学会からのお知らせ

*第35回地中海学会大会
 さる6月18日,19日(土,日)の二日間,日本女子大学成瀬記念講堂(東京都文京区目白台2〜8〜1)において,第35回地中海学会大会(共催:日本女子大学文学部史学科)を開催した。会員175名,一般43名が参加し,盛会のうち会期を終了した。次回は広島県尾道市で開催する予定です。
6月18日(土)
開会宣言・挨拶 13:00〜13:10  北村暁夫氏
記念講演 13:15〜14:20
 「Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn
  ──ゲーテとイタリア」    西山力也氏
地中海トーキング「地中海の女」 14:30〜16:30
  パネリスト:桜井万里子/鷹木恵子/瀧本佳容子/村松真理子/司会:木島俊介各氏
授賞式「地中海学会ヘレンド賞」 16:40〜17:05
地中海学会総会 17:10〜17:40
懇親会 18:00〜20:00 [桜楓2号館]
6月19日(日)
研究発表 10:00〜12:40
 「ナイル水源からエデンの園へ──初期キリスト教教会堂装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について」田原文子氏/「ドミティッラのカタコンベの巨大人物像──新発見壁画とその新たな考察」山田順氏/「ビザンティン聖堂装飾の変容──諸聖人像からみるプログラムの歴史」海老原梨江氏/「19世紀フィレンツェにおける都市改造──建築家ジュゼッペ・ポッジの計画と決定」會田涼子氏/「観光絵葉書に現れるファシスト党支部とファシズム建築・都市──1920〜40年代のプロパガンダとリットリオ塔からイタリア初期高層ビル発生への流れ」河村英和氏
シンポジウム「さまよえる地中海」 13:30〜16:30
  パネリスト:石川清/武谷なおみ/畑浩一郎/堀井優/三浦篤/司会:陣内秀信各氏

*第35回地中海学会総会
 第35回地中海学会総会(鈴木董議長)は6月18日(土),日本女子大学成瀬記念講堂で下記の通り開催された。
 審議に先立ち,議決権を有する正会員585名中(2011.6.14現在)570余名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2010年度事業報告・決算,2011年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2010年度事業・会計は片倉もとこ・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。(役員改選については別項で報告)
議事
一,開会宣言       二,議長選出
三,2010年度事業報告  四,2010年度会計決算
五,2010年度監査報告  六,2011年度事業計画
七,2011年度会計予算  八,役員改選
九,閉会宣言

2010年度事業報告(2010.6.1〜2011.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXXIV発行 2011.5.31発行
 「ガリア・キサルピナとカエサル──碑文に見られるliberalitasを通して」   中川 亜希
 「ヴィッラ・マダマ,ストゥッコ浮彫連作《ポリュフェモスとガラテア,アキスの物語》──ジュリオ・デ・メディチの標章との関連を中心に」
深田 麻里亜
 「19世紀後半のパリ音楽院におけるピアノ教育
  ──「様式」と「メカニスム」の問題をめぐって」   上田 泰史
 「研究ノート オクタウィア回廊遺構の住居化について──ピラネージ版画との比較考察」
黒田 泰介
 「書評 渡辺真弓著『パラーディオの時代のヴェネツィア』」   陣内 秀信
 「書評 横手義洋著『イタリア建築の中世主義──交錯する過去と未来』」   児嶋 由枝
2.『地中海学会月報』 331〜340号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於鎌倉旧里見ク邸・東京芸術大学)
 「海辺の有島兄弟──湘南・地中海」(旧里見?邸見学付き) 末永 航・赤松 加寿江(7.24)
 「19世紀フィレンツェにおける建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造」  會田 涼子(10.9)
 「15世紀ヴェネツィアの地図制作と美術──《フラ・マウロの世界図》〈地上の楽園〉にみる」
佐々木 千佳(12.12)
 「多文化都市の自画像──20世紀初頭トリエステのイタリア語文学」    山ア 彩(2.20)
 「中世教皇庁のユダヤ人観──排除か受容か」
   藤崎 衛(4.24)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館)
 秋期連続講演会:「異文化交流の地中海」
 2010.9.18〜10.16
 「イタリアとフランドル,西欧と日本──美術史研究から異文化接触のあり方を見る」小佐野 重利/「近東を旅するフランス人──19世紀のオリエント旅行記から」畑 浩一郎/「フランス人マティスとスペイン人ピカソ」木島 俊介/「デューラーとイタリア旅行」秋山 聰/「中央アジアの古代地中海文明と古代オリエント文明──ウズベキスタン共和国オクサス河畔ギリシア・クシャン系都市カンピール・テパの発掘現場から」芳賀 満
 春期連続講演会:「地中海世界の歴史,古代〜中世:異なる文明の輝き」2011.4.30〜5.28
 「古代ギリシアと地中海世界:“古典古代”の誕生──美術の視座から」篠塚 千恵子/「古代ローマと地中海世界:ローマ帝国の遺産」島田 誠/「ビザンツ帝国と地中海世界:東地中海における美術の変容」益田 朋幸/「ゲルマンと地中海世界:西ローマ帝国以後の新秩序,古代から中世へ」高山 博/「中世イスラームと地中海世界:華麗なるイスラーム帝国の繁栄」私市 正年
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:該当者なし
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:望月典子
  副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:ギリシアと地中海──珠玉の文化を旅する」
2.同「地中海への誘い:輝く都市と建築を訪ねて」
3.同「地中海への誘い:古代──海が紡ぐ文化」
4.朝日カルチャーセンター講座企画協力「イスラームとヨーロッパの出会い」
5.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海世界への誘い」
6.同「古代ローマの地中海支配とその社会」
VI 会 議
1.常任委員会    5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会  4回開催
4.大会準備委員会  2回開催
5.電子化委員会   Eメール上で逐次開催
6.賞選考小委員会  1回開催
VII ホームページ
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr
(国立情報学研究所のネット上)
 「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第34回大会(於東北大学川内キャンパス マルチメディアホール)
IX その他
1.新入会員:正会員11名;学生会員6名
2.学会活動電子化の調査・研究

2011年度事業計画(2011.6.1〜2012.5.31)
I 印刷物発行
1.学会誌『地中海学研究』XXXV発行
2012年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(9.17〜10.15,計5回)・春期連続講演会開催
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:古代──海が紡ぐ文化」
2.ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「古代ローマの地中海支配とその社会」
VI 会 議
1.常任委員会      2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会    4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
第35回大会(於日本女子大学) 6.18〜19
共催:日本女子大学文学部史学科
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

*新役員
 第35回総会において新役員が下記の通り選出されました。(再任を含む)

会  長:青柳 正規
副 会 長:大保二郎 桜井万里子
常任委員:秋山  聰 安發 和彰 飯塚 正人
     石井 元章 石川  清 井本 恭子
     太田 敬子 片山千佳子 亀長 洋子
     私市 正年 小池 寿子 児嶋 由枝
     込田 伸夫 島田  誠 末永  航
     高山  博 野口 昌夫 深見奈緒子
     福井 千春 堀井  優 師尾 晶子
     山田 幸正 山辺 規子

*論文募集
 『地中海学研究』XXXV(2012)の論文・研究動向および書評を下記のとおり募集します。
 論文・研究動向 四百字詰原稿用紙80枚以内
 書評 四百字詰原稿用紙20枚以内
 締切 10月20日(木)
 本誌は査読制度をとっています。投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。



*7月研究会
テーマ:14世紀エジプトにおけるコプト聖人
    ──特徴と社会的機能
発表者:辻 明日香氏
日 時:7月23日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館3階
    315教室
参加費:会員は無料,一般は500円

*ブリヂストン美術館秋期連続講演会
 秋期連続講演会「芸術家と地中海都市」をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において9月17日より10月15日までの毎土曜日,全5回にわたり開催します。詳細はおってお知らせします。各回共,午後1時30分開場,2時開講,聴講料400円,定員は130名(先着順)です。事前に美術館にて前売券の購入をお勧めします。学会事務局では聴講券・前売り券を扱っておりませんので,ご了承下さい。


事務局夏期休業期間
   7月29日(金)〜9月1日(木)












春期連続講演会「地中海世界の歴史,古代〜中世:異なる文明の輝き」講演要旨

古代ギリシアと地中海世界:“古典古代”の誕生

──美術の視座から──

篠塚 千恵子



 古代ギリシアの歴史と一口に言っても,青銅器文明時代からヘレニズム王国の終焉まで優に二千年を越える歴史がある。地中海世界で繰り広げられたこの古代ギリシアの長い歴史は,大まかに区切るなら,青銅器文明(ミュケナイ文明)の崩壊まで,その後のポリス(都市国家)の時代,マケドニア王国の台頭によって開かれたヘレニズム君主の時代というように3期に分けられるかもしれない。しかし古代地中海世界における東と西の対比という観点から俯瞰するなら,紀元前5世紀という時代が突出している。これ以前と以後で地中海世界におけるギリシアの存在感,影響力は大いに違って見える。この時期から東と西の対比がくっきりと顕在化する。
 前6世紀後半にはすでにギリシア人は地中海沿岸一帯に多くの都市を築き,他者である異民族と交流し,異文化に触れることで,オリエントの政治形態と自己のポリス(都市国家)の政治形態が本質的に異なるという自覚を抱きつつあった。この自覚が明確に外へ打ち出されるきっかけになったのは,いうまでもなく,前5世紀初頭に起こったオリエントの大帝国ペルシアとの戦争だった。この勝利によって自己のアイデンティティに自信を得たギリシアは文化のあらゆる面で独自性を発揮していった。ギリシア悲劇,喜劇,パルテノン神殿に象徴される美術,ソクラテスの人間哲学等々,この時代の絢爛たる文化はアテネの文化と同義語の感があるが,この文化はやがてマケドニアのアレクサンドロスによって採用され,オリエント世界にもたらされた。ヘレニズム時代に始まっていた古典主義は周知のようにローマに受け継がれ,西洋文明の基礎となった。
 美術の視座から見れば,ギリシア美術史でクラシック時代と呼ぶこの時代が東西対比の転回点ないし分水嶺になっていることはいっそうはっきりする。この時期に起こった美術の変化が何だったのかは後期クラシックの大彫刻家リュシッポスが語ったという言葉,《昔の彫刻家たちは人間を在るがごとく作ったが,私は見えるがごとく作る》(プリニウス『博物誌』34,65)に凝縮されているように思う。つまり,「在るがごとく」から「見えるがごとく」へ,観念的,形式的な表現から自然主義的ないしイリュージョニスティックな表現への変化である。全般的にものの見方が一般の市民に分かりやすい現実主義的,自然主義的なものの見方へ移行していったが,この新しい見方が民主政を採用したアテネの美術─
─とくに陶器画──に顕著に現れたのは偶然ではないだろう。
 最も象徴的な出来事は,横顔に横向きの眼を描いた絵が現れたことである。それまで地中海世界の古代絵画では,青銅器時代から長きにわたって,顔が横を向いていても眼は正面向きで描かれてきた。革新的な眼の表現の現存最古の例はおそらく前500年頃のソシアスの画家による赤像式酒杯の見込みの絵で,そこにはパトロクロスの傷の手当てをするアキレウスが表されていた。横顔の眼が見えるがごとく描かれているだけでなく,やはりこれまで滅多に描かれることのなかった睫毛も丁寧に描きこまれ,身体の細かい部分に至るまで精密な観察,表情豊かな顔の表現,短縮法を用いた脚の表現など,後の絵画の領域でなされるさまざまの新機軸の予兆が見られる。
 前5世紀半ば近くになると,板絵画家や壁画家が陶器画家に代わって絵画の領域の指導的立場に立ち,古代遠近法や明暗法を発明したことが古文献の記述から知られる。そうした三次元空間の探究の痕跡は,陶器画ではかすかにたどれるに過ぎないが(前450年頃のニオビーデの画家によるルーヴル美術館所蔵赤像式クラテルの絵),20世紀後半に発掘され脚光を浴びた古代マケドニア王国の首都ペラの貴族の邸宅を飾っていたモザイク画や,ヴェルギナの墓壁画の数々から体感することができる。
 しかし古代ギリシア人の「見えるがごとく」の探究はあくまでも「在るがごとく」の探究を土台にしたものだった。見えるものの背後にあるもの──物の本質,変化しないもの──を重視する姿勢はギリシア的本質であり,人間とは何かの探究のために人間を観察し,徹底的に観察していく途上で「見えるがごとく」の視界が開けたのだった。ギリシア美術最大の特色たる裸体像もギリシア人の徹底した人間探究と人間観察の途上で,見えるがごとくの自然なポーズ(コントラポスト)をとるようになった。ギリシア人が在るがごとくの探究を続けていく途上で発見した「見えるがごとく」という「視」は,それまで古代地中海世界のどこにも見られなかった新しい視覚だった。この新しい視覚が西洋の古典主義美術の源となったが故に,タイトルの副題を「古典古代の誕生」としたのだったが,「新しい視覚の誕生」とすべきだった。












研究会要旨

中世教皇庁のユダヤ人観

──排除か受容か──


藤崎 衛

4月23日/於東京芸術大学


 12世紀スペインのユダヤ人でパレスティナにまで旅行し,その記録を残したトゥデラのベンヤミンはローマに立ち寄った際に次のように記している。「そこ(ルッカ)から6日の旅路で巨大な都市,全キリスト教世界の都ローマにたどりつく。そこに暮らす200のユダヤ人は敬意を寄せられ,誰にも貢物を納めていない。彼らの中のある者たちは,教会人の長にしてキリスト教教会のかしらである教皇アレクサンデル(3世)に仕える役人である。そこに居住する多くのすぐれたユダヤ人の主要な者はラビ・ダニエルとラビ・イェヒエルである。後者は教皇の役人の一人で,品がよく分別のある聡明な人物であり,教皇の宮殿に出入りし,教皇の家人に仕え,教皇の私財を管理している。」この記述を受け入れるならば,12世紀のローマにおける教皇とユダヤ人の間には密接な関係があったようである。
 知識人レベルでのユダヤ人についての議論においては,たとえばアウグスティヌスは,キリスト以前のユダヤ人は神に忠実であったが,キリスト後はイエスのメシア性を否定し,特に旧約中のキリスト教的真理について無知であるとした。これは中世ヨーロッパにおけるキリスト教権力側によるユダヤ人観の一つの典型となった。しかし,中世初期は,ローマ法と教皇たちの態度のおかげでユダヤ人は比較的安全に暮らすことができたとも考えられている。他方で,一般社会のレベルにおいては散発的な暴力が起こることがあり,その最たる例は11世紀末に起こった第1回十字軍時のラインラント諸都市における虐殺であるが,逆に教皇による保護も生みだすなど,ユダヤ人に対する態度は必ずしも極端にとらえるべきではない。そこで12世紀における教皇とローマのユダヤ人の関係を,次の三点から検討する。
 まずエルサレム神殿の宝物をめぐる議論について。フォロ・ロマーノにあるティトゥスの凱旋門は,ローマのユダヤ人に対する勝利(紀元70年)を記念としてイェルサレムの神殿からメノラー(7枝の燭台)が運びされる様子をレリーフとして残している。ローマに運ばれたこの宝物は5世紀に元の場所から取り去られたが,いくつかの伝承がその行き先について言及しており,その一つがラテラノ大聖堂とされた。12世紀の教皇権は,フリードリヒ1世バルバロッサなどドイツ皇帝権との対立を激しくし,これは元老院の復活を見た都市ローマの
自治政府との間でも同様であったが,教皇ないし教皇庁はラテラノ大聖堂にあるという神殿の宝物をみずからの権威づけのために有用な道具としたのである。特にグレゴリウス改革期に作成され,12世紀に再編された『ラテラノ教会の記述』は有力な典拠とされた。
 次に教皇の入市儀礼について。エウゲニウス3世やアレクサンデル3世は入市式を行うことで(1145,1165年),政治的混乱や市外逃避の後に都市ローマの支配権を回復することができた。史料から読み取れる入市式でのユダヤ人の役割は,律法の呈示,ヘブライ語での歓呼,教皇勅書「Sicut Judaeis」の布告の三点にまとめられる。これらによって教皇とローマのユダヤ人の関係が強化された。行列行進ではティトゥスの凱旋門を通過し,神殿の宝物を収めているラテラノ大聖堂まで至ることになっており,旧約のユダヤ教についての意識が明確に読み取れる。キリスト教徒にとって「律法の呈示」はユダヤ教の誤りの証明であり,教皇の世俗支配の正当化を意味するものととらえられたであろう。
 最後に教皇勅書「Sicut Judaeis」について。この勅書は12世紀前半のカリクストゥス2世以降,12世紀(6人の教皇),13世紀(4人),14世紀(3人),15世紀(3人)と繰り返された教皇勅書で,ユダヤ人に対する保護を謳ったものである。インノケンティウス3世が発したもの(1199年)は『グレゴリウス9世教皇令集』に収められ,歴史上ながらく教会法典とされた。上述のように,教皇の入市儀礼において勅書が布告されたが,このことから教皇とユダヤ人の間に互恵的関係があったことは明らかである。おそらく,ユダヤ人から教皇への金銭支援があったのではないかと推測される。
 以上を踏まえると,12世紀においては,教皇庁のユダヤ人に対する両義的な評価・態度が常に存在していた。中世教皇権のユダヤ人に対する態度の両義性は,一方で旧約聖書のユダヤ人,つまりキリスト以前のユダヤ人に対する親近感と,他方で中世における同時代のユダヤ人に対して抱いていたネガティブな印象に起因すると言え,決して両立不可能な状態を表しているわけではなく,ある意味で一貫していたとみなすことができる。見逃してはならないのは,教皇権がユダヤ教の宝物による権威づけやローマのユダヤ人に依存するという現実的な事情があったという点である。













地中海学会大会 研究発表要旨

ナイル水源からエデンの園へ
──初期キリスト教教会建築の装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について──

田原 文子


 初期キリスト教時代の教会建築において,『創世記』や『詩篇』等に記述される創造の水を想起させる水辺の描写に,古代ローマ世界に起源を持つナイル河の図像体系がしばしば使用された。従来,概してその受容を促した要因として,古代世界のナイル河図像が,一般的な豊穣の意義を表し,異国趣味的な情緒を持つ装飾として流布していた点が漠然と指摘されてきた。他方で,『創世記』の楽園から流出する河や創造の水とナイル河との関わりを,初期キリスト教時代の著作家の記述において検証し,ナイル河がとりわけ天地創造や洪水時の水と関連性が強いことを指摘する研究も行われた。しかし依然として,ローマ時代に流行したナイル河図像と,それに対応する時期に記述されたローマの著作家の言説におけるナイル河のイメージの分析は綿密になされていない。ローマ時代の文字史料におけるナイル河のコスモロジカルな(宇宙生成論的)イメージとコスモグラフィカルな(宇宙形状論的)イメージは,『創世記』や『詩篇』の創造の水に関する教父等の記述との類縁性を示しており,この類縁性こそが,初期キリスト教美術において創造の水にナイル河図像の使用を促す一契機となった可能性がある。
 発表においては,まずローマ時代から初期キリスト教時代までのナイル河図像のモチーフの形体上の連続性を確認した。紀元前後1世紀のイタリアの住宅等の壁画やモザイク等で流行した蓮や水鳥等のナイルの動植物に満ちた川辺の風景表現は,ローマ世界の拡大とともに地中海沿岸のほぼ全域に広まり,やがて後450年頃のエト・タブハ(イスラエル)の「パンと魚の奇跡の教会」の左右翼廊の舗床モザイクや,後6世紀中頃のサラミス(キプロス島)のハギアスマの壁画に取り込まれた。また同じくローマ時代のナイル河風景画図像群に属する,ナイルの水源に住むとされるピュグマイオイの戯れるナイル河の河畔風景は,やがて有翼のプッティのいる水辺風景へと展開し,アクィレイア(イタリア)のテオドロスのバシリカ(後314-320年頃)において,三廊頂部を満たす舗床モザイクの中に表現された。
 これらの作例の中で,サラミスのハギアスマの壁画に描かれた矩形の枠内の水辺風景は,キリストの胸像の下に位置し,『詩篇』28:3の引用句を左右に持つという構成で描かれており,初期キリスト教時代のナイル河風景画の意味を考察する上で重要な意義をもつ。壁画は,同
引用句を字義通り再現しており,ナイル河風景画は『詩篇』28(29)の創造の水の表現に用いられたと考えられるのである。ナイルの洪水が,シナイのアナスタシオスにおいて,『創世記』1:2の創造の例証として捉えられている事は,この解釈を裏付けているといえる。また,大バシレイオスは,同句を洗礼の水の聖性を保証する句と解釈しており,この水辺風景が聖性を帯びた洗礼の水の表現でもあることも指摘されよう。アクィレイアのプッティのいる水辺風景は,洗礼による救済の象徴であるヨナの逸話の背景であり,それぞれの作例で,ナイル河風景とそれから派生した水辺風景が,創造の水や洗礼の水の表現として用いられたことが看取できる。
 次に,古典史料におけるナイル河のコスモロジカルな意味についてセネカの『自然研究』を用いて分析し,セネカの思想においてナイル河が,宇宙を創造し世界の更新を果たす始原の水に起源を持つとされる点を確認し,ナイル河が,始原の水との繋がりを持つ点において『創世記』中の生物を生み出す水,あるいは洪水により世界の更新を果たす創造の水と相似している点を論じた。加えて,ディオドロスやオウィディウス等,その他のローマ時代の著作中に『創世記』の創造の水とナイル河とのコスモロジカルな類似性が散見されることを指摘した。
 最後に,ギリシア,ローマ時代のナイル河の水源に関するコスモグラフィカルな言説について論じた。ナイル河の水源の所在は,諸説ある中で,世界を周回するオケアノス(大洋)や,オケアノスを経た対蹠地といった,謂わば体験可能な世界を超えたトポスに位置付けられてきた。これらは,4世紀から8世紀の初期キリスト教時代の教父や著作家が,ナイル河(ゲーオーン)を含む地上の四大河は,渡ることのできないオケアノスを経たエデンの園から流出するとしたコスモグラフィカルな把握と相応している。
 以上のように,古代ローマ世界のナイル河と,初期キリスト教時代の創造の水や楽園の四大河の表象には,始原の水やオケアノスを介したコスモロジカルな,あるいはコスモグラフィカルな構造的類似性が看取できる。ローマ時代のナイル河風景画が,初期キリスト教時代の教会建築の装飾において,創造の水を表す水辺風景に受容された一因は,以上のような両者の相応性に求めることができるだろう。














地中海学会大会 研究発表要旨

ビザンティン聖堂装飾の変容
──諸聖人像からみるプログラムの歴史──

海老原 梨江


 本発表は,ビザンティン聖堂装飾プログラムの一部を構成する諸聖人像を考察対象とし,これらの図像が聖堂において果たす役割を論じるものである。
中期ビザンティン(843〜1204年)聖堂装飾の諸聖人像
 ビザンティン聖堂装飾プログラムの規範は,中期以降に確立した。このプログラムは,聖堂建築と神学的な位階とを対応させ,様々な図像を聖堂内壁に配列したものである。聖堂上層にキリストや聖母子像,中層にキリスト伝図像,最下層に諸聖人像を配した。
 ギリシアに残る11〜12世紀の壁画を持つ84聖堂を調査したところ,以下の点が明らかになった。諸聖人像は基本的に地位に応じた場所に描かれるが,一方で,聖堂内のあらゆる部位に配置されうる柔軟な図像要素であった。聖人の選択と図像配置には,聖人の地位よりも次の3点が優先された。すなわち,聖人暦,地域的な聖人信仰,聖人と寄進者の個人的な結びつきである。
 @聖人暦(聖人伝の章句を日付順に並べた典礼用の暦)。聖人暦に基づく聖人の選択と図像配置について,本発表では次の2点を指摘した。1) 9月から2月に祭日を持つ聖人が数多く採用される。2) キリスト伝図像の祭日と聖人の祭日を関係づける。諸聖人像はただ単に壁面に並ぶのではなく,聖人暦を通して,その上に描かれるキリスト伝図像と関係を結ぶ。A地域的な聖人信仰。ギリシアの島嶼部やペロポネソス半島の聖堂装飾に顕著な特徴である。特定の地方で崇敬された聖人が,帝国全体で広く人気のある聖人とともに表されたり,重要な壁面に描かれたりした。地域の聖人を重視した聖堂装飾の背景には,より身近な存在を選ぼうとする信徒の心性が看取できよう。B聖人と寄進者の個人的な結びつき。一聖堂にだけ表され,かつ重要度の高い壁面を占める聖人の存在が複数認められた。特殊な聖人の存在は,寄進者の個人的な意向あるいは地方的な聖人崇敬を反映したものと推測できる。
 かつて地上に生を受け,死後,天上の世界へと引き上げられた聖人は,信仰が持つ力を証明する存在であり,信徒の祈りをさらに高い存在へととりなす仲介者でもあった。聖人に求められたのは,身近な仲介者という役割であり,その役割への期待が聖堂装飾における聖人の選択と図像配置の柔軟性を可能にしていた。自らの願いを託すため,数千もの聖人から常に身近に思う対象を選び,聖堂に描こうとしたのは,信徒にとって自然な行為だっただろう。
初期ビザンティン聖堂装飾(330〜726年)の諸聖人像
 初期の聖堂に描かれる諸聖人像には,大別してふたつの系譜があった。
 @寄進図像。アプシスに寄進図像を配す作例が複数ある。聖堂建築や聖堂装飾の寄進を記念する寄進図像は,次のような構成を持つ。キリストや聖母子像を中央に配し,大天使や聖人が両脇に並ぶ。聖人は,寄進者を中央のキリストあるいは聖母子へといざなう。キリストや寄進者を伴う聖人像は,聖人の仲介者としての役割を直接に表した図像である。A諸聖人像の列。立像とメダイヨン像のふたつの形式がある。双方の場合とも,壁面や空間を他と分かつ境目に配置された。例えばドームの基部やアプシス入口,アプシスのコンクなどである。諸聖人像は境を指示する図像要素だった。言い換えれば,諸聖人像は,壁面や空間を聖別化する図像要素であった。
 初期の聖堂を検討し,祈りの仲介と壁面や空間の聖別化というふたつの役割を指摘した。寄進図像がアプシスに表される作例や,諸聖人像の列がアプシス入口やアプシスのコンクを囲む作例は中期以降には見られなくなる。しかし,これらの役割は中期以降も継承されたとする見解を,本発表では示した。
9〜10世紀のビザンティン聖堂装飾における諸聖人像
 失われた聖堂が多く,装飾の実態は明らかではない。文書史料をもとに推測するならば,プログラムの形成過程でキリスト伝図像よりもまず,キリストや聖母子,諸聖人像が導入された。その理由として,説話図像の定型が確立するのに時間を要したことが挙げられる。加えて,初期の聖堂に見たように,諸聖人像が壁面や空間を聖別する図像であった点を指摘できよう。聖堂という宗教的な空間を形成するため,まず必要とされたのは,諸聖人像による聖俗の境目の設定だったのではないか。中期以降も,限られた壁面しかない小型の聖堂では,キリスト伝図像よりも諸聖人像が優先して描かれていた。

 中期以降,諸聖人像の列は聖堂内部を一周し,聖堂の空間全体を聖別化した。聖堂という空間を構築するため,諸聖人像は不可欠な図像要素であった。諸聖人像は,境を分かつものであると同時に,境を結ぶものでもあったと言えよう。聖人は,聖俗の境界を設定し,かつ地上の信徒の祈りを天上の世界へと仲介した。彼らの役割の両極性は,初期から中期にかけて,形を変えながらビザンティンの聖堂で視覚化されていた。













地中海学会大会 研究発表要旨

19世紀フィレンツェにおける都市改造

──建築家ジュゼッペ・ポッジの計画と決定──

會田 涼子


 フィレンツェはルネサンス都市として世界有数の都市であるが,19世紀半ばには大規模な都市改造がおこなわれた。現在の都市の基盤をつくり出したこの近代の都市改造には,以下の三つの特徴がある。イタリア国家統一後,一時的に首都を経験したこと(1865〜70 年),トスカーナ特有の丘陵地帯に囲まれていたこと,改造以前,500年以上の長期にわたって歴史的都市構造を保持していたことである。ヨーロッパ諸国における近代都市改造の手法は,パリのオスマンの都市改造手法に負うところが大きく,フィレンツェにおいてもまた,この手法は部分的に踏襲されている。とはいえ,新しい建築物の様式や広場の構成,都市の象徴などには,パリと異なる部分も多くみられ,フィレンツェの都市改造計画には,イタリア国家統一の社会的背景を含めた都市固有の歴史的文脈の違いが大きく表出しているといえる。
 以上を踏まえ,19 世紀のフィレンツェにおいて行われた都市改造として,最も大規模な計画である建築家ジュゼッペ・ポッジ[Giuseppe Poggi, 1811-1901] の「プロジェット・ディ・マッシマ(マスタープラン)」に,首都フィレンツェとしての理想と歴史的視点の在処を探りたい。ここで留意したいのは,近代における都市改造は,政府やコムーネの議決により進行し,また土地所有者や建設業者などとの契約に基づいて成り立つものであり,実現したものに建築家の意向がすべて反映されているわけではないということである。そこで,ポッジの計画経緯がまとめられた報告書『フィレンツェ拡大事業』を精査し,各計画で意図通りに実現されたものと,大きく修正が加わったものを確認することで,各計画へこめられたポッジの意図を読み取ることとした。
 まず大きく修正された計画案として,カンポ・ディ・マルテ(軍事施設)の計画がある。これは,計画初期段階でポッジが都市としての象徴性を重視した案から,軍事的利点を優先させた案へと大きく修正された。また,市壁解体による環状道路の建設では,初期案でピンティ門を残す意図が示されていたが,結果的に市門は解体されることになった。これは,隣接する英国人墓地を残し,道路のために収用する建物が最小限となる方法がとられていることから,政治的・宗教的理由が背景にあったと考えられる。このような土木的要素の強い計画に対して,ヴィットーリオ・エマヌエーレ広場の例では,銅像の配置は政府やコムーネに容易に受け入れられており,様式の選定といった意匠的な部分に関してはポッジ
の意見が採用されやすかったことがわかる。
 次に,最もポッジの意図通りに実現された計画として,カヴール広場(現リベルタ)がある。ここでは14世紀の市門とそれに縦列して建っていたロートリンゲン家時代の凱旋門が,同時に広場の中心に位置するように周囲の街区が決定された。その他,クローチェ門広場(現ベッカリア)も同様に市門がモニュメントとなるよう計画された。ここからポッジがフィレンツェの都市を象徴するために,既存の建造物をモニュメント化する手法をとっていたことがわかる。ここでは,実現されなかったものの,公共浴場も併せて計画されており,造幣所で使用されていた吸水モーターの利用など,既存の建造物だけでなく,機械設備をも再利用の対象とした計画がされていたことがわかる。
 また,アルノ川左岸の丘陵地帯のコッリ大通り計画では,ルネサンス期でも重要視されていた風景への視点が,大通りの路程において考慮され,またミケランジェロ広場はフィレンツェを一望できるように計画されており,ここにも首都フィレンツェに相応しい場所をつくるために,風景が重要な要素とされていることが読み取れる。
 ポッジの歴史的文脈への配慮は,現況把握のための調査方法にも及んでいる。ミケランジェロ広場から都市部へ降りる坂道と大階段の計画では,ポッジは当時の調査結果からだけでなく,近世の芸術家・技術師の叙述や調査も参照しながら地質や排水の問題点と解決方法を導き出していた。これは近代的水理技術による山留めと排水施設が,ルネサンス風のグロッタという形で実現している。
 以上のようにジュゼッペ・ポッジの報告書からは,政治的,経済的状況によって大きく修正された計画と,ポッジの意向が充分に反映されているものがあったことがわかった。環状道路建設と市門周辺の整備においてはパリの手法に倣いながらも,フィレンツェの歴史的文脈との融合が試みられ,また丘陵地帯においては,フィレンツェの地形を生かすことで路程や広場空間に首都フィレンツェを象徴するための風景が演出され,都市の固有性に根ざした計画がいくつか実現している。ポッジによる計画は,人口増加や工業化,衛生といった近代的都市問題の解決のみならず,ルネサンス都市フィレンツェの新しい首都像が追求されたものであった。















ローマ産の傑作一眼レフ「レクタフレックス」でめぐる中部イタリアとクロアチア

中島 智章


 大学で西洋建築史を教えていると,自分の専門分野以外のヨーロッパ各地の建築を見にいく機会も多い。その際,密かな楽しみとしているのはそれらの建築を様々な機材で撮影することであり,どのような機材を持っていくかあれこれ悩むのはなかなか至福の時である。先日,イタリア中部とクロアチア沿岸部を周遊する機会があり,このとき自然にイタリアのカメラはどうだろうかと思いついてしまった。そして,白羽の矢が立ったのがローマのレクタフレックス社製の一眼レフレックス・カメラ「レクタフレックス」である。
 だいたい60年くらい前に製造されたこのカメラのファインダーを覗いたときに感動したことが二つある。まず,フイルムを巻き上げなくてもファインダー像が見えること,そしてさらに,上のものが上に下のものが下に左のものが左に右のものが右に見えたことである! これだけだと筆者が一体何に感動したのか,デジタル全盛の現在では分かりにくいに違いないので多少の説明を要するが,それを説明していると本稿がそれだけで終わってしまう。
 ここではただ,戦前から戦後すぐの時期の多くの一眼レフでは,巻き上げないとファインダー像が見えなかったし,見えるファインダー像も上下逆像や左右逆像だったとのみいっておこう。乾板カメラにも親しんでいた当時のカメラマンにとって,逆像についてはさして大きな障害ではなかったが,それでも上下左右逆になっていない「正像」を得るための工夫が研究され,ペンタプリズムを用いることでそれが達成された。「レクタフレックス」は西側では最初期にペンタプリズムを搭載したカメラであり,その名に「レクタ=正」という語を含んでいるところにその自負がうかがえる。
 開発を主導したのは,戦中,軍需工場を経営していたテレーマコ・コルシだった。もともとの機械好きが高じて最高の一眼レフを作ることに情熱を燃やしたのである。1947年のミラノ見本市でプロトタイプが初出品され,このときはペンタプリズムを使用していなかったので左右逆像だったが,翌年のミラノ見本市には製品版が登場した。以後,1950年代前半まで生産が続いた(最後はリヒテンシュタインで生産された)。
 今回,1953年に製造されたと思われるこのカメラ(最高シャッター速度1300分の1秒,製造番号30000代,
ドイツの名門光学企業シュナイダー・クロイツナハのクセノン50mm f2付き)をスナップ用のサブ・カメラとして携えてフイルム10本ほど撮ってみた。
 ローマのボルゲーゼ庭園付近のリストランテ,フィレンツェ旧市街のピッツェリアでの語らい,シエナ大聖堂の麗しきファサード,アッシジの起伏に富んだ路地,アドリア海を渡ってクロアチアの港町ザダル,シモニクの城塞から望むアドリア海とその島々,スプリットの旧皇帝宮殿のたそがれ時,ドブロブニクの延々と続く城壁とそこへ打ち寄せる波,さらにローマへ戻っていくつかのバロック広場の天を刺すオベリスク,こういったものをフイルムに収めていった。
 レクタフレックスは他の多くの一眼レフ同様,レンズ交換可能だが,今回用意したのは標準レンズのみだったので,建築はあまり撮っていない(そちらの方はメイン機材の仕事になる)。建築を撮るには焦点距離28ミリメートル以下(ライカ判換算)の広角レンズが必要で,レクタフレックスを使っての建築撮影は次回の課題としたいが,夕べの食事のありさまやアドリア海を望む雄大な風景を撮るのに,焦点距離50ミリメートル,水平画角45度ほどの視野は広すぎも狭すぎもしない絶妙な枠を提供してくれたように思う。
 また,ほのかな明かりで照らされたリストランテやピッツェリアでの楽しき団欒の時を切り取るのに解放絞り値2のクセノンは期待通りの効果を発揮してくれた。本来,一眼レフは暗所でのピント合わせにはあまり向いていないのだが,思ったよりもピントの歩留まりはよかった(むろん,別に携えていったコンタックスI型とゾナー5cm f2の組み合わせには及ばないが)。
 それにしても,フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂前でカメラ3台携えてうろうろしていた時にパトカーの警察官に呼び止められたときは冷や汗をかいたが,単にカメラ・トークがしたいだけだったようなので安心したものである。もっとも,その関心は彼らの母国が生んだ傑作一眼レフの方ではなく,スウェーデン製ハッセルブラードSWCに向けられていたのだが……。
 結びにレクタフレックスの紹介写真と作例を載せた拙ウェブログ(ツイッターに移行したので更新は終了)のアドレスを紹介しておくことにする。
http://blog.livedoor.jp/tomoaqui/