学会からのお知らせ


*第32回地中海学会大会
 さる6月21日,22日(土,日)の二日間,早稲田大学小野記念講堂(東京都新宿区西早稲田1-6-1)において,第32回地中海学会大会を開催した。会員177名,一般約35名が参加し,盛会のうち会期を終了した。
 次回大会は福岡市で開催する予定です。
6月21日(土)
キャンパスツアー 12:30〜14:00
開会宣言・挨拶 14:05〜14:15  田島照久氏
記念講演 14:15〜15:10 
 「地中海・イスラーム世界の砂糖文化」  佐藤次高氏
地中海トーキング 15:25〜17:25
 「スローライフなら地中海」
  パネリスト:岡本太郎/末永航/武谷なおみ/横山淳一/司会:宮治美江子各氏
授賞式 17:30〜18:00
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
懇親会 18:30〜20:30 〔西北の風〕
6月22日(日)
研究発表 9:35〜12:30 
 「ミケーネ諸宮殿崩壊時のエーゲ世界」  土居通正氏
 「周縁にして古典なるギリシア像の構築──ブルゴー=デュクドレの万博講演(1878)における〈ギリシア旋法〉をめぐって」  安川智子氏
 「《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》に見られる騎馬像の定型」  中西麻澄氏
 「十世紀イスパニア写本の対観表装飾──二つの聖書写本を中心に」 毛塚実江子氏
 「エレウサ型アンナ像の出現とその意義」  菅原裕文氏
 「オルガヌムの歌い手たち」  平井真希子氏
総会 12:30〜12:50
シンポジウム 13:30〜16:45
 「地中海の庭」
  パネリスト:鹿野陽子/鼓みどり/鳥居徳敏/深見奈緒子/司会:陣内秀信各氏

*第32回地中海学会総会
 第32回総会(鈴木董議長)は6月22日(日),早稲田大学小野記念講堂で下記の通り開催された。
 審議に先立ち,議決権を有する正会員608名中(2008.6.18現在)580余名の出席を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2007年度事業報告・決算,2008年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2007年度事業・会計は片倉もとこ・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
議事
一,開会宣言       二,議長選出
三,2007年度事業報告  四,2007年度会計決算
五,2007年度監査報告  六,2008年度事業計画
七,2008年度会計予算  八,役員人事
九,閉会宣言

2007年度事業報告(2007.6.1〜2008.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXXI発行 2008.5.31発行
 「トカル・キリセ新聖堂(カッパドキア,ギョレメ地区)の装飾プログラム」  櫻井 夕里子
 「Le Scuole Grandi e i nobili nella Venezia rinascimentale」  和栗 珠里
 「19世紀アルジェリアにおける植民都市の形態と分節化」  工藤 晶人
 「研究ノート ヴァザーリとジョルジョーネのマニエラ・モデルナ」  高橋 朋子
 「研究ノート 東方旅行記における二つの観察潮流とそのトポス:フランス大使ダラモン一行におけるキリスト教古代文化と異文化の取り扱い」  宮下 遼
 「史料紹介 紀元前5世紀末〜4世紀のアテナイ社会と市民間の贈収賄」  佐藤 昇
 「書評 飛ヶ谷潤一郎著『盛期ルネサンスの古代建築の解釈』」  長尾 重武
 「書評 甲斐教行著『フェデリコ・バロッチとカップチーノ会──慈愛の薔薇と祈りのヴィジョン』」  足達 薫
2.『地中海学会月報』 301〜310号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於東京大学本郷キャンパスおよびイタリア文化会館)
 「中世ローマ教皇宮廷を構成した人々」
藤崎 衛(10.6)
 「ピエロ・デッラ・フランチェスカ研究の過去と現在」  池上 公平(12.8)
 「サルデーニャの舞踊音楽の構造──ラウネッダスの舞踊曲のイスカラの概念をめぐって」  金光 真理子(2.16)
 「伝統と革新の間で──シエナ大聖堂の円形ガラス窓」(イタリア語)イタリア文化会館共催  フランク・マルティン/通訳 伊藤 拓真(4.11)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
 秋期連続講演会:「地中海とユートピア」 2007.11.17〜12.15
 「天界への回路としての聖遺物と美術」  秋山 聰
 「ユートピアとしての南フランス──ルノアールとボナール」  木島 俊介
 「はるかな都市──描かれた都市のユートピア」  小佐野 重利
 「中世後期フィレンツェの都市整備と理想都市像」  石川 清
 「遙かなるユートピア・古典世界」  中山 典夫
 春期連続講演会:「ヨーロッパとイスラム世界」 2008.4.26〜5.24
 「スペイン:三つの宗教が共存した土地」  樺山 紘一
 「イスラム世界と近代ヨーロッパ文明:そして誰も何がイスラムなのかわからなくなった」  飯塚 正人
 「中世シチリア:文明の交差点」  高山 博
 「イタリア中世海洋都市とイスラム世界」  陣内 秀信
 「スペインとシリア:聖地巡礼と建築の交流」  山田 幸正
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:本村凌二
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:飛ヶ谷潤一郎 副賞 30万円(星商事提供)
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:旅行者や芸術家の眼から見た世界遺産と芸術の宝庫」
2.同「地中海周遊の旅:古代との対話,異文化の芳香,食と芸術文化」
3.同「地中海と神話・伝説の世界」
VI 会 議
1.常任委員会    5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会  6回開催
4.大会準備委員会  1回開催
5.電子化委員会   Eメール上で逐次開催
VII ホームページ
  URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)
  「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第31回大会(於大塚国際美術館 後援:大塚国際美術館)6.23〜24
IX その他
1.入会員:正会員22名;学生会員14名(2008.5.28現在)
2.学会活動電子化の調査・研究

2008年度事業計画(2008.6.1〜2009.5.31)
I 印刷物発行
1.学会誌『地中海学研究』XXXII発行
  2009年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(11.22〜12.20,計5回)・春期連続講演会開催
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海と神話・伝説の世界」
2.朝日カルチャーセンター講座企画協力
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
第32回大会(於早稲田大学) 6.21〜22日
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

*新事務局長および本部変更
 先の総会で小佐野重利氏の事務局長任期満了により,石川清氏が新事務局長に決まりました。これに伴い,学会本部を下記の通り変更します。
 旧:東京大学 小佐野重利研究室
 新:愛知産業大学 石川清研究室

*論文募集
 『地中海学研究』XXXII(2009)の論文および書評を下記のとおり募集します。
 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
 締切 10月20日(月)
 本誌は査読制度をとっています。
 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。

事務局夏期休業期間:7月29日(火)〜8月29日(金)









春期連続講演会「ヨーロッパとイスラム世界」講演要旨

スペイン:三つの宗教が共存した土地

樺山 紘一


 中世のスペインは,三つの宗教が特定の方法をとって共存する,類いまれな土地であった。キリスト教は,はじめ西ゴ−ト人のもとで,のちにはイスラーム教徒からの領土再征服によって,スペインをキリスト教の世界にぬりかえていった。これとはべつに,ユダヤ教徒が故地のパレスティナをおわれて西方にむかい,イベリア半島に浸透していった。時代とともに,ユダヤ人コミュニティが拡大し,社会の形成に重要な役割をはたすにいたった。このユダヤ教徒たちをセファルディとよぶ。イスラーム教徒は,8世紀の初頭になって,半島のほぼ全土に支配を確立した。広大なイスラーム世界のうち,イベリア部分をアル・アンダルスとよぶ。中世をとおして,イスラーム教徒は,キリスト教徒との対抗を継続する。
 さて,こうしてことなる三つの宗教,もしくはそれを奉ずる民族の共存は,スペインになにをもたらし,どんな文化をうみおとしたのか。さしあたり四つの分野で,観察することができる。第1には,三者の言語の交錯である。それぞれが,固有の言語を堅持していた。けれども,政治や社会の構造のなかで,相互に複雑な関係をとりむすぶことになる。イスラーム支配下のキリスト教徒は,アラビア語をとりいれながら,みずからの信仰を保持した。聖書や典礼は,アラビア語によっても表現された。こうしたアラブ化したキリスト教徒たちを,モサラベとよぶ。モサラベによるアラビア文化の学習は,のちにヨーロッパ系言語として確立されるスペイン語の形成にも,貢献することになる。アラビア語からの多数の借用は,音韻構造から語彙にいたるまで顕著である。
 他方で,キリスト教の支配下にはいったイスラーム教徒は,改宗をしいられたとしても,古来の言語と文化をある程度は維持していた。モリスコとよばれる人びとである。また,ユダヤ教徒は,みずからの言語であるヘブライ語を保持するとともに,支配言語であるアラビア語を受容し,文語・口語をとわず,それを血肉化した。両言語は,もともと近親関係にあったからである。バイリンガル状況は,中世のスペインにあっては常態だったといってよい。
 二つ目は,建築である。アンダルシア地方を代表する都市,コルドバ・セビーリャ・グラナダなどには,きわめて多数のアラブ・イスラーム建築が林立した。連続したアーチ,柱や壁面をおおうタイルのアラベスク文様,塔や中庭,そして噴水。これらは,モスクや邸宅とし普
及していった。のちにキリスト教徒の再征服が,それを駆逐したとはいえ,じつは融合や残存によって,複雑な共存関係が維持された。コルドバのメスキータは,最高水準のアラブ建築が,キリスト教会のなかに残存した事例である。しかも,モリスコたちはのちにも半島の各地に伝統的なアラブ建築をうみおとした。ムデーハル建築様式とよばれ,いまなおその面影を保持しつづけている。
 第3には,古典文献の翻訳。トレドを中心として,ことに12世紀から次世紀にかけて,多数のアラビア語文献がラテン語に翻訳された。その多くは古代ギリシアの文献であり,もともとアラビア語に翻訳されていたものである。プラトンやアリストテレスは,ユダヤ人によってまず俗語のスペイン語にうつされ,それをキリスト教徒がラテン語化するという複雑な過程をとった。その仲介役をはたしたユダヤ人は,トレドに重要な拠点をもうけ,礼拝堂であるシナゴーグを設置するとともに,その建築にアラブ風を導入するなど,共存関係の実をじゅうぶんに吸収することにもなった。
 第4には,地中海にうかぶマジョルカ島における地図制作である。A. クレスケスの名で知られるユダヤ人は,港町パルマにあって,ユダヤ人をはじめとする商人や航海者から豊富な情報を入手し,それをもとにポルトラーノ地図を制作した。羅針盤による航海を前提とした海図であり,アフリカからアジアにいたる当時の「世界」地図を完成させた。「カタロニア地図」とよばれる。これは,まさしく情報の収集と交換を身上としたユダヤ人の技の骨頂といってよい。
 以上は,中世の千年間,三つの宗教とそれにかかわる民族が,共存をとおしてスペインという土地で達成した文化的な成果である。ただし,実際の千年間は,けっして平穏な時代ではなかった。寛容と不寛容とはたがいに交錯したし,また中世の終幕にあって,統合されたキリスト教のスペイン王国は,イスラーム教徒とユダヤ教徒を排除するにいたった。共存の成果は,残念ながら大部分は失われていった。けれども,21世紀の現在にあって,諸宗教や民族のあいだの葛藤や対立が由々しい状況を呈しているとき,スペインの土地が経験し,達成した「共存」の事実とそのための知恵とは,けっして看過されうるものではない。諸宗教にとっても,現代にたいして発信しうるメッセージの宝庫として,この歴史的経験をふりかえることが可能なはずである。










研究会要旨

サルデーニャの舞踊音楽の構造
──ラウネッダスの舞踊曲のイスカラの概念をめぐって──

金光 真理子

2月16日/東京大学本郷キャンパス


 クラシック音楽の総本山というイメージがあるイタリアは,じつは民俗音楽の宝庫でもある。なかでも独特な文化圏であるサルデーニャ島には,本発表でとりあげるラウネッダスのようなユニークな楽器がある。ラウネッダスは三本の葦笛から成り,演奏者は循環呼吸という技法によって三管の音を絶え間なく鳴らし続ける。ラウネッダスの演奏は,サルデーニャ南部を中心に,舞踊の伴奏と結びついて職業化し,高度な演奏技術とレパートリーを発展させた。ラウネッダスの音楽(舞踊曲)は,楽譜に書かれることなく,師匠から弟子へと口頭で伝承されている。それは,クラシック音楽とはまったく異なる,ラウネッダス奏者独自の「理論」と「実践」に基づくものである。本発表では,このラウネッダスの舞踊曲を,詩や舞踊など(音楽以外の)サルデーニャの文化からみなおすことで,その構造を彼らの「美学」とともに読みとく,新たな解釈を提示する。
 ラウネッダスの舞踊曲を理解するキーワードが,イスカラiscala(サルデーニャ語で「階段」)である。イスカラには大きく二つの意味がある。第一に,舞踊曲をどのように演奏すべきかという美的な演奏規則で,奏者がピッキアーダpichiadaと呼ぶ単位を反復することなく次から次へと演奏することを「イスカラに従って演奏する」という。第二に,舞踊曲のレパートリーとして,九種類のラウネッダスそれぞれに定められた20〜30個のピッキアーダのセットをイスカラと呼ぶ。もっとも,実際の演奏では一連のピッキアーダが即興的に展開されるため,舞踊曲の演奏からイスカラを具体的に理解することは難しい。先行研究者たち(A.F. Weis Bentzon; Bernard Lortat=Jacob)はイスカラを「主題連続の原理principle of thematic continuity」と解釈し,主題とそのヴァリアントを判別しながら演奏分析を行った。しかし,実際には「主題連続」と矛盾するようなピッキアーダの展開が多く,個別の演奏分析には演奏全体に通じる一般性がなく,イスカラを概念的にも具体的にも説明しきれていない。そこで発表者は,本来クラシック音楽のための「主題と変奏」概念から離れ,フィールドワークを重視する立場から,むしろパフォーマンスの分析・考察をすすめた。
 発表者の考えでは,イスカラとは演奏のアウトラインで,路線図をイメージするとよい。あらかじめ決まったルートがあり,各駅(ピッキアーダ)では然るべきパタ
ーンに従ったフレーズをさまざまに展開する。スタートからゴールまで,すべての駅に停まるか,途中の駅を通過するか(ピッキアーダの省略),あるいは寄り道するか(ピッキアーダの挿入)は自由である。重要なのは,後戻りできないということである(ピッキアーダの反復禁止)。この反復禁止という特徴に注目して,二つの調査結果を紹介したい。一つは言葉をめぐる表現との相同性,もう一つは舞踊との相関的な関係である。
 ラウネッダス奏者へインタビューすると,比喩表現が豊かなことに気がつく。舞踊曲の演奏は,詩や小話など言葉の表現に喩えて説明される。同じ話題を繰り返すと聞き手を退屈させるから,同じピッキアーダを繰り返してはならない──ピッキアーダの反復禁止は,言葉のロジックによって説明される。舞踊曲の演奏を詩(mutos / mutettus)の創作に,自分を詩人に喩える奏者の思考は,一見ジャンルは違うものの同種の即興的なパフォーマンスを軽やかに結びつけている。イスカラという概念の根底には,「音楽」と限定されることのない,表現の行為に広く通じる美的価値観をみてとることができる。
 ところが,視点を変えてみれば,実に現実的な条件もみえてくる。それがピッキアーダと舞踊のステップとの関係である。舞踊の良し悪しは,音楽に従っているか否かで判断されるという。この「音楽に従って」とは何を意味するのか。インタビューやみずからもステップを学んだ経験や実験的な調査から明らかになったのは,ピッキアーダの推移に従ってステップを変えるという,きわめてデリケートな聴取の前提である。というのも,ラウネッダスの舞踊曲は,一聴すると実にモノトーンで,そこに何らかの推移を聴きとるのは不可能といってもよい。ところが,踊り手たちは,ピッキアーダの順序と各ピッキアーダの展開パターンを,つまりイスカラを経験的に学んでいるため,ピッキアーダが変わるタイミングを察知し,みずからもステップを変えることができるのである。この予測の前提にあるのが,反復禁止を掲げるイスカラに他ならない。
 イスカラ(階段)という概念をみていくと,ラウネッダスの舞踊曲が,詩や舞踊など,音楽以外の要素と分かちがたく結びついていることがわかる。ラウネッダスの音楽を,ひいては民俗音楽というものを理解するには,音楽をそれだけ切り離してみるのではなく,文化全体の中に位置づけてみることが肝心である。











地中海学会大会 研究発表要旨

《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》にみられる騎馬像の定型

中西 麻澄


 《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》(161〜180年,カピトリーノ美術館)は,ほとんどの皇帝騎馬像が溶解され失われた長い中世を,コンスタンティヌス帝と誤解されたが故に幸いにも生き延びた。この像は古代ローマ時代の「鍍金も残る,ほぼ完全な状態で現存する唯一のブロンズ製騎馬像」として,現代における貴重な作品である。そして騎馬像の歴史上も大きな意義をもつ。それは第一に本像自体がコピーされ続け,第二に,ルネサンス最初の大騎馬像《ガッタメラータ像》のモデルの一つであったように,「以後の騎馬像の手本とされた」と常に言及されてきたからである。
 本発表では,まず古代から近代までの騎馬像,約30作例の馬の形をたどり,実際,どの部分が手本となったのかを具体的に整理した。その結果,後世まで受け継がれた特徴は,(1)短い胴,(2)三角形の短く太い頸と小さめの頭部,(3)強い屈撓(くっとう)(ほぼ垂直に上げた頸と顎を強く引いたような形),(4)胸前と臀部の筋肉,(5)躍動感,の5点にまとめられた。
 次に騎馬像ならではの「形」の問題を考察した。すなわち騎馬像は,騎乗者と馬との群像である以上に,騎乗者が乗ることで,はじめて馬に特別なポーズ(体勢)をとらせることができるからである。そのため,騎乗術を踏まえたうえで,生きているウマで《マルクス・アウレリウス帝》の馬の形を検証した。その結果,本像の馬は頸を強く屈撓(3)しながらも同時に後肢片方をずっと後ろに引いている。しかし生きたウマにこの形をとらせることは不可能なことがわかった。まず,この頸の形は馬が自らとることはなく,現代でいう馬場馬術の「ピアッフェ」の形として,騎乗テクニックによりはじめて可能となる。そしてこの体勢の馬は体を支えるため,必ず後肢を大腿部より──《マルクス・アウレリウス帝》の馬のように後側ではなく──前側に置く。このリアルな馬の形がみられる作例としては,近代レアリスム時代のバリー作《シャルル7世騎馬像》(1833年)や,古代では《トラステヴェレ出土の馬》(ヘレニズム後期,コンセルヴァトーリ美術館)などが挙げられる。後者は,後補の肢の修復状態から馬の形に不自然さが残り,騎乗者のいない像に見えるが,頭絡の穴の跡や背の空洞の形から,騎乗者を乗せた騎馬像であったとみなしてよいと考えられる。これらの像では,スペイン乗馬学校のリピッツァ
等の動画で確認したように,生きたウマのとる「ピアッフェ」と同様,後肢は前側にきている。さらに馬の腰は騎乗者にしっかりと支配され下に沈み,口を割っているところから,馬にこのような難しい体勢をとらせやすい強いハミがつけられていたことがわかる。馬体各部や使用が想定される馬具とその効果が,総合的にほぼ矛盾なくあらわされている。しかしエルコラーノ出土の《ノニウス・バルボ騎馬像》(ナポリ考古学博物館)では,強く屈撓しているが,後肢を尾の付根より後ろに置くという矛盾がすでにみられる。さらには《マルクス・アウレリウス帝》では,後肢をより一層後ろに引いている。
 この頸と後肢の矛盾は,図像伝統に起因すると考えられる。彫像や硬貨から騎馬図像は二つのタイプに分類される。一つは立ち上がる馬に乗り,武器を持ち,敵を制圧する戦闘図で,もう一方は町への凱旋行進図である。《マルクス・アウレリウス帝》は後者にあたり,その後肢が後側に残る表現は,凱旋行進の「歩く」イメージを重視した結果であろう。そしてこのような高度な「騎乗術」により馬の頸を垂直に上げた形をモデルとしながらも,後肢のみ伝統的な「行進図像」を取り入れた形が「定型」として定着し,20世紀まで継承され続けたことがわかった。
 このリアルな生きたウマに,リアルでない図像伝統を組み込んだ「定型」に内在する葛藤は,レオナルドがスフォルツァ騎馬像素描(Windsor, The Royal Collection, n.12321)において後肢の位置を決めかね,後肢のみ何重にも線を引いていることや,ブシャルドンがルイ15世騎馬像のための素描を,丁寧に何枚も写実的に描きながら,結果として建立された馬の形は,素描習作とはかけ離れた,いわゆる「定型」どおりであった事にもあらわれている。最後に,騎馬像の設置場所という視点から付け加えるなら,ギリシア時代,《サン・マルコの馬》のような四頭立て馬車の彫像は,正面から見られたとされるが,《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》のフォロ・ロマーノ内の設置を証する資料はないものの,四肢を前後に大きく広げたダイナミックな歩行姿は,当時のこの騎馬像の設置場所が,少なくとも側面からも見られる場所であったことを暗示しているのではないだろうか。











地中海学会大会 研究発表要旨

エレウサ型アンナ像の出現とその意義

──優しさの形としてのエレウサ──

菅原 裕文


 本発表はエレウサ型のイコノグラフィで描かれたアンナ像に焦点を当て,後期ビザンティン(13〜15世紀)における同類型受容の一端を考察するものである。エレウサとは頬を寄せ合う聖母子像を指し,マリアとキリストの感情表現を特徴としている。この感情表現はイコノクラスムを経て,中期ビザンティン(9〜12世紀)で強調された。イコノクラスムでは人像表現の根拠たるキリストの人性が争点になった。聖像支持派が人性擁護のために受難とマリアを前面に打ち出した結果,受難で露わになるマリアの悲嘆はキリストが地上に生を受けたことを確証するとされ,受難を描く説教や説話図像でマリアは我が子の死を嘆ずる母性的な女性として造形されるようになる。中期ビザンティンにおいてエレウサの感情表現が強調されたのは,それが受肉における喜びのみならず受難における悲しみも示唆する護教的モティーフと解釈され,民衆を視覚イメージにより教化するためであった。
 しかしながら,発表者は研究を深め,現地調査を重ねる過程で,エレウサが後期ビザンティンにおいて教義的な次元とは,また異なる次元でも受容されていたとの確信を抱くに至った。その契機となったのが,エレウサ型のイコノグラフィで描かれたアンナ像である。
 筆者の知る限り,現存する聖母子型アンナ像は15例ある。作例を年代順に並べてみると興味深い事実が浮かび上がる。7世紀から12世後半まで,アンナは左腕に幼子マリアを抱えるオディギトリア型のイコノグラフィで描かれてきた。しかし,12世紀末を境に,乳房もあらわに授乳するガラクトトロフーサ型が主流になる。本発表の主題となるエレウサ型アンナ像は,14世紀初頭に集中して,首都コンスタンティノポリスとバルカン諸国に突如として出現する。聖母子像では比較的作例の少ない後二者の選択には,ビザンティン人がどのようにアンナという人物を理解していたのかが色濃く反映されている。
 マリアの前半生を描いたヤコブ原福音書をはじめ,マリア幼児伝を主題とする講話や説話図像を繙くならば,キリストとマリアの場合とは異なり,マリアとアンナの間には将来の受難を示唆する要素はなく,マリアの誕生がもっぱら喜びに満ちた出来事として理解されていたこと,さらには同時代人がアンナについて二つのイメージ
を抱いていることが明らかになる。その一つは,神意により年老いてから娘を授かった奇跡の体現者というイメージである。老婆が赤子に乳を与えるという矛盾こそアンナの生涯を彩る最大の奇跡であり,その奇跡を記憶に留めおくため,乳房も露わなガラクトトロフーサ型が選択されたと考えられる。
 もう一つは,幼い娘に愛情を傾ける優しき母というイメージである。このイメージはヤコブ原福音書のシリア語やアルメニア語の異本を典拠とし,ヨアキムとアンナがマリアを優しく愛撫する様子を描いた「可愛がられるマリア」図としてエレウサ型アンナ像が出現する14世紀に急速に普及した。これら二つの図像の時代および年代の偏りは両者が相互に参照可能なものとして認知されていたことを示唆しており,幾つかの作例がそのことをうらづけている。例えばセルビア,ストゥデニツァ修道院,王の聖堂(1313/14年)では,「可愛がられるマリア」図とエレウサ型アンナ像が上下に近接して配されており,制作者が両者を一対一で対応する説話図像とイコン的礼拝像と見なしていたことが分かる。さらに,ヴァティカン・ギリシア語写本1162番,通称ヤコボス・コッキノバフォス『聖母マリア讃詞集』挿絵(12世紀第3四半世紀)における「可愛がられるマリア」図のアンナにはエレウサ型のイコノグラフィが適用され,両者の相互参照性をストゥデニツァの作例以上に直裁的に示している。これらの事例を勘案すれば,エレウサ型のイコノグラフィは14世紀初頭までに優しい母を表すのに相応しい形と理解されていたと推察される。
 エレウサ型アンナ像の出現は,同類型の聖母子像の受容を考える上で重要である。中期ビザンティンでは,その抱擁や感情表現は将来の受難や悲嘆の指標とされ,エレウサ型聖母子像はキリスト論の理解に不可欠な受肉と受難の教義を含意する図像と解されていた。同じ抱擁や感情表現は,後期になると受肉や受難といった教義の枠組みにとどまらず,母の優しさを表す形として心理的な次元においても受容されたと考えられる。我々は,この頬を寄せ合う親子の詩的なイメージに,ビザンティンとルネサンスの連続性を見るのである。











大アミール・バジュカムの生涯

柴山 滋


 936年11月にアッバース朝第20代カリフ・ラーディがイブン・ラーイクを大アミール(Amîr al-Umarâ')に任命したことにより,大アミールがイスラーム史上に登場した。以後大アミールの地位は946年まではアッバース朝内部の抗争に関わったのべ7名の武将や行政官,それ以降はイラクに拠点をおいたブワイフ朝の君主によって受け継がれた。しかし大アミールは946年以前とそれ以降では,基盤とした軍事勢力が異なる。946年以前の大アミールはバジュカム・ラーイキー(Bajkam Râ'iqî)と称された軍団を中核としていた。この軍団を率いて938年9月〜941年4月に大アミールを務め,強力な政権を築いたのがバジュカム(Bajkam)である。
 トルコ系であるバジュカムの生地・生年月日および幼少のころのことは不明である。彼の行動が史料上で明らかになるのは,10世紀前半に現在のイラン西部に勢力を有していたダイラム人傭兵隊長マーカーンに臣下(gulâm)として仕えたことである。次いでズィヤール朝を創設したマルダーウィージの配下に移り,そこで将軍(amîr)となった。しかし935年にトルコ人の臣下たちがマルダーウィージを殺害すると,バジュカムは彼らをまとめて,イラク方面に進んだ。最初はアッバース朝のジバール総督であったハサンの下に赴いたが,さらにアッバース朝カリフの軍隊に入ることを期待してバグダードに進軍した。しかし結果として,彼らは当時バスラとワーシトの総督であったイブン・ラーイクの配下に組み込まれた。そのためこの軍団はバジュカム・ラーイキーと呼ばれ,バジュカムは自分の呼びかけに応じてやってきた新たなトルコ人とダイラム人を合わせたこの大軍団の指導者となった。
 イブン・ラーイクが大アミールになると,バジュカムは彼の下で,カリフ直属の軍隊およびイラク南部のバスラを拠点としていたバリーディー家に対する政策を担当した。カリフ直属の軍隊の解体後,937年2月にバジュカムは警察長官と東方地域の総督に任命された。次いで彼はバリーディー家当主のアルバリーディーをバスラから追放した。しかしアルバリーディーがファールス地方のブワイフ家に援助を求め,同家がアフマドを援軍として派遣すると,バジュカムは戦うことなくワーシトに引き上げた。
 その後バジュカムは大アミール位を望み,主君のイブ
ン・ラーイクと対立した。そのため彼は首都バグダードを制圧した際に,アルバリーディーをワーシトの総督に任命することを約束した。また前ワズィールのイブン・ムクラもバジュカムに接近し,カリフに彼を推薦した。こうして938年9月,バジュカムはバグダードに入城し,カリフから大アミールに任命された。
 大アミールとなったバジュカムは,ハムダーン家・ブワイフ家・バリーディー家などのバグダード周辺の勢力と対峙した。最初に北部のモスルを拠点にしたハムダーン家を討伐し,モスルに入った。しかし同地での略奪中に,前大アミールのイブン・ラーイクがバグダードに侵入した。そこでバジュカムはハムダーン家と和解し,また現在のシリア・イラク北部地域の総督職を与えることでイブン・ラーイクとも和解が成立した。939年2月にバジュカムは,バグダードに帰還した。次に彼はバリーディー家と結んでブワイフ家に対抗し,ワーシトに進軍してきたブワイフ家の勢力を阻止した。しかしその後アルバリーディーがバグダードの支配権を望んだため,バジュカムとの間に不和が生じた。940年8月,彼はワーシトへの進軍を決意し,アルバリーディーが放棄したワーシトに入城した。940年12月のカリフ死去の際に彼はワーシトに滞在していたが,次のカリフ・ムッタキーは彼の大アミール位を確認した。941年4月,彼はワーシト南東のマザールでバリーディー家と対峙していた部下達の要請で,ワーシトを出発した。しかし同家敗退の知らせが届いたため,彼はワーシトに引き返した。その途中で彼は狩猟を行ったが,その際クルド人の一団(彼らは盗賊とも言われている)と遭遇し,彼らとの戦闘中に背後からやりで突かれて,死亡した。
 このように軍人として生涯を送ったバジュカムは権力と金に貪欲で,一説には130万ディーナールに及ぶ資産を自宅に保有していた。一方で多くの財産を砂漠の一画に埋めたが,その場所は彼の死後に不明になったという。しかし彼は文人を尊敬して彼らと交流し,アラビア語を理解できたものの,誤りを犯すことを恐れて通訳を雇っていたという。さらに飢饉時におけるワーシトでの救難所(dâr diyâfa)の建設,バグダードでの病院建設,シーア派のモスクの再建なども行い,特にワーシトの人々には好感を持たれたという。











自著を語る55

『商人と更紗──近世フランス=レヴァント貿易史研究』


東京大学出版会 2007年11月 xxii+328+ xiv頁

深沢 克己


 もうあれから四半世紀がすぎた。なかば逃亡するような気持ちでフランスに留学し,プロヴァンス大学の博士課程に登録したときには,研究テーマも作業計画も未確定のままだった。しかし指導教授のミシェル・ヴォヴェル先生は,そんなわたくしを優しく迎え,配慮のゆきとどいた助言をあたえてくださったので,やがて研究対象もかたまり,少しずつ作業がすすみはじめた。それまで勉強した農業史を放棄し,マルセイユ商業史,とくにその自由港制度について研究するうちに,この制度がレヴァント貿易の独占権と結びつき,18世紀にはしだいにレヴァント製綿布の輸入特権と一体化する傾向にあることがわかったので,この綿布貿易を博士論文のテーマに選ぶことにした。綿布のおもな集荷市場はアレッポであるから,マルセイユ=アレッポ貿易の構造と変動を再構成しながら,そこに綿布貿易のしめる位置を論じることが,中心課題となるはずである。
 こうしてマルセイユ通いがはじまった。マルセイユ商業史の基本史料は,商工会議所古文書室に保管されているからである。ヴォヴェル先生に指示されて,はじめて商工会議所を訪れるために,エクス=アン=プロヴァンスからマルセイユ行きの列車に乗り,サン=シャルル駅の高台に到着したとき,正面にそびえるガルドの丘のうえに,晩秋の朝霧におおわれたノートル=ダム教会のシルエットが見えたのを,いまでも記憶している。商工会議所古文書室は,現在では1階アーケードに移転したが,当時は4階の一室にあり,古文書部長のマルセル・クルデュリエ氏,補佐のパトリック・ブランジェ氏,秘書のマルティヌ・メテス夫人らに囲まれて,家族的雰囲気のなかで仕事をすることができた。
 それから3年あまり,商工会議所古文書室のほかに,ブッシュ=デュ=ローヌ県文書館やマルセイユ市文書館での史料閲覧のために,ほとんど毎日マルセイユに通った。鉄道よりも高速バスのほうが便利だとわかったので,バス・ターミナルが発着点になり,往復のバスの窓から風景をながめるのが日課になった。エクス周辺の温和な田園風景をすぎると,ブック=ベレールの丘上集落が見え,エトワール山脈の奇岩「王の義足」が遠ざかるにつれて,マルセイユ近郊の荒蕪地が広がり,やがて高速道路の正面にノートル=ダム教会があらわれる。早春から初夏にかけては,白桃色のアメンドウ,赤紫色の蘇芳,黄色のエニシダの花がつぎつぎに咲き,風に吹かれて歌
うように揺れていた。当時のわたくしは,幸福であり充実していた。自分の研究にいかなる意味があるかと問う必要もなく,それが日本の歴史学界でどんな評価を受けるかを心配もせず,ただ自分の知的好奇心にのみしたがって,研究に没頭することができたからである。
 その成果は1984年12月に,博士論文としてプロヴァンス大学に提出された。幸運なことに,エジプト史家アンドレ・レモン教授の推薦により,博士論文はそのままフランス国立科学研究所から1987年に刊行された。しかしそれを日本語に翻訳して出版しようという意欲は,むしろ稀薄だった。わたくしの場合,日本での学問生活とフランスでの研究体験とのあいだには根本的な断絶があり,その間の溝をうめるのは容易でないと感じたからである。かつて哲学者の森有正は,日本での生活とフランスでの生活はそれぞれ別個の経験の層をなし,たがいに交わることはないと書いたが,それとほぼ同じことが,わたくしの内面にも生じていた。それゆえ無理はせずに,時間が解決するのを待とうと考え,雑誌論文や共著を執筆したり,新しい研究テーマに取り組んだりしているうちに歳月がすぎた。ようやく自分のなかで何かが解決され,博士論文をもとに日本語の著書を出そうと思い立ち,既発表の諸論文に書下ろし原稿を加えて一著をまとめたときには,フランス語の著書を刊行してからちょうど20年が経過していた。
 もちろんその間に,わたくしの歴史認識の幅は広がり,分析概念もいくらか整備された。とくにレヴァント製綿布のなかで重要だった更紗については,染織史家との交流やインド調査旅行などをつうじて,多くの新素材を発見することができた。そこで東京大学出版会にお願いして,質素なフランス語版では実現しなかったカラー写真の挿入をお認めいただき,豊富な実物資料により論旨を補強しようとつとめた。もちろん本書の刊行により研究が完了したわけではないが,長年の課題をひとまず達成したことにより,自分の心のなかでひとつの円環が閉じたという気持ちはある。しかし幸いなことに,わたくしにはまだ課題がいくつも残されている。レヴァント貿易史と港湾都市史は一段落したが,すでに宗教社会史・フリーメイソン史・秘教思想史の広大な未踏の領野に足を踏みいれたからである。今後の自分に何ができるか,これらの新たな円環を閉じる日がはたして訪れるかどうか,まだ現在のわたくしには予想もつかない。





〈寄贈図書〉


『薄闇のローマ世界──嬰児遺棄と奴隷制』東京大学出版会 1993年8月,『ポンペイ・グラフィティ』中公新書 1996年9月,『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』講談社 2007年8月,以上本村凌二著
Kodai: Journal of Ancient History, 1〜13/14(1990〜2003/04)
『古代エジプト 愛の歌』土居泰子著 弥呂久 2005年3月
『フィレンツェの傭兵隊長 ジョン・ホークウッド』D.バレストラッチ著 和栗珠里訳 白水社 2006年11月
『最後のローマ皇帝──大帝ユスティニアヌスと皇妃テオドラ』野中恵子著 作品社 2006年11月
Storia di una cattedrale. Il Duomo di San Donniono a Fidenza: il cantiere medievale, le trasformazioni, i restauri, Yoshie Kojima, Pisa 2006
『盛期ルネサンスの古代建築の解釈』飛ヶ谷潤一郎著 中央公論美術出版 2007年2月
『新版ドイツの中のトルコ──移民社会の証言』野中恵子著 つげ書房新社 2007年9月
『世界の神々』森実与子著 日本文芸社 2007年9月
『青いチューリップ,永遠に』新藤悦子著 講談社 2007年10月
『時代の目撃者──資料としての視覚イメージを利用した歴史研究』P.バーク著 諸川春樹訳 中央公論美術出版 2007年10月
『商人と更紗──近世フランス=レヴァント貿易史研究』深沢克己著 東京大学出版会 2007年11月
『イタリアの中世大学──その成立と変容』児玉善仁著 名古屋大学出版会 2007年12月
『イタリア都市の諸相──都市は歴史を語る』野口昌夫著 刀水書房 2008年1月
『物語 イスラエルの歴史──アブラハムから中東戦争まで』高橋正男著 中公新書 2008年1月
『エウクレイデス全集 第1巻 原論I-VI』斎藤憲・三浦伸夫訳・解説 東京大学出版会 2008年1月
『ギリシア悲劇──人間の深奥を見る』丹下和彦著 中公新書 2008年2月
『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』R.ロンギ著 池上公平・遠山公一訳 中央公論美術出版 2008年2月
『地中海のほとり』牟田口義郎著 朝日新聞社 2008年3月
『マグリブへの招待──北アフリカの社会と文化』宮治一雄・宮治美江子編 大学図書出版 2008年3月
『アテナイの前411年の寡頭派政変と民主政』堀井健一著 渓水社 2008年3月
『噴水建設の変遷に見るローマ都市史』佐々木学著 法政大学大学院エコ地域デザイン研究所 2008年3月
『古代ギリシアのブロンズ彫刻──総合的推論のために』羽田康一著 東信堂 2008年5月
『カティリーナの陰謀』C.サッルスティウス・クリスプス著 合阪學・鷲田睦朗訳・註解 大阪大学出版会 2008年5月
『オイディプスのいる町──悲劇『オイディプス王』の分析』山本淳著 松柏社 2008年5月
『イタリア都市社会史入門──12世紀から16世紀まで』齊藤寛海・山辺規子・藤内哲也編 昭和堂 2008年7月
『地中海研究所紀要』6(2008) 早稲田大学地中海研究所