学会からのお知らせ

*第34回大会
 第34回大会を東北大学マルチメディアホール(仙台市青葉区川内41)において下記の通り開催します。なお,328号でご案内したプログラムに一部変更がありますので,ご注意下さい。
 一日目の秋保(あきう)温泉での懇親会,宿泊は,名鉄観光サービス仙台支店(電話022-227-3611,eメール:ve_lo_10@yahoo.co.jp)へお申し込み下さい。

6月19日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演
  「古代地中海世界のローマ人
   ──社会史的考察」      松本宣郎氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「島の魅惑──ああ,松島や」
   パネリスト:浅野和生/佐藤弘夫/芳賀京子/和栗珠里/司会:安發和彰各氏
19:00〜21:00 懇親会(秋保温泉蘭亭)
6月20日(日)
10:00〜11:30 研究発表
 「オーセールの大判絹錦《タカの図》──布が伝えるビザンティン文化の軌跡」  山中良子氏
 「ギベルティからベルニーニへ──鋳造された蜥蜴のモチーフをめぐって」       佐藤仁氏
 「舟運都市ヴェネツィアの近代化──19世紀から20世紀初頭を中心に」       樋渡彩氏
11:30〜12:00 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
12:00〜12:30 総会
13:30〜16:30 シンポジウム
  「フロンティア──周縁か中心か」
   パネリスト:櫻井康人/芳賀満/柳原敏昭/司会兼任:高山博各氏

*春期連続講演会
 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,
定員は130名(先着順,美術館にて前売券の購入が可能です)。
「地中海世界における異文化の交流と衝突」
5月1日 西洋化するイスラーム世界,イスラームを抱え込むヨーロッパ──近現代における展開        飯塚正人氏
5月8日 中世シチリアのノルマン王とイスラム教徒──異文化の共存と対立 高山博氏
5月15日 中世スペインの王都レオンの芸術活動
      ──レコンキスタの戦いとロマネスク様式の形成       安發和彰氏
5月22日 イタリアにおけるゴシック建築の受容と拒絶           石川清氏
5月29日 イスラム建築にみる異文化的要素の受容と展開         山田幸正氏












研究会要旨

パレストリーナのナイルモザイク

2月20日/東京大学本郷キャンパス

田原 文子


 紀元前2世紀の第4四半世紀のイタリア,パレストリーナ(古代の名称はプラエネステ)の「ナイルモザイク」には,氾濫するナイル河とそれに抱かれるエチオピアとエジプトの風景が描かれていた。ナイルモザイクは古代のモザイクの中で最も優れた作品の一つであるが,古代のイタリアの所謂エジプト趣味がいかなるものであったかを分析するために十分な考察を要する重要な作品である。
 ナイルモザイクについて
 ナイルモザイクは,プラエネステの山の中腹にあるフォルトゥナ神殿(「上部建築群」)の斜面の下方にある「下部建築群」の東側広間のアプシスの床面に張られていた。おそらくモザイクの表面はアプシスに取り込まれた山の岩肌から染み出した水で潤されていた。なお,下部建築群の西側の空間には,ナイルモザイクと対をなす魚類モザイクがある。
 現在のナイルモザイクの大きさは,奥行4.31m,底辺幅5.85mであるが,ナイルモザイクは発見時以来,たびたび修復を受けている。オリジナルの状態は,17世紀に作成された水彩によるモザイクのスケッチと,テッセラを固定させるモルタルの相違から判別されるオリジナル部分と修復部の区別によって推定されている。制作年代は,ポンペイのファウノの家に類例をもつ魚類モザイクがナイルモザイクと同時期に制作されたと考えられるため,紀元前2世紀の第4四半世紀と想定される。
 ナイルモザイクの主題について
 ナイルモザイクの主題に関しては,発見時以来様々な説が立てられてきたが,近年では,プトレマイオス2世のエチオピア探査,あるいはイシスとオシリスの儀式を描いたものとする解釈などがなされている。発表者は,モザイクの下部のエジプト風景には,ナイル河の第一瀑布周辺の一帯と,イシスとオシリスの聖地で行われる祭儀と洪水時の祝祭が描かれていると考察した。ナイロメーターのある神殿は,ナイロメーターの形状とストラボン等の記述との対照からシュエネであり,また,オシリス像のある神殿は,その位置からピラエのイシス神殿であると考えられる。さらに下部の中心的位置を占める場面は,ピラエ近傍のオシリスの聖地アバトンであり,オシリスの復活の儀式と洪水時の祝宴の情景が描かれていると考えられる。モザイクの上部のエチオピア風景では,洪水風景の中にナイルが生み出す様々な種の動物が
描かれていながらも,未開な文明社会が描かれているのに対し,下部のエジプト風景では神殿建築などの文明の栄えた社会が描かれる。この対照性は,エジプトの南限である第一瀑布における文明の神オシリスの復活により,エジプトに文明の恩恵がもたらされたことを描いていると解釈することができる。このような観点からは,ナイルモザイクは,イシスと習合したフォルトゥナの信仰図であるという解釈が成り立つ。
 下部建築群の機能について
 下部複合体とアプシス広間の機能に関しては,様々に議論されており,クリアなどの世俗的機能をもつ建築であるという説もあるが,発表者はイシス・フォルトゥナの神殿であるという説に従いたい。下部建築群では,帝政期のイシス・テュケ(フォルトゥナ)やサラピスへの信仰が行われていたことを示す碑文やオベリスク片が発見された。さらに,プラエネステの商人が商業活動を行っていたデロス島では前2世紀末のイシス・テュケ・プロトゲネイアへの奉納碑文が発見されており,プラエネステにおいても前2世紀末の時点で,イシスとフォルトゥナとの習合がなされていたと考えることが可能である。下部建築群がイシス信仰に関わる神殿であったという想定は,ナイルモザイクがイシス・フォルトゥナの信仰図であるという解釈と適合する。
 古典史料におけるナイル河イメージについて
 古典期から,ナイル河が他の河川と異なって特別に豊穣であるという記述は幾度となく繰り返されてきた。またナイルの水そのものに,とりわけ大きな生命を生み出す力や不可解な繁殖力が宿っているという逸話が数多く記されてきた。これはヘレニズム時代の初期からローマ時代に至るまで,繰り返し記されており,氾濫時の水が堆積土に生命を吹きこみ,土から生命を造り出すとされた。ナイルは,とりわけ生命力を孕んだ水であり,特別な豊穣をもたらす河としてイメージされていたのである。
 下部建築群は,フォルムの正面にあり,プラエネステ市の中心的位置を占めていた。ナイルの洪水を市の重要な位置に再現することは,イシス・フォルトゥナの恩恵と同時に,ナイル河がもたらす類い稀な豊穣をプラエネステにもたらすことを祈念する意味があったと考えられる。














ドーリス族の暮らす島

上野 愼也


 小アジア南西部の前面にコース島が浮かんでいる。医聖ヒッポクラテースが出,医神アスクレーピオスの神域で盛名を馳せたドーリス系の島である。同じくドーリス系のハリカルナーッソスとは一衣帯水であり,ために紀元前4世紀中葉,ここを根拠に威を張ったマウソーロスがコースを支配下に組み込むこととなる。併呑に先立つ前366年,コース島内で集住が行われて全島の統一を見,新生コース市が誕生したと言われる。背後にマウソーロスの動静を読み取ろうとする立場も,強ち故なしとしない。
 前366年に集住を措定する通説は,前1世紀の史家,シチリアのディオドーロスと,前後1世紀の著述家,ストラボーンの記事を主たる根拠とするが,「右の事態が進行するのと同時に〔前366年〕,コース人は今日住みなす城邑へと引き移り」と見え(DS 15.76.2),また「コース人のポリスはそのかみアステュパライアと称し,別の場所で今と同じく海沿いの地点に営まれてあった。後に内訌に因り,スカンダリオン岬の附近,今日の城邑へと引き移」ったとあるばかりで(Str. 14.2.19),全島統合の史実をここに読み取ることは難しい。
 通説はこれに前4世紀の鐫刻に擬せられる供犠暦(RO 62)の文言を加味して,統合の事実と,年紀とを割り出す。「また,他の諸神と同様に,〔島内の〕他部族に勧請せられ鎮座まします神々に祝詞を奏上する」。該碑残存部分の冒頭はこのように始まり,ミュコノス島内の集住を伝える碑文を彷彿させる。「〔島内〕諸邑集住の砌,ミュコノス人左の如く決せり。奉祀し来たれる諸神に加えて〔他邑の祭神にも〕供饌し,旧慣を正すべき事云々」(LSCG 96)。コースの供犠暦に「集住」の字は見えないが,ミュコノスの事例から類推すれば集住の事実を措定したくもなる。
 しかも,コースの供犠暦では,以下に鎮護国家の神,ゼウス・ポリエウスに捧げる牡牛の簡抜方法を入念に書き記してある。しかるべき段取りで集めた牡牛群から,選りすぐりのものを部族毎に審査会場へと連れて行く。まずパンピューロイ部族,次いでヒュッレイス部族,そしてデュマーネス部族。ここにも,集住で成立したポリスならではの規定が見られるという。例祭の儀軌ならば事細かに書く必要はあるまいが,新生コースで新たに大祭を起こすには,緻密な指定が不可欠である。
 ドーリス族は下部単位に右の三部族を擁することが多く,その際にはデュマーネス,ヒュッレイス,パンピュ
ーロイ(およびその順列)の順序を伴うのが普通である。コースの供犠暦をよく見ると,この順序を顛倒していることが判る。しかも碑面で態々「まずパンピューロイ」と,起点を指定してあるのも見逃せない。パンピューロイを字面通りに読めば「全ての部衆」で,デュマーネス,ヒュッレイス以外の「その他大勢」である。
 もし,これまでコース島内で相互に独立していた諸邑が,新たに一国をなそうとするのであれば,ドーリス族の伝統に則るのが常道であろう。それを敢えて踏み躙れば,ドーリス族たるの体面が汚され,集住に亀裂が入る恐れはなかろうか。むしろ,従来島内の諸邑の間には相応の統合があって,ドーリス系三部族に基づく社会の運営も行われていたものが,何らかの機能不全に陥り,その解決のために部族の序列を顛倒したのではないか。
 ディオドーロスとストラボーンを見れば,コース島内で移住が行われていることは窺える。ストラボーンは島内の中心がアステュパライアから現在のコース市に移った理由に,内訌を挙げてもいる。地理的な要因が絡んでいることは想像に難くない。ならば,擬似血縁原理(部族)を以て,地縁原理を掣肘し,事態を改善する方途もあり得よう。その際,擬似血縁原理の強化を実効あらしめるためには,旧慣を顛倒し,部族の機能を再定義するのも一法である。旧慣そのままの部族に倍旧の機能を期待する方が難しい。
 イオーニアーといい,ドーリスといい,これを称える集団の根柢にあるのは,極言すれば,共通の祖を戴く縁続きとの意識である。意識であるから,二千年以上も経つと,その動態を追うのは骨が折れる。コースもその例に漏れない。抑も,ドーリス系だから右の三部族を持つとは限らない。アステュパライア(後のイストミア)には独自の部族制度が存在した。前3世紀にコースと合邦する北隣の島,ドーリス系のカリュムナにも,やはりドーリス三部族とは異なる伝統があった。コースの顛倒した部族序列が正順に直るのは,実にこのカリュムナとの合邦を待たねばならなかった。コース市民の胸中で「あるべきドーリス」の像がどのように変遷していったのか。時代を下るほどに先鋭化していったのかも知れない。そんなに単純なことではないのかも知れない。気まぐれにコースを覗き,学説史を斜め読みして片言節句を弄んでみても,あれこれと思うところはあるものである。


















フランチジェナ街道に残された足跡

片山 伸也


 イタリアのトスカーナ南部にはクレーテ・セネーゼと呼ばれる荒涼とした粘土質の丘陵地帯が横たわっている。その中央を南北に縦断するのがフランチジェナ街道で,現在の国道2号線とその行程は概ね一致する。ローマとアペニン以北を結ぶ重要な通商路だが,ローマ時代にはカッシア街道とアウレリア街道の影に隠れた存在で,この行程が最初に歴史の表舞台に現れるのは,ランゴバルドの登場を待つことになる。ミラノの西方パヴィアに首都を構えた彼らは,半島の東方および海岸線を支配していたビザンティンの影響を避けて南北の行程を確保するために,エミリア街道を南下した後,パルマとルッカの間に横たわるアペニン山脈をチサ峠で越えて,フィレンツェを通る内陸のカッシア街道と海岸線に近いアウレリア街道を避けて通ることを余儀なくされた。
 こうしてエルサ渓谷からアルビア渓谷,オルチア渓谷へと通り抜けトスカーナを縦断する行程が中世初期に確立する。ランゴバルドはこの行程を保持するために,ルート上に軍事拠点であるラディコファニや王立とも言えるサン・サルヴァトーレ修道院を建設していく。
 オルチア渓谷の山腹に建立されたサンタンティモ修道院も,そのような戦略的に建設された修道院の一つであった。352年にこの地で亡くなったアレッツォの聖人アンティモを記念して建てられた礼拝堂が起源と言われるが,770年にランゴバルドによってベネディクト会の修道院が建設され,以後,ローマへ向かう巡礼や商人,王の遣いなどが利用した。伝承では781年にカール大帝がローマからの帰途,この修道院に立ち寄り基礎に紋章を残したと言われているが,確かなことはルイT世が多大な寄進と特権を与えて以降,フランク王立の様相を呈したことである。近接する都市モンタルチーノはこのルイI世によってサンタンティモ修道院に献納されたため,長らく修道院長の支配下にあった。
 今日残る聖堂は,1118年にアルデンゲスキ家のベル
ナルドが全相続財産をこの修道院に寄進したことをきっかけに建設が始まる。クリューニーの大修道院を参照するべくフランス人修道士が招かれ,12世紀半ばには新しい聖堂の建設はほぼ終了したが,ファサードは今日なお完成していない。
 聖堂の建物には構造と装飾の双方にアルプス以北との関係が指摘されている。放射状祭室を持つ後陣(図1)まわりの周歩廊はクリューニーの聖堂建築との関係を指摘されているが,このような図像学的な特徴は少なくとも12世紀半ばまでのベネディクト会の聖堂建築にほぼ独占的に見られ,その後あらゆるフランスの大聖堂に流布した。このモチーフはエルサレムの聖墳墓教会にも認められ,トゥールーズのサン・セルナン聖堂やサンティアゴ・デ・コンポステラ聖堂のような中世の巡礼の目的地であった教会に典型的に採用された。
 もう一つの建築的モチーフである二連の扉口も,これら大きな巡礼教会とサンタンティモとの共通点として指摘することができる。今日ではその痕跡が残るのみだが,当初のこの聖堂のファサードにはポルティコが付いていたはずであり,そのポルティコの下に中央身廊と一致する双子のアーチ痕を確認することができる(図2)。フランスではこのタイプ(双子のアーチ)の事例は僅かで,楣の下を中央の隔壁で二つに仕切るのが一般的であった。
 著名な巡礼教会の聖堂建築を彷彿させるサンタンティモ修道院聖堂の建築は,中世後期のフランチジェナ街道の往来のにぎわいをも物語っているかのようである。1191年に第3回十字軍からの帰途にあったフィリップII世もその中にいたのである。
 近代に入って,鉄道がかつてのカッシア街道の行程を引継いだとき,サンタンティモ修道院は初めて本来の観想的静寂を得たのではないだろうか。



        


図1 サンタンティモ修道院聖堂後陣       図2 サンタンティモ修道院聖堂入口















ノヴェッラーラの「古」地図

園田 みどり


 2006年1月,北イタリアの小都市ノヴェッラーラから,古地図風の手法で町を一望する鳥瞰図が届いた。送ってくれたのはコレッジョの聖セバスティアーノ病院に勤務する傍ら,余暇のすべてをノヴェッラーラの郷土史研究に捧げていたジャン・パオロ・バリッリ氏である。その「古」地図は,まさに彼の情熱が結実したものだった。
 私がバリッリ氏と出会ったのは今から10年ほど前のことである。当時私はイタリア留学中に指導を受けたボローニャ大学の教授陣から,学会誌に掲載する書評を執筆するように依頼されていた。その準備のため,私は以前から訪問したいと願っていたノヴェッラーラに赴いたのだが,目当ての古文書にたどり着くのは一苦労だった。ノヴェッラーラでは,それまで未整理だったかつての領主ゴンザーガ家にまつわる書簡が調査され,その過程でかなりまとまった数の音楽家の手紙が発見されたところだった。書評を書くべき本は,その新発見の手紙38通の全文を収めたもので,すでに前年に公刊されているのだから,私は市立図書館に行けばオリジナルを簡単に見ることができるだろうと高をくくっていた。だが,ノヴェッラーラは小さな町である。古文書室が設置されたのは,私が訪問してから数年経ってのことであり,閲覧を希望する場合はあらかじめ然るべき担当者と電話で打ち合わせをしておく必要があった。その辺りの事情をよく理解しないまま,無理を言って飛び込みの閲覧を許可してもらい,念願の手紙を眺めていたところに,あたかも「毎日通っています」という風情で現われたのがバリッリ氏だった。
 バリッリ氏は,問題の音楽家の手紙を発見した本人であったから,書評執筆に際して私の抱いていた疑問に残らず明快に答えてくれたばかりでなく,家に戻ればもっと詳細なデータがあると言って,わざわざ一旦帰宅してデータのプリント・アウトを持ってきてくれた。帰りがけに車中でつまむようにと,お菓子を添えてである。私が書評を書いた本は,国際的に有名なイギリスの音楽学者イアイン・フェンロン教授によるものだったから,このような書物が刊行されたことはノヴェッラーラにとって一大事件だった。そのため,翌年には市の主催で「1400〜1500年代の宮廷音楽」と題するシンポジウムが開催された。著者と,バリッリ氏を始めとする郷土史の先生たちに混じって,なぜか私もパネリストとして
参加することになったのだが,その際に常に私の傍らにあって何くれとなく気遣ってくれたのもバリッリ氏だった。
 ノヴェッラーラの「古」地図は,モデナ公が城砦(現在の市庁舎)をノヴェッラーラに売却した1754年から,中心街の詳細なカタストが実施された1810年までの姿を再現したものである。前景にはノヴェッラーラの歴史を物語る品々が飾られている。郷土史研究のためマントヴァの国立古文書館に通っていたバリッリ氏は,館内の壁に飾られていたロレーノ・コンフォルティーニ氏(1954?)の作品を目にした。イタリア各地の都市や歴史建造物のパノラマ図を得意とする彼に,是非わが町ノヴェッラーラの「古」地図を描いてもらいたい。スポンサー探し,作家との交渉,そして描くべき時代の選定と,各々の建物の詳細についての調査。きっと,八面六臂の活躍だったに違いない。
 残念なことに,バリッリ氏は2007年11月に61歳で他界した。訃報は新聞の地方欄に大きく掲載され,葬儀には市長と数多くの一般市民も参列したという。同12月には,リニューアルした古文書室に彼の名前が付けられた。亡くなる間際まで,バリッリ氏はこの「古」地図の解説文を執筆していた。未完に終わった遺稿は,昨年,妹で同じく郷土史を研究する小学校教師マリア・ガブリエッラ・バリッリ氏の手によって小冊子となった。
 なお,コンフォルティーニ氏はホームページ上で画像付き作品一覧を公開している(http://www.lorenoconfortini.it/)。是非訪ねてみてほしい。学会員諸氏にとって懐かしい場所に出会えるかもしれない。
















自著を語る63

『サー・ガウェインと緑の騎士』

専修大学出版局 2009年7月 vi+158頁 3,400円+税

池上 忠弘


 本訳詩物語の内容を具体的に語ることにしよう。この〈小さな本〉の原典は英国図書館所蔵の小さな四つ折判写本の中にある。1970年夏,初めての英国留学の折,早速大英博物館写本読書室に行き接触することができた。『真珠』『清純』『忍耐』『サー・ガウェインと緑の騎士』の四つの頭韻詩群が収められ,四つの作品の挿絵が全部で12枚入っている絵本になっている。14世紀末の写本と推定され,この4作品は同一詩人──「ガウェイン」詩人あるいは「真珠」詩人と呼ばれている──の作と考えられている。
 実はこのコットン・ネロA.x写本の内容が初めてはっきり確認されたのは19世紀中頃のことであった。大英博物館のフレデリック・マッデン(1801〜73)の調査によって明らかにされ,1839年校訂本『サー・ガウェイン』が公刊された。この中の一編が『サー・ガウェインと緑の騎士』という表題をつけられて陽の目をみたのである。英米仏で早くから高い評価を得,『カンタベリ物語』のチョーサーと並ぶ存在となった。北西中部地方言で書かれかなり凝った難しいスタンザ形式の頭韻詩なので,現代英語訳や詳しい校訂本が多数刊行されている。本訳書はその中のノーマン・ディヴィス改訂版(1967年)を底本として,スタンザ形式を保ち散文詩のように訳してみた。
 本物語詩はアーサ王の甥,名高い騎士ガウェインの探索を扱ったロマンスである。一月一日,新年の大祝宴会をカメロットで開いていた時のこと,突如として馬に跨ったまま異形の全身緑の騎士が宮廷の大広間に乗り込んでくる。見事な緑の服装だが,盾も剣もなく両手に持つのは柊の小枝と巨大な斧だけ。態度が大きい。男はアーサー王騎士団に向かって「首切りゲーム」を申し出る。ガウェインが代表してそれを引き受ける。1年後に自らも相手の返しの打撃を受ける約束をしてから,みんなの前でその大斧を使って緑の騎士の首を切り落とす。男は自分の首を拾いあげ,馬に飛び乗り生首がガウェインに向かって緑の礼拝堂に来るよう告げて去っていく。このゲームが第一の主題で,人間にとっては命がけの仕事となる。目的地もはっきりとは分からない。
 秋になり11月2日ガウェインは準備を整え悲しみの宮廷の人びとに見送られ,北に向かってただ一人愛馬に乗って出発する。死を意識せざるをえない厳しい,重苦
しい旅である。12月24日,クリスマスのミサを聞くことができる宿舎を求めて聖母マリアに三度祈りを捧げると,深い森林の中に堀を巡らした城塞が目に入る。幻覚のような現実である。城に快く迎えいれられクリスマスの祝祭に加わり,さらに対決の場所が近いと教えられてその当日の朝まで逗留することになる。大きな罠が仕掛けられていることを彼は知るよしもなかった。年末までの三日間,第二の主題である「誘惑」が用意されている。城主と家臣は早朝から狩猟に出掛け,ガウェインは一人残って終日城主夫人の接待を受け,予めお互いの得たモノを交換するという約束に基づいて,城主が夜戻ってきたとき「獲物の交換」を行うことになる。
 狩猟と寝室場面が巧みに交差する物語展開により一番面白い見所,人間味あふれる試練がくる。とりわけ奥方のご接待は,早朝からあられもない姿で騎士の寝室に押し掛けてくる。普通だと男性側がする言動を彼女が一方的に元気よくやるので喜劇的でさえある。ガウェインは防戦につぐ防戦で,エロスの攻勢を堪え忍ぶ。二人だけの語らいにはフランス式宮廷風恋愛調の発言が交わされ,奥方が引きあげるときには口づけを求められ,その後はもう一人の威厳ある老婦人も加わって夜まで城中で楽しく過ごす。城主は鹿・野猪・狐を,一方ガウェインは接吻を連日相手に与えた。ただしガウェインは三日目に奥方から身を守るという保証付きの緑の腰帯を無理に受け取らされ,城主に内緒にしたことが後に尾を引くことになる。
 運命の元日,途中まで案内人に導かれ,馬に乗ったガウェインは谷底に降りていく。魔の目的地で緑の騎士と再会し,大斧による返しの打撃を受ける。幸い首に切り傷がつく程度ですまされ,誠実の士と認め穏やかになった奇怪な騎士がこの試練の謎解きをする。彼は実は城主ベルティラックであり,この事件の発端は城中にいた老婦人モルガン・ル・フェイのアーサ王妃グィネヴィアに対する積年の憎しみにあったと明かす。これを聞いて怒りと恥に燃えあがった完璧の騎士は城に戻らず,問題の緑の腰帯を肩に掛けたまま真っすぐ南のカメロットに帰ってしまう。荒涼たる冬の北国の物語は古い英語詩の伝統にあってケルト的要素を含み,同時代のフランス文学伝統に入りこんだ傑作であり,中世のアーサー王物語はこのように汎ヨーロッパ文学の一例である。











地中海世界と植物8


カサマツ/金沢 百枝



 青い空にのびのび枝を広げるカサマツ(Pinus pinea)を見ると,イタリアに来たと実感する。傘を広げたような樹形から〈Umbrella pine〉とも,嬰児の頭ほど大きい松毬から〈Stone pine〉とも呼ばれ,ローマ時代から防風林として沿岸部に植えられた。ボッカチョの『デカメロン』で亡霊譚の舞台となっているのは,こうした海辺の松林である。恋煩いの青年ナスタジョは,思い人のいる町を離れて静養している。つれないひとを忘れられない日々,鬱々と散歩していると,全裸の女が白馬の騎士に追われているのを目撃する。女の心臓は抉りだされ,飢えた猟犬に投げ与えられる。女はすぐに生き返る。吃驚する青年に,騎士は全ては恋煩いのため自殺した自分と,その死を嘲笑した女に課せられた地獄の刑罰だと告げる。ボティチェリが描出するとおり,松林で永劫に繰り返されるスペクタクルは色鮮やかで生々しい。
 とはいえ,地中海の文化においてより重要なのは,樹木ではなく,松毬であろう。ヴァティカンの旧サン・ピエトロ大聖堂の前庭には,3メートルを超える高さの巨大松ぼっくりが置かれていたという。そのブロンズ彫刻は古代の再利用品で,紀元2世紀頃の作とされる。水道設備の痕跡から,8世紀には噴水だったらしい。この前庭は「パラディスス(楽園)」と呼ばれて親しまれ,ライヒェナウやモンテ・カッシーノの修道院を含め,ヨーロッパ各地に広まった。アーヘンの宮廷礼拝堂には1メートル弱の大「松ぼっくり」も残る。12世紀には既に泉としての機能を失っていたが,それでも,巨大な松ぼっくりはヴァティカンを訪れる巡礼者に強烈な印象を
与えたようだ。16世紀から17世紀,改修中のサン・ピエトロ大聖堂を描いた素描や水彩画の多くに,場違いに大きい松ぼっくりの描写がある(表紙の図:ドメニコ・タッセリ,ローマ,旧サン・ピエトロ大聖堂ファサードと前庭の素描,ヴァティカン使徒図書館Cod. A64 ter, fol. 10,1605年頃)。
 なぜ,松ぼっくりなのか。古代ローマ時代の噴水口に,松毬型は稀ではない。古代末期の墓碑彫刻には死者の魂を松毬として象った例もある。しかし,ヴァティカンの松ぼっくりの大きさは尋常でなく,これが何を意味したのかについて論議されている。松に生まれ変わったアッティス神との関連(松毬は去勢したアッティスの子種),聖堂移設前の松笠が置かれていたセラピス神殿との関連等である。なかで最も説得力があるのは,デュオニシオス信仰と関わる「臍」説であろう。初期キリスト教美術が,この密儀宗教から引き継いだのは,「葡萄」だけではなかったらしい。酒神デュオニシオスの持つ霊杖テュルソスの突端には,男根崇拝の流れを汲み,「豊穣と再生」を意味する松毬がある。デュオニシオスの墓とされるデルフォイの神殿前広場には,オンファロス(臍)と呼ばれる石があって,ヘレニズム時代,「世界の中心」を示す目印とされていた。この石が松ぼっくりの形なのは偶然ではない。また,8世紀の教皇が,それを踏まえて,世界の首都たるローマのサン・ピエトロ大聖堂に「世界の臍」を置いたとしても不思議ない。そして,教皇の杖の先には,今も,松ぼっくりの飾りがついているという。