学会からのお知らせ

*4月研究会
テーマ:カサブランカからパリへ──アルベール・ラプラドによる「歴史的街区」の形成
発表者:荒又 美陽氏
日 時:4月11日(土)午後2時より
会 場:東京大学法文2号館3階一大教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 ロバート・ホームは,植民地の都市景観形成に影響を与えたイデオロギーのひとつとして,「本国では達成できない新しい社会組織形態の実験場」という考え方をあげている。モロッコの都市計画は,フランスにとってまさに新しい思想の実験場であった。カサブランカの計画に携わった建築家アルベール・ラプラド(1883〜1978)は,その経験をパリの歴史的街区マレの整備計画に反映させようとする。本報告では,彼の足跡を追い,その思想がマレ地区にもたらした帰結を考察することを試みたい。

*春期連続講演会
 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会を開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)。
「地中海世界の女性たち」
4月25日 エステ家の姫君たち──ルネサンスのフェラーラ  樺山紘一氏
5月2日 両極の女性像──スペイン文学の場合  清水憲男氏
5月9日 アテーナイの元気な女性たち  桜井万里子氏
5月16日 皇妃になった踊り子──ビザンツ皇妃テオドラ  高山博氏
5月23日 デメテル・セイレーンの影──シチリアの短篇でよむ恐るべき女性像  武谷なおみ氏

*第33回大会
 第33回大会を西南学院大学(福岡市早良区西新6-2-92)において下記の通り開催します。
6月20日(土)
13:00〜13:10 開会挨拶  G.W.バークレー氏
13:10〜14:10 記念講演
 「海を渡った柿右衛門」  下村耕史氏
14:25〜16:25 地中海トーキング「地中海のカフェ文化」
          パネリスト:稲本健二/鈴木董/山辺規子/司会:渡辺真弓 各氏
16:30〜17:00 授賞式
18:00〜20:00 懇親会
6月21日(日)
9:30〜12:00 研究発表
 「オイノーネーとデーイアネイラの神話の諸対応──オウィディウス『名高き女たちの手紙』第5歌・第9歌を中心に」西井奨氏
 「フィリッピーノ・リッピ作カラファ礼拝堂装飾壁画の再解釈──「純潔の擁護者」としての枢機卿」荒木文果氏
 「ベンボ『アーゾロの談論集』(1505年)の哲学的議論に参加する女性たちの発言について」仲谷満寿美氏
「16世紀イタリア宮廷における食事作法」小野真紀子氏
「ピカソの《ラス・メニーナス》連作──スペインの文化的アイデンティティをめぐる闘争」松田健児氏
12:00〜12:30 総会
13:30〜16:30 シンポジウム「キリシタン文化と地中海世界」
          パネリスト:川上秀人/児嶋由枝/中園成生/司会:宮下規久朗 各氏

*会費納入のお願い
 新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(木)に引き落とさせていただきます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
 退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月17日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続となります(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,4月6日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313













秋期連続講演会「地中海世界の造形文化──聖なるものと俗なるもの」講演要旨

イタリア都市空間の中の聖と俗

陣内 秀信


 古い文明をもつ地中海世界の都市を対象に,聖と俗の観点から論ずるのは,その空間構造を描き出す上で興味深い。古代の人々は,高い丘の上や山裾に聖なる場所の意味を感じた。ギリシア世界を訪ねると,アテネでは,高台のアクロポリスに神域があり,輝くパルテノン神殿を始め,美しい神殿が幾つも建設されたのに対し,低地にアゴラがつくられ,政治や経済といった市民生活を支える俗なる中心を形成した。デルフィは,険しい山を背景とする斜面に,アポロンの神託を受けられる有名な聖地を生み出し,ギリシア世界の各地から巡礼者を集めた。
 七つの丘からなるローマの街では,やはり地形の高低差が重要な役割をもち,カピトリヌスの丘がアクロポリスの神域の意味を受け継ぎ,ユピテル神殿のある聖地となったが,そのすぐ下の湿地を乾かして整備し,俗なる中心広場,フォルム(イタリア語ではフォロ)をつくり,聖と俗の中心が隣接する関係を築き上げた。
 劇場は,本来は神に捧げられる演劇が行われる聖なる場所であり,その場所選びは重要だった。シチリアのタオルミーナのギリシア劇場のロケーションは,特に印象的だ。街の少し外側の高台を意識的に選び,海をバックに,しかもエトナ山も背後に来るようにつくられている。ギリシア人にとって,演劇は自然や宇宙との繋がりのもとで演じられるものだった。
 地中海世界には,海と結びついた聖域を受け継ぎ発展した都市が幾つも見られる。シチリアのエリチェはその典型で,紀元前10世紀,シカニ族によって豊穣の女神の神殿を中心に小さな街がつくられた。その神殿は,高台のエッジにあり,昼も夜も燃え続ける火は,海上を行く船からよく見えたに違いない。後にエミリ族が継承し,続くカルタゴ征服時にはアスタルテ女神,さらにギリシアのアフロディーテ,ローマのヴィーナス(ヴェーネレ)の神殿という具合に,女神の神殿として受け継がれた。
 オリエントからもたらされたという聖なる売春が男達を惹き付けたこともあって,船乗りの間で,聖俗が一体となった巡礼地として人気を得た。ジェロドゥレ通り(巫女通り)という地名にその名残がある。
 中世海洋都市,ヴェネツィアの聖と俗も興味深い。サン・マルコ広場では,教会と総督宮殿が併置され,ビザンツ世界と似た形で聖俗権力が一体化し,象徴性を高めている。広場は世俗権力を誇示する処刑場でもあり,見
世物のごとくに民衆が熱狂した。
 聖なる場所の継承の面白さを見るには,サルデーニャを訪ねるのがよい。ローマ文明も深く入らず,ルネサンスの影響も少なく,近代化も緩やかなこの神秘の島は,聖地を受け継ぐ文化構造が根強く見られる。イラクやイランに多いジッグラトの巨大な遺構がモンテ・ダコッディに存在するが,その正面に設けられた斜路のアプローチは,先行する先史時代の巨石文化の遺構であるメンフィルとドルメンを強く意識し,その間を通る形で建設されたことがわかる。聖なる意味が受け継がれたのだ。
 前1500年から前3世紀頃までヌラゲ文明がサルデーニャに存在し,ヌラゲと呼ばれる巨大な石の塔を無数に建設した。後にローマ人によってその多くが破壊されたとされるが,実際には,しばしば聖地として大切に受け継がれた。ジェンナ・マリアのヌラゲ複合体もその一つで,ローマ人が生け贄を捧げた跡が確認された。
 中部サルデーニャのカブラス近郊の教会,サン・サルヴァトーレ教会には,聖なる場所が層状に重なっている。先ず,地下深くにヌラゲ時代の聖なる井戸があり,魔術的な治療も含め,宗教儀礼がなされていた。それをローマ人が受け継ぎ,礼拝空間として利用したことが,壁に残るローマの神々の像(ウェヌス,マルス,ヘラクレス)から分かる。その後,ビザンツの修道士達が礼拝空間に活用し,さらにその上に地上の教会を建設して,カブラスの田園教会となった。今も,夏場の聖人の祭日を中心に,人々が祈りに集まると同時に,ヴァカンス村のようにも活用している。
 イタリアでは夏場,水上で行われる厳かな宗教行列をよく目にする。プーリア地方の港町,モノーポリはマリア信仰の強さで知られる。中世の早い時期,筏に乗った聖母子像の絵が漂着し,その木材を使って大聖堂の屋根が完成したと言い伝えられる。海洋都市の歴史と深層で結びつくこの記憶を伝承するかのように,モノーポリでは毎年(本来は12月だが今は8月に大々的に行う),聖母マリアが筏に乗って町に到着する祭礼が厳粛に行われる。キリスト教が広まって,西欧では,実際の海や川の水に霊的な力を感ずる発想は消えていったが,異教の伝統を深層に受け継ぐイタリアには,各地にこうした水上の行列,祭礼が見られるのである。ヴェネツィアで5月に今も行われる「海との結婚」の儀礼も,その代表的なものと言える。













秋期連続講演会「地中海世界の造形文化──聖なるものと俗なるもの」講演要旨

古代ギリシアの聖なる乙女の図像系譜
──パルテノン・フリーズの《乙女の行列》をめぐって──

篠塚 千恵子


 アテネのパルテノン神殿のフリーズ浮彫を核にして古代ギリシアの聖なる乙女のイメージを探ってみる。厳密に言えば,古代アテネ人の抱いていた聖なる乙女のイメージということになろうか。
 本尊アテナ・パルテノス(処女なるアテナ)像[月報316号参照]の安置されたパルテノン神殿内室外壁をめぐるおよそ160m(うち約130mが現存)のフリーズ浮彫の主題は議論が多いとはいえ,女神アテナのために4年に一度開催されるアテネ市の最も重要な祭礼,大パンアテナイア祭[月報290号参照]の行列──アクロポリスに祀られた都市の守り神としてのアテナ・ポリアス像に新しい衣装ペプロスを捧げる行列──と一般に考えられてきた。西フリーズから始まる行列が南北2列に分かれ東へと向かっていく。騎馬隊の前に戦車隊,その前は徒歩の行列となって長老や音楽隊,供物運び,犠牲獣を運ぶ一行。これらはすべて男性から成るため,東正面に折り返して初めて現れる女性たちの姿の何と印象的なことか! 左右から計29人が観衆の視線を避けるかのように敬虔に頭を垂れて神酒を注ぐ器や杯,香炉を持ち静々と中央へ歩を進めている。いわゆる「乙女の行列」の女性たちである。中央のペプロス奉献とされる儀式の左右にはオリュンポス十二神,アッティカ十部族の名祖英雄たちと思しき人物が在席している。中央場面ではアテナ・ポリアスの神官とみなされる女性と彼女よりも背の低い二人の少女が頭に何かを載せて立ち,その横で男性の神官と一緒に子供がペプロスを扱っている。子供の性別については論争があるが,女神アテナのペプロスを扱うのは少女がふさわしいという説をとりたい。これら「乙女の行列」の女性たちと中央の少女たちは誰なのか? 衣装や髪型,持ち物の相違などの細部表現を基に,これまでさまざまの仮説が出されてきた。
 外出もままならなかった古代アテネの女性たちにとって公の場に顔を出せる数少ない機会が祭礼であり,そこで彼女たちは晴れがましい役割を演じた。なかでも供物籠を頭に載せて行列を先導するカネフォロス(籠持ち)の役割は,アテネの高貴の家柄から選ばれた乙女たちが担った。当然のことながら,処女女神アテナの祭礼には乙女が活躍した。女神に捧げる聖なるペプロスは機織り開始の儀式を経て,そのために特別に選ばれたアレフォロスと呼ばれる7歳から11歳までの少女たち(二人ないし四人)の手で約9ヶ月間かけて細心の注意を払って織
られた。この機織りには幼いアレフォロスたちを助けて大勢の年長の少女たち(エルガスティナイ)が参加したという(O. Palagiaの説)。これまで多くの研究者たちが東フリーズの中央場面や行列の女性たちにこうした祭礼の際に特別の役割を担った少女のイメージを読み取ろうとしてきた。どの少女がアレフォロスでカネフォロスなのか諸説紛々だが,そして衣装や髪型の相違の意味をもっと研究していく必要はあるとしても,総じて彼女たちをアテナのペプロス織りに関わった名門の乙女と考えるのが自然なように思える。この場が処女なるアテナに捧げた神殿であり,アテナこそ女性の最高の美徳としての機織りを司る,乙女たちの鑑ともいうべき女神であったのだから。ここアテネで伝説的な王たちの時代から続いてきたとされるアテナ・ポリアス像のために乙女たちがペプロスを織るというこれまで幾度となく繰り返されてきた行為と,神話に彩られた王の娘たちを筆頭とするアテネの生え抜きの高貴な乙女たちが幾度となく祭の行列を先導してペプロスを捧げてきた反復の歴史がこれらの乙女たちの表現に集約されているように思われるのである。
 しかし,乙女たちが織りあげた聖なるペプロスの受領者アテナ・ポリアス像はパルテノン神殿に安置されていたのではなかった。伝説的王たちの墓やアテナのオリーヴ樹,ポセイドンの塩水の泉といったアテネ市ゆかりの聖蹟や聖遺物が集積しているアクロポリス北側に,それらを集約した形で建てられた複合神殿エレクテイオンの至聖所にそれはあった。そのエレクテイオン南西の張り出しの屋根を支える名高い6体のカリアティードは碑文に「コレー(少女)たち」と記載され,あのアルカイック時代にアクロポリスに奉納された数多のコレー像のポーズを踏襲するかのように,それらの記憶を留めるかのように,衣の端をつまんでいた(現在腕は欠損しているが)。屋根を支えるその姿が供物籠を頭に載せて運ぶカネフォロスを連想させるこれらカリアティードがパルテノン東フリーズの行列の先頭を歩むひときわ美しい乙女たちの衣装とよく似たペプロスとマントをまとい,互いに姉妹のように似ているのは故なしとしないであろう。東フリーズの浮彫から抜け出てきたようなカリアティードもまたパルテノンの乙女たちのイメージと密接に重なり合い,妙なる響きを反響しあっている。













ビザンツ世界での古代テキスト伝承を想う

大月 康弘


 友人から興味深い書物を教えてもらったのは,昨年初夏のことだった。W. ノエル,R. ネッツ『解読! アルキメデス写本』(光文社,2008年5月刊)。さっそく繙読,久しぶりにスリリングな読書を愉しんだ。
 9〜10世紀,アルキメデスの数式はビザンツ世界で比較的多く筆写されている。その羊皮紙を再利用して,13世紀半ばに一編の典礼用祈祷書(Euchologion)が作られた。174葉からなるコーデクス。それは,消し取られた旧いテキストの痕跡を留めるいわゆるパリンプセストだった。その一葉に,現存最古となるアルキメデス『方法』命題14のテキストが含まれて,数学史上の一大発見になったというのである。
 実はこの「発見」は,すでに1906年にデンマークの数学者ハイベアによってなされていた。ところがその後,写本は行方不明になる。先年,写本の現物が再び発見され,競売にかけられた。紆余曲折の末に,それはボルティモアのウォルターズ美術館に委託され,科学的な分析が施されることとなったという(分析技術,また古典写本の伝来に関して,西村太良氏による達意の紹介「ギリシア語写本の調査研究とデジタル技術」http://www.humi.keio.ac.jp
/japan/docs_j/report/annual
/1999/1_5.htmlを参照されたい)。
 数奇な運命を辿った写本は,あるいはこの事例に限られないかもしれない。まだ見ぬ「発見」を夢見て,また無惨に散逸した幻のテキストを想って,古代テキストの伝来過程に心が躍った。ビザンツ世界を観察する者として,古代のテキストがそもそもこの中世世界をいかにしてかいくぐってきたかという問題は,いつも大きな関心事なのである。
 初期ビザンツ世界(4〜6世紀)にあって,古代の異教テキストは,特段の障害もなく普及していたと論じられるが,学校で勉強された作品を除いては,総じてテキストの流通は貧弱になっていったようだ。
 より広範に普及し,今日まで比較的よく保存されているテキストは,学校で勉強された文献と考えてよいようである。古代の悲劇,喜劇作品が(もとより少数ではあるが)今日まで伝来しているのは,紀元後数世紀のあいだ,学校で使われていたからだった。
 学者や中世の筆写生たちが,古代テキストの何を選択し写し取ったかは,教育の必要のほか,ごく少数の知識人の興味関心に依存していた。ホメロスなどの詩や,もちろんヘシオドス,あるいは悲劇作品などが,文学教育
を基礎としてよく筆写されたことは知られている。悲劇については,今日伝来する限りでの最初の筆写本(アリストファネス)は,10世紀半ばを待たなければならない。異教とキリスト教のエピグラム(寸鉄詩)の一大集成『アンソロギア・パラティナ』Anthologia Palatinaもまた10世紀半ばの成立である。これらの写本は,同世紀初頭のグラマティコス(文法教師)だったコンスタンティノス・ケファラスの活動を反映している。
 9世紀,ビザンツにおける最初の文学ルネサンス時の関心は,主に科学,哲学に向いていた。数学者レオーンの蔵書には,エウリピデス,またアルキメデスの数学論文が含まれていた。そして,哲学分野ではプラトン,ポリフィロスがあった。同じ9世紀,後に総主教となるフォティオスの『文庫』は,文化史における一大里程標といってよい。読破された280巻にわたる書籍の目録は,当時最高峰の知識人が備えた文化についてのイメージを伝えている。キリスト教関連のテキストが最も多いが,122冊は,100名ほどの著述家の世俗作品に向けられている。フォティオスの蔵書の場合,文語にとって有用な辞書類と,特にヘレニズム期,ローマ期を中心とする歴史家の著作群が,また一つの特徴だった。
 9世紀末から10世紀初頭にかけて,カイサリア大主教アレタスの所持した写本群にも,豊かな文人がもった蔵書の一端がかいま見られる。世俗文化に関していえば,エウクリデス(ユークリッド),プラトン,アリストテレス,またルキアノス,アエリウス・アリスティデスが収蔵されていた。また,ホメロス,ヘシオドス,ピンダロス,アリストファネスといった詩人の作品も読まれていたようだ。さらには,プルタルコス,ディオ・クリュソストモス,エピクテトス,マルクス・アウレリウスも閲読されていた。
 アルキメデス写本の発見は,往時の文人の書斎風景を彷彿とさせてくれた。異教の数学・哲学の論文から,キリスト教の典礼書抜粋まで,種々の文献が並ぶ書架。写本工房は,そうした文献を注文に応じて転写した。その際,より貴重なテキストを伝えるべく「ありふれたテキスト」を消して再利用した,ということなのだ。いかなる種類のテキストが選択され,筆写されたのか。それは,古典に倣いながら独自の文学創造を模索したビザンツ文化そのものの問題であるにちがいない。その方向性を探ることは,困難ではあるが興味深い問題だ,と改めて思い知った読書だった。













須磨コレクションと長崎の天主堂

小倉 康之


 少し前のことになるが,2005年の春,長崎県美術館の開館を記念して「よみがえる須磨コレクション──スペイン美術の500年」展が開催され,同館で行われたシンポジウムのパネリストとして参加した。第二次世界大戦中,特命全権公使としてスペインに赴任した須磨彌吉郎氏による美術コレクションは,日本ではおそらく唯一スペイン絵画を網羅的に収集したものであろう。それがスペイン出身のフランシスコ・ザビエルが布教した平戸に近く,西坂で4人のスペイン人宣教師が殉教した聖地長崎に寄贈されたことは誠に意義深いと言える。同コレクションには洗礼者ヨハネを描いた板絵が数点あり,潜伏キリシタンの聖画像《洗礼者ヨハネ》との著しい違いに思いをいたすとき,キリシタン弾圧のすさまじい力を感じて慄然とする。
 「隠れ」なければならなかった江戸時代の信者は,洗礼者ヨハネの姿を「髷を結った日本人」として描くことさえあった。アトリビュートはどうやら「赤い椿」のようである。花ごとぽとりと落ちる椿は時に「斬首」を思い起こさせ,それゆえ洗礼者ヨハネの象徴として用いられたのだと推察される。長崎では,幕末から明治・大正期にかけて,次々に教会堂が建設されたが,その装飾にもしばしば椿が用いられた。例えば,上五島,中ノ浦教会堂(大正14年献堂)の身廊は,「赤い椿」の装飾によって彩られている。町の古老の話では,これは単なる花ではなく,赤は「殉教の血」を意味するのだという説教が行われていたらしい。しかし,昔はピンク色だったと言う人もいて,真実は濃い霧の向こうにある。なにしろ記録はほとんどなく,あったとしてもたいてい長崎代官側のものであるから,シンボルを読み解くための手掛かりは極めて少ない。
 シンポジウムの翌日は,見学会幹事の役を仰せつかり,バスをチャーターしてキリスト教史跡を訪ねた。大浦天主堂(元治元年竣工)からスタートし,神ノ島教会堂(明治30年献堂),黒崎教会堂(大正9年設立),出津教会堂(明治15年献堂)を巡る小さな旅である。日本二十六聖人記念館,秀吉の命で破壊された教会遺跡などもコースに入れ,禁教時代と明治6年以降の比較的自由な時代とを対照させた。長崎の天主堂は,パライゾの写しをようやく地上に築けた信者の喜びに満たされている。側廊のステンドグラスは柔らかな光を堂内に導き,訪れる者を安らかな気持ちにしてくれる。百年前,殉教者の
末裔たちは,天上のエルサレムの光り輝く城壁を,そしてその壁に囲まれた楽園を,そこで静かに思い描いたのだろうか。
 幕末から明治にかけて日本に来た宣教師は,フランス出身者が多い。西彼杵半島,外海地区の神父マルク・マリー・ド・ロは,パリ外国宣教会に属し,貧しい外海の住民を救うために生涯を捧げた博学多才の人である。ド・ロ神父は労働・生活面での指導者でもあり,この地に新しい産業を興し,自ら建築にも携わった。彼が設計ばかりか施工までをも指揮した出津教会堂は,建築家としてのド・ロ神父の代表作だと言えるだろう。それは山の頂にあり,大風による倒壊を防ぐため,低く伏せるような姿をした白亜の教会堂である。東正面と西正面にはそれぞれ一基の塔がそびえ立つ。この時期の宣教師がフランスの中世建築に多い双塔式ではなく,むしろドイツに多くみられる単塔式ファサードを採用しているのは興味深い。双塔式の都市門を見たことのない日本の信者が,双塔式ファサードが担う象徴的意味を読み取るのは困難である。だが,単塔式ファサードならば,日本人にもわかりやすい。日本の城郭建築にも塔はあり,単塔式ファサードはアミニズムの国の樹木崇拝にも通ずる。西洋の単塔式ファサードは,ゲルマニアの諸部族が砦に築いた見張り塔,あるいは中世ドイツの城に一般的なベルクフリート(Bergfried)が起源であると推察される。塔は東を向いて祈る信者たちの背後にあり,悪竜・異教徒の侵入を防ぐという意味があったと考えられる。私たちが出津教会堂を訪れた日は濃い霧が出ていた。山がちな外海は,雨や霧の日が多い土地であると聞く。霧の中に霞む白亜の塔が神秘的な雰囲気を醸し出し,確かに何か悪しきものから守られているような気がした。
 観光バスを手配したのは私であるが,予算を抑えるために旅行代理店を通さず,インターネットで見つけたバス会社に直接電話をかけて頼んだ。他県から来たバスの運転手は道に迷い,濃霧の山道でスピードを出し,信じがたいことに「高速道路」でUターンした。命の危険さえ感じたが,その分霧の中の教会堂は深く心に刻まれた。長崎の教会堂にはきっと目には見えない何かが宿っているに違いない。慣れない幹事の大失敗にも関わらず,「また行こう」と言ってくださる方が少なくないのはとても嬉しい。













戸外を生きる国で

伊藤 喜彦


 太陽が眩しい日中の建設現場。作りかけのバルコニーにガタガタの小さな木のテーブルと折り畳み椅子を出して,お昼の休憩をとる労働者たち。赤ワインのボトルとチーズとパンが置かれ,モロッコ出身の哲人が同僚に人生を語りはじめる……。
 En construcción*1(『建設中』)と題された,バルセロナのスラムクリアランスの現場を描いたドキュメンタリー映画のワンシーンである。このシーンでは,レンガが積まれ,モルタルとペンキで汚れた吹きさらしの建設途中の建物が,安ワインとチーズとによって,サグラダ・ファミリアを借景とした見事なテラス席になってしまう。スペインに住んでいたときは,この事実,つまりスペインではどんな戸外空間もテラスとしてのポテンシャルを持っているという事実は,あまりにも当たり前すぎて普段ほとんど気づかずに生活していたのだが,日本に戻ってこの映画のワンシーンを見たとき,あの戸外を生きる感覚が天啓のように思い起こされたのだった。
 東京に戻って家を探した際,秋葉原の大きなルーフ・バルコニーのある家に決めたのも,あの,テラスで飲む,食べる,しゃべる,何もしない時間を再現できればよいと思ったからだった。屋外用のテーブルと椅子を買って,引き出物のカタログではわざわざハンモックを選び,準備は万端だった。だが結局,その家に住んだ二年の間,屋上に出るのはほとんど洗濯物を干すときぐらいだった。何度か友人という友人を呼んでスペイン仕込みの大きなパーティー,通称アキバ・フィエスタを開催してみたが,ほとんどの会は雨に見舞われ,テラスを十分に活用できたとは言いがたい。
 マドリッドの道端や広場には,スペインの他の都市と同様に,たくさんのカフェやレストランのテラス席がある。どれも同じように見えるがランクはいろいろだ。マヨール広場や王宮前のツーリスト・トラップで飲むビールよりも,移民の多く住むラバピエス地区のちょっとナウいレストランのテラスのものの方が安いし,それよりも古き良きおっさんバル*2の店の前で飲んだ方が安い。さらに,ラバピエスやマラサーニャ地区のテラスでビールを飲みながらあたりを見回せば,売店で1リットル1ユーロのマオウ・クラシカ*3を買って来て,ベンチで飲んでいる輩の多かったこと。広場の眺め,ビール(ワイン),夕暮れのそよ風。テラスに座る快楽をこうした要素に分解してしまえば,どれも結局体験としては
あまり変わらないのではないかと思えてくる。
 買って来たビールやカリモッチョ*4やその他の安酒を,友達と集まって飲み交わすのをスペインではボテジョンと呼ぶ。特に公園や広場でやるボテジョンは,ヤングの間ではかなりポピュラーな習慣だったのだが,ちょうど僕がマドリッドに住み始めた頃に条例で禁止された。禁止令適用も徐々に厳格化し,終いには狭いバルの店内からグラスを持ってちょっとでもはみ出しただけで,神経質なウェイターに敷居をまたぐなと注意されるようになった。ロック・バーの集中するマラサーニャ地区の5月2日広場などは,かつてテラスに座って談笑する大人と,地べたに座って叫び歌う若者の対比が風物詩のようになっていたし,土曜日のバスケス・デ・メジャ広場に集まるゴシック・ファッションの少年少女たちを眺めるのも面白かったが,そうした光景ももはや過去のものとなったのかもしれない。近隣住民の迷惑は計り知れないものだったとは思うが,「なぜそこで酒を飲むのか」と聞かれたら「そこに広場があるから」とでも答えそうな,このスペインの若者のパブリック・スペース使用法に興味津々だった僕には少し残念な出来事だった。
 この,戸外でのボテジョンも,ルーフ・バルコニーの活用と並んで,日本ではなかなか再現が難しい。もちろん,花見の時期の公園や,初夏の河原でやるバーベキューなど,ちょっと特別な機会にはそれに近いものがあるのだが,僕は渋谷の道端で,ラバピエスの道端のような,普通の日に缶ビールを飲んで心地よい空間を探してみたが,結局見つけることができなかった。空間人類学的実験をしても,ただのアル中のようになってしまうのだ。この失敗を単に気候の違いだけに帰してよいものなのだろうかと,今でも考えている。

*1 José Luis Guerín監督, 2001。
*2 おっさんバルの目印は,おっさんの店員がやっており,かつスロットマシンがあってそれを延々とやっているおっさんの客がいること。
*3 ビールの種類。ボテジョンにおける永遠のスタンダード。
*4 安いパックの赤ワインとコーラを混ぜたもの。ワインはとにかく安いもの,コーラはコカコーラを用いるのが正統だとされる。ボテジョンのもう一つのスタンダード。








表紙説明

地中海の女と男22

時代を超える女の絆/伊田 久美子



 暗闇に目を凝らす猛々しい眼差しの女の横顔は,旧約聖書に登場するジュディッタ(ユーディット)のものである。彼女はたった今祖国を脅かす敵将オロフェルネ(ホロフェルネス)の首を奪ったところである。その首は彼女にぴったりと寄り添う召使いの女が抱えるかごの中にある。切迫した場面の中で,二人の女の同志としての強い絆も伝わってくる。
 ジュディッタは多くの画家によって描かれた題材のひとつで,マンテーニャ,ボッティチェッリも作品を残しているが,とくに有名なのはバロック期のカラヴァッジョやオラツィオ・ジェンディレスキの作品である。しかし多くのジュディッタ像の中でももっとも気迫に満ちた女性像は,オラツィオの娘であるアルテミシア・ジェンティレスキによるものであろう。
 女性芸術家の再発見・再評価はフェミニズム運動や女性学・ジェンダー研究によって目覚ましい成果をあげた。アルテミシア・ジェンティレスキは,19世紀末のフェミニズムの登場後,新たに「修復」された代表的な画家である。女性が芸術家であることが困難であった時代の多くの女性芸術家と同様に,彼女の作品の多くは長い間父オラツィオの作品であるとされてきたが,それらの作品の「再発見」とともに,彼女の生涯もまた新たな読解と再構築の対象となった。作品と資料から女性画家の生涯を再構成し,その女性像に新たな解釈を加えたアンナ・バンティの小説『アルテミシア』(1947)は,その先駆的な試みである。暗闇を強い意志で進もうとするジュディッタと,画家としての道を手探りで歩んだアルテミシアの姿は,人間=男の伴侶としてではなく主体として自らの生を生きようとする女性たちのシンボルであ
り続けている。
 ここに紹介したのは1987年にミラノの「女の本屋」(Libreria delle donne di Milano)が出版した『Non credere di avere dei diritti』(「権利があると信じてはいけない」)のプレゼンテーションがボローニャで開催された時のポスターである。シモーヌ・ヴェイユの言葉をタイトルにしたこの本は,1966年から86年の主にミラノにおける女性たちの運動の軌跡を辿ったものである。60年代後半以降,イタリアの女性運動は離婚,中絶,均等待遇など,様々な権利を実現してきた。しかし権利はそれを保障してくれる権力が存在しなければ何の意味もない。女性自身の自由と力の獲得を問うこの本の趣旨を,アルテミシア・ジェンティレスキのジュディッタはシンボリックに示している。
 ミラノの「女の本屋」は1975年の開店以来,女性によって書かれた本のみを扱い,多くの女性たち,そして近年では男性たちが集まり議論し交流する場を提供し,活動の発信地となってきた。イタリアだけでなく国際的にも注目されるフェミニズム運動の拠点である。
 1994年ミラノのフェミニスト,エルヴィーラ・バダラッコの遺言により彼女の遺産によって設立されたエルヴィーラ・バダラッコ基金は,バダラッコが進めてきた女性運動の資料の収集・編纂を進め,1996年に,60年代後半からの第二波フェミニズム運動のマニフェスト100点あまりを集めた展示会を開催した。このポスターもその時に展示されたもののひとつである。バダラッコ基金は19世紀末に設立された女性連合(Unione nazionale femminile)の建物の一角にあり,膨大な資料の整理・編纂作業を継続している。