学会からのお知らせ

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:15世紀ヴェネツィアの地図制作と美術
──《フラ・マウロの世界図》〈地上の楽園〉にみる
発表者:佐々木 千佳氏
日 時:12月11日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学赤レンガ1号館2階右部屋
  (音楽学部敷地内 最寄り駅「上野」「鶯
谷」「根津」http://www.geidai.ac.jp/access/
ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 15世紀半ば,航海技術が飛躍的に進歩したヴェネツィアでは正確な測量に基づく地図が多数制作され,プトレマイオスの地図に則る合理的世界像が追求されていた。しかし,そこにはなお中世的世界観も色濃く残っていた。同地の修道院で作られた〈楽園〉を伴う世界図は,科学的合理性と宗教的世界観とが相克する時代の精神を如実に示している。本図の描写と制作経緯を手がかりに,土地(都市)を表象する美術と思想の関係を探ってみたい。

*シンポジウム「スペイン:地中海の鏡」

 スペイン・ラテンアメリカ美術史研究会15周年記念シンポジウム(本学会共催)が標記のテーマで開催されます。

日 時:11月27日(土)13:30〜17:30
会 場:セルバンテス文化センター東京
    地下1階 オーディトリアム
    (東京都千代田区六番町2-9
     電話03-5210-1800
     最寄り駅:「四谷」「市ヶ谷」)
参加費:無料
プログラム
 挨 拶:大 保二郎氏(司会)
 基調講演「スペイン:ヨーロッパとアフリカをつなぐもの」      樺山 紘一氏
 報告1.「アルハンブラ宮殿とイスラム世界」
鳥居 徳敏氏
 報告2.「モンセラの黒い聖母」  安發 和彰氏
 報告3.「エキゾティック/グロテスク:新大陸植民地に移植された地中海古代の記憶」 岡田 裕成氏
 報告4.「地中会の光の下で:ピカソ,ミロ,ダリ」岡村 多佳夫氏
 ディスカッション

*新名簿作製

 事務局ではこの秋,新名簿作製の準備を行ないます(最新版は2007年11月2日現在。新名簿では掲載項目に変更がある場合があります)。データは現在学会に登録されているものを使用します。
 下記の項目に訂正のある方は,10月29日(金)までに事務局へメール(coll.med.komai@nifty.com)あるいはファックス(03-3401-4832)にてお知らせ下さい。
  氏 名 郵便番号/住 所/自宅電話番号
      所 属/所属電話番号
      専門(あるいは関心)分野

*常任委員会

・第5回常任委員会
日 時:6月19日(土)
会 場:東北大学川内キャンパス
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/機関別認証評価専門委員に関して/研究会に関して 他
審議事項:2010年度予算修正に関して/第34回大会役割分担に関して/第35回大会会場に関して/名簿検討委員会に関して/学生会員の見直しに関して 他











地中海学会大会 記念講演要旨

古代地中海世界のローマ人
──社会史的考察──

松本 宣郎


 イタリア半島の一小邑から出発したローマは,紀元前2世紀にスペイン,アフリカ北部,バルカン半島を支配下に収め,多くの民族,都市,小王国を従えた。その支配体制は依然として都市国家的であり,元老院を頂点とする貴族政であったが,「ローマ帝国」の呼称はこの時代から用いられ始める。
 このローマ帝国の生命線が地中海であった。陸にローマ道は張りめぐらされたが,それは主として軍隊の道だった。物資と人,文化の移動にとって安全快適なツールを提供したのが,ローマ人にとっての「我らの海」であった。社会の基本生活は「都市」であった。地中海の岸辺に近く,城壁に囲まれ,丘の麓に会議場,市場,劇場などのタウン,と周辺の農地牧草地が,ローマ帝国都市の必須要件と言えた。
 ローマ市は,アウグストゥスの元首就任以後,皇帝の所在地となり,人口100万を超えるメガロポリスとなった。その他の都市,それは6千万人口の帝国に千以上あったと考えられているが,アレクサンドリア,アンティオキアなど,数十万規模の少数都市をのぞき,せいぜい2,3万人以下のものが大部分であった。しかしいかに小なりとはいえ,どの都市も,ローマを理想として,インフラ設備をそれに似せさせようと努力した。
 劇場を例にとると,フランスのオランジュ,スペインのメリダ,リビアのサブラタの劇場がほぼそっくりの構造であることがいずれも遺跡として見事に実証される。もちろん都市の規模が小さければ劇場も小さい。オスティア(イタリア)もポンペイも,優美だが,小劇場の感は否めない。劇場の座席数からその都市の人口が推測される,と言われる。ただ,座席数を何倍すれば都市人口になるか,識者の意見はまちまちだ。エフェソの壮大な劇場は1万席にはなろう。ポンペイは千席くらいで人口2万,ならばエフェソは人口20万ということになるが,大きすぎる。
 城壁を見て回ると,神殿などにくらべて遺跡の残存度はよくないが,ほとんどの都市に存在したことがわかる。いちばん頑丈にのこっているのがローマ市のアウレリアヌス帝建設の紀元3世紀末のそれである。世界遺産とあって撤去されず,未だに交通渋滞の原因になっている。この城壁は,3世紀のローマ市は北方からのゲルマン人の侵入がありうる時代になっていて,それを予測してつくられた,と説明される。
 もちろん都市の城壁の歴史はもっと古い。ギリシアのポリスがそもそも,近隣ポリスとの絶え間ない戦争ゆえに必要としたのだが,ローマ帝国の時代には平和が実現したから,城壁は都市の象徴物程度だったろう,と考えられなくもない。しかし,平和を享受したはずのローマ帝国で,案外物騒な話が史料にはよく出てくるのである。キケロー(前1世紀)や小プリニウス(後1〜2世紀)の書簡などに,イタリアを旅している途中行方不明になった人物のことが書いてある。どうやら道の途中,追いはぎに殺されたらしいなどと言うのである。アプレイウス(後2世紀)の『黄金のロバ』には,陸路をゆく旅人が日が暮れてから目的の都市に着いたら,城壁が閉ざされて入れない。城門の上から,夜やってくるからには,盗賊に違いない,との罵声と石が浴びせられた,という話が出てくる。
 ローマ帝国の都市は,その内部では平和と繁栄が実現していたが,一歩都市の外に出ると,案外安全の保障はなかったらしいのである。だからこそ陸の旅は危険を伴ったのだ。キリスト教の使徒パウロも,山賊・盗賊の難に何度もあった,と記している。もっとも彼は一方で,海の船旅で海賊に襲われ,難破すら経験した。あのユリウス・カエサルが海賊船にとらわれた話も有名である。
 そういうわけで,地中海も湖のごとき安穏な交通手段を提供したわけではなかったが,多少のリスクを計算に入れても,これがローマ人にとって,美しく,頼りがいのある海であったことは間違いないし,都市も実は快適とは言い難かった。大富豪ですら,狭い街路の高層住宅の階下で,階上の貧民と共に暮らしていた。暑熱のローマでは,元老院議員たちは,ローマ市を離れて避暑に出かけることを皇帝から命じられたのである。彼らは当然,涼やかな海風の地中海岸辺のウィラで秋を待ったに違いない。

 

 
 地中海をのぞむローマ劇場。レプティス・マグナ(リビア











春期連続講演会「地中海世界における異文化の交流と衝突」講演要旨

中世スペインの王都レオン
──レコンキスタの戦いとロマネスク様式の形成──

安發 和彰


 イベリア半島スペイン北部の街レオンは,中世の間,レコンキスタ(領土回復)の進展に伴って,11〜12世紀に栄華を極めた一大王都だった。ここでは,王たちの活動に注目しながら,この街の歴史を振り返り,とくにサン・イシドロ王宮修道院聖堂(後に参事会聖堂)に捧げられた作品を中心に,アンダルシアのスペイン・イスラム美術(宮廷工芸品)に目を向けて,レオンのロマネスク様式形成の一端を探ってみたい。
 そもそも古代ローマ帝国に仕える「第7軍団」の駐屯地を起源としたレオンの街は,6世紀からの西ゴート支配を経て,8世紀以来続いたイスラム勢力の破壊的侵略に反攻するキリスト教徒の都とされた(10世紀)。オビエドから南進したレオンの王たちは,代々信仰に篤く,街の破壊と再建が繰り返される過酷な戦闘のさなかにも,周辺の僻地(エスロンサ,エスカラーダ他)に修道院を創設したのを皮切りに,王宮(王家の礼拝堂および修道院を併設する)を設けた街を要塞化し,聖堂を興して,それらを数多くの美術作品で飾った。王のもとには,経験豊かな優れた職人(修道士たち)が集められ,彼らは,豪華な典礼用品,遺物箱,写本(挿絵入り)等の制作に励み,王都は,漸次活発な「美術センター」に成長していったのである。とくにフェルナンド1世(1032年レオンの王女サンチャと結婚。1065年歿)と妃サンチャ(1067年歿)の時代には,イスラム支配地セビーリャのムータデッド王に勝利し(1063年),貢ぎ物(パリア)として,当時のスペイン最高の聖人イシドルスの聖遺骸を獲得し,それを収容したレオンのサン・イシドロ王宮修道院聖堂が,広く人びとの崇敬を集める精神的中心となり,レオンでますます美術活動が活性化して,いちはやくロマネスク様式が形成されてゆくことになった。
 もとよりフェルナンドのレコンキスタは,イスラム教徒(フィトナ=群小25国)との戦いと並行して,他のキリスト教勢力との覇権争いも熾烈を極めていたのであり,錯綜と混乱のなかで,戦勝地に対して,服属の約束としてパリアを課して保護領とする政策がとられた。このときフェルナンドが制圧したのは,セビーリャの他にサラゴーサ,バダホス,トレド,メリダなどだった。そうした諸方からのパリアのなかに,アンダルシアの宮廷で生みだされた,東方的モティーフの装飾性に富む華麗
なイスラム工芸品が含まれ,それらがレオンの王宮にもたらされてサン・イシドロ聖堂に奉納されたのだった。それらが尊重されたのは,高価で貴重な素材の作品が,重要な戦利品として再征服のシンボルとみなされたのだったし,また一方では,洗練された様式の豪華絢爛な作品を,自分たちの栄光に輝く主なる神に捧げるのに相応しいとも考えたのだった(銀製ニエロ装飾の小箱=11世紀後半他)。アンダルシアのイスラム教徒の象牙銀鍍金ピクシス(1008年頃)が,カリスとパテナを納めて典礼で使われる例などもあったのである(ブラガ大聖堂)。またレオンで最も重要なイシドルスの聖遺物箱(1063年以前)や殉教者ペラギウスの聖遺物箱(1059年頃)の場合には,内張に,豊麗に動物文や幾何学文を表すアンダルシアの絹織物が用いられていた。それらとは別に,1866年にサン・イシドロ聖堂にあった象牙小箱(11世紀初め)のパネルに彫られた,座して片膝を立てるイスラム宮廷楽人の図像が,フェルナンド=サンチャの注文による『ベアトゥス黙示録註解書』写本(1047年)の扉絵《オビエドの勝利の十字架》(f.6v)の「仔羊を讃えるシターラ弾き」の姿に転用されていた。それは,他の現存作品群から見れば,10世紀以来の伝統的表現に従ったものであったが,イスラム美術との出合いなくしてはあり得ない図像だった。
 私たちは,宗教的,政治=軍事的,民族的にどれだけ周辺と深刻に対立する歴史的状況下にあっても,美術活動に様々な出合いの契機や機会があったことをあらためてみとめなければならない。実際には,重厚な厳粛表現にむかったレオンのロマネスク様式の主潮流のなかに,ローマを継いだ西ゴート以来の伝統,制作者の出自や注文主の権力をめぐる諸問題の解明も含めて,イスラム美術からの影響を見出すのは難しい。それでも,コゴーリャ修道院(象牙十字架=10世紀末他)やシロス修道院(旧回廊の柱頭=11世紀後半)の彫刻作品でより明瞭にみとめられるように,それと同様な,深く彫り込んだ鋭敏で繊細なシルエット,アラベスク風の洗練された豊麗な装飾性をとどめるフェルナンド=サンチャの象牙金箔の磔刑の十字架(1063年頃)が,アンダルシアに由来するイスラム美術の華麗な造形,豊潤な創造力から刺激を受けていた可能性も否定できないのではないだろうか。











春期連続講演会「地中海世界における異文化の交流と衝突」講演要旨

イタリアにおけるゴシック建築の受容と拒絶

石川 清


 当時Opus francigenumと呼ばれていたイル・ド・フランス発祥のゴシック様式の受容に関して,イタリアは北方と同じような様式の発展段階に従わなかった。建築の刷新との衝突やフランスに生まれた非古典的な構成法の修得とは関わりをもたず,常に敬虔なる古典主義がヨーロッパの他のどこよりも深く浸透し,文化的に未だ全能であった膨大な古代の遺産と深く関わっていた。しかし,イタリア建築を理解する鍵は,重要な要素にはちがいないが古典様式自体にあるのではなく,建築の外観や壁面の構成法の折衷主義にある。この折衷的なアプローチは建築要素の混成と多様化,複雑性と矛盾に対する寛容を生み出したが,合目的な構造表現にはその一致を求めた。その源泉は古代にとどまらず,広くビザンティンやイスラムを含む地中海世界,北方の中世建築から求められた。ゴシック期のイタリア建築がフランスにおける新奇なものを理想とする純粋主義と方法的に対極にあったことをまず理解すべきである。イタリアにおけるゴシック建築の受容にはいくつかの経路が考えられる。
 まず,観想修道会シトー会による移入である。イタリアにおけるシトー会建築の最初期の事例にカザマーリとフォッサノーヴァの修道院があり,その影響下で1218年に建設されたサン・ガルガーノ修道院がある。サン・ガルガーノは,シエナの公共建築や宗教建築にもゴシック様式の影響を及ぼした。シトー会修道士が保有する水道システムの技術とともに,シエナ大聖堂ファサードやシエナ市庁舎にゴシック要素が導入された。
 托鉢修道会によるゴシック様式の導入がフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ修道院にみられる。このドメニコ会聖堂に採用されているゴシック様式は簡素化されたもので,シトー会のゴシック聖堂からの影響を受けている。この聖堂にみられる大規模リブ・ヴォールト架構と独特の束柱「フィレンツェ風角柱」は,後の大聖堂や公共建築にもみることができ,それは修道会から都市へと普及した事例とみることができる。
 特に13世紀後半にはフランス人教皇・枢機卿によってゴシック様式が導入された。彼らは教皇庁をほぼ掌中に納めていたにもかかわらず,ローマ人による外国人への反発からローマの近郊都市に居住することを余儀なくされた。しかし,結果としてそのことがイタリアへのゴシック様式の導入を推進することになる。ヴィテルボやオルヴィエートには,外国からの影響を粗雑にではあるが緩和できる石工職人が存在したこともその手助けをし
た。クレメンス4世はイル・ド・フランスのゴシックを南フランスに導入すると同時に,居住していたヴィテルボの教皇宮殿にも導入した。
 また,シャルル・ダンジューは,シチリア王国征服後の1274年に建設開始したサンタ・マリア・デッラ・ヴィットリアとサンタ・マリア・ディ・レアルヴァッレのシトー会修道院にゴシック様式を採用した。彼がフランス出自のシトー会修道院を建設したのは政治的理由によるもので,さらにゴシック建築を用いてフランス性を強調することで,前支配者ホーエンシュタウフェン家への牽制とさらなる地中海覇権への野望を示している。
 ピサやシエナで活躍したニコラ・ピサーノがプーリア地方出身でフリードリヒ2世やシャルル・ダンジューによる建設活動に関わっている可能性もゴシック受容経路として興味をそそる。その他,ミラノ大聖堂などにみられるドイツ人建設職人による直接導入,フランス貴族趣味の影響下でのゴシック導入の事例もみられる。
 基本的に中央集権国家であった中世フランスでは,ある地域に新奇的な趣向が出現した場合には,それは面的に拡がり浸透していく可能性を秘めている。それに対して都市国家が乱立する中世イタリアでは,隣接している都市同士が対立関係にあることも多く,ある都市に新奇的なものが導入されたとしても,それが市民レベルで都市国家の枠を超えて面的に浸透していく可能性は低い。つまり多発的に導入されなければ,普及・流行していかない状況があった。その中世イタリアにおいて,ゴシック的趣向の面的伝達の役割を担ったのはフランス人権力者ではなく,当時都市周縁に急激に成長していた托鉢修道会であった。都市国家が個々に独創性を発揮する中にあっても,個々の修道会は都市国家を超えた布教活動をその本願としていたため,ゴシック様式普及の役割を二次的に担う宿命にあった。
 19世紀以降のイタリア人研究者たちは,リゾルジメント期のイタリア再統合とヨーロッパ中に同時発生した国家主義的雰囲気の中で,ゴシック研究においてフランスの影響とその優位性に抵抗し,中世イタリアに持続していた古典主義との強い結びつきを強調すると同時に,ビザンティンやイスラムなど非フランス的源泉を強調することで,フランス・ゴシックの重要性を最小限にとどめようと試みた。当時のそのような狂信的排外主義がイタリアにおけるゴシック受容の実態解明を鈍らせたことは確かである。











地中海学会ヘレンド賞を受賞して

黒田 泰介


 この度は地中海学会ヘレンド賞という大変名誉ある賞をいただき,光栄の至りです。まずは同賞のスポンサーとして本学会に変わらずのご支援を頂いている,星商事社長鈴木猛朗様に御礼申し上げます。東北大学で開催された大会では担当の塩谷博子様より,記念品であるヘレンド焼の絵皿「地中海の庭」をいただきました。縁をレース編みのようにくりぬいた精緻な加工と,果実をついばむ小鳥の絵柄の美しさに,壇上でしばし見入ってしまいました。また拙著を推していただいた本年度選考委員の先生方,さらに地中海学会会長青柳正規先生には,心から感謝いたします。
 今回,受賞対象となった拙著”LUCCA 1838. Trasformazione e riuso dei ruderi degli anfiteatri romani in Italia”は,イタリア,トスカーナ州のルッカ大学が発行する学術叢書シリーズarchetipoの第一号として2008年に出版されました。本書はイタリア各地に残る古代ローマ円形闘技場の遺構が,中世の時代に要塞や住居,宗教施設など,様々な機能によって再利用されていった過程を,現地実測調査と建築類型学に基づく分析から比較,考察したものです。
 受賞作に先だつ2006年,『ルッカ一八三八年 古代ローマ円形闘技場遺構の再生』(アセテート刊)を出版しました。受賞作は,この日本語版をベースとして翻訳・増補・改訂したものです。伊語版はその後の追加調査を含めて,本文記述は3割増,図版は5割増とした決定版となりました。
 題名になっているルッカ市のアンフィテアトロ広場は,円形闘技場の観客席部分が円環状の住宅群へと改造された,劇的な事例です。題名内の1838年とは,建築家L.ノットリーニによる再開発によって,今日見るような楕円形の広場が開設された年を示します。広場開設170周年を祝い,ルッカ市産業連合会およびCOMIECO(イタリア再生紙普及協会)の後援を得た同書は,「再生」つながりで100%再生紙を使って印刷されています。
 受賞作の出版に至るまでには,現地にて私の実測調査にご協力いただいた関係諸氏,ならびに出版の企画全般を監修していただいたピサ大学O.ニリオ先生を始めとして,様々な方々に大変お世話になりました。この場を借りて,厚く御礼申し上げます。
 本書と同時に”LUCCA, L’Anfiteatro di Carta”が出版
されました。これは日本語版の巻末付録につけたアンフィテアトロ広場のペーパークラフトが大変好評だったため,出版社からの提案で実現したものです。私の妻,直子がデザインしてくれた模型は,イラストとエッセイを添えた,かわいらしい小冊子となりました。聞くところによると,現地では受賞作よりもこちらのペーパークラフトの方がよく売れているそうです。
 受賞作は,平成11年度東京芸術大学大学院学位論文の内容が基礎となっています。指導教授の東京芸術大学野口昌夫先生および愛知産業大学石川清先生には,親身かつ的確な手ほどきをいただきました。伊政府給費を得てフィレンツェ大学都市地域計画学科に留学してからはG.パーバ先生の指導の下,イタリア各都市を回り,考古学や都市史,建築修復学の各分野にまたがる研究を進めました。
 2000年度からは関東学院大学建築学科にて,建築計画を担当しております。現在は都市と建築のレスタウロ(修復・再生)を主な研究テーマとしていますが,古代建築の遺構が転用されつつ後の時代の都市組織を形づくる過程は,都市と建築の再生を考える上で,正にarchetipo(元型)となるものです。受賞作は私の活動の原点であり,今後もヘレンド賞受賞の名誉を汚さぬように,研究活動に励んで行きたいと思っております。地中海学会の皆様には,どうぞご指導ご鞭撻の程,宜しくお願い申し上げます。
 
 


 ルッカのアンフィテアトロ広場の眺め(出版記念に作製したポストカードより)













カズ山とイダ山の「聖所」
──ギリシア神話とサルクズ伝説──

佐島 


 エーゲ海の北部,エドレミト湾に南面したカズ山は,現在,トルコ共和国に位置する。バルケシル県エドレミト郡のカズ山山麓には9か村のタフタジュ(Tahtacı)集落がある。タフタジュとは山や森林地帯で移動生活や林業に関連する人びとの意味である。現在タフタジュたちの多くは,その生業から離れていても,タフタジュという帰属意識を持っている。また彼らはテュルクメンあるいはアレヴィー,オグズ族と関連づけて考えられることがある。アーチエリ(Ağaçi-Eri「森の人」の意味)と呼ばれたこともあり,16世紀の土地台帳にタフタジュの名称があるようである。タフタジュの起源やエスニシティについては機会を改めたい。
 実際に「カズ山」に相当する所は頂(いただき)が三つある。カズ山では,8月に,サルクズという女性の伝説にちなむ,サルクズ祭が催される。その時には,カズ山に登り,三つの頂を伝って戻るまで,約一週間にわたる儀礼が行われる。その時に幾つかの訪問(参詣)場所を訪れるが,それらの場所はここのタフタジュにとっては,特定の時間に特定の儀礼を行う,特定の空間となる。聖別されている訳ではないが,特定の時間に出現する特定の空間ということで「聖所」としておく。
 ところでこの山は,ギリシア神話では,イーデー(イダ)山として出てくる。例えばトロイの王子パリスが三人の女神の審査をした場所であり,またパリスが出生後に捨てられた場所であり,パリスと関係の深いニンフ・オイノーネーのいた場所,或いはキュベレー女神崇拝と関連する所などとも言われる。
 このようにイダ山は,とかく女神と関係のある場所だった。また何らかの事情で世俗の中心から距離を置く,子どもを「捨てる」場所あるいは避難の場所として,謂わば民俗社会の「周縁」に位置していた。もしサルクズの聖所のあるカズ山がイダ山であれば,トルコ人がこの地に来る以前から,神話・伝説に彩られた,「異人」の関係する場所であったことが分かる。サルクズの伝説はユルックというエスニック集団にもタフタジュ集団にも伝えられている。両者ともカズ山のサルクズの聖所を訪問するが,しかしその話には異同がある。
 タフタジュ集団のサルクズ伝説の一つをあげよう。アリとファトマの間に,魂の結合で娘ができると,セルマン・ファラシという人物がカズ山に連れて行き,育て
た。成長すると,美しくなったサルクズにセルマンが恋をして,一度だけ交わると,二人は消えてしまった。また別の伝説としては,ファトマにセルマン・パクが娘を預けようとするが,ムハンマドもアリも両者ともに引き取らないので,セルマン・パクがカズ山に連れてきて育てた。成長したサルクズにセルマン・パクが恋をして,アリに若がえらせてもらう。セルマンは若者になって,サルクズとともに過ごすが,のちサルクズは亡くなり,セルマン・パクは元の老人に戻った,というものである。
 ユルック集団にもサルクズの伝説がある(その一つは新藤悦子『羊飼いの口笛が聴こえる』(朝日新聞社)にある)。聞き取りなどの結果から次のことを確認したい。サルクズがガチョウ(トルコ語でカズkaz)を飼っていたこと。集落にいられなくなった時にサルクズがカズ山に追いやられたこと。父が礼拝用の水を要求したときに,即座に水を差し出したことから父親はサルクズが「聖者」であることを知ったこと。その時サルクズの腕が伸びてエーゲ海から水をすくったとされ,特別な能力の持ち主とされる。これからサルクズはイスラームの「周縁」,民間の中に発生する「聖者」の考え方に連結していることが分かる。
 ギリシア神話を伝える人びととは異なる,タフタジュやユルックの居住するこの地に,物語の内容が異なるとはいえ,女性の聖者が訪問者を集めている。もちろん女神の豊饒さとは異なり,イスラームの中心から排除された(あるいは追いやられた)異人のサルクズが結局死すべき存在であったと見て取れるタフタジュの伝説もあるが,ここで語り継がれているのは,特別の存在の異人である「女性」と認識されていることである。祀る人々が変わっても,「聖所」は聖なるものを感得させる所,特別なものが出現する場所なのであろう。
 本稿は科研・基盤(B)海外「アレヴィー関連諸集団とアレヴィー・エスニシティの生成と展開─トルコ及びヨーロッパ─」(研究代表者:佐島驕jに関連したものである。








地中海世界と植物11


テレビンの木 その正体とは?/加藤 磨珠枝



 今回紹介する「テレビンの木 terebinth」は,ピスタチオの仲間に属するウルシ科の落葉樹で,主にシリア,レバノン,イスラエルといった地中海東沿岸に自生する種(Pistacia palaestina)と,モロッコ,ポルトガル,ギリシア,トルコ西部などに自生する種(Pistacia terebinthus)に分かれ,両種ともにテレビンの総称で知られている。古くから,その樹脂の殺菌作用によりワインの防腐剤や香料,薬用,時に食用として用いられ,古代から中世,近世ヨーロッパの薬草学の書にもその名は挙げられてきた。
 この木は聖書学の観点からも興味深く,旧約聖書に登場する「樫の木 oak」と当時から混同されていたらしい。たとえば,アブラハムがカナンの地に移住した際,その下に祭壇を築いたマムレの樫の木(創世記13:18)は,日本だけでなくユダヤ世界でも「マムレのテレビンの木」と訳されることがあり,1世紀のユダヤの著述家ヨセフスもこれをテレビンの木と称している(ユダヤ戦記4:533)。同じ木は,アブラハムがイサク誕生の予告を神から受けた時も傍らにあったが(創世記18:1-15),ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の同場面モザイク(表紙の上図参照)でも,豊かな枝葉で神の使者に木陰をつくり重要な位置を占めている。
 植物学的には異種に属するウルシ科のテレビンとブナ科の樫が,聖書の記述において混同された原因として,テレビンのヘブライ語名「エーラーelah」と樫のヘブライ語名「アッローンallon」(語形は他にもある)の類似性を指摘する者もいる。あるいは,林や森林をつくらず,大抵は一本立ちで孤高にそびえる力強い樹形と樹齢の長さの共通性を挙げる者もいる。他にも,ヘブライ語
で神を示す「エルel」(力強き者)からの派生語として,力や強靭さを象徴する大木の意であったと解する者もいる。いずれにせよ,この木のそばには,聖所や祭壇が築かれたり(ヨシュア記24:26,ホセア書4:13),神の御使いが姿を現したり(土師記6:11),時に埋葬の場(創世記35:8,歴代誌10:12)として選ばれることもあった。神木ではないにせよ,祭壇,聖所に深く関わり,神の顕現や力を意識させる木であったとが考えられる。
 歴史に語り継がれたテレビンの木についてもう少し続けると,キリスト教世界のローマにおいてもそれは重要な意味を担っていた。新約外典「聖ペテロとパウロの殉教伝」によれば,ペテロが殉教後に埋葬されたのが,ヴァチカンの地にある模擬海戦場(ナウマキア)のそばのテレビンの木の下であったからである。埋葬の場としてのテレビンの木陰は,旧約時代の伝統に連なるものであり,このペテロの墓の上にヴァチカンのサン・ピエトロ聖堂が建設されたことを考えると,まさにローマ教会の礎になった樹木といえるだろう。
 後の中世ローマのガイドブック(Mirabilia Urbis Romae)では,ペテロの殉教場所は,模擬海戦場近くのピラミッド型墳墓「メータ・ロムリ」と「ネロのテレビントゥス」と呼ばれる墓廟のそばにあったと紹介されるようになる。樹名としてのテレビンが建造物の名にも与えられているが,その混成された様子は,現サン・ピエトロ聖堂の中央扉を飾る,15世紀ブロンズ浮彫りのペテロの殉教場面(フィラレーテ作,表紙の下図は部分)にも描かれた。古来,その植物学的属性の正確さにとらわれず,人々に自由に語られたテレビンの木は,中世ローマのランドマークにまでいたるのである。