学会からのお知らせ


*今後の活動について
 このたびの東日本大震災で被災された方々に,心からお見舞いを申し上げます。
 本学会では第35回大会,春期連続講演会,研究会等の活動を通常通り開催する予定です。今後,電力不足等の影響により変更が生じた場合は,ホームページ(http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr/),月報等でお知らせします。連続講演会についてはブリヂストン美術館(http://www.bridgestone-museum.gr.jp/)のホームページも併せてご確認ください。

*第35回大会
 第35回地中海学会大会を6月18日,19日(土,日)の二日間,日本女子大学成瀬記念講堂(東京都文京区目白台2-8-1)において下記の通り開催します。なお,先日お送りしたプログラムに誤字がありました。「開会宣言・挨拶」の北村氏のお名前は下記の通りです。プログラムを訂正します。
6月18日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶   北村暁夫氏
13:10〜14:10 記念講演
  「Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn──ゲーテとイタリア」 西山力也氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「地中海の女」
   パネリスト:桜井万里子氏/鷹木恵子氏/          瀧本佳容子氏/村松真理子氏
   司   会:木島俊介氏
16:40〜17:10 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10〜17:40 総 会(地中海学会会員のみ)
18:00〜20:00 懇親会

  

6月19日(日)
10:00〜12:30 研究発表
  「ナイル水源からエデンの園へ──初期キリスト教教会堂装飾におけるローマ世界のナイル河図像の受容について」    田原文子氏
  「ドミティッラのカタコンベの巨大人物像──新発見壁画とその新たな考察」  山田順氏
  「ビザンティン聖堂装飾の変容──諸聖人像からみるプログラムの歴史」  海老原梨江氏
  「19世紀フィレンツェにおける都市改造──建築家ジュゼッペ・ポッジの計画と決定」
會田涼子氏
  「観光絵葉書に現れるファシスト党支部とファシズム建築・都市──1920〜40年代のプロパガンダとリットリオ塔からイタリア初期高層ビル発生への流れ」      河村英和氏
13:30〜16:30 シンポジウム
  「さまよえる地中海」
   パネリスト:石川清氏/武谷なおみ氏/          畑浩一郎氏/堀井優氏/          三浦篤氏
   司   会:陣内秀信氏












イオニア考,またはつくられる歴史

佐藤 昇


 イオニア人。古代ギリシアにそう呼ばれる集団がいた。そのうち一部は,エーゲ海の波寄せるアナトリア西部,それから沖合の島々に根を下ろし,いくつもの政治共同体を営んだ。地名としての「イオニア」は,特にこの地域を指して用いられる。
 イオニアは,早くも前古典期(紀元前8〜6世紀)に豊かな物質文化・精神文化を花開かせ,〈イオニアの春〉を謳歌していた。サモス島では最初期の「ギリシア」神殿が建造された。初期の建造物はやがて列柱を備え,石造に作り替えられ,「ギリシア風」の様相を整え,前6世紀には大規模な拡張工事が行われた。ヘラ女神を祀るこの神域で,天にも届かんばかりの,屹立する一本の石柱を目にすれば,誰しも往時の偉容を想わずにはいられない。同島出土のクーロス像も,辺りを睥睨するその巨大さは勿論のこと,妖艶なまでに滑らかな肌理の美しさは,今なお見る者を魅了する。作家パウサニアスは,イオニアの名工を数多くその書に記している。
 文学・哲学もまた然り。「ギリシア」文学史の劈頭を飾るホメロスが,キオス島の出か否か確かめる術はないものの,前古典期の昔から,イオニアは数多の哲人,詩人を輩出した。前古典期に殷賑を極めた都市,「イオニアの華」ミレトスを,「ギリシア初の歴史家」カドモスが,「ギリシア初の哲学者」タレスが活躍の場としたのは,ほんの一例に過ぎない。神殿,彫像,叙事詩,歴史叙述,自然哲学。我々が思い描く「古代ギリシア」が創られていく。イオニア人こそ,その担い手であり,イオニアこそ「古代ギリシア文化」揺籃の地ではないか──ギリシア共和国の首都アテネ,古典期に繁栄を極めたアテナイを離れ,エーゲ海の東にまで足を伸ばすと,旅に酔うのか,自然とそうした思いに囚われる。
 イオニア人の到来以前とて,アナトリア半島は無住の地ではなかった。近年の発掘調査に従えば,先に述べたミレトスは,中後期青銅器時代,ミノア文明の影響色濃い物質文化を享受していた。ミノア文明。エーゲ海の南方,クレタ島を中心に栄えた文明である。これと共通の文化が,アナトリア西部にもしっかりと根を下ろしていた。線文字Aが刻まれた地元産陶器も知られている。にも拘らず「古代ギリシア」を思い描くとき,無意識の内にか,イオニア人入植に先立ってこの地に隆盛していた,この文明を,ついイメージの向こう側へと追いやっ
てしまう。前段に記した「自然な思い」も,旅の高揚が醸す幻覚でないとすれば,実のところ,一つの歴史観によって導かれたものなのかもしれない。古典期のギリシア本土を焦点として歴史像を結び,これと関連づけて事象を捉える,同時に,そうして「作られた」歴史観からこぼれ落ちたものを遠くに霞ませる,そんな習性が染み付いているのかもしれない。
 翻ってみると,たしかにクレタ島とアナトリア西部及び沿岸島嶼部は,存外深い縁で結ばれている。再びミレトスに目を向ければ,その創設は神話の時代に遡り,クレタの地にまで到達する。太陽神アポロンとアレイアなる娘の子ミレトスは,主神ゼウスの子,島を統べるミノスから逃れんと,故郷クレタを後にして,海を越え,サモスに渡り,やがてアナトリアへと辿り着いた。そこに建設されたのが,他ならぬ都市ミレトスだったという。すなわち,都市創建者がクレタ島生まれの半神だったというのだ。そうした伝承が残されている。ミノア文明の記憶が,神話となって古典期以降の歴史時代にまで伝えられた,そう解釈する者もある。太古の記憶を伝える神話伝承。なかなかロマンティックではないか。
 都市創建者ミレトスは,生後間もなく遺棄されたとも伝えられる。拾い上げたのは,祖父クレオコス。この人物については,時代を遥かに下り,おそらくは前4世紀の終わり頃,とある地元歴史家が,ミレトス近郊,アポロンの神託で名を馳せる神域ディデュマに葬られたと伝えている。これも古の記憶なのだろうか。現在のところ,この神域にミノアの痕跡は見出せない。他方,かの史家が活躍したとされる時代には,マケドニア王アレクサンドロスがギリシアの大軍とともにこの地を駆け抜け,ペルシアの支配から解き放ち,やがて「後継者」たちがこの世界の覇を競い,争った。ペルシア支配下に衰微を極めたディデュマでは,新生ミレトスの主導の下,見る者誰もが(今なお)息を呑む,豪華壮麗なる巨大神殿が再建された。神託も再開,威信を取り戻した。ミレトスはもちろん,「後継者」たちもこの神域との結びつきを深めた。背景にそんな模様を描いてみると,同じ伝承でも,先ほどとはどこか違う図柄が見えてくる。再生し,王たちに愛される神域と,復興を主導した都市の創建神話が,結び合わされる伝承。ヘレニズム時代の曙に,また別の歴史が「作られて」いたのかもしれない。












失われた皇子の左足

太記 祐一


 ビザンツの首都コンスタンティヌポリスの大通りメセは,大宮殿とハギア・ソフィアの間にあるアウグスタイオンという広場から西へ伸び,街のほぼ真ん中フィラデルフィオンという場所で左右に分かれる。左へ進むと街の正門ともいうべき黄金門へ,右は聖使徒教会をかすめハドリアノポリス門(現在のエディルネ・カプ)へと伸びる。都の創建者である皇帝コンスタンティヌス一世はこのフィラデルフィオンに,十字架を冠した紫色の高価な石材(斑岩)の柱を立て,自身と母后ヘレナ,そして息子達の石像をおいたという……。

 アドリア海の女王ヴェネツィア,その中心といえるサン・マルコ大聖堂の脇に,濃い紫色をした石像がある。マントを羽織った男性が四人,大真面目な顔で互いに肩を抱き合っている。よく見れば皆,古代の鎧に身を包み,剣を携えている。書物などで有名なこの作品は,3世紀のローマ皇帝ディオクレティアヌスによる帝国の四分割統治を表しているもの,として有名である。
 しかしよくよくこの彫刻作品を見ると,全体の構成が何とも不細工なのに気がつくだろう。もちろん彫刻には門外漢の筆者は,美術的な質や価値,あるいは製作者の技法や技術について云々したいのではない。注意深い鑑賞者であるならば,すぐに気がつくことかもしれないが,向かって左側の二人の像と右側の二人の像の間には縦に割れ目が入っており,右側の二人はさらに二つに切れ目が入っている。左側の二人には一部,彫刻の背後の壁体が残っている。これに対して右側の二人のうちの左側は,左端が垂直に切り落とされており,本来はより完全な形で背中へと続いていた様である。そして向かって一番右端の人物は本来の左足を失ってしまい,白い石材で補修されている。実はこの作品は,1204年にヴェネツィアをはじめとする西ヨーロッパの軍勢が,十字軍と称してコンスタンティヌポリスを占領した際に,他の宝物と一緒に奪い取ってきたもので,互いに肩を抱き合った二人の人物を描写した二組の像を,無理矢理一つにまとめたものであった。
 以上のいきさつを踏まえれば,失われた左足が帝都コンスタンティヌポリス改めトルコ共和国最大の都市イスタンブールで発見されたのは,ある意味当然の成り行きだったかもしれない。
 テオドシオスの城壁に囲まれた三角形の旧市街の真ん中,アクサライという一角の,今や路面電車が走る古代
の目抜き通りから少し南に入ったところにボドルム・ジャーミーという小さなモスクがある。これは一見地味な小建築だが,10世紀の初めに皇帝ロマノス一世レカペノスが設立した修道院の聖堂である。隣の児童公園の地下には,地下貯水池とおぼしき空間があることが,以前から知られており,その調査の際に,斑岩の台座と左足が発見されたのだ。
 そして貯水池と思われたものは想像以上の大建築,重厚な壁体に囲まれた巨大な円形の空間だった。その直径は29.6m,つまりローマ尺でほぼ100尺である。ローマのパンテオンの巨大な空間が直径43mであることを思い起こすならば,これはなかなかに侮りがたい大作といえるだろう。おそらくパンテオンのような立派なドーム天井を持った大ホールで,何か重要な施設の一部だったのだろう。
 さて出土した左足が現在サン・マルコにある彫像の一部ならば,あの四人の紫色の男達は,かつてこの辺りに立っていたはずである。該当する彫刻作品はフィラデルフィオンにあった皇帝とその家族しかないのではないか。つまりサン・マルコの彫刻は,ディオクレティアヌス帝の帝国四分割ではなくコンスタンティヌス一世と息子達だったのである。
 それでは巨大な円形の建物は,いったい何だったのであろうか。記録から研究者達は様々な可能性をあげている。フィラデルフィオンのすぐそば,ローマに倣って整備されたカピトリウムにあった大学の一部,あるいはアナスタシアナ浴場のいずれの部屋,はたまた5世紀の皇帝テオドシオス二世の妹アルカディアの邸宅のホールといったところが有力候補であろうか。いずれにせよ大変立派な建築であっただろうにもかかわらず,これが何だったのかは不明のままである。そしてなぜ彫刻の左足だけが,この建物とともに眠っていたのかも,また謎のままである。
 さて5世紀に建設されたこの作品はその後,何らかの事情により廃墟と化していたが,10世紀にロマノスの邸宅の付属施設として地下貯水池に整備された。その後再び長い期間,忘れ去られていたが,近年ではショッピングセンターに改装され,人々に活用されており,誰でも訪れることが可能である。最もフィラデルフィオンのかつての栄華とそれを襲った後世の運命を思えば,これは単なる蛇足である。












ピサの栄光と聖ラニエリ

増田 千穂


 ピサの大聖堂を訪れた人はまず,ジョヴァンニ・ピサーノ作の説教壇に目を奪われるだろう。だが,そのすぐ後ろの柱の5メートルほど上方に,人の頭ほどの卵形の大理石が取り付けられているのに気付く人はほとんどいない。実は毎年3月25日正午,ちょうど向かい側,身廊と右翼廊が接する壁面に開けられた丸窓から太陽光が差し込み,ぴたりとここに当たることになっている。
 かくいう私もピサに移り住んで一年以上が経つというのに,この大理石の卵の存在をつい先日知った。友人と「カポダンノ・チネーゼ(中国の春節)」のニュースを見ていた時,「ピサの旧正月は3月25日である」という話になったのだ。1750年にトスカーナ大公国全域がグレゴリオ暦に統一されるまで,ピサにもフィレンツェ暦と同様,独自の暦が存在した。ピサ暦の日付の入った文書は10世紀末から見られ,その後ピサ共和国が隆盛を誇る11世紀以降,サルデーニャ,コルシカから北アフリカ,ついにはコンスタンティノポリスまで,ピサの勢力の及んだ地中海各都市で使用された。フィレンツェ暦でも3月25日が正月とされ,受胎告知の日と併せて,今でもサンティッシマ・アヌンツィアータ教会を中心に盛大に祝われる。だがフィレンツェ暦がグレゴリオ暦を約3ヶ月遅らせたものであるのに対し,ピサ暦は約9ヶ月早めたもので,3月25日にグレゴリオ暦の年数を1年進める。つまり今年の3月25日,大聖堂の大理石の卵が太陽に照らされた時,ピサでは早々と2012年を迎えることになるのだ。
 そんな話もあって正月には少々早いが久々に大聖堂を訪れた。説教壇はいつものように人だかりだが,次に注目を集めているのが今年没後850年を迎えるピサの守護聖人ラニエリの礼拝堂である。ピサ暦1689年3月25日,正月を告げる太陽光の入る丸窓の下,右翼廊に聖ラニエリの遺骸が移された。1161年に亡くなったこの聖人の遺骸は,もともとティーノ・ディ・カマイーノによる祭壇のもと左翼廊に安置され,その後1595年の火災をきっかけに左翼廊と身廊が交差する角に移されていた。政治そっちのけで信仰にしか興味がなく,聖遺物収集を趣味としていたというトスカーナ大公コジモ3世は,いくつかに分けて納められていた聖人の遺骸をひとつにまとめ,より豪華な墓に納めることを思い立つ。プットーの銀製飾りを頂く最高級の緑大理石とガラスで作られた棺の中に見える聖人の亡骸は,大公に厳格な宗教教育を施したという母,ヴィットリアによって金銀の
糸とブロケードで作られた隠遁者の服を着せられ,親子の並みならぬ思い入れを現代にも伝えている。
 この豪奢な墓とは対照的に,現在の聖人の認知度は実はピサにおいてさえ100%ではないという調査結果が近年出された。聖年を迎え知名度回復を狙ってか,礼拝堂脇には去年から,「14世紀にカンポサントに描かれた聖人伝の現代版」と銘打って「漫画聖ラニエリ伝」が積まれている。また教会行事はもとより,歴史研究者の講演会などが随所で行われた甲斐あって,ようやく人々の関心を取り戻しはじめたこの聖人の実像は,なかなか興味深い。1117年頃,ピサの裕福な商人の家庭に生まれたラニエリは19歳の時,コルシカ出身の騎士がその財と祖国を捨て修行に励む姿に心を奪われる。1136年,商人としてエルサレムに赴いた彼はその4年後,聖墳墓教会で自身も人生を祈りに捧げることを決意,財を捨て悔悛者の衣を纏う。施しのみを糧としながら,ナザレ,タボル山,ベツレヘムとキリストゆかりの地を巡礼した後,1154年ピサに戻った。
 ラニエリの生涯は当時のピサの隆盛を雄弁に物語る。11世紀以降,サラセン人を撃破,南イタリア,北アフリカ地域を略奪,続く十字軍遠征の開始はピサの勢力拡大に拍車をかけ,12世紀にはピサの商人たちが地中海を渡って活動するようになるが,ラニエリもまさにその一人だった。サラセン人征圧の栄光を刻み付ける大聖堂が完成したのは彼が生まれた頃であり,聖墳墓教会を模した洗礼堂の建設が始まったのは彼が巡礼から戻る前年である。また商人や職人出身者が,僧籍に入るのではなく,財を捨て隠遁生活を送ることで神に近づこうとするスタイルはこの時代から見られるもので,ラニエリはその先駆者であった。いまや地中海を自由に行き来できる時代,修道生活を送る僧侶の説教より,実際に聖地を巡った隠者の話が人々の心を惹き付けたのだろう。
 ピサでは6月に入ると,アルノ川沿いのすべての建物の窓に設置するための白い木枠と,ろうそくの入った透明のカップが配られる。1689年の正月,コジモ3世はピサの街中をろうそくの光で満たし聖ラニエリ礼拝堂の完成を祝ったが,これは6月16日の聖人の祝日前日に日を移し,幾度かの中断を経つつも,現代に引き継がれている。聖人没後850年の祭式は6月18日,ピサの人々の手によって聖人の棺が礼拝堂からこのアルノ川まで運ばれ,幕を閉じる。












「名曲」の周辺

上田 泰史


 昨年9月よりパリに移り住み19世紀ピアノ音楽の研究を続けている。ポーランドの若きヴィルトゥオーゾがこの大都市の石畳を踏んだのは今から丁度180年前に遡る。彼の見たパリの通りや街並みは,今では大きく姿を変えてしまったが,それでもかつて「ヌーヴェル・アテネ」と呼ばれた九区界隈を歩けば,当時流行のギリシア風の装飾をあしらったアパルトマンを往時の姿のままに見ることができる。中でもサン・ラザール通りから分岐するテブー通りのスクアール・ドルレアンは,新ギリシア様式の洗練された外観を持つイギリス式住宅として注目を集め,七月王政下,F. ショパン,G. サンド,A. デュマ(父)をはじめ一流の文化人が集う「ヌーヴェル・アテネ」の中核を形成していた。
 この一角に格式高い音楽サロンを開いていた人物にジョゼフ・ヅィメルマン(1785〜1853)がいる。シャルル・グノーの義理の父で,世紀前半のパリで最も著名な音楽院ピアノ科教授として多くの逸材を輩出した。月に二度,彼のサロンで催されるソワレには近隣の芸術家やパリ滞在中の名手たちの訪問が途絶えなかった。ショパン,リストが即興演奏し,A. de ミュッセ,Th. ゴーティエが新作の詩を披露する──そんな彼のサロンは1830年代から40代にかけて音楽ジャーナリズムの注目を集めた。このサロンの主役となったのは外国の音楽家ばかりではない。パリ音楽院から徒歩圏内にあるヅィメルマン邸では,彼の育てた「フランス派」の旗手たちがエトレンジェたちと鎬を削った。だが,今や「ヌーヴェル・アテネ」の才人たちの名を一般の音楽史書の中に見つけることは出来ない。
 高校生の頃,ショパンの親友で超人的な演奏能力と独創的な様式で知られるユダヤ系フランス人のピアニスト兼作曲家Ch. V. アルカン(1813〜1888)の作品に魅了され,既存の音楽史の枠組みの外側に曠然たる未開拓の沃野が開けていることを知った。私はやがて彼の師であるヅィメルマンとその弟子たちの存在を知り,パリ音楽院のピアノ教育に研究の照準を定めた。以来,幾度もパリを訪れ今日まで続く楽譜・資料収集が始まった。殆どが絶版となっている彼らの楽譜はパリの国立図書館の薄暗い書庫に眠っており,その殆どが現代を生きる人々の耳目に触れたことのないものばかりである。時折小口がまだ切られていない楽譜に出会うことすらある。19世紀に献本されて以来,請求した閲覧者は一人もいなかったのだ。古い作品カタログ,当時の作品評,献呈者
名から当たりを付けて見つけ出す楽譜に思わず感嘆の息を漏らすことも珍しくない。
 手つかずのまま残された未知の楽譜に触れる体験は,パリの通りや美術館で味わう興奮を掻き立てる。美術館で直に触れる絵画や彫刻,街の建築物は部分的であるにせよ,ある時代,ある空間を占めていたままの姿を見せている。それゆえか,人と共に残り続けたこれらの遺産は長い時間かけて醸成された生の重みをもって迫ってくる。「ヌーヴェル・アテネ」の住人だったA. シェフェールの描く貴婦人や芸術家の肖像,J.-P. ダンタンの奇想的でユーモラスな音楽家たちの風刺像,スクアール・ドルレアンのアパルトマンの壁に施された装飾──街や美術館でかつて生きられた時間の断片に立ち合うとき,それらが個人の創作物であると同時に,ある時代,文化的風土が生み出した作品であるという実感を抱かずにはいられない。硝子ケースに入った世紀の「名画」をじっくりと鑑賞するのも良いが,心を彼方の生活空間へと遥かに飛翔させてくれるのは,見落としがちな無名の作家やアルチザンの創作物であったりする。
 音楽図書館はこの点,私にとって美術館の様な場所だ。「名曲」の周辺には,まだ誰も訪れたことのない「秘密の展示室」が隠されている。検索カードを繰って見つけ出す請求記号が扉を開ける鍵となり,資料を手にした人だけがこの「展示室」をただ一人,心行くまで巡ることを許される。
 学術調査に伴うこの秘かな悦びを,私は沢山の人と分かち合いたい。私自身,実際のピアノの音でそれらの楽曲を聴いてみたいし,できれば大勢の人々と初めて聴く作品やその演奏について感想を交わしたい。いつも巨匠の「名画」ばかりが展示されている美術館が仮にあるとすれば,それはきっと何か物足りないだろう。「名曲」を繰り返し上演するという点で,コンサート・ホールは美術館以上に「展示物」の多様性を欠く。同じ楽譜を使用しても演奏者によって解釈に差異があるため単純に美術館とコンサート・ホールを比較することは出来ないが,新しい音楽との関わり方として,「名曲」の周囲に隠された前人未到の秘境が眼前に開ける感動を味わうような音楽体験が増えれば,新たな「音楽史」のヴィジョンが拓けるかもしれない。研究の対象として音楽作品と関わりながら,現代を生きる人々との交流を通してそれらの今日的な存在価値を自身の外側にも問い続けていきたい。












スポーツに見るイタリア中小都市の伝統

木ア 孝嘉


 2004年の夏,イタリア・ボローニャに留学中の僕はパレルモ空港で日本から来る家族を待っていた。空港のテレビではちょうどアテネオリンピックのバスケットボール男子準決勝が行われており,イタリア代表は試合を優勢に進めていた。テレビに群がる観客は,(恐らく大多数が日頃からバスケットを見るとは思えないが)とても興奮していた。まるで日本のワールドカップの際の熱狂のようであった。
 その少し前,初めてイタリアに住んだときに選んだ街はフィレンツェだった。イタリア語は「こんにちは」と「ありがとう」しか知らずに,ホームステイ先に着いて互いに拙い英語で会話したのを思い出す。生活に少し慣れたころ,初めて本場の「カルチョ」を見に行くことにした。しかし夏はオフシーズンなので本拠地では公式戦はない。すっかり日本でも有名になったピンクの新聞を手に情報を得て,チェゼーナでの練習試合が近そうだと訪れてみた。偶然にも留学先ボローニャの試合だったのだが,これは今年2月まで僕にとって唯一のユーベ戦勝利であった。それはさておき,チェゼーナはチェーザレ・ボルジアのお蔭ですでに名前を知っていたが,人口約10万人の中都市である。その街の規模に反してスタジアムは立派で,インテル移籍前の長友選手の本拠地でもあった。
 その後,ボローニャを起点に多くの街を訪れたが,イタリアは中小都市が比較的元気である。そこから興った世界的企業や成功者の存在からもわかるだろう。ざっと思いつくだけでもベネトン(トレヴィーゾ),フェッラーリ(モデナ),ディーゼル(ヴィチェンツァ),スローフード(ブラ),フェデリコ・テシオ:馬産(ノヴァラ)などが有名である。ボローニャにもドゥカーティがある。さらにワインの産地を思い浮かべると,当然ながら農村地帯ということになるが,そこでもアグリトゥリズムなどが盛んになっていることはよく知られる。
 こうした都市をサッカークラブの本拠地として考えると,今年のセリエAの20チームに関して,ローマ,ミラノ以下,実に17の都市にまで散らばっている。ただし,国内リーグ「カンピオナート」の勢力図に関しては,大都市,特に北部大都市(ミラノ,トリノ)が覇権を握り続けている。その背景には人気チームが有利なテレビ放映権分配のほか,フィアット,ベルルスコーニといった大企業,大実業家オーナーが持つ豊富な資金力が
ある。
 一方,バスケットボールにも目を向けてみよう。実はイタリアはバスケット強国で,過去にはトニ・クーコッチ,マヌ・ジノビリと言った有名選手がプレイしていたのだが,近年ついにNBAにもイタリア人選手を送り出している。2000年代に入り,「カンピオナート」で優勝経験があるのは,ボローニャの2チームとトレヴィーゾとシエナという中小都市を本拠とするチームである。これらはユーロリーグでも,近年やや苦戦気味とはいえ,かなりの実績を残している。ほかにも古豪チームとしてカントゥやヴァレーゼが挙げられる。とりわけカントゥはイタリア人にもさほど知られていない街であると思われるが,こうした街のラインアップはサッカーのそれとは明らかに一線を画するものである。
 このようにイタリアのバスケットボールは,資本規模の大きなサッカーとは異なり,伝統ある地方クラブチームが,今でも地元の資本グループの支援を受けて地位を保っているのである。もちろん一方では世界的企業の援助を受けたチームも存在する。ベネトン・トレヴィーゾ,アルマーニ・ジーンズ・ミラノなどである。だがこれらが必ずしも優位でない。この点において,クラブの財政とチーム力がほぼ一致するイタリアのサッカーとも異なるし,サッカー同様ソシオで成立するスペインのバルセロナやレアル・マドリード,またはイスラエルのテルアビブとも異なっている。そもそもイタリア以外の国では,バスケット単独のクラブではなく,サッカーその他のスポーツとの総合スポーツクラブとなっている。その結果,チーム力はソシオ数すなわち本拠地の街の規模に比例する。つまり,バスケットの強豪はサッカーの強豪と同じクラブチームであることが多い。ところがイタリアのバスケットは,現在のところ中小都市のチームも頑張っている。この現象は大スポンサーの存在だけでは説明できないのである。
 僕はその後帰国して大都市である東京で大学院に進学したが,修士論文のテーマとして選んだ天正遣欧使節記のパンフレットは,レッジョやパドヴァなど北部の中小都市においても数多く出版された。論文執筆中には各都市での出版背景として隣の都市への対抗意識にも言及したのであるが,今回改めて,ここで述べたイタリア中小都市の独立心・対抗心という伝統は中世都市国家の時代からであることを再認識した。
















地中海世界と植物17


ジャスミン/岩崎 えり奈




 今年に入ってから,地中海世界の植物と聞いて思い浮かぶのは,チュニジアのジャスミンであろう。チュニジアでは,昨年12月17日の若者の焼身自殺をきっかけに,若者の抗議行動がチュニジア中西部のシディブージドではじまり,近隣の小都市や南のガベスからチュニスへと拡大した。周知のとおり,チュニジアの政権崩壊を招き,さらにエジプトをはじめとするアラブ諸国にも波及したこの世界史的な出来事は,チュニジアの国花にちなんで,「ジャスミン革命」と呼ばれる。
 ジャスミンは,オリーブと同じく,モクセイ科の半つる性の低木の植物である。しかし,ジャスミンと一口にいっても,実に多くの種類がある。その数は,世界で200種類以上に上る。その代表的な種としては,次のものがある。花に精油が含まれ,香料原料にされるソケイ (素馨)(学名Jasminum officinale,英語名Common jasmine, Poet’s jasmine)(表紙右下),花を乾燥させて茶に混ぜたり,香りを移したりしてつくるジャスミン茶の材料となるマツリカ(茉莉花)(学名Jasminum sambac, 英語名Arabian jasmine)(表紙左下),フランス香水の原料に使われるオオバナソケイ(大花素馨)(学名Jasminum grandiflorum, 英語名Spanish jasmine, Catalonian jasmine),鑑賞用に日本などで植えられるオウバイ(黄梅)(学名Jasminum nudiflorum),キソケイ (黄素馨)(学名Jasminum odoratissimum)などである。
 いずれの種も,今日,世界中で栽培されているが,中国大陸北部原産のオウバイやアフリカ原産のキソケイをのぞき,原産はイランなどの西アジアだと言われる。栽培の歴史は古く,古代エジプトで栽培されていたとの記
録がある。また,中世のイランやイベリア半島では,ジャスミンは庭園に欠かせない花の一つであったとされる。
 ヨーロッパには,イベリア半島を経由して,ジャスミンは伝わった。そして,16世紀には,フランスのグラース地方でジャスミンの大規模栽培と香料抽出がはじめられ,ジャスミンオイルは香水の製造に欠かせない材料になった。
 一方,中国では,ジャスミンは唐の7世紀頃に伝わり,サンスクリット語起源の茉莉花の名前で広まった。東南アジアでは,17世紀頃にフィリピンなどへ伝わったとされる。サンパギータ(マツリカのタガログ語)は,1937年以来,フィリピンの国花である。
 ジャスミンは,チュニジアの国民的歌手ヘーディー・ジュウィーニーが「夜,ジャスミンの下で」と歌ったように,春から夏にかけて,夜に花を咲かせ,香る。そして,白く,可憐な花であることから,女性に対してよく用いられることばである。たとえば,アラビア語のヤスミーンは女性の名前に使われる。また,朝の挨拶には,sabah al-full wal yasminという言い方がある。Fullはマツリカ,yasminはソケイのことである。
 ジャスミンは,男性のお洒落の小道具にもなる。チュニジアでは,夏になると,ジャスミンの蕾をブーケ状にしたマシュムーム(表紙上真中)を,ジャスミン売りが街や海辺で売り歩く。このマシュムームを耳にかけた男性たちが茶店で談笑する光景は,夏の風物詩である。今年の夏は,「革命」にちなんで,こうした光景がより多くみられるに違いない。