学会からのお知らせ

*第32回大会
 第32回地中海学会大会を6月21・22日(土・日)の二日間,早稲田大学(東京都新宿区早稲田)において下記の通り開催します(予定)。
6月21日(土)
 14:00〜14:10 開会挨拶
 14:10〜15:10 記念講演
   「地中海・イスラーム世界の砂糖文化」
 佐藤次高氏
15:25〜17:25 地中海トーキング
   「スローライフなら地中海」(仮題)
     司会:宮治美江子氏
18:00〜20:00 懇親会
6月22日(日)
10:00〜11:30 研究発表
11:30〜12:00 総会
12:00〜12:30 授賞式
   地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
12:30〜13:30 昼食
13:30〜16:30 シンポジウム
   「地中海の庭」(仮題)
     司会:陣内秀信氏

*常任委員会
・第3回常任委員会
日 時:2007年2月17日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXX(2007)に関して/春期連続講演会に関して/会費未納者関して/NHK文化センター企画協力講座に関して 他
審議事項:第31回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他
・第4回常任委員会
日 時:2007年4月14日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第31回大会に関して/石橋財団助成金申請に関して/月報編集委員に関して 他
審議事項:2006年度事業報告・決算に関して/2007年度事業計画・予算に関して/地中海学会
ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他
・第5回常任委員会
日 時:2007年6月23日(土)
会 場:大塚国際美術館
報告事項:春期連続講演会に関して/国立大学教育研究評価委員会専門委員に関して 他
審議事項:役員改選に関して/名誉会員に関して/第32回大会会場に関して 他
・第6回常任委員会
日 時:2007年10月6日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第31回大会および会計に関して/秋期連続講演会に関して/研究会に関して/NHK文化センター企画協力講座に関して 他
審議事項:副会長に関して/第32回大会に関して/学会誌編集委員に関して/科研費申請に関して 他
・第7回常任委員会
日 時:2007年12月8日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXXI(2008)に関して/秋期連続講演会に関して/研究会に関して/新名簿作製に関して
審議事項:第32回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他


*会費納入のお願い
 今年度(2007年度)の会費を未納の方には,本号に同封して請求書をお送りします。学会の財政が逼迫の折,至急お振り込み下さいますようお願いいたします。ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。
 なお,新年度会費(2008年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313







秋期連続講演会「地中海とユートピア」講演要旨

永遠なるユートピア・古典世界

中山 典夫


 「負けたギリシアは勝ったローマを征服した」。ローマの詩人ホラティウスの言葉は,のちの西洋美術史にとっても多くのことを示唆している。
 人間を神に比して称揚するギリシア人は,真・善・美を普遍の価値として,彼らの美術でその具現化を目指した。その特徴は,──後代の批評家の言葉を借りれば──人体の表現における「高貴なる単純と静かなる偉大」(ヴィンケルマン)であるという。この美術は,ローマの最高級市民(クラシクス)によって「一級市民にふさわしいもの」(クラシック,「古典」と翻訳)とされた。以後2000年にわたる西洋美術の歴史は,この古典に対する信仰にも似たあこがれとそれに対する反逆という,大きなうねりのなかで推移する。
 ローマ時代の末期におこったキリスト教の美術は,古典世界とは反対に,肉体の存在を否定し,こころのなかの見えないものの表出を目指した。人体の形の美しさは忘れられた。
 人間の存在,その美しさを復活させたのは,16世紀イタリアのルネサンスであった。美術家は,人体という不安定な素材から,古典にならって楕円,円,弧,球,放物線などの美しいとされる形を引き出し,それらから,厳格な幾何学の原理にしたがって新しい形態に構築した(ボッティチェルリ)。さらにルネサンスは,この幾何学的な原理に基づく形の美に,人間のパトスに強烈に訴えるエロティシズムを欠かせぬ要素として加えた(ジョルジョーネ)。ここに,裸体画という西洋美術史の宝石ともいえる,特殊で魅力にみちた領域が生まれた。
 しかしつづく17,18世紀の美術では,比重はパトスの表出に傾き,人間の肉体は厳格な幾何学をはなれ,ゆたかな,よじれやくねりを多用しての躍動するいのちの塊となった(ルーベンス)。古典の否定ではなく変容である。
 その行き過ぎに対する反動が,19世紀前半の新古典主義による古典への回帰であった。美しいとされるが本来は冷たく中立的な幾何学原理と生々しく魅惑的なエロティシズム。この両者の本質があらためて吟味され,両者を結びつけ融合し,それでもって近代というあたらしい時代の精神を表現することが美術家の課題とされたのである。
 この困難な,しかし楽しい課題に生涯をかけて取り組
んだのが,画家アングルであった。そしてこの世紀の後半,溢れ出んとするエロティシズムを寓意や神話で抑え,アングルのつくりあげた形式の美を鍛え抜かれた技術で甘美にうたいあげたのが,カバネルをはじめとするアカデミック派の美術家たちであった。彼らの活躍は,世紀末の所謂ベル・エポックを主導し,世の絶賛を浴びたその作品は,海をわたって世界に運ばれた。
 しかし同じ頃,エロティシズムを含む人間の真実をもはや甘美に理想化することなく,赤裸々に描くことがはじまる。普遍の価値とされた真・善・美の善と美を侵してまでも,真を追求しようとしたのである(マネ)。「わたしが〈モダニテ〉ということばで意味するのは,はかない,変わりやすい,偶然的なもののことで,それは,永遠の普遍を目指す芸術の対極に位置するものだ」(ボードレール)。
 もはや永遠なる理想の世界ではなく,売春宿の一室,あるいは湯浴みの現場といった,まさに社会の不体裁な一角が,隠すことのできない人間の弱み,「人間の真実」として美術の対象とされたのである(ドガ,トゥールーズ・ロートレック)。そしてその極端は,平穏を装うブルジョア社会に対する反逆,解毒剤として,醜悪で無知のあからさまな描写さえつくり出した(ルオー)。
 つづく20世紀のモダニズムは,「永遠の普遍」をいっさい拒否し,今を生きる個人の価値のみを問題にした。過去をふり返ることをやめ,進歩なるものに絶大な信頼を寄せてひたすらに未来をみつめた。次つぎと新しい主義が主張され,それを表わす方法が工夫された。真・善・美は忘れ去られ,倫理を超えてまでもただひたすらに新しさが追いもとめられた(例としてアメリカン・ポップのヴィッシャーマンをあげる)。
 しかしこの世紀の終わりに,進歩に対する疑念,未来を見る神をもおそれぬ傲慢への反省は,反モダニズムの動きを生む。そして21世紀初頭の今日,まさに沸騰するポストモダンのエネルギーは,価値の多様化を標榜するままに,いまだ五里霧中にある。
 はたして,その霧の中から永遠のユートピアを望み見ることはないのか。最近のカバネル,ブグローの再評価は,あるいはそれを超えてのさらなる可能性を語るのかもしれない。







『トンブクトゥーの征服』はフィクションか?

関 哲行



 1375年にマジョルカ島のユダヤ人アブラハム・クレスケスが作成したカタルーニャ図には,マリ帝国の最盛期の王で1320年代に駄獣に金を積み,メッカ巡礼を行ったマンサ・ムーサ(在位1312〜37)の図像が描かれている。北西アフリカ内陸部,ニジェール川流域の黒人イスラム帝国についての情報は,大航海時代以前からトランス・サハラ貿易などを通じ,地中海世界にもたらされていたのである。
 大航海時代前後のスペインとニジェール川流域の関係を考える上で興味深いのは,偽文書とも評されるトンブクトゥー文書(カティ文書)に依拠して,2006年にスペインで出版されたA. ラグーノ・ロハスの『トンブクトゥーの征服La conquista de Tombuctú』である。著者はトンブクトゥー文書関連財団(カティ財団)の副会長を務めており,同書が歴史的批判に耐えられるかどうかはここでは問わない。歴史的信憑性の問題が付着しているにしても,同書が多くの人々の歴史的イマジネーションを刺激することも否定できないからである。14〜16世紀のマリ帝国やソンガイ帝国に焦点を合わせ,その一端を紹介したい。
 13世紀末にグラナダで生まれたアッサヒリ(1290〜1346)は,イスラム法学者の父の薫陶を受け,文学や宗教学,自然科学などを修めて,ナスル朝の文人官僚となった。優れた知識人でもあったワジール(宰相),イブン・アルハティーブの知遇を得たアッサヒリは,やがてグラナダ王側近の尚書官の地位にまで登りつめる。しかし精神障害を煩い,異端的なコーラン解釈を表明したことから,エジプトへの亡命を余儀なくされた。エジプトでマムルーク朝の政府要人の保護を受け,心身を回復したアッサヒリは,1324年メッカ巡礼を断行し,マンサ・ムーサと出会った。このマンサ・ムーサの招聘によりアッサヒリは,建築家としてマリ帝国に赴いた。
 イベリア半島やエジプトなどの建築様式を熟知したアッサヒリが,マンサ・ムーサの命を受け,トンブクトゥーに建設したとされるのが,ジンガレイベル・モスクである。1325年に建設された同モスクは,サハラ以南地域の多くのモスクのモデルとなったばかりか,モデルニスモの旗手アントニオ・ガウディにも大きな影響を与えたといわれる。
 マンサ・ムーサの信任を得たアッサヒリは,マリーン
朝との外交交渉を含む長年の功により,マリ帝国の貴族に列せられたが,1346年に没し,ジンガレイベル・モスクの主要ミナレットの下に埋葬された。
 アリー・ブン・ジヤード(?〜1516頃)は,8世紀にイスラム教に改宗した西ゴート貴族カシー家の末裔とされるムスリムないしモリスコである。トレードで宿泊業を営んでいたが,異教徒への不信が拡大しつつあった1460年代後半に,ムスリムやモリスコなどを伴い,グラナダ王国,マグリブ経由で,サハラ以南のソンガイ帝国に移住した。移住先でトランス・サハラ貿易や宿泊業に従事し,経済基盤を確立したアリー・ブン・ジヤードは,モスク建設や灌漑事業により社会的威信を強化,またソンガイ王ソンニ・アリーの姪ハディージャとの結婚を機に,王族へと成り上がった。
 アリー・ブン・ジヤードとハディージャは,長子マフムード・カティ(?〜1593)の教育を,ソンガイ帝国アスキヤ朝を創始した叔父のアスキヤ・ムハンマドに委ねた。アラビア語,哲学,法学,歴史学,医学,天文学などに通じたマフムード・カティ(カティはカシーの転訛)は,ソンガイ帝国を代表する知識人の一人となり,ガーナ王国,マリ帝国,ソンガイ帝国に関する歴史書の編纂に携わった。マフムード・カティは王アスキヤ・ムハンマドの甥として政治的にも重きをなし,ソンガイ帝国の地方行政や財政制度の安定,外交政策に大きな影響力を行使した。レオ・アフリカヌスを含むフェズ王国の使節団と,ソンガイ帝国の首都ガオで外交交渉にあたったのも,マフムード・カティであった。
 マフムード・カティは,アスキヤ・ムハンマドに従って,メッカ巡礼を実践したことでも知られる。メッカ巡礼を契機にソンガイ帝国は,イスラム国家としての性格をいっそう強め,イスラム法学者が王を補佐する政治制度を定着させた。西ゴート貴族の末裔(?)にして黒人イスラム国家の王族,異なる文化とエスニシティーを自らの内部に体現したマフムード・カティ。マフムード・カティやイスラム法学者に助けられて王アスキヤ・ムハンマドは,多民族国家ソンガイ帝国の集権化を進めることができたのであった。
 歴史的現実とフィクションの間を浮遊する不思議な一冊である。







教皇の都市ヴィテルボ

藤崎 衛


 「ローマ教皇」とわれわれは教皇を呼ぶことがあるが,ラテン語では通常“papa”であって“pontifex romanus”という表現があるにせよ,「ローマ」という限定辞はつかない。ラテン語の“papa”と日本語の「教皇」の対応関係も気になるところではあるがここでは触れずにおくとして,中世においては教皇は必ずしもローマに常にとどまり続けていたわけではないということをまず強調しておきたい。
 というのは教皇たちの中にはローマをしばしば留守にする者もいれば,まったくローマに入ることのなかった者もいたからである。このことは14世紀のアヴィニョン教皇を思い起こすならば容易に合点がいくだろう。しかしまた,アヴィニョン以前の時代にもあてはまる。13世紀はどうかというと,合計6割つまり60年近くもの間,ローマは教皇たちを見ることはなかった。ローマの都市行政府コムーネとの関係悪化などが原因である。では教皇たちの滞在先はどこかというと,教皇領内の都市がほとんどであった。13世紀の教皇たちにとって好まれた都市は,アナーニやオルヴィエート,ペルージャなどいくつかあるが,これらにまして最も教皇たちを引き寄せる力が強かったのはヴィテルボであった。13世紀全体のうち9年と数か月は,教皇たちが断続的にこの都市にとどまったことになり,ほかの都市を引き離す頻度である。
 数か月前,ローマへの留学中に「教皇の都市」をうたい文句にしているこのヴィテルボを訪れる機会があった。ローマからだとカッシア街道沿いに北へ100キロメートルほど行った,ラツィオ州の北部に位置する。なるほど当時の教皇領の中心部にあり,主要街道にも近いということで,ローマから見て北イタリアやその向こうのヨーロッパへの通路に位置する重要な意味を持つ都市ということは明らかである。教皇がローマを出なければならない理由があったのは当然ながら,特定の都市などが教皇を惹きつけるのにもまた理由があったというわけである。
 旧市街は七つの門を備えた市壁に囲まれている。市壁の内外にはトゥーシャ大学のキャンパスもあるので若者たちもよく見かける。だがよく見かけるといえば,この街の象徴でもあるライオンを刻み込んだ中世以来の噴水が目につく。ヴィテルボは12世紀にそれまで強勢を誇っていたフェレントゥムを破り近隣における地位を確立
したが,フェレントゥムの象徴であったライオンを今度はヴィテルボが自らのものとした名残らしい。
 大聖堂サン・ロレンツォ教会などいくつかの教会は第二次世界大戦の際の爆撃によって被害を受けた。美しかったであろうが傷つけられ歪んでしまったコズマーティ様式の床面がそれを物語っている。サン・シスト教会がその地下聖堂に,当時の崩れ果ててしまった教会の写真を掲げていたのも,地下聖堂特有の黴臭さとともに強く印象に残っている。
 中世のコムーネは対外的にも内政的にも栄枯盛衰をたどる。教会は時間によって古臭さと美しさを同時に増し,戦争の被害を受けることもある。ヴィテルボに限った話ではない。しかし,ヴィテルボには誇りがある。かつて中世のある一時期,ローマではなく自分たちの都市に教皇がとどまり,キリスト教世界の中心であったのだということに。大聖堂サン・ロレンツォ教会と教皇宮殿はガイドが案内してくれたが,ガイドのフランチェスコ君の聖職者らしい慎ましさとともに誇らしげな様子にも好感が持てた。
 彼はこの都市の歴史と教皇について語ってくれた。皇帝フリードリヒ2世の進軍によりひとたび皇帝派となるものの,ヴィテルボはこの勢力を追い出して教皇派の都市となった(1243年)こと,3年弱にわたる教皇空位期間をへて1271年にようやく教皇宮殿にてグレゴリウス10世が選出されたこと,選出をうながすためにヴィテルボ市民が枢機卿たちをここに鍵で(cum clave)閉じ込め,屋根を取り払い,食事の制限で脅したコンクラーベの起源など。他にもポルトガル出身で医者でもあったヨハネス21世など,ヴィテルボにまつわる教皇たちについての彼の話は尽きることがなかった。もっとも話の終わりに近くなると,14世紀以降教皇との関係が薄れてしまったことについて寂しげであった。


教皇宮殿(外観と内部),ヴィテルボ










パルテノン・フリーズ研究の現在

中村 るい


 古代ギリシアのパルテノン神殿の彫刻群主要部分は,英国のエルギン卿がアクロポリスから持ち出して以来,すでに約200年の時が流れ,ロンドンの大英博物館で展示されてきた。近年,ギリシア側から大英博物館へ彫刻の返還要求の声がますます大きくなっている。
 現在,アテネではアクロポリスの麓に新美術館を建設中。2007年秋から,旧アクロポリス美術館所蔵の彫刻群の空中輸送が始まっている。
 2007年度,パルテノン共同研究が筑波大学中心の有志により立ち上がり,11月半ば,ギリシア,英国の第1回現地調査が行われた。
 ギリシアでは,文化省アクロポリス遺跡監督官A. マンティス氏の案内で新アクロポリス美術館内部を見学した。そのことについては今後触れる機会もあると思うので,ここではその後,大英博物館での作品調査でキュレーター,I. ジェンキンス氏と話し合う貴重な機会があり,そのフリーズ研究について蒙を啓かれる経験を記しておきたい。

 パルテノン神殿の彫刻装飾といえば,メトープ(紀元前447〜442年制作),フリーズ(前442〜438年),破風(前438〜432年)と大きく三つに分けられる。
 今回は,破風彫刻にも時間をさくことができ,東破風の三女神を初めて脚立の上から見た。女神アフロディテの気品あるエロティシズムに驚愕した。このことは別の機会に。
 さてパルテノン・フリーズの従来の説と私の考えを述べて,ジェンキンス氏の話へと進めたい。
 フリーズの主題解釈と様式をめぐっては,非常に多くの説がある。大げさには,考古学者の数と同数の解釈があるともいわれてきた。フリーズが女神アテナを称える,パナテナイア祭の行列を表したものであることは一般に合意されている。パナテナイア祭は毎年行われたが,4年ごとにとくに盛大に祝われ,新しく精巧に織られた神衣(ペプロス)が女神アテナに奉納された。神衣奉納のクライマックスへ向かう行列は,騎馬隊,戦車隊,奏楽隊,行政長官,乙女等から成る。ここまではよい。
 しかし,詳しく検討すると……たとえば,騎馬隊は古典期当時のものか。また,重装歩兵や籠運びの乙女はなぜ,フリーズに登場しないのか。これは歴史的な記録なのか,それとも伝説上の祭典を暗示するものか。議論百
出だ。オックスフォード大学のJ. ボードマン教授がかつて,騎馬隊の騎兵の数,192という数字を,マラトン戦役(前490年)の犠牲者数と結びつけ,フリーズはペルシア戦役の犠牲者へ捧げる顕彰レリーフであるという新説(珍説)を出し,学界をアッと驚かせた。
 また,東フリーズ中央のオリュンポスの十二神は,なぜ行列に背を向けているように見えるのかも定説がない。約20年前にまとめた私の考えは,オリュンポスの神々も神衣奉納の場面も時空を超えて象徴的に表現されているというもので,『アルゴナウタイ──福部信敏先生に捧げる論文集』(アルゴ会編 早稲田大学メディアミックス刊 2006年)にそのことは記した。
 さて,大英博物館のジェンキンス氏は,フリーズ研究の第一人者で,研究書(The Parthenon Frieze, 1994)や点字書籍(Second Sight of the Parthenon Frieze, 1998)や,近年の騎馬隊のグループ分けの論文(論文集Periklean Athens and Its Legacy, 2005所収)ほかで精力的にフリーズ研究を進めている。
 このジェンキンス氏が11月22日,大英博物館古代ギリシア・ローマ研究部で私たちに,「パルテノンにかかわった彫刻家フィディアスらが,実際にフリーズをどう構想したのか。今,学界で提案されている,女性像のジェンダー論的解釈,または騎馬隊の解釈等,当時の状況にふさわしいといえるだろうか」と,逆に問いかけてきた。
 そして自答するように,パルテノン・フリーズには意図的なあいまいさが存在すること,歴史をただ正確に記録しようとしたわけでなく,超時間的な表現があちこちにみられる。たとえば,人物のまなざしや,しぐさや,音楽的ともいえる人物配置に。そのことによって,パルテノン彫刻がいつまでも古びない,一種の新鮮さをみなぎらせることになった,と誠意を込めて語った。
 また,今,皆がパルテノンの謎をとくための暗号や数字を求めて躍起になりすぎているのではないか,とも。

 つねづね,たこつぼ化した研究状況に疑問を感じていた筆者は,パルテノン研究第一人者の視点にじかに触れ,また作品を自らの身体で確かめ,ふと希望が湧いてきた。
 2008年,ギリシア美術の超時間性について想いをはせる年としようか。







高橋友子さんの研究を振り返って

大黒 俊二


 昨年10月31日,高橋友子さんは人知れず忽然と世を去った。50歳になったばかりで研究者として円熟を向かえた折のことだけに我々の衝撃は大きかった。突然止まってしまった歩みを,日も浅い今振り返るのは心に無理強いするようで辛いが,また長年同じ畑を耕してきた者の義務でもあるように思う。弔辞めいた回顧になるのをお許し願いたい。
 高橋さんには三つの著作がある。『捨子たちのルネッサンス』(名古屋大学出版会,2000年),そのイタリア語版Il Rinascimento dei trovatelli, Roma, 2003,『路地裏のルネサンス』(中公新書,2004年)である。主著はいうまでもなく『捨子たちのルネッサンス』である。フィレンツェにあるインノチェンティ捨子養育院の史料をもとに,15世紀フィレンツェにおける家族,親子,乳母,捨子,都市=農村関係を克明に解き明かした本書は,徹底した実証と,捨子からみたルネサンス・フィレンツェ社会史という視角のユニークさで国際的にも高い評価を受けた。本書は5年におよぶイタリア留学の成果である。渡欧が容易になった今でもこれだけの仕事をするのは日本人研究者にとって簡単ではない。それだけでなく,本書はよき師とよき史料とよき学界動向が出会った稀にみる幸福な作品である。留学直後の高橋さんにインノチェンティの史料を教えたのは故星野秀利氏である。星野氏は高橋さんの研究方向をよく聞き,そのための最適の史料を教えた。星野氏は自身の研究分野を毛織物工業史に厳しく限っていたが,フィレンツェの古文書に深く通じ,日本からの留学生にその志向に応じて的確に史料のありかを教えた。星野氏は地中に眠る宝物を鋭くかぎ分け,後進にそれを教えるのを一つの楽しみと心得ていたようである。高橋さんはフィレンツェで最上の師に出会ったのである。
 しかしこの史料の可能性を生かし,独自のフィレンツェ社会史を描いたのは高橋さん自身の功績である。1990年代前後は家族史が広く歴史家の関心を集めていた時代である。家族形態,親族関係,愛と性,家系意識など家をめぐる問題群が次々に開拓されていた。フィレンツェに即していえばCh. クラピッシュ=ズュベールとD. ハーリヒの研究が燦然と輝いていたし,少し後には亀長洋子氏がジェノヴァ,高田京比子氏がヴェネツィアについてすぐれた家族史研究を行っている。高橋さんもすでに
留学前からこうした方向に関心をもち,この方向を追求するなかでインノチェンティの史料に出会った。そしてこの史料に出会うことで,捨子という家族史の主流から少し離れたところに豊かな可能性を見出した。捨子からフィレンツェの家族と社会を見直すという視点は,少し前にPh. ゲヴィットが先鞭をつけていたとはいえ,高橋さんの研究は実証性と発見の豊かさでそれを超えていた。たとえば捨子の命名法から家族意識に迫る手法など,多少の先例はあったが高橋さん独自のものである。
 高橋さんと星野氏との違いは私の目には研究者の世代の差と映る。星野氏は大塚史学から西洋経済史に進んだ足跡を明らかにとどめており,同時にイタリアではF. メリスやA. サポーリによって開拓された経営史の手法を受け継いでいる。これに対し高橋さんは捨子,里子,乳母といった下層民に注目し,彼らを等身大の生活者の姿で描こうとした。これは明らかに社会史世代の問題関心である。フィレンツェ史研究は70年代から80年代にかけて経済史から社会史へと大きく転回し,家族史はこの転回の中心に位置していた。星野氏と高橋さんの違いはそのままフィレンツェ史研究の,ひいてはイタリア史研究の大きな変化をも反映しているのである。
 帰国後の高橋さんはサッケッティを巧みに用いて『路地裏のルネサンス』を語り,マフィアや戦争体験のオーラル・ヒストリーにも関心を広めていた。しかし私にはこれらは高橋さんの余技としか思えなかった。高橋さんはいつか必ずフィレンツェに帰って古文書に向かい,精緻な実証研究を発表するであろうと信じていた。勤務先では長期海外出張が回ってくるのを心待ちにしていたという。そうしたとき,かくも早く天に召されることになるとはまことに無念であったろう。心よりご冥福を祈るとともに,Requiescat in paceと申し上げたい。





表紙説明

地中海の女と男12
サーリフ・アイユーブとシャジャル・アッドゥッル/堀井 優


 イスラーム政治史の大部分は男性の事績にもとづいて語られるが,シャジャル・アッドゥッル(「真珠の木」,?〜1257)はアイユーブ朝(1169〜1250)の滅亡とマムルーク朝(1250〜1517)の成立に中心的な役割をはたし,特異な生涯をおくった女性として有名である。彼女はおそらくはトルコ系の奴隷の出身であり,アイユーブ家のサーリフの愛妾となり,1239/40年に一子ハリールを生んで奴隷身分から解放され結婚した。次の転機は,スルタンとなったサーリフの治世(1240〜49)の末年に訪れる。フランスの聖王ルイ9世率いる十字軍がエジプトに侵攻し,迎撃に向かったサーリフはマンスーラで戦いの直前に病没した。シャジャル・アッドゥッルはしばらくその死を隠し,夫が創設した奴隷軍団バフリー・マムルークを指揮して戦いに勝利し,義子トゥーラーンシャーを擁立する。しかし新スルタンはマムルークの勢力を抑えにかかったので,彼らはスルタンを暗殺してシャジャル・アッドゥッルを推戴し,新しい王朝を樹立した。こうして彼女はマムルーク朝初代スルタンとなったが,女性君主の出現に対する内外の反発のため,約3ヵ月後にマムルーク出身の総司令官アイバクにスルタン位を譲り,彼と結婚したうえで,依然として実権を握り続ける。しかしアイバクは自らのマムルーク軍団を養成して自身の権力基盤を強化し,さらに1257年にはイラクのモースルの実権者の娘を妻に迎えようとした。この動きに脅威を感じたシャジャル・アッドゥッルは、アイバクを城塞の宮殿内の浴場で殺害する。しかしアイバクが別の妻ともうけた息子アリーの擁立をはかる勢力が 台頭するなかで,彼女もまた殺害され,遺体を城塞の外に投げ捨てられることになる。
 シャジャル・アッドゥッルは,夫サーリフの築いた権力基盤によって政治力を発揮しえたが,その地位には女性権力者であるがゆえの不安定さが伴っていたといえよう。新王朝が成立した頃に彼女が建てた,サーリフと自身の墓廟は,彼女の複雑な立場を想像させて興味深い。すでにサーリフは,その治世に,カイロ市街(現在のイスラミック・カイロ)の中心部に,スンナ派の四法学派を教育するマドラサ(イスラーム学院)を設立していた。彼の死後の1250年,シャジャル・アッドゥッルは,ここに夫の墓廟を併設した(表紙上段)。そしてナイル川の中洲ローダ島の宮殿に安置されていたサーリフの遺体を,この墓廟まで盛大な行進とともに移送させた。サーリフのマドラサはマムルーク朝期・オスマン帝国支配期(16〜18世紀)に法学教育や司法行政の一拠点として機能したので,彼の墓廟もまたカイロ市民に馴染み深い建造物となる。一方シャジャル・アッドゥッルは,自らの墓廟を,カイロの南に広がる墓地区に建てた(表紙下段)。その周囲には,シーア派第6代イマームのジャーファル・アッサーディクの息子ムハンマドや,その他預言者一族に属する女性サイイダ・アーティカ,サイイダ・ルカイヤ,サイイダ・ナフィーサのものとされる墓廟がファーティマ朝期からあり,その雰囲気は政治的威光よりはむしろ宗教的聖性を印象づける。彼女は1257年に殺害されたが,その遺体は城塞の外に数日間放置されたのち,そこに葬られることになった。