学会からのお知らせ

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催いたします。奮ってご参集下さい。

テーマ:古代ロドス島の彫刻活動
発表者:芳賀 京子氏
日 時:12月9日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷校舎法文1号館3階315教室
    (最寄り駅:地下鉄「本郷三丁目」「東大前」東大キャンパスサイトhttp://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01_j.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 ヘレニズム時代,ロドスの政治的・軍事的・経済的繁栄は頂点を極め,数多くの彫刻家がこの地で腕をふるっていた。この島は彫刻生産活動の一大中心地だった。そうした人材や技術力はどのようにしてこの地に集積され,花開いたのか。島出土の作品と彫刻家の署名を手がかりにして,《サモトラケのニケ》や《ラオコーン》などの有名作品も織り交ぜながら,古代ロドス島における彫刻活動の開始から終焉までを追うことにしたい。

*第31回地中海学会大会
 第31回地中海学会大会を2007年6月23日,24日(土,日)の二日間,大塚国際美術館(徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)において開催します。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2007年2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には本号に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円
    学生会員  6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2007年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2006年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(294号)に同封してお送り致します。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
 2007年2月26日(月)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2007年4月23日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。


訃報 10月15日,会員の片桐頼継氏が,11月1日,会員の福部信敏氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。








『草枕』とセザンヌの手紙

中山 典夫


 今年(2006年)はセザンヌ没後100年になる。画家が生まれ,そして世を去った地エクス・アン・プロヴァンス市は,この夏,大がかりな記念行事を計画し,姉妹都市にとのぞむ熊本市にも招待状をおくった。そこで,議会開催中の市長に代わる熊本市文化生活部長,熊本市商工会議所会頭,熊本日仏友好協会の代表,それに美術史を専攻する者として筆者が,招待に応じた。
 6月の南仏の暑い日差しの下,かつて晩年のセザンヌが絵画の新しい可能性を思索して彷徨したビベミュの剣呑な山路を辿るとき,文化生活部長がふと「今年は漱石が『草枕』を発表して100年目でもあるんですよ」とつぶやいた。『草枕』の舞台は,熊本西方の峠を越えた温泉場だという。
 筆者にとってその一言は,セザンヌと『草枕』をつなぐ一条の光となった。

 『草枕』の主人公は,現代文明に背を向ける30歳の青年画工である。彼は,行き着いた温泉宿の長閑な春の夕暮れに,「窈然として名状しがたき楽(たのしみ)」に酔う。そしてそのとき,この「名状しがたき楽」を絵であらわすことはできないか考える。
 だが,この「楽」は目に見えるものではない。
 「あらん限りの感覚を鼓舞して,これを心外に物色したところで,方円の形,紅緑の色は無論,濃淡の陰,洪繊の線(すじ)を見出しかねる。」
 「楽」は,色と形をもって外から来たのではない。心の内に名状しがたく湧いたのである。「この心持ちを,どうあらわしたら画になるだろう。」
 「色,形,調子が出来て,自分の心が,ああ此所にいたなと,忽ち自己を認識するようにかかなければならない。……この調子さえ出れば,人が見て何といっても構わない。画でないと罵られても恨はない。」
 「いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表し,線の曲直がこの気合の幾分を表現し,全体の配置がこの風韻のどれほどかを伝えるならば,形にあらわれたものは,牛であれ馬であれ,乃至は牛でも馬でも,何でもないものであれ,厭わない。厭わないがどうも出来ない。」
 世紀を代表する文学者であっても,画家でない著者にとってこの思索はけっきょく,「出来ない」というあきらめに帰着する。それゆえ,彼の抽象絵画論はこれ以上進まない。

 同じ頃,南仏のエクス・アン・プロヴァンスでは老いたセザンヌが,「人が見て何といっても構」うことなく,その作品を「画でないと罵られ」ながら,目に見える世界からの絵画の自立を求めて,格闘していた。1904年4月15日,すなわち世を去る二年前,数少ない理解者の一人エミル・ベルナールに宛てて次のように書く。
 「たびたび説明したと同じことをここに再び繰り返すのを許してください。自然は球体,円錐体,円筒体として取り扱わねばなりません。
 そしてそれらは透視法に従い,すべての線は中心となる一点に集注されねばなりません。
 ……水平線に直交する垂直線は,深みを与えます。そしてわたしたち人間にとって,自然は表面よりも奥行きですから,赤と黄の光のなかに,空気を感じさせる多くの青をくわえることが必要です。」
 これが,「あらん限りの感覚を鼓舞して心外を物色」し,目に見える世界と戦いつづけた孤独な画家が,絵画の自律のために自然から抽出した「方円の形,紅緑の色,濃淡の陰,洪繊の線」であった。そしてこれら純化された造形言語は,新しく秩序づけられた「色の配合」,「線の曲直」,「全体の配合」でもって,いまや目に見えない人間の内面を表現することをはじめた。
 絵画は,「牛でも馬でも,何でもない」,歴史でも,神話でも,風景でも,肖像でもないものでもって,人間存在の瞬間を永遠化することへと向かったのである。

 片や,喧噪うずまく都会を離れてミカン畑と大海を見下ろす九州の温泉場,他方,底抜けに明るい太陽の輝く南仏プロヴァンスの岩山,それぞれの地で今から100年前,今日の美術を支配する表現主義的抽象絵画の可能性が思索されていたのだ。








研究会要旨

近世初頭オスマン朝下エジプトのヨーロッパ商人
──ヴェネツィア人を中心に──

堀井 優

10月7日/東京大学本郷キャンパス


 いわゆる東地中海地域(レヴァント)は,古来アジア,アフリカ,ヨーロッパをつなぐ複数の主要ルートが結節する東西交通の要衝にあたり,異文化間の接触と交流が大規模に展開される場だった。11世紀に西ヨーロッパ人が東方への軍事上・商業上の進出を開始して以降,レヴァント諸都市に居留するヨーロッパ商人は,ヨーロッパ商業の最前線の一部を担い続けた。一方,東地中海の南半分は7世紀のアラブ人の征服活動によってイスラーム圏の一部となり,11世紀末以降はビザンツ圏の東半分のアナトリア半島でもトルコ人の進出によってイスラーム化が進行した。その延長線上に現れたオスマン帝国(1299〜1922)は,14・15世紀にアナトリア・バルカン両半島に領土を拡大し,1517年に東アラブ地域の大国マムルーク朝(1250〜1517)の領土を併合した。以後,帝国の東地中海支配は,おおむね18世紀まで持続する。それゆえ近世レヴァント貿易はオスマン社会とヨーロッパ商人との関係を前提に成立したはずであり,その関係の中で生じる利害を調整しつつ貿易秩序を維持する仕組みは,きわめて興味深い研究対象といえよう。本報告では,16世紀中葉に焦点をあて,東地中海の条約体制およびオスマン・ヴェネツィア間の行政ネットワークが,エジプトにおけるヴェネツィア人の活動を秩序づけていた仕組みの一端を明らかにした。
 かつてシリア・エジプトを支配したアイユーブ朝(1169〜1250)・マムルーク朝は,ヴェネツィア・ジェノヴァ等のヨーロッパ貿易国家に対して,居留商人が順調に活動するために必要な多くの権利を付与していた。オスマン帝国も14世紀中葉以降,友好・貿易上の規定を記したアフドナーメ(条約の書)をヨーロッパ諸国に付与していた。ヴェネツィアへのアフドナーメにおける諸規定は,1517年以降はシリア・エジプトのヴェネツィア人にも適用され,また16世紀中葉には新たにフランス人にも適用される。オスマン条約体制は,帝国の勢力拡大に伴って,東地中海を包摂する普遍性を強めていったといえよう。
 オスマン帝国・マムルーク朝ともに,ヨーロッパ商人の居留条件にかかる規範構造は基本的に同じだったから,オスマン条約体制はマムルーク朝規範をおおむね容易に包摂しえた。ただしヴェネツィア人と現地社会との利害調整のための交渉・裁判規定については,重要な変化が見られる。マムルーク朝では,領事はスルタンとの
交渉権を有し,また商人がかかわる裁判の判決者はスルタンか海港の総督等の行政官とされた。一方オスマン帝国では,商人のかかわる裁判はカーディー(イスラーム法官)の判決に委ねられた。バイロ(駐イスタンブル領事)についてはもともと規定がなかったが,1521年に,スルタンが判決するとの規定がもうけられた。現実の状況をエジプトについて見ると,アレクサンドリアのヴェネツィア人領事は,マムルーク朝期にはカイロのスルタン政権,オスマン期には州総督を交渉相手としたから,領事の支配者との交渉権は継続した。商人のかかわる裁判については,オスマン期にはカーディーが判決したから,マムルーク朝当該規定は意味を失ったことになる。
 実際の交渉行動に関連して重要な事実は,オスマン帝国の拡大によって,東地中海におけるイスタンブルの中心性が高まり,それに伴ってヴェネツィア人バイロの役割の重要性も高まったことである。エジプトのヴェネツィア人とオスマン権力との間で発生する諸問題は,しばしばイスタンブルの宮廷の動向と関連し,宮廷におけるバイロの交渉課題となることもあった。そのような事例は,ムスリム海賊によるヴェネツィア船襲撃,ヨーロッパ人の海賊行為,ヴェネツィア人の債務問題など,条約規範に直接かかわる問題が発生した場合に,とりわけ多く見いだされる。オスマン条約体制は,イスタンブルを中心とする広域的な行政ネットワークをつうじて運用されていたのである。
 ヨーロッパ人と現地社会との日常的な利害関係は,カーディーが主宰するイスラーム法廷で調整されていた。イスラーム法では,契約の締結や訴訟の審理のさいには,証人による証言が証拠能力をもつとされる。アレクサンドリア法廷記録から得られる1550〜51年のいくつかの事例を見ると,ヴェネツィア人も,ムスリムやユダヤ教徒との関係においては,このルールに従っていた。今後より多くの事例を集めるなかでとりわけ注目すべき点は,ヴェネツィア人が,同じヴェネツィア人を証人として立てうるというアフドナーメで認められた権利を,実際に行使していたかどうかである。
 近世東地中海の貿易秩序は,広域的な条約体制や行政ネットワークから,海港社会における利害調整の仕組みまで,オスマン史料とヨーロッパ史料を併用しつつ,多元的に理解されるべきである。本報告の意義は,その端緒となる作業を示したことにある。








EUの通商政策と地中海

鈴井 清巳


 EU(欧州連合)の発展途上地域に対する通商政策の性質を,欧州統合プロセスとの関連で明らかにするのが私の研究テーマである。ここ数年は,特に地中海地域に対する政策(Mediterranean Policy)に関心を持ち,現地調査をしながら論文を執筆してきた。本学会会員の研究を拝見すると,歴史,芸術,文化,建築等の専門家が多数派で,地中海の現代経済に関する研究は見当たらない(私が知らないだけかもしれない)。はなはだ心細くなるが,学際的な学会であることが特色であり,あたかも地中海のような多彩な豊かさのゆえに入会することにしたのであるから,勇気を振り絞って筆をすすめることにしよう。
 EUの通商政策,あるいは広く対外政策の一つに,地中海政策があり,とりわけ1995年にバルセロナで採択されたバルセロナ宣言を基に,欧州地中海パートナーシップ(バルセロナ・プロセス)が始まり,すでに10年以上を経ている。これは,2010年までに,EUと地中海諸国との間に自由貿易圏を創設し,安定と繁栄の広域経済圏を実現することを目的としたものである。EUの地中海政策という場合,「地中海(Med)」の範囲は,欧州統合の進展(拡大)とともに変化してきた。決して厳格な地理的概念ではなく,EUに独自の政策的概念である。かつての「地中海」諸国には,スペイン,ポルトガル,ギリシアが,2004年までは,マルタとキプロスが含まれていた。しかし,EU加盟によってそれらの諸国は「地中海」諸国を卒業し,晴れてEUの一員となり,政策の客体から実施主体に変わったのである。現在の「地中海」諸国は,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,エジプト,イスラエル,レバノン,パレスチナ自治政府,ヨルダン,シリア,トルコの10カ国であり,リビアがオブザーバーとして参加している。当面の課題として,トルコの加盟という大問題を抱えている。この「地中海」概念は,EU的特殊概念であって,国連や世界銀行では,北アフリカ・中東諸国を含めた,MENA(Middle East and North Africa)という地域概念しかなく,MedとMENAは,共通部分があるもののはみ出す部分がかなりあり,経済統計は共通して使えない。また,「地中海」諸国に関するEUの統計局Eurostatの貿易統計などを時系列的に表として作成する場合も,注意深く扱わないと,構成国がずれ,不正確なデータとなってしまう。
 2004年度から2年間,アジア経済研究所の「開発戦略と地域統合──エジプトを中心に」という共同研究に
委員として参加し,私は特にEUの地中海通商政策を中心に担当した。2004年の秋に行った2週間の海外調査では,パリ,ブリュッセル,カイロ,ルクソール,アスワンと一人で回った。パリの外国人労働者の現状の視察,OECDの地中海地域の政策担当者からの意見聴取,ブリュッセルにある欧州委員会の通商政策及び地中海政策担当者に対する聞き取り調査,カイロではエジプト外務省及び対外貿易省での外交官や通商担当者との意見交換,カイロ・アメリカン大学の通商問題研究者との対話,駐カイロ欧州委員会代表部ではEUエコノミストと意見交換を行った。日本での文献研究や経済統計の分析だけからでは窺い知れない現地の経済の空気を吸い,政策担当者の本音を聞くことができ,研究上大変有益であったが,何よりも現地住民の息遣いを感じ,生活の実情を直に見ることができたのは,大きな収穫であった。また,昨年(2005年)の10月3日から,トルコのEU加盟交渉が開始されたのであるが,EU構成国になることを悲願とするトルコの素顔が見たく,10月末の断食の時期に現地を訪れた。イスタンブールから,エーゲ海沿岸を通り,コンヤ,カッパドキア,アンカラを回り,夜行のエクスプレスでイスタンブールに戻った。約2,000キロの道程であったが,広大なトルコの多様性を実感することができ,また経済活動の現状を垣間見て,机上の研究からは得られぬ示唆を大いに受け取った。「果たしてトルコはヨーロッパか?」。2004年の調査の際,EUの多くの政策担当者がトルコの加盟にはあと10〜15年はかかる,と口を揃えて言っていた意味を理解した。
 エジプトやトルコでは,バザールにひしめく小商店の店頭に並ぶ商品とその価格,そこに買いに来る人々の着衣や持ち物,道を走る中古自動車やバイク,その脇を歩く家畜,古びた家屋の上に聳えるモスク,それらが渾然一体となった街並みを見ながら時間を忘れて歩いた。延々と広がる不毛な土地を眺め,農業の生産性向上の困難さを思う。また健全な2次産業が発展しないまま,農村の余剰労働力を都市の3次産業が吸収している歪んだ現状を目の当たりにすると常に思う。現在の主流派経済理論である新古典派経済学に言う,「市場」は成立しているのであろうか。EU=地中海地域に自由貿易圏を成立させ,貿易・投資を活性化させることが,住民の経済的厚生の向上に繋がるのであろうか,と。
 欧州統合のスローガンである,Unity in diversityの理念を,これからも現地を歩きながら考えていきたい。








アルメニア正教の教会堂建築
──東西文化の接点に建つ建築群──

藤田 康仁


 アルメニア建築とは,東西はアナトリア東部からカスピ海,南北は南カフカスからイラン北部に及ぶ,いわゆるアルメニア地域に建設されたアルメニア正教の教会堂建築をいう。ノアの方舟の漂着地,アララト山を抱いたこの山岳地域に暮らすアルメニア民族は,ローマ帝国やペルシア,イスラームやモンゴルなどの東西の政治勢力に挟まれ,間断ない強国の脅威に晒されてきた。こうした地理的・政治的状況を背景に,オリエント文化と地中海世界の文化の接点ともなっていたこの辺境の地へ,シリアやカッパドキアからキリスト教がもたらされたのは,3世紀末のことである。世界で初めてキリスト教を国教と定めたアルメニアだったが(301年),5世紀の公会議で早々に異端とされる一方,ゾロアスター教やイスラム教による迫害を受けるなど,多くの苦難に見舞われた。こうした厳しい状況のもと,アルメニア正教は4〜19世紀に亙り,独自の教会堂建築を建設し続けた。
 アルメニア建築は,その長い歴史の中で,様々な形の建築を残している。最初期には,長方形の内部空間をもつ単廊式や三廊式の教会堂が主だったが(写真左上:エレルクの教会堂/5〜6世紀),5世紀頃からドームが用いられ始め(同左下:ガルミラヴォル教会堂/7世紀),7世紀には複雑な内部空間を構成するものも現れた(同中上下:スルブ・リプシメ教会堂/7世紀)。停滞期を経て,9世紀頃より建設活動が
再興し,異なる機能の施設が集約する修道院が多く建てられたほか(同右上:マルマシェン修道院/10〜11世紀),建築壁面には多様な彫刻が多く施されるようになった(同右下:ゲガルド修道院/13世紀)。これらはほんの一例で,今日,アルメニア共和国を中心
に,460余の教会堂遺構が確認されている。
 20世紀初頭のオーストリアの美術史家ストシィゴウスキは,平面形式の類型分析から,アルメニア建築の多様性を指摘し,その多様性の中にロマネスク・ゴシック建築の祖型を見出している。後に興った西欧の建築様式が遡及できる,言わば建築様式を納めた「方舟」としてアルメニア建築を捉えたのである。当時まだ認知度の低か
ったアルメニア建築に光を当てた彼の業績は評価できる。だがその一方で,他の建築様式との関係付けに腐心するあまり分類に破綻を来すなど,問題も多い。
 アルメニア建築はその後も,ビザンツ建築など他の建築様式との関係で語られ,その重要性が指摘されてきた。しかし,アルメニア建築を自律的に展開した建築群として捉える視点のないまま,アルメニア建築自体の特質は充分明らかにされずにきたのが現状である。また,平面形の特徴を分類する手法が多用されるが,この手法は建築を平面形という図像に還元するため,立体的な造形物として建築がもつ特質を看過してしまうという方法的な限界もある。これらは,ストシィゴウスキ以後,克服し得なかったアルメニア建築研究上の問題といえる。
 こうした問題点を踏まえて,東京工業大学篠野研究室によるアルメニア建築の調査が1998年から2004年にかけて行われた。アルメニア共和国に残る遺構130余棟を悉皆的に回り,写真・ビデオ撮影をはじめ(本稿の写真は全て当研究室による),平面実測,写真測量による立断面実測など三次元的データの収集も行っている。
 調査を通じてみえてきたのは,架構形式という新たな観点である。ドームを建築の上部に如何に載せるか,その三次元的な構成に,今まで解明されなかったアルメニア建築の特質の一端を捉える足掛かりを見出している。研究はまだ途上だが,まずはアルメニア建築とは何かを整理した上で,東西文化の交わる地とその周辺における建築文化の混淆・交流の様を明らかにしていきたい。





イギリス・ロマネスクの晩餐の食卓ともぐもぐ

金沢 百枝


 「はっきり言っておくが,あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」晩餐のさなか,キリストが言い放った一言の衝撃は想像にかたくない。せめて食事の後だったら,みな楽しく食べ終えられたろうにと,ノース・グリムストンにあるような楽しげな晩餐の情景(下図参照)を見ているとつい思ってしまう。
 「最後の晩餐」は,キリスト伝の一場面として重要であるばかりでなく,聖餐の儀を示唆するため多く描かれた。その見どころは,ダ・ヴィンチの作品を思い起こすまでもなく,裏切り者の正体をめぐる弟子たちの心のざわめきにあるが,じつは晩餐のメニューも面白い。
 マタイ伝によると,「最後の晩餐」は,ユダヤ人のエジプト脱出を記念する過越の祭の夜だったというから,キリストが食べたのは,種無しパンや苦菜など,民族的労苦を象徴するユダヤの伝統料理だったろう。しかし,晩餐図に描かれているのは,空想の食卓である。晩餐のテーブルにあるのは,聖餐の儀に必須なパンと葡萄酒,キリストを象徴する魚ばかりではない。ときには,こんがりと焼けた豚や鶏の丸焼きなど,肉類がところ狭しと並べられている場合もあって,中世の食卓のようすを垣間見ることができる。とくに,ノース・グリムストンの宴の描写は,楽しげだ。
 ノース・グリムストンは,英国北部の町ヨークから120キロほど北東にある小村で,その教区聖堂には12世紀に遡る洗礼盤が残る。石をくりぬいて作られた円筒型の洗礼盤は,大人でもすっぽり入ってしまいそうなくらい大きい。側面には,洗礼盤の図像としては珍しい「最後の晩餐」と「十字架降下」が,聖堂の守護聖人・聖ニコラス像とともに描かれている。
 地元の石工の手による彫刻は浅く,稚拙ともいえる素朴さで,ゆきあたりばったりにさえ見える。「想定範囲外」に余った描写空間を波模様でむやみに埋めているばかりでなく,使徒全員を覆うはずだったアーチは最も端の使徒を覆った段階で中途半端に途切れ,スペース配分の誤りを露呈している。
 じつに純朴な彫り手だったことは間違いないが,細部へのこだわりには並々ならぬものがある。「十字架降下」において,十字架からはずされたばかりのキリストの右手には,几帳面にも,釘の痕がえぐられている。痛々しくあばら骨の浮き出たキリストの身体を抱きかかえる人物の手は力強い。晩餐図の十二使徒は,左手で聖書を胸
に抱き,聖人然ととりすまして居並んでいるが,右手でしっかりナイフを握りしめているようすから,その腹ペコぐあいが伝わってくる。
 食卓には,蓋付の酒杯,十字架模様のついたパン(いわゆるクロス・バンズは,英国では今でも復活節の店頭に並ぶ),魚の入ったボウルが置かれているが,すでに,パンも魚も齧りかけだ。こころなしか,使徒の口元は膨らんでいて,食べ物を頬張りもぐもぐしているように見える。ノース・グリムストンの「最後の晩餐」は,まさに宴もたけなわ。中央で祝福を与えるキリストにはおかまいなし。使徒たちはめいめいの晩餐に没頭している。
 そんな楽しげなようすの使徒のうち,誰がユダか,他と異なるしぐさの人物を探しても,これといった決め手に欠け,特定が難しい。裏切り者ユダの明示を意図する場合,誰にでもわかるよう描き分けるだろうと考えると,ノース・グリムストンの「最後の晩餐」は,例のサスペンス・ドラマ風な描写を意図していないと言えるだろう。あるいは,キリストの衝撃発言以前の晩餐の瞬間を表しているのかもしれない。晩餐後,急展開するキリストの運命,待ち受ける受難の影は,まだそこにはない。もちろん,晩餐図の隣には「十字架降下」があって,既に息絶えたキリストが生気ない身体を晒しているのだけれども。
 こうして,もぐもぐと,楽しげに食事をする弟子たちは,キリストの衝撃発言を聞いたとき,どんな気分だったろう。一瞬にして,食べものの味などわからなくなったに違いない。図の右から三番目の使徒のように,口いっぱいに食べ物を詰め込んでいた使徒は,急いで飲み込もうとしてむせこんだかもしれない。北の果ての仄暗い聖堂の片隅で,堕罪以前の楽園のような,のどかな食事風景を見ていると,胃袋と直結した現実が想起されて,ダ・ヴィンチの晩餐図でさえ空々しく見えはじめてしまうような気がした。

《ノース・グリムストンの洗礼盤》12世紀頃
「最後の晩餐」(左)と「十字架降下」(右)















表紙説明

旅路 地中海25:旅路の果て/小池 寿子


 旅路シリーズ最終回とあらば,辿り着くのは言わずもがなの終の棲家。古今東西,終の棲家を求めて山海を旅した者数知れず,そこに桃源郷やら楽園を見出せるなら,これ以上の幸いはない。五体満足ならばますます上々。まことの終の棲家が墓場であるならいっそう,衰えゆく肉体に適切な快の感覚を求めるのが生身の性というものである。ならば,かのペトラルカ(1304〜1374)のように,田園の薫風に揺らぐ木々を眺め暮らし,心地よい7月の宵に机に突っ伏して果てるのは極上の最期。彼の終の棲家はパドヴァから南西に15キロほど,なだらかなエウガネイ丘陵の小村アルクアであった。
 「アンニュイ」。彼は「想念(ファンタスマ)の病」,より近代的には倦怠といわれる魂の病に取り付かれていた。すべてに意欲をなくし,何もかもが厭わしく,絶望へと追いやられた精神状態。しかしそうした暗い快楽をどこかよしとしている邪な心が宿っている。彼は名誉名声を求める一方,私生児の誕生,ヴァントゥー山頂での開眼,疫病の猛威,愛するラウラの死などを経てなお,この心を抱えて自身が行き着く安住の「港」を捜し求めたのである。埋葬場所としてあげているのは,パドヴァ,アルクア,ヴェネツィア,ミラノ,パヴィア,パルマ,そしてローマであったが,強豪都市のあいだに位置した中立の,中庸の田舎を選んだのだった。そしてアルクアには聖母マリアに捧げられた礼拝堂を建て,その近くに埋葬して欲しいと遺言している。人は「死を遠くに認めるというこの点で誤る」とのセネカの言葉を,「アンニュイ」をもつ彼の心は終始,忘れることがなかったのであろう。
 ではかのラウラと出会ったアヴィニョンは終の棲家にならなかったのだろうか。「かつて美しかりしわらわも死に果ててかかる姿となりぬ……。わらわは昔,飾りたてし屋敷に逸楽の時を過ごしたりしも,今は小さな棺を我が棲家となしぬ……」。この詩を記した壁画がかつてアヴィニョンにあったと伝えられるが,今は15世紀の写本に残るのみ。ペトラルカはこの地で,旅路の真の最後が一条の蜘蛛の糸張る墓であることを知ったのかもしれない。

表紙:《ある婦女の嘆き》『シャティヨン伯ジャック二世の時祷書』挿絵,1430年頃,パリ,国立図書館所蔵写本Nouv.acq.lat.3231, fol.546