学会からのお知らせ

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:民主政アテーナイの法廷外決着と公共圏
発表者:佐藤 昇氏
日 時:12月12日(土)午後2時より
会 場:東京大学法文1号館3階315教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 紀元前4世紀,民主政アテーナイでは特徴的な裁判制度が発達をみた。公益を損なう事件が発生すれば,その提訴は希望者,すなわち一般市民の手に委ねられていたのである。しかし法廷は単に事実を究明し,犯罪を処罰するだけの場ではなかった。私怨からの告発もあれば,裏取引もあり,訴訟が取下げられることもあったようだ。本報告では,訴訟取下規制法と法廷外決着の実態について考察を加え,それに対するアテーナイ市民の態度,世論について考えてみたい。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には本号に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出ください。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2010年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続
きをされていない方,今年度(2009年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(314号)に同封してお送り致します。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
 2010年2月23日(火)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2010年4月23日(金)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
 なお3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。

*新型インフルエンザ
 本学会では,新型インフルエンザの影響により研究会・講演会等の公開事業に不測の事態(中止,延期,内容の変更等)が発生した場合,可能な限り,学会のホームページ(http://wwwsoc.nii.ac.jp/
mediterr/),メーリングリストで変更をお知らせします(ただし,メーリングリストは登録している方に限ります)。










ピノー・コレクションと安藤忠雄 

鈴木 杜幾子


 晩夏のヴェネツィアで数日を過ごした。数年来,現代美術の定点観測のようにしてビエンナーレを訪れている。加えて今年はもう一つの計画があった。フランスの財閥フランソワ・ピノーの現代美術コレクション展示館として2006年に開館したパラッツォ・グラッシと,同じ目的でこの夏公開されたプンタ・デラ・ドガーナを見ることである。パラッツォ・グラッシは18世紀の館,プンタ・デラ・ドガーナは15世紀の税関を前身とし,双方とも建築家安藤忠雄が美術館として再生させた。
 ヴェネツィアは非現実的な都市であると同時に,即物的な街でもある。大昔の沼沢地から営々として水を排除して現在の姿となった歴史や,今でも水没の危機から街を救うための「モーゼ計画」を耳にすることに,よそ者は海中に没した伝説の大陸を思い起こさずにはいられない。が,その一方で,陸としての基盤を造るための太くぬらぬらとした木の杭や,道路を被う目の詰んだ石材,建物を形づくる年月を経た煉瓦は,ガラスでできた高層ビルを見なれた私たちにまるで「第二の自然」のような触感を蘇らせてくれる。
 そして安藤忠雄もまた実体とその消去をヴォキャブラリーとする建築家である。彼の作品においては,重量のあるコンクリートは滑らかで青みを帯びた面を示し,積み石の塀は突然のようにとぎれて青空に続く草地となる。硬い石床の先に水が拡がり,巨大な建築空間はわずかな部分を残して地中に没する。この実体と消滅のあわいにおいて,安藤はヴェネツィアの建築家となった。
 プンタ・デラ・ドガーナは,サン・マルコ広場側からの景観の要をなしている。カナル・グランデとジュデッカ運河の分岐点に鋭く突出した三角形の土地の先端に,ほぼ一杯に建つ純白の税関。低層ではあるが先端には黄金の天球を載せた塔が建つ。目を移すと,後方にサンタ・マリア・デラ・サルーテ,左沖合にサン・ジョルジョ・マッジョーレ,かなたのジュデッカ島にはイル・レデントーレと,ドームを戴く三つの教会が一望に納まる。
 安藤の美術館建設は,17世紀の建築の外観と構造をほぼ残したかたちで行なわれている(開口部のアルミの格子だけはヴェネツィア伝統の職人芸で新たに編まれた)。内部設計の基本は,近年に行なわれた改修の痕跡を消し,オリジナル建築の傷んだ部分を古材バンクからの部材に交換し,地盤,湿気,浸水対策を施した上,既存の建築に負担をかけないような方法で新しい美術館を挿入することであったという(ということは,今度完成した美術館もまた理論的には撤去可能ということなのだ
ろうか……。
 オリジナル建築は岬側を頂点とし,サンタ・マリア・デラ・サルーテ広場に向かって拡がる長辺105m,短辺75m,面積5,000m²の二等辺三角形で,両運河側に開かれた九つの短冊状に仕切られていた。物資を税関検査のためジュデッカ運河から荷揚げし,カナル・グランデ側でふたたび船に積載するための設計であったという。
 安藤は三角形の中央付近にトラス二つ分の幅のコンクリートのキューブを挿入し,そこが「セントラル・コート」と呼ばれる主展示室になっている。周囲の展示室は中二階を設けて二層になっているが,主展示室は二層分の階高をもち,木梁を顕わにした吹き抜けになっている。キューブではあっても,四カ所ある出入り口には扉もなく開放的で,屋根からの陽光や,他の展示室や通路を隔てて見える窓の外の運河と対岸の眺めによって,閉塞感はまったく感じられない。古美術の展示スペースでは自然光利用が困難であるのに対し,現代美術展示であればこそ可能になった設計ともいえるかもしれない。
 パラッツォ・グラッシについて言及する紙数は残っていないが,筆者はパリのセーヌ川のスガン島に安藤が計画していたピノー財団美術館につながるものとして,プンタ・デラ・ドガーナに関心をもった。スガン島もまた鋭い先端をもち,安藤の計画案はかつてここにあったルノー工場が軍艦型であったことへのオマージュか,巨大な船のかたちをした美術館であったからである。
 ピノー・コレクションは2006年のパラッツォ・グラッシの開館以前には謎の存在であった。今回その一端を見て,モダニズムの痕跡をほとんど残さない先鋭さと,ときに粗暴にさえ感じられる作品を選ぶことを辞さない強い個性に一驚した。一点だけ選ぶならば,岬の突端に立ち,蛙を手にする少年の像がある。プンタ・デラ・ドガーナ開館のために1953年生まれのチャールズ・レイに注文されたこの像は,その白さと古典的造型によってヴェネト地方が生んだ最大の彫刻家カノーヴァを思わせ,蛙によって沼沢地であったこの街の歴史を暗示しながらも,少年の不敵な表情と大理石ならぬその素材(ステンレスとアクリル系ポリウレタン)とが,一挙に西洋美術の伝統を相対化する。
 ヴェネツィアは隔年のビエンナーレによって現代美術を更新してゆく土地である。今後ピノー・コレクションがそれに呼応して生長点をもち続けてゆくのか,あるいはまた,後世にとっては世紀転換点の芸術の二つの「神殿」に過ぎぬものとなるのか,それを見守ってゆきたい。












春期連続講演会「地中海世界の女性たち」講演要旨

両極の女性像

──スペイン(古典)文学の場合──

 清水憲男


 近年,スペインでは多くの女性論が発表されてきた。歴史学,社会学,人類学の視点からなど,枚挙にいとまがない。今回の発表ではスペインの主に古典文学における女性の描かれ方とその背景について考察した。
 文学と女性を考えようとした場合,「女性が書いた文学」なのか「女性を描いた文学」なのかがまず問題にされなくてはなるまい。某研究によると,スペインの中世末期には概算で700人からが詩作をし,うち6人の女性が確認され,2名が無名ながら女性だと推定されている。このうち文学史に名を残している女性は,せいぜい3名にとどまる。こうした女性文学の場合,修道女の手になる宗教文学が主となるのは,社会状況からして当然だった。また彼女たちが書き残したものが後世いかに文学的に評価されようが,敢えて言うなら芸術作品として完成度の高いものを執筆しようとしたというより,文字をもって具体化した信仰告白を主眼としたものと見てよい。
 これに比してフィクションとしての作品を執筆する「プロの」女性作家の台頭は,16世紀中頃に騎士道小説を書いたBeatriz Bernal,17世紀のMariana de Carvajal(1610-15?〜1663-66?),とりわけMaría de Zayas(1590〜1661)を待たねばならず,後者は『恋の模範小説集』(Novelas amorosas y ejemplares)で男尊女卑をみごとな筆致で排撃する。その後しばらく女性作家はなりを潜め,ロマンチシズムの時代になって息を吹き返し,浮沈を繰り返しながらも,旺盛な活動を展開する今日に連なる。
 総じて男性主導で展開してきたスペイン古典文学には,女性崇拝とは裏腹に,執拗なまでに女性を揶揄する作品が溢れる。そして双方の視点の意識的な相克は,ほぼ15世紀に頂点を迎える。女性揶揄の源泉をスペイン内部に限定して求めることは,もちろんできない。ギリシア・ラテンの系譜(パンドーラーの箱,アウルス・ゲリウス,アリストテレス他),聖書(「一テモ」2-12〜14,「一コリ」11-2以降他),キリスト教教父(テルトゥリアヌス,アウグスチヌス,アクイナス,イシドルス他)などだが,現代感覚からして好都合な箇所を盾にする場合が少なくなかった。とりわけセビリアの聖イシドルスなどは,スペインの古典作家には誠に好都合な利用が可能だった(Etymologiae, VII, VI, 5-6など)。
 スペイン中世文学を考える場合には,13世紀の翻訳活動を介して伝わったイスラム系説話の影響も勘案しなくてはならない。Bonium (181), Libro de los exenplos por a.b.c (224, 299, 303, etc.), Libro de los buenos proverbios (XXVII)などの作品に,その影響が顕著だ。これに追い打ちをかけたのがCerverí de Girona (Guillem de Cervera, 1259?〜1290?)のProverbis, Francesc Eiximenis(c1340〜c1409)のLlibre de les Dones, Bernat Metge(1346?〜1413)のLo somni, Jacme Roig(c1401〜1478)のSpillに代表されるカタルーニャの作品群で,とりわけPere Torroella(c1420〜c1492)がカタルーニャ語を避けてスペイン語で書いた詩集『女性の悪口』(Maldezir de mugeres)などは,かなり読まれたことが知られている。
 男性文筆家が本音で女性を見下していたと解する必要はもちろんない。頻繁に見られる女性排撃は,いわばブラック・ユーモアの一つ,あるいは女性の魅力に翻弄される男性を自虐的に戒める手法,さらには女性の魅力を信じ切れない男性の焦燥,不安の吐露と解することも可能だ。そのあたりの二律背反は,アルフォンソ10世賢王(1221〜1284)のような中世スペイン文化史の中核に位置する人物にも見て取れる。彼が主になって編纂した『第一総合年代記』(Primera crónica general, 196)では女性を蔑視しておきながら,『聖母マリア頌歌』(Cantigas de Santa María, 420)では女性の知的自由,資質を評価し,聖母に限定することなく女性の存在を積極的に高揚している。
 その後,女性賛美に徹する叙情詩群が16世紀に開花し,17世紀に肯定と否定とが共存する作品群が再燃することとなるが,その中で女性の賛美・卑下という次元を越え,微細な心理,葛藤,喜び,悲哀などを一挙に深めるのに成功したのが他ならぬセルバンテスだと断定したら,これまた一面的とみなされてしまうのかも知れない。














春期連続講演会「地中海世界の女性たち」講演要旨
皇妃になった踊り子

──ビザンツ皇妃テオドラ──

高山 博


 ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世(大帝,在位527〜65年)に大きな影響を与えた皇妃テオドラ(500頃〜548年)は,コンスタンティノープルのヒッポドローム(馬車競技場)で働く熊の世話係の娘として生まれた。テオドラは,最初は,姉のアシスタントとして舞台にあがり,踊り子(女優)となった。その後,皇帝ユスティヌス(在位518〜27年)の甥で当時皇帝を補佐していたユスティニアヌスと知り合うことになる。
 ユスティニアヌスはテオドラを見初め,宮殿で一緒に生活するようになった。しかし,結婚はできなかった。ユスティニアヌスの身分の者が,女優やその娘と結婚することは法律で禁じられており,皇帝ユスティヌスの妻エウフェミアが強く反対していたからである。しかし,エウフェミアが死亡すると,ユスティニアヌスは,叔父を説得して法律を改めさせ,525年にテオドラと正式に結婚する。ユスティニアヌスが43歳,テオドラは28歳前後のときだった。
 527年,皇帝ユスティヌスが死亡し,ユスティニアヌスは皇帝となり,テオドラは皇妃となった。テオドラは,皇帝となったユスティニアヌスのよき相談相手となり,彼が弱気になったときには強く励ましたという。その例としてよく知られているのは,532年,ヒッポドロームから起こった首都市民による「ニカの乱」の際のテオドラの毅然とした態度である。
 532年1月14日,二輪車競争に熱狂した民衆が騒乱を起こし,これを首都長官が厳しく鎮圧した。この厳しい鎮圧に憤った民衆たちは,ニカ(勝利)という言葉を叫びながら,首都長官の役所に殺到し,捕らえられていた仲間たちを救出し,建物に火をつけた。翌15日,民衆は,競技場に集まり,首都長官だけでなく,オリエント近衛長官,宮廷法務官らの罷免を要求した。皇帝は,民衆の要求を受け入れて,三人を罷免する。しかし,民衆の怒りは収まらず,叔父ユスティヌスの前の皇帝だった故アナスタシウス1世(在位491〜518年)の甥プロブスの家に行き,彼を皇帝として宣言しようとした。しかし,彼はこれを拒んで逃走してしまう。群集は彼の家を焼き,さらに公共の建物に火をつけた。18日,皇帝は,群集をなだめるため恩赦を発表したが,暴動は収まらなかった。その後,群集はアナスタシウス1世の甥ヒュパティウスをかつぎあげて皇帝と宣言した。ヒュパティウスは,彼を支持する元老院議員の会合を開き,
帝位を要求して競技場に臨んだ。首都にはわずかな軍隊しかおらず,ユスティニアヌスにとって,状況は絶望的だった。
 同時代に書かれたプロコピウス『戦争の歴史』によれば,皇帝と廷臣たちは,宮殿に留まるべきか,船で逃げるべきかを慎重に審議していた。そのとき,皇妃テオドラが,立ち上がって次のように述べたという。
 「女性は男性の前で勇敢さを示すべきではないし,躊躇する男性の前で大胆な行動を取るべきでもないという考えがあることを,私は知っています。しかし,今のこの危機的な状況の中で,それを議論する時間的余裕はありません。私たちが持っているものが最大の危機に瀕しているとき,この危機を乗り越えるためにどうしたらよいのか,そのことに知恵を絞るだけだと思います。
 たとえ命ながらえることができたとしても,今は逃げるべきではありません。この世に生まれ落ちた者は,いつか必ず死を迎えます。皇帝たる者,逃亡者になることなど決してあってはならないのです。私は,自分が紫の帝衣を脱がされるのを見たくはありませんし,人々が私を皇妃と認めない日まで生き伸びたいとも思いません。
 陛下,生き延びることだけをお望みでしたら,何も難しいことはありません。お金は十分ありますし,目の前は海,船も用意されています。しかし,よくお考えください。そこまでして生きながらえたところで,果たして死ぬよりよかったと思えるものでしょうか。
 私自身は,「帝位は最高の死装束である」という古の言葉に深い共感を覚えます。」
 皇妃がこの話を終えると,そこにいた人々は勇気に満たされた。テオドラの毅然とした態度が,皇帝ユスティニアヌスの運命を変えたともいえる。テオドラの言葉により,側近たちは,逃げるべきか留まるべきかという議論から解放され,どうやって反乱を鎮圧するかに意識を集中させ,一致団結して反乱を抑えることになったからである。皇帝側についていたオリエント軍司令官ベリサリウス,イリュリクム軍司令官ムンドゥスが,兵を率いて競技場になだれ込んだ。このとき,軍隊は3万人の市民を殺したと言われている。ヒュパティウスとその兄弟たちは,捕らえられて,翌日死刑に処された。彼を支持した元老院議員たちは,追放され,財産を没収された。ユスティニアヌスは,このときに,徹底的な弾圧を行い,専制権力を確立したと考えられている。















クレタ島のアンダルス人

太田 敬子


 古典古代以降のクレタ島の歴史が注目されることは少ないが,イスラームとの関わりについて語られることはほとんどないだろう。クレタ島が9世紀前半から10世紀半ばまで,120年近くイスラーム教徒(ムスリム)の支配下にあったことに驚愕する人もいるかもしれない。しかし,この時期のクレタ島の歴史を繙くと,地中海の東西南北を結ぶダイナミックな人や物の動きが浮かび上がり,大変面白い。一時期とはいえムスリムの支配下にあったため,アラビア語の地理書にはクレタ島に関する記述が比較的豊富である。その中にはクレタ島の輸出品の記録もあり,アンチモン,クルミ,ヘーゼルナッツ,ザクロ,チーズ,蜂蜜などが挙げられている。特に興味深いのは,クレタ島がエジプトにチーズと蜂蜜を輸出し,北アフリカやイベリア半島からオリーブ油を輸入していたという記録である。クレタ島にはオリーブの木がなく,地産の油はゴマやアブラナから生産されたという。
 西暦824年頃,アブー・ハフスという人物に率いられたムスリムの集団がクレタ島を占領する。アブー・ハフスは,イベリア半島のコルドバ北方のペドロチェの出身であった。この「アンダルス人」たちは,818年に後ウマイヤ朝のハカム一世によって追放された反乱分子,具体的には,797年にトレドで虐殺されたムワッラドゥーン(イスラームに改宗したキリスト教徒の子孫)の生き残りと,彼らと同盟していたコルドバ近郊のムスリムたちからなるグループであったと考えられている。クレタ島に移住したのは,おおよそ3,000名の集団であったらしい。
 アンダルス人たちが最終的にクレタ島に移住するまでには紆余曲折があった。その一部はモロッコに定住したと考えられる。それ以外の10,000名ほどは,海賊行為をしていたらしい。その中の一隊がエジプトにやってきて,816年頃沿岸地方に侵入,現地の諸勢力との抗争の末にアレクサンドリアを占領した。当時エジプトは各地に軍閥が割拠する内乱状態であった。その後10年近く,彼らはアレクサンドリアを支配する。彼らがアレクサンドリアを失ったのは,バグダードのアッバース朝政府が派遣したエジプト平定軍に破れたためである。降服したアンダルス人たちは,和平を締結してアレクサンドリアを離れ,クレタ島を目指した。
 いうまでもなく,クレタ島はエーゲ海の入り口に位置している。当時ビザンツ帝国のクレタ艦隊は,ムスリム
艦隊の攻撃に対してエーゲ海を防衛していた。クレタ島の陥落によって,ムスリム艦隊はエーゲ海の島々だけでなく,ボスポラス海峡までをも脅かすことが可能になった。クレタ島のアンダルス人たちが単なる海賊であったと見るか否かについては,従来から色々と議論されてきたが,彼らの一部が海賊行為を行ったことは否定できない。しかし,彼らの移住によってクレタ島が海賊や私掠船の基地となったという見方は短絡的である。アンダルス人たちは独立した小政権を島に形成したが,船舶・武器・物資・人材など,広い範囲でエジプトに依存していた。エジプト総督が彼らを支援していたのである。キプロス島と同じく,クレタ島は基本的には「海のジハード」の前哨基地であったといえる。それ故,クレタ島奪還のためのビザンツ海軍の活動は,すぐに始まっている。なかでも駅逓長官テオクティストスの遠征は有名である。843年3月,彼の指揮する艦隊はクレタ島奪還を図ったが,ムスリム側の策謀に陥る。テオクティストスは中央政府での地位を保持するために軍を放棄して帰還し,結局遠征は失敗に帰した。
 劣勢を挽回するために,ビザンツ軍は,クレタ島を支えていたエジプトに直接攻撃をかける。853年5月,ビザンツ艦隊がエジプト沿岸のダミエッタを襲撃した。ビザンツ軍の艦船は300隻,3名の司令官がそれらを指揮していたと伝えられている。攻撃の時期も慎重に選ばれていた。この時,犠牲祭の祝賀パレードのために,ダミエッタやティンニースの駐留軍は首府フスタートに召還されており,沿岸地域は無防備状態であった。ビザンツ軍は町を破壊し,蓄えられていた武器や商品や多くの捕虜を獲得した。市内にあった船舶の帆の貯蔵庫にも火がかけられた。ビザンツ軍は約1ヶ月間ダミエッタを占領した後撤退した。この事件はムスリムに大きな精神的衝撃を与えた。危機感を抱いたカリフは,翌年,ダミエッタ,ファラマー,ティンニースなどエジプト沿岸地域に要塞建設を命じている。しかしその後も,ビザンツ艦隊はエジプト海岸地方を脅かし続けた。一方,ムスリム艦隊のエーゲ海でのジハードも止まなかった。そしてクレタ島はその遠征基地であり続けたのである。
 地中海の遙か西方から到来してクレタ島を占領したアンダルス人たちは,ビザンツ帝国とエジプト双方に大きな影響を与えた。彼らは961年までクレタ島を支配したが,ニケフォロス・フォカスの率いるビザンツ艦隊の再征服によって滅ぼされた。














イスタンブルの夜と音楽

濱崎 友絵


 イスタンブルの音楽は,闇深くなる夜にどうやら醸成されるようである。
 そのことに気づいたのは,ある日の夕刻,電話口でトルコ人の友人から言われた痛烈なひとことがきっかけだった。「夜のイスタンブルを知らずして,トルコの音楽の何を語ろうというのか。」私は,トルコの近代化と音楽との関係,それも共和国建国以降に創られた新しい音楽,「国民音楽」を研究するためトルコの地を訪れていた。共和国初期時代の音楽改革とそこで生まれた新しい音楽。トルコ民謡をモチーフに西洋楽器で奏でられる音楽。都市で産み落とされたこの音楽は,今,トルコの人々の耳に届き,トルコ国民の音楽になっているのだろうか。
 イスタンブルは,人口約一千万人余りを抱えるトルコ最大の都市である。オリーブ色の目をした金髪の美女から眉の濃い顔立ちのくっきりした肌の浅黒い若者まで,さまざまな人種や民族が入り混じって闊歩する街である。冬の夜ともなれば,店先のケバブ屋からもうもうと煙が立ちのぼり,香ばしい牛肉のにおいを運ぶが,ふと視線を裏路地に流せば,ほの暗い道がどこまでも続いているようで,女一人,足を踏み入れることに躊躇する。
 イスタンブルに来てしばらくたったある冬の日の夜,私は電話口で叱咤された友人と連れ立って闇濃くなる街に繰り出していた。時計は午後10時半を回る頃である。
 イスタンブルの新市街に位置するイスティクラール通りは,ジーンズ姿の若者でごった返していた。CDショップのスピーカーからはトルコ・ポップスのビートが大音響ではじきだされ,裏路地からはトルコの民俗楽器バーラマの乾いた弦の響きと,こぶしのきいた朗々とした歌い声がきこえてくる。19世紀の佇まいを残すヨーロッパ風建築が立ち並ぶこの通りの裏にはロカンタ(大衆レストラン)がマッチ箱のようにひしめきあっていて,人々はビールやラク(トルコの地酒)を片手にゆったりと談笑にふけるが,そこにはヴァイオリンやウードを陽気に奏でながらも鷹のような眼光を投げかけつつテーブルの間を練り歩くロマの音楽家の姿がある。
 我々は,イスティクラール通りをずいぶんと下り,右に折れ,そこからまた裏路地を二本ほど入り,ベイオウルと呼ばれる地区の一角にある赤い扉の前に行きついた。ドアの前に屈強な男がひとり。ドアの上には「Babylon」(バビロン)の文字がライトに照らされて浮かび上がっている。扉を開けて奥に足を踏み入れると,
左手にはけっして大きくはないが胸の高さほどの舞台がせり出し,その前に広がるフロアには,ビールや煙草を片手に歓談に興じる若い男女の姿がある。ギャラリー風の二階の最前列に陣取り,視線を横に流すと,隣では背広姿の男性が五家宝のような葉巻をくゆらせている。
 1999年に誕生した「バビロン」は,ジャズからレゲエ,ロマ音楽からエレクトロニック音楽まで,トルコはもとより欧米からの最先端のアーティストが夜な夜なステージを繰り広げる,イスタンブルを代表するライヴハウスとして知られる。今夜の舞台は,メルジャン・デデMercan Dedeだ。トルコの葦笛ネイを用いたスーフィーの音楽とエレクトロニックサウンドを融合させ,今やヨーロッパでも高い知名度を誇るトルコ人アーティストのひとりとなっている。
 夜11時を回るころ,薄暗いフロアは黒い人影ではちきれそうなまでになっていた。11時半,メルジャン・デデがようやくステージに姿を現す。総勢6名,ウード,カーヌーン,ダルブカといったトルコ伝統楽器に,クラリネットを手にした一見してロマとわかる青年が続く。髪をモヒカンに刈り込んだメルジャン・デデは,ネイと打楽器ベンディールに加え,ステージに設置されたエレクトロニック機材を楽器のように操り,手や腕や頭の動きを止めることがない。時折,Tシャツからのぞく背中には刺青が浮き立って見えるが,彼の目は熱くもなく冷たくもなくどこまでも穏やかである。クラリネットの即興を尽くした切り口の鋭い旋律の綾と,尺八の音にも似たネイの風のような響きにフロアは満たされ,人々は,静かに熱狂している。イスタンブルの闇が深くなる頃,この実験的で,それでいてどこか古典的な響きをもつ音楽が「バビロン」のなかで躍動していた。このライヴハウスで奏でられた音楽が,四角い建物から抜け出し,「ダブルムーンDOUBLEMOON」レーベルのCDに乗って,イスタンブルを駆けてゆくのである。
 夜のイスタンブルは,音楽の縮図である。この中で音楽は沸き立ち,醸成され,あるいは捨てられ,代謝されてゆく。イスティクラール通りを道行く人々の口からこぼれ落ちる音楽に「国民音楽」の響きがあるのか。帰りの道すがら,我が友人はトルコ古典音楽の一節を口ずさんでいる。どうやらイスタンブルでは,この都市の夜を通過し得た音楽のみが,人々の間で生き残ってゆくらしいのである。









地中海世界と植物3


ウマイヤ朝モザイクの樹木/山田 幸正



 パレスチナ,ヨルダン川西岸地区の古都イェリコの郊外に,西暦8世紀中頃,ウマイヤ朝カリフによって建造されたと考えられる宮殿複合体の遺跡,ヒルバト・アルマフジャールがある。この複合体を最も特徴づけるものは宮殿本体の北側40mほどの位置にたつ浴場部分で,規模だけでなく,建築の構成や装飾においても顕著な価値を有している。幸いにも腰壁部分までの壁体や床がほぼ完全に残り,上部の構造物や装飾の破片もかなり良好なかたちで現在に伝えられている。
 浴場の大部分を占める約30m四方の大ホールは,いわゆる冷浴室(フリギダリウム)として機能していた。この大ホールの北西隅に開いた部屋をみると,奥(北)側をアプスのように半円形に突出させ,その床は高さ60cmほど一段高められ,その高さで手前の方5mほどの空間の三方をベンチ状にめぐっている。手前の方形空間には高窓付きのドームが載り,奥のアプス状空間には半ドームが架かっていた。この部屋はディーワーンと呼ばれ,カリフの私的な謁見用に使われていたとされる。本号表紙の写真は,このディーワーンのアプス状空間の床面に残るモザイクである(天井のように見えてしまっているが,これは撮影方向とは逆に示したためである)。
 枝と葉を豊かに生い茂らせ,いくつもの果実をつけた1本の大きな樹木,おそらくオレンジの木が中央に描かれている。この樹木は深緑,青緑,緑,黄緑と4段階ほどの色の濃淡によって生き生きと表現されている。この木の根元左側には,2頭のアンテロープが平和そうに葉を食んでいる。その一方,右側では1頭のライオンがアンテロープの背に襲いかかっている。
 ウマイヤ朝建築のなかで,岩のドームやダマスクスの大モスクなどにも素晴らしいモザイクが施され,そのなかにも植物をモチーフにした図柄を数多くみることができる。岩のドームにおける植物装飾では,アカンサスの渦巻,花環,ブドウの渦巻,ロゼットなど要素としてはそれほど多くなく,いずれもシリアやパレスチナでキリスト教時代から使われてきたものばかりであった。ただ,ペルシア起源のヤシや花などが混用されたり,宝石や王冠など現実にあり得ないようなものと植物が合成されたり,壁面全体に絨毯のように繰り返し広がるよう,ある種の抽象化・パターン化されたりしている。またダマスクスの大モスクでは,川沿いに並ぶ大きな樹木が雄大なスケールで表現されている。植物表現において,岩のドームのそれと比べ,はるかに現実的で,また非現実的な要素の混用も認められない。ただ,都市景観のなかに不規則にならぶ建物群を図柄的に区画・整理し,秩序立てるためにそれらの樹木が使われている。
 クレスウェルは,表紙写真の床モザイクのモチーフを古いスキタイ美術からのものとしている。大きな樹木は繁栄した帝国そのものであろうし,平和そうに草を食む光景は「ダール・アルイスラーム」(イスラーム世界),つまりイスラームのもとで平和と安定を享受する世界を示し,ライオンに襲われる光景は「ダール・アルハルブ」(戦争の家),つまりイスラーム以外の邪教が蔓延る世界として,ジハード(聖戦)の対象となる世界が表現されているものとされる。ここには,いまや世界的な大帝国となったウマイヤ朝におけるひとつの世界観が表現されている。