学会からのお知らせ

*5月研究会
 研究会およびミニシンポジウムを開催します。両日とも参加費は会員無料,一般500円,会場は東京大学生産技術研究所研究棟Dw601室(駒場リサーチキャンパス)です。当日は東門が閉まっています。正門を入りD棟入口からエレベータをご利用下さい。最寄駅は小田急線「東北沢駅」(徒歩8分),千代田線・小田急線「代々木上原駅」(12分)。アクセスの詳細は,生産技術研究所のサイト(http://www.iis.u-tokyo.ac.jp/map/index.html)を。

テーマ:ルネサンスにおけるギリシアの広場
    ──フラ・ジョコンドのリアルト市場再建計画の復元的考察
発表者:飛ヶ谷潤一郎氏
日 時:5月13日(土)14:00〜16:00
 発表概要は月報288号(3月)をご参照下さい。

トルコ・ミニシンポジウム
テーマ:文化の積層──建築,都市の視点からトルコの魅力を探る
日 時:5月20日(土)13:00〜17:00
 13:00 開会:主旨説明 司会:新井勇治氏
 13:10〜15:00 第1部:各時代の魅力を語る
 「ヒッタイトの文明とその前後」  岡田保良氏
 「周縁としての東アナトリアにみる重層的建築文化──ビザンツ建築とアルメニア建築」  篠野志郎氏
 「征服と都市建設再考──ルーム・セルジューク朝からオスマン帝国へ」  鈴木董氏
 「バザール空間からみるアナトリアの都市」  鶴田佳子氏
 「現代トルコにおける文化遺産保存」  山下王世氏
  −休憩−
 15:20〜16:50 第2部:質疑応答+討論
 17:00 閉会

 ヒッタイト,ローマ,ビザンツ,セルジューク,オスマンなど数多くの国や民族が興亡を繰り返し,地中海世界に大きな影響を与えてきたトルコ。
 第1部では,古い歴史を誇り,多様な文化が積層してきたこの地の魅力を建築,都市の視点から様々な時代の特性について5人のパネリストに発表して頂きます。第2部ではパネリストの発表を受け,参加者の方々から意見や質問を頂きながら,ディスカッション形式でトルコの魅力を探ります。分野を越え,多くの方の参加をお待ちしております。

*第30回地中海学会大会
 第30回大会を東京芸術大学(東京都台東区上野公園12-8)において下記の通り開催します。
6月24日(土)13:00〜13:10 開会宣言・挨拶/13:10〜14:10 記念講演「「エーゲ海の青空を正方形に切り抜きたい」と思ったことについて」磯崎新氏/14:30〜16:30 地中海トーキング「芸術のプロデューサーたち──現代の社会と芸術」パネリスト:熊倉純子氏/瀧井敬子氏/南條史生氏/藪野健氏/司会:木島俊介氏/18:00〜20:00 懇親会
6月25日(日)10:00〜12:00 研究発表「エジプト,アブシール南丘陵遺跡岩窟遺構AKT02出土の2体の木製彫像について」河合望氏/「「良き友人」とは何か──エウリピデス『ヘラクレス』におけるテセウスの役割」阿部伸氏/「アンジャール──初期イスラーム時代の宮殿都市への考察」深見奈緒子氏/「「建築物階数の型」が変化したプロセス──16・17世紀のポルトガル・スペインの場合」杉浦均氏/13:00〜13:20 総会/13:20〜13:50 授賞式/14:00〜17:00 シンポジウム「西洋芸術の受容と展開──上野,東京そして日本」パネリスト:石井元章氏/高田和文氏/塚原康子氏/村松伸氏/司会:樺山紘一氏

*特別研究員-RPD募集
 日本学術振興会では特別研究員-RPDを募集しています。申請資格は「大学院博士課程修了者等で,平成18年4月1日から遡って過去5年以内に,出産又は,子の養育のため,概ね3ヶ月以上やむを得ず研究活動を中断したもの」(年齢・性別を問わず)です。詳細は,http:// www.jsps.go.jp/j-pd/rpd_boshu_f.html をご覧ください。








春期連続講演会「地中海の祝祭空間」講演要旨

トルコ都市空間にみる祝祭の場
──イスタンブルとギョイヌック──

鶴田 佳子


 イスタンブルはアジアとヨーロッパの二つの大陸にまたがる大都市である。ボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に,ヨーロッパ側はさらに金角湾によって旧市街と新市街に分かれ,この三つのエリアから中心部は構成されている。いずれも海に囲まれ,起伏に富んだ地形を有し,モスクの丸屋根と細長い尖塔が街の景観を特徴づけている。
 祝祭空間が本テーマであるが,ここでまず空間の性質について「晴れ(ハレ)と褻(ケ)」という概念から考えてみたい。ハレとは「晴れやかな場所」や「晴れ着」という言葉にみられるように,特別,非日常,表向きの場という意味を有する。一方,ケは「晴れでないこと,日常,ふだん」という言葉である。このハレとケを空間に対応させて考えてみると,ハレの空間とは,祭りや儀式など,ある目的をもって多くの人が集まる場所と捉えることができる。ヨーロッパの都市をみると,都市の中心部には広場があり,広場はその都市の顔として歴史を刻み,また祭りや集会の場としても活用されている。広場はハレの場として機能する一方で,ケの場としても日常生活の中で,例えば散歩をしに来るなど活用され,親しみのある場所となっている。イスラーム地域の都市の中心部を訪れると,この広場にあたる空間はバザールやスークと呼ばれる市場空間が担っている。物の売買だけでなく,多様な情報交換の場として機能し,多くの人で賑わい,まさにハレの場といってよいであろう。
 さて,トルコの都市のハレの空間についてハレの行為と対応させながら考えてみたい。ハレの行為を考えてみると,日常と異なる特別なものという視点から,祭りや年中行事が思い浮かぶ。これは,年1回のペースで街が祝祭空間へと変わる事象である。大きなものでは断食明けの砂糖祭や,巡礼月に犠牲をささげる犠牲祭といった宗教関連の祭りがある。これらはイスラーム暦に沿って行われるため,太陽暦と対応させると日程はずれてゆくが,年に一度のペースに当てはまるであろう。それ以外に現在の祝日としては元旦,独立記念日,青少年の日,勝利の日,共和国の日などがある。この特別な事象のおこるペースを年に1度から月に1度,週に1度とした場合,月に1度程度はバザール,週に1度は金曜の集団礼拝,パザルと呼ばれる定期市,また週に数回あるいは週末の愉しみとして,カフェやハマム(公衆浴場)といっ
た場での娯楽も身近ながらも日常生活に刺激を与える晴れやかな場として捉えられる。日常の生活用品は近所のスーパーや商店で用は足りるが,何か特殊な商品や絨毯,貴金属といった高価なものとなると街の中心部バザールへ出かけることとなる。トルコ語ではチャルシュと呼ばれる市場空間である。
 イスタンブルの街の場合,どこがこのようなハレの場へ変貌するのか。多くの人が集まる場所として,ある程度広い空間が必要となることから広場等の屋外空間をみてみる。古代競馬場のヒポドロームは古代のみならず,その後も歴史的な祝祭の場として機能してきた。新市街の中心地,タクシム広場ではワールドカップの祝賀や新年のカウントダウンなど,ひとたび何かあれば,ここに集まり喜びを共にする。この広場から金角湾方向に延びる歩行者天国,イスティクラル通りは三つの広場を繋ぐショッピングストリートとして,昼だけでなく夜も多くの人で賑わい,近年は魅力ある空間づくりとして路面や周辺建築物のファサードの整備等,行政側は他の通りとは違う晴れやかな歩行者空間形成に力を注いでいる。また,週に1度のハレの場,定期市は,イスタンブルの市内300箇所以上で開催されている。その多くは通常,車の往来のある商店街や住宅街の通りであるが,市の立つ日は通りいっぱいにテントや陳列台が並び,商品と買い物客で溢れかえる。定期市には生鮮食料品や衣料品,日用雑貨などが並ぶが,それ以外に犠牲祭のための羊や牛を売るための動物市など特別な市もある。動物市の場合,駐車場や傾斜面の空き地などを利用して,行政が許可をした場所で開催される。
 谷間の小さな町,ギョイヌックも紹介したい。伝統的な民家の並ぶ緑豊かな町であり,かつてのキャラバンルート(隊商が行き交った街道)を軸に市場モスクと広場が中心部を構成する。市場モスク前の広場では,通常の金曜礼拝の前に商売繁盛のための集団礼拝が行われ,その横の二つの広場では月曜市が開催される。また,割礼式では住宅街の辻広場が食堂へと変貌し,祭りの支度がなされていた。イスタンブルとギョイヌックは街の規模が異なるものの,いずれも斜面地を活かし,景観を大切にする街づくりがなされている。広場のような大空間だけでなく,辻広場や日常の生活街路も含め,多様な屋外空間をハレの場へと変貌させ,活用している。






パヴィアからルーアンへ
──フランソワ1世虜囚事件の波紋──

永井 敦子


 フランソワ1世は,フランスのルネサンス時代の王であり,ハプスブルク家の皇帝カール5世とヨーロッパの覇権を争った。彼は即位するとすぐ,先代のフランス王ルイ12世と同様に,ミラノとナポリの継承権を主張してイタリアに侵入し,1515年にミラノを征服した。1521年にここを失うが,1524年秋の遠征で再び開城させた。彼はこの後,さらに南のパヴィアを包囲しながら冬を過ごして,2月25日にカール5世側の捕虜となる。フランス王虜囚の知らせは3月7日にパリ,同10日にルーアンに伝わった。
 パリからセーヌ河を下ると,ノルマンディの州都ルーアンを過ぎてイギリス海峡に出る。現在のルーアンはパリから列車で1時間強,人口10万程の地方都市だが,16世紀前半には4〜5万人と推計される人口で,パリを別にすればフランス最大の都市と言われた。
 そのルーアンで,フランソワ1世の治世の初めにはすでに,国王の戦勝を祝うのが慣例となっていた。1515年にはミラノ征服を祝って大聖堂でテ・デウムを歌い,1517年の国王入市式には勝利を称えるさまざまな出し物を登場させた。国王がミラノ再征服をめざす間にも,ルーアンには国王から武器や軍資金の要求とともに,戦勝の知らせが届いていた。1524年の遠征にあたって,ルーアンでは10月14日に国王がプロヴァンスで逆賊シャルル・ド・ブールボンを退却させた祝いにテ・デウムを歌い,11月3日には国王のミラノ征服を祝ってテ・デウムのほかに祝火を焚いた。
 国王の虜囚の情報は,3月10日のルーアン市参事会の記録によれば,王母ルーイズ・ド・サヴォワが「ノルマンディにおける国王の総代理」と称されるブレゼと,ルーアン市に宛てて送った,2通の書簡によって伝わった。この日,ブレゼが近隣の司教二人,主要な貴族,高等法院と租税法院の官僚,そしてルーアンの主だった人々を市庁舎に集めて,王母の書簡を読み上げさせた。国王の虜囚とは,ブレゼの言葉によれば,「我々に起こりうる最大の痛恨事」であるが,しかしここで「徳を示し,臆することなく,都市に秩序を保ち,軍備を整え,不意の襲撃を防がなければならない」。
 市庁舎では続いて都市総会が開かれた。王母から都市宛ての書簡が再び読み上げられた後,高等法院の院長らによって,都市がどのような備えをすべきか提案された。その内容は,市内の十分に武装した人々を選んで警戒に当たらせること,都市防衛に関する集会に立会人を送る
ために何人かを選んでおくことなどであり,異議なしと認められた。
 翌11日以降の都市参事会は,地区長または地区ごとの集会立会人を臨時に出席者に加えて開かれた。議題は主に都市の安寧の維持であり,食料・武器および材木の確保,都市を取りまく城壁の整備,そのための資金の確保,余所者への対応,都市民による市門の守備体制の確認などが課題として指摘された。対策としては,有力な都市民が当番でおこなう市門の守備について,代理派遣を認めない緊急時の水準に引き上げるほか,地区ごとに住民の武器所有状況を調査し,適切に銃を分配し,火縄銃隊を組織する,城壁工事のために貧民に日雇い仕事を与える,武器や必需品を備蓄するための財源を確保する,閲兵式をおこなって都市防衛体制を確認するなどがうちだされた。都市参事会で話題になった政策がどこまで実現したかは定かでない。1525年10月4日,ルーアンに王母から和議の知らせが届き,都市参事会は集会や市門の守備に関する臨時の措置を撤回した。
 ルーアン市参事会は国王の危機に際して,「国王の総代理」や,国王が設置した高等法院と連携しつつ,市内の武器所有者や貧民に対する監視の強化をはかった。都市参事会にとって,敵はアルプスの彼方やフランス王国の外にいるのではなく,都市のすぐ外に迫っていたかのようだ。あるいは「涜聖の輩」,「悲嘆と貧困のゆえに蜂起する」貧民,近くのカイイ村周辺で盗みを働いた「兵士または悪漢ども」が,警戒の対象となった。それでも国王の危機は,ルーアンのようなフランス王国の主要都市で,治安行政を強化する理由となった。しかもその際に,国王の地方官の発言が,都市参事会で具体策を議論する際の拠りどころとなっていた。これらの点を見る限り,都市支配層と王権との結びつきは緊密であったと言える。
 虜囚となっていたフランソワ1世は,王子を身代わりにして帰国した後,1528年に王子の身代金を捻出するべく,王国の各都市に負担を割り当てた。ルーアンには75,000リーヴルを要求した。この金額は,都市参事会によれば,フランソワ1世の即位からパヴィア敗戦までの10年間に,ルーアン市が国王に供出した軍資金の総額45,000リーヴルを上回ったが,要求は受け入れられた。こうした財政的結びつきも,ルーアンと王権の緊密な関係の現れだろうか。






レ・ツィガーヌ(Les Tsiganes)
──タピスリーにみる中世フランス社会に到来したツィガーヌ──

平田 寧子


 オット・ノルマンディー地方の首都ルーアンからパリのサン・ラザール駅まで急行列車に揺られ一時間十分の小さな旅をしながらパリ大学へ通っていた時,その車窓から身の毛立つほどたわわに宿り木を携えた木々の連なる荒れ地の果てや殺風景な野原に立ち並ぶキャンピングカーをしばしば見かけた。こんな所でキャンプかしらん。思案に余る奇妙な光景に見えた。しかし後に,実はそれが「ツィガーヌ」の集団であったことを知ったのは,意外にも中世タピスリーがきっかけであった。
 ツィガーヌとは英語で言う「ジプシー」のフランス語名であり,その同意語としてエジプシャンやボヘミアン,ジタン,サラザンなど,幾多もの異名を持つ「流浪の民」である。紀元1世紀,インド北東のインダス川沿岸と現アフガニスタン境界付近に居住していた彼らが西欧に向かって放浪し始めた原因は未だ定かではないが,その時期は8世紀末から9世紀初頭にかけてであろうと推測される。アジアやビザンティン帝国,ヨーロッパ諸国を遍歴した百人単位の一群が,ジュネーヴを経て最初にフランスへ到来したのは,1419年,サヴォワ地方の小さな街であった。それ以降,集団はアラスやトゥルネ(当時フランス領)にも出現し,その都度,諸都市から食糧や金銭の施しを受ける代わりに自らはスペクタクルを提供するなどして放浪を続け,1427年,ついにパリの城門に姿を現した。
 パリの城門か,あるいはアラスかトゥルネの城門か,ツィガーヌの一群が今まさに到来せんとする場面に,私達は,16世紀初頭の《エジプシャンの物語》のタピスリーを通して遭遇することができる(マンチェスター,カリアー芸術美術館蔵)。それは画面右側の城門前に立つ一組の貴族カップルが,獲物を手に鹿狩りから帰還したばかりの二人の狩人を迎えるという中世フランス社会の日常的空間に,突如としてツィガーヌの集団が出現したところである。
前景の中心に位置する豪奢な衣装を纏ったカップルは,到来する不気味な集団の前に呆然と立ち尽くし,忍び寄る子供ツィガーヌによってすでに財布をくすねられていることに気付いていない。また,カップルの背後に立つターバンを巻いた女ツィガーヌは,目前の貴婦人の手相を見て予言を与えている。  このようなツィガーヌの姿と特徴は,1470年以降,絵画の背景の一部や版画の一主題として描写されるようになったが,画中において彼らは常に脇役的存在でしかなかった。しかし,それを物語の主役として表現することに唯一成功したのが,タピスリーであった。トゥルネのタピスリー商人アーノルド・ポワッソニエの工房で織られたこの主題を持つ十数帳のタピスリーは,マンチェスターの他にブリュッセルのガースベーク城に四帳とグラスゴウのバレルコレクションに一帳,個人蒐集に二帳現存する。
 とりわけここで取り上げたマンチェスター帳に関して,その構図が1500年頃に織られた七帳一組の《一角獣狩り》のタピスリーの最終帳「一角獣の死」(メトロポリタン美術館蔵)のそれに類似することは,A.S.カヴァロによってすでに指摘された。もし前者が後者と同一の下絵画家の手によるとすれば,それは15世紀後半にパリで活動した画家のものとなる。とすれば,そこに描かれたのはパリの城門だったのだろうか,あるいはタピスリーが織られたトゥルネの城門であったのだろうか? いずれにせよタピスリーに綴り出されたツィガーヌの集団は,理想郷に辿り着いたかのように奔放な世界を繰り広げる。
 こうして中世フランス社会に突如到来したツィガーヌ集団は,16世紀以降,次第に高まる悪評から厳しい処遇を受けつつも尚,未だ留まることない流浪の旅を続けているのであった。あの車窓から見たキャンピングカーのツィガーヌ達は今頃どこをさ迷っているのだろう?






フランドルへのイタリアニスム導入の先駆け
──フィリップ・ドゥ・クレーヴの裸体画コレクション──

平岡 洋子


 ある日のブリュッセル自由大学でのこと,いつもは早めにやってくるコルネリーお婆さんが,その日は授業開始直前に現れた。コルネリーは大学で受け入れている熟年聴講生の一人で,熱心な美術史受講生だった。前の席はすべて埋まっていたので,仕方なく彼女は最前列の机のそのまた前に椅子を用意して座った。大スクリーンの前である。その日,フィリッポ教授の「フランドル絵画史」は16世紀初頭のロマニスト,ヤン・ホッサールトに入った。やがて,立て続けに数点の《アダムとエヴァ》が映し出された。裸体の二人が画面からこちらに向かって歩み出てくるような迫力で,真ん前にいたコルネリーは「オヨヨヨヨ」と声を上げて体をのけぞらせた。実際,ホッサールトの《アダムとエヴァ》は,彼の他の神話主題の作品に見られる現実離れした神々の身体とは異なり,リアルな感じの裸体だ。そして独特なしぐさや動きをしている。デューラーの版画を手本にしているにもかかわらず,アダムは,巻き毛の髪ともじゃもじゃ髯の頭部が大きく,体は細身で,理想化されたバランスとは言えない。一方エヴァは,下膨れの個性的な顔立ちで,身体はふくよかだが若い妻という趣の女性だ。これは誰だろうと思ってしまうような特定のモデルそのままの感じの二人で,理想化,普遍化,一般化からは遠い。80過ぎの白髪の老婦人コルネリーが,思いもかけぬ生々しい裸体の襲撃に「オヨヨヨヨ」となってしまったのはうなずける。両者のコントラストがおかしくて,近くに座っていた私は笑いをかみ殺していた。
 最初のロマニスト,ホッサールトの裸体画は,16世紀初頭の北方でどのような人々に所望され,気に入られていたのだろうか。
 フィリップ・ドゥ・クレーヴの財産目録(没年1528年に作成)を全体的に見直したデンハーネは,フィリップの美術品コレクションには,古代ローマやイタリアルネサンス趣味のものが多い点が特異だと述べている(G. Denhaene, Les collection de Philippe de Clèves, le goût pour le nu et la Renaissance aux Pays-Bas, Bulletin de l'Institut Historique Belge de Rome 45, 1975, pp.309-342)。
 フィリップ・ドゥ・クレーヴはブルゴーニュ家に極めて近い高貴の血筋で,公国の総代官に任命され忠実に励んでいたが,15世紀末の反マクシミリアン闘争の際,反乱軍の総大将となって戦い,最後はエクルーズ城に立て
こもって1492年に降伏した。そして,1499年,フランス王ルイ12世に要請されてジェノヴァの総督となり,ジェノヴァに滞在した。このときから彼とイタリアとの接触が始まった。その後,1501年には艦隊を率いてオスマン帝国のバヤジト2世と戦った。戦勝記念のためか戦略上必要だったのか,彼の絵画コレクションにはカンヴァスに描かれたヴェネツィア,ガエタ,チェリゴ,キチラなどの港湾都市の景観図がある。
 フィリップがコレクションした絵画は73点目録に記載されている。33点は肖像画で,ほとんどが祖先や同時代の貴族だが,狂人ConraltやGiorgiaz(名前が記されているところから見て,良く知られた狂人だったと思われる),ホッサールト作クリスティアン・ドゥ・デンマークの小人たちのものもある。また,牛,犬などを描いた大きな絵もある。そして,ヴィナスとキューピッド,マルスとヴィナス,ユーピテル,クレオパトラなどイタリアルネサンスによって流布した神話主題の作品が多く見られる。しかも,ウィネンダール城の目録の絵画欄には,「裸体の女性」「裸体のカップル」「裸体の女性と老人」「男性の首にキスをする女性」など‘nu’という言葉が並んでいる。これらの作品が神話主題や《アダムとエヴァ》だったことは容易に推測されるが,すべてがイタリア制作だったのだろうか。実は,ヤン・ホッサールトがイタリア旅行(1508〜09)に随行したユトレヒト司教フィリップ・ドゥ・ブルゴーニュは,フィリップ・ドゥ・クレーヴの友で,フィリップの目録に,「裸体がある絵画の中の2点は,ラヴァンシュタインの殿(フィリップ・ドゥ・クレーヴ)の友人,フィリップ・ドゥ・ブルゴーニュからのものである」と記されている。「裸体のカップル」はフィリップ・ドゥ・ブルゴーニュから贈られたホッサールト作の《アダムとエヴァ》だったのではないだろうか。デンハーネは,フィリップ・ドゥ・クレーヴの裸体画は,イタリア,フランドル,ドイツ語圏など様々な出所のものだったのではないかと推測している。そして,コレクションした裸体画に彼のエロチックな趣味を見出す。デンハーネは,フィリップのイタリア美術への傾倒はネーデルラントではかなり早い時期のものであり,この地へのイタリアニスム導入にフィリップの新しい感覚が刺激を与えたことをもっと重要視すべきであろうと述べている。






自著を語る47

大黒俊二著『嘘と貪欲──西欧中世の商業・商人観』

名古屋大学出版会 2006年3月 244+46頁 5,400円

大黒 俊二


 本書は過去20年間に西欧中世の商業・商人観について書いた論文を集め,加筆修正して一本としたものである。このような形式の書物は学術書として珍しくない。数年前,勤務先の事情で過去の研究をまとめざるをえなくなったとき,私も,似たようなテーマで書いた論文を集めて筋を通してみようと思った。しかしそれでは書物として体をなさないことがすぐに明らかになった。そうしてできた書物は全体の構成において肝心な一点を未決のままに残し,そのため書物としては脈絡を欠いたものになることがはっきりしてきたからである。その未決の問題とはなにか。
 本書の第4章は「清貧のパラドックス」と題されている。この章は13世紀フランチェスコ会にみられる一つのパラドックスを扱っている。フランチェスコ会が清貧を理念に掲げ,実践しようとしたことはよく知られている。しかしそのフランチェスコ会は,他方で,貨幣の有用性を説き,商人が生み出す富を擁護した集団でもあった。自ら財を放棄し貨幣を遠ざけて清貧に徹する集団が,なぜ貨幣の有用性を説くのか。商人を擁護するのか。これは明らかな矛盾であり,「清貧のパラドックス」と呼ぶにふさわしい。この矛盾は13世紀後半のフランチェスコ会士,ピエール・ド・ジャン・オリーヴィの作品に集中的に表れている。それゆえ「清貧のパラドックス」は「オリーヴィのパラドックス」ともいえる。この点は,中世後期,商業・商人に対するまなざしが否定から肯定へと移り変わるさまを分析しようとした本書の核心に関わるものでありながら,私は長い間このパラドックスを説明することができなかった。しかしこれを説明しない限り,本書はまとまりのない論文集にすぎないことは目に見えていた。
 2年前,とりあえず本書の原型となるものをまとめたときにも,「清貧のパラドックス」は解けていなかった。そうした内容の書物を公にする気にはなれなかったが,その直後から解決のきざしが見えてきた。きっかけとなったのは,イタリアの研究者G.トデスキーニの研究である。トデスキーニは「清貧のパラドックス」を,13世紀フランチェスコ会を二分した「清貧論争」の文脈において解く方法を示してくれたのである。同じ頃,S.ピロンというフランスの研究者が,トデスキーニと重なりながら微妙に異なる別の解法を提示しているのにも気
づいた。両者とも2000年前後からその研究を発表し始めていた。加えてD.バーというアメリカの研究者が1990年代以降,「清貧論争」の正確な見取り図を描いてくれていた。これらの研究者の肩の上に乗ってようやく私は「清貧のパラドックス」に自分なりの答えを出すことができた。そして本書を世に問いたいと思うようになった。
 思えば私はラッキーであった。学界の片隅で個々の研究者が積み重ねてきた努力が,ある日突然響きあい呼応して結晶化する瞬間に立ち会い,その恩恵に浴したのである。10年前であればこれは不可能であったろう。しかしさらに考えてみれば,トデスキーニ,ピロン,バーらの研究も,それに先立つオリーヴィの写本研究と校訂という地味な作業がなければありえなかった。これはオリーヴィという思想家の場合とくに重要な意味がある。オリーヴィは一度は葬り去られた思想家である。彼は「清貧論争」において厳格な清貧の実践を求める左派の代表的論客であり,論争の過程で異端すれすれの窮地にまで追い込まれた。死後その著作は焚書とされ,読むことも所持することも禁じられた。しかし現実には彼の著作はさまざまなカモフラージュを施されて生き延び,ひそかに読み継がれていた。20世紀後半のスコラ文献学はそうした埋もれた著作を次々に発見し,校訂して世に送り出していった。トデスキーニらの研究はそうした地道な努力の果てに可能となったものである。
 研究者は誰しも「学界」を背後に背負っている。学界から先人の努力の成果を受け取り,ヒントを与えられ,共感したり反発したりしながら,みずから得た小さな知見を付け加えていく。これは研究者なら誰でも経験していることである。しかし私は今回ほど学界の底力を実感したことはなかった。オリーヴィの著作の探索と校訂,トデスキーニやピロンの解釈,バーの見取り図など,どの一つが欠けても「清貧のパラドックス」を解くことはできなかった。またこうした条件がそろってくる2000年以前に解くことも不可能であったろう。過去の自分の研究をまとめるという作業は労多く気乗りがしないものだが,私の場合,学界がもつ意味と役割を再認識するという得がたい経験となった。そしてこの学界にわずかなりとも貢献しえたことを名誉とも喜びとも感じている。





表紙説明

旅路 地中海21:シナイ山と聖カテリーナ修道院/太田 敬子


 モーセは舅に当たるミディアン人の祭司エトロの下に暮らしている時に,神の声をはじめて聞き,イスラエルの民をエジプトから連れ出し,乳蜜の流れる地カナーンへと導くという使命を受けた。こうして彼に率いられたイスラエルの民の出エジプト行が始まるのだが,イスラエルの民はエジプトを出て3ヶ月目にシナイの荒れ野に到着したという。彼らは荒れ野に天幕を張り,山に向かって宿営した。モーセは神の下へとシナイ山に登り,十戒を授けられたのである。シナイ山はアラビア語ではジャバル・ムーサー(モーセの山)と呼ばれている。その麓の標高約1,570mの地点に聖カテリーナ修道院がある。
 ギザのピラミッド,ルクソールの王家の谷,アブー・シンベルと世界有数の観光名所に事欠かないエジプトであるが,近年特に人気の高いのがシナイ半島観光ツアーである。イスラエルとの国交樹立と外交関係の安定以降,エジプト政府は厳戒態勢の国境地帯であったシナイ半島において徐々にではあるが観光資源の開発を進めていった。その結果,現在シナイ半島は,聖書の遺跡,世界有数のリゾート・ビーチ,ダイビング場として観光客誘致の有力な担い手となっている。中でもシナイ山観光は,ヨーロッパ(特にドイツ)やアメリカのキリスト教徒だけでなく,韓国やアジア系のキリスト教徒にも人気が高く,聖都イェルサレムに次ぐ中東のキリスト教遺跡観光地と行っても過言ではないだろう。
 カイロから高速バスで約8時間半でシナイ山に到着す
る。シナイ山は既に3世紀頃からキリスト教徒の巡礼地となっていた。その麓にある聖カテリーナ修道院は東方正教会の修道院で,4世紀頃にコンスタンティヌス帝の母后ヘレナが,その基となる教会を建設し,現在の修道院はユスティニアヌス帝(在位527〜565)によって建設されたものである。修道院の有名なバシリカ聖堂や聖画像のコレクション,また聖カテリーナ修道院文書として知られる貴重な古文書(現在は殆どは大英博物館蔵)や写本類,預言者ムハンマドからナポレオンに至るまでの数々の勅令など,聖カテリーナ修道院の学問的価値は筆舌に尽くしがたいが,シナイ山を訪れる観光客にとって,何といっても一番の魅力はシナイ山御来光ツアーであろう。
 季節にもよるが,早朝2時頃麓の宿舎を出発し,標高2,285mのシナイ山頂を目指す。山頂に至るには二つのルートがあり,暗闇を登る往路は大抵安全で険しくない観光客向けルートを進む。約7合目まではラクダで行くこともできる。修道士の用いる険しく急激なルートは3,750段の階段を含んでいる。韓国からの観光客が多いため,麓で多くのラクダ引きから「ラクッタ?(韓国語ではこう発音するそうだが)」「ラクッタ?」と呼びかけられるのがおもしろい。約3時間で山頂に到達し日の出を待つ。確かにシナイ山脈を彩る黎明と日の出は感動的であるが,一神教の教義からは少し外れているのではないかという疑念も感じる旅である。