学会からのお知らせ

*秋期連続講演会
 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において秋期連続講演会「世界遺産への旅」を下記の通り開催します。各回午後1時30分開場,2時開講,聴講料400円,定員130名です(先着順,美術館にて前売券購入可)。

11月4日 南仏アルルのゴッホ,ゴーギャン
木島 俊介氏
11月11日 ピサ──中世海運国家の栄光
児嶋 由枝氏
11月18日 古都アッシジとウンブリア諸都市
池上 英洋氏
11月25日 モン・サン・ミッシェル──地の果ての異界
小池 寿子氏
12月2日 グラナダとアンダルシア諸都市
陣内 秀信氏
*12月研究会
 下記の通り研究会を開催いたします。発表概要は次号に掲載します。

テーマ:古代ロドス島の彫刻活動
発表者:芳賀 京子氏
日 時:12月9日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷校舎法文1号館3階315教室
参加費:会員は無料,一般は500円















表紙説明

旅路 地中海24:人類の「旅」の絵─ペーチの地下墓所壁画/秋山 学


 2005年8月末から9月初めにかけて,ハンガリー南西部のペーチで行われた第9回オリゲネス学会では,市内に点在する初期キリスト教の考古学的遺跡をめぐるエクスカーションが行われた。2000年に世界遺産として登録された史跡は総計17点に達し,うち9箇所が公開されている。ペーチを訪れる旅人にとって,司教座聖堂前にある「初期キリスト教地下墓所(マウソレウム)跡」はその中で最もポピュラーなものであろう。
 ローマ帝政時代,ペーチは属州パンノニアの一都市「ソピアネ」として知られていた。ガッリエヌス帝(在260〜268)は,父ウァレリアヌス帝によるキリスト教禁止令を廃止し(260),その後ディオクレティアヌス帝(284〜305)による最後のキリスト教徒大迫害(303)が行われるまで,40年以上にわたる信教の自由の時代をもたらした。パンノニアにおいても,3世紀に遡るキリスト教徒たちの活動が考古学的資料から確認される。そしてコンスタンティヌス帝によるミラノ勅令(313)以降には,ドラヴァ川から北側に広くキリスト教が普及した。写真の墓廟壁画は350〜60年ごろのものと推測されている。
 この墓廟の内部北側側壁には,まず最も西側に「アダムとエヴァ」の絵が描かれている。イチジクの葉で恥部を覆う二人の間にはリンゴの木が生え,蛇がからみついている(cf.『創世記』3章)。その東には,製陶のための轆轤かと思われる図がワイン色の赤で描かれている。
これをはさんでさらに東側には,花輪を懸けた両手を挙げて祈りを献げる少年ダニエルと,その足許に2匹のライオンの横たわる図が見える(cf.『ダニエル書』6章)。そして北壁の東端には,おそらく「生命の樹」であろうと推測される絵がある(cf.『創世記』2章9節)。これに続いて東壁にはアーチ型のニッチ(壁龕)が彫り込まれている。その上部にはXとPを組み合わせたキリストのモノグラムが描かれ,そこから左右に花輪が懸かる。ニッチの(向かって)左側には木の葉,棕櫚の葉,花が描かれ,その間に座る白い服を着た人物が認められる。棕櫚の葉を持つことからこれは殉教者像と思われるが,死者を楽園に迎えるキリスト像かとも考えられている。なお南側壁に沿って墓室内東側には石棺が置かれている。
 ペーチの地下墓所に描かれた壁画は,ローマのカタコンベにも匹敵する豊かさと水準の高さを示している。そしてこの墓廟の特質は,おそらくこの場所が祭儀にも用いられたであろうという点である。旧約時代の人類史を辿る絵を側壁に連ねつつ,東壁に高く掲げられたキリストのモノグラムのうちにそれらすべてを収斂させようとしたかに思えるペーチ地下墓所の構図は,ローマ帝国の辺境近くにこれほど高度なキリスト教芸術が開花していたという事実とともに,死者の蘇りをも含めた人類の「旅」をここに描き取ろうとした一画家の歴史観をもわれわれに想起させずにはおかない。









ヴェネツィア雑感

渡辺 真弓


 勤務先の大学から特別研修休暇をもらい,昨年10月から半年間ヴェネツィア暮らしをしてきた。陣内秀信・美子夫妻のヴェネツィア人脈のおかげで,リアルトに近い便利な場所にある古い建物の最上階の家を借りることができた。建築家でもある大家さんには事前にメールで「大きな机」を要望したが,2.5m×1mの古い製図板にクロスをかけたものが用意されていて大満足だった。
 研究テーマは「建築家アンドレア・パラーディオ(1508〜1580)とヴェネツィア」。調べものに通った古文書館(元修道院)やサン・マルコ図書館の主閲覧室(旧造幣局の中庭にガラスの天井が架かる)は,自然光に充ちた空間そのものが素晴らしく,秋の日の移ろいを感じながらそこにいるだけで幸せに感じるほどだった。
 指導を仰いだドナテッラ・カラビ教授に最初に連れて行かれたのは,サン・マルコとリドの間に浮かぶサン・セルヴォロ島。元は修道院の島だったが,18世紀以降は1978年に廃止されるまで精神病者の隔離施設に使われていた。現在はヴェニス国際大学と寄宿舎があるが,美しく改修された明るく立派な施設はヴェネツィア大学全体で共用されている。ここで行われる講演会,シンポジウムなども多く,メールで配信される案内から興味のあるものを選んで時々出かけた。そこで知り合ったのは博士号を取るための勉強中という意味でdottorandiと進行形で呼ばれる人たちだった。
 11月には3泊4日のナポリ研修旅行(中世の教会建築中心)があったが,この企画にはすでに博士号を取ったdottoratiと呼ばれる人たちが何人も参加していた。副業をしながら定職待ちの彼ら若い研究者たちはそれぞれに魅力があり,いろいろ教わることも多かった。建築史学科はヴェネツィアの中にあるのに,サン・セルヴォロ島にもdottorandiが大勢いるのは不思議だったが,それは数年前に教授たちが内部分裂して二派に分かれ,一方が島のほうに本拠を移したからだ,ということがずっと最後の頃の雑談中に判明した。教授間の分裂は彼らには迷惑な話だが基本的に無関係なので,どちらの側の企画でも面白そうなら参加するのだという。学問の世界にも政治問題はあるらしい。
 実はヴェネツィアにいる間に敏感になったのは世界情勢と政治のことである。パラーディオの活動がヴェネツィアでは宗教建築に偏っていたことについても,これまでは厳格すぎる作風が世俗的には受けなかったという論
調が強かったが,最近はパトロンや人脈の研究が進んで,教会関係者が多かったことなどが解明されている。建築が政治と密接な関係にあるのは当然かもしれない。
 ヴィチェンツァのバシリカ・パラディアーナで妹島和世の建築展をやっていると教えてくれたのも研究者の一人である。彼はテアトロ・オリンピコであった妹島の講演会も聴きに行ったが,イタリアにはない軽い建築に惹かれるという。そういえば同じ頃(2005年暮)にパドヴァで,2年に1度の国際建築賞の上位30人くらいの作品をパネル展示した展覧会を偶然見つけたが,1位を含めて日本人の名が4割近くあったのに驚いた。現代建築に関して日本は先端的な位置にあるのかもしれない(日本の都市景観の貧しさとのギャップを何としよう)。
 水上交通と徒歩中心で車のないヴェネツィアから正月に一時帰国した時には,地元渋谷駅前の雑踏にたじろぎ,足がすくんだ。再びヴェネツィアに戻ると,しだいに春に向かう日々を一日も無駄にできないと思った。今年のヴェネツィア建築ビエンナーレの出展作家に選ばれた藤森照信氏の一行がやってきたのは厳寒の1月末。日本館の下見に参加させてもらったので,どのような展示になるか,彼は現代建築家には珍しく土着の要素も取入れてデザインするのだといった話をすると,皆関心を示してくれた。9月以降の反応が楽しみである。
 2月にはゼミの学生,家族,友人らの来訪が続きお祭り気分だったが,ヴェネツィアの友人たちはカーニヴァルの間は家にこもるかよそに出かけていたようである。3月はミラノ3泊4日,フィレンツェ日帰り(アルベルティ展)旅行の他は,挨拶回りや荷造り発送などで慌ただしくすぎた。アッカデーミア美術館(旧カリタ修道院,一部はパラーディオ設計)が手狭になり,少し離れた場所に美術学校だけ引っ越したことを知ったのもこの頃である。引っ越し先は,サンソヴィーノ設計のOspedale degli Incurabili(不治の病者=梅毒患者のための病院)。きれいに改修された内部を見ることができた。16世紀の建物も現在に活かされ,過去と一続きの時間がヴェネツィアには流れている。
 ひるがえって日本は,と考えることも多く,特に最近は中国に比べて影が薄いとテレビ・ニュースの扱いなどに強く感じる。若き日の留学時に比べると個人的な喜怒哀楽は少なくなったが,予期以上に効率的な半年を過ごせたのは,期間限定であったことが大きいと思う。







地中海学会ヘレンド賞を受賞して

金原 由紀子


 この度は,第11回地中海学会ヘレンド賞という栄えある賞を授けて頂きまして,誠にありがとうございました。地中海学会の常任委員の先生方,ヘレンド日本総代理店・株式会社星商事の社長鈴木猛朗様はじめ皆様方に心より御礼申し上げます。受賞の対象となりました拙著『プラートの美術と聖帯崇拝──都市の象徴としての聖遺物』におきましては,フィレンツェ・ルネサンスの美術家フィリッポ・リッピやドナテッロがプラートに残した作品を,社会史や民俗学,都市論の発想を取り入れた折衷的な方法論により,プラート史の文脈の中で論じて参りました。ルネサンス美術の研究としては風変わりと自認しておりましたため,学際的性格の強い地中海学会で評価を与えていただいたことは何より嬉しく,大いに勇気づけられております。
 『プラートの美術と聖帯崇拝』は,私が2001年にお茶の水女子大学に提出した博士論文に加筆修正したものです。フィレンツェの北西15kmに位置する小都市プラートの大聖堂には,聖母マリアが被昇天の際に使徒トマスに与えたという腰帯が,12世紀末に寄進されたと言われています。この帯の聖遺物「聖帯」は,プラート市民のミケーレが聖地エルサレムで恋愛結婚により持参金として手に入れ,死に際してサント・ステファノ聖堂(プラート大聖堂の前身)に寄進したと伝えられます。プラートでは,この聖帯の崇拝が13世紀後半より盛んになり,14〜15世紀には聖帯に直接・間接に関わる主題が繰り返し造形化されました。
 プラートは13世紀から毛織物産業で発展した都市ですが,隣接する大都市フィレンツェとは異なり,富裕なパトロン層が存在せず,画家や彫刻家が工房を置く美術制作の中心地ではありませんでした。それゆえ,サント・ステファノ聖堂のために14世紀以降に注文された美術作品の大部分は,地元の無名の美術家ではなく,ベルナルド・ダッディ,アニョロ・ガッディ,ドナテッロ,フィリッポ・リッピといったフィレンツェの著名な美術家の手になります。これらの作品は,従来のイタリア美術研究においては,フィレンツェ派の作家研究の中でしか論じられてきませんでした。しかしながら,本書では,13世紀後半以降のプラートの政治・社会史を特徴づける聖帯崇拝に着目し,同聖堂のための美術作品が常に聖帯崇拝との関わりの中で注文されてきたことを明らかに
しました。そして,作家研究においては未解決のままとされた主題・図像・プログラム上の諸問題に,聖帯崇拝を軸とした新解釈を示すよう試みました。
 こうした研究に取り組むに至った経緯については,2006年1月発行の『地中海学会月報』286号に書かせていただきましたのでここでは繰り返しませんが,1991年に初めてプラートを訪れて以来,こんなにも長くこの小都市と関わり続けることになるとは思いもしませんでした。それといいますのも,フィリッポ・リッピの壁画と初めて対面した時の感激とは裏腹に,プラートの町そのものの第一印象は,決して良いとはいえなかったからです。当時は,昼の12時から16時頃までの時間帯はすべての教会と美術館が閉まり,座ってくつろげるようなバールもほとんどありませんでした。大聖堂広場の一角は野良猫の餌場となり,食べ残しの餌が常に散らかっていました。5〜6頭の野良犬が群れとなって町中を走り回る姿に,唖然としたこともあります。教会が閉まっている時間帯は,大聖堂の石段に腰をおろし,日陰が少しずつ移動するのに合わせて30分おきに座る場所を変えながら,ぼんやりと考え事などして過ごしたものでした。
 ここ数年は,理由はわかりませんが(観光客の増加によるものでないことは確かです),町が少しずつ活気づいてきています。昼間も営業する書店,洗練されたケーキを並べる菓子屋,居心地の良いバールが町中にでき,もはや時間つぶしに悩まされることはなくなりました。また,プラートの毛織物産業の歴史を示す織物美術館が繊維工場の跡地に移転して再開館し,最近ではイタリア初の天文博物館が誕生しました。パオロ・ウッチェッロの壁画下絵を展示する壁画美術館,現代美術を扱う美術館としてはイタリア唯一のルイージ・ペッチ現代美術館,ドナテッロの説教壇を目の高さで観察できる大聖堂付属美術館,フィリッポ・リッピの板絵を多数収蔵する市立美術館(現在,修復のため閉館中)も,展示室が徐々に整備されつつあります。お近くにお出かけの際は,お立ち寄りいただけましたら幸いです。
 今後もプラートとの御縁を大切にしつつ,プラート滞在期のフィリッポ・リッピ,さらには共和制都市国家における聖遺物と美術についての研究を深めていこうと考えております。今回の受賞を励みに,一層の努力を重ねていく所存です。






地中海学会ヘレンド賞を受賞して

平山 東子


 このたびは,栄えある第11回地中海学会ヘレンド賞を賜り,まことに有難うございます。思いもよらぬ身に余る栄誉に浴し,恐縮の限りです。ヘレンド日本総代理店星商事株式会社の鈴木猛朗社長,地中海学会のみなさま,そして,審査にあたってくださった陣内秀信先生をはじめとする委員会の先生方に心より御礼申し上げます。
 選考の対象にして頂いた,拙著『ギリシアの陶画家 クレイティアスの研究』(中央公論美術出版 2005年)は,青柳正規先生のご指導のもと,平成15年3月に東京大学大学院人文社会系研究科に提出した学位論文に加筆修正を行い,平成16年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)の助成を受けて刊行させて頂いたものです。
 クレイティアスとは,今から2,500年以上前にアテナイのケラメイコスで活動したアッティカ黒像式陶器の陶画家の名前です。1844年にアレッサンドロ・フランソワによって,イタリア中部キウシ近郊のエトルリア人の墓から発見された巨大なクラテル《フランソワの壺》(フィレンツェ国立考古学博物館所蔵)に,陶工エルゴティモスと共に署名を残していることから,ギリシア美術史の上では最もよく知られた陶画家の一人となっています。しかし,その名が語られるのは多くの場合,「『神話の百科事典』とも評される《フランソワの壺》に絵付けを施した陶画家」としてであり,彼のそれ以外の作品が注目されることも,またクレイティアスが個別に論じられることもほとんどないまま今日に至っていました。
 私は《フランソワの壺》に関する修士論文を準備していた折に,クレイティアスが,この傑作以外にも優れた作品をわずかながらも残していることをはじめて知り──その大半は,ごく小さな断片ですが──,その金線細工のような刻線の精緻さ,神話表現の鮮やかさに思わず息を呑みました。やがて,それらをもっと間近で見たいと願い,調べていくうちに,《フランソワの壺》以外のクレイティアスに関する先行研究のあまりの少なさを知り,ひどく落胆いたしました。この時,受けた衝撃と落胆が,研究の出発点となりました。
 その後進学した博士課程では,日本学術振興会のご支援と,多くの方々のご協力のもと,ギリシア,イタリア,ドイツをはじめとする十数カ国の博物館や個人コレクションなどに所蔵されているクレイティアスの作品とその
周辺作品の調査を行う機会に恵まれました。調査先では,戦前に公表されたものの,その後,散逸してしまった作品が少なくないことを知り,愕然とすることもしばしばでした。ですが,一介の外国人の学生に,心おきなく貴重な資料と情報,研究の機会を提供して下さった数々の博物館,大学,研究機関の方々の寛容さにどれほど助けられ,また励まされたか判りません。ギリシアの博物館では,担当者の方に,登録番号すら不明になったわずか数センチの小片を,収蔵庫の埃だらけの整理箱の山から,一緒に「発掘」して頂いたことも一度や二度ではありませんでした。
 また,クレイティアスの作品は点数が少ないにもかかわらず,その出土分布は非常に広範にわたり,アテネのアクロポリス,アゴラにはじまって,デルフォイやサモスの神域から,イタリアのエトルリア地方一帯,スペイン南西部のウエルバ,リビアのキュレネ,エジプトのナウクラティス,フリュギアの都ゴルディオンと,ほぼ地中海世界全域に及んでいます。アッティカ陶器は紀元前6世紀中頃から紀元前5世紀にかけて最盛期を迎え,エトルリア地方を中心に海外へ大量に輸出されるようになりますが,紀元前6世紀第2四半期に活動したクレイティアスは,未だコリントス陶器の強い影響下にあったアッティカ陶器に,地中海世界全体に流通しうる交易品としての価値を付与したきわめて早い時期の陶画家であったと考えられます。
 このような陶画家を対象とし,無謀にもその全作品に取り組むことを試みた拙著が,地中海学会で取り上げられ,しかも世界の名窯ヘレンドの名を冠した賞を賜ることとなり,これ以上の感慨はございません。本の刊行までには恩師の青柳正規先生にひとかたならぬご高配とご指導を賜り,中央公論美術出版の大島正人さん,《フランソワの壺》の展開写真の利用をご快諾くださった写真家の小川忠博さんをはじめ,本当に沢山の方々のお世話になりました。この場をお借りして,皆様に心より御礼を申し上げさせていただきます。この受賞は,稀代の陶画家であったクレイティアス本人と,この本に関わってくださったすべての方に対するものと思っております。今後は地中海学会ヘレンド賞の名に恥じぬよう,ギリシア陶器研究に励んでまいりたいと思っております。本当にありがとうございました。






おかえりなさい,ルクレツィア

池上 英洋


 イタリア人の友人と話しながらルーヴル美術館を歩いていると,「そこの若い人たち,ご覧よ!」とお婆さんの呼ぶ声がする。「全部私たちの国のものなのよ!」とそのお婆さんは,東洋人の私に向かってさえ興奮気味に話しかけてきた。その部屋の壁には一面にイタリアの作品が飾られ,私たちの目の前にはチマブーエの大きな絵画があった。そのお婆さんが知っていて話しているのかわからないが,たしかにその作品はナポレオンがイタリアから持ってきたもののひとつだ。
 お婆さんの怒りももっともだ。ウィーン会議で美術品の返還のために駆けずりまわったアントニオ・カノーヴァがいなければ,もっと多くの作品が本国へ還っていなかったはずだ。そのカノーヴァ本人が彫った《ウェヌス・イタリカ》は,その愛国的な名前の通り,もとはウフィツィ美術館から《メディチのヴィーナス》がナポレオンによって持ち去られてできた穴を埋めるためだった。またボローニャにあるラファエロの《聖チェチリア》は,持ち去られるときに板からカンヴァスへ移し変えられ,丸めて運ばれた。なんと荒っぽいやり方だ。それでも彼女たちはまだましだ。今は本国へ戻って暮らしているのだから。レオナルドの手稿など,いまだ多くがフランスの所有なのだ。しかしお婆さんの嘆きが報われることはもう無いだろう。いまや海外へ貴重な文化遺産を放出することを禁じる国が少なくない。多くのイタリア人がルーヴルでこれからも持つだろうこの感覚を,ギリシア人やエジプト人はもっと前から感じていただろう。
 ボローニャ近郊に,ゾーラ・プレドーザという小さな町がある。まだイタリアにいた頃,そこのカ・ラ・ギロンダ文化財団の会長から一本の電話があった。「フランチェスコ・フランチャの作品を買った」という電話だった。というのもその頃,私はボローニャ県が発行している月刊雑誌で地域美術史の連載を書いていた。今は悲しいかな鬼籍に入ったディレクターのトゥッチ氏が,その財団の会長である歯科医マルターニ氏の患者だという奇縁だった。地域美術史は文字通りボローニャ派を主な関心の対象とするので,記事のネタになるかどうか早速作品を観に行った。
 象牙色の肌,丸みを帯びて柔和で,しかしどこか厚ぼったい体つき,平坦でややえらが張った顔つき,明るい色使いと透明感のある風景,静かなウンブリア風の情緒。眼の前にあったのはまさしくフランチャだった。ルクレ
ツィアは自らの貞節を守るべく短剣を胸に刺し,ひとすじの血を流している。しかし,穏やかな表情に悲壮感は微塵も無く,目つきはラファエロよろしく法悦の聖女のそれだ。真筆の判定を下したスターニ教授も,隣で満足げに見ている。ヴァザーリの記録などによって,四枚はあったはずのフランチャの《ルクレツィア》は,うち二枚がその後画家の息子に帰属され,真筆はドレスデンにあるもの(1502年頃)と,それと同時期か数年後に描かれたと思われるこのカ・ラ・ギロンダ作品と,四枚すべて出揃ったことで一応の決着をみたことになる。
 フランスの画廊がこの作品を売りに出した時,手を挙げたのはアメリカのオークションハウスと,あの巨人ルーヴルだった。田舎町の小財団に,ほとんど勝ち目は無いように思えた。しかし,マルターニ氏らゾーラ・プレドーザの人々は,同作品の購入に執念をもやした。それはなぜか。ボローニャ派のルネサンスを代表するひとりフランチャ(本名はフランチェスコ・ライボリーニ,1450年頃〜1517年)の一家は,まさにそのゾーラ・プレドーザの出身だからだ。田舎町が生んだ,美術史上の唯一のヒーローなのだ。さらには,「ナポレオンによって奪われたものの一つ」との宣伝文句が彼らの愛国心(に加えてカンパニリズモ)に火をつけたからだ(その後,純粋にフランスへ売られた可能性のほうが高いことがわかったのだが)。
 かつて数多くの持ち主のもとを渡り歩いただろう作品は,今,その長い旅をようやく終えて,画家の故郷で静かに暮らしている。小さな町の誇りであるフランチャの,町でたったひとつの真筆作品として愛されながら。
 (イタリアでは二度ほど記事として採り上げた内容ですが,日本でもいつかどこかに書いてくれという期待に応えるべく,この機会を利用させていただきました)






地中海学会大会 記念講演要旨

エーゲ海から帰って日本の青空を正方形に切り抜きたいと
思ったこと,あるいはホワイト・キューブの起源


磯崎 新


 1962〜63年頃に私はローマからヨーロッパ旅行を開始し,1965年頃にイタリアの広場について書き,その後二川幸夫氏と共同でエーゲ海の本を出版した時に,「エーゲ海から帰って日本の青空を正方形に切り抜きたいと思ったこと」という短いエッセイを書いた。1970年代終わりに建築行脚というシリーズものを出版したが,その際にパルテノンを訪れた思いが本日の講演のベースになっている。
地中海を訪れたときの真夏の青空,透明な空気と影,日本の風土との違いが強烈な印象として残った。地中海の青空に対して,日本の基部を表現している長谷川等伯の松林図屏風の煙った霧中の松は,明らかに異なったものであった。
 のちに上海を訪れた際に,日本の水墨画に大きな影響を与えた牧谿が中国では重要な画家として位置づけられていないことに気づいた。
 私は日本建築を空間として理解する最初の世代であるが,谷崎潤一郎が『陰翳礼讚』の中で表現した陰翳と地中海の地面に落ちた黒い影(casted shadow)との違いを日本に居るときにはよくわからなかった。
 日本の陰翳には区切りがない。グラデーションがかかって最後には闇になる。それが日本とヨーロッパの基本的な違いである。
 またもう一人気になる人物がいる。12世紀終わりに東大寺を再建した重源は,鋳物の宝塔を建築的にアレンジしたものとしてではなく,観念的な宇宙を幾何学的に明快に構成したものとして表現した。そこには平安期京都の貴族性に対する奈良の粗野性が示されているとも考えられるが,ブレーのニュートン記念堂にもみることができる,先行き不明の時代に突然出現する純粋幾何学への還元,それは美学的パラダイムが転換する革命期の表現と言えないことはない。
同様のことは20世紀初めのロシア革命期,サンクト・ペテルブルクにあるマレヴィッチの《黒い四角形》にもみることができる。
 ヨーロッパの芸術としての建築の起源はパルテノンであるといっても過言ではない。1910年代にここを訪れたル・コルビュジエは建築的啓示を受けたことを告白している。パルテノンにキューブとしての純粋形態を見出している。
 ハイデガーは『芸術作品の根源』の中で,二つの具体的事例を挙げている。それはゴッホの農夫靴とギリシア神殿である。彼もパルテノンの背景には青空がないといけないとしている。
 
18世紀末にプロシアの建築家ギリーのフリードリヒ2世モニュメント設計案において,アクロポリスの丘がモデルとして採用され,ドイツ古典主義の代表的建築家シンケルがそれを展開する。その後,ショワジーやクレンツェなども丘の上のキューブを創造的に復元しようとした。
 ルイス・カーンもまた1950年代にイエール大学美術館設計のためにアメリカに戻る直前にパルテノンを訪れ,その印象をスケッチに残している。コルビュジエのスケッチがパルテノンを立方体として捉えようとしているのに対して,カーンの場合には独特のタッチでそれぞれのエレメントが散在するピクチャレスクな一つの景色として表現されている。晩年のシンケルもまたパルテノンを廃墟の景色として捉えていたことは興味深い。パルテノンが立方体としてそこにあるということを,過去の建築家たちが歴史的にさまざまに解釈し,自らの設計に組み入れようとしていたことは確かである。
 では日本人はどのようにパルテノンを見たのだろうか。伝統的和風建築とヨーロッパ的機能主義建築を混合せずにパラレルに設計し続けた堀口捨巳は,晩年の1957年にサンパウロ万博で茶室を設計した際に,30歳の頃のパルテノン体験を告白している。大きな瓦礫としてのパルテノンに打ちのめされて,茶室建築を取り組もうとしたと述懐する。
 また,三島由紀夫は『アポロンの杯』の中で,シンメトリーで退屈なヨーロッパ建築の中で,廃墟となったシンメトリーではないパルテノンの魅力を語っている。彼はそこに龍安寺の石庭に通ずる不均衡の中に現れる緊張感を読み取っている。
 1962年に私は未来都市のコラージュに,アグリジェントの廃墟を未来都市に対抗する過去のイメージとして重ね合わせた。
 私はエーゲ海から帰って日本の青空を正方形に切り抜きたいと思った。非対称的なモノクロームの立方体を,1974年に群馬県立近代美術館に実現した。さらに10年後,ロサンジェルス近代美術館では白い立方体によって意図的にポンピドーとは異なる空間をつくろうとした。それがホワイト・キューブと呼ばれるようになった。90年代半ばには下火になるが,ホワイト・キューブが未だに議論されるとするならば,建築の巨匠たちのパルテノンへの思い入れにまで遡行できる。
(当日の録音をもとに石川清常任委員(西洋建築史)が書き起こし,講演者に校閲をお願いしました:編集部)







〈寄贈図書〉
『プラートの美術と聖帯崇拝──都市の象徴としての聖遺物』金原由紀子著 中央公論美術出版 2005年1月
『ギリシアの陶画家 クレイティアス研究──紀元前6世紀前半におけるアッティカ黒像式陶器の展開』平山東子著 中央公論美術出版 2005年4月
『イタリア・ルネサンス研究 フィレンツェ共和国のヒューマニスト』『イタリア・ルネサンス研究 続 共和国のプラトン的世界』根占献一著 創文社 2005年10月・11月
『すぐわかる 作家別 ルネサンスの美術』塚本博著 東京美術 2006年1月
『フェデリコ・バロッチとカップチーノ会──慈愛の薔薇と祈りのヴィジョン』甲斐教行著 ありな書房 2006年2月
『嘘と貪欲──西欧中世の商業・商人観』大黒俊二著 名古屋大学出版会 2006年2月
『ユトレヒト詩篇挿絵研究──言葉の織りなしたイメージをめぐって』鼓みどり著 中央公論美術出版 2006年2月
『アルゴナウタイ 福部信敏先生に捧げる論文集』アルゴ会編・発行 2006年2月
『地中海世界の水の文化──海と川から見る都市空間』
『聖なる水──キリスト教世界とイスラーム世界の比較』法政大学大学院エコ地域デザイン研究所歴史プロジェクト ヨーロッパ班編・発行 2006年2月
『プラド美術館 名画に隠れた謎を解く!』藪野健著 中央公論新社 2006年3月
『続 国際関係研究の一つの途──横浜市立大学の場合』井上一著 私家版 2006年4月
『アレティーノまたは絵画問答──ヴェネツィア・ルネサンスの絵画論』L.ドルチェ著 森田義之・越川倫明訳・註解・研究 中央公論美術出版 2006年5月
『ダンテと現代』米川良夫編著 沖積舎 2006年6月
『南イタリアの海洋都市 Gallipoli/ Monopoli』法政大学大学院エコ地域デザイン研究所歴史プロジェクト 陣内研究室編・発行 2006年7月
『サンタクロースの島──地中海岸ビザンティン遺跡発掘記』浅野和生著 東信堂 2006年8月
『レアル──スペイン美術の現在』長崎県美術館
『エジプト学研究』10〜13(2002〜2005),別冊5〜10(2002〜2006) 早稲田大学エジプト学会
『日仏美術学会会報』25(2005)
Mediterranean World XVIII(2006) 一橋大学地中海研究会
『日本中東学会年報』21-2(2006),22-1(2006)
『文藝言語研究』49(2006) 筑波大学大学院人文社会科学研究科文芸・言語専攻









訃報 10月14日,会員の弓削達氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。