第31回地中海学会大会

◇開会宣言・挨拶  ◇記念講演


◇ヘレンド賞授賞式 ◇懇親会
◇地中海トーキング


◇シンポジウム










学会からのお知らせ

*第31回地中海学会大会
 さる6月23日,24日(土,日)の二日間,大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)において,第31回地中海学会大会(30周年記念大会:大塚国際美術館後援)を開催した。会員121名,一般約180名(美術館募集参加者を含む)が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中,1名の新入会員があった。参加者には大塚国際美術館より『西洋絵画300選』他,NTTデータジェトロニクス社よりディジタル版『SPAZIO』を,また懇親会にはメルシャンよりワインを,それぞれ提供いただいた。この場を借りて御礼申し上げます。
 次回大会は,早稲田大学(東京都新宿区)で開催する予定です。

6月23日(土)
開会宣言・挨拶 13:00〜13:10 大塚明彦大塚国際美術館館長
記念講演 13:10〜14:10
 「大塚国際美術館 空想と現実の美術館」                青柳正規
地中海トーキング 14:25〜16:25
 「巡礼と観光──瀬戸内海と地中海」
  パネリスト:大原謙一郎/関哲行/田窪恭治/
  司会兼任:桜井万里子
美術館見学 16:40〜17:50 (自由見学)
懇親会 18:00〜20:00
6月24日(日)
研究発表 10:00〜11:40
 「テオクリトス第5歌における山羊飼い──牧人の社会的身分と人物像について」 小見山直子
 「ヴェネツィアの貴族とスクォーラ──スクォーラ・グランデ・ディ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタとヴェンドラミン家の事例から」               和栗珠里
 「地中海地域における「声の文化」とその復興──コルシカ島の「ボーヂ」と「ポリフォニー」について」           長谷川秀樹
総会 11:40〜12:15
授賞式「地中海学会ヘレンド賞」 12:15〜12:30
シンポジウム 13:30〜16:30
 「二つのシスティーナ礼拝堂」
  基調報告:「システィーナ礼拝堂壁画の歴史的意味」         若桑みどり
  パネリスト:秋山学/園田みどり/真野響子
  司会兼任:石川清

*第31回地中海学会総会
 第31回総会(鈴木董議長)は6月24日(日),大塚国際美術館で下記の通り開催された。
 審議に先立ち,議決権を有する正会員611名中(2007.6.20現在)600余名の出席を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2006年度事業報告・決算,2007年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2006年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
議事
一,開会宣言       二,議長選出
三,2006年度事業報告  四,2006年度会計決算
五,2006年度監査報告  六,2007年度事業計画
七,2007年度会計予算  八,役員人事
九,閉会宣言

2006年度事業報告(2006.6.1〜2007.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXX発行 2007.5.31発行
 「ヘレニズム時代の巨大船τεσσαρακοντήρηςについて」       丹羽 隆子
 「マーゾ・フィニグエッラと15世紀フィレンツェの素描文化」          伊藤 拓真
 「ラウネッダスの舞踊曲の「理論」と「実践」──ラウネッダス奏者の言説の考察を通して」                   金光 真理子
 「史料紹介 紀元前4世紀アテナイの対外交渉と贈収賄」              佐藤 昇
 「書評 芳賀京子著『ロドス島の古代彫刻』
篠塚 千恵子
 「書評 金原由紀子著『プラートの美術と聖帯崇拝──都市の象徴としての聖遺物』」京谷 啓徳






 「書評 大黒俊二著『嘘と貪欲──西欧中世の商業・商人観』           和栗 珠里
 「研究紹介 Marina Thomatos, The Final Revival of the Aegean Bronze Age: A Case Study of the Argolid, Corinthia, Attica, Euboea, the Cyclades and the Dodecanese during LHIIIC Middle」     高橋 裕子
2.『地中海学会月報』 291〜300号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於東京大学本郷キャンパス)
 「近世初頭オスマン朝下エジプトのヨーロッパ商人」            堀井 優(10.7)
 「古代ロドス島の彫刻活動」  芳賀 京子(12.9)
 「中世後期シエナの都市景観について」
             片山 伸也(2.17)
 「第三共和政期フランスのアルジェリア地方行政」           工藤 晶人(4.14)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
 秋期連続講演会:「世界遺産への旅」11.4〜12.2
 「南仏アルルのゴッホ,ゴーギャン」木島 俊介
 「ピサ──中世海運国家の栄光」  児嶋 由枝
 「古都アッシジとウンブリア諸都市」池上 英洋
 「モン・サン・ミッシェル──地の果ての異界」
                  小池 寿子
 「グラナダとアンダルシア諸都市」 陣内 秀信
 春期連続講演会:「地中海を旅する人々」
3.31〜5.5
 「サンティアゴ巡礼」       福井 千春
 「古来,旅人はシチリアをめざす」武谷 なおみ
 「戦争と平和の旅人:カエサルとハドリアヌス」
本村 凌二
 「旅をするスペインと旅をされるスペイン」
清水 憲男
 「12世紀地中海横断:異文化圏を旅したイブン・ジュバイル」           高山 博
 「歴史家ヘロドトスの旅」    桜井 万里子
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:該当者なし
2.地中海学会ヘレンド賞授賞
   受賞者:芳賀京子氏
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations, L'Ecole normale superieure刊行書2冊
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「世界遺産への旅」
2.同「神話,伝説,芸術文化の光彩:地中海の都市めぐり」
3.同「地中海への誘い:旅行者や芸術家の眼から見た世界遺産と芸術の宝庫」
VI 会 議
1.常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 6回開催
4.大会準備委員会 1回開催
5.電子化委員会 Eメール上で逐次開催
VII ホームページ
  URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)
  「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第30回大会(於東京芸術大学)6.24〜25
IX その他
1.新入会員:正会員27名;学生会員13名
2.学会活動電子化の調査・研究
3.展覧会の招待券の配布:「ポンペイの輝き」「ルーヴル美術館」「プラド美術館」展(大会にて配布)

2007年度事業計画(2007.6.1〜2008.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌『地中海学研究』XXXI発行
  2008年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(11.17〜12.15,計5回)・春期連続講演会開催
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海への誘い:旅行者や芸術家の眼から見た世界遺産と芸術の宝庫」
VI 会 議
1.常任委員会     2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会   4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
 第31回大会(於大塚国際美術館) 6.23〜24
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

*新役員
 第31回総会において下記の役員が選出された。(再任を含む)
会  長:樺山 紘一
副 会 長:未定(定款により会長決定後)
常任委員:秋山  聰 秋山  学 飯塚 正人
石川  清 太田 敬子 大高保二郎
小佐野重利 片山千佳子 私市 正年
小池 寿子 込田 伸夫 篠塚千恵子
島田  誠 清水 憲男 陣内 秀信
末永  航 高山  博 武谷なおみ
野口 昌夫 福井 千春 福本 秀子
師尾 晶子 山田 幸正 山辺 規子
     渡辺 真弓
監査委員:片倉もとこ 木島 俊介

*論文募集
 『地中海学研究』XXXI(2008)の論文および書評を下記のとおり募集します。
 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
 締切 10月22日(月)
 本誌は査読制度をとっています。投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。

・事務局夏期休業期間 7月30日(月)〜8月31日(金)











春期連続講演会「地中海を旅する人々」講演要旨

旅をするスペインと旅をされるスペイン

清水 憲男


 今回の話しでは,まずフィロロジーの立場から日本語とスペイン語における「旅」の意味を概観した後,旅を「それなりの規模をもった人間集団が,かなりの空間を移動すること」と幅をもたせて理解したうえで,スペインの歴史的流れを考察した。
 スペインはいわゆるイベロ族の存在が確認され,紀元前650年ごろにはギリシアのコロニーがあってみたり,ケルト,ローマ,ビシゴートなどが居を構え,フェニキア,ユダヤ,イスラムなどが錯綜する。スペインをラテンの国と呼ぶのに慣れた我々だが,その内情は複雑で,以下,外部からスペインに入ってきた旅人たちという視点から,さしあたり3種に限定してみる。
 第一はジプシー(ロマニ)。彼らは11世紀にインド・パンジャブあたりを出発して放浪の旅を続け,15世紀にヨーロッパに達している。広く西欧世界に拡散した彼らだが,スペイン,中でも南のアンダルシア地方に多く集中する。つまり空間的にも時間的にも気が遠くなるほど長い旅の「終着点として選ばれた場としてのスペイン」を指摘することが可能だ。
 第二は711年から1492年にかけての,長期にわたるイスラムのスペイン侵攻。ローマによるスペイン征服などと較べるといとも簡単に征服された感があるが,これはローマ,ビシゴートなどとの戦闘に揉まれるなかでスペインの一体化が進み,逆に一網打尽にされやすくなっていたという歴史の皮肉がある。
 第三はあまりに有名な聖ヤコブ巡礼だ。スペインで布教活動をした使徒ヤコブは紀元44年ごろエルサレムで殺され,後にその遺体が天使たちに引かれてスペインのガリシア地方に運ばれ,9世紀になってこの墓が発見されて巡礼が始まった,とされる。ところが聖ヤコブがスペインで布教活動をしたという記述は7世紀後半にならないと出てこない。つまり死後500年以上経過してから,聖ヤコブが実はスペインで布教活動をしていたという話しになる。さらに聖ヤコブの遺体がスペインに運ばれたという言及は,9世紀になってスペインで出回り始める。天のお告げによって聖ヤコブの墓が発見されたとされるのは没後約800年だ。
 国土回復戦争の渦中にあったキリスト教スペインは,具体的な精神的支柱を渇望していた。信仰の裏づけが欲しかったスペイン人にとっては,「我信じるが故に,聖ヤコブの墓あり」だった。セルバンテスは『ドン・キホーテ』の中で「大切なことは見ることなきままに信じ,告白し,肯定し,誓い,そして擁護することなのだ」(I-4)
と言うが,聖ヤコブ巡礼は,この精神に立脚したものだったと言えよう。
 宗教巡礼としての聖ヤコブ墓参は13世紀初頭に衰退し始め,15,6世紀になると衰退は加速する。かくしてスペインは旅をされる国から,今度は旅をする大国に変貌する。言うまでもなく1492年のコロンの新世界到達に嚆矢とするものだ。比喩的な言い方をするなら,きつい運動をしてイスラムという贅肉を取るのにようやく成功したと思っていたスペインが,新世界という途方もない肉を身につけることになったのだ。当時のスペインの歴史家Lopez de Gomaraは新世界には「哲学に反する経験が存在する」と言い,Gonzalo Fernandez de Oviedoに言わせれば,そこには「サラマンカ,ボローニャ,パリのいずこでも学ぶことができない」対象が秘められていた。
 旅をするスペインということで,半世紀後の宣教師の日本到来を加えることも可能だろう。新世界への進出と比較したら小規模だったが,新世界での布教活動のミニアチュール的な展開が見られたのは確かだ。
 こうして大局的に俯瞰した場合,スペインは一つの大がかりな例外を除くと,旅をする国というよりも旅をされる国として特徴づけられ,その基本パターンは現在でもほぼ変わっていない。
 ここで個々の旅人の書き残した資料に着目してみる。新世界に旅したスペイン人が書き残した膨大な記録に関しては,岩波書店から邦訳刊行されている『大航海叢書』や『新世界からの挑戦』だけで一端が知られるが,こうしたクロニカ系統以外にも中世来の旅行記が,百科事典ほどの大部6巻のアンソロジーでスペインで刊行されているばかりでなく,100年余り前にパリで出版されたスペイン・ポルトガル旅行記の目録は858点を拾い,60年ほど前にイタリアで出版された目録は浩瀚4巻,10年余り前にマドリードで出版された,19世紀の旅行記のみに限定したスペイン人の旅行記録集は1,200点余りを網羅している。
 事実誤認を含めた旅の記録は,言うまでもなく第一級の認識の記録として,これから益々高く評価・味読されねばならず,スペインはその意味でも旅の宝庫として,いよいよもって知的に旅されねばならない。最後にスペイン中世文学研究の先駆者A. Huntingtonの名著A Note-Book in Northern Spain, N.Y., 1898を紹介・検討して,今回の話しの締めくくりとさせていただいた。











地中海学会大会 研究発表要旨

テオクリトス第5歌における山羊飼い
──牧人の社会的身分と人物像について──

小見山 直子


 古代ギリシアの牧歌ではヒエラルキーの最上位に牛飼い,中間に羊飼い,最下位に山羊飼いが位置したとの記述がテオクリトスに関する古注にある。しかし『牧歌』第5歌では山羊飼いが羊飼いに歌比べで勝利するため,牧人の詩才の優劣が社会的身分の上下と一致しない。すると,登場人物の性質とその社会的身分の関係に関してこの詩人が独自の考えを抱いていたことが推測できる。
 牧人ヒエラルキーの概念がテオクリトスに存在する証拠が乏しいため,本稿ではテオクリトス以外の二つの作品で牧人ヒエラルキーの概念が人物形成に及ぼした影響を考察して,テオクリトス分析の手掛かりとし,第5歌の山羊飼い勝利における詩人の意図を探る。
 まずロンゴスによる『ダプニスとクロエ』では,牧人ヒエラルキーの序列の原因がダプニスとドルコンのやりとり(1.16.1.1-5.3)に読み取れる。ここでドルコンは牛飼いである自分が山羊飼いダプニスよりも優れており,両者の差は牛と山羊の家畜としての価値の差ほど大きいと語って,自分の優位を強調する。また,山羊飼いの否定的性質,山羊の悪臭がすることなどを挙げて,ダプニスを卑しいとする。山羊飼いが下位とされたのは,この山羊の価値の低さと,山羊を飼うことの否定的性質に起因すると考えられる。また,ここではダプニス自身もドルコンを山羊に例えて貶めようとするため,「山羊」が否定的イメージを伴って表現されていることが分かる。
 人物像に注目した場合,本物の山羊飼い,ダプニスの養い親であるラモンとミュルタレは自発的な善良さに乏しく,容姿は醜く,特に優秀ではない。反対に牛飼いピレタスは社会的地位,性質においてもこの山羊飼い奴隷夫婦より優れており,さらに登場する3人の牛飼いは皆,笛吹きであり,この点でも山羊飼い夫婦とは異なる。
 『ダプニスとクロエ』では無名の山羊飼い(2.33.3.1-4)など,「山羊飼い」「山羊」が肯定的印象を伴う箇所もあるが,上述の通り,ロンゴスは名前の付いた登場人物としての山羊飼いには強い個性を備えさせていない。
 つぎに,ホメロスの『オデュッセイア』における牧人ヒエラルキーと牧人の人物像の関係に注目すると,以下のことが言える。高貴な生まれの豚飼いエウマイオスと牛飼いピロイティオスという2人の忠実な奴隷とは異なり,不忠の山羊飼い奴隷メランティオスは牧人としても劣っている。そして主要な牧人の中ではメランティオスのみが明確に,「奴隷の子」であるため,ロンゴスの場
合と同様,ホメロスの山羊飼いの「劣った」人物像の形成にはその山羊飼い自身の身分における劣勢が関連していると思われる。
 ここでテオクリトス第5歌における山羊飼いの人物像解釈に進む。まず,ロンゴスにおけるヒエラルキーの序列の原因と考えられた2点,すなわち山羊の価値の低さと否定的性質(悪臭)が第5歌でも示されていること(5.23-30, 50-54)を考慮すると,テオクリトスは山羊飼いの社会的劣勢を意識していたと思われる。山羊飼いコマタスと羊飼いラコンの奴隷という身分設定は,言い争いなど,彼らの「下卑た」行動・性質と関係があると考えられているが,コマタス像にはさらに,山羊的な性欲の強さという性質と,主人に鞭打ちを受けたという奴隷としての境遇が書き加えられる(5.116-119)。
 しかし,テオクリトスは山羊飼い奴隷コマタスを単に卑しい笑い者としたのではない。牧歌と神々に対してコマタスは他の山羊飼いと共通する理想的態度を示していることが,テオクリトスのテミス(掟)という言葉の使用方法に確認できる(1.15-17, 5.136-137. Cf.7.45-48)。また,第5歌の終わりでは山羊飼いコマタスが歌比べで羊を勝ち取り,勝利宣言でメランティオスの名前を口にするが(5.150),ここでテオクリトスはこの『オデュッセイア』の山羊飼いと自身の山羊飼いの違いを読者に提示する。コマタスが雄山羊に対して冗談交じりに「去勢する」と脅す点をめぐって本論は『オデュッセイア』とテオクリトス第5,7歌における山羊飼い奴隷と主人の関係に注目する。テオクリトスは自身の山羊飼いの主人との関係を敢えてメランティオスのそれと同様に良好でないものとして描き,しかしそれでも「去勢されない」山羊飼い,主人公としての山羊飼い像を提示する。さらにテオクリトスは山羊飼いの性欲を「卑俗なもの」,嘲笑の種として読者に示すが,同時にその描写に自然の生命力に対する賞賛の念を込めていると思われる。
 第5歌のコマタスによるメランティオスへの言及は,ヒエラルキーにおける身分の卑しさゆえに周辺的扱いや否定的評価を受ける存在であった山羊飼いを独自の視点で捉えなおし,作品の中心に据えるテオクリトスの野心的試みの表れと言えよう。テオクリトスは文学における山羊飼いの社会的地位の低さを意識しつつ,ここではその社会的身分を越えた人物像描写を意図していたと考えられる。











地中海学会大会 研究発表要旨

ヴェネツィアの貴族とスクォーラ
──スクォーラ・グランデ・ディ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタと
ヴェンドラミン家の事例から──

和栗 珠里


 スクォーラScuolaとは,ヴェネツィアで兄弟会(キリスト教的兄弟愛にもとづく世俗または半世俗の相互扶助団体)を指して用いられた語である。スクォーラには貴族も参加していたが,会員の多くは市民cittadini(貴族に次ぐ特権階級)と庶民popolani(貴族と市民を除く一般の住民)であった。また,「大スクォーラ」Scuola Grandeに指定された団体の場合,政府の命令により,15世紀前半以降は会長をはじめとする幹部Bancaの就任資格が完全市民権を持つ市民cittadini originaliに限られるようになった。これは,大スクォーラの幹部という名誉ある地位から,ヴェネツィア共和国の支配階級である貴族をも締め出す措置であった。16世紀の貴族G. コンタリーニは,市民たちは「公的権力と官職のすべてから排除されているが,この方法(=大スクォーラ幹部職の独占)によって名誉欲と野心を満たしている」と述べた。現在でも,スクォーラは市民・庶民の領域であって,貴族は単なる名誉会員として副次的にのみスクォーラに関わったにすぎないという見解が定説となっている。そして,貴族とスクォーラの関係は,いくつかの研究書や論文で付随的に言及されるに留まり,この問題が本格的に論じられることは,これまでなかった。
 スクォーラの歴史はヴェネツィア貴族階級の法的定義(14世紀初期)よりも古く,初期のスクォーラでは会員間の身分の差はなかった。しかし,ヴェネツィアが身分制社会になると,スクォーラ内でも貴族が別格の扱いを受けるようになった。すなわち,貴族は高額の特別料金を支払うことで,幹部職に就く責任をはじめ,さまざまな義務を免じられるようになったのである。商業と政治の両面で多忙な毎日を送っていた貴族たちは,スクォーラの管理運営にたずさわることを名誉と考えるよりもむしろ,忌避した。だが,スクォーラが提供する葬儀とミサのサービスは,死後の魂の救済を真剣に求める当時の人々には大きな魅力であり,貴族も例外ではなかった。彼らは,高額の特別料金を払ってでも,積極的にスクォーラに参加したのである。
 ヴェネツィア国立古文書館所蔵のスクォーラ・グランデ・ディ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ Scuola Grande di San Giovanni Evangelista(以下SGEと略)関連文書のうち,registro11−14は,15世紀後半から16世紀前半,いわゆるルネサンス期の会員名簿であ
る。これらの名簿の分析から,貴族会員の割合がかなり高かったこと(1478年で全会員の約25%),多数の会員を出した特定のクラン(同姓集団)があったことがわかる。このようなクランのうち,とくに注目すべきはヴェンドラミンVendramin家である。同家は,SGEが誇る聖遺物「真の十字架」と深い関わりを持っていた。ジェンティーレ・ベッリーニ画《サン・ロレンツォ橋の奇跡》やティツィアーノ画《聖十字架遺物の前のヴェンドラミン一族》などの絵画史料からは,この聖遺物を通してSGEとヴェンドラミン家が名誉を共有していたことが理解される。また,ヴェンドラミン家の家系図とregistro11−14を照合すると,少なくとも15世紀後半から16世紀前半の間,このクランの男子の大半(貴族会員として計35名)がSGEの会員であったことが確認される。さらに,史料的な裏付けは乏しいながら,聖十字架にまつわるエピソードを題材とする連作絵画の注文など,SGEが行なった芸術パトロネジにもヴェンドラミン家が関わっていた可能性が高い。
 registro11−14には,同家の他にも,バドエルBadoer家,カッペッロCappello家など,一族ぐるみでSGEに参加していた複数の貴族クランが見出される。以上見てきたように,少なくともこの大スクォーラにおいて,貴族会員は,数の上でも質の上でも,従来考えられてきたよりもはるかに重要な要素だったのである。よって,スクォーラを貴族の観点からとらえ直すことは,今後のヴェネツィア史研究にとって必須の課題であると言えるだろう。とくに,スクォーラの文化的パトロネジにおける貴族の関与や,スクォーラを介した人的ネットワークの解明は,ヴェネツィア史研究に多くの実りをもたらすことになるだろう。











地中海学会大会 研究発表要旨

地中海地域における「声の文化」とその復興
──コルシカ島の「ボーヂ」と「ポリフォニー」──

長谷川 秀樹


 「声の文化」の宝庫としての地中海
 地中海沿岸地域は,かつてより「声の文化」が発展していた。グルジアの男性多声合唱(ポリフォニー),日本でもブームとなったブルガリアン・ボイス(女性),アルバニアの伴奏付きポリフォニー,ジェノヴァを中心とするリグリア地方のトラッラレーロ,サルデーニャ島の男性多声合唱,バスク地方の男性多声合唱などをあげることができる。都市国家ジェノヴァの興隆とともに発展したトラッラレーロは別として,これらのポリフォニーはグレゴリウス聖歌が広まる以前から伝統的に歌われていたとされる古いものである。なぜ地中海の帯状地域に「声の文化」が集中したのか? 幾つかの説が既に見られるが,どれも決定的ではない。だが,よく取り上げられるものとしては,(1)地理的条件,(2)経済的あるいは文化的条件,(3)歴史あるいは宗教的条件の三つである。(1)地理的条件とは,「声の文化」が見られる地域はいずれも急峻な山岳が海のすぐ近くに迫る平野の乏しい地形であることだ。(2)は(1)に帰結することであるが,平野が乏しいため,農耕は盛んでなく,変わってヤギや羊の牧畜が主たる経済的営為であり,牧童や羊飼いたちの文化が発展した地域である点だ。(3)地中海はキリスト教とイスラム教,あるいはカトリックと正教会,というように歴史的に長らく宗教のせめぎあいの場となったことである。

 コルシカ島の「声の文化」の定義の問題
 「声の文化」の一地域として特異な位置を占めているのは,フランス領の島,コルシカである。1990年代に「ワールドミュージック」がブームとなり,コルシカの音楽は「コルシカン・ポリフォニー」として,フランス本土でもてはやされた。フランスの音楽量販店では「ポリフォニー」は一つのジャンルとして扱われている。だが,「ポリフォニー」は,コルシカの伝統的な音楽ではない。伝統音楽を再生しているグループもあるが,ほとんどのグループは,「現代音楽」としての「ポリフォニー」を演じているといってよいだろう。「ポリフォニー」と題しながら,「ソロ」のアーティストも多い。実は,「ポリフォニー」という表現自体が,明確な定義を欠いた状態でブームとなり,コルシカの「声の文化」は「音楽市場」の「商品」化されたのである。よって,まずは,コルシカの音楽や歌の明確な定義をしておく必要があ
る。本報告で以降言及する「ポリフォニー」とは,1960年代以降に登場したソロも含めたコルシカの音楽で,島の言葉であるコルシカ語で歌われるもの全般を指す。一方,伝統的な「声の文化」として島に歌い継がれてきたものを「ボーヂ(voci=声)」と呼ぶことにする。

 「ボーヂ」の種類
 ボーヂの起源は不明である。有力な説を要約すれば,島にカトリックが本格的に普及するピサ共和国統治(1077年)以前から「声の文化」が見られていたこと,ただし,その後,グレゴリウス聖歌など教会音楽が広まるにつれて,独自の変化を遂げて,「ボーヂ」に至ったとされる。分類すると大きくは次のようになる。

●教会歌(「賛美歌」だけでなく,人を教会に誘い込む歌も含まれる)すべて多声合唱
 Diu vi salvi, Regina(コルシカ国歌)Kyrie, Sanctus (Messa di i morti), Messa di i viviなど
●俗歌
○多声合唱形式 Paghjella, Terzetti(以上韻文詩)Barbara furtunaなどの散文詩(Versu)
○多声ではない形式(ただし,独唱ではない) Cunstasti, Chjama è rispondiなど

 「ボーヂ」から「ポリフォニー」へ
 「声の文化」は1960年代ごろから急速に廃れる。しかしコルシカでは民族主義が高まり,これに併せて伝統音楽をよみがえらせる動きが始まった。ギターなどの楽器を伴った新しい形態の音楽「ポリフォニー」が誕生する。1970年代になると,現在のコルシカ音楽をリードする「イ・ムブリーニ」,「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」「ティアミ・アディアレージ」「ア・ヴィレッタ」などのグループが誕生する。1980年代,これまでの「民族」や「自治」という島の要求が,ミッテラン大統領の分権政策で部分的に叶えられると,こうしたグループの活動形態や音楽内容が多様化し始める。「ワールドミュージック」の仲間入りをするグループもあるが,地道に島に残って後進の指導をしたり,地元の音楽授業で教えたり,村の祭りに加わるなどの地域密着型,パリに生れ住むコルシカ出身者やその団体に密着する「出稼ぎ型」あるいは「ディアスポラ型」もある。











ヨーハン・アドルフ・ハッセ礼賛
──チャールズ・バーニーによるハッセ=ラファエロ比較をめぐって──

秋山 聰


 昨秋,調べ物のためにドレスデンに数日滞在した折, ゼンパー歌劇場でヨーハン・アドルフ・ハッセのオペラ 『クレオーフィデ』を二度観る機会に恵まれた。題名役 にバーヨ,脇役にケーラーやコルディエといった歌手等 を得ての,チェンバロを立ち弾きしながらのデ・マルキ の躍動感のある指揮による公演は,頭の疲れを和らげ, 耳に愉悦をもたらしてくれる素晴らしいものであった。 この作品は,ヴェネツィアで活躍していたハッセが 1731年にアウグスト強王治下のドレスデンに招聘され 初演した代表作で,大成功を収めた。その後34年に宮 廷楽長に迎えられ,以後30年もの間,この地における 音楽の黄金時代を築くことになった。時のドレスデンに は,ピゼンデル,ゼレンカ,クヴァンツ,ヴァイスなど 今日作曲家として名を残す名手たちが集まっていた。テ オドール・ルソーはこの楽団を欧州随一と称え,そのオ ーケストラ配置図を『音楽辞典』に収載しているが,今 回の上演では,この図に従って第一ヴァイオリンが観衆 に背を向け,指揮者を挟んで第二ヴァイオリンが舞台を 背にするという視覚的にも面白い配置が取られていた。 作中,珍しい楽器によるオブリガート付きのアリアなど が散見されるが,これも手練れの楽団員の各々に腕の見 せ所を与えようという配慮によるものであったのだろ う。 この視聴体験によって俄然興味を??き立てられて,帰 国後,架蔵しながらも碌に聴いていなかった10点ほど のハッセのCDを聴きなおしてみたところ,この作曲家 への興味が高まり,勢い余ってヴォーカル・スコアや学 会報告書などまで入手するに至った。さすがにこれらは 猫に小判の観があるが,いわゆる『バーニー博士のヨー ロッパ音楽旅行記』は美術史を専攻する身にも大いに興 味深く読むことができた。この書は『一般音楽史』の執 筆のために二度に亘りヨーロッパ各地を巡り,代表的音 楽家に面会したチャールズ・バーニーが,その詳細を別 途出版したものである。ハッセには1772年にウィーン において数度会い,親しく言葉を交わしている。自筆作 品目録を所望したバーニーに対し,数があまりにも多す ぎて全てを思い出すことは不可能だと表白しているほど にハッセは多作家だったようで,自分自身を多産な動物 に喩え,「世の良からぬ父親よろしく,子供を養育する ことよりも,生むことの方に一層の喜びを感じた」と冗 談交じりに語っている。 当時ウィーンの楽壇では,メタスタジオ+ハッセ,カ ルサビージ+グルックという二組の台本作家+作曲家コ ンビが競合していたようで,ウィーンを去るにあたりバ ーニーはハッセとグルックを比較しないわけにはいかな いとして,前者をラファエロ,後者をミケランジェロに 喩えて論じている──ハッセが澄明で,適正さを備え, 優美で洗練され,柔和な表現を得意とするのに対し,グ ルックは劇的効果を重視し,恐怖を高めさせる点におい て天才的であり云々……。当代の二大巨頭を巧みに並置 し,優劣を論じないところに,バーニーの英国紳士的な 心性がうかがわれるが,どうもバーニー自身はハッセの 音楽の方に一層の共感を抱いていたようだ。 自身,この旅行記が一見音楽紀行というよりも美術鑑 賞の記録のように思われるかもしれない,と述べている ほどに,バーニーは造形芸術にも造詣が深かった。音楽 家たちからの聞き取りや図書館での文献調査に明け暮れ ながらも,寸暇を惜しんでは教会や美術館を訪れ美術作 品を鑑賞している。その中でも彼の最もお気に入りの画 家は,他ならぬラファエロであった。ヴァチカンでラフ ァエロの壁画を見た折には,損傷のひどさを嘆きつつも, そこには「絵画とデッサンの神」たる画家自身がなお認 められると記している。さらに《アテネの学堂》こそ, この「神のごとき巨匠」の最も偉大なる作品であるとし て,そこに顕現した学識や,明晰さ,適正さ(デコール ム)について嘆賞しているのである。バーニーがラフェ エロを評価する際に用いる形容詞は概ねハッセの音楽に ついて使われるものと一致していることからみて,バー ニーが自らの感性に照らしてハッセの方に親近感を抱い ていたことは確かだろう。 それはともかく,重症の「ながら族」で,勉強をする 際に音楽が鳴っていないと耐えられない身には,ハッセ はこの上なく好ましい。というのもグルックの音楽には 聞き耳を立てざるをえない瞬間が多々あり,読み書きの 作業がしばしば滞ってしまうのである。その点,ハッセ の作品はひたすらに耳に心地よく,程よく鼓舞され,仕 事が大いにはかどるのだ。というわけで,バーニーには けしからぬ態度に映るだろうが,筆者なりにバーニーの 評価に大いに頷きながら,ハッセとその周辺の音楽に浸 っているこのごろである。











チャリティー音楽会「イタリア・サルデーニャ島の音楽と踊り」
を終えて

金光 真理子


 始まりはサルデーニャ島の友人からのメールであった。友人はラウネッダスと呼ばれる,三本の葦笛を組みあわせた楽器の奏者で,三月に来日公演をすることになったという。ラウネッダスを研究してきた私にとって,これは看過できないニュースであった。早速人づてに尋ねたところ,伊丹市立音楽ホール(伊丹アイフォニックホール)の招聘で,サルデーニャから総勢十名の民俗音楽団が来日することがわかった。サルデーニャの音楽を日本で紹介できる,またとない機会である。交渉を重ね,伊丹アイフォニックホールの御厚意と国際ロータリー第2590地区の御協力を得た結果,サルデーニャ民俗音楽団の横浜公演を実現することができた。あらためて心より御礼申し上げたい。
 サルデーニャは地中海でシチリアに次いで二番目に大きな島で,イタリアの中でも独特な文化圏として知られている。たとえば,サルデーニャで話されている言葉はイタリア語の方言の一つではなく,ラテン語から派生したロマンス語の一種と認められている。サルデーニャの音楽もまた独自色の濃いものである。上述のラウネッダスは地中海世界に広く普及した葦笛の一種で,古代ギリシアのアウロスとの関連性も指摘されるが,その三管構成はポリフォニックな演奏が可能な,世界に類をみないものである。もう一つサルデーニャの音楽を代表するのが,テノーレスと呼ばれる男声四部合唱である。咽喉に響かせる独特な発声法は一説によると羊の鳴き声を真似たという。ラウネッダスとテノーレスは伝統的に祭りの舞踊を伴奏してきた。今回の来日メンバーにはラウネッダス奏者とテノーレスの歌い手に加えて踊り手も含まれており,サルデーニャの芸能を包括的に演出することが可能になった。
 企画者として心がけたことは,何よりもまず生の音を楽しんで頂くことであった。メディアが著しく発達した今や,サルデーニャの音楽も録音で簡単に聞くことができる。とはいえ,いやだからこそ,録音とはまったく異なる,実際の鳴り響きは新鮮な驚きをあたえる。事実,ラウネッダスの音色が意外なほど心地よいものであったという感想や,ベルカント唱法もまた特殊な発声法の一つであることを実感したという感想を頂いた。また,音楽を含めたサルデーニャの文化を全体としてイメージ・理解して頂けるよう努めた。さらに,できる限り「一方通行」ではなく,観客もまた参加した感覚を味わえるような演出をめざした。テノーレスの歌い手と踊り手への
インタビューも交え,発声法,衣装,祭りについて彼ら自身の口から語ってもらったほか,ラウネッダスの循環呼吸という演奏技法を試すコーナーも設けた。(サクラの)挑戦者が水の入ったコップにストローで息を吐き続けながら息を吸おうとしては失敗するたびに,会場は大いに盛り上がっていた。アンコールでは観客も出演者と一緒に舞台の上で大きな輪になって踊り,大団円のうちに幕を閉じた。
 終演後の「打ち上げ」の場でのことである。宴も酣の頃,メンバーのリーダーであるラウネッダス奏者の奥さんがおもむろに自家製のミルトの壜を取り出した。ミルトとはギンバイカの実で造った食後酒で,サルデーニャの特産品である。甘くとろっとしたシロップのようだが,アルコール度は高くとても強い。演奏会の成功と日本とサルデーニャの交流を祝して,みんなで一口ずつわけあおうというのである。この自分の家にいる時と変わらぬ「もてなし」のふるまいに,はっと心打たれるものがあった。ただでさえ多い荷物に数々の手土産を持参し,ここ日本でも故郷と同じやり方で好意を示そうとする彼らには,ビジネス精神とは対照的な,いわば誇りが感じられた。客に対してとても親切であると同時に誇り高く,決してみずからの考えを曲げない優しさと強さ──これこそ私が五年来フィールドワークを通して感じてきた「サルデーニャ(人)らしさ」といえるかもしれない。
 大上段に構えていえば,音楽学の究極の命題は「音楽とは何か」である。その命題に音楽学の下位分野(音楽美学,民族音楽学など)はそれぞれの方法でアプローチする。私が専門とする民族音楽学は文化人類学に近く,音楽をとりわけ人間の営みのなかで理解すると同時に音楽を通して人間を理解することをめざすといえるであろう。実際にフィールドワークへ赴いた当初は,しかしながら,非常に効率の悪い学問をやっているように思われた。というのも,考えてみれば当然のことながら,私たちの生活は音楽外のイヴェントの連続であり,一を知るために十の回り道を繰り返すなかで「人間は音楽のみにて生きるにあらず」という事実を痛感することから始まったからである。それでもある時ふとすべての経験がサルデーニャの人々の心性の理解につながっていることを実感すると,途端に音楽というものがこれまでとはまったく違ってみえてきた。終演後のミルトの味は,私にフィールドワークの淡い思い出とともに「サルデーニャらしさ」の実感を一挙に蘇らせた。











図書ニュース




角田 幸彦  『キケロー伝の試み』北樹出版2006年3月/『セネカ』清水書院 2006年4月/『キケローにおける哲学と政治』北樹出版 2006年5月/『ローマ帝政の哲人セネカの世界』文化書房博文社 2007年6月
澤井 繁男 『長編──者の賦』未知谷 2004年10月/『「ニートな子」をもつ親へ贈る本』PHP研究所 2005年7月/『文藝批評 生の系譜』未知谷 2005年8月/『腎臓放浪記』平凡社新書 2005年11月
陣内 秀信 『南イタリア都市の居住空間──アマルフィ,レッチェ,シャッカ,サルデーニャ』中央公論美術出版 2005年4月
鈴木杜幾子 『ボッティチェルリ全作品』共著 中央公論美術出版 2005年11月
田辺  清  『ダ・ヴィンチ・コード展』監修 朝日新聞社・森アーツセンター 2006年4月
丹下 和彦  『旅の地中海──古典文学周航』京都大学学術出版会 2007年6月
根占 献一  『フィレンツェ共和国とヒューマニスト』『共和国のプラトン的世界』以上創文社 2005年10月・11月
深沢 克己  『港町の世界史』全3巻 共著 青木書店 2005年12月〜2006年2月
水原 壽子  『アレキサンダー大王の贈りもの』蒼海出版 2003年12月
嶺  貞子  『イタリア近代歌曲集II』CD フォンテック 2006年9月/『ベレニーチェの劇唱』CD アダムエース 2006年12月
山口惠里子  『椅子と身体──ヨーロッパにおける「坐」の様式』ミネルヴァ書房 2006年2月
横山 昭正  『スタンダールと視線のロマネスク──『パルムの僧院』と『赤と黒』を中心に』広島女学院大学総合研究所 2005年12月/『図録 原爆の絵──ヒロシマを伝える』監修 岩波書店 2007年3月
和栗 珠里  『貧乏貴族と金持貴族』M.ブッシュ著 共訳 刀水書房 2005年12月