学会からのお知らせ


*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第14回「地中海学会ヘレンド賞」(第13回受賞者:飛ヶ谷潤一郎氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(30万円:星商事提供)が授与されます。授賞式は第33回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2009年1月8日(木)〜2月6日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第33回地中海学会大会
 第33回地中海学会大会を2009年6月20日,21日(土,日)の二日間,西南学院大学(福岡市早良区西新6-2-92)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2009年2月6日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報314号(11月)に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必
要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行 九段支店 普通 957742
    三井住友銀行 麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2009年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度から会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2008年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報314号(11月)に同封してお送りしました。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成しています。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
 2009年2月23日(月)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2009年4月23日(木)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
お申し込み人名等:「口座名義人」の他に「お申込人名(会員名)」等の欄が振替依頼書の2枚目(青色)にありますので,こちらもご記入下さい。
会員用控え:3枚目(黒色)は会員用です。お手元にお控え下さい。


事務局冬期休業期間
 2008年12月27日(土)〜2009年1月7日(水)











ローマ日本文化会館について

高田 和文



 昨年7月から勤務先の大学(静岡文化芸術大学)を一時休職し,ローマ日本文化会館の館長を務めている。会館の存在や活動については多くの方がご存知かと思うが,国際交流基金の独立行政法人化(2003年)以後の状況も含めて,あらためて紹介させていただくことにする。
 ローマ日本文化会館は,ボルゲーゼ公園の北西に位置し,市の中心部からやや外れた閑静な地区にある。近隣には国立近代美術館,ヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館,ベルギー,デンマーク,ルーマニア,オーストリアのアカデミーなど文化施設が建ち並ぶ。一つ通りをはさんだ向かい側はローマ大学建築学部である。
 機構上は国際交流基金の海外事務所の一つで,世界に20ある拠点の中でも最も長い歴史を誇る。ヨーロッパでは他に,ケルンとパリに文化会館がある。会館の創設は1962年で,まもなく50周年を迎える。初代館長はギリシア・ラテン文学者の呉茂一氏,その後も西洋美術の井関正昭氏をはじめ,竹内啓一氏,岩倉具忠氏,西本晃二氏と,優れた研究者が歴代館長に名を連ねている。
 かつて専門調査員として日本大使館広報文化班に勤務していたので,会館の活動についてはある程度知っていた。だから,国際交流基金から最初に館長就任を打診されたとき,このような大役がはたして自分に務まるのかとの不安があった。しかし,基金が独立行政法人となり,文化会館も新たな方向に歩み出そうとしているのを知り,そうした中で少しでも役に立てればと思い,引き受けることにした。
 会館の事業は,おもに三つの柱から成っている。一つは日本語教育である。イタリアでも日本語学習者数は年々増えているが,会館の講座には入門から中・上級まで12クラスが設置され,2007年度には延べ280名の受講者が在籍した。国際交流基金が派遣した日本語教育専門家の指導のもと,最新の教授法を取り入れ,教師向けセミナーやモデル授業,在留邦人と受講生による談話会の開催など,先進的な試みを行なっている。会館施設の物理的限界から,今後は受講者の増加よりも講座の質の向上,日本語教育のネットワーク拠点としての機能充実を図る方針である。
 事業の二つめの柱は,文化芸術交流である。会館には催し物会場として約200平米の展示スペースと200名収容のホールがある。ここを使って,展覧会,コンサート,講演会,映画上映などを行なう。また,他の劇場やコン
サートホールと協力して事業を行なうこともある。2007年度には,約60の催し物を実施,合わせて約1万人の来場者があった。おもな事業としては,ヴェネツィア・ビエンナーレにも出展した岡部昌夫展,現代日本建築展,茂山狂言公演,BATIKコンテンポラリーダンス公演,邦楽コンサート,石井聰亙・成瀬巳喜男監督作品上映会,朝倉摂舞台美術講演会などがあった。また,源氏千年紀に当たる今年は,源氏物語レクチャー&リーディング,雅楽公演,源氏絵巻講演会など,一連の源氏関連行事を実施した。
 三つめは,日本研究と知的交流の推進である。イタリアでは伊日研究学会(AISTUGIA)が日本研究の中心的役割を担っている。こうした学会への支援,また各大学主催の会議への助成・協力,国際交流基金の日本研究機関支援事業の調整作業を行なっている。昨年9月には日本資料専門家欧州協会(EAJRS)の大会が当会館で開催され,この9月にはヨーロッパ日本研究協会(EAJS)の大会が南イタリアのレッチェで開かれた。
 実は,日伊の知的交流推進については,会館としてもう少し力を入れるべきと考えている。この点で地中海学会の会員の方々にも力を貸していただければと思う。
 国際交流基金の独立行政法人化にともない,海外事務所の予算も削減の方向にある。こうした動きは言うまでもなく,特殊法人の整理・合理化という国の政策の一環として生じたもので,厳しい国家財政と社会の高齢化を考えれば,ごく当然のなりゆきとも言える。しかし,ソフトパワーの重要性,文化外交の強化が叫ばれる一方で,肝心の基金の予算が合理化計画のもとで自動的に削減されてゆく現状は何とかせねばならないと思う。数ある独立行政法人の中でも,30年以上にわたって国際文化交流を推進してきた基金には,他の機関とは違う独自の役割があるはずである。旧特殊法人の合理化は現在の日本にとって最大の政治課題の一つだが,だからこそ一律に予算削減といった対処法でなく,現状と必要性を踏まえた議論をすべきだろう。
 ずいぶんと堅苦しい話になってしまったが,地中海文化専門の方々にこそ会館の置かれた現状を知って欲しいという気持ちから,このようなことを書かせていただいた。
 最後に,ローマにいらっしゃる機会があったら,ぜひ一度会館を訪れて下さい。(ローマ日本文化会館ホームページ http://www.jfroma.it)











トルコ共和国首都アンカラの象徴
──モスク,それともヒッタイト?──

山下 王世



 2008年4月,アンカラ第3行政裁判所は,1995年から使われてきた,モスクをモチーフとするアンカラの市章(図1)の使用禁止を命じた。これを受けてアンカラ広域市長のメリヒ・ギョクチェキは行政審査院への上訴,さらには欧州人権裁判所にまでこの問題を持ち込むと徹底抗戦の構えであり,市長を支持するアンカラ市議会は最終的な結論が出るまでの間,これをアンカラ広域市旗として使用すると決定した。

 アンカラに最初の市章(図2)を定めたのは,1973年〜77年,アンカラ広域市長を務めたヴェダト・ダロカイだった。ケマリストを自負するダロカイは,アンカラという街の歴史をイスラーム時代に限定するのではなく,それ以前のヒッタイト,ローマ,フリギア,ビザンツ等の歴史を取り込むという考え方を支持し,市章のデザインにヒッタイトの太陽を象徴する円形モチーフを採用した。ダロカイにとってアンカラは,イスラームの都イスタンブルと決別し,世俗国家トルコ共和国の礎を築いた新しい首都であった。アンカラを「脱イスラーム」と性格付けするということは裏返せば,イスラーム以前の歴史や文化にも,また西洋にも目を向け積極的に受け入れるということに他ならなかった。実はダロカイの本職は建築家であり,1960年代には自らが設計したコジャテペ・モスク(アンカラ)のデザインをめぐって,右派政治家や宗教関連層と対立した経験がある。彼はケマル(アタテュルク)の目指した近代都市アンカラのイメージにこだわり,モスクのデザインにおいてもオスマン様式を用いることを頑なに拒んだのだった。しかしダロカイの主張はトルコ社会全体に受け入れられたとはいえず,どちらかといえば軋轢を生じさせてきた。ダロカイが計画した現代的デザインのコジャテペ・モスクは実現せず,1987年オスマン風モスクとして完成した。そしてヒッタイト帝国の円形モチーフを用いた市章についても,1995年,アンカラ市議会で変更が決定されたのだった。
 市章変更を推進したのは,1994年にイスラーム系政党の福祉党からアンカラ広域市長に当選し,現在も市長を務めるメリヒ・ギョクチェキだった。彼は市長職につくと自らのムスリムとしての信条に反するとして,アンカラの街角に置かれていた現代彫刻を次々と取り除いたことでも注目された人物だった。翌年,ギョクチェキは市章を改めるべく,デザインコンペを催す。そこでデザイナーのジェム・ギュルによる,コジャテペ・モスク,アタクレ(塔),トルコ国旗,そして三つの星が組み合わされた案(図1)が選ばれ,1995年6月29日に正式にアンカラ広域市議会で承認された。当時,コジャテペ・モスクはアンカラ最大のオスマン風モスクでありイスラームの象徴としてアンカラに聳え立っていた。またアタクレは完成間もない現代建築で,新自由主義経済の象徴であった。新しい市章では,モスクのドームと重なるかたちでアタクレの円形の頂部が描かれ,トルコ国旗の三日月と星はそれらの下に縦に配されている。このデザイン全体または個々のモチーフに対する解釈は様々可能である。しかし最大の論点はイスラームを象徴するモスクが,とりわけアンカラの市章に用いられたことだった。ちなみにイスタンブルの市章にはモスクのミナレットやドームがデザインされているが,オスマン朝の帝都だったイスタンブルにイスラームのイメージを重ね合わせることに不快感を示す人はほとんどいない。
 今回,アンカラ第3行政裁判所から出された判決文の中で首都アンカラは,ヒッタイト,フリギア,ビザンツ,セルジューク,オスマンの影響を受けて文化が形成されてきた都市として位置づけられた。そして独立戦争の際に司令本部として使われたトルコ大国民議会がおかれ,さらにはケマルによってトルコ共和国の首都にされたという史実が現代アンカラに反映されるべき主要なアイデンティティーである,と指摘された。よって裁判所は市章に使われている図像の個々が,そしてまた全体としても,アンカラ独自の歴史的・文化的アイデンティティーを反映していないと判断し,使用取り消しを命じたのだった。
 このように35年もの間,アンカラの市章問題は政治家によって議論され,揺れ動いてきた。何が都市を象徴するにふさわしいのか,今後も政治思想と関連づけられながらこの問題は議論されていくと思われる。











「18世紀ローマ絵画の巨匠 ポンペオ・バトーニ」展

河村 英和



 ポンペオ・バトーニ(1708〜1787)は,ルッカの金細工師の息子で,1727年よりローマで活躍した画家である。人物画を専門に,当初は主に宗教画や神話を題材にした油彩で名声を馳せ,1741年,聖ルーカ・アカデミーの会員になる。円熟期である1750〜70年代に描いた作品のほとんどが肖像画であるが,その大半がグランドツアーでローマ滞在中の英国貴族の等身像であった。彼らは,現代の観光客がローマの観光名所をバックに写真を撮るごとく,バトーニのスタジオでポーズをとり,ローマを暗示する物(景色,遺跡,彫刻,地図,書物など)を添えた肖像を,「ローマ土産」にしていた。ローマ在住の他の肖像画家たちも,こういった旅行者のための「お土産用肖像」を請け負っていたが,その中でも最も人気があったのがバトーニである。ゆえにバトーニの肖像画の多くが,現在も英国のカントリーハウスや美術館に保管され,バトーニ研究者には英国人が少なくない。
 今年はバトーニ生誕三百年を記念し,米テキサス州のヒューストン美術館(2007年10月21日〜2008年1月27日)とロンドンのナショナル・ギャラリー(2008年2月20日〜5月18日)で,35年ぶりの特別展が行われた。筆者が観覧したのは,ロンドン会場である。展示された作品数はさほど多くなく,ヒューストンで65点,ロンドンで60点であった。それぞれの会場によって出展された作品のラインナップも異なり,共通展示品は45点である。双方合わせれば出展作品が80を数えるが,「展覧会カタログ」はバトーニの他の代表作品を大幅に加え,150点の豊富なカラー図版を挿入した近年初のバトーニ研究書となっている(Edgar Peters Bowron; Peter Björn Kerber, Pompeo Batoni Prince of Painters in Eighteenth-Century Rome, Yale University Press, New Haven-London 2007)。著者の一人は,大部が白黒図版であったカタログレゾネ(Anthony Morris Clark, Pompeo Batoni A Complete Catalogue of his Works, Phaidon, Oxford 1985)を編集したエドガー・ピータース・ブラウンである。
 「カタログレゾネ」でモデル不詳だった肖像の一つが,今回,《フランシス・バッセットの肖像》(1778)と特定された功績は大きい。バッセットは,1777〜78年にグランドツアーを経験し,ピラネージの版画集『古代の壺,燭台,墓標,棺,鼎,ランプ,装飾品』の一葉に,献呈者(おそらく出資者であった)として名が載っている人物である。この肖像画も,バトーニの典型的な等身大サイズの「お土産用肖像」で,背景にはサン・ピエト
ロ寺院とサンタンジェロ城が描き込まれている。バトーニは,コロッセオやティヴォリのヴェスタの神殿といった「古代ローマ」遺跡を点景にすることが多く,この場合のように「近代ローマ」が登場するのは,《オーストリア皇帝ヨーゼフ2世と弟トスカーナ大公レオポルトの肖像》(1769)と並び,珍しい例の一つである。
 18世紀後半のグランドツーリストの肖像画では,しばしばモデルが「ファン・ダイク・コスチューム」とよばれる大きなひだ襟の付いた「17世紀の衣装」を纏うことがあり,バトーニも数点描いている。その名称は,英国の宮廷画家でもあった17世紀フランドルの画家に由来し,「展覧会カタログ」でも詳しい論考がなされているが,ロンドン会場では出品がなく,ヒューストン会場で1点のみ,かのヴィンケルマンが「世界で最も素晴らしい肖像画のひとつ」と絶賛した,「ファン・ダイク・コスチューム」に身を包む《ウィリアム・ナッチャブル=ウィンダムの肖像》(1758〜59)が展示されただけだった。
 「展覧会カタログ」には,ロンドン会場のみに出展された3点の図版が掲載されてないのも残念だ。そのうちの2点は,『バーリントン・マガジン』の編集長も務めた美術史家の故リチャード・ブリンズレー・フォード卿のコレクションで,もう1点はタイン服飾美術館所蔵の《ヘンリー・スウィンバーンの肖像》(1779)である。スウィンバーンは1777〜80年にイタリア旅行をし,『両シチリア紀行』(1783)の著者として有名である。
 バトーニに肖像画を頼む旅行者には,バトーニの神話画などもお土産にする者もいた。なかでもとくに興味深いのが,ハンフリー・モーリスが購入した《ディアナとクピド》(1761)である。横長の絵で,狩猟の女神ディアナが木陰に坐り,その左横には2匹の猟犬,背後にはプッサンやロランが描くようなローマ平原の理想風景が広がっている。モーリスは同年,バトーニに肖像画も描かせており,それがまさにこの絵と「対pendant」になる構図になっている。グランドツーリストの肖像としては異例の横型で,《ディアナとクピド》とほぼ同じ大きさ。木陰に坐るモーリスが3匹の愛犬に囲まれ,2匹はディアナと同様左側,1匹は主人に右側からもたれている。呼応するようディアナにも,右側からクピドが覆い被さっている。画面中央には,ディアナが持つ弓と同じような角度に,モーリスの猟銃が立て掛けられ,背後はローマ郊外にある中世の塔を含む牧歌的な背景だ。この2点を同時に並べたのは,今回の展覧会の白眉であろう。











イタリアでの出版発表の報告

Taisuke Kuroda, LUCCA 1838. Trasformazione e riuso
dei ruderi degli anfiteatri romani in Italia


吉田 友香子



 2008年3月28日にイタリア,トスカーナ州ルッカ市産業連合会本部のあるベルナルディーニ宮にて,黒田泰介氏(関東学院大学准教授)の著作 LUCCA 1838. Trasformazione e riuso dei ruderi degli anfiteatri romani in Italiaの出版発表会が行われた。同書は黒田氏の既刊書『ルッカ1838年 古代ローマ円形闘技場遺構の再生』(アセテート,2006年)を増補・改訂したものだ。この本はイタリア各地に残る円形闘技場(ローマのコロッセオは,その代表格)の遺構が,楕円形平面の特徴ある姿を残しながら,中世期に要塞や住居,宗教施設など様々な機能によって再利用されていった様子を,豊富な事例と共に活き活きと紹介している。タイトルの1838年とは,最も印象的な例であるルッカの円形闘技場の内部に,建築家L. Nottoliniによってアンフィテアトロ広場がつくられた,意義深い年を示している。同書は建築史や都市史的価値のみならず,近年注目されている歴史的都市や建築の再生・利活用にもつながる,幅広い視野を提供するユニークな一冊だ。今回,同市の伝統ある美術・歴史系専門の出版社Maria Pacini Fazziから出版された伊語版は単なる翻訳ではなく,イタリア側協力者の助言を踏まえて,著者によって根本から見直しされた。図版の数は倍近く増やされた他,同氏のサバティカル期間中(フィレンツェ大学客員研究員)に得られた,最新の調査成果も盛り込まれた同書は,正にリニューアルと呼ぶにふさわしいものになった。黒地にアンフィテアトロ広場のパノラマ写真をあしらった洒落た本は,現在イタリア各地の書店の店頭に並んでいる。
 事の発端から出版までの過程を,筆者は近い距離で見守っていた。今回の事業は,黒田氏の出版にかける熱意はもちろんのことだが,何かに後押しされるように,成るべくして自然に波に乗ったような印象を受けた。今回の出版の立役者となったOlimpia Niglio氏は,ピサ大学とフィレンツェ大学で建築修復学を教えながら建築雑誌EdAの監修を務める,才気あふれる人物だ。Lucca 1838では冒頭の献辞の他,全体の監修を引き受けている。筆者の紹介で黒田氏とNiglio氏が初顔合わせをした時,彼女は和版の巻末付録である円形闘技場のペーパークラフトに,「イタリア人では考えられない,折り紙文化の国らしい独自の発想」と驚嘆していた。同様にこの模型をいたく気に入った出版社からは,ペーパークラフトを独
立させて,子供向けの本に仕立てようとの提案があった。子供たちに自身の都市と建築の素晴らしさを体感させる,格好の教材になるからだ。黒田氏の夫人,直子さんによってスケール&ディテールアップされた模型は,同氏によるイラストとエッセイ(こちらは伊語と英語のバイリンガル)と共に,かわいらしい小冊子LUCCA, L'Anfiteatro di cartaとなった。「再生」つながりでイタリア再生紙普及協会(COMIECO)がスポンサーに参入し,Lucca 1838L'Anfiteatro di cartaの2冊は,共に風合いある再生紙を使って印刷された。
 Lucca 1838は,Campus Studi del Mediterraneo財団とMaria Pacini Fazzi出版が企画するシリーズArchetipo "Architettura e ambiente"の第1号として位置づけられた。出版発表会には約200名が参加し,ジェノヴァ大学Gianluigi Ciotta教授(古代ギリシア・ローマ建築)とシエナ大学Massimo Boldrini教授(情報通信科学)によるゲスト講演の後,黒田氏によるプレゼンテーションが行われた。地元の新聞・TVは,遠い日本の建築家が我が町のモニュメントを研究してくれたと,非常に好意的だった。同書のタイトルも,大いに好評だったようだ。出版を機に,黒田氏はCelsius(ルッカ大学院大学),ローマ大学でも講演され,2009年1月に予定されている関東学院大学125周年記念国際シンポジウムでは,Niglio氏を日本に招いての講演会開催を企画中である。
 今回の出版は著者に大きな飛躍をもたらした他,その余波は周辺にも及んでいる。Campus Studi del Mediterraneo財団が企画中のルッカ市歴史的中心地区の現況調査において,日本の研究機関との共同研究への要望が高まっているのだ。計画の具体化には多くの時間を要するため,現時点で多くの事はお伝えできないが,その歩みは確実である。日本人の若手研究者が,言葉の壁や資料収集の困難,時間の制約にも屈せず立派な研究成果を修めたことが,現地に大きな衝撃を与えた。イタリア側が奮起して,日伊両国が良い関係を構築し,学術交流がより盛んになる兆しがルッカに芽生えたのだ。日本には今後,その大きな期待に応えられるだけの能力が要求される。我々はそう認識し,気を引き締めて精進しなければならない。











自著を語る57

『モロッコの歴史都市 フェスの保全と近代化』

学芸出版社 2008年2月 272頁 2,800円

松原 康介



 モロッコが多様性の国であることは良く知られているが,それは都市のあり方についてもいえることである。フェスの旧市街メディナは,中東,アフリカ,アンダルシアから多くの人や物を受け入れて発展してきた。20世紀のフランス保護領期には.,これに隣接して欧風の新市街ヴィル・ヌーベルが建設された。更に独立期には,激増する離村農民の収容先として,旧市街の特徴を模倣した郊外地ヌーヴェル・メディナが形成された。独立後には,世界遺産登録を経て様々な国際機関による保全事業が進展している。モロッコの都市における多様化は,現代においてもなお連綿と続いているのである。
 ジェーン・ジェイコブスが言ったように,都市の多様性は,実は現代の都市計画において最も必要とされている。我が国でも,地方の時代が叫ばれながら,現実に地方都市において進展しているのはむしろ没個性化・均質化である。本来都市が持っているはずの,大小様々な個性をいかに引き出して,日々の都市生活を豊かにし,共有の資産として継承していくかは,もはや喫緊の課題であるといってよいだろう。そこからみたとき,モロッコの都市の多様性は,示唆するところ大なのである。
 本書で私は,この多様性をいかにわかりやすく伝えるかに心を砕いた。とりわけ図版の重視である。フェスの魅力,それも今まで意識されることの少なかった多様な原理の共存や,空間の重層化の実態をダイレクトに伝える上で,計画図や実測図,写真などには人一倍気を使いたかったのである。
 日本で入手できるものにあたりつくした後は,モロッコ及びフランスにおいて収集に奔走した。旧市街については,保護領時代にル・トゥルノーによって作成された概念図が有用であった。これを,フェス市役所から提供された都市地図と照合してみると,モスクやスークといった施設はもちろん,出身地や生業による住み分けに起源を持つという街区の門,フェス川から派生した用水路網,またそこに設置された水車によって石臼を動かす製粉所などの立地が,鮮やかに浮かび上がってくる。
 新市街については,保護領時代のマスタープランをフランス国立図書館のリシュリュー館に求めた。アンリ・プロストによって策定された1/5,000スケールの計画図(1915年)は,厚紙に油絵具で,新市街の広場や放射状道路,キリスト教会や競馬場など,入植者の欧風生活を支えたであろう空間が,実に詳細に描き込まれていた。
過密化する以前の旧市街の街路もあらかた確認でき,旧市街と新市街を分離する意図で指定された緑地は,鮮やかな緑で峻別されていた。フランスの都市計画家は絵やデッサンも実に巧妙に描くが,このように美しく鑑賞に堪える都市計画図を見たのは後にも先にもこのときだけである。更に,中庭や袋小路,それに人の目の高さ以上に設置された窓といった旧市街の特徴を,意識的かつ安価に再現しようとした郊外地については,CIAMモロッコのミシェル・エコシャールによるコルビュジエ流の簡明な図面やダイアグラムを,トルビアックにある20世紀建築資料館で入手できた。これらの図版は,主に本書の第一部に収められている。
 更に,こうして図版の収集を行っていると,今度は実際にフィールドに出て,その実態を確かめたくなるのが当然であろう。そこでフェス近郊のアル=アハワイーン・イフラン大学の大学院地中海・北アフリカ学専攻に留学して,専らフィールドワークに取り組んだ。ここでは,保護領時代の「都市計画」の成果が,独立後に住民によっていかに改修され,生きられた都市空間として変容していったのかに焦点を絞った。
 旧市街において建設された欧風道路と広場・公園,新市街に移植されたモスクとハブス(ワクフ),郊外地で進展する住宅や施設の増改築といったテーマを選び,時には一人で,時には同級生のモロッコ人学生の助けを得て,電波測量から実測図を立ち上げ,更に住民や施設責任者へのヒアリングを実施した。事前に計画を十分に練ると,暑さと人目を避けるため早朝に集合し,瞬時で作業を終わらせるという工程を繰り返した。こうした,都市の多様化の生の証言ともいうべきフィールドワークの成果が収められているのは,本書の第二部である。まがりなりにも建築図面であるから,CAD等の専用ソフトを用いたが,編集に任せられるものでもなく,やはり伝わりやすいよう納得いくまで仕上げた。
 私はもともと建築学出身ではなく,図面の読み方もフィールドの歩き方も,本式に習得したのは大学院に進んでからであった。先達から多くを学ばせて頂いたとはいえ,自己流なところも多くある。しかし,それゆえに,図版の表現力への憧憬は,私にとってひとしおであった。合計200点以上に及んだこれらの図版が,本書の理解の助けになり,ひいては,都市の多様性に普段から目を向けて頂くきっかけになれば幸いである。








表紙説明

地中海の女と男19

マイクロクレジット融資を受けて働くアラブ人の女性と男性
/鷹木 恵子


 国連開発計画の『人間開発報告書2007/2008』によれば,アラブ諸国の女性の経済活動比率は26.7%で,東アジア・太平洋諸国の65.2%,ラテンアメリカ・カリブ海諸国の51.9%,南アジアの36.2%,サハラ以南のアフリカ62.6%,中東欧・CIS諸国の52.4%,そしてOECD諸国の50.3%など,他のどの地域や諸国と比較してみても,極めて低いことが見て取れる。ただし,この数字はアラブ諸国の女性が世界で最も僅かしか働いていないことを意味しているというよりは,むしろアラブ諸国の女性労働が現金収入へと結びついていないことを示している。そうした女性たちの収入創出活動の支援との関連でも,現在,アラブ諸国にもマイクロクレジットが広がりつつあることは興味深い。マイクロクレジットとは貧しい人々の収入創出活動支援を目的とした無担保での少額融資のことで,2006年にその代表的な融資機関であるバングラデシュのグラミン銀行とその創設者のムハマド・ユヌス博士がノーベル平和賞を受賞したことからも,日本でも一般的に知られるようになってきている。
 表紙の写真は,その中央がチュニジアでのマイクロクレジット融資の現場風景,その周りの写真はマイクロクレジットの融資を受けて働くモロッコやアルジェリアのアラブ人の女性や男性たちである。少額融資を手にして,自宅の一部を改装して八百屋を始めた女性,テント
を張って青空カフェを始めた女性,日用雑貨を売りさばく夫婦の姿(以上,モロッコ),工作機械を導入して張り切って働くアルジェリアの若手の家具職人のアトリエ風景などである。
 このところ,世界的な金融危機が問題となっているが,最も富裕なアメリカに端を発したその金融問題とは利潤を最大限に追求するという論理に基づく,ヴァーチャルなマネーゲームの破綻がグローバル化したものとすれば,マイクロクレジットとは最貧困層の利益を最大限にすることを目的とするボトムアップの論理に基づき,バングラデシュという世界の最貧国の一つから,今や経済的格差の是正に向けてグローバル化してきている金融のもう一つの形態とも捉えられる。
 今年7月13日にサルコジ仏大統領のイニシアティブで発足した地中海連合は,EU加盟国27カ国に加えて,表紙の写真に写っている人々の国々,北アフリカ諸国や中東諸国16カ国から成る。この地中海連合の発足によって,地中海をはさんだ北側と南側の国々のあいだには今後一層緊密な相互関係が生まれていくことだろうが,それによってより融和や連帯がもたらされていくのか,あるいは摩擦や衝突も生まれてしまうのか,北と南の経済格差が是正されていくのか,あるいはさらにその格差が広がることとなってしまうのか。今後のその動向には,本学会の会員としても無関心ではいられないだろう。