学会からのお知らせ


*秋期連続講演会
 秋期連続講演会「地中海世界の造形文化―聖なるものと俗なるもの」を11月22日より12月20日まで(毎土曜日,全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel03-3563-0241)において下記の通り開催します。
 各回共,午後1時30分開場,2時開講,聴講料400円,定員130名(先着順)です。
 美術館にて事前に前売券の購入が可能です。本学会事務局では聴講券,前売券ともに扱っておりませんので.ご注意下さい。

地中海世界の造形文化―聖なるものと俗なるもの
11月22日人間ピカソの愛と苦悩
一磔刑とエロスの往還
大高 保二郎氏
11月29日イタリアの都市と聖人崇拝
一聖遺物・伝説・美術
金原 由紀子氏
12月6日イタリア都市空間の中の聖と俗
陣内 秀信氏
12月13日聖なるものの形
イスタンブールのビザンティン・モザイク
益田 朋幸氏
12月20日古代ギリシアの聖なる乙女の図像系譜
一パルテノン・フリーズの《乙女の
行列》をめぐって
篠塚 千恵子氏

*12月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:他者との邂逅一フランス・ロマン主義時代のオリエン卜旅行記をめぐって
発表者:畑 浩一郎氏
日時:12月13日(土)午後2時より
会場:東京大学本郷キャンパス法文1号館3階
315教室(地下鉄「東大前」「本郷三丁目」http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01j.html)

参加費:会員は無料,一般は500円
 19世紀前半のフランスには一種の「オリエント・ブーム」が起こる。ナポレオンのエジプト遠征を契機に地中海沿岸地域への関心は高まり,多くの旅行者が『千一夜物語』の世界を夢見てこの地へと旅立っていく。文学者も例外ではない。シャトーブリアン,ラマルチーヌ,ネルヴァル,フロベールといった時代を代表する作家たちがこの地を訪れ,その印象を旅行記に残している。本発表では,彼らのテクストを通して,言語,宗教,生活習慣の異なる現地の人々は彼らにどのように映ったのか,という問題をいくつかの視点から考えてみたい。


*事務局移転
 学会事務局は9月1日より.下記へ移転しました。
なお, eメールアドレスに変更はありません。


東京都港区元麻布3-12-3 大江ビル1F
〒106-0046
電話03-3401-4831
FAX 03-3401-4832
最寄り駅
地下鉄南北線・大江戸線「麻布十番」


*寄贈図書に関するお詫びとお願い
 移転作業の折,月報に「寄贈図書」として紹介していない図書が、紹介済みの図書の中に紛れてしまいました。事務局の不手際をお詫び申し上げます。
 ご寄贈いただいた図書が月報に紹介されていない場合は,お手数ですが,メールにて事務局(coll.med.komai@nifty.ne.jp)へ,その旨ご連絡いただければ幸いです。













春期連続講演会「ヨーロッパとイスラム世界」講演要旨
イタリア中世海洋都市とイスラム世界

陣内秀信



 地中海世界では海上交通が盛んで,多くの船が行き交い,人とモノと情報を運び,各地に高度な都市文明が開花した。地中海周辺地域は多民族.多言語,多宗教で,交流と同時に利害の対立も多く,古来,戦いの連続であったが,とくに中世にはイスラム教が広がって十字軍に象徴されるように,織烈な争いの舞台ともなった。海はこうして,交涜の場であると同時に,戦いの場でもあるという,まさに両義的な意味をもった。
 地中海世界全体に平和と繁栄を生んだローマ帝国が東西に分裂。中世初期に,ゲルマン系異民族の侵入の危機にさらされた元のローマンタウンの住民達は,安全な地に逃れた。ゲルマンの連中は船が使えない。岬の先や海に浮かぶ島,背後に山を控える海辺の土地が,格好の避難地となった。ラグーナの浅い内海の水上にヴェネツィアが生まれる一方,ナポリ周辺の肥沃なカンパーニャ地方の平野の都市民は,背後に崖が迫り,猫の額のようなわずかな土地が海に開く渓谷の地、アマルフィを隠れ家として選んだ。どちらの都市の人々も,船を造り,操る技術に長けており,海に開く立地条件の下,海洋都市の萌芽が早くから芽生えた。
 特に,アマルフィは早くからビザンツ,アラブ世界と交涜をもち,世界で最初に羅針盤を航海に活用し,海洋都市の雄として地中海に君臨した。それに次いで,同じティレニア海のピサ,ジエノヴァ,アドリア海のヴェネツィアが台頭し.地中海での勢力争いへと展開した。
 これらのイタリア海洋都市の活躍で,ローマ帝国の崩壊以後,商業経済が停滞し,都市が衰退していた西ヨーロッパに活気が蘇ったのである。
 これらイタリアの中世海洋都市は,コンスタンティノープル,アレクサンドリア等に彼らの商業,交易拠点を置いて,ビザンツ,アラブ世界との交易で富みを得た。シリアに,そして黒海の方面にまで勢力を伸ばした都市もある。ヴェネツィアを中心とする第四回十字軍が,ビザンツ帝国の内紛に乗じて,コンスタンティノープルを陥落させ以後,ヴェネツィアがギリシア各地,キプロスに至るまで,ビザンツ帝国から領土を得て広大な植民地を形成した。こうした利権,覇権をめぐり,イタリアの海洋都市同士は,しばしば対立し,戦いで血を流した。
 イタリアの海洋都市はこうして中継貿易で巨大な財をなしたが,12世紀の頃,地中海の東と西を較べると,文
化のレベル差は歴然としており,ビザンツ,イスラムの世界の方がずっと進んでいた。先端文化に憧れるイタリアの諸都市は,建築や美術の分野で,あるいは都市づくりの面で,ビザンツ,イスラム世界から大きな影響を受けたのである。
 どの海洋都市も,中世の古い建築を幸い数多く残しているため,それらを観察しながら栄光の歴史を再構成することができる。ヴェネツィアは,複雑に組み立てられた都市構造そのものに,また回廊で因われたサン・マルコ広場,商業機能をぎっしり詰め込んだリアルト市場のつくり方にもアラブ都市との共通性を見せる。アレクサンドリア等に設けられていた商館(フンドゥク)の在り方がヴェネツイアにも応用され,ドイツ人商館等を生み出した。フォンダコと呼ばれるこうした施設は,ジェノヴァ,アマルフィ等にも存在した。
 ビザンツやイスラムの高度な美意識を示す美しい建築,美術作品が随所に見出せる。異文化の香りが感じられるこうした海洋都市は,町をウォッチングして歩くのが楽しい。様々な街角にオリエント風のアーチやレリーフ等,面白い発見がある。ジエノヴァやピサの大聖堂の白と黒の縞模様の壁面構成も明らかにアラブ・イスラム世界からの影響を物語る。アマルフィには,アラブ式のお風呂(ハンマーム)の遺構まで残っているし,大聖堂脇に潜む「天国の中庭」はアラブ人の地上に実現された楽園を思わせる。アマルフィに象徴的に聳える鐘楼の美しいマジョリカ焼のタイル装飾も,イスラム文化を示すものだ。
 パリ,ニューヨークに続いて,昨年ヴエネツィアで開催された「ヴェネツィアとイスラム」展は実に興味深かった。香料と絹の道に沿って,ヴェネツィア人とムスリムの世界との聞に,商業上の交流が生まれ,経済活動ばかりか,物事の考え方,ライフスタイル,文化の面にまで影響が広がった。アラブ,ベルシア,そしてオスマン帝国のトルコという具合に,ヴェネツィアはイスラムの全体と深く結びついていたことをこの展覧会は示した。
 ヴェネツィアの芸術家,職人達は先進的なイスラム世界の高度な技術,美術工芸の様式,高価な材料を用いた装飾品から大いに学んだが,やがて,その影響下で高度な文化を発達させたヴェネツィアから,逆にイスラム世界の商人達が工芸品を輸入し,それをスルタンが高く評価する,といった相互の交流が起こったのである。













地中海学会大会 記念講演要旨
地中海・イスラーム世界の砂糖文化

佐藤次高



 砂糖きびを原料とする製糖は,紀元後まもなくインド北東部(ベンガル地方)にはじまり,そこから東西の世界に広まっていった。東方のルートでは,砂糖きび栽培と砂糖生産がインドから中国南部をへて沖縄にまで達したのは17世紀はじめのことであった。いっぽう西方のルートでは,ササン朝末期の7世紀はじめにはイラン南西部に広まり,9世紀には早くも下エジプトに導入され,1O〜11世紀にはシリアの海岸地帯,さらには上エジプトにまで達した。これ以後,12世紀頃にかけて,砂糖生産はキプロス島やシチリア島,北アフリカをへてマグリブやアンダルスへと拡大していった。
 エジプトにおける砂糖きびの栽培法と製糖法をもっともくわしく記述しているのは,ヌワイリー(1333年没)によるアラビア語の百科全書『学芸の究極の目的』である。それによれば,大型犂による深耕後,2〜3月に砂糖きびを植え付け,定期的な灌水の後,12月頃に刈り取って石臼で圧搾する。この液汁を煮沸してから底に小さな穴のあいた円錐形の壷(ウブルージユ)に注ぎ,土をかぶせて水を注ぐと,糖蜜(アサル)は水に洗われて受け壷にたまり,ウブルージュには褐色の粗糖(カンド)が結晶として残る。粗糖をもう一度水に溶かし,牛乳を入れてさらに煮沸すれば,白砂糖(スッカル・アブヤド)が得られる。
 マルコ・ポーロの『東方見聞録』(愛宕松男訳,平凡社,東洋文庫)にはクビライ・カーンの時代になると福州にパビロン人がやってきて,煮沸した砂糖きびの液汁を凝固し,型に入れて固める製法と木灰によって精製する方法を教えた」とする記述が残されている。バビロン人とはマムルーク朝治下のエジプト人のことである。これまで,この記録はさまざまな議論をよんできたが,現在のところこの記述が事実に反するとの史料は見出されていないという。とすれば,砂糖の精製技術については,エジプトから中国へという西から東へという伝播があったことになる。
 砂糖(スッカル)は高価な商品として扱われ,砂糖を専門に扱う商人(スッカリー)が登場してきた。スッカリーとして活躍したのはムスリムばかりでなく,ユダヤ教徒にとっても砂糖の商売は重要な職業であった。また12〜15世紀にかけてインド洋と地中海を結ぶ東西交易に活躍したカーリミー商人もエジプ卜産砂糖の販売にた
ずさわり,フスタートで精製した砂糖をアレクサンドリアに運び,そこでヴェネツィア,ジェノヴァ,ピサなどのイタリア商人に売り渡した。
 イスラーム社会では,砂糖は薬としても用いられた。アンダルシア生まれの薬事学者イブン・アルバイタール(1248年没)によれば,砂糖は「胃によく,膀胱や腎臓の痛みを和らげる。かすみ目を治し,胆汁過多を抑える。内臓や胃に発生するガスにも効き目がある。バターを混ぜて飲めば,尿閉に効き目がある」などとされる(『薬種・薬膳集成』「砂糖」の項目)。またシリア生まれの医者イブン・アンナフィース(1288年没)によれば摂取した砂糖が脳へ達すると,調和の状態が保たれる。砂糖には浄化作用があり,目を洗浄し,目の潤みを乾かす。また砂糖は,喉の荒れ,咳,呼吸困難,瑞息,肋膜炎,肺炎に効果がある。さらに胃の粘液を取り除き,肝臓をきれいにする」とされる(『医学百科全書』)。
 次に砂糖と王権について考えてみると,ファーティマ朝時代以後のエジプトでは,断食を行うラマダーン月になると,カリフやスルタンが臣下に砂糖を賜ることが習慣となった。これは「ラマダーン月の砂糖」として知られたが,日没後に砂糖入りの飲み物(シャラーブ)や甘菓子(ハラウィ)を摂って体力の回復をはかることが本来の目的であった。また,マムルーク朝時代のスルタンのなかには,メッカ巡礼の機会に大量の甘菓子を用意し,これを巡礼者に配る者もあった。
 これまで砂糖は,高価な商品,薬,賜り品,祭の品として用いられ,一般の庶民はめったに口にすることのできない貴重品であるとされてきた。しかしマクリーズィー(1442年没)は毎年ラジャブ月になると,カイロの甘菓子の市場では,子供向けに馬,ライオン,猫などをかたどった砂糖菓子が売り出され,身分の高い人も低い人も家族や子供のためにこれを買い求める」(『エジプト誌』)と記している。この記述によれば,エジプトについて見る限り,15世紀頃までには,砂糖の消費は庶民(アーンマ)の間にもある程度及んでいたものと思われる。













地中海学会大会地中海トーキング要旨
スローライフなら地中海

パネリスト: 岡本太郎/ 末永航/ 武谷なおみ/ 横山淳一/ 司会: 宮治美江子



 最近日本でもスローフードやスローライフという言葉をよく聞くが,この言葉の起源とされる地中海型のスローフード運動やスローライフについて,4人のパネリストからお話を伺った。
 イタリア建築・美術史がご専門の末永航氏(日本スローフード協会の広島支部長)によるとスローフード」という言葉の由来は,1980年代半ば,ローマのスペイン広場にマクドナルドが開店したことでイタリアの食文化が潰されると危機感をもった人たちから出た言葉だという。その一人で,食文化雑誌の編集者のカルロ・ベトリーニ氏が中心となり,ピエモンテ州のブラという小村にスローフード協会が発足した。現在では,38カ国以上の多くの都市に会員をもっ組織になったが,国際本部は今でもその村にある。スローフード協会は,三つの目標,1.消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理,質のよい食品,ワイン(酒)を守る,2.質の良い素材を提供する小生産者を守る,3.子供たちを含め,消費者に味の教育を進める,を掲げている。スローフードの理念には,ブリア=サヴァランの著書が大きく影響し,1989年のマニフエストには人は喜ぶことには権利を持っている」というコンセプトが発表され,同年パリで聞かれた国際スローフード協会設立大会でのスローフード宣言を経て,国際運動に発展したという。
 次に糖尿病などの生活習慣病のご専門の内科医の横山氏が,まさに地中海型食生活がミロのビーナスに象徴される地中海女性の体型の美しさをもたらしたと,地中海型食事は,地球環境,体内環境の観点からも現代人にふさわしい食事法であるとその効能を詳しく話された。
 横山氏は,ミネソタ大学のKey教授がその著書の中で,動物性脂肪を多量に摂取する危険性に警鐘を鳴らし,健康食としての南イタリア料理を賛美し,栄養学者の注目を集めたこと,地中海沿岸諸国では,北欧・米国に比し血管障害の発症が1/3以下であることなどを指摘された。地中海型食事は加工が少なく,人口添加物のない自然食であり,精製度の低い全体食であること,そのため料理には手間がかからないが,パスタなどは阻瞬に時間がかかりー消化吸収が緩やかでスローな食事となり,食後の高血糖抑制には有利であること,魚(特に青魚)をよく食べ。肉としては子牛,子羊をとることや。キノコ類,豆類,緑黄野菜が多いこと,とくにオリーブオイルが使われることが栄養学的にも味覚的にもよいことなど
が,専門的に説得的に語られた。
 さてイタリア文学が専門の武谷氏は,この春のシチリア訪問の最新の映像とともに,スローライフの様々な形を作家によせて報告された。
 まずはアグリジェント,海側には古代ギリシアの神殿,丘の上には中世アラブ支配の面影をとどめる迷路のような街,ノーベル賞作家のピランデツロの生まれた場所である。デメーテルの神殿と中世のキリスト教会が合体した聖域,シチリアでもっとも大きい精神病院,夜になると悪霊が跋扈する家など,ピランデッロ好みの場所が今も存在するという。次に『山猫』の作者,ランペドゥーザ公爵のパレルモの家,1943年の空爆の破壊で窓枠と外壁だけが残る。その一方,ヴェリズモ作家ロベルトの『副王』で語られた,ベネディクト派の修道院が30年がかりの修復を終えてカターニャ大学の文学部として生まれ変わった。最後はタオルミーナで, 1920年から3年間過ごしたローレンスは,小説『太陽』を発表し,アメリカから神経症の治療にやってきた人妻が感性を取り戻す過程を描いた。青い空とサボテンの茂みで彼女は日々衣服を脱いでゆくが,これぞスローライフ,カオス・シチリアはそんな土地だという。
 4人目の岡本氏は,2005年に日本でも公開されて話題を呼んだ映画『輝ける青春』 (マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督,第56回のカンヌ映画祭,ある視点賞受賞)におけるイタリア人のスローライフへの見果てぬ夢ともいえるセカンドハウスへの思いを映画の映像つきで紹介された。岡本氏はまず,1950年代から1960年代にかけて,ルキノ・ヴィスコンティやフェデリコ・フェリ一二といった日本でも著名な監督を生んだ戦後のイタリア映画の略史を話され、その後に二人の兄弟を中心とするローマのある中流家庭の日常と世の中の動きを重ねた1966年から2003年までの6時間にも及ぶ映画の中で,トスカナ地方にセカンドハウスを建てようと廃屋を購入する話しが出てくるところを上映された。
 パネリストの方たちの幅の広い,興味深いお話で,やはりスローライフは地中海と思って下さった方も多かったのではないだろうか。地中海の南の生活を良く知る司会者も,急ぐことは「悪魔のひき臼に乗る」といって好まれず,わざわざスローライフなどとかけ声をかけなくても,イスラーム暦に従って動く,ゆったりとした生活を思い出していた。(文責:宮治美江子)











地中海学会大会 シンポジウム要旨
地中海の庭

パネリスト:鹿野陽子/ 鼓みどり/ 鳥居徳敏/ 深見奈緒子/ 司会: 陣内秀信



 庭,あるいは庭園は,東西を問わずどんな文明圏にも発達した興味深い文化遺産であり,人々に憩いや喜びを与え.しばしば地上の楽園に喩えられた。とりわけ地中海世界には,古来,庭づくりの高度な技術,文化が発達し,その傑作が幾つも受け継がれ,様々な角度から研究されている。庭には,気候風土,自然観,宗教=神話,思想=精神性,造形文化=美意識,生活との結びつき(住まい,家族,接客,祝祭)など,様々な要素が反映され,その地域の文化総体をそこに読み取ることができる。水を供給する仕組み,技術も重要である。都市。社会にあまり拘束されず,個人の敷地に理想の世界を表現できたので,庭には地域の文化の特徴がよく映し出されている。学際的な広がりをもっ地中海学会にまさに相応しいテーマであり,これまで取り上げられなかったのがむしろ不思議なくらいである。
 庭(庭園)は大きく見れば,オリエントの世界で先ず発達し,地中海の西へ伝播しつつ,それぞれの地で発展していったと言える。このシンポジウムの発表順も,それに従って組まれた。
 先ず,深見奈緒子氏(イスラーム建築史)が,東方の古代,そしてイスラーム世界の庭園について報告。紀元前1800年の古代メソポタミアのマリを皮切りに,古来,庭園が発達し,4筋の水の流れと生命の樹木のモチーフが重要な要素となり,アケメネス朝ベルシアで四分庭園の形式が確立したこと等を説明。イスラーム時代に入り,庭園は,コーランにも書かれているように天国の楽園のイメージと繋がっていく。パラダイスという言葉は,古代ペルシア語の「因われた庭」から派生したものであり,中庭に楽園のイメージが重ねられ,そこに水利技術を背景として,十字形に水路が交わる幾何学的秩序をもった四分庭園が発達したことを論じた。一方,アナトリアの遊牧民の問にも,緩やかな傾斜地に固い地をつくり,庭を楽しむ文化が形成されたことを興味深く指摘した。
 次に,鼓みどり氏(初期中世美術史)が,中世キリスト教世界の庭園の在り方,その象徴,イメージ等を中心に報告。楽しみを求めた古代の別荘では,庭園に噴水,樹木等に加え,官能的な女性像も見られたが,中世に入ると享楽的性格は否定され,庭は楽園の象徴となった。エデンの園から流れ出る川が園を潤し,4本の川となる。生命の泉はキリストを,天国の4本の川は四福音書記者を象徴すると考えられたといい,こうした楽園のイメー
ジや生命の泉を描いた興味深い図像が幾つも示された。また,聖母が生命の泉と重ねられ,閉ざされた庭に聖母がいる図像が中世後期に成立したことを論じた。
 続いて,鳥居徳敏氏(スペイン建築史)が,スベインのイスラーム文化のもとで発達した庭園について報告。近年の発掘による庭園史研究の目覚ましい進展を紹介しながら,コルドパのメスキータのパティオ,アルハンブラのライオンのパティオ,セビーリャ王宮を始め,明らかになりつつある庭園の特徴を論じた。中庭の時代とともに変化しやすい植栽の復元,という興味深い問題も提起された。スペインでも,水路が十字形に交わり中心に泉が置かれる四分割パティオが多く用いられることが示された。
 最後に,鹿野陽子氏(造園学・ランドスケープ計画学)が,イタリアにおける中世末からルネサンス期の庭園の展開について報告。中世末の田園のヴィッラでは,農場の必要機能を優先していたが,初期ルネサンスに人文主義にもとづく理想的な古代の庭園の模倣とその流行が見られ,眺望が再発見されたこと。『ポリフィーロの夢』が庭に物語性を生み,デザインの拠り所になったことを論じた。さらに盛期ルネサンスの建築的な庭園構成の隆盛,続くマニエリズムのアレゴリーによる象徴表現の追求が紹介された。
 以上の四つの報告をふまえ,活発に討論が行われた。先ず,スベインも含むイスラームの庭園,中世のキリスト教の庭園には,楽園のイメージが強く表現されており,エデンの園から流れる4本の川が庭園の象徴的な構成を表すことがわかったが,古代ローマ,それを範とするルネサンスの庭園にも楽園のイメージがあるのかは,疑問のまま残された。イスラームの庭園にヘレニズム・ローマの文化がどう影響したかも今後の課題とされた。
 庭の内と外の関係に議論が及び,囲われていることで楽園のイメージをもつ一方,アルハンブラ等,スペインの城塞化した城で,外への眺望が同時に求められた点が説明されまた,閉じた中庭ばかりか,周辺に大きく広がる狩りの庭に目を向ける必要性も指摘された。庭(庭園)は,今年の地中海トーキングのテーマ「スローライフなら地中海」とも深く繋がる,自然の恵みを最大限生かし,人間の英知でつくり上げられた地中海世界らしい文化の一つであることを確認し,結びとなった。
(文責:陣内秀信)











地中海学会ヘレンド賞受賞にあたって

飛ヶ谷 潤一郎



 このたびは地中海学会へレンド賞をいただき,まことに光栄です。歴代の受賞者名を見ましても,わたしが普段お世話になっている先生方が多くを占めていることを大変うれしく思います。へレンド賞のスポンサーとして毎年ご協力くださっている星商事社長鈴木猛朗さま,および塩谷博子さま,地中海学会会長樺山紘一先生,前事務局長小佐野重利先生および審査に携わっていただいた先生方,わたしの学位論文を中央公論美術出版にご紹介いただいた長尾重武先生,出版を快諾していただいた中央公論美術出版社長小菅勉さま,および編集を担当していただいた鈴木拓士さま,出版助成金を交付していただいた日本学術娠興会,研究のご指導をいただいた東北大学飯淵康一先生,東京大学鈴木博之先生,パドヴァ大学フルヴィオ・ズリアーニ先生,ローマ「ラ・サピエンツア」大学フランチェスコ・パオロ・フィオーレ先生,そして東京芸術大学野口昌夫先生をはじめ,お世話になった多くの方々に心から御礼申し上げます。
 受賞作の『盛期ルネサンスの古代建築の解釈』 (中央公論美術出版,2007年)は,2003年度東京大学大学院学位論文に加筆修正を施したものです。この書では,ルネサンスの建築家たちが設計の際に手本とした古代建築が彼らの作品にいかなる理由で,どのように表現されているのかという問題が設定され,従来の研究では扱われなかったギリシアやエトルリアも含めた古代建築の解釈について論じられています。そして,当時の建築研究における「誤解」という否定的な側面が,新しい建築の創造という側面では重要な役割を果たしたことが示されていますが,誤解が生じたおもな理由は,当時ローマなどに存在していた古代遺跡とウィトルウィウスの『建築十書』の記述内容が必ずしも一致しなかったことや,中世建築がしばしば古代建築と混同されていたことによります。
 わたしがイタリア・ルネサンス建築の研究を始めたのは大学院修士課程のときからで,学部生のときに初めての海外旅行で訪れたイタリアに衝撃を受け,ぜひとも留学したいと思うようになりました。地中海学会に入会したのは,留学を終えて帰国した後の2003年からですが,イタリア建築史を専門とされる多くの先生方が常任委員を務めておられたため,入会以前からさまざまな機会にお世話になっていました。実際イタリア政府給費留学
試験の審査員を務めておられたのが元事務局長の陣内秀信先生であり,パドヴァ大学への留学をお世話してくださったのが小佐野先生でした。そして樺山先生に初めてお目にかかったのも,留学中の2000年に,当時フィレンツェに存在していた東京大学文学部研究センターに管理人として滞在していたときでした。また学位取得後,2005年に日本学術振興会特別研究員として東京芸術大学に移ってからは事務局委員に任命され,地中海学会の多くの先生方からは公私ともども大変お世話になっています。私的な理由については授賞式の際に申し上げまし‘たので本稿では省略いたしますが,受賞の場が早稲田大学となったことに深い感銘を受けました。
 今年1月から東北大学に着任し「建築世界遺産学」という新設分野を担当することになりましたが,今後もへレンド賞受賞者の名に恥じぬよう研究に励んでゆくつもりです。なお,本学の都市・建築学専攻においてわたしは最初の西洋建築史の教員であり,おそらく現在は東北地方で唯一の西洋建築史研究者だと思いますが,仮に将来仙台や東北地方の他の都市で学会の大会が開催されるようになったときのためにも,これから少しずつ仲間を増やしていきたいと考えております。もちろん美術史の分野においては,昨年度のへレンド賞受賞者芳賀京子先生が健在です。また今後も東京に来る機会はしばしばありますので,事務局委員として地中海学会の運営にも積極的に携わりたいと考えております。皆様,今後とも何卒よろしくお願いいたします。

追伸:6月21日に地中海学会賞を受賞された本村凌二先生から,へレンド賞のほうを欲しがっていた学会賞受賞者がいたという話をうかがいましたが,7月14日のへレンド賞受賞祝賀会で実に見事なお皿をいただいたときには,わたしもなるほどと納得しました。星商事の皆様にはあらためて心から御礼申し上げます。









表紙説明

地中海の女と男17

シエナ市庁舎前の雌狼の像/片山伸也


 イタリア中部の丘上都市シエナは,中世後期にはフィレンツェと比肩し得るほどに栄えたが,その誕生の物語には未だ定説がない。双子の乳飲み子を育てる雌狼の図像はもちろんローマ建国のシンボルだが,シエナ市民にとってもその血筋を示す重要なシンボルである。雌狼に育てられたのはローマ建国の祖であるロムルスとレムスだが,レムスの二人の息子セニウスとアスキウスが伯父ロムルスから命を狙われ,トスカーナのこの地まで逃れて定住したのがシエナの起源だというのである。アンブロジオ・ロレンツエッティが市庁舎の墜に描いた《善政の寓意》(1340年頃)でもコムーネの擬人像の足下に横たわるこの雌狼(ルーパ・セネーゼ)の伝統は古く,13世紀にはコムーネのシンボルとして史料に登場する。
 タキトゥスや大プリニウスによると,シエナは紀元前1世紀にはローマ市民権を得ていたようだが,その後のランゴバルドによる半島支配がシエナ司教座の長期にわたる空位をもたらし,古代ローマのセーナ・ユリアと中世後期のシエナとの問に断絶を生じたらしい。
 都市シエナの実質的な誕生は,むしろランゴパルドおよびビザンティンの支配によって古代ローマの動脈であったカッシア街道およびアウレリア街道が衰退したことに起因している。フランクとローマを結ぶ通商路としてヴィテルボとシエナを通りチサ峠を抜けるフランチジエナ街道(ロメア街道)の重要度が増したのである。この行程の史料初出はカンタベリーの大司教シゲリックがローマから任地への帰途に立ち寄った投宿地の記録(990年頃)だが以後シエナは破竹の商業的発展を見せる。商人達はシャンパーニュにまで出かけて行き,ローマ教
皇の信頼も得て銀行業を発展させた。E.セスタンは1959年の講演の中で,街道を介して繰り広げられる人為的営みこそがシエナを都市として成立させているとして,シエナを「街道の娘」と呼んでいる。
 イタリア語で都市は女性名詞だから,娘と比喩されるのは当然だが,とりわけシエナという都市に女性的な空気を感じるのは、シモーネ・マルティーニ等シエナ派の絵画が持つのと同じ流麗さや優美さを目抜き通りに立ち並ぶゴシック様式のパラッツォが見せつけるからだろう。茶褐色で滑らかなレンガ壁に白いトラヴァーティンの小円柱で区切られたゴシック風アーチの窓が連続する様は,ロレンツェッティが描いた都市の中で踊る女性の衣装にも似た艶やかさと軽やかさをたたえている。シエナ積年のライバルであったフィレンツェのパラッツォが,ルスティカ(粗石)仕上げの男性的な風貌を誇示するのとは対照的と言える。コジモ・イル・ヴェッキオやロレンツォ・イル・マニアイコなどフィレンツェ史の主要な登場人物が政治文化両面で都市を牽引するマッチョなリーダーシップを発揮したのに対して,シエナの最盛期を現出したのがノーヴェ政府と呼ばれる共和体制であったことも,この両都市のイメージの違いと無縁ではない。
 1348年にヨーロッパを襲ったベストは,シエナにとりわけ深刻な被害をもたらす。聖母の都市と謳われたシエナは,その最も美しい盛りに病魔に冒され,やがて1557年にメディチ家の支配するトスカーナ大公国の手に落ちることになるのである。