学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞(星商事提供副賞 一人25万円)について慎重に選考を進めてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。両賞の授賞式は6月25日(日)に東京芸術大学で開催する第30回大会の席上において行います。
地中海学会賞:一橋大学地中海研究会
 一橋大学地中海研究会は,1973年の発足以来,地中海地域の調査や研究会を重ね,多くの研究成果を生み出してきた。地中海を中心にすえて多角的に研究を進めることにより,常に学界に清新な風を送り続けるとともに,その研究成果を広く一般にも公表して,地中海「学」の発展に寄与した。
地中海学会ヘレンド賞:金原由紀子氏
 金原氏は『プラートの美術と聖帯崇拝──都市の象徴としての聖遺物』(中央公論美術出版,2005年)で,フィレンツェ近郊の小都市プラートを対象に,同市の聖遺物としての聖母マリアの帯を軸に,中世からルネサンスにかけての歴史と芸術文化を独自の視点から明らかにした。歴史民俗学,都市史,美術史の研究方法を架橋する異色の研究成果として,また地中海世界の伝承のあり方を探る試みとして高く評価される。
地中海学会ヘレンド賞:平山東子氏
 平山氏は『ギリシアの陶画家 クレイティアスの研究──紀元前6世紀前半におけるアッティカ黒像式陶器の展開』(中央公論美術出版,2005年)で,アッティカ黒像式陶器の最高傑作といわれる《フランソワの壺》の陶画家クレイティアスの全貌を明らかにした。クレイティアスもしくは周辺作家に分類される陶器および陶片を実地に調査し,器形分析,図像研究,銘文の書体解析等を通して,関連作品の編年,さらに工房の系譜や作品の機能を浮き彫りにした。本書は,ギリシア美術の基礎資料として国際的にも大きな学術的価値を持つ。

*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXIX(2006)の内容は下記のとおり決まりました。本誌は,第30回大会会場に
おいて配布する予定です。
・エジプト,アブ・シール南丘陵遺跡から出土したカエムワセト王子の石造建造物の石材について  柏木 裕之
・天のオクルス,あるいはベッカフーミ作《玉座の聖パウロ》について  松原 知生
・17〜18世紀イタリアにおける世俗カンタータの種類と用途に関する試論  佐々木なおみ
・アントニオ・タブッキの「記憶」とその軌跡──「マニエリスム」と「アンガージュマン」のはざま  村松 真理子
・書評 平山東子著『ギリシアの陶画家 クレイティアスの研究──紀元前6世紀前半におけるアッティカ黒像式陶器の展開』  長田 年弘
・書評 大月康弘著『帝国と慈善 ビザンツ』  竹部 隆昌
・研究紹介 Ewa Kawamura, Alberghi storici dell'isola di Capri; una storia dell'ospitalità tra Ottocento e Novecento  山田 高誌

*第30回総会
 先にお知らせしましたように第30回総会を6月25日(日),東京芸術大学で開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いします。(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)
一,開会宣言
二,議長選出
三,2005年度事業報告
四,2005年度会計決算
五,2005年度監査報告
六,2006年度事業計画
七,2006年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言

*会費自動引落
 今年度の会費は4月24日(月)に引き落とさせていただきました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファイナンスサービス」となっています。この点ご了承下さい。学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。

*訃報 5月7日,会員の並河萬里氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。






上野の杜の地中海
──第30回大会のご案内──

野口 昌夫

 いよいよ芸大で大会を開く日が迫ってきた。昨秋から樺山会長,木島副会長,陣内事務局長を中心とした大会企画メンバーが何度か会合を重ね,コンセプトとプログラムを話し合ってきた。初めはさまざまな案が出たが,上野の杜でやるからには芸術に重点を置かざるを得ないということになる。結果として,初日の地中海トーキングは「芸術のプロデューサーたち──現代の芸術と社会」と題し,芸術のプロデュースとマネージメントの現場にいる音楽,美術の専門家4人に登場していただき,木島俊介氏に生の声を引き出してもらおうということになった。
 二日目のシンポジウム,「西洋芸術の受容と展開──上野,東京そして日本」では,明治以来,西洋を源とする音楽,演劇,美術,建築がどのように受容され独自の展開を遂げたのか,それが地域としての上野,東京,日本の文化と芸術の形成にどう関わってきたのか,という壮大なテーマに挑むことになってしまった。これもまた上野の杜でやるからには,ということから発している。この四つの芸術領域を歴史と地域の関連でまとめる大役は,西洋文化史の樺山紘一氏にお願いすることになった。これは企画メンバーの総意である。会長自らシンポジウムの司会というのも異例なことだが,開催大学側の私としてはありがたいと思っている。
 地中海トーキングとシンポジウムに登場する8人のうち3人が芸大音楽学部の女性の先生方であることも今大会の特徴である。芸術というとまず美術を思い浮かべる人が多いと思うが,今回はあえて音楽と建築に重心をシフトしたいと私は考えていた。そこで,芸大での開催が決まって以来,記念講演者の候補として,実は意中の人がいたのである。自分が建築の領域であることもあって,磯崎新氏が快諾して下さった報をきいて,頭に血がのぼってしまった。磯崎氏は地中海学会の創立メンバーの一人であり,ずっと会員であり続けたにもかかわらず一度も大会に登場していただくことがなかった。記念講演の「「エーゲ海の青空を正方形に切り抜きたい」と思ったことについて」というタイトルは実に建築家らしく魅力的である。
 初日のトーキングのあと,懇親会までの1時間あまりは,陣内事務局長と相談した結果,芸大キャンパス見学会にあてることに決まった。谷中見学,美術館見学の案
もあったが,通常,目にすることができない,ものつくりの現場を見ていただく方が価値があると思ったからだ。現在,芸大美術学部の先生方と交渉中で,例えば鍛金,鋳金,陶芸,彫刻など,いかにも芸大らしい領域の制作現場のいくつかをお見せできればと思っている。懇親会は,決して精養軒ではなく,音楽学部の食堂で開かれ,いつものように福本秀子常任委員のとりはからいでメルシャンからフランスワインが届けられる。
 プログラムには載っていないが,このあとの二次会は,芸大教授連御用達の居酒屋,谷中の「車屋」に御案内する。下町に残る町家風の飲み屋の二階をおさえてあるので,是非,楽しんでいただきたい。美術館,博物館,演奏施設,動物園,芸大などがひしめく上野の杜がアクロポリスなら,坂を下りて至る谷中周辺はアゴラといったところで,聖と俗がきわどく隣接した特異な地区,上野をとらえる上でこのシンポシオンは重要である。
 さて,美術学部正門すぐ右側にある芸大美術館では地中海学会大会に時期を合わせたかのように「ルーヴル美術館展─古代ギリシア芸術・神々の遺産─」が開催中である。門外不出の「アルルのヴィーナス」を含む日本初公開の古代ギリシアの彫刻,墓碑,石碑,陶器,工芸品132点が出展されている。大会企画者の私としては,大会を抜け出してご覧になって下さいとは言えないが,道は一つある。初日の午前中,10時から13時の間にゆっくりギリシア芸術を堪能し,13時の開会宣言・挨拶を経て13時10分から磯崎新氏の記念講演という流れは,どちらもエーゲ海ということで,正しいつながりである。
 最後に,今回の大会は事務局のみならず,芸大側のさまざまな関係者のお世話になっていることを伝えたい。常任委員である楽理科の片山千佳子先生には音楽学部の会場や食堂の手配,そして当日のお手伝いとして大学院生を紹介していただいた。初めてにして最後になるかも知れない芸大での大会を空前絶後に成功させたいという熱い思いは私だけではない。歴史のある芸術大学で,地中海がどのように絡み,融合し,展開していくかをしっかり見届けたい。
 では,「いざ,上野の杜へ!」。お待ちしております。






春期連続講演会「地中海の祝祭空間」講演要旨

広場で生まれたルネサンス

樺山 紘一

 地中海地域ばかりか,世界中のほうぼうに広場がある。そして,おなじように祝祭も,どこにでもある。だが,広場と祝祭とがむすびつき,なにか独特の文化をうみだしたということであれば,ルネサンスはもっとも代表的な事例だといえよう。じっさい,イタリアをはじめとするルネサンスにあっては,宮廷や書斎,それに教場や職人のアトリエにもまして,芸術や学術を創造する空間としての広場が,必須であった。また,戦争や政治,研究や修業,出版や討論にもまして,祝祭がはたす役割も,軽視できない重要性を体現している。
 ヨーロッパ世界にあって,広場はすでに中世にも存在した。けれども,都市の社会空間で,せまい街路にかわって広場が登場するのは,たかだか13・4世紀,しかもイタリアを中心とする地中海地域においてであった。シエナやフィレンツェなどのトスカナ地方をかわきりにして,やがてヴェネツィアやローマ,ミラノなどに拡大された広場空間が誕生する。そこでは,かねてから営なまれてきた社交やビジネスが,より大規模に実現するようになる。むろん,手工業や商業をなかだちにして,経済活動が活発化し,市場のにぎわいを支えるために,広場の拡大が要請されたのである。また,人口の増大とそれにともなう人的な交流の密接化が,日常生活における広場の機能を強化した。
 その広場は,しかしながら,たんに社交やビジネスのためだけに奉仕したのではない。顕著な事象であるが,さまざまな宗教上の儀礼が,そこでは祝祭として広範に展開された。たとえば,説教である。聖堂の正面や市場のかたわらで,公式と非公式をとわず,宗教者による説教がおこなわれた。多数の住民をつどわせ,有徳の修道士や隠修士たちが,聖堂の室内よりもはるかに熱狂的な説教をこころみた。聴衆は興奮し,あるいは沈黙して,その厳粛さを体験した。ときには,曰くありげな奇跡の現場にでくわして,信仰の極致を目撃することもあった。そんな非定式の儀礼にもまして,教区の教会によって定式化された祝祭儀礼が,広場をいろどったものである。なによりも,特定の祝日には聖堂からは,聖遺物が運びだされ,司教・司祭が祭服を着用して,それを守護した。広場には,その祭列がつらなり,教区の住民たちはその功徳にあやかろうと,行列にしたがうか,礼儀ただしく侍立した。
 広場では,宗教上の儀礼だけが演出されたのではない。
それとは対極にある世俗の祝祭儀礼も,あたかも神聖儀礼ときそうように登場した。とりわけ,政治上のイベントは室内に秘匿されるのではなく,むしろ公然と市民の面前で演じられた。刑事犯や政治犯の処刑は,それがとりわけ権力とのふかい関係をもつ場合には,祝祭の様式をとって実施された。フィレンツェの独裁権力を把握したサヴォナローラの没落に際して,その処刑は総督(シニョリア)広場のまんなかで,華やかに断行された。それは,権力の交代を視覚的に表現する,もっとも激烈な形式だったからである。外国からの使節の入城,新たな支配者の即位,なんらかの記念節での行進。それらも,政治権力の実在を印象づける,適切な儀礼をともなった。着用される式服や祭器・武器,それに権力者その人の身体は,厳粛さを増幅する装飾である。権力は,なにであれ祝祭によって衒示される必要があった。
 神聖と世俗,このふたつの領域における祝祭にくわえて,しばしば遊戯も広場の光景をいろどった。馬上模擬試合や闘牛,また花火や花祭り。これらは,広場の市民たちにとっては,非日常性をあらわす遊戯イベントである。登場者たちは,精一杯に着飾り,趣向をこらした演出を工夫して,遊戯に参加したり,観覧したりする。舞踏と音楽,それに寸劇や見世物がそれを彩った。酒食が供与され,恋愛や会話が遊戯に同伴した。これらのただなかで,芸術と芸能が市民たちに提供され,その評価をためされた。
 神聖,世俗,遊戯。これら,ことなった領界での祝祭が,ルネサンス文化の粋をうみおとしていったのである。広場こそ,そのための恰好の空間であった。ときには,過度に猥雑でアナーキーにみちていたかもしれないが,祝祭のもつ厳正さと開放性とがあいまって,ルネサンスに熱度をくわえたのでもある。
 ただし,ルネサンスの進行とともに,この喧騒にたいする批判や抑制がくわわってきたのも,また事実である。古代に理想をもとめ,秩序と均整を要求した人びとは,都市の広場空間にも静謐さをとりもどそうとした。パラディオの建築をはじめとする古典主義の芸術理念は,祝祭の不安よりは秩序の安定を優先する。こうして,ルネサンスは広場から退き,それとともにルネサンスそのものも,活力をべつのところに譲りわたしていくことになろう。






春期連続講演会「地中海の祝祭空間」講演要旨

ヴェネツィアの祝祭の舞台

陣内 秀信

 水上の祝祭都市と呼ばれるヴェネツィア。この都市には,機能性と経済性をとことん追求し均質空間化した近代都市にはない,人々の心を高揚させる不思議な魔力が備わっている。近代が否定してきたものがすべて,ここにある。
 歴史的には都市を育んだ川や海。その水の空間は近代には,工業ゾーンとなって環境を壊した。車の時代,船は使われなくなった。水の都市はこうして否定された。だが,環境の時代の21世紀,水の都市は今,見直されている。ラグーナの浅い海の上に,地形の微妙な変化を読みながら形成されたヴェネツィアは,複雑に織りなされた迷宮都市をつくり上げた。それは明快さを尊ぶ近代の基準からは失格の烙印を押されるものだった。
 というわけで,ヴェネツィアは前近代的な遅れた都市だったはずだ。ところが時代が変化し,一周遅れのトップランナーのごとく,この古い体質の都市が色々な意味で脚光を浴びることになったのだ。ウォーターフロント開発のモデルとしてこの町を視察に訪ねる人々が絶えないし,都心を歩行者空間化するアイデアも,ヴェネツィアの車のない都市空間の素晴らしさを多くの人々が体験したからこそ,実現することができた。
 そんな性格をもつヴェネツィアは,まさに近代都市が失った祝祭的な性格を,もともと濃厚に示してきた。水の上の都市だけに,自然とともに呼吸し,季節と時間によってその表情を豊かに変化させ,人間の五感を発達させた。論理よりも身体,感覚の都市なのだ。ゴルドーニの喜劇に代表されるような演劇が発達したのも当然である。また,色彩,光と影は絵画や音楽をふくめ,この都市の文化の特徴をよく表わす。
 この水上の都市には,ヒューマン・スケールの空間が成立した。権力者のもとで,その力を誇示するような統一感のある空間を築き上げた都市とは対極にある。どこも変化にとみ,人間の歩く感覚にフィットして組み立てられている。馬の通行さえ,中世のある時期に禁止され,もっぱら人間のためにできた都市なのだ。そこに,光と影の演出が加わる。狭い道(カッレ)を突き抜けると,その先に光り輝く広場(カンポ)が待ち構える。運河に架かる橋の上は,カッレより空間が広くとられ,光が溢れるから,気持ちのよい舞台となる。その上で立ち話に興ずる人々の姿がよく見られるのだ。運河沿いのアーケ
ードも,光と影の舞台。こうした水辺の歩道を歩き,橋を越えて進むと,まさに自分が演劇や映画の主役になった気分。近代都市では,そんな体験は期待できない。
 この水上都市には,本当に演劇,パフォーマンス,宗教的な祭礼の舞台となった空間がたくさんある。広場も水上も,そして橋の上も,演劇的な活動の場となった。
 サン・マルコ広場は,ナポレオンが18世紀末にここを征服した時,「世界の大広間」と絶賛したように,世界の人々を魅了してきた美しい広場だ。国家の儀式,宗教的な祭礼,国賓歓待の様々なスペクタクル,そしてカーニバルの饗宴。今もなお,この広場は稼働率高く,いつもイベントの舞台として活躍している。その回廊の中に17世紀から設けられ始めたカフェは,近代には戸外にオープンテラスを張り出し,スイートな音楽とともにこの空間に華やぎを加えている。
 この広場が海に開くピアツェッタ(小広場)は,海から見て時計塔を焦点とする,遠近法にのっとるルネサンスの理想都市の広場として,また演劇空間として見事に再構成されたのだ。そこがまた,祝祭都市のメインステージとして人気を集めた。ここで催されるイベントの光景を活写した絵が何枚も残されている。世界を代表するエンターテイメント空間だった。
 その演劇的な舞台は,広場から溢れ出て,ラグーナの水上まで広がった。サン・マルコの岸辺から総督が乗り込んだ金のお召し船(ブチントーロ)は水上をパレードし,リドの脇からアドリア海に出て,そこで「海との結婚」という華麗な儀式を行う。「我は汝と結ばれる」,と総督が海に誓うのである。今もヴェネツィア市長がこの儀礼を継承しているから凄い。
 16世紀には仮設の劇場が出来始めるが,やがて17世紀,常設の劇場が登場し,オペラがヴェネツィアで発達した。18世紀の文化が爛熟した時代,数多くの劇場とともに,この町には,リドットと呼ばれる社交場が各地に登場。仮面に身を隠した男女が享楽にふける光景が絵に描かれている。サン・マルコ広場でのカーニバルもこの時代,最高潮を迎えた。
 時代が移り変わっても,ビエンナーレ,映画祭,オペラ,数々の展覧会,国際会議など,この都市の祝祭性は衰えるどころか,ますます活発化し,世界の人々を魅了し続けているのだ。






春期連続講演会「地中海の祝祭空間」講演要旨

中世シチリア王の戴冠式
──パレルモの王宮と大聖堂──

高山 博

 1130年のクリスマスの日,シチリア島のパレルモで,シチリア初代の王の戴冠式が行われた。初代の王となったのは,アプーリア公ロゲリウス二世。11世紀半ばに北フランスのノルマンディ公国を離れ,当時イスラム教徒支配下にあったシチリア島を征服してシチリア伯領を築いたノルマン騎士ロゲリウス一世の息子である。父と兄の死後シチリア伯位を継承し,甥の息子の死後アプーリア公となっていたロゲリウス二世は,この日,シチリア王として戴冠し,新しいノルマン・シチリア王国を創設したのである。
 テレーゼ大修道院長アレクサンデルは,その年代記の中で,この日,パレルモの町全体が美しく飾られ,喜びと光に満ち溢れていたと記している。王宮の壁には荘重な飾り布がかけられ,通路には目にもあやな絨毯が敷き詰められていた。ロゲリウス二世は,戴冠式のために王宮から大聖堂へ向かったが,その時彼に付き従った有力者たちの馬の鞍と馬勒は,金と銀の装飾で輝いていたという。大聖堂の中では,まず,教皇アナクレトゥスの特使として派遣されていた枢機卿が,ロゲリウス二世に聖なる油を塗って王に聖別を行い,次に,カープア侯ロベルトゥスが王の頭に冠を乗せた。
 アレクサンデルの記述は,戴冠式の日の華やいだ町の様子,大聖堂での儀式,大聖堂の扉が開けられて新王が姿を見せたときの人々の歓呼,大聖堂から王宮へのパレード,そして,王宮での祝宴を生き生きと描いているが,歴史家たちが注目してきたのは大聖堂での二つの儀式,すなわち,塗油の儀式と戴冠の儀式である。塗油とは,頭や額など,体の一部に油を塗ることである。
 この風習がいつ頃どこで始まったか正確にはわからない。しかし,すでに古代エジプト,シリア,カナンでは,王の聖別に際して塗油が行われていたことが知られている。この塗油の儀式は,旧約聖書を通してヨーロッパへ伝わり,7世紀には西ゴート王国の王の聖別のために行われていた。しかし,王への塗油として中世ヨーロッパでよく知られているのは,カロリング朝の創始者であるピピンへの塗油である。ピピンは,メロヴィング朝最後の王を修道院に幽閉し,自ら王となった751年に司祭による最初の塗油を受け,754年には教皇ステファヌス三世から2度目の塗油を受けた。歴史家たちは,ピピンが自らの王位の正統性を確保するために,このキリスト教の塗油の儀式を取り入れたのだと考えている。
 ピピンの息子カール大帝も,王位に就くときに塗油を受けたが,800年に西ローマ皇帝位に就くときには,教皇レオ三世から冠を受ける「戴冠」の儀式を行った。この戴冠の儀式は,ビザンツ皇帝が総主教から冠を受けるのにならったものだと考えられている。そして,816年,カール大帝の息子ルイ敬虔帝がランスで教皇ステファヌス四世による「塗油」と「戴冠」の儀式を受けて以後,皇帝の聖別には両方の儀式が不可欠となった。その後,王の聖別にも,この二つの儀式が行われるようになっていったのである。
 ところで,ノルマン・シチリア王国の性格をめぐっては,これまで様々な見解が出され,多くの論争がなされてきた。ファーティマ朝宮廷との類似点を指摘して,イスラム世界の影響が強いと主張する研究者たちもいれば,専制君主的な統治体制や儀式の類似性を指摘して,ビザンツ帝国の影響の強さを主張する研究者たちも,また,同時代の西ヨーロッパの封建国家と変わらないと主張する研究者たちもいる。さらに,中央集権的な官僚制や統治システムに注目して,近代国家の萌芽を見る研究者たちも多い。
 塗油と戴冠の儀式に関して言えば,ロゲリウス二世の儀式は,明らかに,西ヨーロッパの伝統を踏襲したものである。ビザンツ帝国は,12世紀末頃まで塗油の儀式を導入しておらず,その影響を考えることはできないからである。しかし,そのような一部の現象だけを取り出して,特定の文化の影響の優越を主張しても,王国の特徴を明らかにしたことにはならないだろう。王国の性格は時代と共に大きく変化する可能性があるから,変化する側面と変化しない側面を明確にすることが重要である。たとえば,王は,イスラム文化やギリシア文化の影響を強く受けてはいたが,常にキリスト教徒であったということ,同時代の西ヨーロッパの王国と異なり,首都はパレルモに固定されていたということ,王宮に多くのイスラム教徒がいたことなどは,王国の変化しない特徴だと考えられる。しかし,王権の性格や統治システムなどは時代とともに大きく変化している。また,文化的要素を問題にするのであれば,特定の文化のみに焦点を当てて議論するのではなく,三つの文化的要素が王国にどのような形で存在していたかを具体的に検討する必要があるだろう。






春期連続講演会「地中海の祝祭空間」講演要旨

古代ギリシアの祝祭を彩る美術

篠塚 千恵子

 古代ギリシアの祝祭には,大きく分けて汎ギリシア的な祝祭とポリスの祝祭の二種類があった。前者はオリュンピア競技祭を代表とするようにポリスの枠を越えて行われ,その祝祭空間も汎ギリシア的な聖域であった。それに対して,後者は独自の暦や習慣,宗教伝統をもった各ポリスが行うもので,ポリス独自の特徴をもっていた。その祝祭空間は聖域が中心だとしても,都市の公共広場(アゴラ)も祝祭空間として組み込まれることがあった。ポリスの祝祭といえば,関連する美術作品が豊富に残るアテネのパンアテナイア祭が名高い。アテネの守護女神アテナ・ポリアスを称えて行うこの祝祭は,紀元前566年に4年に一度の大祭が国家的な祭りとして組織されてから,ペルシア戦争を経て民主政下の都市国家アテネが強大になるにつれ,その威信を高めるための祝祭と化して汎ギリシア的競技祭に劣らぬ名声を博し,美術にも大きな影響を与えた。本講演では,このパンアテナイア祭をとりあげ,主として民主政アテネの黄金時代といわれる紀元前5世紀の美術を通して,この祝祭がどのように祝われどんな特徴を有していたかを概観する。
 パンアテナイア祭はアテネの暦の最初の月,ヘカトンバイオン月に催された。祭りのメイン・イヴェントは,女神アテナの誕生日とされる28日に行われる女神の新しい衣装,ペプロスを奉納するための行列だった。この行列はアテネ西北のディピュロン門から始まってアゴラを突っ切り,アクロポリスのアテナの聖域に至るという道筋をとり,アゴラが祝祭空間として大々的にとりこまれていた。また,この祝祭期間中には音楽や運動などさまざまな競技が行われたが,近年のアゴラの発掘成果によれば,紀元前5世紀のあいだはアゴラでそうした競技の多くが催されたらしい。競技には音楽競技(竪琴,笛等),ホメロス詩の朗唱競技,運動競技(徒競走,格闘技,五種競技等),馬術競技(競馬,戦車競走),部族競技(ピュリケ,アポバテス,松明競走,等)があり,ほとんどの種目が年齢別に行われた。
 神聖な樹木の枝で編んだ冠だけという汎ギリシア的な競技祭の賞品とは異なり,パンアテナイア祭の賞品はヴァラエティに富んでいた。紀元前4世紀前半の碑文史料(IG II2 2311)によれば,音楽競技の賞品は高価な金属の冠と現金,運動競技と馬術競技の賞品はアンフォラと呼ばれる陶製の容器に満たしたオリーヴ油,部族競技の賞品はおそらく優勝後の祝賀パーティのご馳走を配慮し
て,牛一頭と現金だった。賞品授与の対象が優勝者だけに限られていず,種目によっては2等以下の者まで含まれていたのも特徴的な点である。入賞者の順位によって賞品に差がつけられていたのはいうまでもなく,競技の種類,内容に応じても格付けがされていた。たとえば,音楽競技では竪琴を演奏しながら歌う成人男性の種目の優勝者に,馬術競技では二頭立て戦車競走の優勝者に最も高価な賞品が出された。このように入念に考案された多種多様な賞品から当時の価値観がうかがえるのは興味深い。
 しかし,こうした賞品の中で美術的にも興味が尽きないのは運動,馬術競技の賞品として出されたアンフォラである。そもそも陶器はアテネの重要な輸出産業だったから,そして女神アテナは陶器作りの守護神だったから,その女神の祝祭の競技の賞品が陶器というのはまさにうってつけだった。しかもアテネのやはり重要産業だったオリーヴ油がこれに詰められるのだから,自国の産業振興策として見事な着想だった。賞品アンフォラは独自の形態,装飾をもっていた。高さおよそ60〜70cm,腹部の直径およそ35〜45cm,装飾法は黒像式技法であり,赤像式技法が発明されてからも最後(紀元前4世紀末)まで,古い技法を遵守する。器面の表のパネルには槍を構えた女神アテナの像,裏面のやや小さいパネルには運動競技か馬術競技の場面が表されるのが決まりだった。このように伝統墨守がその特徴だが,それでも紀元前5世紀のクラシック時代の賞品アンフォラをよく観察してみると,必ずしもそうとはいえない,面白い現象が眼を惹く。主面の表現の方がより保守的で,前時代のアルカイック様式を守る傾向が強く,裏面の表現の方がより自由で,同時代の新しい様式の混入が散見される。つまり本来赤像式技法を得手とする陶器画家が様式ないしモードを意図的に使い分けているのがみてとれるのである。とくに「ベルリンの画家」の赤像式の作品と彼の賞品アンフォラを比較すると,この現象が把握しやすい。
 パンアテナイア祭を彩る美術の中で最も有名なのは,女神アテナへ新しい衣装を捧げる行列を表したとされるパルテノン神殿のフリーズ彫刻である。それはアテネの栄光とその祝祭を永遠化した傑作だが,持ち運びのできる賞品アンフォラはこの国家的祝祭の一種のシンボルマークとなり,地中海世界にその名声を広める働きをした。





表紙説明

旅路 地中海22:皇帝の旅と馬の旅/鈴木 杜幾子


 古代ローマの皇帝たちと同じように,ナポレオンも広大な地域に遠征をした。旅をし,戦うことが,古代と近代の支配者たちの存在を保証していたのである。皇帝たちが移動すると,人や物も場所を変えた。ヴェネツィアのサン・マルコ寺院のファサードを飾る4頭のブロンズの馬もまた,ナポレオンによってパリに旅をし,皇帝が失墜するとヴェネツィアに帰った。
 ナポレオン即位の翌年である1805年の各地での戦勝(その最大のものがアウステルリッツ会戦)を記念して凱旋門が建てられることになり,皇帝の首席建築家フォンテーヌとペルシエがセプティミウス・セウェルス帝の凱旋門を模したカルーゼルの凱旋門を1808年に完成した。当時ルーヴル宮は,セーヌ川沿いの南翼は現状に近いかたちで西に延びていたが,北翼はまだ存在していなかった。その代りに南翼の西端から南北方向に,のちに焼失することになるテュイルリー宮が建っていた。フォンテーヌは北翼の建設によって広大な中庭をつくり,その中に建つカルーゼルの凱旋門に皇帝の居城テュイルリー宮への入り口の役割を与えることを計画していた。現実には北翼が完成して十数年後の1871年,パリ・コミューンの騒乱の際の火災でテュイルリー宮は失われ,カルーゼルの凱旋門は西に向かって開けた土地に取り残されることになった。
 だがその結果,この凱旋門は,西ではテュイルリー庭園からコンコルド広場,シャン=ゼリゼ大通り,エトワール(シャルル・ド・ゴール)の凱旋門,大陸軍大通り,デファンス地区の新凱旋門につながり,東ではルーヴル
美術館のガラスのピラミッド(正確にいえばその斜め前に立つルイ14世像)につながる壮大なパースペクティブ上の要に位置することになった。薔薇色の大理石の円柱はムードンの城からもたらされたもの。その上に立っているのはナポレオン軍の兵士たちの像。四方の浮彫は上段がフランスとイタリア(ナポレオンはイタリア王を兼ねていた)の標章,下段は1805年の各地での勝利の場面。古代の凱旋門を飾っているローマの兵士はここでは大陸軍の軍人に姿を変えている。この小振りの凱旋門は,正面に朝日を受け,真昼の陽光に繊細な陰影を見せ,夕日を背負って建ち,一日のどの時刻にもその瀟洒な美しさで第一帝政の夢を語っている。
 門の頂上にはサン・マルコの馬たちが牽く凱旋車が載せられた。車にはナポレオン像が乗るはずであったが,皇帝自身が古代風の演出の主役を演ずることを嫌ったため,空のままに残された。ナポレオンが地位を去ったとき,馬たちは新しいものに取り換えられ,車には王政復古の擬人像が乗ることになった。
 勇ましく前進する姿のサン・マルコの馬たちは,古都コンスタンティノープルにあった古代彫刻であるが,十字軍によってヴェネツィアにもたらされた。「この馬が去るときにはヴェネツィアは滅亡する」とまで言われていたが,結局滅んだのはヨーロッパの富をフランスに集中させようとしたナポレオンの方であった。コンスタンティノープルからヴェネツィアへ,そしてパリへと旅した馬たちは今では博物館に入り,サン・マルコ広場を見下ろしているのはレプリカである。