学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞(星商事提供副賞30万円)について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月20日(土)に西南学院大学で開催する第33回大会の席上において行います。
地中海学会賞:該当者無し
地中海学会ヘレンド賞:畑浩一郎氏
 畑氏はVoyageurs romantiques en Orient. _tude sur la perception de l'autre, Paris 2008(ロマン主義時代のオリエントへの旅行者たち―他者の認識についての研究)において,19世紀前半のフランス人によるオリエント旅行記を広範に渉猟し,旅をめぐる特殊な語彙,オリエントの街の民族別居住形態,衣装や風俗がはらむイデオロギー的意味などの問題に関して,これまで見過ごされてきた文化的特性を周到に論じている。文学テキストの内的分析の枠を超え,比較文化論的,民俗学的な視野に立って,ヨーロッパとオリエントの文化交流研究に取り組んだ点が,本学会にとって新しい領域を拓くものとして評価できる。

*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXXII(2009)の内容は下記の通り決まりました。本誌は,第33回大会において配布する予定です。
・知の編集空間としての初期近代イタリアの庭園──Agostino Del Riccioの理想苑構想におけるインプレーザ,エンブレム,常套主題(loci communes)  桑木野 幸司
・Piranesi e il Grand Tour; la cerchia britannica e altri committenti-viaggiatori  Ewa Kawamura
・ブルゴー=デュクドレの万博講演(1878)における〈ギリシア旋法〉とその歴史的意義  安川 智子
・書評 金沢百枝著『ロマネスクの宇宙──ジローナの《天地創造の刺繍布》を読む』  安發 和彰

*第33回総会
 先にお知らせしましたように第33回総会を6月21日(日),西南学院大学において開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)
一,開会宣言
二,議長選出
三,2008年度事業報告
四,2008年度会計決算
五,2008年度監査報告
六,2009年度事業計画
七,2009年度会計予算
八,役員改選
九,閉会宣言

*会費自動引落
 今年度2009年度の会費は4月23日(木)に引き落とさせていただきました。自動引落にご協力下さり,有り難うございました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファインスサービス」となっております。学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。

*常任委員会
・第3回常任委員会
日 時:2月14日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXII(2009)に関して/研究会に関して/石橋財団助成金に関して/会費未納者に関して/2008年度財政見込みに関して/2009年度NHK文化センター前期講座に関して
審議事項:第33回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他













福岡大会へのご招待

京谷 啓徳


 第33回地中海学会大会が,6月20,21日,福岡において開催されます。多くの方にご参加いただけますよう,大会についてご案内をさせていただきます。
 今大会は,西南学院大学,福岡大学,九州大学と,福岡在の複数の大学に所属する会員が協力して開催の準備を行い,会場は西南学院大学とさせていただくことになりました。西南学院は,C.K.ドージャーによって創立された伝統のあるキリスト教系の学院です。会場となる西南コミュニティーセンターは一昨年に開館したばかりの施設,また見学を予定しております西南学院大学博物館,懇親会を行います西南クロスプラザもコミュニティーセンターに軒を連ねておりますので,たいへん快適にご利用いただける会場となっております。また,飛行機でおいでになる会員の方も多いかと思いますが,福岡空港は立地至便な空港であり,空港から地下鉄にお乗りいただいて19分で西南学院大学最寄の地下鉄西新(にしじん)駅,駅を出まして北に徒歩5分で会場です。新幹線をご利用の方も,博多駅から地下鉄にお乗りいただき,13分で西新駅に着きます。
 大会プログラムですが,バークレー学長の開会ご挨拶に引き続き,基調講演は,九州産業大学の下村耕史先生にお願いいたしました。下村先生はドイツ・ルネサンスの画家アルブレヒト・デューラーの研究者として著名な方ですが,数年前からCOE拠点リーダーとして,柿右衛門式磁器の海外調査にも携わられました。今回のご講演では,その調査を踏まえ,「海を渡った柿右衛門」についてお話しいただきます。焼き物をめぐる文化交流というテーマは,まこと地中海学会にふさわしいものといえましょう。
 続く地中海トーキングは,「地中海のカフェ文化」と題しております。トーキングやシンポジウムのテーマとして九州に関わりのあるものをということで,準備委員一同,無い知恵を絞りました。鎌倉時代に禅僧栄西が中国からお茶をはじめて日本に持ち帰り,その種を播いたのが,肥前と筑前の境界の背振山であったため,福岡は日本における喫茶文化の発祥の地であるともいえることから,当初は「地中海の喫茶文化」を考えました。しかし地中海なら喫茶よりもカフェでしょうというご意見があり,気がつけばカフェ文化をテーマとすることになっていた次第です。これまでワインやお酒はトーキングのテーマとされたことがあるようですが,今回はアルコー
ル抜きでまいります。トルコ,イタリア,スペインと,各地域のカフェ文化について興味深いお話しがうかがえるものと期待されます。
 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞授賞式のあとは,西南クロスプラザに会場を移しての懇親会となります。2次会,3次会は,同好の士連れ立って中洲にでも繰り出していただき,博多の長い夜をお楽しみください。
 さて二日目午前中の研究発表ですが,本年も積極的な応募をいただき,都合5本ということになりました。時間的には若干タイトではありますが,若手研究者の活発な発表の場としての大会の意義を重視させていただきました。9時半開始ですので,前夜お酒が過ぎた方も,早起きをしていただきますよう,どうぞよろしくお願いいたします。
 総会,昼食をはさみまして,午後のシンポジウムのテーマは,「キリシタン文化と地中海世界」です。昨年はペドロ岐部と187殉教者の列福式が行われ(月報317号の秋山学氏の報告をご参照ください),また長崎の教会堂に関しては,ユネスコの世界遺産登録に向けた活動が話題となっているところですが,シンポジウムでは,とりわけ九州とゆかりのあるキリシタン文化について,専門家の方々のお話しをうかがいます。セミナリオでの絵画教育に功のあったイタリア人宣教師について,かくれキリシタンの信仰生活について,そして明治期以降の教会堂建築など,幅広くキリシタン文化と地中海世界の関係についてご議論いただきます。
 会場の西南コミュニティーセンターの隣,キリスト教資料を展示する西南学院大学博物館は,W.M.ヴォーリズの設計になる歴史的建造物です。スペースの関係上,時間を設定して皆さん同時に見学いただくことはかないませんので,各自ご自由にご見学いただきます。他にも,キャンパス内には元寇防塁が保存されており,また近隣には金印を所蔵する福岡市博物館,少し足を伸ばしていただくと,太宰府天満宮に九州国立博物館と,福博の歴史を偲ぶための施設も多くございますので,時間に余裕のおありの方は是非お訪ねください。
 7月の山笠にはまだ間がありますが,6月後半ともなれば,すでに町には祭り気分が流れ始めている時期です。博多らしい熱気のある大会になりますよう祈念しつつ,準備委員一同,皆様のお越しをお待ち申し上げております。













研究会要旨

カサブランカからパリへ

──アルベール・ラプラドによる「歴史的街区」の形成──


荒又 美陽

4月11日/東京大学本郷キャンパス


 パリのマレ地区という歴史的街区は,1964年から国家によって保護されている。制度的な街区保存の例としては最も初期のもののひとつであり,世界的に知られているが,その政策過程に関する研究は意外に少ない。まして,中央政府が政策決定する以前に,地方行政のセーヌ県がここの保護を検討していたことはほとんど研究されてこなかった。セーヌ県によるマレ地区の調査では,アルベール・ラプラド(1883年ビュザンセ〜1978年パリ)という建築家が中心的な役割を果たした。彼は若いころにカサブランカの都市計画に携わり,1931年のパリ植民地博覧会ではメイン会場となる建造物を設計した人物である。彼の植民地にまつわる経験は,マレ地区の保護に影響しているのだろうか。
 保護領時代のモロッコでは,現地の住民のために旧市街地を残し,ヨーロッパ人入植者のための地区を新たに建設することによって,両者を明瞭に区分した都市計画が行われた。カサブランカでは,工業化の進展のなかで,非ヨーロッパ系住民は次第に旧市街地に納まりきれなくなり,フランスは彼らのための新しい居住区も建設した。この「原住民ニュータウン(nouvelle ville indigène)」を設計したのがラプラドである。ラプラドは旧市街地の住宅の特徴を研究し,デザインを模倣しながら近代的な衛生設備を設置しようとした。それはヨーロッパ地区との視覚的差異を維持するものだったが,建築家にとっては非常に魅力的な仕事でもあった。
 パリに戻ったラプラドは,パリの中心部に関心を寄せるようになり,保護を訴える文章を書いた。彼は,歴史的街区は「土着の精髄(gènie autochtone)」をもつものであり,芸術や思想を生み出す土壌となるため,モロッコの例と同様に保護すべきだという考えを示している。ラプラドにとって,モロッコ都市の旧市街地とパリの歴史的街区は,比較対照が可能であったことになる。
 当時,マレ地区の南部には,結核による死亡率が平均の2倍以上であるとして「不衛生区画」に指定された一角があり,全面的な取り壊しの対象となっていた。しかし,その歴史性は次第に重視され,1942年,「17世紀の外的相貌」を維持するための都市計画に変更されることとなった。ラプラドは,その計画を立てる3人の建築家のひとりに選ばれた。彼が用いた手法は,建物のファサードを保護し,内部を取り壊すもので,「掻爬的撤去
(curetage)」と呼ばれる。これは,歴史的街区を再生する画期的な手法として,1947年の都市計画・住居国際博覧会でも紹介された。
 不衛生区画での功績から,ラプラドはマレ地区全域の保存のための調査をセーヌ県から依頼された。ラプラドは街区を全体として捉えるために,テュルゴー図と呼ばれる18世紀のパリの鳥瞰図と同じ方向から地区の航空写真を撮らせ,比較を行った。そして,特に地区の第二次産業をパリの周辺部か郊外に移転させ,パリの中心部は「公園」とすることを目指していた。彼は,第二次産業はイスラムのスークのように集積されるべきだとし,やはりモロッコとの比較を行っている。1964年にマレ地区が国家の保護の対象となると,ラプラドはこの事業から離れることになったが,工場などを移転させ,テュルゴー図の状態を回復するという方針は,国の担当建築家に引き継がれ,1970年代前半まで維持された。
 ラプラドがマレ地区の保護のための方針を策定するに当たり,しばしばモロッコ都市への言及をしていることは,彼の認識において常にモロッコが先行例として位置づけられていたことを意味しており,二つの事業の連続性を指摘できる可能性を示している。ひとつには,文明の中心地とみなされていたパリの歴史的街区について,彼が「土着の」という形容詞を用いたことがある。マレ地区は,19世紀の近代的都市計画の対象とならなかった低所得層の居住区であり,カサブランカにおける非ヨーロッパ人の居住区と同じように,一方的な見方を押し付けることが可能な地であった。また,第二次産業をエリート層の散策の地から除外していこうとするゾーニングも,非ヨーロッパ系の生活の場を画定したカサブランカでの経験と比較しうるものであっただろう。
 さらに,「掻爬的撤去」は,スイスやドイツから取り入れられた手法とされているが,ラプラド個人の意識の中ではモロッコ都市で新メディナの入り組んだ街路や区画の内部のパティオを設計したときの研究とも重なって見えていた可能性がある。当時,そのモロッコのデザインが衛生という観点から先進的に見えていたと解釈できる,あるフランス人の文章も残っている。試論の域を出ないが,多くのケースを見ることによって,植民地主義が宗主国の都市計画にいかなる影響を及ぼしたのかについては,研究を深めていきたい。












chibaniたちの物語

石川 清子


 私の専門は北アフリカ出身のフランス語作家という極めてマイナーな研究領域だが,植民地支配の関係を結んできた地中海両岸の比較的広い地域を扱うゆえに,社会的,歴史的な大きな変化が見えてくることがある。
 今年になって二人の作家が同じ題材で小説を刊行した。モロッコ出身,タハール・ベン・ジェルーン『故国に』とアルジェリア出身,レイラ・セバール『親愛なる息子へ』の二冊で(作家名についてフランス語読みで表記するのをお許し頂きたい),どちらも引退したchibaniを主人公にしている。chibaniとは北アフリカのアラビア語で「白髪頭」を意味し,老齢を迎えたこの地出身の移民労働者のこと。戦後,自動車産業を中心に繁栄したフランスの高度経済成長期「栄光の30年」を支えたのは,安価な労働力としてアルジェリア,モロッコ,チュニジアの田舎から地中海を渡ってきた彼ら男性たちだった。60年代をピークに多くが単身で渡仏し,厳しい就労条件,劣悪な居住環境のもと,単身のまま,あるいは家族を呼び寄せ異国で働いてきた彼らも定年を迎える時代になった。退職後の彼らはどんな人生を送るのだろう。二つの小説の主人公はどちらも国に戻るが,それぞれが一家離散の痛みを伴っている。さらにどちらにも,よそ者として暮らしてきたフランスから戻って,あると信じてきた自分の居場所がない。旧宗主国で体験する差別と疎外の後に,故国において味わうさらなる自己喪失の苦さと悲哀を,二つの小説はともに描いている。
 フランスの移民問題というと,2005年秋,パリ郊外から始まって全国に飛び火した若者の暴動が記憶に新しい。その前年の宗教シンボル禁止法も,公教育の場でスカーフを着用するイスラーム系移民の娘たちをクローズアップした。今日のフランスの移民問題で決まって取り上げられるのが北アフリカ出身労働者の第二第三世代であり,彼らの多くが暮らす大都市郊外の荒廃,非行,失業,文化的統合の困難さ,さらにはイスラーム過激派などの否定的イメージをもって語られるのが常だった。
 フランス国籍をもちフランス人として育ち,言葉にせよ暴力にせよ社会に反抗の意思表示をする子世代とちがって,chibaniたち第一世代にとってフランスはあくまで仮住まいの異国であり,彼らはよそ者として目立つ言動を避け沈黙し,そもそもアラビア語もフランス語も読み書きができるわけではなく,自己表現すべき言葉を持ってはいなかった。70年代,駆け出しの作家ベン・ジェルーンは,移民労働者の体験する悲惨を詩や小説,評論
にし,証人というかたちで言葉なき者を代弁した。その後,売れっ子作家となってからは,出身地モロッコのローカル色をフランスの読者受けするエキゾチシズムとして利用している感があった。ところがここにきて,原点回帰と言おうか,自分に近い世代のchibaniの物語である。同様に,アルジェリアとフランスの混血女性作家セバールはこれまで,移民第二世代の娘たちに共感を寄せ物語を書き継いできた。そして彼女も今回,老齢に達した親世代に言葉を貸そうと試みる。いや,セバールは既に2003年,『カフェのアルジェリア人』というパリ郊外のカフェにたむろする退職して行き場のないchibaniたちを物語にしていた。
 日本でも昨秋,在日朝鮮・韓国人一世のオーラルヒストリーを分厚い新書にまとめた小熊英二,姜尚中編『在日一世の記憶』が刊行されたが,フランスでも高齢を迎えた在仏移民一世たちの記憶の記録化とも呼ぶべきものが,ここ10年,目だって増えている。子世代に伝えられることのなかった,あえて口にされなかった親世代の身の上話を集成したり,移民の歴史を体系的に記録しようとする動きが見られる。たとえば,1998年には,北アフリカ諸国からの移民の歴史をたどりつつ,親世代,子世代のインタビューを入念にまとめた,アルジェリア移民二世の娘であるヤミナ・ベンギギの映画『移民の記憶』が(chibaniたちよりさらに光の当らない,呼び寄せられた彼らの妻たちの記録は貴重だ),2007年には,主にテレビで放映された移民関連の映像を編集した国立視聴覚研究所の『移民たちのサガ』が出され,さらに同2007年に,つつましくではあるが,ヴァンセンヌの森,1931年の国際植民地博覧会時に建てられたポルトドレ宮に移民歴史博物館が開館した(それまでこの建物はアフリカ・オセアニア博物館で,その収蔵品はジャン・ヌヴェール設計のファッショナブルなケ・ブランリー美術館に移された)。
 ほかにも,国に戻らないchibaniたちが暮らすマルセイユの安ホテルの写真詩集,アルジェリア独立戦争支援や労働組合運動に従事した退職者のルポルタージュなど,ささやかながらも北アフリカから来た移民の軌跡を追い,繁栄の時代を支えた彼らの現在の姿をとらえようとする試みが後を断たない。上述した二冊の小説も,この大きな流れのなかにあり,物語に詳しく立ち入る紙幅はないが,影に隠れて見えない人々のまだ終わらない問題に気づかせてくれる。













ハンブルクとケーニヒスベルク

古川 裕朗


 2008年の4月からの1年間を北ドイツの貿易都市ハンブルクで過ごした。現在のヨーロッパは恐らくそこそこの大きさの都市であればどこもそうなのであろうが,色々な面で問題を孕みつつも移民の受け入れに対して概ね肯定的である。ハンブルクもその例に漏れない。様々な国から人々が集まって来ているということの証しは,その食文化に見て取ることができる。街ではイタリアン・レストラン,ケバブ屋,中華料理店,カレー屋などをよく見かける。日本料理店や回転寿司も目にする。ドイツは食べ物がいまひとつであるというのは,日本国内においては何だか定着してしまった感のある評価の一つであるが,私の感じた限りでは,少なくともハンブルクのレストランは普通にきちんと美味しい。これは様々な人種の人が暮らすようになって味付けが一般化したということによるのだろうか? また各国の食材も豊富であって,そもそもドイツ料理を食べなくても暮らしてゆくことができる。アジア専門店に行けばカップメン,みそ,豆腐,冷凍の納豆まで手に入った。
 外国で暮らすということは,身の回りのものすべてが観察の対象となるということであり,また同時に自分自身も他人にとっての観察の対象になるということを意味する。3ヶ月ほど通った外国語学校では様々な国の人々と知り合う機会を得た。自分の目の前のたった一人の人間からその国の国民性を読み取ってしまうのは,きっといけないことなのであろうが,とはいえ,そうしたステレオタイプ的なモノの見方は,本来はコスモポリタニズム的であるべき外国語学校でこそむしろ顕著であった。鷹揚で紳士的で,しかも時おり気の利いたイングリッシュ・ジョークを飛ばすイアンに対しては,やはり彼はイギリス人であるという目が向けられ,いつも陽気に騒いでいるフランチェスコからはイタリア人の典型像を読み取る。とりわけこうしたステレオタイプ的な思考法は,生徒の側よりも教師達の側に際立って現れる。彼らは一種のクラスコントロールの技法として,生徒の行動に対し既存の先入見をあてはめ,「やはり××人である」という事実を作り出して授業運営上のアクセントにしていく。彼らにとって日本人の典型的イメージの一つは,今でもカメラ好きであり,電気製品好きということであった。私は電子辞書を使っていたのだが,それは日本人の特徴として指摘される。もちろん電子辞書を使っているのは,私だけではなかったし,私の辞書に言及した当の
ドイツ人教師自身が電子辞書を使っていた。
 ハンブルク滞在中は1年を通じてカント研究に従事した。一般にカントが暮らしていた18世紀のケーニヒスベルク(現カリーニングラード)も,ハンブルクと同様,国際的な貿易都市であったと言われる。だから,後にカントが提唱することになる「世界市民主義」的思想を育むような素地をその都市が有していたとしても不思議ではない。「世界市民」という概念との関係で,ここ最近,興味深く思ったのが,各国の国民性に関するカントの記述である。もちろんカントがそれぞれの国民に対してどのようなイメージを持っていたかということも興味深いのであるけれども,とりわけ私の関心を引いたのは,カントが各国の国民性をいわばステレオタイプ的に相対化するにあたって,恐らく彼の念頭にあったのではないかと推測される(あるいは推測したくなる)カント独特の図式的な思考である。『美と崇高の感情にかんする観察』あるいは『人間学』の中では,美的感情および道徳的感情に関して,ヨーロッパの国々がどのような特性を示しているかが述べられている。その際カントは,例えばフランスは美,イギリスとスペインは崇高というように美的感情を割り振り,ドイツとイタリアはそれらの国の中間的・混合的状態として位置づける。ヨーロッパの地図と見比べながら彼の叙述を読むと,こうした感情の特性が各国の地理的関係と照応していることがよく分かる。大雑把に言って西経10度から東経10度の間に基本となる三国が縦南北に並んでおり,イギリスとフランスの中間にはドイツが,フランスとスペインの中間にはイタリアが位置する。言い方を変えれば,言わばカントのヨーロッパにおける感情の地勢図は,フランスないしアルプスを中心線として南北に線対称になるようにできあがっていると考えてよい。このようなドイツ人の中間的・混合的性格に対してカントの評価は両義的である。彼は一方で,ドイツ人は自分の祖国に執着せず,外国人を歓待し,本来的に「コスモポリタン」であると評価する。だが他方で,「思いきって独自であろうとしない弱さ」がドイツ人の欠点であると指摘する。
 ちなみにカントの線対称の図式からすれば,ハンブルクはサルディニア島,ケーニヒスベルクはイオニア諸島辺りと重なりそうであるが,これにはあまり意味がなさそうである。













自著を語る58

シシル『色彩の紋章』


伊藤亜紀・徳井淑子訳 悠書館 2009年5月 220頁 2,100円

伊藤 亜紀


 「形に比べると,色彩の方がはるかに曖昧であり,またそれほど重要でもない」。高名な美術史家マイケル・バクサンドールは,その主著『ルネサンス絵画の社会史』(1972年)のなかで,中世後期からルネサンス期にかけてさかんにおこなわれた色彩の意味付けを評してこのように述べた。「この種の(色彩の)象徴主義[シンボリズム]は,時には符合する場合もあるとしても,絵画においては重要ではない。画家の用いる色彩に関しては,知っていなければならない秘密の体系など存在しないのである」(邦訳,平凡社)。
 本書『色彩の紋章』は,まさしくその,「絵画においては重要ではない」色彩シンボリズムを論じた書である。ジャン・クルトワ,通称シシルは,現在のベルギーにあるモンスで生涯の大半をおくった紋章官であるが,その職業柄,しばしばシチリアを訪れ(彼が「シチリア」の仏語読みである「シシル」と呼ばれるのは,このためである),晩年にはアラゴン王アルフォンソ5世にも仕えたとされる。彼が1435〜37年頃に執筆したと推定される紋章の色彩論は,彼の死から半世紀以上経った1495年にパリで出版された。そして1505年頃,同じくパリで,1495年版を大幅に加筆修正し,さらに新たに第II部を加えた版が出版され,こうして今日に伝わるテクストが完成したのである。
 『色彩の紋章』第I部では,金(or),銀(argent),朱(vermeil),青(azur),黒(noir),緑(verd),赤紫[プルプル](pourpre)という,紋章を構成する七つの基本色のシンボリズムが,聖書や古典文学作品,史書の豊富な引用によって語られている。いっぽう再版のさいに無名の校訂者が新たに書き下ろしたと考えられている第II部では,先の基本色の他に黄褐色(fauve)や淡紅色(incarnat),ねずみ色(gris)といった中間色もとりあげられ,それらの色を組み合わせた場合の意味や各々の色の着こなし方が,やはり古典および同時代の文学作品を数多く参照しつつ,詳細に説明されている。けっして難解な論ではないが,明らかに著者は多方面の知識を披瀝することそのものに喜びを感じている。
 『色彩の紋章』はフランスで16世紀中に10以上の版が出されたことからもわかるとおり,かなり好評を博した。1565年にはヴェネツィアでイタリア語訳が出版され,こちらも17世紀初頭にかけて七つの版を重ねた。伊
語版の出版以降,イタリアの人文主義者たちによる色彩論は,大なり小なり,その影響を受けることになる。第II部にいわゆるアリストテレスの色彩論が紹介されているが(おそらく著者は13世紀のバルトロマエウス・アングリクスによる百科全書『事物の属性の書』の仏語訳から孫引きしている),これを俗語で読めるというところが,イタリア人のあいだでこの書がもてはやされたひとつの原因であるかもしれない。
 この書が美術史上に与えた影響も見逃せない。ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォも『絵画論』(1584年)のなかでシシルの名を挙げてその色彩シンボリズムを紹介しており,チェーザレ・リーパの『イコノロジーア』(1593年初版)中の寓意像の着衣の色彩に関する説明にも,その影響がみてとれる。
 しかしその後2世紀以上ものあいだ,シシルの名はまったく聞かれなくなる。彼の書を歴史の闇から救いあげたのは,1860年に校訂版を出したイポリット・コシュリである。さらにホイジンガが『中世の秋』(1919年)において,『色彩の紋章』の記述を紹介したことにより,この書は中世の色彩文化を伝える重要な史料のひとつとみなされるようになった。
 ただしこれでシシルが完全復権したというわけではなかった。彼の書は紋章学やヨーロッパ文化史の立場からは注目されることがあっても,肝心の色彩学や美術史の分野からは無視されるか,あるいは申し訳程度に言及されるにすぎなかった。その原因は,多分に「紋章(blason)」というタイトルそのものにあると考えられる。16世紀の伊語訳者が,この語を「論(trattato)」と訳したのはきわめて適切だった。しかし近代以降,この書がさほど多くの分野でとりあげられなかったのは,ブラゾンということばに「紋章解説」,さらに転じて「解説」の意味があることが理解されず,したがって「色彩論」という本質も見落とされてしまったからであろう。
 訳者はそれぞれ,中世の紋章の配色や,雅な色の着こなしを的確に伝える書,もしくは15〜16世紀ヨーロッパにおける最も重要な色彩象徴論のひとつという,シシルの書のもつふたつの側面を折に触れて紹介してきた。20年近くにわたりその価値と魅力を伝え続けてきたこの小品の全訳をようやく出せたことに,われわれは今,深い感慨をおぼえている。









表紙説明

地中海の女と男24
愛の顛末/小池 寿子



 黒死病が蔓延し,ヨーロッパ世界が暗雲に閉ざされた中世後期,墓碑を死姿で飾る趣向が流行する。トランシ(transi)と呼ばれるその墓像は,腐敗し干からびた死後の肉体の変化を映したもので,「移ろいゆくもの」の意味をもつ。眼孔はえぐれたようにくぼみ,開かれた腹部からは蛆虫が這い出で,皮膚はかろうじて骨肉を覆う。腐臭さえ漂うこの悪趣味きわまりない墓像をもって,「地中海の女と男」の最後を飾るのは,いささか気後れするものの,それが,「美しき死体」にまで昇華された二人ならば,死すべきものの住まう月下の世界を生きた,男女のはかない愛の記念碑にもなろう。表紙は,フランス国王アンリ2世とその妃カトリーヌ・ド・メディシスの二つ目の墓像である。
 知られるように,イタリア文化に執着したフランソワ1世を継いだヴァロワ朝フランス国王アンリ2世は,19歳年長の美貌の人妻ディアヌ・ド・ポアティエとの愛に走り,妻を顧みることなく,40歳そこそこで馬上槍試合の傷がもとで逝った。夫の死に際して共に墓碑を造る慣わしであった当時,メディチ家から嫁いだカトリーヌは,フランス式墓碑,つまりトランシの墓像を造ることになった。彼女は,墓像見本帳を見せられて,致し方なく「死後数日程度のもの」を注文。故郷イタリアにはトランシ墓像を造る習慣はない。そのトランシは,実に見事な死に姿を刻んだ像となるべきだったのだが,カトリーヌの意向で未完成のまま,今日,ルーヴル美術館の一隅にひっそりと置かれている。
 ついで,自身の死期を想定したカトリーヌが造らせたのが,この恥じらいのポーズを取って豊満な裸身をさらす「美しき死体」の墓像であった。対する夫アンリも負
けてはおらず,すでに亡くなっているとはいえ,筋骨隆々のアキレウスさながらに横たわる。16世紀になると,イタリア美術の薫陶を受けたフランスのトランシは,死後の肉体を刻みながらも「美しき死体」(Beau Corps)に変化していたのだった。互いに顔を背けているとはいえ,自身をゼウスと喩えたアンリと,ヘラと喩えたカトリーヌの,束の間の幸せを感じさせもする。そして,それぞれの追悼演説には,死の苦痛と悲しみよりも再生への希望がつぎのように語られていた。
 「奇跡とは,死による生,消滅による蘇生,破壊によるもっとも美しく確かな被造物を見出すこと。」「いまや我々は死を恐れることがあろうか。それは永遠の生の始まりであり,我々は死によって蘇る。」死は,いつとは知れぬ最後の裁きによってもたらされる天国よりも,はるかに甘美な,古代的な永生の世界へと通じる喜ばしき旅立ちとして捉えられ,生きる希望にさえなっていたのだ。
 第二の墓碑製造ののちも生きながらえたカトリーヌは,さすがにウェスヌまがいの裸身を永遠にさらすのは恥ずかしいと思ったのか,最終的に,ともに年齢を刻んだ着衣の夫婦像を刻ませ,王家の廟堂サン・ドニ修道院聖堂を二つの墓碑で飾ったのであった。
 月下の愛に疲れ果て,天上の愛を希求した二人に,ここではひとつ,詩人ジャック・プレヴェールの愛の賛歌を捧げたい。
 「天にましますわれらの父よ,われらは地上に残ります。地上はときどき美しい。」

《アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの墓像》部分 ジェルマン・ピロン 1565〜70年 サン・ドニ聖堂