学会からのお知らせ



*第31回大会
 第31回地中海学会大会(30周年記念大会 大塚国際美術館後援)を6月23・24日(土・日)の二日間,大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)において下記の通り開催します。

6月23日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶  大塚 明彦氏
13:10〜14:10 記念講演
 「大塚国際美術館 空想と現実の美術館」  青柳 正規氏
14:25〜16:25 地中海トーキング
 「巡礼と観光──瀬戸内海と地中海」
   パネリスト:大原 謙一郎氏/関 哲行氏/田窪 恭治氏
    司会兼任: 桜井 万里子氏
16:40〜17:50 美術館見学(自由見学)
18:00〜20:00 懇親会
6月24日(日)
10:00〜11:30 研究発表
 「テオクリトス第5歌における山羊飼い──牧人の社会的身分と人物像について」  小見山 直子氏
 「ヴェネツィアの貴族とスクォーラ──スクォーラ・グランデ・ディ・サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタとヴェンドラミン家の事例から」  和栗 珠里氏
 「地中海地域における「声の文化」とその復興──コルシカ島の「ボーヂ」と「ポリフォニー」について」  長谷川 秀樹氏
11:30〜12:00 総 会
12:00〜12:30 授賞式
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
13:30〜16:30 シンポジウム
 「二つのシスティーナ礼拝堂」
   基調報告「システィーナ礼拝堂壁画の歴史的意味」  若桑 みどり氏
   パネリスト:秋山 学氏/園田 みどり氏/真野 響子氏
    司会兼任:石川 清氏

 大会、懇親会への参加および二日目の昼食の申し込みについては、大会出欠ハガキにて、6月8日(金)までにご返送下さい。非会員の同伴者がある場合は、その人数も記載してください。
 大会参加費(二日間)は会員(および会員同伴の非会員)1,000円、懇親会費は6,000円です。当日大会受付でお支払い下さい。
 一般(会員同伴以外の非会員)の参加は大塚国際美術館へお申し込み下さい。詳細は美術館のウエブ・サイトを参照下さい(http://www.o-museum.or.jp/ 4月中旬より)。













研究会要旨
中世後期シエナの都市景観について

片山 伸也
2月17日/東京大学本郷キャンパス

 イタリア中部トスカーナ州の丘上都市シエナは,アペニン以北とローマを結ぶフランチジェナ街道沿いに位置し,11世紀以降のヨーロッパ経済の復活と共に発展した。シエナの最盛期に市庁舎の建設およびカンポ広場の整備を行なったノーヴェ(9人)政府(1286〜1355年)が,A.ロレンツェッティに描かせたフレスコ画《善政の効果》には,都市の景観が活き活きと表現されている。
 本研究では,中世後期の都市形成過程において,その世俗的統治権が司教から貴族,中産階級商人へと移行する中で景観に表れる都市の世俗的イメージについて,通りや広場などの公共空間の表層である建物のファサードの分析とそれに関わる都市法令の読解から考察する。
 1269年のコッレ・ヴァル・デルサの戦いにおける皇帝派の敗北と共にシエナでも皇帝派の政府が倒れ,中産階級商人によるノーヴェ政府の時にシエナの都市整備はピークを迎える。政府の主要な機関はそれまで有力貴族のパラッツォに間借りしていたが,有力貴族からの政治的介入を避けるために市庁舎を建設し,旧来の貴族は主要な政府機関の構成員から外される。一方で,ノーヴェの構成員は有力貴族と社会的また事業上の強い絆を持っており,その統治下のシエナは,有力貴族と中産階級との間の権力の共有による社会的均衡によって経済的な安定を得ていたと考えられている。
 シエナの歴史中心地区の建物外壁には,時代ごとに様々な石材が使用されてきた。カヴェルノーゾと呼ばれる石灰岩は12・13世紀に多く使われ,特に有力家族の塔の石材として多用された。構造は煉瓦でありながら,通りに面したファサード面に化粧材として使用される例もあり,その使用分布はフランチジェナ街道沿いの都市域に集中している。カヴェルノーゾを多用した塔の本来的機能が有事における防御であることは否定できないが,有力家族が力を誇示する象徴的意味合いも強かったことを考慮すると,塔の建設が終息する13世紀の住宅建築のファサードに尚もカヴェルノーゾの使用が好まれたのは,塔の持っていた象徴性をこの石材が継承したことによっていると考えることができる。
 一方で,中世後期の多くの住宅建築の外壁には,バッラトイオと呼ばれる木造のバルコニーが取り付けられていた。このような木造の建築要素はシエナ都市内にはもはや現存しないが,支持するための造作であるメンソラがファサードに残存している。メンソラの存在は,その
壁面がバッラトイオによって覆われていた可能性を示すが,だとすると通りに露出しない壁体はそれを支える構造であって,意匠的ファサードとは考えにくい。1270年代に建設されたパラッツォ・トロメイの上層階にメンソラはなく,逆に窓枠上下のコーニスとビフォラ窓という装飾的要素が見られる。バッラトイオの放棄による壁面の露出と装飾的要素の使用との間には明らかな同時性が認められる。市庁舎に見られる窓枠上下のコーニスやリカッサトゥーラ(壁面よりもアーチ面を凹ませる技法)といった装飾要素も,貴族の住宅建築において13世紀半ば以降順次採用されてきたモチーフであり,ノーヴェ政府はそれらの要素を流用しながら,未整備なままであったメルカート(市場)広場に現在のカンポ広場と市庁舎を整備・建設したのだと言える。
 ノーヴェ政府治下の都市法令Il Costituto del Comune di Siena Volgarizzato nel 1309-1310はラテン語原文からの俗語訳で,1309年後半から1310年前半にかけて編纂された。多くは既存の法令の改定と再録で、都市整備に関わる条文は主として第三巻に集録されているが、都市内の複数のエリアでのバッラトイオの撤去を命じると共に,カンポ広場に面した建物へのバッラトイオの設置を禁じている。バッラトイオの撤去を指示した条文は衛生・安全上の配慮からのもので,景観への配慮は明文化されていない。しかし,通風や採光の問題が想定されないカンポ広場の建物のバッラトイオを禁止するだけでなく,窓に小円柱を付すべきことも規定している。また,煉瓦の使用を規定した一部の条文には,「そうすることでその家は都市に美しさbelleçaをもたらす」という記述が見られる。
 顔を意味するfacciaという語が14世紀にはすでに建物の立面の意味で使われていたこと,また「人間の体における顔と同様の目的に供する建物の要素」としてのファサードfacciataという言葉の最初期の用例を,カンポ広場に面して立つパラッツォ・サンセドーニのための立面図(1340年)に見ることができることからも,14世紀のシエナに都市景観に対する美意識の萌芽を認めることが出来るのではないだろうか。それは,決してノーヴェ政府の統治下に突如として表れたのではなく,それまでの貴族的な文化風土の中で醸成されたものが,ノーヴェの時代に開花したのだと言えよう。













特別寄稿:イタリア便り
サンクト・ペテルブルクの「ヴォルテール文庫」(2)

アルマンド・トルノ/武谷 なおみ訳

 ロシア国立図書館の地下閲覧室に入る前に,記者はヴォルテールの蔵書カタログをさがした。こう言うと,ありきたりのことに思われるが,ソ連科学アカデミーが3世代にわたる図書館司書を動員して1961年に発行したというカタログは,いまいましいことに見つからなかった。インターネット上にも情報はない。古書店を一巡したが,やはり皆無だった。当時,印刷されたのは200〜300部。約1,200ページの文字が詰まった分厚いカタログである。ようやくオックスフォードで見つけたが,全部コピーした上に,荷物をもってうろうろするのは,いかに無鉄砲な自分でも勇気がくじける企てだった。そこで白状するとしよう。名前を挙げることはできないが,ある特別の人物を訪ねて行った。何年か前にベルリンで知り合った人物で,ロシアに関して「探し物」をするとき,いつも助けを求めてきた相手だ。プリアモスの宝に関する情報や,フルトヴェングラーの未公開録音,モスクワに保管されている19世紀イタリアの知られざる写真といった品々である。その人物は数ヶ月前までブカレストに住んでいて,チャウシェスクが共産党の高官のために建てた,近代設備満載の優雅な家で暮らしていた。
 老いたロシアの「古狸」は,カタログを手に入れるにはどうすればよいかすぐ理解した様子で,数週間時間をくれという。しばらくするとメールで,「あります」と返事がきた。カタログはロサンゼルス在住の元ソ連科学アカデミー会員で,今はアメリカ人に「奉仕する」男のもとで見つかったという。それ以上はたずねないことにした。そのカタログこそ「ヴォルテール文庫」に近づくための,真の入場券なのだ。記者のために許可を得ようと,イタリア大使や領事が動いてくれたこともあったけれど。
 さて,「長老」の蔵書が彩色をほどこした芸術品であるとか,珍しい印刷本であるとは考えないでいただきたい。それらの本が貴重なのは,余白に書き込まれたメモや,ヴォルテールが最晩年の20年間を過ごしたフェルネーで,彼の仕事の道具だったという事実である。こうした場合には,欠落している本もまた意味をもつ。人生のある時期に達すると,不必要と見なされる著者,一部の作品だけが大切と思われる著者,これから再発見することを見込んで手元におかれる著者など,様々な基準で本が選ばれる。だがなによりサンクト・ペテルブルクでは,ヴォルテールの仕事場に足しげく通ううちに,『寛容論』や『哲学辞典』といったヨーロッパ文化の基礎を
築いた作品が,どんな図書室で執筆されたかが理解できるようになる。思想家が所蔵していたそのままの形で本が置かれているのも,けっして過小評価されるべきではない。目利きであれば一瞥しただけで,ヴォルテールにとってなにが重要でなにが二の次か,どの作家がたえず閲覧すべき対象で,誰がただの調度品にすぎなかったかが分かる。
 では要点をおさえつつ,なかを覗いてゆくとしよう。蔵書の数は,写本もふくめて全部で6,814冊。そのうちの約2,000冊に,ヴォルテールのメモが記されている。それらのメモはいわば「未刊の書」であり,四半世紀前から出版が進められている(ベルリンのアカデミー出版の手ですでに5巻が刊行ずみで,アルファベットのMまで整理がなされている)。だが驚いたことに,今日基本的と見なされているいくつかの書物は影すら見当たらない。たとえばアリストテレスに関しては,『詩学』と『弁論術』の2冊が,さほど重要ではないフランス語訳で残されているだけで,『形而上学』は欠落している。ジョルダーノ・ブルーノも,カンパネッラも,ヴィーコもなく,ピーコ・デッラ・ミランドラやロレンツォ・ヴァッラのような,イタリア人文主義を代表する偉人の作品もない。だが「長老」は、やはりここに存在する。プラトンに関しては,二つの全集(ひとつはフランス語訳,もうひとつはマルシリオ・フィチーノのラテン語訳)が揃っていて,その上,単品で何冊もある。当時,ギリシア哲学の不可欠の概説書と見なされていたディオゲネス・ラエルティオスは,1761年の版がある。そして当時の頭脳たち。ヒュームは原典版がならび,反教条主義者のジョン・トーランド,反デカルト主義者のロックその他が,ベーコンからシャフツベリへ、ニュートンからライプニッツへと,ずらりと顔を揃えている。聖アウグスティヌスについては書簡集と2冊の訓戒詩集のほかに,もっとも重要な作品の『告白』と『神の国』がある。その反対に,トマス・アクィナスは見あたらない。
 断っておくが,『聖書』,新約聖書索引,教父たち,宗教裁判官マニュアルや教会史提要などが欠けているわけではない。(背表紙を眺めていると,彼のジョークが頭に浮かぶ。「教父の本を読んだかい? そうとも,今に鼻をあかしてやるぞ」)。いちばんの謎は,イタリア関係の書物だ。むろん,あるにはある。しかし欠けているものも目立つ。念のために例をあげると,ダンテについては『神曲』(クリストフォロ・ランディーノによる注釈





つき)があるだけだ。パリーニの『朝』,1656年にボローニャで印刷されたガリレオの2巻の著作集,フランチェスコ・アルガロッティの作品12巻がならんでいる。だが,ペトラルカ著作集やアリオストの『狂えるオルランド』など,フェルネーの手書きのカタログに記されていた何冊かのイタリア本がここには見あたらない。しかしこの小さな謎は,長年サンクト・ペテルブルクでヴォルテールの蔵書の分類に携わった図書館員アルビーナ・ラリッサのおかげで解明されつつある。彼女は,膨大なコレクションを擁する「複製文庫」(そこにはディドロや皇帝たちの書も流れ込んでいる)のなかに,50冊ほどイタリアの書物があるのを発見した。公文書管理人のコパネフはこう推論する。エカテリーナ2世が皇位継承者である孫のアレクサンデル(後に,ナポレオンを打ち負かした皇帝)やコンスタンチンにイタリア語を学ばせるため,ヴォルテールの棚からそれらを抜き取ったまま,もとの場所に返さなかったのだろうと。彼の想像どおり,最近見つかった本のなかには,フルゴーニとベッティネッリの詩集が1冊と,1738年にパリで刊行された『リッチャルデット』がまじっていた。
 さらに推論を裏づけるために,ディドロの『彫刻をめぐる書簡』(1769年,アムステルダム)がヴォルテールの蔵書のカタログに記載されている点にも注目しよう。表紙には古い所有者の名が読みとれるが,エカテリーナ2世の時代に場所を移されたのは確かだ。ディドロのコレクションは自分のものと見なしていた女帝が,うっかりヴォルテールの棚にそれをもどした。要するに,これらの本はわれわれが考える以上に,皇帝たちに利用されていたのである。
 最後に,ページの余白に記されたヴォルテールのメモについて報告しておきたい。多くの場合,それらはただの印や,軽いジョークだったりするけれど。
 ベッカリア著『犯罪と罰』のフランス語訳で,拷問が非難されている箇所(1766年版,57ページ)には,「おみごと」という書き込みがある。1762年に印刷された『異端裁判官マニュアル』には「リスボン刊」と印刷されているが,本の扉にヴォルテール自身のペンの跡がある。「フランス刊」と,そこには記されている。また,『社会契約説』(1762年)でルソーが,新天地アメリカの人権について,自ら矛盾に陥っているのに気づかず論じているところでは,厳しい批判が加えられている。「その土地は,以前は他人のものであったのだぞ」。これらはほんの一例にすぎない。
 「ヴォルテール文庫」には「長老」の魂だけでなく,啓蒙主義の魂が大切に保存されている。ヴォルテールは特別の思想体系に属する著者ではなかったが,彼抜きにしては,18世紀はその価値の多くを失ってしまうだろう。ルイ15世が玉座にある間は,真の王はヴォルテールだと憶測されていたほどだ。冗談は別にして,「長老」はプロシャのフリードリッヒ2世やエカテリーナ2世の
ような君主,巨人の世界の偉大な人物たちと定期的に通信をかわせる光栄に浴したヨーロッパ最後の文人である。ダランベールやディドロに宛てた手紙,フェルネーへのギボンの訪問,著作を匿名で出版しても世人はみな,ヴォルテールの作と見抜くであろうと信じて疑わなかった事実など,びっくり仰天させられることばかりだ。だが、彼にとってはすべてが日常茶飯事だった。オーストリアのヨーゼフ2世がフェルネーの近くを通りながら,自分を訪ねて来なかったことに驚いたくらいだから。
 10歳でルイ・ル・グラン学院に入学したときに出合った図書室をはじめとして,ヴォルテールの生涯にかかわる図書室は他にもある。ルイ・ル・グラン学院のそれは,イエズス会士が集めた素晴らしい蔵書だった。だが忘れてはならないのは,1726年から3年間を過ごしたロンドンの図書室である。彼はそこで学び,シェークスピア嫌いになった。そして1750年からやはり3年を過ごしたベルリンの図書室。ベルリンでのヴォルテールは,国王が話しかけてくるときにも,座っていられたという。
 サンクト・ペテルブルクの防壁をほどこした部屋に保管されている文書の間で,古代ギリシア・ローマの古典の間で,無数に記したメモの間で,たくさんの辞書の間で、ヴォルテールの魂は今も生きており,本を開いてページの余白に目をとめる読者を微笑ませる。一方,彼の肉体は前述のように、大急ぎでなされた防腐処理や闇夜の逃亡があったにせよ,その後ありとあらゆる栄誉に包まれてパリに帰り,パンテオンに埋葬された。1791年7月12日のことである。革命からすでに2年がたち,教会による各種の禁止令で被害を蒙った者は,逆にそれが名誉の勲章となった。遺体の防腐処理の際に取り除かれた器官のうち,心臓と脳はまだ残っていた。心臓はその後,フランス国立図書館のものとなり,脳はコメディー・フランセーズにおさめられた。教会の聖遺物の大いなる敵が,公共の機関からもっとも崇拝される俗界の聖遺物となった。
 そして最後につけ加えたいのは,なによりその思想である。特別の場所に保管されているわけではない。サンクト・ペテルブルクでは,ヴォルテールの思想は人生の多くの時をともに過ごしたあの「文庫」のなかにあり,この地球では,果てることなく巡りつづけている。近代人の誰もが、良きにつけ,悪しきにつけ,少なくともそのひとつを利用してきたにちがいない。

 (この記事は,日刊紙Corriere della Seraの論説委員をつとめる作家のA.Torno氏が,2004年1月5日と6日に同紙に掲載したLa Biblioteca di Voltaire a San Pietroburgoを,ミラノの印刷工房F. Sciardelliが,2007年1月に小冊子にまとめて限定出版したものです。地中海学会のために翻訳の特別許可をいただきました。心より謝意を表します)。













アッディオ・ピッツォ
──パレルモの新しい反マフィア市民運動──

高橋 友子

 2006年4月11日,43年もの間逃亡中であったシチリア・マフィアのボス,ベルナルド・ブロヴェンツァーノがパレルモの南方にある彼の故郷コルレオーネの田舎家で逮捕された。この男こそが,1986〜87年の「マフィア大裁判」(被告456人中,342人が有罪確定)の立て役者であるジョヴァンニ・ファルコーネと彼の親友パオロ・ボルセッリーノの両検事を1992年に相次いで爆殺し,翌年1月の「ボスの中のボス」トト・リーナの逮捕後にシチリア・マフィアのリーダー格となり,報復行為としてローマ,フィレンツェ,ミラノでの一連の爆破事件を引き起こした主犯であると見なされる人物である。
 シチリアのマフィアは日本のヤクザと同じような犯罪集団であるが,その実態は,「ゴッドファーザー」などの映画に見られるものとはかなり異なる。マフィアは,イタリアの政界と癒着し,その関係は歴史的に構築されたものである。また,近年のマフィアは企業化し,とりわけ建築会社や産業廃棄物を扱う企業に姿を変えているので,外からは見えにくい。先述のブロヴェンツァーノがマフィアの「会計士」と呼ばれていたことが,まさにこのことをよく示しているだろう。彼は1963年5月以降逃亡生活を送っていたにもかかわらず,当時,建築会社や病院への物品調達会社,廃棄物の処理を請け負う会社など10社ほどの企業に関与していた。「エコマフィア」という表現が近年用いられているが,この種のマフィアは危険な廃棄物の不法な管理や不法建築,考古学的発掘品の不法取引などに従事している。特に土木業と廃棄物の処理に関与しているシチリアのマフィアの組織は25もあると推定され,1996年から1999年までの3年間にカッカモやバゲリーアのようなパレルモの近郊都市を含む七つの自治体の議会が,マフィアとの癒着のために解散するという事態まで起きている。
 現在のシチリア島の人口は約508万人で,そのうち約5,000人がマフィアの構成員であると見積もられている。彼らの背後には,彼らと利害関係にあるか彼らを恐れている約100万人の「協力者たち」が彼らに便宜をはかるべく控えていると言われている。このような「協力者」のおかげで,プロヴェンツァーノは43年もの間逃亡生活を送りながら,意のままに組織を動かすことができたのだろう。
 けれども,シチリアの人びとは,かならずしも常に恐れと諦めをもってマフィアと共存していたわけでは決してない。パレルモでは数年前にマフィアに反対する新し
い市民運動が,パソコンやインターネットを自由に操る若者たちによって立ち上げられた。そのいきさつは,こうである。
 2004年6月29日の朝,パレルモの中心街のそこかしこに突如として,「ピッツォ(上納金)を支払う住民はみな,自尊心なき住民である」と書かれたマニフェストが貼られた。だれの仕業かをめぐって憲兵隊が捜査を始め,パレルモ県知事は公共の秩序と安全のための委員会を県庁に召集した。当初,この事件の仕掛人は現地の企業家かと推測された。ところが,実は仕掛人は,30歳に満たない7人の若者たちが立ち上げた「アッディオ・ピッツォ」(「さらば上納金」の意味)というグループだった。彼らはマフィアのテリトリー支配を覆すために,一般の消費者としての市民に訴える戦術を考案した。つまり,上納金を支払っている店で日々の買い物や会食をするな,という訴えである。パレルモ検察庁によると,同市の商店主の約80パーセント,シチリア州全体では約70パーセントがマフィアに上納金を支払っており,同州では約5万人がマフィアの恐喝の犠牲となっている。そして,上納金から得られるマフィアの収入は,一年に約100億ユーロにのぼるという。
 上納金はマフィアの非合法的な収入のたった16パーセントにしか相当しないが,その災禍はこの数字よりもはるかに大きい。というのは,上納金の支払いは,マフィアのテリトリー支配の基盤であり,それはシチリアの経済的損害となるだけでなく,シチリアの人びとの尊厳を否定し,彼らを隷属状態におとしめるシンボルとなっているからである。そのために,上納金を支払わない店のリストを公表し,そこで買い物や会食をするよう,「アッディオ・ピッツォ」の若者たちは市民に呼びかけるのだ。このグループが創設された当初7名だったメンバーは,現在30余名に増え,上納金を支払わない店のリストも,徐々にではあるが伸びている。
 「アッディオ・ピッツォ」は,規模としてはまだ小さなグループである。だが,反マフィア運動のために個々の市民にできることは何かを考え,そうした市民のひとりひとりがつながり合って環境を改善していこうという姿勢は,グローバル化が進む今日のような社会にあってはたいへん重要な運動であろう。このグループの訴えが市民を動かし,マフィア撲滅へ向けての新たな一歩となることを期待したい。













「レオナルド・ダ・ヴィンチ―天才の実像」展

池上 英洋

 2007年は,「日本におけるイタリア 2007春」と題されて,両国の一層の友好と交流をはかるための数多くの催しが開催される。その中核事業として,本展覧会は企画された。同展はボーヴァ駐日イタリア大使を委員長とするイタリア2007春実行委員会,朝日新聞社,NHK,NHKプロモーション,東京国立博物館の主催によって,約三ヶ月間,同博物館において開催される。3月19日,常陸宮殿下・妃殿下,ルテッリ伊副首相や近藤文化庁長官をはじめとする方々のご列席のもとで開会式がおこなわれ,翌20日には一般向けのオープニングを迎えた。
 同展は大きく二部構成の形をとる。第一会場となる同博物館本館の第五特別展示室,通称「特5」において,ウフィツィ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ《受胎告知》が展示される。「特5」はこれまでにも,1974年の《ラ・ジョコンダ(モナリザ)》をはじめ,ツタンカーメンやドラクロワ《民衆を率いる自由の女神》など,各国の至宝が来日した際に展示された場所である。今回の展示には,最新の技術が数多く導入された。そのひとつが作品の前のガラスである。強度を保ちつつ最も透明度が高く,屈折率などの点においても優れているガラスを用いた展示ケースが,今回のためにドイツで製作された。東京国立博物館の優れた照明技術などとともに,フィレンツェでの通常の展示よりも本作品の色彩がはるかに鮮やかに感じられる主たる要因となっている。
 第二会場となる平成館では,ウフィツィ美術館で開かれていた「La mente di Leonardo」展をベースに,日本向けにアレンジした展示がなされている。同展覧会はフィレンツェ科学史博物館のガルッツィ館長の企画監修によるもので,高度に専門的なものである。これを日本で展示するにあたって,より理解度を高めるべく様々な工夫を加えた。特に,日本をはじめとするイタリア以外の国々では,レオナルドの画家としてのイメージと,科学者としてのイメージが別個に強く存在しているがために両者は大きく乖離しており,その理解しがたい間隙を埋めるために「天才」という便利な用語が常に用いられてきた。
しかしレオナルドの一生は,いわゆる「天才」という苦労知らずな万能イメージからは程遠いものであり,これを正確に理解するためには,専門分野別に個別の分析を加えていくと同時に,レオナルド本人が持っていたであろう視点,つまりは芸術も科学も渾然一体とした状態での視点から見た体系を再構築するほかはない。
 今回の展覧会は,レオナルドとその思考を本来の姿へともどす作業でもあり,だからこそ天才の「実像」展と名付けられているのだ。その思考過程を追うために,《受胎告知》を手がかりとするのは理想的といえる。というのも,同作品はレオナルドの実質的なデビュー作であり,その後のあらゆる思索の原点ともなっているからだ。二十歳をすぎたばかりの若者は,いまだ荒削りな面を見せながらも,本作品ではやくも,従来の同主題の図像伝統からの逸脱を試みている。卓越した空間表現や驚嘆すべき写実性,どこまで拡大しても耐えうるほどの緻密な描写技術を意欲的に発揮すると同時に,彼は己の信念に基づいて,極端に広い花園が広がる告知場面や泰然自若としたマリア像といったあらたなイメージを提案したのだ。私たちは,従来の幻想的なものではない,天使の生々しい翼の描写に,そして後に彼自身が理論的な発明者となる大気遠近法を先取りした風景表現などに,後のレオナルドの広範な博物学的関心を読み取るのだ。それは,当時としては斬新にすぎたかもしれない。美の基準からも若干離れていたかもしれない。しかし,「美しいことが常に善いこととは限らない」と語るレオナルドの本質が,デビュー作においてはやくも顔を見せているのだ。レオナルドは,壁画である《最後の晩餐》を除いて,デビュー作を上回る大きさのタブローをその後ついに一枚も完成させることなく一生を終える。この作品が評判にならなかった彼の不運はしかし,その後の彼に他分野での試行錯誤の機会をもたらした,人類にとっての幸運ともなったのだ。
 本展覧会には,基準作が無いために常に「伝」がついてまわる彫刻分野において,レオナルドの真作である可能性を若干秘めている《少年キリスト像》も展示されている。この機会に,皆様もご自分の眼でその可能性を探ってみていただきたい。








表紙説明   地中海の女と男5

エジプトの聖マリアと長老ゾシマス/益田 朋幸




 一説によればローマ皇帝クラウディウスの治世というから,270年頃のことである。アレクサンドリアの娼婦マリアが,エルサレム巡礼を思い立ち,船中で春をひさぎながら旅をした。ところが聖墳墓聖堂の扉口で,見えない力にさえぎられて,堂内に入ることができない。頭上には聖母子のイコンがあり,マリアを見おろしていた。(余計な註を加えるなら,3世紀に聖墳墓聖堂は建立されていない。)
 自らの生を悔いたマリアはパンを三つ携え,ヨルダン河を越えた砂漠で苦行を送る。やがて服が破れて裸になるが,体毛が生えて(もしくは髪が伸びて)彼女の体を隠した。三つのパン(三位一体の象徴)が17年間(異伝には47年間)の生活を支えた。彼女のもとを,司祭の資格をもつ修道士ゾシマスが訪れ,聖体のパンを授ける。いかに神の心にかなった女性とはいえ,聖体は男性の司祭から受けなければならないのである。1年後にゾシマスがマリアを再訪すると,すでに彼女は死んでおり,遺体を埋葬する際にライオンが現れて手伝った。
 エジプトの聖マリア伝は10世紀の末に,ビザンティンの聖人伝編纂者シメオン・メタフラスティスによる聖人伝に収録されて普及した。これが有名な『黄金伝説』の種本となり,西欧世界にも広く伝わることとなる。近代でも表現主義の画家エミール・ノルデが,マリアの生涯の連作を描いている。また罪深い女が改悛して,荒野で苦行するイメージは,マグダラのマリア伝説にも採り入れられることになる。ドイツの画家デューラーや彫刻
家リーメンシュナイダーは,全身に体毛を生やした(または髪が長く伸びた)マグダラのマリア像を制作した。
 現存最古のマリア伝(6世紀)に拠れば,マリアはエルサレムの聖墳墓聖堂に属する歌手で,一籠の野菜をもって17年間砂漠で過ごした。4,5世紀,キリスト教の普及とともに,シリア・パレスティナ・エジプト等の荒野や砂漠に出て,苦行の修道生活を送る者が多く現れた。女性の隠修者も少なからず,エジプトの聖マリア伝もそうした社会背景のもとに成立したものであろう。荒野に独り出るなら,身の危険はともかく,女性でもかまわない。しかし女子修道院ができるまでは,女性は修道院に入ることが許されなかった。したがって修道生活を志す女性は,男装をして自らを偽らなければならない。
 ペラギア,テオドラ,エウゲニア等の男装の女性修道士(処女修道士モナコパルテノス)に関する伝説は,ビザンティン世界に事欠かない。日本人に親しいのは聖マリナの伝説で,『黄金伝説』を英訳で読んだ芥川龍之介によって,短篇「奉教人の死」に翻案されている。ビザンティンの聖女伝は,古代末期から中世の地中海世界における「女性」性を考える恰好の素材で,フェミニズムの立場からの研究も近年多くなされている。
 写真はキプロス島アシヌウ村のパナギア(聖母)・フォルビオティッサ聖堂の祭室アプシスに描かれたビザンティンのフレスコで,1105/06年制作の銘文が残っている。聖母マリア以外の女性が聖域に描かれることは,きわめて稀である。