名で記されることになる。彼らの主たる関心は相変わらず戦利品の獲得であった。
3. シチリアの征服
 シチリアへの一時的侵攻は8世紀から試みられていたが,902年チュニジアのアグラブ朝の派遣した軍隊により征服が完了した。その後,シチリアはアンダルスと並んでイスラーム文化の拠点として栄え,その支配は11世紀末キリスト教徒のノルマン人によって征服されるまで存続した。
 シチリアの東に浮かぶマルタ島も870年イスラーム支配下に入った。ここも1090年ノルマン人により再征服されるが,アラビア語は生き残り,住民が今も話すマルタ語はアラビア語の一方言である。
4. 十字軍遠征とその後の地中海
 十字軍は世界史では重要な出来事として記述されるが,二つの点で注が必要である。第一は,イスラームとヨーロッパの文明交流と言う点では,アンダルスやシチリアと比べてその役割は小さかったこと,第二は,イスラーム側にとって十字軍は歴史的に大きな意味を持って
いないこと,である。
 十字軍の影響はヨーロッパでは政治的,社会的にきわめて大きく,封建社会の崩壊へと導く端緒とされるが,イスラームにとってその歴史的意味はきわめて小さかったといえる。
 14〜15世紀,地中海のイスラームの覇者はオスマン帝国であったが,オスマン帝国の場合,内陸部のバルカン諸地域・東ヨーロッパをも支配した。今日までのイスラームとヨーロッパの関係を考えると内陸部の支配の方が重要な意味をもっている。
 19世紀以降の地中海をめぐるイスラームとヨーロッパの関係の基調は,中世とは逆に,北による支配と南の服従である。それは観光,移民や出稼ぎ,差別とテロなど様々な形で表れているといえる。
5. 地中海イスラーム文明と天才イブン・ハルドゥーン
 イスラーム文明が生んだもっとも偉大な学者は誰か,と言われれば,私は迷わずイブン・ハルドゥーンと答える。彼の偉大さは思想の独創性にある。
 すなわち,人間社会の分析のために,社会集団のあり方の差異に注目し,田舎(遊牧民・牧畜民・農民)と都会(都市定住者)の二つからなる人間社会を措定する。両者の差異は,生計手段の差異にあり,田舎の民は生産性が低く,生活の維持のために集団を組み,協業を必要とするが,都会の民は所得が多く,安楽な生活,奢侈的な物を求め,都市を建設する。社会集団の絆としてのアサビーヤ(連帯意識)が根本的に重要で,集団を組み,協業のためには,アサビーヤが必要となる。
 歴史の動因はアサビーヤであり,そのアサビーヤが機能するためには強い指導力である。両者がそろうとその集団は王権と国家建設へと向かう。
 王朝の第一世代は強いアサビーヤがあり強大であるが,第二世代になると奢侈と安逸からアサビーヤが弱化し,衰退へと向かう。第三世代は完全にアサビーヤを喪失し,やがて新しいアサビーヤの強い集団によって滅ぼされることになる。
 このような天才的な思想を生んだ土地がマグリブであることを強調したいと思う。ちなみに,彼の文化的土壌はアンダルスのセビーリャ,生まれたのはチュニジア,天才的業績『ムカッディマ(歴史序説)』を執筆したのがアルジェリア,彼が仕えた王朝がチュニジア,アルジェリア,モロッコなどの諸王朝である。マグリブの諸国はもう少しこれを誇ってもよいのではなかろうか。












ジュリアーノ・メール・ハミース監督と『アルナの子どもたち』

山下 王世


 筆者が『アルナの子どもたち』というドキュメンタリー映画と出会ったのは,数年前,パレスチナ研究者の藤田進先生と山本薫先生が東京外国語大学で主催された勉強会においてだったと思う。トライベッカ映画祭最優秀ドキュメンタリー賞,ホットドクス・カナダ国際ドキュメンタリー映画祭第一席,チェコ共和国人権ドキュメンタリー国際映画祭最優秀作品賞を受賞し,世界で高く評価された作品である。
 『アルナの子どもたち』のアルナとは,平和活動家のユダヤ人女性アルナ・メールのことだ。1989年,「もうひとつのノーベル平和賞」を受賞したアルナは,その賞金でパレスチナ,ヨルダン川西岸地区にあるジェニーンの難民キャンプで,パレスチナの子どもたちに芸術指導を始める。このドキュメンタリー映画には,ユダヤ人のアルナがパレスチナの子どもたちと活動する様子,がんを患った晩年のアルナを子どもたちの笑顔が支える様子,さらには彼女から演じることや絵を描くという表現手段を学んだ子どもたちが彼女の死後に歩んだ人生が映し出されている。
 筆者は中東地域の建築・美術史を専門としているが,この地域の美しいものだけに視線を注いでいる自らの姿勢に後ろめたさを感じることがある。現代中東社会の諸状況が不安定さを見せる中,自分の研究テーマはあまりにも平和で,あまりにも無力である。だからアルナの活動を知った時,私は何か励まされるような気持ちになった。アートや創作活動が,生まれながら過酷な状況下にある子どもたちの助けになるのかもしれない,そして武器を手にすることを断ち切るきっかけになるのかもしれないと感じさせてくれたからだと思う。創作活動は傷ついた子どもたちの心を癒す一助になりうる。そしてそこからやがて育まれてくるであろう文化は,彼ら彼女らに自尊心を芽生えさせ,社会をゆるやかにまとめる力になる。イスラエルとパレスチナは,共に互いを主張しながら一緒に生きるという土壌を必要としているのではないか。映像の中でアルナは,イスラエル軍に家を破壊され黙り込む少年を前に,悲しみを言葉にして怒りを表現することを教えようと,体をぶつけていく。ユダヤ人である私に怒りをぶつけなさい,と。彼女は,演劇や絵画などの創作活動を通して,感情を表現することができるのだということ,そして誰かに想いを訴えることができるのだということを教えたかったのだ。そうした活動の蓄
積がパレスチナの文化を形成し,いずれ大きな発信力となっていくと信じていたのだと思う。しかし現実は,かくも厳しくて悲しい。映画の中に映し出されていたアルナの教え子たちは現在,ひとりを残すのみで,その他はすでにこの世を去っている。残ったひとりは現在も自由を求めて闘っている。彼は,立ち位置の異なる人々からは「テロリスト」と呼ばれている。アルナの教え子たちに待ち受けていた人生については,これから映画をご覧になるかもしれない読者のために,ここではこれ以上触れないでおく。
 筆者が予定していた執筆テーマを変更してこのエッセイを書いているのには悲しい理由がある。命を絶たれた人物が,もうひとり増えたのだ。『アルナの子どもたち』を制作したジュリアーノ・メール・ハミース監督である。日本で福島第一原発事故による重苦しい時間が流れる4月初旬の月曜日,ヨルダン川西岸地区のジェニーンでは,ジュリアーノ監督が,自身の主宰する「自由劇場」の前で車に乗っているところを襲撃され,殺害された。同乗していた1歳の息子は無傷,パレスチナ人のベビーシッターは軽傷だったが,劇団の子どもたちの目前でジュリアーノ監督は複数の弾丸を受け,即死だった。逮捕された人物は罪を認めていないようだが,いずれにしても,パレスチナ人による犯行とみられている。
 ジュリアーノ監督は,アルナの実の息子である。彼の父はイスラエル共産党の活動家で,キリスト教徒のパレスチナ人だった。そしてユダヤ人の母親アルナ。ジュリアーノ監督は,ユダヤとパレスチナ,ふたつのアイデンティティーを意識しながら自己を形成してきたという。母アルナが他界した後,第二次インティファーダ時にジェニーンの難民キャンプは徹底的に破壊されたが,ジュリアーノ監督は母の遺志を継ぎ,2006年,同地に「自由劇場」を設立した。俳優でもある彼はパレスチナの子どもたちに愛され,彼の活動は支持されてきた。しかし一方で脅迫も受けてきた。例えば男女が同じ舞台にたつ演劇という芸術が,自分達の文化にはなじまないと感じる人たちもいたようだ。とくにジェニーンは,保守的な考えをもつパレスチナ人が多いところであるという。今後,専門家の先生方がこの事件の分析をしてくださることを待ちつつ,自分にはない勇気と信念をもった人たちの軌跡を記憶にとどめたいと思う。











オイディプスの三叉路

小島 和男


 少し前の話になるが,2010年2月の終わりにギリシアのアテネへと学生を連れてゼミ旅行に出かけた。その中のある一日,デルフォイに出かけた帰りに「オイディプスの三叉路」を訪れた。川島重成先生のツアーで訪れた方もいらっしゃるだろう。
 何もない平野の道の途中に三叉路のモニュメントはあった。大きく曲がりくねる一本道の途中で,実際の三叉路からは少し離れている。ただの道の途中である。もう使われていない,いや,ひょっとしたらまだ使われていてたまたま休業しているだけかもしれない,工場らしき建物が近くにあるばかりで,他には周りに何もない,そんな道の途中である。日本人の感覚からすると,観光名所として土産物屋などがあってもよさそうなものだが,それもない。そこに,ぽつんとモニュメントが建っている。モニュメントには,ソフォクレスの『オイディプス王』の729行目から734行目までと,1996年に「ギリシア精神分析学会」がこのモニュメントを建てた旨が彫られている。周囲には,心ない訪問者に捨てられたゴミが散見され,お世辞にも神話的な情緒を感じ取れるとは言えない場所であった。
 モニュメントが建てられたのと同じ1996年に,コーネル大学のジェフリー・ラステン教授が,この三叉路について論文を発表している(Jeffrey Rusten, “Oedipus and Triviality,” Classical Philology 91, 1996, pp.97-112)。ラステン教授は,その中で,道路では喧嘩が起きやすいということ,また,三叉路は特別な場所であるということを述べている。特別な場所というのは,プラトンにおいてもそうで,三叉路はあの世の生を決める分かれ道として表される。では,オイディプスにとっても何かを選択することのできる分かれ道だったのであろうか。『オイディプス王』における三叉路には特段の意味はないとするバーナード・ノックス教授に反対したラステン教授は,それを特に象徴的なものだと主張するわけだが,果たしてどうだろうか。
 私はモニュメントの傍らに立った時,ふと自分とオイディプスの出会いを思い出した。私が初めてオイディプスの物語を読んで知ったのは,阿刀田高氏の『ギリシア神話を知っていますか』というエッセイにおいてであった。中学生だった私は,主人公はなぜ三叉路で,ライオス一行を撲殺するなどという暴挙に出たのだろうという素朴な疑問を持った。出来の悪い中学生ではあったが,
その時の私が考えたのは,「オイディプスが我慢をし,道を譲っていればよかったのに」ということであった。しかし,オイディプスは腹立ち紛れの暴力を抑えることで,神託に示された未来を本当に回避できたのだろうか。それこそ小賢しいことなのではないだろうか。
 オイディプスの語る自らに下った神託は,(1)母と交わり子をなす(2)父殺しとなるという順番で語られている。その場で暴挙に出ることを回避できたからといって,その運命までをも回避できたのか。そうはいかないということをソフォクレスはこの順番に込めたのではなかろうか。三叉路は確かに「選択する場」として象徴的なのかもしれないが,むしろ,それが真に象徴しているのは,本当に自由に選択することなど人間にはできないということなのではないか……などと,悲劇は専門外なので実に勝手に想像してみる。
 なお,アテネでの短い滞在期間中に,オムニア広場の刺青屋の上のジェラート屋で,取っ組み合いの喧嘩を見た。警察が来る騒ぎになっていた。二人とも大男で,全身の筋肉を使い,相手を傷つけようと全力で摑みかかり拳を振るっていた。もちろん偶然出くわしただけで,アテネ中で喧嘩が起きているわけではないのだろうけれど,ともあれ,日本で暮らしている私の周りではあまり見かけない光景であった。私は警官が到着し二人を引き離すまでの間,甘いジェラートを食べながら,他のギリシア人達とともに観戦した。
 なお,我が家の近くの三叉路には交番があり,そこで喧嘩をするわけにはいきません。











〈寄贈図書〉


『ビールの研究 古代エジプトビール』キリンビール株式会社生産本部技術開発部 2004年
『工部美術学校の研究──イタリア王国の美術外交と日本』河上眞理著 中央公論美術出版 2011年2月
『イタリア旅行──「美しい国」の旅人たち』河村英和著 中公新書 2011年8月
『イメージの地層──ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』水野千依著 名古屋大学出版会 2011年9月
『マネとモダン・パリ』2010年,『三菱が夢見た美術館──岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』2010年8月,『マリー=アントワネットの画家 ヴィジェ・ルブラン──華麗なる宮廷を描いた女性画家たち』2011年 以上,展覧会カタログ 三菱一号館美術館
『オリエンテ』39(2009/8),40(2010/2),41(2010/9),42(2011/2) 古代オリエント博物館
『日本中東学会年報』27-1(2011)
『エーゲ海学会誌』24(2011) 日本エーゲ海学会
『エジプト学研究』17(2011),『ダハシュール北遺跡 第14次・第15次調査概報』2011年3月 以上,早稲田大学エジプト学会
『エジプト,メンフィス・ネクロポリスの文化財保存面から観た遺跡整備計画の学際的研究』吉村作治編著 早稲田大学エジプト学研究所 2011年3月
「古代喜劇の女性たち──総合的な研究」ヴァイオス・ヴァイオプロス著 アントニオス・カライスコス訳『共立 国際研究』28(2011)抜刷









地中海世界と植物20


 南仏のミモザ/石川 清子



 季節はずれで申し訳ないが,南仏の花といえば真っ先に浮かぶのがミモザ。コートダジュールには,ミモザ栽培で名高いボルム・レ・ミモザから香水の町グラースまで130キロに及ぶミモザ街道なる路があり,2月の街道沿いはミモザ祭で賑わうという。
 南仏の満開のミモザは見たことはないが,3月初めのモロッコのカサブランカからフェズへ向かう道路の両脇は黄金色のミモザが咲き誇っていた。19世紀にオーストラリアから持ち込まれたと聞き,意外な原産地に驚いた。地中海沿岸の温暖な気候がミモザ生育にあっていたのだろう。南仏のミモザは避寒に訪れる英国人によってもたらされたという。コートダジュールの知人によると花は数種類あり,12月から咲くものもあるとのこと。
 ミモザを詠うとなると甘い歌謡曲風になりかねないが,プロヴァンス,ヴォークリューズ生まれの詩人,ルネ・シャール(1907〜1988)のミモザは凛々しく神秘的だ。「村の丘の斜面では,ミモザを抱えた畑が野営するように夜を待っている。」生地で対独レジスタンス運動に参加していたシャールの詩は,プロヴァンスのごつごつした山の岩肌を感じさせる野性的な強さに溢れている。
 引用は,詩人がコートダジュールの療養先,ミモザ街道中にあるペゴマスの村の風景を詠んだ「風への訣別」という散文詩の冒頭行。昼日中ミモザを摘んでいた娘と夕暮時にすれちがうと,娘その人が夕日の光と化し,薄暮のなかで芳香を放つ。「澄んだ光の輪がよい匂いでできている,そんなランプにも似た娘は立ち去っていく。
夕日に背を向けて。/声をかけるのは冒瀆というものだろう。/草を踏みしだく布靴よ,娘に道をゆずりたまえ。おまえたちはたぶん,『夜』の湿気の精が彼女の唇にたち現れるのを見る幸運に恵まれるだろう。」ミモザ摘みの仕事を終えた娘を介して,詩は深遠なる夜の出現を予感させて閉じられる。
 オリーブ,ヴォークリューズの泉,石切工,クマツヅラ,ソルグ川──シャールは生地の風景や地名を多くとりあげるが,ミモザの花は,実はあまり登場しない。この詩人が花を主題にする時,意図的にだろうか,詩の花の王道である薔薇を自身の詩法の文脈に植えかえて,荒々しい野薔薇,または抽象化された「乱暴な薔薇」を咲かせる。この詩でも明るい春の象徴になっているミモザは触媒の役割にすぎず,野良仕事を終えた娘への敬意が徐々に深まる夜の闇との神秘的交感へと高まっていく,と言っては過言だろうか。
 シャールの詩情とは打って変わって,写真は南仏の土産物屋で見られる典型的な絵柄のプロヴァンスプリント。ミモザは,プロヴァンスの伝統衣装の男女と当地で幸運を呼ぶとされる「蟬」に囲まれている。南仏ミモザはマメ科アカシア属で,和名はフサアカシア(acacia dealbata)やギンヨウアカシア(acacia baileyana)。この絵柄のように小さな毬のような球状の花が房をなして咲く。切り花に使われるのはもちろん,花から採った精油はバイオレット様の香りで石鹸や香水の香料として使われる。開花の時期にはかなりの花粉が飛ぶので花粉症にも注意。