学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月20日(日)に東北大学で開催する第34回大会の席上において行います。
地中海学会賞:該当者無し
地中海学会ヘレンド賞:黒田泰介氏
(副賞:星商事株式会社提供
    受賞記念磁器皿「地中海の庭」)
 ルッカ市(イタリア)が「広場開設170周年」を記念し,叢書第一巻として刊行した黒田氏のLucca 1838: Trasformazione e riuso dei ruderi degli anfiteatri romani in Italia, Lucca 2008は,イタリア各地に残る古代ローマ都市施設であった円形闘技場遺構が中世以降,要塞や住居,宗教施設など様々な目的で再利用されてきた過程を,長期にわたるルッカ円形闘技場の実測調査を踏まえて明らかにした。その独創的な着眼点と建築類型学に基づく詳細な分析は高く評価できる。

*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXXIII(2010)の内容は下記の通り決まりました。本誌は第34回大会において配布する予定です。
・12世紀バルセロナ伯領辺境における領主・農民関係──トゥルトーザ周辺地域の事例 
阿部 俊大
・フィリッピーノ・リッピ作カラファ礼拝堂装飾壁画の再解釈──「貞潔の擁護者」としての枢機卿
荒木 文果
・中世後期南フランスにおける大学神学部と托鉢修道会──トゥルーズとモンペリエの事例から
梶原 洋一
・トルコ共和国の形成と音楽──トルコ民謡と「和声化」をめぐって         濱崎 友絵
・研究動向 ギリシアの初期鉄器時代に関する調査および研究動向 2000〜2009年  高橋 裕子
・書評 藤井慈子著『ガラスのなかの古代ローマ──三,四世紀工芸品の図像を読み解く』
山田 順
・書評 私市正年著『マグリブ中世社会とイスラーム聖者崇拝』           太田 敬子

*第34回総会
 先にお知らせしましたように第34回総会を6月20日(日),東北大学において開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)
一,開会宣言
二,議長選出
三,2009年度事業報告
四,2009年度会計決算
五,2009年度監査報告
六,2010年度事業計画
七,2010年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言

*会費自動引落
 今年度2010年度の会費は4月23日(金)に引き落とさせていただきました。自動引落にご協力下さり,有り難うございました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファインスサービス」となっております。学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。

*常任委員会
・第3回常任委員会
日 時:2月20日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXIII(2010)に関して/石橋財団助成金に関して/会費未納者に関して/2009年度財政見込みに関して 他
審議事項:第34回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他
・第4回常任委員会
日 時:4月24日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第34回大会に関して/研究会に関して/新事務局長に関して 他
審議事項:2009年度事業報告・決算に関して/2010年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他















第34回地中海学会大会のご案内

飛ヶ谷 潤一郎


 皆様,今年度の第34回地中海学会大会は,6月19日と20日に東北大学で行われます。開催地の大会準備委員を代表して,大会プログラムについて簡単にご案内申し上げます。本学会大会は従来,東京と地方とで交互に開催されていましたので,開催地が昨年度の福岡から今年度は仙台となったことに驚かれた方も多いかもしれません。けれども,本学会大会が東北大学で開催されるのははじめてのことで,仙台で開催されるのも1989年の宮城学院女子大学以来,およそ20年ぶりとなります。青葉が茂る杜の都は,観光のベストシーズンを迎えます。
 最近では,仙台へは東京から新幹線で日帰りも十分に可能となったため,他学会の大会などの機会や,あるいは七夕祭の時期などに仙台を訪れた方は多いと思います。仙台城跡や国宝の大崎八幡神社,最新の文化施設せんだいメディアテークなどは,用事の合間に見学することもできる範囲にあります。また松島や山寺などの有名な観光地も,仙台から日帰りで訪れることができます。さらに宮城県は,海の幸・山の幸ともにおいしい食材が豊富なことでもよく知られており,グルメの集う本学会の会員には説明するまでもありません。
 シンポジウムや地中海トーキングなどの内容につきましては,わたしも含めて開催地の先生方が中心となって案を練りましたが,実は仙台や東北地方のことをあまり知らない者ばかりです。仙台と地中海との関係では,支倉常長が思い浮かぶかもしれませんが,昨年の大会でキリシタンが大きなテーマとなっていたので,あきらめました。東北のキーワードを,伊達政宗,松尾芭蕉,松島,平泉,源義経など思いつくままに列挙しながら,何とか地中海と結びつけて,シンポジウムは「フロンティア」,トーキングは「島の魅力」に落ち着いた次第です。そして,大会の幕開けにあたる記念講演は,古代ローマ史がご専門の松本宣郎先生(宮城学院)にお引き受けいただきました。
 シンポジウムについては,中世の平泉や近世の仙台あるいは会津が,京都や江戸からは遠い陸奥(みちのく)の地でありながらも,政治や文化の一大中心であったことに関連したテーマとなっています。平泉については,世界遺産への登録が見送られたことが記憶に新しいかもしれませんが,平泉史の専門家として柳原敏明先生(東北大学)をパネリストにお招きします。司会は中世シチ
リア史研究でおなじみの高山博先生(東京大学)が担当されます。平泉はともあれ,パレルモが世界遺産に登録されていないのは,さらに驚くべきことにちがいありません。
 トーキングについては,副題「ああ,松島や」からすぐにイメージがわくかもしれませんが,地中海の魅力的な島を選ぶのには苦労しました。ヴェネツィア,デロス島,ゲミレル島,そして松島の四つになりましたけれど,個人的には青の洞窟のカプリ島やモンテ・クリスト伯のイフ島なども実に魅力的に感じます。おそらく皆様からも大いに異論があると思いますので,活発な議論が期待されます。松島の専門家としては,佐藤弘夫先生(東北大学)をパネリストにお招きします。以上のゲストの人選や大会会場の設定にあたっては,芳賀京子先生(東北大学)にご尽力いただきました。
 さて,地方で行われる大会の場合には,研究発表やシンポジウムなどの学術的な内容だけでなく,観光などの副次的なイベントも参加者を募る上では重要になると思います。今年度の大会では,秋保(あきう)温泉が懇親会場となります。仙台市周辺には,秋保,作並,遠刈田,鳴子など多くの有名な温泉があります。これらのうち作並温泉では,すでに1989年の大会で懇親会が行われたので,今回は秋保となった次第です。
 西洋の温泉は療養を目的とした長期滞在型のものが多く,水着を着用して入浴するのがふつうです。一方わが国の温泉の場合は,都心部から日帰りや1泊2日で気軽に楽しむことができる点はよいのですが,家族やカップルでは男女別々に楽しまなければならないのが欠点で,同性の友人を誘うにしても互いに忙しくて予定がなかなか合わないのが現実です。温泉旅行を老後の楽しみにとっておくという意見にも納得はできますけれど,温泉に行く若い人びとが少ないのは残念な気がします。
 温泉での懇親会は,2004年の北海道の大会でも行われましたが,学会の大会のときこそ,遠方からの親しい仲間が集う絶好の機会かと思います。大部屋での宿泊はどうも苦手という方も,懇親会のみの参加という形で,温泉入浴とともに日帰りでお楽しみいただけたら幸いです。懇親会の終了は9時の予定で,帰りは仙台駅までの送迎バスが利用できます。もちろん本学会会員以外の家族・友人等のご参加も歓迎いたします。6月19日・20日には,ぜひ仙台にお越しください。














紀元前1世紀におけるギリシア彫刻のつくりかた

──ナポリでの3次元ディジタル計測──

芳賀 京子


 3年前から,東京大学生産技術研究所の池内克史研究室に協力していただいて,ナポリ国立考古学博物館の古代彫刻の3次元ディジタル計測とその解析に取り組んでいる。コンピューター上で彫刻をぐるぐる回して見られるという,あの技術だ。だがこの調査の目的は,見て楽しむだけではない。もっと具体的な,美術史学的に意義のある成果を引き出そうというのである。
 紀元前1世紀のローマ世界では,ギリシア彫刻の蒐集熱が極限にまで高まっていた。古典的名作のコピーだけでなく,同時代のヘレニズム彫刻の新作もまた,人気を集めていた。富裕なローマ人は,どんどん彫刻を発注する。ギリシア人の彫刻工房は,どんどん作品を生産していく。紀元前1世紀前半のパシテレスという彫刻家は「原型はブロンズ彫刻,大理石彫刻,浮彫彫刻の母である」と言ったが,それはこうした大量生産の手段として,石膏や粘土の原型(手,足,頭など,身体のパーツごとに分かれている)が大いに利用されたからなのだろう。
 こうした原型を彼らがどのように使用していたのかを明らかにするのが,3次元ディジタル計測と,そのデータによる形状比較(これは池内研で新開発の技術)である。同じ原型からつくられた彫刻は,形状がびったり一致するはずだ。原型から鋳型をつくって鋳造するブロンズ彫刻はもちろんだが,この時代は大理石彫刻でも,原型から大理石に3次元的にポイントを写し,彫り進める手法が取られていた。だからブロンズ彫刻でも大理石彫刻でも,もし同じ原型に基づいているのならば,それは目視でコピーしたり真似たりするのとはまったく違うレベルで同じ形をしているはずなのである。
 調査したのは,ひとつは《オレステスとエレクトラ》と呼ばれる大理石像である。この群像は男女2体からなり,《オレステス》の方は紀元前1世紀後半の彫刻家ステファノスの作品のコピー,《エレクトラ》の方もステファノス工房のコピーではないかと言われているが,確実ではない。オリジナルは紀元前1世紀にそれぞれ単体像としてつくられたが,それを紀元後2世紀に組み合わせてコピーしたという代物である。もうひとつの群像は《踊り子たち》と通称される,紀元前1世紀後半の5体のブロンズ群像。ペプロスという衣をまとった少女たちが,思い思いのポーズを取っている。
 7体はそれぞれまったく違うポーズをとっている。だ
が計測・形状比較してみると,なんといくつかの足の形がぴったり一致した! 詳しい話はまた別のところで長々と書くことになるだろうが,この一致が嬉しいのは,以下の二つのことが言えるからなのである。
 ひとつは工房の同定。大理石群像の2体の足の一致は,《エレクトラ》のオリジナルが,ステファノス作の《オレステス》のオリジナルと,同じ足の原型を用いていることを示している。同じ原型が用いられているのは,同じ工房でつくられたからに他ならない。《エレクトラ》のオリジナルは今まで「ステファノスの工房作?」と疑問符つきでしか語られなかったが,この結果により,ステファノス工房の作であることが確認されたのである。3次元ディジタル計測は,様式による議論よりも一歩進んだ工房の同定を可能とする。
 もうひとつわかったのは,紀元前1世紀後半の彫刻工房における生産手法である。ステファノス工房でも,《踊り子たち》の群像でも,違う顔,違う衣紋,違うポーズの異なる彫像どうしの足の形状が一致したということは,足の原型がまったく別の彫像に使い回されていたことを意味している。顔や衣は,見る人も注意深く眺めるので手を抜かないが,足の形にまで注目する鑑賞者はまずいない。だから彫刻工房は,少しでも生産性を上げるために,ひとつの原型を別の彫像にも利用したのだろう。実はステファノスは,原型をすべての母と呼んだパシテレスの弟子である。彼は師の教えに忠実に,母なる原型からたくさんの子どもたちを生み出したのだった。
 ところで3次元計測という作品調査だが,専門が美術史である私は,計測作業ではまったくの戦力外である。測定の邪魔になる通常の調査は別の日にまわし,当日の主な仕事は,博物館の人たちとの交渉(許可の手紙を持っていても「そんな許可を出した記録はない」という爆弾が飛び出すなど,心臓に悪いことこの上ない),作業を見守ること(単なる見物と紙一重か)。さらにカフェの調達(カフェ・ブレイクもなしに仕事するなどという非人間的なことは,たとえ日本人であってもナポリでは許されない。バールまで何度も買いに行く),昼食の買い出し(いろいろな具材を選んで豪華なパニーノを作ってもらう。ローマではあまり見ないような他の人の組み合わせを覗き込んだりして,なかなか楽しい)。そして調査地がナポリであることの幸せを噛みしめるのである。















“うつつ”になれたか,まだ幻想か

──地中海世界のエウボイア人──

高橋 裕子


 2009年6月20日,ギリシアが国の威信をかけて取り組んできた新しいアクロポリス博物館が正式に開館した。内外からの来賓が列席して行われたその開館式の模様はマスメディアで華々しく取り上げられ,新博物館のすばらしさや意義が繰り返し強調された。
 それから一週間もしない26日と27日,ギリシア全土が新博物館開館の興奮に未だ酔いしれているころである。アクロポリスのふもとにある在アテネデンマーク研究所の講堂で,周囲の喧騒とは対照的にひっそりと,しかし専門家にとっては極めて刺激的なシンポジウムが開催された。主宰は在ギリシアカナダ研究所,テーマは「エウボイアとアテネ」であった。
 エウボイアというのはアテネがあるアッティカ地方から見て北東方向に浮かぶ細長い島の名前である(図)。エーゲ海の中では大きいほうで,ほとんど本土に接するように位置している。ミケーネ文化が崩壊したあとの初期鉄器時代(紀元前11〜前8世紀前後),この島にはレフカンディやエレトリアといった集落が栄え,それらの遺跡から発掘された東方からの搬入品を含む豊かな出土品は研究者の耳目を集めてきた。
 今回のシンポジウムでの私のお目当ては,二日目の最初に行われたJ.K.パパドプロスの発表であった。現在UCLAで教鞭を取るパパドプロスは,私の専門である初期鉄器時代に関して目下のところ最も活躍している研究者の一人である。今回の氏の発表タイトルは「幻のエウボイア人:10年後」。そうである! 物議をかもし出した著名な論文(「幻のエウボイア人」)から10年が経過した現在の氏の意見が聞ける貴重な機会であった。
 それでは10年前に,パパドプロスはどのような論文を発表したのであろうか。
 1990年代後半と言えば,かつて暗黒時代と呼ばれていた時代が初期鉄器時代という用語に取ってかわられるようになったころである。一昔前までは,ミケーネ文化崩壊以後ギリシア世界は未曾有の大混乱期を迎え,暗黒の時代であったと言われていた。それが調査や研究の進展にともない,「暗黒時代はもはや暗黒の時代ではない」と見なされるようになり,名称も初期鉄器時代へと変化していった。
 そのような流れを作り出した主な要因の一つに,ギリシア世界はその時代に孤立していたわけではなく地中海周辺地域と接触を持っていたという見解が広く認められ
るようになったことがあげられる。そしてそれが論じられる際に常に主役として取り上げられるのが,エウボイアであった。とりわけ初期鉄器時代を代表する著名な遺跡レフカンディからは東方からの豪華な搬入品が発見され,多くの人々から喝采をもって迎え入れられた。一方でシリアのアル・ミナをはじめ地中海各地からエウボイア製の土器が出土していることが強調され,エウボイア人が地中海を股にかけて交易活動を展開する姿が想像された。
 ところがこのような傾向に,冷や水をあびせかけるような論文が発表されたのである。それがパパドプロスの「幻のエウボイア人」であった(J.K.Papadopoulos, “Phantom Euboians,” Journal of Mediterranean Archaeology, 10(1997), 191-219)。氏は初期鉄器時代におけるギリシアと地中海周辺地域との関係について従来の研究においては資料の扱いに慎重さが欠ける点があったと批判すると同時に,より多角的な視点からの議論が必要であることを訴えかけた。必然的に,この論文を読んだ者の脳裡から青い海原をわたり交易にいそしむエウボイア人の姿を消し去る,または少なくとも希薄にさせる結果を招いた。
 それから10年後,氏の意見に変化は見られるであろうか。私は27日の発表を心待ちにしていた。白のポロシャツに黒のジーンズというラフないでたちのパパドプロスはユーモアをまじえて話し始め,まず10年前の論文を振り返った。それには強い嫌悪感からおおらかに受け止める姿勢まで多様な反応があったという。それらを加味した上で再検討した結果,結局氏は同じ意見を繰り返した。パパドプロスは「私の目的はエウボイア人を“消し去る”ことではない」と強調しながらも,地中海各地からエウボイア製の土器が出土したからといってそこにエウボイア人がいたとは限らない,慎重な資料の扱いや多角的,包括的な議論が必要であると説いた。
 確かに一理あろう。ただし,それでは,どのような証拠があれば,エウボイアの土器だけではなく人もそこにいたことを証明しうるのであろう。それとも,氏はエウボイア人を“消し去る”つもりはないと言ってはいたが,紺碧の海を自在に往来したエウボイア人の姿はやはり単なる幻想なのであろうか。地中海各地のエウボイア人が“うつつ”の存在と認められるには,まだ多くの議論が必要なようである。
















現代のバルセロナと外来者

阿部 俊大


 古来より多様な民族の往来と交流の場であった地中海世界の中でも,バルセロナを中心とするカタルーニャ地方は,古くはイベリア人やフェニキア人に始まり,ギリシア人,ローマ人,西ゴート人,フランク人,アラブ人,イタリア人やフランス人など,特に多種多様な民族が往来してきた。現在でも,バルセロナは世界有数の人気観光地であり,またスペインで経済的に最も栄える都市として,世界各地から観光客や移民が集まっている。
 しかし,そんなバルセロナの住民は外来者に対して開放的かというと,意外とそうでもない。むしろかなり閉鎖的である。外国人観光客に対しては「街を混雑させる,バルセロナに憧れたお上りさんたち」といった見方が基本である。スペイン各地や中南米,アフリカなどからの移民についても「我が地域のおこぼれにあずかろうと群がってくる連中」といった見方がなされている。実際のところ,観光客が落とす金や観光産業はカタルーニャ経済において大きな部分を占めているし,近年のカタルーニャの人口増加や経済成長は移民に支えられてきたのだが,地元の人にそういう意識はかなり薄いようである。
 有名な観光地の住民は大なり小なりそういうものなのかもしれないが,バルセロナの場合,異なった要素も指摘できる。一つには,スペインの民主化後,フランコ統治下でのカタルーニャ文化の圧迫に対する反動として,カタルーニャでは民族的な自覚や誇りを強調する教育が行われる傾向にある。その結果として,中には自分の民族について極めて強いプライドを持ち,ついつい悪気ないし自覚を持たないまま――たぶん持っていないと思う――外来者に対して上から目線になってしまう者もいるのだと思われる。
 さらに,これは或いはスペイン全体にも当てはまることなのかもしれないが,バルセロナ人内部の交友関係もかなり閉鎖的なようである。彼らの交友関係は,しばしば幼少時代からの狭いグループ内に限られている。バルセロナ大学に留学した際,地元出身の学生たちを見て唖然としたのは,大学でも知り合いは大勢作るものの,週末に一緒に遊びに行くのは地元の子供の頃からの友達グループ,という学生が多かったことである。単なる遊び仲間というだけでなく,例えば恋愛や結婚もしばしばそのグループ内のメンバーで行われるそうである。「今の
彼女も前の彼女も,そのグループの中の子だ」といったことが普通に語られる。人にもよるが深い付き合いをする相手は,相当に限定的なようである。
 そういう状況だから,エラスムス制度で来ているヨーロッパ人学生なども含め,留学生や外国人研究者などもバルセロナ人の友人を作るのに苦労していた。教室や職場では会話もするが,ただそれだけで,なかなかプライベートでの付き合いに発展しないようである。これは有色人種だけでなく――ちなみに,街には色々な人種が居たが,キャンパスは私以外ほぼ白人ばかりであった――カタルーニャ以外の地方からやってきたスペイン人学生や,さらにバルセロナ出身でないカタルーニャ人学生までもが一様に非難するところであったから,まぁ間違いではないだろう。要するに,地元のバルセロナ人の中に外来者が入り込むのはかなり難しいのである。
 では,外部から流入してバルセロナに住み着いた人々はそのような状況下でどういう交友関係を築くのかというと,結局,外部の人間同士で集まることになる。同じ国の人間同士,非スペイン人同士,バルセロナ以外からの人同士――要するに非バルセロナ人同士である。仕事の上で親しい付き合いになったり,当該バルセロナ人が相手の国に強い興味を持っていたり(ちなみにバルセロナの人が「日本に興味がある」という場合は,かなりの確率でアニメオタクである),恋愛関係が生じた場合などの例外もあるが,基本的に非バルセロナ人は非バルセロナ人同士で交友関係を形成していく。
 とはいえ,外来者もいつまでも外来者というわけではない。見ていると,外来者の子供も地元民の子供と同じ幼稚園や小学校に通う中で,新たな地元民のグループを形成している。親が何人であれカタルーニャ語を母国語とすればカタルーニャ人,という政府方針があるらしく,カタルーニャで生まれ育った子供はカタルーニャ人としての意識を備えていくため,同じ地域,学校で育てば,人種的な差違もさほど問題とならないようである。むしろ外来者の子の方が「自分はカタルーニャ人である」と強く,誇らしげに主張することも珍しくない。
 古代や中世の外来者も,このような感じで現地社会に同化していったのだろうか? また,他の地中海都市では,外来者と地元住民はどのような関係を築いているのであろうか? 考えると興味は尽きない。












読書案内:山辺 規子

尾崎明夫/ビセント・バイダル訳・解説
『征服王ジャウメ一世勲功録──レコンキスタ軍記を読む』


京都大学学術出版会 2010年1月 608頁 6,600円(税別)


 スペイン東北部バルセローナを中心に,カタルーニャ語圏が広がる。カタルーニャ語は現在スペイン語と並んでこの地方で公用語とされる言語だが,おそらく大多数の日本人にはなじみがなかろう。しかもその一地方のことばの古語となればなおさらである。そのような言語で書かれた文献を翻訳し公刊するとすれば,それには大きな困難をともなう。本書は,その苦労をいとわず,刊行されたものである。
 本書の『勲功録』の著者はアラゴン連合王国の国王ジャウメ1世(在位1213〜1276),通常ハイメ1世と呼ばれる人物である。このように王自身が自分の一生を語るということもまた,めったにない。まして,この王は中世中期のスペイン史,西地中海史において重要な役割を果たした人物である。
 王の父ペレ(ペドロ2世)1213年アルビジョワ十字軍のさなか南フランスのミュレーで戦死。この時,ジャウメはわずか5歳。そのジャウメが,存亡の危機にあったところから王国を立て直す。さらにマリョルカ,豊饒で知られるバレンシアを征服し,王国の体制を整備した。ジャウメは征服王と呼ばれ,アラゴン連合王国はこの王から本格的に地中海に進出し,「地中海帝国」とも
呼ばれることになる。このような英雄だけに特に,旧アラゴン連合王国地域では人気が高い。
 おりしも,2008年はジャウメ生誕800周年で,いろいろな記念行事がおこなわれた。訳者である尾崎明夫氏が,本書の翻訳について提案すると,スペインの複数の企業からの出版補助が出ることになったという。そのため,日本ではマイナーなテーマの大著であるにもかかわらず公刊できたようだ。
 このような貴重な史料を日本語で読める機会を得られたことは,まことにうれしい。訳文は,俗語で語られた口語表現をイメージできるように配慮されている。しかも,本書では,史料そのものの訳だけでなく,訳者およびカタルーニャ語の専門家が詳細に解説してくれている。さまざまな写真,豊富な地図,説明図が示されているうえに,末尾には年表があって,なじみがない読者の理解に役立つ工夫がなされている。欲をいえば,カタルーニャ語はあまり知られていないだけに,固有名詞の対照表がつけられていれば,なお有益であっただろう。一部に表記にぶれがあったり,よく使用される表記とは異なっていたりするところがあることは気になるが,それを補ってあまりある意味のある訳書であるといえよう。
◇  ◇  ◇

〈寄贈図書〉
Emancipating North African Women: Research on Urban and Rural Tunisa, by Bouzid Omri, Tunis 2009
『イタリア建築の中世主義──交錯する過去と未来』横手義洋著 中央公論美術出版 2009年2月
『聖遺物崇敬の心性史──西洋中世の聖性と造形』秋山聰著 講談社選書メチエ 2009年6月
『サー・ガウェインと緑の騎士』「ガウェイン」詩人著 池上忠弘訳 専修大学出版局 2009年7月
『光は灰のように』有田忠郎著 書肆山田 2009年9月
『医学の歴史』ルチャーノ・ステルペローネ著 小川煕訳 原書房 2009年11月
『シチリア歴史紀行』小森谷慶子著 白水Uブックス 2009年11月
『ローマ古代散歩』小森谷慶子・小森谷賢二著 新潮社 2009年12月
The Island of St. Nicholas: Excavation and Survey of the Gemiler Island Area, Lycia, Turkey, ed. by Kasuo Asano Osaka University Press 2010
『征服王ジャウメ一世勲功録──レコンキスタ軍記を読む』尾崎明夫,ビセント・バイダル訳・解説 京都大学学術出版会 2010年1月
『原典 イタリア・ルネサンス人文主義』池上俊一監修 名古屋大学出版会 2010年1月
『アール・デコ博建築造形論──一九二五年パリ装飾美術博覧会の会場と展示館』三田村哲哉著 中央公論美術出版 2010年2月
『朝倉世界地理講座7 地中海ヨーロッパ』竹中克行,山辺規子,周藤芳幸編 朝倉書店 2010年2月
『魔術師たちのルネサンス──錬金術からコスモロジーへ』澤井繁男著 青土社 2010年3月
『エーゲ海学会誌』23(2009/10) 日本エーゲ海学会









地中海世界と植物9


聖ヨハネの草(西洋オトギリソウ)/水野 千依



 太陽が一年で最も高い位置にのぼる夏至の頃,照りかえる野原を一層鮮やかに色づかせる黄色い花がある。西洋オトギリソウ,漢字で書けば「弟切草」。ある鷹匠がこの草から作った秘薬を他人に明かしてしまった弟に刀を振るったことから不穏な名をもつこの草は,西洋では「聖ヨハネの草」と呼ばれている。洗礼者聖ヨハネもまた,斬首により命を落としたが,一説には,その血からこの草が芽生えたとする伝承がある。古くから聖ヨハネの祝祭と結びついて,この植物は地中海文化に深く根をおろしてきた。
 そもそもヨーロッパの夏至にあたる6月24日は,キリスト教文化圏では言わずと知れた聖ヨハネの祝日である。現在でも各地で盛大に執り行なわれているこの祝祭の起源をたどるなら,キリスト教以前の夏至の祝祭にまでさかのぼる。太陽が黄道の最頂点に達し,その後は次第に天の路を下降して行く夏至の日は,古来,神聖かつ魔術的な瞬間とみなされ,植物の死と再生,自然の豊穣と人間の多産の神話を再現する祝祭が行なわれてきた。占い,清め,篝火,露と薬草の夜の収穫からなる古の祭儀において,少女たちは結婚運を占い,農民たちは収穫の予言を求めた。ローマ時代には,夏至の祭儀は冬至と組み合わされ,Fors FortunaとSol Invictusという名で太陽崇拝へと組み込まれた。
 これらの祭儀がのちにキリスト教の典礼に統合され,キリストと,彼より6ヶ月先に生まれた聖ヨハネの生誕を寿ぐ祝祭に継承されたのだ。洗礼者聖ヨハネ自身も「あの方(キリスト)は栄え,わたしは衰えねばならな
い」(ヨハネ福音書,3:30)という言葉を残しているが,この神話の定着に貢献したのは聖アウグスティヌスである。彼は,聖ヨハネの誕生日にあたる夏至が太陽の衰えとともに旧約の終焉を印すのに対して,冬至は太陽が栄える時期の始まりにあたり,新約とキリストの時代の誕生を印すと解釈した。二つの神秘的な誕生というこの神話は,太陽周期の異教の祭儀を上書きしつつ,キリスト教的祭儀へと適合されていった。
 ところで,聖ヨハネの祝祭の前夜には,妖精や魔女,死霊や生霊が出没するという。まさしく魔力に憑かれたこの夜,野の露が治癒力を高めるという伝承が存在した。露に濡れた草原を転げまわったり,掌で露を患部にこすったり,滴をパン生地に混ぜたりして,人々は病からの治癒を祈願した。そして,夜露に濡れた草そのものにも格別の奇蹟や魔除や治癒の力が宿るという信念も生まれた。それが「聖ヨハネの草」である。正確にはオトギリソウだけでなく,ミント,ゼニアオイ,タイム,コバノシナノキ,ヘンルーダ,ヴァーベナ,カノコソウ,ニワトコ,ヨモギ,カモミールなども含まれる。人々は,一年で最も短い夜が明ける前に急いで草を摘み取り,聖像をその束で飾り,花輪や花冠を戸口に吊るし,衣類箪笥に収めた。凶運と吉運,不毛と豊穣,死と生,苦悩と救済の両極のあいだでマクロコスモスとミクロコスモスの運命の輪が静かに廻るこの祭儀において,「聖ヨハネの草」は,宵闇に露玉を光らせ,檸檬にも似た芳しい香を放ちつつ,その神秘の力を発揮したのだ。