学会からのお知らせ

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第12回「地中海学会ヘレンド賞」(第11回受賞者:金原由紀子・平山東子両氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(30万円:星商事提供)が授与されます。授賞式は第31回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2007年1月9日(火)〜2月13日(火)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第31回地中海学会大会
 第31回地中海学会大会を2007年6月23日,24日(土,日)の二日間,大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)において開催します。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2007年2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報294号(11月)に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2007年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度から会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2006年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報294号(11月)に同封してお送りしました。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成しています。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
 2007年2月23日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2007年4月23日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
お申し込み人名等:「口座名義人」の他に「お申込人名(会員名)」等の欄が振替依頼書の2枚目(青色)にありますので,こちらもご記入下さい。
会員用控え:3枚目(黒色)は会員用です。お手元にお控え下さい。


事務局冬期休業期間:
 2006年12月27日(水)〜2007年1月8日(月)














アウグストゥスの妻リーウィア


島田 誠


 紀元後14年に亡くなったローマ帝国初代皇帝アウグストゥスは,その遺言状で「第1位の相続人として,ティベリウスを遺産の三分の二の,リーウィアを遺産の三分一の相続人に指名し,彼らに彼自身の名前(アウグストゥス)を継ぐこと」(Suetonius, divus Augustus, 101)を命じていた。ティベリウスは,アウグストゥスの養子であり,老齢の皇帝に替わってローマ帝国の軍事・行政の責任を担っていた事実上の帝国の共同統治者であった。リーウィアはアウグストゥスの妻であり,ティベリウスは彼女と前夫の間に生まれた息子であった。本稿で紹介するのは,このアウグストゥスの妻リーウィアである。彼女は同時代の歴史家からは生まれも美貌もローマ女性の中で抜きんでていた,と評される共和政末期から帝政成立期の女性である。
 リーウィアは,紀元前58年に共和政ローマの名門に属するマールクス・リーウィウス・ドゥルースス・クラウディアーヌスの娘として生まれ,やはり名門のティベリウス・クラウディウス・ネローと結婚し,紀元前42年長男ティベリウスが誕生した。共和政末期の内乱の中,父は前42年に敗死し,彼女も夫と共に亡命生活を余儀なくされたが,何とか帰国できた。しかし,当時,酷薄な独裁者として知られていたオクターウィアーヌス(後のアウグストゥス)が,彼女の美貌と家柄に魅かれ,2人目の子供を妊娠していたリーウィアを離婚させて前38年に再婚した。その後,リーウィアは新しい夫と50年余り連れ添うこととなった。この間,彼女は,激しい政争を経て息子を夫の後継者とすることに成功し,夫の死後は息子に対して多大な影響力を有していた。リーウィアは,紀元後29年に亡くなり,孫のガーイウスが第4代皇帝になった紀元後41年には神格化され,夫と同じくローマ市民たちの崇める神々の一人となった。
 さて,実はアウグストゥスの遺言におけるリーウィアの扱いは,古代ローマ人の法慣習からすれば異例なものだった。この時代のローマでは配偶者間での遺産の相続は普通は認められていなかったのである。リーウィアは,亡夫の相続人となったため,生家のリーウィウス氏ドゥルースス家から夫の家,ユーリウス氏カエサル家に移籍して,法的には亡夫の養女となった。
 さらに彼女は,息子と並んでアウグストゥスの名を継承することを命じられていた。その結果,彼女は公式に
はユーリア・アウグスタと改名した。アウグストゥスの没後,彼と家族関係を有する最後の支配者ネローが自殺する紀元後68年まで,アウグストゥスを名乗った男性は4名,アウグスタを名乗った女性はネロー帝の母アグリッピーナを含めて3名存在する。俗に紀元前27年にオクターウィアーヌスがアウグストゥスという称号を与えられて帝政を樹立したとされるのは根拠のない謬説であり,この時代においてアウグストゥスは称号ではなく,個人名の一つに過ぎなかった。ただし,この時代にも,アウグストゥスも,アウグスタも同時に一人しか名乗ることができず,アウグストゥスを名乗る男性が皇帝であったことは事実である。
 では,リーウィアをはじめとするアウグスタたちの地位はどのようなものだったのだろうか。この点に関して,近現代の研究者たちの間に一致した見解は存在しない。アウグスタを単なる尊称に過ぎないと主張する者,制度面とは別の政治的な地位(共同統治者)を示すとする研究者,少なくともアウグストゥスはリーウィアに何らかの制度的な地位を与えようとしていたとする論者が存在する。詳しい議論はここでは省くが,筆者は,ネロー時代までのアウグスタたちが,帝国の「共同統治者」であったと考えている。
 古代の著作家たちは,アウグストゥスの没後(遺言状の公開後)に,ティベリウスとリーウィアの間に,リーウィアの政治的地位をめぐる軋轢が存在したことを伝えている。歴史家タキトゥスは「彼(ティベリウス)は嫉妬に悩み,女性の至高の地位を自らの地位の低下と受け取っていた」(Tacitus, Annales, 1. 14)と述べる。アウグストゥスの死を境にしたリーウィアの立場の変化は,当事者である息子のティベリウスのみならず,男性優位の古代ローマ社会の支配階層に属する著作家たちをも悩ましたのであろう。その戸惑いを端的に示すのがタキトゥスのリーウィアに対する評価である。邦訳書では「母として尊大に,妻として従順に」と訳されている文句は,夫アウグストゥスの生前は当時の社会常識の枠内での良妻であったリーウィアが,夫の遺言をきっかけにその節度を超えたことへの戸惑いと批判が込められているのであろう。リーウィアは「母としては(女性の)身の程を弁えない,妻としては分相応な」行動をとっていた,と古代の著作家たちに見られていたのである。














ハギア・ソフィア大聖堂:空間を囲む大理石


岩出 まゆ


 直径31メートルという巨大なドーム架構が名高いコンスタンティノポリス(現イスタンブール)のハギア・ソフィア大聖堂(現アヤ・ソフィア博物館)は,6世紀のユスティニアヌス帝による建築の傑作として知られている。その建築内部に現存する意匠としてはモザイクが著名であるが,ドームの起拱点となる,床から23メートルのコーニスの高さまでの壁面を彩るのは,色鮮やかな十種類以上の大理石化粧張りである。エクセドラやギャラリー階の身廊に面したアーチ列を支える円柱もまた,ポーフィリーやヴェルデ・アンティークといった貴重な石材のモノリス部材でできている。6世紀の創建以来,これらの大理石は,地震や外壁工事,スポリアなどの様々な危機にさらされてきたが,1500年以上の時を経た今もなお,プロコピオスやパウロス・シレンティアリオスが伝える往時の壮麗な姿を現代に伝えている。
 ハギア・ソフィア大聖堂の大理石による壁面意匠は,水平な帯状意匠とその間を縦に分割するデザインを基調とし,さらにアプスや西側壁面などの要となる面には,部分的にオプス・セクタイルと呼ばれる手の込んだ石細工の意匠パネルが嵌め込まれている。全体的には幾何学形の組み合わせが主流であるが,1847年からのフォッサーティ兄弟による一連の修復の際には,西壁面中央のオプス・セクタイル部分に,失われていた十字架や鳩といったキリスト教のモチーフが復元されている。使用された大理石の種類や組み合わせの複雑さに注目すると,アプス,身廊,ナルテックス,側廊,ギャラリー階の順にヒエラルキーを意図して計画されていることがわかる。しかもそれぞれの大理石板は,一枚の板を2枚にひき割ることでできる一対の板材が,左右鏡状対称になるように配されている。こうした対称性は,建物の軸線にもとづく,より大きな配置計画にも明確に表れている。わずか6年弱というハギア・ソフィア大聖堂の建設工事期間を考慮すると,大理石という貴重な材料の調達に先立って,綿密な配置計画が必要であったと考えられる。
 このような見事な仕事が可能となった背景には,古代ローマ時代以来の伝統がある。ローマ時代には,多くの貴重な色大理石が遠隔地から運ばれ,豊かな大理石文化が花開いた。裕福な一般市民の住居にも大理石が壁面意匠として利用されていたことは,ポンペイの遺跡も伝えるとおりである。地中海を介した物流システムが高度に
発達し,石切り場の多くが国有化され,専用の運搬船で各地からローマまで運ばれるシステムが構築されていたのである。301年のディオクレティアヌス帝の『最高公定価格令』からは,エジプト産の赤色のポーフィリー,チュニジア産の黄色い石材,ギリシアのテッサリア産の緑色石材,小アジアはフリュギア産の赤紫と白色の網目状の石材などの色鮮やかな板材が,帝国内から産する白大理石と比べ,4倍から6倍という高値で取引されていたこともわかっている。色の鮮やかさに加え,斑紋,縞模様の明瞭な石材はとりわけ人気の高い素材であった。
 4世紀以降,帝国の領土が縮小すると,大理石の産地と生産も縮小を余儀なくされた。一方で,ミラノ勅令によるキリスト教の公認以降,次第に富を集めるようになったキリスト教関連施設には,大理石の寄進も行われるようになったことが同時代の記述からうかがえる。
 確認されているローマ時代の大理石が百種類を超えることを考えると,ハギア・ソフィア大聖堂に集められた大理石の種類はごく一部といわざるを得ないが,どれも色鮮やかで貴重な石材ばかりである。また,先に述べた左右鏡状対称模様の製作に適したプロコネソス島産大理石やカリア産大理石といった,明瞭な縞模様を有する大理石も多く用いられた。ポレチュのエウフラシウス・バシリカやラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂,サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂などでもよく見られるこれらの縞大理石は,初期キリスト教建築,およびビザンティン建築を特徴付ける仕上げ材の一つといえる。
 広い空間を囲む壁面を大理石で仕上げる巧みな職人の技術もまた,ローマから継承した財産であった。古代ローマ帝国の繁栄の復活を目指したユスティニアヌス帝の時代に,ローマ建築における富の象徴ともいえる大理石が最大限に活用されたことは必然的であったかもしれない。
 ハギア・ソフィア大聖堂の身廊を見渡すと,大理石の各部材が整然とその巨大な空間の歴史を支えているような錯覚を覚える。そこに紡がれた建築意匠や技術の多くは後に,続くビザンティン建築ばかりでなく,西方キリスト教建築やイスラム建築にも大きな影響を与えることになった。














バスティド研究センターの活動


加藤 玄


 映画『スパニッシュ・アパートメント』(セドリック・クラピッシュ監督作品。2003年日本公開)で,留学手続きをしようとするフランス人の主人公が窓口をたらい回しにされるシーンがある。対照的にバルセロナでの人間関係の密な学生生活がその後の展開となるのであるが,それはさておき,フランスの「お役所仕事」には腹立たしい思いをされた方もいるだろう。その一方で,ひとたび担当者と顔見知りになれば,意外なほどスムーズにコトが運び,個人主義でドライな印象を持たれがちなフランスにおいても人と人の繋がりが大切にされていると感じることもある。
 南フランスにおいて,昨年と今年にそれぞれ2週間ずつ,伊藤毅氏(東京大学教授)を代表とする住宅建築の調査に同行した。中世に創設された「バスティド」と総称される小集落群を対象フィールドとし,史料文献収集に加え,住宅内部の実測,住民への聴き取りが主な調査内容であった。各市町村長を始めとする行政担当者や地元住民の協力を得て,短期間ながら効率的に作業を進めることができたのは,以下に述べるバスティド研究センター(Centre d'étude des bastides:以下,CEB)のバックアップがあってのことだった。
 そもそも同センターとの交流は3年前にさかのぼる。当時,南フランスで予備調査にあたっていた伊藤氏と横張誠氏(一橋大学教授)がヴィルフランシュ=ド=ルエルグ市に滞在中にCEBを訪れ,偶然その場にいたクロード・カルメット代表に会うという幸運に恵まれてのことであった。CEBは1983年に設立され,ヨーロッパにおける植民の歴史の中で,バスティドという都市的遺産を理解・評価し,その政治的経済的観光的意義を確認するため,バスティドに関する資料収集,調査,啓蒙活動を行うことを目的としているという。定期刊行物として,会員相互のニューズレターである“Info Bastide”が1985年1月から現在まで年3回計60号発行されているほか,バスティドに関する概説・個別研究,史料・文献の翻訳を掲載する研究紀要"Les Cahiers du CEB"が 1992年から隔年のペースで刊行されている。さらに,参考文献や都市図をWeb上で公開し(http://etudebastides.ifrance.com/),バスティド研究に有益な情報を提供している。
 しかし,もっとも重要なCEBの活動は人的ネットワ
ークの構築と統括であろう。同施設と提携しているバスティド数は,2006年9月の時点で,13県83箇所にのぼる。われわれが調査対象とするバスティドの候補をカルメット氏にあらかじめ伝えておくと,CEBを通じて連絡が行き,現地の代理人によって,市町村長とのアポイントメント,宿泊施設や作業場の確保,閲覧可能な史資料の準備,内部調査が可能な住宅の提示などさまざまな手配がなされていた。紙幅の都合上,全員の名を記すことはできないが,ソーヴテール・ド・ルエルグでは同市助役クロード・ジネステ氏に,モンフランカンではリセの元教授ジョルジュ・オド氏とCEB書記長で地元ラジオ局のDJをこなすクロード・ポンス氏に,モンパジエでは元会社経営者のミッシェル・コスト氏に,ジモンではリセの元教授ジャック・ラジュー氏に,とくにお世話になった。この場をお借りして,深く感謝したい。
 元建築家のカルメット氏を始め,中心メンバーの大半はすでに職業上はリタイアし,悠々自適な年金生活を送りつつ,趣味の郷土史研究に情熱を持って取り組んでいる。しかしながら,CEBは単なる歴史愛好家の集団に止まらず,その活動は学術的にも高い評価を受けている。例えば,1987年にモントバンにて開催された国際記念物遺跡会議の場でカルメット氏が行った報告は,『バスティドの恒常性と現状』と題された報告集に収録され,CEBが作成した14県314箇所にのぼるバスティドの網羅的なリストも巻末に付されている。近年は,フランス国立科学研究センター(CNRS)の一部門で,トゥルーズ大学に本拠を置くフラメスパFRAMESPAに協力し,イベリア半島における植民集落の研究にまでその活動の場を広げているという。
 冒頭に挙げた映画の原題はL'auberge espagnolである。直訳すれば,「スペインの宿」となるが,スラングでは「混交状態」という意味もある。EU時代のヨーロッパの若者のぶつかり合いを羨ましく思いつつ,われわれとしても草の根レベルの国際交流は望むところである。カルメット氏が期待している「CEB日本支部の設立」が実現可能かどうかは定かではないが,今後も何らかの形で交流を続けていきたい。













やきものトロンプ・ルイユ


大平 雅巳


 デパートの食堂やちょっと庶民的なレストランのガラスケースの中に,本物そっくりの食品サンプルが並んでいる。なぜかパスタが空中に伸びて,その先にフォークが浮かんでいたりする,あれである。別に理由はないのだが,長いこと食品サンプルは日本のオリジナルだと思い込んでいた。
 ところが,である。あちらこちらのヨーロッパのやきものを見ていると,そもそもの発想はここにあるのではないかと,思わせるようなものに出くわす。
 それは,イタリアはファエンツァ産のマヨリカ陶器。直径30センチほどの皿の上に,リンゴやスモモ,ブドウや洋ナシのような果物のほか,ソラマメのような野菜が,色も形も大きさも,実物そっくりに再現されている(下の左図)。作品によって盛り付けられる果物の種類はさまざまだが,16世紀前半のイタリアのいくつかの陶器町でこうしたやきものがつくられているのである。
 もう少し古いものを探してみると,フィレンツェのルカ・デッラ・ロッビアにたどり着く。たとえば1429年,彼が制作したサンタ・クローチェ聖堂内パッツィ家礼拝堂の玄関天井円蓋には,パッツィ家の紋章を囲む円形のフリーズに,実物そっくりのオレンジやブドウが浮彫りで表現されている。いうまでもなくルカは,彩釉テラコッタの技術を彫刻の世界に取り入れて成功した人物で,これももちろん陶製である。
 こうした果実の表現は,ルカの跡を継いでロッビア工房の中心となった甥のアンドレアや,その子のジョヴァンニの代になると,さらに増えてくるように見える。彼らが精力的に制作した大きな円形や半円形の浮彫りの周囲には,しばしば葉の緑も鮮やかなオレンジやブドウ,リンゴなどがびっしりとめぐり,中にはこれだけで表現されたトンドもある。もちろん同じく周囲を飾る白バラ同様,キリスト教ゆかりの表象としてであって,食品サンプルであるはずはない。
 しかし興味深いことに,こうした浮彫りから発想したのか,ロッビア工房では立体物もつくっているのである。それは,高さ30センチほどの青色の壺の上に,蓋のようにして皿を載せ,その上に件の果物や野菜を盛り付けたもので,蓋だけ,あるいは壺だけになってしまったものを含めると,かなりの数が残っている。先のファエンツァの作例はその流れを汲むものであろう。建築や絵画の分野にトロンプ・ルイユと呼ばれる手法があるが,これなどはまさに,そのやきもの版といえる。しかし,たんに人の目を欺き,楽しませるだけではなく,腐敗も変色もせず,しかも壊れにくいささげものとして聖堂内に飾られた実用的なレプリカであった。
 やや時代が下がるが,同様の作品はスペインやフランスなど,マヨリカ陶器と同系統のファイアンス(錫白釉陶器)の産地にもあった。中でも出色の出来栄えを見せているのが,ストラスブールである。18世紀中頃のストラスブールには,アノンという一族が経営するファイアンス工場があり,絵付けの美しいテーブルウェアで知られていた。そのアノン工場が得意としたものの一つが,トロンプ・ルイユである。
 有名なのはさまざまな形をした大型の蓋付きスープ入れで,野菜ではキャベツやカリフラワー形,動物では七面鳥や鴨,鯉,少々グロテスクなものでは切り落としたままのイノシシの頭形などもある。これらは,具だくさんであった当時のスープの中身を連想させる器として,実際に使われていたものだが,一方,どうみても使いにくそうなものもある。オリーブやチェリーの実をふんだんに盛り付けた皿,アーティチョークやカットしたゆで卵を美しく並べた皿(下の右図)などである。
 これらは,おそらくテーブル装飾の一つだったと思われるが,あるいはなんらかの別の用途があったものなのか,じつはよくわかっていない。当然かもしれないが,「何を食べた」という記録に比べ,「どのような器で食べた」という記録はとても乏しい。同時代の日記や絵画の中に,少しずつ手がかりを探し始めたところである。
いずれにせよ,東京のかっぱ橋道具街も顔負けの,まさに見事な食品サンプルではないだろうか。



ファエンツァ製



ストラスブール製













遥かなる開拓の道のり
──「大学博物館」になるために──


米倉 立子


 去年の今頃は想像だにしていなかったことだが,それまで九州には縁遠く,一歩も足を踏み入れていなかった私が福岡で暮らし始めて既に半年を越した。福岡の中心部にも程近い西新(にしじん)にある西南学院大学が大学博物館を今年の5月に開館することとなり,そこに勤務することになったのである。1月後半に行われた面接の後,担当者に付き添われて,博物館として使われる古いレンガ造りの3階建ての建物を覗かせてもらった。薄暗い館内の玄関のたたきで靴を脱ぎ,つま先の浅いスリッパに履き替える。板敷きの廊下を進むと1階はまだ一切の備品が入っておらず,がらんとした部屋ばかりである。上階への木製の階段は,段板が磨り減りわずかに波打っていて,一段進むごとにスリッパが脱げそうになって苦心した。何とか取り繕いながら着いた先は,上階がギャラリー状に取り巻く,吹き抜けになった講堂であった。そこは,多くの窓が並び,白い漆喰壁と天井,黒に近い焦げ茶色に塗られた腰板やギャラリーを支える柱,シンメトリカルに並べられた同色の長椅子の列が生み出すコントラストが美しいモノトーンの空間だった。外観についても,寄棟屋根以下の壁体は方形に収まり,2本の煙突や窓の並びが左右対称であることから,安定感がある一方でリズムを感じさせる。この建物は,建築家W.M.ヴォーリズが設計したもので,既に完成から85年経つが,モダンかつどこか懐かしさを感じさせる心地のよい空間であった。
 この建物は,もともと西南学院の礎となった旧制中学の本館として1921年に建てられ,以後2003年3月まで後年建てられた周辺校舎と連結した形で西南中・高の校舎の一部として使われていたのだが,中・高が当地から移転することになったので,ここだけを残して新たな活用を目指したのである。幸いなことにヴォーリズの設計図や初期の写真が残されていたため,それらを基に完成当時の形に復元して建物の保存を図り,文化遺産と位置づけた上で,博物館として広く一般に公開する形の活用が考えられた。つまり,本来校舎の一部であって,かつ主な素材がレンガと木からなるこの建物をまったく目的の異なる博物館という形に変身させねばならないのだ。さらに,建物自体が福岡市の有形文化財に指定されているため,画鋲ひとつ自由には壁に挿せないのである。建物の佇まいや雰囲気を生かし,それ自体を最大にして最重要な資料として位置づけて利用しなければならない。建物の魅力としては他に代えようがないが,新たに博物館施設として建物を作るよりもこの改変は難題なのではないだろうか。
 気密性に劣る建物の性質ゆえ,室内の温・湿度の管理が難しく,資料はケース内展示が主となる。キリスト教主義の大学であるため,展示対象はキリスト教関連,またその母胎となったユダヤ教関連資料としているが,いかんせん自前の収蔵品がまだまだ少ないのも目下の悩みである。しかも,当館の防災・防犯上の条件等を鑑みると他館から大事な資料をお借りするのは,自らためらってしまう状況である。バリアフリーが求められる現代において,エレベーターが設置されていないというハンデもある。さらに,収蔵庫も館内にはスペースがないので,別の場所に用意することになったが,その部屋も本来収蔵庫には想定されていないので,温湿度の安定やUVカットなど種々の問題をクリアして資料保管にふさわしい環境に整えるのも一苦労である。「早く博物館になりたい」というのが,最近私がよく唱える言葉である。開館はしたものの,まだ道半ばだ。
 しかし,無機質な「使い勝手のよい」建物にはない,人に使い込まれてきたことで生まれる空間の親しさを不都合や不便よりも尊重して再生させることは,ある意味最も時代の要請に合った現代的課題ともいえよう。展示と保管という本来的矛盾をさらに不都合・不便と重ねてきた時間の尊重という矛盾で包含し,「居心地のよい」大学博物館として,また地域へ開かれた大学の顔として,もうひと頑張りしてもらおうという目標に向かい,試行錯誤の開拓途上である。












表紙説明   地中海の女と男1

聖母マリアと男たち/末永 航


 新しいシリーズ,その最初の表紙にふさわしいものは何か。ずいぶん悩んだ末に,地中海圏でたぶん最大のキャラクターの一人,マリア様に登場してもらうことにした。
 このマリアという人について聖書には意外にもあまり詳しい記述がなく,まるで代理出産をした人みたいな扱いだ。ところが中世以降,マリアの物語はどんどんふくらんで,「無原罪のお宿り」で生まれて,死後は天国で「元后」になるという,ものすごい存在になっていく。
 地中海の人々の「母」への気持ちが,マリアに注ぎ込まれたのだった。
 特にイタリアは「聖母(マドンナ)の国」といわれるくらいだ。すべての男は「マザコン」だし,街はマリアのイメージであふれかえっている。今日この瞬間も何人ものイタリア人が咄嗟に「マドンナ!」と叫んでいるにちがいない。
 さて,純潔のマリアに係わる男はふたりいて,どちらもなかなか微妙で特殊な関係にある。
 ひとりはもちろんキリストだ。息子ではあるけれど,それは本来の立場ではなく,天国ではマリアに冠を授ける役を担う。
 今ひとりが哀れなコキュのようにもみえる夫ヨセフである。この人について聖書はさらに語ること少なく,ただ「正しい人」(マタイ1-19)とあるだけで影が薄い。「聖家族」にセックスを持ち込まないために,生殖機能を失った老人にさせられることが多く,マリア物語の都合で,いいように人物像を作り替えられていく。
 だがそんな控えめでやさしいお父さんを愛おしむ人々も少なくなった。中世末から,勤勉な大工,立派な父としてイメージされることが増えていく。15世紀にはローマ教会でも3月19日を聖ヨセフの日として聖務日課に取り入れ,その後対抗宗教改革時代のスペインやイタリアでヨセフ崇敬は大きな流れになった。マリア同様,キリストから冠を授かるという絵画もよく描かれる。その後1870年には教皇ピウス9世が「全教会の保護の聖人」に指名した。
 今回表紙にしたのは,16世紀末から17世紀にかけてイタリア絵画の指導的な位置にたったボローニァ派のカラッチ一族の中でも,最も有名なアンニバレが1590年に描いた《聖家族と洗礼者ヨハネ》という銅版画である。老人だが堂々としたヨセフが聖書を朗読しているらしい。マリアはキリストと,そしてイエスと一緒になっていてよく見ないとわからないヨハネをあやしながら,それを聴いているようだ。
 ジェンダーを考えながらこの絵を見ると,妻に子供の面倒をみさせて威張っている父親とも見えるし,女性を家事だけに専念させて,知的な部分は独占する男という図式も読み取れるかもしれない。当時たくさん売られていた教訓版画のひとつだったことを考えると,父権強調という意図はあったのだろう。
 聖ヨセフは,もうちょっとだけ弱々しい方が可愛げがあるようにも思えるが,とにかくマリア─キリスト─ヨセフの奇妙な三角関係,いろいろと興味が尽きないのである。