学会からのお知らせ


*春期連続講演会
 3月31日から5月5日までの毎土曜日(全6回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会「地中海を旅する人々」を開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可。混雑が予想されますので,前売券の購入をお勧めします)。

「地中海を旅する人々」
3月31日 サンティアゴ巡礼  福井 千春氏
4月7日 古来,旅人はシチリアをめざす  武谷 なおみ氏
4月14日 戦争と平和の旅人:カエサルとハドリアヌス  本村 凌二氏
4月21日 旅をするスペインと旅をされるスペイン  清水 憲男氏
4月28日 12世紀地中海横断:異文化圏を旅したイブン・ジュバイル  高山 博氏
5月5日 歴史家ヘロドトスの旅  桜井 万里子氏

*第31回大会
 第31回地中海学会大会を6月23・24日(土・日)の二日間,大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)において下記の通り開催します。

6月23日(土)
 開会挨拶 大塚国際美術館理事長
 記念講演 青柳 正規氏
 地中海トーキング
  「巡礼と観光──瀬戸内海と地中海」(仮題)
   司会:桜井 万里子氏
 美術館見学会(自由見学)
 懇親会
6月24日(日)
 研究発表
 総 会
 授賞式 地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
 シンポジウム「二つのシスティーナ礼拝堂」(仮題)
   司会:石川 清氏

*会費納入のお願い
 今年度(2006年度)の会費を未納の方には,本号に同封して請求書をお送りしました。学会の財政が逼迫の折,至急お振り込み下さいますようお願いいたします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。
 なお,新年度会費(2007年度)については3月末にご連絡します。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*常任委員会
・第1回常任委員会
日 時:2006年10月7日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:第30回大会および会計に関して/展覧会招待券に関して/研究会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/青山NHK文化センター企画協力講座に関して/その他
審議事項:第31回大会に関して/名古屋NHK文化センター企画協力講座に関して/科研申請に関して
・第2回常任委員会
日 時:2006年12月9日(土)
会 場:東京大学本郷キャンパス
報告事項:ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/『地中海学研究』XXX(2007)に関して/科研費(学術定期刊行物)申請に関して/研究会に関して
審議事項:第31回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/機関別認証評価専門委員候補者推薦に関して/その他













地中海学会大会 地中海トーキング要旨

芸術のプロデューサーたち

──現代の芸術と社会──

パネリスト:熊倉純子/瀧井敬子/南條史生/藪野健/司会:木島俊介


 近年,公立の文化施設の管理運営に関連して,独立行政法人制度,指定管理者制度などの導入が行われる事態となって,これら諸機関の様態に変化が迫られている状況をしいるばかりでなく,ケースによっては存続の危機もうんぬんされている有様である。このような事態をうけて当学会はすでに2002年に,慶應義塾大学三田キャンパスにおいて「メセナの現在と未来──文化擁護のアイデアとシステム」と題する講演会とシンポジウムを開催した。今回は第30回の記念大会が東京芸術大学で開催されることに配慮しつつ,先の事業との重複を避けるかたちで,あらたにトーキングの主題が選ばれることとなったわけである。「文化擁護」と「文化(芸術)プロデュース」とを分けて考えてみたということであるが,今回は特に,アートと社会とを繋ぐ仕事の最前線で活躍されている方々に参画いただいて,個人としてのプロデュースの内容をお話しいただくこととなった。パネラーは,藪野健(早稲田大学/画家),熊倉純子(東京芸術大学/芸術運営),瀧井敬子(東京芸術大学/音楽評論),南條史生(森美術館/美術評論)の各氏,そして司会が木島俊介(共立女子大学/美術史)であった。
 藪野健氏からは,スペインのマドリッドを例にとって,ひとつの文化を担っている都市というものが,総体として個人に働きかけることにより,いかにしてアーティストに創作を促すものであるかを実作者,画家としての立場からお話しいただいた。
 熊倉純子氏は,氏が実際にプロデューサーとして実行されている「取手アートプロジェクト(TAP)」の活動状況を詳しくお話しされた。このプロジェクトは,東京芸術大学がキャンパスを置いている取手市において,市の行政,市民,そして大学の三者が共同で行っているもので,1999年に開始されて以来毎秋開催され,すでに8回目を迎えている。ここでは,取手市の地域内にアトリエを構えているアーティストや学生が直接の創作者であるが,これを文化資源とみなして,そのアトリエの公開,公募展の開催,地域文化振興,そして地域を越える情報の発信などに,実作者のみならず,市民の参加を促していて近年では首都圏全域からも若者たちが集まってプロジェクトの実務を支えている。東京芸術大学の地域連帯事業と取手市の行政,そして市民の活動が一体化しているばかりか,ここでは,創作と,その創作物の発表,それらの情報の発信とが一体となっている。またそ
のような共同プロジェクトの場が,そのままアートマネージメントの実践道場として教育機能と直結しているあたりは,まことにユニークな事業である。
 かつての文化機関においては,創作者は発信者であり,鑑賞者は受信者に過ぎなかったが,ここでは鑑賞者が創作や発表活動に参画することで,いわば文化の創造行為に関与する意識を享受するわけである。
 瀧井敬子氏は,音楽のプロデューサーとして,多くの音楽会,音楽祭などを開催されてきているが,このトーキングにおいては,2006年秋に,山形県の長井市で開催を準備されているオペラ<ゼッキンゲンのトランペット吹き>(ネッスラー作曲,シェッフェル原作,ブンゲ台本)について紹介があった。長井市はドイツ南端のバート・ゼッキンゲン市と姉妹都市の関係を結んでいて,20年を越える交流を続けているところから,氏は文化事業の一環としてこのオペラの公演のプロデュースを提案されたわけである。地方都市における公演事業はえてして,中央都市の公演の巡回のかたちに終わるものであるが,ここでは,「地方の独自性」と「演目の独自性」が考案されているので,市民の関心も盛大で,合唱メンバーのみならず,衣裳,ヘアーメイク,舞台装置や照明のアシスタント等に市民の積極的な参画があったという。
 熊倉氏の場合同様に瀧井氏のケースにおいても,人々がアートを単に享受するという立場から,アートのプロデュースに参画するところから,創造の悦びにおいてアートをサポートするという次元に向う。これは,広い意味におけるアート・プロデューサーを育むこととなるであろう。
 南條史生氏は,現在,美術館の最先端ともいうべき森美術館の館長に就任しておられるが,国際交流基金のキューレーター,慶應義塾大学アート・センターの講師などを務められたばかりでなく,ヴェニス・ビエンナーレのコミッショナーなど,国内外の美術展・イヴェントのプロデューサーで,この意味では司会者の仕事とも近いので,お伺いしてみたいことが随分あったのであるが,時間に制約されて充分にご意見を伺うことが出来なかった。司会者の責任である。この時お話しいただいた第一回のシンガポール・ビエンナーレが,氏のディレクションによって2006年の秋に大成功に終わっていることをここに報告して,司会者の要約を終えたい。(文責:木島俊介)













秋期連続講演会「世界遺産への旅」講演要旨

グラナダとアンダルシア諸都市


陣内 秀信


 7世紀前半にアラビア半島で誕生したイスラーム教は,マグリブ(北アフリカ)を経て,8世紀初頭には早くもアンダルシアにまで及んだ。以来,レコンキスタの完成する15世紀までの約800年近くもの間,アンダルシアは長らくアラブ支配のもとで文化を繁栄させた。イスラーム文化の素晴しさは,コルドバ,セビリア,グラナダばかりか,小さな田舎町にもおおいに感じられる。
 アンダルシアの都市は街路が入り組み,袋小路も多く,アラブの都市を思わせる。石灰で塗った白い町並みは,モロッコのカサブランカやチュニジアのカイラワン等とも共通する。そして何と言っても,パティオを中心とする住宅の在り方が,アラブ世界の都市と相通ずる。幸い,アンダルシアのすぐ東,バレンシア地方のシエサ近郊に,アラブ支配時代の小さな街の遺跡が発掘され,その構成が分かる。袋小路が多く,どの家も内部が覗けないよう,入口(サグアン)からクランクして中庭(パティオ)にアプローチする形を見せる。アラブ支配下で発達したアンダルシア都市にも,似た構成があったと想像される。キリスト教の時代に転じ,アンダルシアの都市は徐々に中庭を外に向けて開いていったに違いない。
 とはいえ,中庭に面した一階に客間や居間をとり,そのまま外に椅子を出して戸外で寛ぐという,古代の地中海世界から持続する住まい方を今も見せているのが興味深い。そして,アンダルシアのパティオの美しさの秘密は,舗装された床面に沢山の鉢植えを置き,あるいは壁から吊って,緑溢れる空間を生んでいることにある。
 そのアンダルシアでも,飛び切り美しいパティオを誇るのは,セビリアから南東にバスで2時間ほどの位置にある小都市,アルコス・デ・ラ・フロンテーラだ。モロッコにより近いだけに,アラブ色はさらに強い。
 丘の高台に発達したアルコスの旧市街は,青空の下,白く輝く迫力のある姿を見せる。尾根を通る街道を中心軸とし,少し低い位置にほぼ平行に走るローカルな道を配しながら,北西−南東の方向に細長く伸びている。レコンキスタ以前,9〜13世紀の長い期間,アラブの支配下に置かれていたアルコスだけに,その時代のイスラーム的な要素が色々な形で今の街に受け継がれている。まず,街の南東部に,丘の上に立地する街をぐるりと囲んだアラブの城壁の一部と城門の一つ,マトレラ門(11世紀)が残っている。
 尾根の主要道に沿い,街の中心の高台に聳えるサン
タ・マリア教会は,かつての大モスクの位置に建てられ,その内陣奥には,ミフラブの痕跡が残されているという。支配者の城も,イスラーム時代の要塞を受け継いでいる。
 そして,何よりも複雑に入り組んだ街路網と,美しいパティオを囲む住宅の構成には,中世のアラブ都市を下敷きに発展してきたアンダルシアの都市の特徴が見事に表れている。アルコスの中庭は,コルドバやセビリア以上に,外から覗かれないように,入口の空間(サグアン)を折れ曲げたり,斜めに入れたり,さらには階段で昇ってアプローチする工夫を見せている。内側に秘められた外の世界から侵されない緑溢れるパティオの居心地のよい生活空間は,我々を魅了する。
 中庭には,地下深く貯水槽が掘られている。滑車を使いバケツで水を汲み上げる井戸は,中庭の壁の一画に設けられている。近代に水道が引かれてから,もちろん飲料水としては使わなくなったが,中庭一杯に並んだ植木への水遣のために,今も活発に機能している。
 アンダルシアには,パティオのあるアルコスとはまったく異なる風景を見せる都市も多い。一室を垂直方向に積み上げた形の住宅で構成されるもので,斜面にぎっしり連なる家々の瓦屋根と白壁が織り成すその美しさは,アンダルシアのもう一つの大きな魅力である。コスタ・デル・ソルから少し山間部に入った所に位置するカサレスは,その中でも群を抜いて美しい。この街の遠景は印象的である。小山の頂部に,アラブ時代の城塞が聳え,そのふもとを真っ白な家々が取り囲む。急斜面の地形に応じながら広がる市街地のダイナミックな姿は目を奪う。レコンキスタの後に,現在見る白い町が山裾に広がったのだ。そこにはもはやアラブと共通する中庭型住宅はない。田園の農場(コルティホ)で働く小作農たちの簡素な住居が連なり,ピクチャレスクな風景を生んでいる。
 このように,アンダルシアの小都市に関しては,住宅形式の比較を通して,アラブ支配下でつくられた都市をレコンキスタ後も受け継ぎ,今なお中庭型住宅の伝統を維持するアルコスのタイプと,レコンキスタ後に中庭をもたない積層型の住宅で新たな住宅地を周辺に形成したカサレスのタイプの違いを,明確に読み取ることができるのである。














秋期連続講演会「世界遺産への旅」講演要旨

モン・サン・ミッシェル

──地の果ての異界──

小池 寿子


 フランス西海岸,ノルマンディー半島とブルターニュ半島の間に位置する小島モン・サン・ミッシェルは,1979年,フランスでは最も早く「モン・サン・ミッシェルとその湾」として世界遺産に登録された。イギリス海峡に臨む荒海に屹立する岩山。満潮時には一瞬にして孤島となるこの地に数世紀の歳月をかけて建てられた修道院は,海と陸のみならず天と地を結ぶ,まさしく聖域だ。「ラ・メルヴェイユ」。モン・サン・ミッシェルを,このように「(西洋の)驚異」と呼んで絶賛したのはヴィクトール・ユーゴである。大天使ミカエルが降り立ったことにちなんだ名をもつこの聖地は,しかし,近世を通じてほとんど牢獄のように使用されて苦い時代を経験する。フランス革命時には修道院が廃止され監獄化されて「海辺のバスティーユ」とさえ呼ばれたが,19世紀の文人たちのロマンと筆の力によって蘇り,今日,世界遺産にふさわしく,自然と人間の造りだした傑作として人々を魅了する。
 モン・サン・ミッシェルの今を支えるのは,しかし何より,その信仰の歴史である。すでにこの地帯「フィニステール(地の果て)」に定住したケルトの人々は,「墓の山」と呼ばれたこの孤島を来世への往還の地とし,信仰を寄せていた。異教の地がキリスト教化されてなお,異界との接点として信仰の拠り所であった島に決定的な展開がもたらされたのは8世紀のことである。このとき,近隣の町アヴランシュの司教オベールの夢枕に大天使ミカエルが現れ,自身のために聖堂を建てよ,と命ずるのである。しかし,司教は容易には信じない。三度目の出現の際,業を煮やしたミカエルは,するどい指先で司教の頭を突く。翌日,目が覚めたオベールは,頭蓋骨に穴が開いているのに気づき,意を決して南イタリアはプーリア地方のガルガーノ山モンテ・サンタンジェロに使者を送り,それにならって御堂を建立したのだった。戦いの大天使ミカエルが降り立った地上の三つの聖地のひとつとして,モン・サン・ミッシェルは,巡礼と戦いの拠点としての歴史を刻んでゆく。
 ついで10世紀,ヴァイキングの酋長ロロが初代ノルマンディー公になって以降,モン・サン・ミッシェルの歴史と深く関わってゆくのは,ノルマンディーの歴史だ。ことにヘイスティングスの戦いに至る歴史を綴ったバイユーのタピスリーには,すでに小さな修道院をいただく
この小島が描かれている。孤島に聳え立つ岩山に修道院を建設する困難は計り知れず,ロマネスク期以降大々的に行われた建造は,ゴシック期,ルネサンス期を経て,各時代の建築を重層的に今に残す。14世紀後半からの百年戦争に際しては,対イングランド戦の要塞として補強され,軍事要塞と見紛う機能と外観となった。まさしく,戦いの大天使ミカエルが守る地上の神の国である。さらにジャンヌ・ダルクの眼前に顕れ,やがてフランスの勝利へと導いたことによって,国王による聖ミカエル騎士団の創設に至り,国家にとって象徴的な存在となる。
 さて,こうした歴史的なモン・サン・ミッシェルの姿はバイユーのタピスリー他,数々の写本挿絵を飾り,知られるところとなっているが,修道院自体に描かれた壁画について一般に語られることは少ない。今日ただ一つ残る壁画は「三人の死者と三人の生者」と「運命の車輪」を組み合わせた図像である。壁画が描かれた場所は,薬剤室を控え,さらに墓場へと通じる宿泊所の壁面上部である。この壁画は,同図像の最初期の作品であるパリ,マザラン図書館所蔵写本と酷似し,かつ同写本の派生系と目されるロンドン,ブリティッシュ・ライブラリー所蔵写本挿絵との類似も見られる。近年の壁画調査によって,おそらくは,パリ写本より古い1100年代との見解も出ており,ブルターニュ半島およびノルマンディー半島を含む北西フランスでの死の図像の伝播の拠点となったことを窺わせる。ことさら興味深いのは「運命の車輪」との組み合わせである。さらに車輪の輻には,おそらく修道院生活の手本,死の痛みの象徴という二重の意味が託された蜜蜂の巣が並んでおり,中世を通じて育まれた図像の結晶のひとつと言えよう。ちなみに,運命の車輪と死の図像との組み合わせは,北西フランスを中心に流布した教化的内容をもつ写本に比較的多く見られるが,壁画として残存するのは,ブルターニュに二件,アヴィニョン北に一件,デンマークに一件のみであり,年代的にはすべて後年である。さらに死の舞踏との組み合わせは,飛び火のように,イストリア半島クロアティア側の山中の壁画に残るのみである。
 地の果ての異界に繰り広げられたのは,熾烈な現世の戦いのみならず,生死への深い洞察であり,そこは中世の知の温床でもあったのである。















トルコ・ミニシンポジウム要旨

文化の積層

──建築・都市の視点からトルコの魅力を探る──

主催:地中海学会/人社振興プロジェクト「千年持続学・都市の持続性に関する学融合研究」

パネリスト:岡田保良/篠野志郎/鈴木董/鶴田佳子/山下王世/司会:新井勇治

2006年5月20日/東京大学生産技術研究所


 今回のトルコ・ミニシンポジウムは,開催までは紆余曲折があったものの,2006年5月20日に東京大学生産技術研究所で開催され,学会会員を中心に100名を超える来場者があり,大盛況であった。ところで,タイトルにはトルコという名称を使用したが,現在のトルコ共和国に限定するものではなく,地理的にも,歴史的にも,地域名であるアナトリア方がよいのだろうが,多くの方により把握しやすいトルコを使うこととなった。
 パネリストの発表は,古代から現代までを時代を上りながら,トルコとその周縁地域を網羅するものとなった。
 岡田氏は,「ヒッタイトの文明とその前後」と題し,ヒッタイト帝国を中心に,周縁のメソポタミアやギリシア,パレスティナ(イスラエル)の考古学史を取り混ぜながら,アナトリアの古代史観について論じた。先行するメソポタミアやパレスティナの考古学に対し,アナトリアの古代遺跡は周縁部の扱いを受けてきたが,チャタルフユクなどの新石器時代の集落文化の発見により,アナトリアの独自性が認められてきたという。また,アナトリア考古学の新たな動向として,何人かのオリエント考古学者の研究を引き合いに出し,アナトリア内での史観にとどまらずに,ギリシアやバルカン,メソポタミアといった周縁部との関係を,言語的にも,民族的な交流にも展開し,解明していくことが必要であるとしている。
 篠野氏は,「周縁としての東アナトリアにみる重層的建築文化──ビザンツ建築とアルメニア建築」というタイトルで,アルメニア建築の建築史上での評価について問題を提起しながら,発表を行った。アルメニア建築とは,アルメニア地域に建設されたキリスト教建築を指し,シリア地域の建築的な特徴に影響を受けながら,早期にドームやヴォールトをもったキリスト教会形式が形成されたとしている。ビザンツ建築との関係においても,アルメニアはビザンツ帝国の周縁部の領域として扱われ,正しい評価がされずにいるという。アルメニア建築を評価するためには,これまでの地中海文化,西欧文化を中心にモデル化されてきた枠組みを再検討する必要があるのでは,と説いている。
 鈴木氏は,「征服と都市建設再考──ルーム・セルジューク朝からオスマン帝国へ」という題で,11世紀のアナトリアにトルコ系ムスリムが侵入してきた時代から,オスマン帝国期を経て,18世紀に至るまでの幅広
い時代を網羅しながら,アナトリアでのイスラム化・トルコ化と都市建設について,時代の転換点を明確にしながら,発表が行われた。トルコ人によるアナトリア支配が進む中で,都市を点として押さえ,その点を交通ネットワークで線として結び付けて,征服地を拡大していったという。支配した都市のイスラーム化として,まずモスク建築が造られ,次いで病院やイスラーム学院などのインフラ整備がヴァクフ(宗教寄進財産)によって進み,その次にキャラバン・サライなどの経済的な活動の中心拠点が整備された。そして,都市という点から次第に,農村部へと面としての広がりに展開し,建築活動や都市整備は,ビザンツ世界からイスラーム化・トルコ化するにあたって,必要不可欠なものであったという。
 鶴田氏は,「バザール空間からみるアナトリアの都市」という題で,トルコの都市でもっとも賑わうバザールの空間構成を明らかにした。伝統的な商業施設について,立地条件,形態や使われ方に言及しながら,都市の規模が異なった中でのバザールの空間構成の違いについて,発表を行った。紹介した三つの都市の中で,規模が大きいブルサではバザールがアーケード化し,面的な広がりをみせ高密化している。逆に,小さいギョイヌックでは,広場や街路などのヴォイド部分が大きくなるという。
 山下氏は,「現代トルコにおける文化遺産保存」という題で,聖ソフィア大聖堂を事例に,現在のトルコにおいての文化遺産保存のあり方について,発表を行った。トルコ民族がアナトリアに入ってきた11世紀以前と,以後との遺産に同等の価値を見出しているわけでない。他者の遺産を自らのアイデンティティーとうまく結び付けなければならず,社会の動きにも呼応して,文化遺産の保存に対する考え方にも影響がみられるという。
 第2部では,5名の発表を受けて,共通性のみられた都市づくりに焦点をおき,パネリストからのコメントや,参加者からの意見や質問を受けながら進行し,シンポジウムは盛況のうちに幕を閉じることができた。
 最後にこの場を借りて,東京大学生産技術研究所の方々の協力,会場や機材の提供,パネリストの方々のご尽力,裏方支援の方々,そして多くの参加者に,大いに感謝いたします。また,トルコに続き,中東地域を題材にしたミニシンポジウムが開催できることを願います。(文責:新井勇治)













自著を語る49

尾形希和子著『レオノール・フィニ 境界を侵犯する新しい種』


東信堂 2006年8月 258頁 2,940円

尾形 希和子


 昨年8月にレオノール・フィニについての著作を東信堂より出版した。子供時代にいくつかの版画作品を見て死とエロスの交錯するその妖しい世界に心を奪われて以来,レオノール・フィニは好きな画家ではあったのだが,研究対象として調査することもなく,ひょんなことからこの本を手掛けることになった時には,一から資料を集めることから始めなければならなかった。しかし,フィニについて知れば知るほど,その作品世界はもちろん,彼女自身のエネルギッシュな生き方にどんどん惹かれていったのである。そして私の専門とするロマネスクの怪物,動植物のモティーフの境界侵犯的なあり方とフィニの生き方とは,実のところそれほどかけ離れたものではないと思うようになった。フィニはその能力からすれば時代の主流に乗ることができたはずであるのに,「アヴァン・ギャルド」から離れていっただけではなく,「画家」というたった一つの職業に捕らわれるのは「奴隷的」であるとし,舞台装置や衣装,小説も手掛けるなど様々な分野で活躍した。敢えて周縁に身を置くことを常に選んできたフィニは,まさに性差,生物的な種の差異,芸術のジャンルなどの境界を侵犯し続ける存在であった。既成の概念や役割に捕らわれず,新しい秩序を作りだそうとする彼女を,アルベルト・サヴィニオは「フィニという種」と呼んだ。本書の副題はそこに由来している。
 レオノール・フィニは1907年,アルゼンチンのイタリア移民の父親とトリエステ出身の母親との間にブエノス・アイレスで生まれた。父方の家系はナポリ近くのベネヴェント県出身,母方の家系はゲルマンやスラブの血もひいており,既にフィニ自身が中央ヨーロッパと南ヨーロッパにまたがる混血(ハイブリッド)的な存在である。母は暴君的な夫から逃れ,幼いレオノールをトリエステに連れ帰った。トリエステは当時オーストリア・ハンガリー帝国下にあり,中央ヨーロッパの影響の色濃い国際都市であった。イタロ・ズヴェーヴォやウンベルト・サーバ,そして『ユリシーズ』を執筆中のジェイムズ・ジョイスらと親交のある家庭の中で,レオノールは中央ヨーロッパの文化的素養を身につけた早熟な少女に育った。のちにパリでエルンストを初めとするシュルレアリストたちに出会った時も,レオノールのドイツ・ロマン派についての知識は,彼らが舌を巻くほどであったという。
 独学で絵画を学んだパリに出る前のレオノールは,ミ
ラノでノヴェチェント・イタリアーノ派と出会うことによってイタリアの古典美術への造詣を深めた。シュルレアリスムとの関係において語られることの多いフィニであるが,実は彼女とイタリアとの結びつきは一般に知られているよりもずっと緊密である。本書では,イタリアで収集した資料に基づき,今まであまり知られていなかったレオノールとイタリアの関係についても,より詳しく述べるように努めている。第二次大戦中の一時期ローマに暮らしたこともあるフィニは,サヴィニオ,ファブリーツィオ・クレリチら美術家はもちろん,モラヴィア,マリオ・プラーツ,エルザ・モランテ,アンナ・マニャーニ,フェッリーニらの錚々たるイタリアの知識人,著名人と交流し,彼らから称賛された。短い滞在であったが,彼女の滞在がイタリアの美術界に及ぼした影響は少なからぬものであった。
 本書では第一部でフィニの生涯を描き,第二部ではおもに絵画作品の分析を行なっている。第二部冒頭のシュルレアリスム全体における女性アーティストの活動についての考察は,一番苦労した箇所であり,最も読みにくい部分であるかもしれないが,避けて通ることはできなかった。理解不足の部分には,是非とも色々と御教示をいただきたいと思っている。
 美術史研究は「神話」を解体し,ともすれば一人の作家の全体像をバラバラに断片化してしまいがちであるが,本書ではあくまでも学術書としての姿勢をくずすことなく,フィニという稀有な女性の自律的で革命的な生き様の魅力を伝えることができればと願っている。フィニについては今後も多方面からの研究がなされるであろう。本書はフィニへの新しいアプローチの端緒に過ぎないが,多くの方の目に触れて,御批評,御批判を賜われば幸いである。











表紙説明   地中海の女と男3

イサベルとフェルナンド/貫井 一美




 カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王フェルナンド2世は,歴史上最も強力な結びつきを持った男女のうちの一組であろう。この二人によってイベリア半島最後のイスラム王国グラナダは陥落,レコンキスタが完了し統一国家が成立した。表紙のサラマンカ大学ファサードのレリーフ彫刻に見られる肖像は,国王の後ろに控えて王妃が描かれているといった伝統的な国王夫妻の肖像ではない。王の印である錫杖を二人が共に支えている。イサベルとフェルナンド,すなわちカスティーリャとアラゴンが同等の権力を持ち平等な立場で結びついていることを表明しているのである。
 フェルナンドとイサベルの結婚にはしばしばロマンティックな恋愛エピソードがつきまとうが,実際には二人の結婚は当時としては当然のことながら政略結婚である。カスティーリャ王国は王位継承に端を発する政治的混乱が続いており,一方,アラゴン連合王国は社会的経済的危機状況にあり,両国は結びつくことで補いあってこの危機から脱しようとした。1469年,イサベル18歳,フェルナンド17歳の時に二人は結婚し,イサベルは1474年,フェルナンドは1479年にそれぞれ王位に着いた。結婚した当初からイサベルは異母兄であったエンリケ4世とその娘フアナとの王位継承戦争の真っ只中にあり,続いてグラナダ王国との戦いと二人の生涯は戦いの明け暮れで,統治に関しても自らの責務を担って各人がそれぞれの場で奮闘していたに違いない。宮殿での仲睦まじい王夫妻などというイメージとはおおよそかけ離れた生活であったことは容易に想像できる。
 財政,法務,行政などの分野ではそれぞれの王国独自の政策を実行していたが,外交,軍事などの部分ではあ
たかも一人の国王が統治しているかのようだったと言われる。共に混乱と内戦の真っ只中に生まれ育ち,もともと正統な王位継承者の立場にはなかった(カスティーリャの王位継承者は本来ならイサベルの姪にあたるフアナであり,フェルナンドもまた異母兄の死によって皇太子となった)などの共通点を持つ二人は健全な国を取り戻すためには弱体化していた王権を回復し,それを軸とした中央集権的な国家体制を作ることの必要性を痛感していた。イサベルとフェルナンドは夫婦というよりむしろ同じ目的を持つ同志として強力な結束力をもって国土回復後のイベリア半島にスペインという統一国家の礎を築くことに邁進した。
 二人の子供たちは次々と世を去り,1504年イサベル没後,カスティーリャの王位はブルゴーニュ公に嫁いだ次女フアナに引き継がれた。フェルナンドは摂政となるが,結果カスティーリャの廷臣たちに疎まれることになる。54歳で25歳年下のルイ12世の姪と再婚するが,待望の後継ぎが生後数時間で死亡するなど,不幸な晩年を過ごし,1516年に歿した。敬虔なカトリック女王として尊敬されるイサベルとは異なり,フェルナンドは子供をもうけるために飲用していた秘薬のために死んだという不名誉な説を初めとしてその評価は良いとは言えない。
 今,偉大な「カトリック両王」はグラナダ大聖堂の王室礼拝堂に眠っている。墓石彫刻の二人は枕を並べているのだが,イサベルはわずかにフェルナンドから顔を背けている。夫の晩年の失態を見たくないといった様子で……。