学会からのお知らせ

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第13回「地中海学会ヘレンド賞」(第12回受賞者:芳賀京子氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(30万円:星商事提供)が授与されます。授賞式は第32回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2008年1月8日(火)〜2月12日(火)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第32回地中海学会大会
 第32回地中海学会大会を2008年6月21日,22日(土,日)の二日間,早稲田大学(東京都新宿区)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2008年2月8日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報304号(11月)に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。


会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行 九段支店 普通 957742
    三井住友銀行 麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2008年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度から会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2007年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報304号(11月)に同封してお送りしました。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成しています。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
 2008年2月25日(月)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2008年4月23日(水)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
お申し込み人名等:「口座名義人」の他に「お申込人名(会員名)」等の欄が振替依頼書の2枚目(青色)にありますので,こちらもご記入下さい。
会員用控え:3枚目(黒色)は会員用です。お手元にお控え下さい。


事務局冬期休業期間:
 2007年12月27日(木)〜2008年1月7日(月)













『健康全書Tacuinum Sanitatis
──地中海における文化交流の一つのあらわれ──

山辺 規子


 中世から近世にかけて,ヨーロッパの大学の医学部において,もっとも基本的な医学書として用いられたのは,イスラームの医学者イブン・スィーナー(アヴィケンナ)の『医学典範』であることはよく知られている。古代ギリシア・ローマの医学の伝統を引き継ぎ,インドの薬学などの知識を加味して,さらにさまざまな形で発展したイスラーム医学は,中世半ばに有名なサレルノの医学校を筆頭に,ヨーロッパの地中海沿岸各地で受容されていった。その過程では,アラビア語で書かれたさまざまな書物がラテン語に翻訳されていったが,その中の一つがTacuinum Sanitatisである。
 この書物は,11世紀にバグダッドで医学を学んだ東方系キリスト教徒であるイブン・ブトラーンが,健康のために役立つ食物などの情報をわかりやすく表にまとめたTaqwīm al-Sihhaをラテン語訳したものである。直訳すれば,『健康表』であるが,健康に関するさまざまな知識がまとめられているということで,しばしば『健康全書』という名前で呼ばれている。この書物が最初にいつどこでラテン語に翻訳されたかははっきりしないが,少なくとも13世紀半ばにはシチリア王国で翻訳されたものが存在したことは間違いない。
 本来表にすることで簡潔にまとめられたこの書物の健康に関するデータは,さらに別の利用がなされることになる。このデータをもとにして,おそらく14世紀末の北イタリアで,図版を中心とした写本が作成されることになったのである。
 もともとイブン・ブトラーンが健康を維持するために生活に気をつけるべきことをまとめただけあって,この写本の図版では,さまざまな生活が描かれ,結果としてこの写本が中世後期のヨーロッパの生活を描いたものとして注目されることになった。特に知っておくべきなのはさまざまな食物の性質なので,図版もまた大半が食に関するものである。
 図版がついたTacuinum Sanitatisは,14〜16世紀に数種類作成されたが,もっとも有名なのは現在ウィーンの国立図書館にある写本である。
 たとえば,右上に示したのは,そのうちの「コメ」に関するものである。ここでは,コメは商店で量り売りの形で売買されるものとして描かれている。他のコムギをはじめとする穀類が畑で収穫されている様子が描かれているのとは対照的である。

Riçon(コメ), Tacuinum Sanitatis,
Cod.Vind. Series nova 2644, fol.46r.




 コメは,既に古代地中海世界でも外来の植物として知られることは知られていた。また,スペインではイスラームの進出とともに,その生産が始まったとされるが,イベリア半島全体としてみると本格化するにはまだ時間を要した。イタリアでは,15世紀ミラノのスフォルツァ家によってポー川流域で本格的に稲作がされるようになったとされるので,この『健康全書』のウィーン写本が作成されたとされる14世紀末だと,おそらくコメはまだ香辛料と並んで「東方から輸入されるもの」であったものと思われる。そのため,図版を制作した工房の画家たちは,おそらく薬屋のような人物が高価なものとして量り売りしている図を描いたものと思われる。
 このように,『健康全書』は,そもそもの記述内容からして地中海を舞台にしてなされた交流の成果であり,さらに図版としてつけられた図からも,中世後期の交流のありようがうかがわれる書物である。いわば,地中海世界が,中世においてもさまざまな文化や「モノ」の交流の場であったことを示してくれる生き証人とでもいうことができよう。









地中海学会大会 地中海トーキング要旨

巡礼と観光
──瀬戸内海と地中海──

パネリスト:大原謙一郎/関哲行/田窪恭治/司会兼任:桜井万里子


 初日に恒例の地中海トーキングは,「巡礼と観光」というテーマで,かの「システィーナ礼拝堂」で行われた。
 トーキングは,まず桜井が古代ギリシアにおける巡礼をどう考えるか,簡単に説明した。「巡礼」を宗教上の聖地を複数まわって参拝することと解釈すれば,古代ギリシアではそのような事例は確認できない。宗教が共同体挙げての儀礼の実践であって,個々人の内面の問題ではなかったからである。ただし,有名な四大神域(オリンピア,デルフォイ,ネメア,イストミア)で開催された祭典の参加者やアテナイのエレウシスの秘儀の入信者が,国境をいくつも越える旅をしなければならなかったことは確かだが彼らの道中の安全を図って武力停止(「神聖休戦」)が実践された。古代において外国旅行は危険と背中合わせの難事だったため,異国で受け入れてくれる人がなければほとんど不可能で,そのために互いに異なるポリスに所属する者同士が,友好関係を結び,自国に来たときには受け入れて歓待する(後述の「お接待」に近い?),という関係が築かれていた。これは社会的エリート層のあいだに成立していた関係だったが,「神聖休戦」の制度の成立によって,一般庶民も全ギリシア的な祭典への参加のために他国を旅する事が可能となった。
 「巡礼と観光」というテーマには,いささか場違いの印象をもたれたに違いない古代ギリシアに比べ,『スペイン巡礼史──「地の果ての聖地」を辿る』(講談社現代新書)の著者である関哲行氏は,このトーキングのテーマにピッタリのサンティアゴ巡礼を紹介された。
 イェルサレム,ローマと並んで,中世ヨーロッパの三大聖地の一つであったサンティアゴ・デ・コンポステーラは,終末論やキリスト養子説を背景に,教会と王権がイスラムとの境界地域に9世紀初頭に意図的に創出した聖地であった。病気治癒や危機回避などの現世利益と霊的救済を求めて発願した巡礼者は,苦難の長旅の後,ようやく参入儀礼を経て「神の貧民」となったが,途上で出会う様々な不法行為から身を守る為に数人から数十人の巡礼講を組織するとともに,巡礼路諸都市の施療院で無料の食事・宿泊サービス,医療・宗教サービスを受け,途上の諸地方の言語や習俗などの観光資源にも目を向けた。中世の巡礼が観光と無縁ではなかった,と関氏は持論を説得的に展開された。この指摘によって,今回のテーマ「巡礼と観光」は確固とした方向性を得た。関氏は,実証という基本線を最後まで堅持し,トーキング全体が
アカデミックなトーンで纏まるのに大いに貢献された。
 芸術分野からは大原謙一郎氏(大原美術館理事長)とアーティストの田窪恭治氏(金刀比羅宮文化顧問)が参加された。お二人は,瀬戸内海をはさんだ両岸で提携関係を結んでいる大原美術館と金刀比羅宮のあいだで美術作品の交換や共同研究を続け,積極的な文化交流を進めておられる。瀬戸内文化圏の形成が始まっているようだ。
 田窪氏からは,現在携わっておられる金刀比羅宮の壁画修復と琴平山再生についてDVDの画像を用いながらの紹介があった。円山応挙の障壁画もさることながら,田窪氏が子供の頃に目にする機会を得たというエピソードとともに紹介された伊藤若冲の作品は,最近の若冲ブームと相俟って注目を集めた。しかも,田窪氏ご自身が作成中の障壁画の主題は椿だという。フランス,ノルマンディーにおけるサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂の10年間におよぶ復元活動についてもお話いただいたが,ノルマンディーの礼拝堂の主題は林檎であった(田窪恭治『林檎の礼拝堂』集英社,1998)。椿と林檎のあいだに何らかの関連性を見出すこともできるのではないか。
 信仰と美術の深い関係へと思索を促されるなかで,次に大原氏のお話を伺う。氏は,まず大原美術館理事長としての美術館運営の姿勢をご紹介くださった。日本文化が「関東文化モノカルチャー」化していることの危機を指摘され,多文化構造の日本文化の価値を瀬戸内から発信する姿勢を語られた。さらに,瀬戸内に根を持つお一人として「瀬戸内人」に特徴的な,瀬戸内沿岸に広く及んでいる真言宗の「お接待」の心を指摘された。その心こそが,四国八十八箇所の巡礼者たちを支え続けてきたのだ。倉敷の人々ももちろんその心を強くもち続けており,その心を具現化する装置の一部として大原美術館も位置づけることができるという。日本の地中海である瀬戸内海の特質が,強いインパクトをもって私のような関東人にも迫ってきた。
 「お接待」あるいは客人歓待の心は,古代ギリシアの旅や中世のサンティアゴ巡礼,四国巡礼の存続を支えた。この歓待の心は今後も観光発展に大いに寄与するだろう。瀬戸内の観光が今後ますます振興することを願いながらトーキングは終了したが,瀬戸内人の「お接待」の心は,現実に大会参加者の全員が感得し,納得したのであった。
(文責:桜井万里子)








地中海学会大会 シンポジウム要旨

二つのシスティーナ礼拝堂

基調報告:若桑みどり/パネリスト:秋山学/園田みどり/真野響子/司会兼任:石川清


 第31回地中海学会大会シンポジウム(大塚国際美術館)が大会2日目(6月24日)に,美術館10周年記念事業として大塚オーミ陶業の陶板制作技術によって再現されたシスティーナ礼拝堂の中で,「二つのシスティーナ礼拝堂」と題して開催された。
 若桑みどり氏(千葉大学名誉教授)による基調講演,続いて,典礼史の立場から秋山学氏(筑波大学),音楽史の立場から園田みどり氏(東京芸術大学),演劇・女優の立場から真野響子氏,建築史の立場から石川清(愛知産業大学)がそれぞれパネリストとしてシスティーナ礼拝堂に関わる発表を行った。
 若桑みどり氏による基調講演「システィーナ礼拝堂の歴史的意味」から口火が切られた。
 教皇シクストゥス4世によって発願されたシスティーナ礼拝堂は,聖母マリアの被昇天に捧げられた。それは祭壇画がミケランジェロの《最後の審判》によって消し去られる前にペルジーノによる《マリア被昇天》があったことからも明らかである。教皇庁の心臓部にあるこの礼拝堂も当時ヨーロッパを揺るがした政治的かつ宗教的事件の影響を免れることはなかった。ロレンツォ・デ・メディチ死後弱体化したイタリアにフランス王シャルル8世が侵攻する。おそらくそれはイタリア人にとって,預言されたこの世の終末を想起させるものであったにちがいない。終末の預言者であったフィレンツェのサン・マルコ修道院長サヴォナローラは,教皇庁の腐敗を激しく断罪した。教会の復興と再生というルター以前の宗教改革を実現したサヴォナローラは,教皇アレキクンデル6世によって処刑されたが,ミケランジェロに終生忘れ得ない影響を与えた。
 しかし,その後シクストゥス4世の甥であるユリウス2世は,アレクサンデル6世の軍事的な教会政治ではなく,文化の力でカトリックを復興しようとした。ミケランジェロは,ユリウス2世の野心と情熱を共有する形で,1508年から1512年の間に《万物の創造》を示す天井画を描くことになる。宇宙最初の瞬間からノアの箱船までの場面に教会による救済を重ね合わせた。1527年のローマ劫掠は,教皇庁を皇帝権の前に跪かせた。クレメンス7世はミケランジェロに《最後の審判》を描かせた。それは共和国フィレンツェをせん滅したクレメンス7世とそれを守ろうとしたミケランジェロの二人によって計
らずも実現された。その後異端審問の時代の中で,これほど消し去られる憂き目にあった絵画は他にないという。議論百出の研究領域の中で論争のないところに未来はないと言い切る氏の研究姿勢に深い感銘を受けた。
 秋山学氏からは,典礼と暦を中心にシスティーナ礼拝堂をめぐるローマ教皇史が語られた。システィーナ礼拝堂の献堂式は聖母被昇天の祝日(8月15日)に行われ,天井画と祭壇画が完成した折にはいずれも万聖節(11月1日)に祈祷が行われている。16世紀のトリエント公会議において採択された『ローマ時祷書』(1568)から遡ることで,15,16世紀当時の典礼の次第を探り,あわせて改暦運動が展開されていた当時の同時代史・教皇史に照らすことで,システィーナ礼拝堂の意義が再確認された。
 園田みどり氏からは,システィーナ礼拝堂と音楽との関わりの中で,パレストリーナ(1525/26〜1594)が採りあげられた。彼は当時からローマ・カトリックを代表する「教会音楽の父」とみなされ,対抗宗教改革の理念を音楽において実現し,《教皇マルチェルスのミサ曲》はその象徴とされる。このミサ曲は,「礼拝における音楽が世俗的な要素を排したものでなければならず,その歌詞は明瞭に聞き取れなければならない」とする教会側の要請(1563年)に見事に応えて,トリエント公会議の折に廃止の憂き目に逢いかけていたポリフォニーによる教会音楽を救ったことが語られた。
 真野響子氏からは,フィレンツェの《天国の門》修復の折,あるいは日曜美術館担当時に向き合ったミケランジェロの作品に対する感想が述べられ,本業以外の仕事にがんばってしまうミケランジェロが自らの経験と重ね合わせて語られた。また,ミケランジェロの直の叫びとしての詩が朗読された。
 石川清からは,アヴィニョンから帰還後,15世紀の教皇庁によるヴァティカン内の建築整備とローマの都市整備が概観され,その一連の整備の中にシスティーナ礼拝堂建設の位置づけがなされた。
 若桑先生の気力溢れる講演,氏を囲んでの打ち合わせ,束の間の語らいがまさか最後になろうとは思いもよらなかった。教えていただきたいことがまだたくさんあったこと悔やまれてならない。謹んでご冥福をお祈りする。
(文責:石川清)








地中海世界・アラブ社会の親族・イトコ婚

岩崎 えり奈


 かつて,親族・家族は,地中海世界,なかでもアラブ社会の研究において,花形の研究テーマであった。ことに1950年代から1960年代には,父系性,内婚制などの特徴はアラブ社会の基本構成原理として注目を集め,分節社会論など,親族研究に基づいたアラブ社会の説明モデルが生み出されたことはよく知られている。
 しかし,1970年代以降,親族や家族,婚姻自体の研究はあまり流行らなくなった。一見すると,父系親族同士で社会集団が組織されたり,父系親族集団における内婚が多かったりするようにみえたとしても,実際には,父系親族集団の内部に父系親族でない者も含まれていたり,配偶者の選択が母方親族や姻戚関係のなかでなされていたりする。そこから,父系親族集団は社会組織というよりも,社会・政治的な文脈のなかで人々が戦略的に用いる観念として捉えるべきであり,父系親族集団がアラブ社会において重視されているとすれば,それはどのように人々が親族や家族を認識しているのかという認識やアイデンティティの問題であると考えられるようになった。さらに,研究の流れとして,家族や親族からジェンダーや個などのテーマに研究の視点がシフトしたことも,研究が少なくなった理由として指摘されよう。
 しかし,今日においても,親族集団がアラブ社会の人々にとって重要であることは明らかな事実である。ここでアラブ社会の親族集団の特徴とされる父方イトコ婚について取り上げよう。この婚姻形態のなかでも,父方平行イトコ婚,つまり父方のオジの子供同士の婚姻は,理想の結婚として語られるだけでなく,現実にも多く行なわれている。
 例えば,途上国を対象に定期的に実施されている『人口保健調査』(DHS)によると,15歳から49歳までの既婚女性のうち,エジプトでは,親族と結婚した女性が33.3%を占める(2005年)。また,11%が父方イトコとの婚姻であり,母方イトコとの婚姻(6.5%)よりも二倍多い。さらに直接的なイトコ以外の父方親族について含めると,父方親族との婚姻は15.4%に上る。
 他のアラブ諸国については,父方と母方の区別はなされていないが,イトコ婚はアルジェリアでは26%(1992年),レバノンでは18%(1996年),リビアでは43%(1991年),スーダンでは56%(1992/93年),シリアでは35%(1993年),チュニジアでは14%(1988年)である(『母子保健調査』,チュニジア1988年『労働力標本調査』)。そして,この割合は年によってあまり
変化していない。つまり,どの国でも出生率の低下に伴い,いとこの数が減っているにもかかわらず,相変わらず,いとこは最も選ばれる婚姻相手なのである。
 私自身が関わった調査(科学研究費補助金基盤研究「エジプト社会経済関係基礎データの蓄積と学際的分析──世帯調査とGISの接合を中心に」研究代表者:加藤博)では,父方イトコを配偶者にもつ世帯主は,下エジプトのA村では11%であるのに対して,上エジプトのS村では26%であった(2003/04年)。もちろんこの数字には,直接的な父方イトコしか含まれておらず,祖父やそれ以上の世代の人々の子孫同士の婚姻を含めると,父方親族との婚姻はそれぞれ17%と51%になる。したがって,一般的には,都市よりも農村においてこの婚姻形態は多いが,農村のなかでも地域によって違いがある。
 では,なぜそのような結婚が好んで行なわれるのか,という疑問に対して,上エジプトのS村の,二人の娘が夫の兄弟の息子と婚約した先代村長夫人は次のように答えてくれた。「二人の娘が自分の近くに住み,同じ生活水準が送れるようにするためには,すぐ隣に住んでいて,同じアーイラ(父系親族集団)である夫の兄弟の息子たちが最良の相手である。」
 ここで彼女が指摘した理由の背景にあると考えられるのは,二つの村の社会経済的な違いである。上エジプトのS村は遠隔地にあり,村民は農業と産油国への出稼ぎによって生計をたてている。そして,先代村長夫人のアーイラとそれ以外のアーイラの間で所得階層間の格差が大きい。これに対して,下エジプトのA村はカイロに近い都市近郊農村であり,村民はS村よりも教育水準が高く,公務員などの非農業活動を盛んに行なっている。また,村民の間ではっきりした所得階層の差はみられない。
 このような社会経済的な違いと親族構造の関連について整合的に説明することは目下の課題であるが,現時点において少なくとも言えることは,立地や人的資本の状況,経済活動とその結果としての所得階層構造と,親族構造とが密接に結びついていることである。もちろん,だからといって,かつてのように親族構造のなかで社会経済的な現象を説明すればいいというのではない。重要なのは,おそらく地域によって異なる社会経済的な発展のパターンがあり,それに応じて親族集団の社会経済的な重要性も変化すると考えられることである。このような観点から分析することで,今日のアラブ社会における親族の社会的意味は明らかにされるだろう。








自著を語る52

私市正年・佐藤健太郎編『モロッコを知るための65章』

明石書店 2007年4月 342頁 2,000円(税別)


私市 正年


 人間関係と同じように,特定の地域社会との「つきあい」も長い間続けていると,好きな面だけでなく,いやな面も目に付くようになる。
 『モロッコを知るための65章』の執筆(編集)を依頼されたときに,真っ先に浮かんだのは「好きなモロッコ」と「嫌いなモロッコ」をいかにうまく按配するか,ということであった。
 モロッコはアラビア語で「マグリブ・アクサー」(「西の果て」)とよばれる。モロッコの魅力の一つは,この最果ての地の文化,ではなかろうか。この「最果て」というのは,「場末的」退嬰感,と「周辺的」革新性を兼ね備えた魅力である。「大麻」(20章)はヒッピー文化と結合しており,「アンダルス音楽」(23章)は貴重なアラブ・イスラーム文化を伝えている。
 本書の序文でも記述したことであるが,外国旅行の大衆化現象の象徴でもある「地球の歩き方」シリーズで「モロッコ版」はエジプト(22番)やトルコ(21番)よりも早く,11番目に刊行されている。では観光の魅力はどこから来ているかというと,古い世代は映画の「カサブランカ」や「モロッコ」のオリエンタリズムの魅惑ではなかろうか。「オリエンタリズムとツーリズム」という部題(VII部)を設けて映画,絵画,音楽,世界遺産などを取り上げたのは,こうした観光の魅力の背後にある問題を描き出そうとしたからである。実際に,「日本の歌謡曲」(64章)の中で言及しているように,「マラケッシュ」(松田聖子)には,アラブ・砂漠・イスラーム(ベール)の三つが結合されており,「月の砂漠」以後の日本人のアラブに対する「エキゾチシズム」がのどかなイメージだけではなくなっていることがわかる(ある種の危険なイメージの歪み)。
 観光客としてモロッコを訪れると気づかないかもしれないが,外国人を歓迎してくれる明るいイメージ,比較的自由にお酒の飲める(観光客が泊まるホテルという特殊な空間において)穏健なイメージとは異なる,「ずるい」あるいは「怖い」モロッコがあることも事実である。「西サハラ問題」(43章)や「アル・カーイダとつながるイスラーム過激派」(58章)などがそれを物語っていよう。
 モロッコの外交政策を見ていると,ポーズ(賛成にせよ,反対にせよ)を示すことだけですまし,本格的な問
題に深入りすることを避ける傾向がある。それがプラグマティズム外交(45章)といわれる所以であるが,これは個人的関係になると「ずるい」という印象になる(私の個人的体験であるが,実際にだまされたことが何度もある)。
 全体の構成は7部65章からなっている。執筆者は19人。第I部「生態的多様性と豊かな自然の恵み」,第II部「地域史のなかのモロッコ,世界史のなかのモロッコ」,第III部「文化におけるローカリズムとグローバリズム」,第IV部「聖性とタブーの空間」,第V部「内なるモロッコ,外なるモロッコ」,第VI部「伝統と革新―政治・社会・文化に見える両面性」,第VII部「オリエンタリズムとツーリズム」である。
 モロッコに関する書は専門書も一般書も非常に少ないが,本書には初めて考察されたオリジナルな章も入れてある。たとえば,「モロッコへのタバコの伝来」(21章),「フランス語マグリブ文学」(28章),「暦に見える伝統社会」(49章),「シャンソンから見たモロッコ」,「日本の歌謡曲から見たモロッコ」(64章),「青年海外協力隊が築いた日モ交流史」(65章)などがそうである。
 クスクス,タジン,ミントティーの歴史・文化の章(17〜19章),たこ,いか,マツタケなどの食材と日本の台所との意外なつながりを記述した章(5章)など私たちの日常生活と密接な関係についての記述も多い。だが「モロッコ・いんげん」,「コーヒー論争」,「江戸幕府からモロッコ国王に送られたという書簡(?)」などの考察が宿題として残ってしまった。執筆者の大半が若い方だけに,「以前,書いた原稿の焼きなおし」ではなく,新たに入手した資料や情報を分析したオリジナルな内容の原稿が多い。読者の方にはぜひその意気込みを感じていただきたいと思う。
 本書の執筆者たちの共通の思いは,普通の人の目線からの地域理解である。学術研究のテーマにはなりにくい日常生活に関するテーマをあえて取り上げたのはそういう思いからである。
 最後にクイズ。鳥羽一郎「カサブランカ・グッバイ」,郷ひろみ「哀愁のカサブランカ」,沢田研二「カサブランカ・ダンディー」。このうち,モロッコのカサブランカと無関係の曲が一つあります。どれでしょうか? 答えは本書64章をご参照ください。





表紙説明

 地中海の女と男10
ティツィアーノの《聖愛と俗愛》/高橋 朋子


 ローマのボルゲーゼ美術館に所蔵される《聖愛と俗愛》と呼ばれるティツィアーノのこの作品(スペースの都合で両端をトリミング)は,イタリア・ルネサンスを代表する名作の一つである。画面の中央には意味深長な浮き彫りが施された石棺らしきものが置かれているが,よく見るとそこには水が満たされており,泉のようでもある。クピドがその水をかき混ぜていて,浮き彫りのちょうど真中あたりから蛇口のようなものが突き出していて,そこから水が勢いよく流れ出ている。泉の両端には着衣の女性と裸体の女性が座し,それぞれの背後にはこれまた何か意味深そうな風景が広がっている。
 この作品の解釈に関しては多くの碩学が様々な解釈を提出してきた。着衣の女性を「地上のウェヌス」,裸体の女性を「天上のウェヌス」とし,新プラトン主義の哲学に基づいた「双子のウェヌス」とする解釈は最もよく知られたものであろう。
 では一体この作品が「地中海の女と男」のテーマにどのように関わるのか? それはこの石棺を思わせる泉の浮き彫り中央に描かれた紋章が手がかりとなる。この紋章はヴェネツィアの有力市民であり書記官でもあったニッコロ・アウレリオのものであった。彼は1514年にラウラ・バガロットという女性と結婚したが,この女性はパドヴァの名門貴族の出自であった。貴族同士の結婚が常識であった当時としては異例の結婚であったといえる。昨今の流行に習って言うならまさしく格差婚ということになる。こうした結婚が成立するにはそれなりの背景があったと考えられる。
 元々彼女にとっては再婚であった。彼女の元の夫は,1509年ヴェネツィアがパドヴァをドイツ皇帝から奪回するために戦ったパドヴァ戦でドイツ皇帝の側についたため,ヴェネツィア政府によって処刑されたパドヴァの貴族であった。彼女の父親もまたパドヴァの有力貴族で,この時ヴェネツィアを裏切った罪で処刑された。つまり彼女は夫と父という最大の保護者を両方失ったのである。しかもヴェネツィア政府によって財産も没収されたらしい。こうした困難な状況にあった彼女にとって,ヴェネツィア政府の高官と再婚することはたとえ相手が市民階級であったとしてもその意義は大きく,つまり彼女の名誉がヴェネツィア政府によって回復されたことを意味するのである。
 この当時の結婚で実際最も望まれたことは,結婚による子孫繁栄であった。確かに花嫁を想像させる着衣の女性の背後には「多産」の象徴であるウサギが描きこまれている。「多産」は一方的に女性に求められる「価値」だと思いがちであるが,故ローナ・ゴッフェン氏は,この作品では男性側の「繁殖力」も暗示されているという。それは泉から水を放出している突き出た蛇口に象徴される。しかもこの蛇口には彼の紋章が添えられているのだからこの指摘には納得してしまう。
 ティツィアーノはこの結婚記念画を描くにあたり,夫と妻の両家の,しかし特にラウラ・バガロットにとって切実な願いであった「家系存続」と「子孫繁栄」への期待を十分に汲み取り,堂々としたエロティシズムを発散させる花嫁を描いたのであろう。