学会からのお知らせ

*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:多文化都市の自画像──20世紀初頭トリエステのイタリア語文学
発表者:山ア 彩氏
日 時:2月19日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学赤レンガ1号館2階右部屋(音楽学部敷地内 最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」http://www.geidai.ac.jp/acc
ess/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 ハプスブルク帝国が18世紀から自由港として整備したトリエステには,各地から人々が流れ込み,19世紀には多言語・多文化が共存する一大商業都市が形成された。その中で最大派閥をなしていたのはイタリア語を話すグループである。発表では,ズヴェーヴォ,サーバ,ズラタペルといったイタリア語を母語とするトリエステの作家を取り上げ,彼らが多文化のるつぼトリエステという町独自の文学を創造しようとした試みをたどる。

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第16回「地中海学会ヘレンド賞」(第15回受賞者:黒田泰介氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第35回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2011年1月11日(火)〜2月10日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第35回地中海学会大会
 第35回地中海学会大会を2011年6月18日,19日(土,日)の二日間,日本女子大学において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月10日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には振込用紙を334号(11月)に同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2011年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報334号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月23日(水)です。ご協力をお願いいたします。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
 すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
















地中海学会大会 シンポジウム要旨

フロンティア
──周縁か中心か──

パネリスト:櫻井康人/芳賀満/柳原敏昭/司会兼任:高山博


 日本語のフロンティアという言葉は,英語のfrontierをそのままカタカナで表記して日本語になったものだが,「額」や「前面」を意味するフランス語のfrontière,ラテン語のfronsに由来している。フランス語のfrontière(初出は13〜14世紀)は当初,軍事的な文脈のなかで「戦闘の最前線」を意味するか,建築用語として建物の「正面」を指すかのいずれかであったが,14世末に地理的意味合いで使われ始める。英語のfrontierは,15世紀に軍事用語として使われ,その後,境界の意味でも用いられたが,近年になって,人的集団や政治的単位のあいだの境界を意味する一方で,入植地域や入植地帯を意味するようになった。後者の意味は,アメリカの歴史家Frederick Jackson Turner(1861-1932)の影響を受けたものである。
 シンポジウムでは,最初に司会者が,上述のようなフロンティアという言葉の歴史とともに,西洋中世のフロンティアに関する研究の歴史を紹介し,フロンティアの意味について研究者間で合意ができていないことを指摘した。単に境界を意味すると考える者,外に広がりつつある地域を指していると考える者,複数の地域が結びつく接触地帯と考える者,さらに,戦争を前提とした組織など,ある種固有の特徴をもち,交渉や仲介などのある一定のメカニズムをもつフロンティア社会を想定する者たちもいるという。また,フロンティア概念がもつ主観的要素,つまり,一人の人間を中心とした世界認識と,自分たちの世界の「端」の概念を相対化したときに出てくるより主観性の薄れた概念の存在を指摘し,歴史学におけるフロンティア概念の扱い方の変化は,主観的な概念からより客観的な概念にその重心を移しているように見えるという見解を提示した。
 芳賀満氏(「ユーラシア大陸における地中海文明のフロンティアの諸相──主に造形芸術の観点から」)は,文化的・歴史的フロンティアを「それぞれ中心を有する二つの異質のものが接触し,界面効果をおこしている周縁」と定義し,「個々の指標概念を中心とした周縁=フロンティアは偏在する」と考える。同氏は,古代ギリシア・ローマ
の地中海文明のフロンティアを,政治支配のフロンティア,宗教のフロンティア,図像のフロンティアに分け,それぞれの具体例をユーラシア大陸の中において検討し,その広大な拡がりは古代ギリシア・ローマ地中海文明の伝播力の強さとアジアの吸引力の強さの結果だと主張している。
 櫻井康人氏(「“越境する人々”──フランク人とムスリムとの結婚」)は,中世のヨーロッパ世界,とりわけ,ローマを「中心」として,十字軍国家をその「周縁」に位置するものと設定し,「周縁」の実態を探るべく,キリスト教徒とムスリムとの間の結婚という「越境」に焦点を当てる。同氏によれば,結婚に関連して生じるキリスト教徒のイスラム教への改宗は,エルサレムとその周辺域における,「キリスト教世界」から越境していく「周縁」の民の「堕落」という具合にも理解されるが,そのような見方は「キリスト教世界」の「中心」であるローマからのレッテル貼りによって生じたものにすぎず,「周縁」の人々の実態そのものは12世紀から大きく変わることはなかったという。そして,「フロンティア」を,絶えず「自己」と「他者」を認識する,すなわち,アイデンティティーを形成する空間であったと考える。
 柳原敏昭氏(「中世日本国周縁部の正統観念」)は,室町時代の東北と南九州とでほぼ同時期に成立した二つの歴史叙述『奥州余目記録』と『山田聖栄自記』を比較し,国家周縁部に対して「中央」由来の勢力が支配を展開する場合に,それを正当化する論理はどのようなものであったかを検討している。同氏は,外部の勢力がある地域で支配を展開する場合,正統観念は,国家的支配者からの任命・委任を受けているという論理(国家の論理)と地域社会の支配者の系譜に連なっているという論理(地域の論理)の二つから構成されているという結論を得たが,こうした正統観念は外部勢力が乗り込んできた地域では普遍的に見られる現象ではないかと考える。それが,かたや藤原氏,かたや阿多氏という境界権力ともいうべき強固な在来勢力が存在し,鎌倉幕府の成立に伴って領主交代が起こった東北と南九州とで,とりわけ明瞭に観察されることになったのだという。
 四氏の報告の後,「周縁」,「辺境」としてのフロンティアの特性・個性について,「境界地帯」としてのフロンティアの特性・個性について,「フロンティア」概念の有用性についての議論が活発になされた。
(高山博記)















秋期連続講演会「異文化交流の地中海」講演要旨

イタリアとフランドル,西欧と日本
──美術史研究から異文化接触のあり方を見る──

小佐野 重利


 航空機どうしのニアミスのように「接触」という言葉は,「衝突の危機一髪」を連想させる。異文化接触も最初は異文化間での衝突あるいは相互無理解,ひいては互いに自国の文化を自負するあまり,相手の文化を貶すといった優劣比較の感情を醸成することもある。以下ふたつのケースについて,異なる芸術文化の接触を概観してみたい。第1部では,「イタリアとフランドル」,すなわちアルプス山脈の南と北とのあいだの芸術文化の接触について手持ちの講義ノートから,第2部では西欧と日本の芸術文化の接触について,18世紀末からの洋風表現の導入や,明治維新後の制度としての西洋美術およびその教授法の導入と日本における美術史学の誕生との関係を念頭に入れた比較美術史的な試みの一端を,紹介する。
 初期ネーデルラント絵画の巨星ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンの絵画が,いかに同時代のイタリアで受容されたかを知る上で欠かせない資料を残したのが,イタリア人著述家たちであることは特筆に値する。イタリアでは13世紀末から芸術家と注文主とのあいだで交わされた契約文書が連綿と残されている。これに対し,アルプス以北では個々の芸術家の伝記的情報は豊富にあるものの,具体的な契約文書が残っていない。ブルゴーニュ公国の宮廷画家ヤン,ブリュージュの「市の画家」ロヒールについても契約文書は皆無に等しい状況であるとの近年の報告がある。ヤンやロヒールの絵画に対する驚嘆の声,手放しの評価の証言がほかでもなくイタリアで始まっていることは,こうした事実とも無関係であるまい。
 バルトロメウス・ファキウスは,『名士伝 De viris illustribus』(1455-56年頃)でヤンとロヒールは師弟の間柄であったといい,師ヤンは「光の画家」,透徹した写実の名手であり,弟子ロヒールは「涙の画家」,深い情念の表現に長けた画家であったと賛嘆を惜しまない。実際,当時からイタリアにあった二人の絵画から,フランドル絵画特有の風景構図あるいはモティーフがフィレンツェの画家たちの作品に取り入れられた。ジェノヴァ出身でブリュージュの市長アンセルモ・アドルノが所有していたヤンの2枚の《聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ》の峻立した奇岩を含む表現が,1470年頃からフィレンツェの画家たち(ボッティチェッリなど)の絵画にあらわれる。また,ロヒールの《墓の前でのキリストへの哀悼》(ウフィツィ美術館蔵)の影響はギル
ランダイオ周辺で顕著である。1460年にアレッサンドラ・マチンギ・ストロッツィは,ブリュージュの息子フィリッポに宛てて,息子が販売用に送ってきたフランドル絵画60点のうち,「《(キリストの)聖顔》は,非常に敬虔で美しいので手許に取っておきましょう」と書き送った。フィレンツェでは,フランドルの《聖顔》が地元の画家によって模写され,流布した。
 1506年にナポリで初版が出たフィレンツェ人フランチェスコ・ランチロッティの三行詩形式『絵画論』には,「近くの田園や遠景を描くのには,イタリア画家たちよりもフランドル画家たちが私にやってくれたような,ある程度の素質と描写力が必要である」とある。この評価は,1470年から1510/20年の間に制作されたフィレンツェ絵画32点に,フランドルの5作品が風景モティーフの点で及ぼした影響と呼応する。然るに,ミケランジェロは,イタリア絵画を念頭に置きながら,ぼろ切れ,壁,野原の緑,木陰や,小川や橋,あちらこちらに散在する多くの人物からなるフランドルの風景画は,「ある人々の眼にはよいと映るでしょうが,実際には理論も技術もなく,均斉や比例もなく,題材の取捨選択にも自在さにも欠け,結局のところ内容にも活気にも欠けています」と批評する。だが,1507年のラファエッロの《死せるキリストの墓への運搬》(ボルゲーゼ美術館蔵)では,古代石棺の浮彫「死せるメレアグロスの運搬」などの影響ばかりか,フランドル的な風景モティーフに加え,マグダラのマリアには,ロヒール絵画の「頬をつたう涙」が描かれている。アビ・ヴァールブルクの慧眼は,「フィレンツェの人々はフランドルからもたらされた傑作を絵画による世界征服に向け平和な戦場で共に戦う戦友のように思った」(「フランドル美術とフィレンツェの初期ルネサンス」草稿より),という指摘を残した。
 第2部では,西欧と日本における影をなぞった肖像画の比較にはじまり,1908年の岡倉天心の談話と,特に岩村透の「モレリの古画鑑定法」(『光風』第4號,1908年)にはじまる日本におけるジョヴァンニ・モレッリの古画鑑定法の紹介と応用例,最後に,西欧と日本の絵画に見られる換喩法表現として, 日本美術の「暗示的な表現」の好箇の例,《誰が袖屏風》(サントリー美術館蔵)と,ファン・ゴッホの「画家自身の人生の一部」たる絵画《古靴》(1886年,フィンセント・ファン・ゴッホ美術館蔵)とを比較する。















秋期連続講演会「異文化交流の地中海」講演要旨

近東を旅するフランス人
──19世紀のオリエント旅行記から──

畑 浩一郎


 ラテン語で「太陽の昇る方向」を意味する《oriens》という言葉から派生したオリエントは,地理的な意味合いと同時に文化的なコノテーションをも併せ持つ。西洋から見て東方に位置する地域が指し示されるのと同時に,キリスト教文化圏に対するイスラム教文化圏もが含意されるのである。19世紀前半のフランスではこうした地域──トルコ,エジプト,レバノン,パレスチナなど──に対するブームが湧き起こった。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征を契機に地中海沿岸地域への関心が急速に高まり,多くの人々が『千一夜物語』の世界を夢見てこの地へと旅立ったのである。文学者も例外ではなく,時代を代表する作家たちがこの地を訪れ,その印象をさまざまに旅行記に書き残している。彼らにとって言語や宗教,生活習慣などが異なる現地の人々の姿は一体どのように映ったのだろうか。
 この問題を考えるためには,1800年頃を境にしてオリエントを訪れる旅行者の質に明らかな変化が見られることを確認しておく必要がある。それまでこの地を訪れていたのは学者や医者,外交官など一部の限られた専門家たちであった。彼らはしばしば現地の言葉を操りながら,じっくりと時間をかけて土地を観察し,その成果をできるかぎり正確に記録していく傾向を持っていた。しかし19世紀に入ると新たな種の旅行者が登場してくる。彼らは現地語の知識をほとんど持たず,したがって現地人と交流することも望めず,足早に各地の見所を見て回るだけである。言うなれば彼らは近代的な「ツーリスト」を予告しているのである。こうした時代の変遷は,18世紀の哲学者ヴォルネーと,19世紀の文学者シャトーブリアンが残した旅行記のテクストを比較してみることによって明らかとなる。
 新しい世代の旅行者は,それではどのように異文明であるオリエントと接するのであろうか。この点で,彼らが初めて目的地に到着する瞬間である「上陸」の場面を考察することは興味深い。実際多くのテクストがこの瞬間について同じような情景を描き出しており,それらはいずれも旅行者がさらされる最初の衝撃を伝えている。それはまるで「海戦」のようである。近代西洋文明の象徴であるはずの旅行者の乗った蒸気船は瞬く間に現地人の乗る無数の小舟に取り巻かれ,甲板にはポーターや通訳,ガイドたちが勝手に上ってきて,乗客たちの奪い合いを始める。旅行者は呆然としたままなすすべもなく彼
らの手に落ちるほかないのである。オリエントの人々が旅行者に見せる時として粗暴な態度は,彼らが異世界に到着したことを身をもって感じさせることになる。
 しかし旅行者たちも,いつまでもされるがままになっているわけではない。オリエント上陸後,彼らはある一定の手続きを踏むことによって,この地が容赦なく突きつけてくる疎外感から身を守ろうとする。その手続きとは次の三つである。すなわち「フランク人街での投宿」「フランス領事訪問」「地元の権力者(パシャ・アガ)の訪問」である。これらの行為はいずれも,旅行者に祖国フランスの威光を付与する効果を持っている。旅行者はその威光でもって現地の人々の目をくらませ,個人としてはあまりに脆弱な自らの身を守ろうとするのである。
 彼らはつまり意図的に自らのフランス人としての出自を誇示しようとするわけだが,その一方であえて自分を現地人,オリエント人と見せかけようとする旅行者も現れる。つまり帽子をぬいでターバンをかぶり,イスラム教徒になりすまそうという旅行者がいるのである。彼らの振る舞いはこの時代のオリエント旅行記のひとつの特徴である「変装」のテーマを構成していくことになる。
 19世紀前半に中近東諸国を訪れる西洋人は,しばしば好んで旅行中に現地人の服装に身を包んでいる。その意義は一様ではなく,少なくともこの時代に三つの段階を経て変遷している。当初それが行われたのは,安全面の配慮からであった。異教徒の目印となる西洋の衣装は否応なく人目を引き,旅行者はしばしば現地人に身をやつすことによって身を守ったのである。しかしオリエントでの西洋人の安全は次第に保証され,それにともない「変装」もまた新たな目的を帯びていく。次に現れるのは,立入禁止の場へ潜入するための手段としてのものである。礼拝中のモスク,奴隷市といった現地の人にしか立ち入ることの許されない施設に,一部の旅行者たちはオリエント人に扮することで潜り込もうとするのである。最後にオリエントの衣装は,ある種の芸術家たちにとって,この地が体現する詩情の源泉となる。西洋社会の逼塞を象徴するようなヨーロッパの黒服の代わりに,彼らは近東のきらびやかな服をまとうことで,オリエントが持つ生き生きとした生命の息吹に直接触れようとする。旅行の高揚状態は確かに彼らにある種の幻覚を与えてくれるのである。














研究会要旨

海辺の有島兄弟
──湘南・地中海──

末永 航/赤松 加寿江(見学解説)
7月24日/鎌倉 石川邸─旧里見ク邸


 鎌倉・旧里見ク邸に場所をかえての研究会が,猛暑の中,扇風機2台をたよりに行われた。風の吹き抜ける洋館とはいえ,さすがに暑い。40名近くの方々に足をお運びいただいた中,熱中症になる方がいては大変と,水分補給をしていただきながらの研究会となった。
 当日は特別ゲストとして,里見クの四男,山内静夫氏にご登場いただいた。山内氏は現在,鎌倉文学館の館長,現役時代は小津映画の敏腕プロデューサーとして名を馳せた鎌倉を語る上で欠かせない人物である。無理を言ってお越し頂いたが,父・クの思い出と古き良き鎌倉,魅力たっぷりに語られる山内氏は憧れの存在。応援のお言葉には,建物がつなぐ出会いに感謝するばかりだ。
 建築案内としては,里見クの住いとしての魅力を紹介させていただいた。鎌倉文士として知られる里見クだけあって,彼は実に鎌倉を愛した。鎌倉市内だけで10回近く引越をしたせいで「旧里見ク邸」は複数ある。唯一現存する「西御門の家」は,鎌倉で三回目の家だ。昭和元年,震災でも破壊しなかったフランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルを見知って洋館にしたといわれ,水平ラインを強調した陸屋根風の玄関ポーチと,大谷石がライト風と言われる特徴だ。
 一方,昭和4年に増築された高床式の茅葺和室は,数寄屋風。三畳と四畳半のふた間の廻りを畳敷の広縁が回り,窓には大ガラスがL字に回る。中2階の高さから,鎌倉の谷戸風景をパノラミックに魅せる構図だ。
 暑さの中,遠距離をお越し頂いた皆様に,建物を満喫いただけたかどうかが心配である。お越し頂けなかった皆様にも,機会があれば是非お運びいただければと思う。
例外だらけの研究会だったが,地中海学会らしく,それもまたよしとされることを願ってやまない。
(赤松加寿江)
 里見と二人の兄,有島武郎と生馬,著名な有島家の三兄弟は,皆東京の学習院に学んだが,一方でこの海辺の横浜・湘南地方と縁が深く,ここで西洋の文化に触れてそれぞれの作品を生み出していった人たちでもあった。
 武郎は父の任地だった横浜のアメリカ人宣教師の学校でプロテスタントのキリスト教にふれ,札幌農学校時代に入信してアメリカのキリスト教系大学に留学,帰国後やがて棄教する。
 生馬は幼い時期を里見と共に鎌倉で過ごし,東京外国語学校のイタリア語科を卒業,絵画を学ぶためにイタリ
ア,後にフランスに留学した。
 生馬のイタリア滞在中,アメリカ留学を終えた武郎がイタリアに寄り,二人はイタリア・フランスを旅行する。この時の日記をみると,武郎がワインの味を覚え,アメリカの清教徒とは違う文化に馴染み始めたことがわかる。ここで地中海,あるいはヨーロッパの文化に接したことが,後の棄教にもつながる武郎の成長の,ひとつのきっかけになったようにも思える。
 生馬は専門の絵画では,当時のイタリアに目指すものを見つけることができず,フランスに移ってセザンヌに心酔,日本で最初にセザンヌを紹介した人物として知られるようになる。しかし『白樺』などに発表した小説にはイタリアに取材したものが多く,帰国後もイタリア文学の翻訳をしたり,イタリア関係の団体で役員を務めるなど,イタリアとの関わりが途切れることはなかった。
 生馬は亡くなるまでの長い期間,鎌倉稲村ヶ崎にあった,もともとイタリア人が建てた木造の異人館風の家に住んだが,眼下の海のさらに向こうの地中海,好きだったナポリのことなど思いながら毎日を送っていたのかもしれない。「松の屋敷」と呼ばれた家はもう鎌倉にはないが,長野市の信州新町に移築されて有島生馬記念館として保存されている。
 生馬のひとり娘暁子はフランス系修道会の雙葉女学校を卒業し,上智大学に勤めるなど日本のカトリックの世界で活躍したが,生馬自身も死去の直前カトリックの洗礼を受け,葬儀は鎌倉の教会で営まれた。
 終生着物を愛用し,花柳界の女性と結婚あるいは深く付き合った里見クは,兄たちと違って中国以外の外国には行かなかったし,和風好みの印象が強い。しかし英語で海外文学に親しみ,モダンな「洋館」である「西御門の家」を自ら設計するなど,兄たちと同じく「ハイカラ」な一面ももっていた。生馬のイタリア物の代表作「蝙蝠の如く」の主人公,増井清次郎の晩年を描いた「T.B.V.」(1937年)という作品もある。
 兄弟のうちで武郎はアメリカ=プロテスタント,生馬はイタリア・フランス=カトリックという,近代日本が大きな影響を受けたふたつの文化に親しんだことになるが,ずっと日本にいた里見を含めて,互いに敬意を抱き続けた三兄弟はそれぞれに影響を与えあっていた。生馬を通して,三人の間には地中海の風がいくぶんか吹いていたことも確かなように思われる。(末永航)















シリア・ヨルダン旅行記

倉橋 良伸


 3月7日から14日にかけて,シリアとヨルダンを旅行した。ツアーへの参加であって,研究者の端くれとしては恥ずかしい限りなのであるが,会員諸氏の何らかのご参考になればと思い,あえて筆をとった次第である。一応,中東情勢を考慮して個人旅行を避けたわけだが,結論としては,いささか取り越し苦労であった。
 シリアへの直行便はなく,しかも,この時点では羽田空港から関西国際空港を経由しなければならず,ドバイで乗り継ぎ首都ダマスカスに到着した(4月から成田空港からドバイへの直行便が就航した)。日本からの直線距離で考えると,かなり長旅である(合計約20時間)。
 二日目朝より早速ダマスカス観光である。旧市街を歩いた。特に関心のない方々にとっては,ただ狭い路地がくねくねと続く,ほこりっぽい町に過ぎなかったようだが,中東史に触れた者なら,世界最古の都市の一つというだけで想像力を刺激される。とりわけ,スークを抜けた所で登場するウマイヤド・モスクはやはり圧巻である。ローマ時代の洗礼者ヨハネ教会を改築したものだが,そのことは内部の構造を見ないとわからないだろう。
 午後は,バスでパルミラに向けて移動する。シリア砂漠の北端を東に移動するのであるが,乾燥化が進行していく有様が見て取れる。砂・砂漠ではなく礫・砂漠とのこと。確かに石がゴロゴロしており,しばらくは草木も生えていて,放牧されている家畜の姿も目にした。
 3時間以上も走行すると,パルミラ遺跡が見えてきた。遺跡の規模の大きさにも驚かされたが,遺跡に近接するオアシスの広さ(森林と呼べるほどの緑地になっている)に目を奪われた。こうして直接目にすると,ローマ時代にオアシス都市として繁栄したことが納得できる。
 翌三日目は数時間かけてパルミラ遺跡をまわった。それでもまわりきれず,博物館見学の後,ホテルに戻るスケジュールだったが,まだ時間が早かったので一人で遺跡に戻った(遺跡そのものにはゲートがないので出入りは自由)。未入場のローマ劇場を目指す。ところが,時間が遅かったために,係員に入場を断られてしまう。仕方なく帰ろうとすると,呼び止められ入るよう手招きをされた。特別サービスらしい(無料)。急いで入場して,駆け足で内部を見て回ることができたのは幸運だった。
 次に来る時は,さらに足を伸ばしてドゥラ・エウロポスに行きたいものだが,交通事情の悪さに加えイラクと
の国境に近いので,おいそれとは行けないだろう。
 四日目の午前中をクラック・デ・シュバリエ(十字軍「騎士の城」)への長距離移動に費やす。写真でしか見たことがなかったが,城は予想よりも小さかった。あれでよくもイスラーム軍の猛攻に長年耐えたものである。
 ここまで来たら,十字軍つながりでアレッポにも行きたいところだが,次回の楽しみにとっておこう。
 午後には一気にシリア南部に移動して,ボスラを目指す。ローマ時代のボストラである。ここでは,五日目にローマ劇場しか寄らなかった。本来は保存状態の良い遺跡があるはずだった。シャハバ(古代のフィリッポポリス=皇帝フィリップス・アラプスの出身地)にも寄らない。もう一度来なければと,いよいよ決意する。
 午後は国境を越えてヨルダンに入る。大した検査もないわりには結構待たされる。物々しい警戒はなかった。
 ジェラシュ(ゲラサ)に到着する。さすがにデカポリスの一つだけあって広大な面積を有し,神殿なども巨大だ。ここでは,ローマ時代の戦車競技場を利用して,戦車競技劇が開催されるようだが,当日はローマ兵士の行進(かなり本格的)を「覗き見」することができた。
 ペトラまで再び長距離移動する(今回最長の400km)。ここまで南下すると緯度はカイロと変わらない。
 六日目のペトラに関しては,テレビなどで頻繁に紹介されるので多言を要さないだろう。ただし,ペトラの見所は,エル・ハズネ(『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でも登場)だけではない。その北側に広がるローマ遺跡も必見である。劇場や柱廊通りも揃っている。
 七日目朝から,死海での浮遊を楽しむ。いかにも観光旅行だが,この体験は貴重である。いくら頭で知っていても,自分で体験してみないとわからないものだ。
 モーセゆかりのネボ山に登る。紙幅の余裕がないが,イスラームとユダヤ教・キリスト教との結びつきを実感できる印象的な場所である。聖ジョージ教会を訪れて床面を飾るパレスチナの古地図(モザイク)を見る。
 今度は,アンマンから再びドバイ経由で帰国の途につく。ドバイでの待ち時間がなんと6時間だった。
 駆け足でご紹介したが,ツアーに参加するのも良いものだと素直に感じた。時間とお金に余裕のない人間にとっては好都合と言える。両国ともに治安は良く,米ドルがあれば観光地を巡るだけなら現地通貨も必要ない。











地中海世界と植物13


ナツメヤシの木の下で/久米 順子




 ナツメヤシPhoenix dactyliferaは,西アジアから北アフリカで約6000年もの昔より栽培されてきた。果実が重要な食料となるばかりか,幹,樹液,葉,種子に至るまで捨てるところが皆無と言われるほど人間にとって有用である。また砂漠地帯の常緑樹として,強い日差しの中で木陰を作り,憩いの場ともなってきた。なお,日本では慣習的に棕櫚と訳されることも多い。これは明治期に知られていたヤシ科の植物が棕櫚であったためらしいが,その学名は和棕櫚がTrachycarpus excelsus(ないしT. fortunei),唐棕櫚がT. wagnerianusであり,厳密に言えば同じヤシ科といえどもナツメヤシとは属が異なる。
 ナツメヤシは,まっすぐ上に伸びた幹と豊かに茂る葉から,上昇や新生を人々に想起させてきた。葉が落ちず,枯死するまで実をつけ続けるところから,古来より「生命の樹」とみなされ,その学名に明らかなようにフェニックスとも結び付けられた。ナツメヤシの葉はギリシア神話ではニケの持物とされ,そこからキリスト教においては死に対する勝利のシンボルとして,殉教者の持物となった。キリストの受難と死をこえての復活を先取りするものとして,今でも「枝の主日」には葉が各家庭のベランダなどに飾られる。イスラームにおいても,神の比類なき力や恩寵を象徴する一種の聖木として,クルアーンに頻出する。
 そんなナツメヤシを建築の中心モティーフとした例が,スペイン北部,ソリア県の荒涼とした大地に残っている。サン・バウデリオ・デ・ベルランガという小さな修道院聖堂である。足を一歩踏み入れると,中央の一本の柱が身廊部全体を支えているのが目に入る。上から四方八方に伸びていくリブは,まさしくナツメヤシの葉を
思わせる。柱の最上部には,寄せ集められたリブに囲まれるように小さく膨らんだ空間が設けられている。聖遺物や写本といった修道院の宝物が設置されていたのではないかとも推測されるが,詳細は分からない。
 正方形に近い身廊部の奥には,それより小さな矩形の祭室部がある。身廊の西南部は洞窟と接続されている。おそらく隠修聖人の住処が発展して修道院となったのだろう。最盛期を迎えたロマネスク時代には,祭室・身廊すべてに壁画が描かれたが,残念ながらプラド美術館,ニューヨークのクロイスターズ,ボストン美術館,シンシナティ美術館などに散逸しており,現地には剥がされた痕跡がうっすら残るのみである。
 この建築は,リブの扱いや身廊西部のトリビューンを支える列柱空間など随所にアル・アンダルス各地のメスキータ(モスク)を想起させる要素を持つ。聖堂の建造年代とされる11世紀には,このあたりはレコンキスタの境界としてキリスト教世界とイスラーム世界とが交錯した地域だった。そのため一般的にベルランガの建設には南部出身のモサラベ(イスラーム支配下のキリスト教徒)の関与が考えられている。
 この聖堂のすぐ脇には現在でも小さな湧き水が流れている。実際,17世紀頃までは聖堂の周囲に人が住み,修道院として機能していたようである。しかし辺り一帯は見渡す限り,まさにアントニオ・マチャードが詠んだカスティーリャの荒野であり,ナツメヤシなど生えるべくもない。地中海沿岸からやって来たモサラベたちは,そんな場所に石を積み上げて,天と地をつなぐようにまっすぐに聳え立つナツメヤシを作り,その木陰に集って神への祈りを捧げていたのである。