学会からのお知らせ


*第33回大会
 第33回大会を西南学院大学(福岡市早良区西新6-2-92)において下記の通り開催します(予定)。
6月20日(土)
13:00〜13:10 開会挨拶
13:10〜14:10 記念講演
  「海を渡った柿右衛門」  下村耕史氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
  「地中海のカフェ文化」
      司会:渡辺真弓氏
16:30〜17:00 授賞式
  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
18:00〜20:00 懇親会
6月21日(日)
9:30〜12:00 研究発表
12:00〜12:30 総会
13:30〜16:30 シンポジウム
  「キリシタン世界と地中海文化」
     司会:宮下規久朗氏

*常任委員会
・第8回常任委員会
日 時:2008年2月16日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXI(2008)に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/青山NHK文化センター企画協力講座に関して/研究会に関して/石橋財団助成金申請に関して 他
審議事項:第32回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他
・第9回常任委員会
日 時:2008年4月12日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第32回大会に関して/『地中海学研究』XXXI(2008)に関して/石橋財団助成金申請に関して/研究会に関して 他
審議事項:2007年度事業報告・決算に関して/2008年度事業計画・予算に関して/地中海学会学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/事務局長交代に関して 他
・第10回常任委員会
日 時:2008年6月21日(土)
会 場:早稲田大学戸山キャンパス
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/機関別認証評価専門委員に関し 他
審議事項:第32回大会役割分担に関して/第33回大会会場に関して/学生会員の見直しに関して/事務所移転に関して 他
・第1回常任委員会
日 時:2008年10月4日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第32回大会および会計に関して/研究会に関して/NHK文化センター企画協力講座に関して/事務局移転に関して/公益法人に関する説明会に関して 他
審議事項:第33回大会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して 他
・第2回常任委員会
日 時:2008年12月13日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXII(2009)に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/NHK文化センターに関して 他
審議事項:第33回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/2009年度朝日カルチャーセンターに関して 他

*会費納入のお願い
 今年度(2008年度)の会費を未納の方には,本号に同封して請求書をお送りします。学会の財政が逼迫の折,至急お振り込み下さいますようお願いいたします。ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。
 なお,新年度会費(2009年度)については3月末にご連絡します。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313












秋期連続講演会「地中海世界の造形文化──聖なるものと俗なるもの」講演要旨

人間ピカソの愛と苦悩
──磔刑とエロスの往還──

大高 保二郎


 昨秋,国立新美術館並びにサントリー美術館で「巨匠ピカソ展」が開催された。前者は「愛と創造の軌跡」,後者は「魂のポートレート」と題され,初期から晩年まで,選りすぐりの“ピカソ秘蔵のピカソ”が並んでいた。これまでピカソの絵はよく知っている積りだったが,新たに発見したのは「ピカソの絵ってきれいなんだ!」であった。青の時代の《ラ・セレスティーナ》からキュビスム時代の《私はエヴァを愛する》,クラシック時代の《オルガの肖像》を経て,小品ながら衝撃的な《キリスト磔刑》へ,さらに晩年の男女の激しい抱擁にいたるまで,美しい,清潔でもない,きれいなのだ。そう感じたのは,愛とエロスにまみれて伝説化されたピカソ像がいつしかできあがっていたからであろうか。
 さてピカソは,91年余というその長すぎる生涯において,大量の作品を遺した。しかし,テーマとして極めて多岐にわたるかに映るそれら作品群も,突き詰めれば必ずや,日々の生活での凝視や省察から始めているという意外な事実に気付くであろう。そこに流れるライトモティーフは,「エロスとタナトス」,すなわち「愛と死」をめぐっての往還,言い換えれば「聖と俗」への収斂である。ピカソが熱烈なカトリック信仰とマリア崇拝で知られるアンダルシア人であったことをここで想起しておこう。
 確かに,ピカソは宗教画家ではなかった。しかし,「磔刑」だけは例外である。初期から後半生に至るまで,ピカソはこの十字架上のキリストを,様々な変容を重ねながら描きつづけた。その理由は何であったのか。キリストの生涯においてもっとも中心的な概念をなすこの事件は,十字架の上で自らを犠牲(神への生贄=死)にすることで「贖罪」,すなわち人類がその始祖アダム以来背負ってきた「原罪」からの救済をもたらすというものである。
 しかも,この厳粛にして神聖であるべき物語はピカソにとって,一方では実生活での「罪滅ぼし」として機能しながら,他方では,マグラダのマリアを媒体としつつ「エロス(性愛)」と結ばれていく。さらに複雑なのは,ピカソが自ら「俺たちスペイン人って奴は,朝はミサ,午後は闘牛,夜は淫売屋ときている。いったい,何を通してそれが混じり合えるかって。悲しみだよ」と語ったことがあるように,磔刑は闘牛シーンと融合していく。闘牛は古くは,牡牛の供犠という厳粛なる儀式であった
のだ。ガルシア・ロルカも語っている,「闘牛は真正なる宗教的ドラマで,人はそこで神を礼拝し,そして供犠とするのである」。
 かくして,《ゲルニカ》は闘牛と磔刑の,図像と含意と象徴による極めてスペイン的,ピカソ的な変容を経て人類共通の聖なる受難劇に至るのである。本講座では,以下の諸テーマが取り上げられた。
序 イベリアの原風景 アルタミラの洞窟と牡牛信仰/1青の時代の愛と死―《招魂(カザジェマスの埋葬)》から《ラ・ヴィ(人生)》へ:聖愛と俗愛の対置と共生/2《アヴィニョンの娘たち》:物語(ナラティヴ)画から造形上の革命へ/3クラシック時代の豊穣と生殖:《オルガの肖像》から《泉》まで―Fontainebleauにて “fontaine belle eau”あるいは“犬Bliaudがbleauに”/4「マルスとヴィーナス」の愛物語から《牧神パンの笛》へ:サルタンバンクの孤独/5《踊り子たち(ダンス)》:三美神に秘匿されたキリスト磔刑/6身体行為としての絵画制作:猿画家が絵筆(ペニス)で描く―「絵筆pincelはラテン語のpennicilusに由来。Pennicilusはpennis の縮小辞で,「陰茎」と同時に,形態的な類似から「尻尾」をも意味する。絵筆はリスなどの尻尾から作ったので,pennicilusと呼ぶようになった」(S. de Cobarruvias, Tesoro de la lengua castellana o española, 1611)/7十字架上の“キリスト”とマグラダのマリア―聖・俗の融合/8油絵小品《磔刑》から生まれた様々な磔刑のデッサン:聖なるものを汚辱して最高のエクスタシーへ(バタイユ『腐った太陽』)/9闘牛(暴力とエロスの場):アルターエゴとしての牡牛から牛頭人身の怪物ミノタウロス(ミノス王妃と牡牛の交接で生まれた)へ/10馬をキリスト重ねて,人類の受難劇《ゲルニカ》が誕生/11《ゲルニカ》とゴヤ作《1808年5月3日》のアナロジー:ゴルゴタの丘を想起させる/12晩年,老人の苦闘:エロスをめぐる人間の悲喜劇。
 こうして見れば,幼少期から最晩年に至るまで,ピカソの人生は一貫して聖・俗の葛藤と融合に支配され,それが彼の芸術の根源をなすものであることに気付くであろう。ピカソ曰く,「芸術は決して貞淑ではない」。




《戯画的な自画像》1903年1月1日













秋期連続講演会「地中海世界の造形文化──聖なるものと俗なるもの」講演要旨

聖なるものの形
──イスタンブールのビザンティン・モザイク──

益田 朋幸


 支配者とともに,この町は三度名を変えた。古代はギリシア人の植民都市ビザンティオン,中世はビザンティン帝国の都コンスタンティノポリス,そして15世紀以降はオスマン帝国のイスタンブール。今日のイスタンブールは,にぎやかで少々雑然としたトルコの観光地である。煮炊きをする泥炭の煙,ケバブを焼く香ばしい香りが町を満たす。ガラタ橋あたりを歩けば,鯖を揚げる匂いや,エジプト・バザールのさまざまなスパイスのむせるような香りも漂ってくる。
 どのホテルで眠ろうと,朝はモスクのミナレットから流れてくるアザーンの大音量で目が覚める。かつてのコンスタンティノポリスの繁栄を思い描くことはもはや難しいが,それでも町のあちこちにビザンティン時代の痕跡を見ることができないものでもない。
 アヤソフィア(アギア・ソフィア大聖堂)は正教の総本山であった。6世紀の皇帝ユスティニアヌスによって建立された建物が現存する。創建当初のモザイク装飾は,十字架や幾何学模様のみであるが,堂内のあちこちに,後の皇帝たちが寄進したモザイク・パネルが残っている。中でもアプシス(内陣)の《聖母子》(9世紀半ば)と,南階上廊の《デイシス》(聖母と洗礼者がキリストに人類の救済をとりなす図像,13世紀後半)は,モザイク技法の極北と言えよう。テッセラと呼ばれる方形のガラスや大理石を並べて図柄をつくるモザイクは,19世紀フランスの点描派のように,写実性よりは抽象性を指向するのが自然である。しかし2点のモザイクはまるで筆で描いたような細緻なグラデーションによって,人物に柔らかなモデリングを施す。
 町の北には,モザイク装飾をもつ二つの修道院がたたずむ。カリエ美術館として公開されているのは,ビザンティン時代のコーラ修道院,1316〜21年に帝国宰相テオドロス・メトキティスによって寄進されたモザイクとフレスコが美しい。二重のナルテクス(玄関廊)は,マリアとキリストの生涯を表すモザイクで飾られている。
 ここまで来たら,もう10分ほど歩いて,フェティエ・ジャミイも訪れたい。聖堂の本体は今もモスクとして使われているが,南側の礼拝堂が近年一般公開されるようになった。ビザンティン時代のパナギア(聖母)・パンマカリストス修道院である。1304〜06年頃に制作されたモザイクが堂内を飾っている。
 アギア・ソフィア,デイシスのキリスト(13世紀後半)と,コーラ修道院のドームのキリスト,フェティエ・ジャミイのドームのキリスト(ともに14世紀初頭)を並べてみる。いずれも似たような,長髪長髯のキリストの顔である。しかしこれこそが,人の顔を描くことによって,人を超えた聖なるものを希求したビザンティン美術の,最高の成果である。キリストの眼差しは私たちを越えて,遥か彼岸の世界を見つめているようだ。
 コーラ修道院にはモザイクとフレスコ,2点の聖母子立像が残っている。幼子を抱いた母は,しかし憂いを含んだ──あるいは悲痛とさえ見える──面持ちをしている。初めての子に恵まれた幸せな母の表情ではない。図像学的にこれは「受難の聖母」という系譜に属する。母マリアは将来のわが子の,受難という宿命をすでにこのとき知っている。
 「受難の聖母」図像は12世紀末のビザンティン世界で発明された。キプロス島ラグデラのパナギア・トゥ・アラカ聖堂(1192年)と,カストリア(ギリシア)の両面イコンが最初期の作例である。逆縁を知らされた母の哀しみは中世の人の心をとらえ,また画家にとっては腕の奮いどころだったと見える。ビザンティン世界のみならず,すぐさまそれはイタリアに伝わり,ルネサンスの画家たちにいたるまで多くの作例を生むこととなった。
 ジョヴァンニ・ベッリーニやマンテーニャの描く聖母は,しばしば憂鬱な顔をしている。レオナルドの《聖アンナと聖母子》も,ミケラジェロの《階段の聖母》《トンド・ピッティ》《トンド・ダッデイ》も,ラファエッロの多くの聖母子も,みなビザンティンの「受難の聖母」の系譜に属している。
 日本に普及した仏教の民間信仰では,親に先立った子どもは地獄に堕ちるとされる。親を悲しませたゆえである。親の嘆き,そして子の苦しみを救ってくれるのは,地蔵であり,ある種の観音であった。子を喪う親の哀しみは古今東西普遍であろう。近代医療以前の中世ともなれば,逆縁の嘆きに沈む母は多かったに違いない。ビザンティンで,そしてイタリアで普及した「受難の聖母」は,そうした母を慰めた。神キリストを産む器として選ばれた聖なる母マリアでさえ,多くの母たちと同じく嘆き,同じ哀しみを哀しんだのであった。













研究会要旨

他者との邂逅
──フランス・ロマン主義時代のオリエント旅行記をめぐって──

畑 浩一郎

12月13日/東京大学本郷キャンパス


 19世紀前半のフランスには一種の「オリエント・ブーム」が起こる。ナポレオンのエジプト遠征を契機に地中海沿岸地域への関心は高まり,多くの旅行者が『千一夜物語』の世界を夢見てこの地へと旅立つようになる。文学者も例外ではない。シャトーブリアン,ラマルチーヌ,ネルヴァル,フロベールといった時代を代表する作家たちがこの地を訪れ,その印象を旅行記に残している。彼らにとって,言語,宗教,生活習慣などが異なる現地の人々の姿はどのように映ったのだろうか。彼らが残したテクストを通して「他者」にまつわるいくつかの問題を考察することが本発表の目的である。
 西洋人が行うオリエント地方への旅行の歴史は古い。さかのぼればギリシア・ローマの時代から,西洋人は絶えることなく地中海東部に広がる諸地域を訪れ続けている。だが今から200年ほど前,この長い伝統にひとつの転機が生じている。フランスに関して言えば,1800年頃を境にして,この地を訪れる旅行者のカテゴリーに明らかに変化が見られるのである。それまでオリエントを訪れることが許されていたのは,学者,医者,外交官など一部の限られた専門家たちだけであった。しかし今後は特別な知識を持つわけではない人々,いわば将来的な「ツーリスト」を予告するような一般の旅行客が数多くオリエントを訪れるようになるのである。それにともない旅の目的にも変化が生じ,それまでの学術的な知の探求に代わって,より個人的な印象が重視される傾向が見られるようになる。こうした時代の変遷は,18世紀の哲学者ヴォルネーと,19世紀の文学者シャトーブリアンのテクストを比較してみることによって明らかとなる。
 新しい世代の旅行者は,それではどのように異文明である「オリエント」と向き合うのか。さまざまな旅行記に現れる「上陸」の場面の考察はこの点で興味深い。実際,多くのテクストがここで類似した情景を描き出しており,それらはいずれも旅行者の最初の衝撃を伝えている。それはまるで「海戦」のようである。旅行者の乗った蒸気船は瞬く間に無数の小舟に取り巻かれ,乗客たちはサービスを提供しに殺到する現地人のポーター,通訳,ガイドに悩まされることになるのである。オリエントの人々が彼らに見せる時として粗暴な態度は,旅行者に異世界に到着したことを身をもって感じさせることになる。
 しかし旅行者たちも,いつまでもされるがままになっているわけではない。オリエント上陸後,彼らはある一定の手続きを踏むことによって,この地が容赦なく突きつけてくる疎外感から身を守ろうとする。その手続きとは次の三つである。すなわち「フランク人街での投宿」「フランス領事訪問」「地元の権力者(パシャ・アガ)の訪問」である。これらの行為はいずれも,旅行者に祖国フランスの威光を付与する効果を持っている。旅行者はその威光でもって現地の人々の目をくらませ,個人としてはあまりに脆弱な自らの身を守ろうとするのである。
 旅行者はこうして自分と現地の人々との間に一本の境界線を引く。しかしこの一線は必ずしも絶対的なものではない。それは時として移動させられたり,あるいは乗り越えられたりする柔軟性を持っている。この点でこの時代のオリエント旅行記にしばしば見られる「現地人への変装」のテーマは興味深い考察材料を与えてくれる。
 19世紀前半に中近東諸国を訪れる西洋人は,しばしば好んで旅行中に現地人の服装に身を包んでいる。その意義はしかし一様ではなく,少なくともこの時代に三つの段階を経て変遷している。当初それが行われたのは,安全面の配慮からであった。異教徒の目印となる西洋の衣装は否応なく人目を引き,旅行者はしばしば現地人に身をやつすことによって身を守ったのである。しかしオリエントでの西洋人の安全は次第に保証され,それにともない「変装」もまた新たな目的を帯びていく。次に現れるのは,立入禁止の場へ潜入するための手段としてのものである。礼拝中のモスク,奴隷市といった現地の人にしか立ち入ることの許されない施設に,一部の旅行者たちはオリエント人に扮することで潜り込もうとするのである。最後にオリエントの衣装は,ある種の芸術家たちにとって,この地が体現する詩情の源泉となる。西洋社会の逼塞を象徴するようなヨーロッパの黒服の代わりに,彼らは近東のきらびやかな服をまとうことで,オリエントが持つ生き生きとした生命の息吹に直接触れようとするのである。
 「変装」の意義の変遷には,この時代に生じたオリエント旅行の性格の変化,すなわちその大衆化が透けて見える。だがそれはまた「他者」という視点から見た場合,自他の境界を一時的に越境するという点で興味深い側面を持っているのである。













ペトロ岐部と187殉教者 列福式
──2008年11月24日 長崎──

秋山 学


 昨年の11月24日,カトリック教会による「ペトロ岐部と187殉教者」の列福式が長崎にて行われた。今回「福者」に挙げられたのは,1603年12月に殉教した八代の殉教者たちから1639年7月に江戸で殉教したペトロ岐部かすいまで,計188人の殉教者である。わが国では正式に判明しているキリシタン殉教者だけでも5,500名以上にのぼり,名の不明な殉教者を加えれば2万人を超えるとされる。「福者」とは「聖者」に次ぎ,殉教者や証聖者をはじめとしてカトリック教会が公的にその生涯の尊さを記念する人々を指し,典礼暦上に記念日が定められる。これまでに列聖・列福されたわが国キリシタン時代の殉教者としては,(1)「日本26聖人殉教者」〔聖パウロ三木と同志殉教者;記念日は2月5日,1862年制定〕,(2)「日本205福者殉教者」〔9月10日,1867年〕,(3)「聖トマス西と15殉教者」〔9月28日,1981年列福,1987年列聖〕の3件がある。このうち(1)と(2)は,幕末期にキリシタン禁令を解かぬ鎖国の日本に対し,ローマ主導で定められたものであったが,今回の列福は,日本の教会が主導したものであること,また今回列福される殉教者がすべて日本人であり,また一般信徒を中心に女性や子供たちを含むということ,が特徴として挙げられる。今回の端緒となったのは1981年の教皇ヨハネ・パウロII世訪日であり,これを機に188殉教者の列福運動が開始され,(3)も実現した。84年には教皇庁の承認を得て列福調査が開始され,96年日本側の調査が終了して教皇庁への列福申請が行われた。次いで列聖省での列福手続きに入り,2004年12月に列聖省歴史調査委員会,06年5月には神学審査委員会,そして07年2月には列福審査委員会を通過して,同年6月1日,教皇ベネディクト16世が列福承認の教令に署名,今回の式に到った。
 列福式は,ローマ・カトリックの典礼にしたがい,この日のための式次第によるミサの枠組みに盛り込まれた。あいにく当日は冷たい雨とともに夜が明けたが,会場となった「長崎ビッグNスタジアム」はドーム設備がなく,雨天の場合は合羽を着用のこと,と予め指示があった。だが式の進行とともにいつしか雨は上がり,時折強い日差しが雲間から射すと,会場からは歓声が挙がった。聖歌の中で司祭の入場が始まり,長崎の日本26聖人記念館館長を務めるデ・ルカ・レンゾ神父により殉教者の遺骨を納めた顕示台が掲げられ,中央祭壇下部に安置された。続いて青年たちによる全国リレーを終えたロウソク,および各殉教者ゆかりの地の土が併せて供えら
れた。聖遺物は1995年1月にマカオ教区より日本に返還されたものであるが,これは1614年,日本から追放された宣教師らを乗せ,マカオへ向かう長崎発の船が運んだ,1587年からその年にかけての殉教者たちの遺骨へと遡る。開祭の辞,回心の祈りと「あわれみの讃歌」に続き,「列福の儀」に入った。
 まず日本の首座司教である岡田武夫東京大司教がイタリア語で「列福宣言の要請」を行い,教皇庁列聖省列福申請者のフェルナンド・ロホ神父がスペイン語で殉教者の全体像を紹介し,続いて殉教者ゆかりの9教区の司教たちが順に殉教者を紹介した。内訳は,(1)江戸:ペトロ岐部とヨハネ原主水(東京教区),(2)米沢:ルイス甘糟右衛門ほか52名(新潟),(3)京都:ヨハネ橋本太兵衛ほか51名(京都),(4)大坂:ディオゴ結城了雪(大阪),(5)萩・山口・広島:メルキオール熊谷元直ほか4名(広島),(6)八代・天草・小倉・熊本:ヨハネ南五郎左衛門ほか27名(福岡),(7)豊後日出:バルタザル加賀山半左衛門とその息子ディエゴ(大分),(8)薩摩:レオ税所七右衛門(鹿児島),(9)生月・有馬・島原・雲仙・西坂:ガスパル西玄可ほか43名(長崎),以上188名である。次いでジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が教皇ベネディクト16世の書簡を朗読,列福が宣言され,記念日は7月1日と発表された。続いて中央スコアボード上に,三牧樺ず子氏の描いた殉教者たちの肖像画が除幕され,188羽のハトが放たれたのち,岡田大司教が枢機卿に謝辞を述べ,通常のミサの次第に戻って「栄光の讃歌」が続いた。「ことばの典礼」に入り,聖書朗読箇所としては『マカバイ記』下七1,20-23, 27b-29,『ローマ書』8.31b-39,『ヨハネ福音書』12.24-26が選ばれた。説教は白柳誠一枢機卿(前東京大司教)がおこない,殉教者の精神に倣い,怖れることなく現代に証しを立てることの意義が強調された。使徒信条に続く「共同祈願」では,先と同じく九つの司教区から意向が示され,以下「交わりの犠」(聖体拝領)へと進み,拝領の歌のなかで,今回の列福式のためのメッセージソング「あかしびと」も歌われた。閉祭を前に,マルティンス枢機卿により「教皇代理メッセージ」が読み上げられ,代わって溝部脩高松司教(列聖列福特別委員会委員長)が「今日,日本のカトリック教会は普遍教会との一致の絆をさらに強固なものにした」とイタリア語で謝辞を述べ,「派遣の祝福」そして閉祭を迎えた。













ヴィチェンツァの作家

渡辺 真弓


 昨年の9月にヴェネツィアで,ヴィチェンツァの作家に遭遇した。友人の友人から紹介されたスキンヘッドにサングラスの男性はヴィタリアーノ・トレヴィザンと名乗った。私がヴィチェンツァの誇る建築家パラーディオの研究をしていると知ると,「パラーディオは重くて好きじゃない。スカモッツィのほうがいい」と言い,理由をあげ始めた。彼が好きだと言うスカモッツィのヴィラ「ラ・ロッカ」は丘の上に白く浮かぶ姿が軽快かつ抽象的で,確かに現代人にはよりクールと映るかもしれない。しかしこういう意見の背後には5年前に開かれたスカモッツィ展の影響もあるに違いないと話を聞きながら思った(月報265号の拙稿参照)。
 この時の会話は短いものにすぎず,トレヴィザンという名も初耳だった。しかし1ヶ月後に日本で出会ったもう一人の魅力的なヴィチェンツァ人のおかげで,この作家への関心は急速に高まる。2008年はパラーディオ生誕5百年にあたり,ヴィチェンツァのパラーディオ・センター(CISA)では9月から大々的な回顧展が開かれたが,企画者の一人グイド・ベルトラミーニ館長が10月に来日し千葉大学で講演会を行なった。その時に世話役の上村清雄氏から紹介されて話をすることができたのである。ベルトラミーニ氏にトレヴィザンのことを話すと,「ヴィチェンツァ人はソフィスティケートされているから,たいていパラーディオは好きじゃないと言う」と笑っていた。だが彼にとってトレヴィザンはかなり好きな作家の一人だという。それでにわかに興味を覚え,代表作とされる『I Quindicimila Passi/一万五千歩』(2002)をインターネット経由で手に入れたのである。
 この本の主人公は家から目的地までの歩数を数えて手帳に記し,平均歩数を計算するという習癖をもっている。その彼が家から一万五千歩離れた市中の公証人の事務所へ向かいながら,脳裏を横切る家族の歴史を延々と一人称で語って行く。両親は早く死に,大きな屋敷の中で年長の姉が彼と兄の世話をした。この姉もいなくなったらという恐怖心から兄は執拗に彼女の外出などを邪魔し,ある日姉は姿を消し,兄もいなくなった。姉の失踪から十年経ち死亡とみなす書類を作成するため今日彼は公証人を訪ねるのである。兄の性格は,市内の画廊でフランシス・ベーコンの黒い三面肖像画に異常に魅入られた挿話で示される。すべては即物的に淡々と歩くペースで語られ,そのペースに乗っているうちに意外な展開に引き
込まれて行く。一万五千歩といえば十キロほどの距離だろうか,彼の家は北東の郊外(一番開発と工業化が進んだ地域)に設定されている。かつてヴィチェンツァの周囲は樫の森と沼沢地ばかりだった,森は伐られ湿地は干拓されて市街化し,それでも空気が淀めば沼の記憶は浮上する,と主人公の心の声は告げる。
 ここで思い出すのは,ヴィチェンツァを代表する作家グイド・ピオヴェーネ(1907〜1974)が,城壁があまり残っていないこの街は郊外との境があいまいだが,夜に散策するのが好きだと講演録の中で語っていたことである。彼の代表作『冷たい星』(1970)は千種堅訳で読んだが,甦ったドストエフスキーが死後の世界について語る肝心の部分より,舞台となるヴィラの描写に興味があった。ピオヴェーネも彼の母方のヴァルマラーナもパラーディオの施主リストにつらなる家名,すなわち何世紀も続く名門貴族の家系である。こうした俗な関心からピオヴェーネ没後20周年記念の作品集2巻も購入したが,難解なので少しだけかじって放置してある。
 もう一人,ピオヴェーネを回想した美しい文章の署名記事からその名を認識した作家がゴッフレード・パリーゼ(1929〜1986)である。パリーゼと同級だったという友人の母から彼のデビュー作『Il Ragazzo Morto e Le Comete/死んだ少年と彗星』(初版は1951)をもらったが,貧しかった戦後期のヴィチェンツァの人々をみずみずしく描いて魅力的だった。しかし彼はその後,ヴィチェンツァを嫌って生涯戻らなかったと語り種になっている。ジャーナリストでもあったパリーゼが日本について書いた『L'eleganza è frigida/優雅さは冷ややかなり』(1982)という本は3年前にヴェネツィアの友人がくれた。鋭い観察の日本体験(靖国,鵜飼,相撲,京都,高野山,風俗の店,川端康成邸などを探訪し,須賀敦子の通訳で石川淳に会い,ゾルゲへの関心から恋人だった女性を訪ねる等)は興味深いが,筆致は皮肉っぽく,日本人は本質的に内気で子供っぽいなどと断言される。
 トレヴィザンは映画監督のマッテオ・ガッローネ(『剥製師』2002や『ゴモッラ』2008の監督)と親しく,『Primo Amore/初恋』(2004)という映画では共同脚本を手がけた他,主演もしている(!)と知った。故郷への愛憎と死への強い関心という共通項をもつ三人のヴィチェンツァの作家を知ることができたのは土地と人をめぐる情報の連鎖作用のおかげと思っている。









表紙説明

地中海の女と男21

小アグリッピーナとネロー/島田 誠



 古代ローマの男たちの中に,現代イタリアの男たちと同じようなマザコンが存在したことは,以前に本欄(307号2007年11月)で述べたことがある。そのような場合でも,男たちは家の外ではあくまで男らしさを誇示し,家の中において母親に従順であるのが普通であった。ところが,息子が家の外でもあからさまにと母親の権威に従うこともあった。皇帝ネローと母親の小アグリッピーナの例がその代表であろう。
 この親子は大変に有名であり,彼らの逸話はよく知られていることだとは思うが,念のために基本的な史実を確認しておきたい。初代皇帝アウグストゥスの曾孫にあたる母親の小アグリッピーナは,グナエウス・ドミティウス・アヘーノバルブスという男性と結婚して一人息子のルーキウスを儲けていたが,紀元後49年に叔父であった第4代皇帝クラウディウスと再婚した。翌50年には,息子のルーキウスを皇帝の養子としてネロー・クラウディウス・カエサル・ゲルマーニクスと名乗らせ,自らもアグリッピーナ・アウグスタと名乗った。さらに54年に皇帝クラウディウスが亡くなると,皇帝の実子を差し置いて息子のネローを皇帝とした。小アグリッピーナが夫を毒殺したとも伝えられている。彼女は,息子が皇帝となると直接に政治に関与したが,やがて息子と対立するようになり,59年3月にナポリ湾岸の別荘にて皇帝の命令で殺害された。
 さて,ネローが皇帝となった当初に母親のアグリッピ
ーナが息子との同等(あるいは優越した)地位にあったことは様々な史資料から推測できる。そのような資料の一つが,その当時に造られたコインの図柄と銘文である。それらのコインには小アグリッピーナとネローが並んだ姿や向かい合った姿の像で刻印され,あたかも共同統治者のごとくに描かれているのである。
 表紙に掲げたのは,ナポリの国立考古学博物館に展示されている金貨aureusである。母と息子の胸像の周囲には,NERO CLAUD DIVI F CAES AVG GERM IMP TR P COS「神となったクラウディウスの息子であるネロー・カエサル・アウグストゥス・ゲルマーニクス,インペラートル,護民官職権保持者,コーンスル」と皇帝となったネローの正式の名乗りと,当時の称号や権限が刻されている。反対面には四頭の象に引かれた二輪車に乗る二人の人物と銘文が刻されている。コインの周囲部にはAGRIPP AVG DIVI CLAVD NERONIS CAESARIS MATER「アグリッピーナ・アウグスタ,神となったクラウディウスの妻,ネロー・カエサルの母」と刻され,象の上には,EX SC 「元老院決議に従って」と記されている。筆者がこのコインを初めて見た時には,二人の人物はネローとアグリッピーナの母子かと思ったが,どうやら,当時神格化されていた初代皇帝アウグストゥスとクラウディウスの二人の皇帝であるようだ。ネローとこの二人の神となった皇帝を結びつけていたのが,正しく母親のアグリッピーナであったのである。