学会からのお知らせ

*第30回地中海学会犬会
 第30回地中海学会大会を6月24日,25日(土,日)の二日間,東京芸術大学(東京都台東区上野公園12-8)において下記の通り開催します。
6月24日(土)
   記念講演 磯崎新氏
  地中海トーキング「芸術のプロデュ一サーたち」   (仮題)
    パネリスト:熊倉純子/瀧井敬子/
    南條史生/藪野健/司会:木島俊介各氏
  見学 東京芸術大学美術館
  懇親会

6月25日(日)
  研究発表
  シンポジウム「西洋芸術の受容と展開」(仮題)
     パネリスト:石井元章/高田和文/
     塚原康子/村松伸/司会:樺山紘一各氏

*春期連続講演会
 2月25日から3月25日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会「地中海の祝祭空間」を開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可。混雑が予想されますので,前売券の購入をお勧めします)。
2月25日 広場で生まれたルネサンス
樺山 紘一氏

3月4日 トルコ都市空間にみる祝祭の場
       ——イスタンブルとギョイヌック
鶴田 佳子氏

3月11日 ベネツィアの祝祭の舞台
陣内 秀信氏

3月18日 中世シチリア王の戴冠式
       —パレルモの王宮と大聖堂
高山 博氏

3月25日 古代ギリシアの祝祭を彩る美術
篠塚 千恵子氏


*会費納入のお願い
 今年度(2005年度)の会費を未納の方は,至急お
振り込み下さい。学会の財政は逼迫しております。ご協力をお願いいたします。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313












惑星王の宮殿
フェリペIV世とレティーロ宮殿
貫井 一美


 昨年はスペインが世界に誇る騎士道小説『ドン・キホーテ』が出版されてから400年という節目の年。マドリードに限らず,セルバンテスおよび『ドン・キホーテ』にゆかりの地,いたるところでイベントが行われた。 そのようなセルバンテスとドン・キホーテの年は,ハプスブルク・スペインにとっては別の意味でのアニバーサリーの年でもあった。17世紀ヨーロッパにおいて芸術のメセナとして君臨したフェリペIV世は,『ドン・キホーテ』が刊行されたその年に生まれた。2005年はフェリペIV世生誕400周年の年でもあった。マドリードいや,スペイン中が「ドン・キホーテ」に湧く中,プラド美術館では6月28日に「惑星王の宮殿」と題された展覧会が始まった。
 フェリペIV世は1605年に生まれ,1621年に父フェリペIII世の死去により王位に着いた。その女性関係と政治的無能さで負のイメージが強い。しかし,この国王は当時のヨーロッパで芸術のパトロンとして名高い。歴代国王のコレクションを引き継いで,維持しただけでなく,スペイン王家のコレクションを多様で豊かなものにしたのである。フェリペIV世と同じく17世紀を代表する美術コレクターであったチャールズ1世のコレクションやルーベンスのコレクションを自らのコレクションに加えたのはこの国王である。外国の画家たちの作品だけではなく,スペインの画家たちの作品を収集したのも彼の功績と言える。
 1630年代初頭に,国王の寵臣であったオリバーレス公伯爵の肝いりで国王フェリペIV世のための離宮の造営が開始される。1633年から1640年のわずか7年間で壮大なレティーロ宮殿が完成した。スペイン国王の公式の住まいと執務の場所はアルカサルであり,フェリペIV世が祖父フェリペII世のエル・エスコリアル宮殿と比較されるこの「趣味の館」で過ごすのは年に何週間かに過ぎなかったと言われる。しかしここでフェリペIV 世は好きな美術作品に囲まれ,演劇を楽しんでいたはずであり,1637年には1週間に及ぷ大規模な祝祭が繰り広げられたとの記録もある。
 その後,この壮大な宮殿はナポレオン戦争の際にその大部分が失われてしまった。現在は,庭園(現レティーロ公園),[諸王国の間]を含む中央広場の北翼の建物(現軍事博物館),舞踏館だったカソン・デル・レティーロ(現プラド別館)を残すだけである。
 今回,フェリペIV世生誕400周年の展覧会ではレティ
一ロ宮殿の中で玉座が置かれ,唯一公的意味を持っていた[諸王国の間]に,11点の戦勝画と10点のヘラクレスの功業連作がどのようにして飾られていたかを再現した。さらに[道化の間],古代ローマの物語に基づく作品で飾られた間,[風景の間]の再現などレティーロ宮殿のいくつかの広間の絵画装飾の復元案が示された。
 レティーロ宮殿とその装飾に関しては,いくつかの資料が残されているが1986年に出版されたイギリスの歴史家J.H. Elliottとアメリカの美術史家J. BrownのThe Palace for the Kingにおいてかなりまとまった成果があげられた。さらに最近では2001年にC.BlascoによるCGを使った宮殿の再現写真を掲載した本も出版された。
 プラド美術館は1990年代半ばころから展示の仕方に一部変更を打ち出した。時代別や画家別の作品展示ではなく,本来同じ場所を装飾していた絵画作品をグループにして展示するという展示方法がそれである。一点一点の作品という概念だけではなく,装飾プログラムを念頭に,それらの作品が本来どこのために描かれ,どのような装飾プログラムのもとにどのような順番で壁面を飾っていたのかを再現して展示しているのである。
 今回の展覧会も,そのような視点が生かされていた。例えば<皇太子バルタサール・カルロスの騎馬像>は,本来,父王フェリペIV世と母后イサベル・デ・ボルボンの騎馬像に挟まれた扉口の上部を飾っていたと考えられている。しかし現在,プラド美術館では鑑賞者の目線を考慮してそれよりもかなり低い位置に展示されている。幼い皇太子がまたがる馬の胴部が太すぎる点がたびたび指摘されてきたが,今回初めてまったく同じ高さとはいかないまでも下から見上げるような高い位置にあるこの作品を鑑賞したとき,その理由を実感した。馬上の皇太子は,我々鑑賞者の頭上を飛び越えていくような勇壮な姿であった。
 プラド美術館は現在,大規模な改築工事が行われている。今は軍事博物館の一部となっている[諸王国の間] を展示室とし,装飾を再現する計画もその改築計画の一部である。17世紀ヨーロッパにおける偉大な芸術のメセナであり,コレクターであったフェリペIV世の夢の館,レティーロ宮殿の絵画装飾の再現は,美術史研究者にとってだけではなく,絵画装飾プログラムの背景にある16〜17世紀スペインの社会構造を検討する上でも実に興味深いものとなろう。今回のプラド美術館の展覧会はその実現に向けての貴重な第一歩となった。








秋期連続講演会「地中海都市めぐりシリーズ―その芸術と文化」講演要旨
野外オペラとジュリエットの町ヴエローナの15世紀絵画
小佐野 重利


 北イタリアのヴェローナ市は,紀元前89年にローマの植民都市となり,紀元後1世紀にはローマの3街道が交叉する交通の要衝として繁栄した。そこに残る円形闘技場アレーナは,ローマのコロッセオとカプアの円形劇場に次ぐ巨大なローマ帝国時代の遺跡である。ヴェローナ観光の目玉スポットのこの遺跡には,わけても7月から8月末までそこで行なわれる夏のオペラ上演を観劇するために世界中から人々が訪れる。
 中世のヴェローナは,13世紀末スカラ家のマスティーノ1世によるロンバルディアの平定以後,スカラ家の支配の下で繁栄する。このヴェローナの中世を彩るのは,ロメオとジュリエットの悲恋の物語である。ほかでもない,シェイクスピアの戯曲で有名になった「ロメオとジュリエット」は,ヴィチェンツァの名士ルイージ・ダ・ボルトの著した悲しい小話『ジュリエッタLa Giulietta』(1539年版,1531年ヴェネツィア初版での表題は「バルトロメオ・デッラ・スカラ時代にヴェローナで起きた悲しい死を遂げた二人の高貴な恋人に関する最近発見された話」)を原典とする。ピエトロ・ベンボとも親しかったこのダ・ボルトは,サレルノのマスッチョと通称されるトンマーゾ・グアルダーティが1480年代に著した小話集を入手し,その第33話にあるマリオット・ミニャネッリと名士サラチェーニ一門の娘ガノッツァという二人のシエナの恋人の悲劇を種本とした。そしてロメオとジュリエッタの家名にそれぞれモンテッキとカペレッティという『神曲』煉獄篇第6歌106行で述べられる敵対する党派―実際には,前者が12世紀に実在したヴェローナの家門,後者はクレモーナの党派名―の名称を借りて,話の舞台をバルトロメオ・デッラ・スカラ治世のヴェローナに設定し,ほぼシェイクスピアの筋書きの骨子を創作した。ダンテの『神曲』が舞台設定の発想源の一つであることは,ヴェローナのスカラ家と詩人との深い関係からみても実に興味深い。スカラ家はトスカーナを追われた多くの皇帝派の人々を厚くもてなす。その最たる人物が,1304年に上述したバルトロメオ・デッラ・スカラの庇護下に最初の亡命生活を送ったダンテその人である。『神曲』天国篇第17歌には,同君主が「偉大なロンバルド人Il gran Lombardo」として記憶されている。ダンテはバルトロメオの末の弟カングランデ1世に,『神曲』天国篇を贈る際,有名な献辞の書簡を記
し,その中で『神曲』執筆の目的は,「人々を今陥っている悲惨な状態から遠ざけ,幸福な状態に導く」ためであると明言する。1329年に偉大なカングランデが没する。順次後を継いだスカラ家君主―マスティーノ2世からアントニオまで―は,カングランデの倫理的な偉大さに遠く及ばず,策謀にはまり,1387年ジャン・ジャコモ・ヴィスコンティに都市をのっとられる。その後,パドヴァ君主フランチェスコ・ダ・カッラーラの短期支配と戦乱が続き,最終的にヴェローナは1405年,パドヴァと共にヴェネツィア共和国陸領となる。16世紀半ばパオロ・カリアーリ,すなわちヴェロネーゼは,生地ヴェローナから首都ヴェネツィアに移住し,ヴェネツィア絵画の黄金時代を現出するのに貢献した。
 ヴェローナの15世紀絵画,すなわちヴェローナ国際ゴシック美術の始まりを考える上で,スカラ家の文化政策や修道会,教会への寄進は重要である。一つは14世紀に菩提寺サンタ・マリア・アンティカに隣接して造営されたスカラ家君主の墓碑モニュメント群である。もう一つは,1352年のカングランデ2世時代にアディジェ川の蛇行部にかかる重要なスカラ橋の袂に造営が開始され,1375年にスカラ橋控え壁に連結する部分をもって完成した居城カステルヴェッキオである。この城は第2 次大戦前に市立美術館として使われ始めるが,大戦中の空爆で損傷を蒙り,1958〜64年に建築家カルロ・スカルパによって絵画館に適した斬新な改築が行なわれたことで有名である。スカラ家が寄進した修道院教会として,フランチェスコ会派のサンフェルモ・マッジョーレ聖堂,ドメニコ会派のサンタナスタージア聖堂,聖母下僕会派のサンタ・マリア・デッラ・スカラ聖堂がある。それぞれの聖堂に,15世紀の有名な地元画家たち―ピサネッロ,ステーファノ・ダ・ヴェローナ,ジョヴァンニ・バディーレ―の魅惑的な壁画が描かれている。 特に,サンタ・マリア・デッラ・スカラ聖堂グアンティエーリ礼拝堂および隣接する主祭室に描かれたジョヴァンニ・バディーレとその工房の壁画(«聖ヒエロニムスの生涯34場面» «聖ユリアヌスの物語» «ピエタのキリスト»など)については,我々の最近の調査によって,家族経営の工房による壁画制作に関する興味深い新知見が得られた。バディーレ一門に関する古文書や現地で撮影したスライドを使い,その一部を詳しく解説する。









秋期連続講演会「地中海都市めぐりシリーズー一一その芸術と文化」講演要旨
プーリア地方の都市
陣内 秀信


 長靴形のイタリア半島のちょうど踵にあたるのが,プーリア地方だ。この地方には先ず,内陸の丘陵部に,白く輝く個性的な中世都市が点在し,以前から日本の建築家達を惹き付けてきた。同時に,海岸沿いにも,知られざる素晴らしい港町が点在している。ここでは,内陸部と海沿いの両方に目を向け,ブーリア地方の都市の特徴を紹介したい。
 先ず,私がヴェネツィアに留学していた1970年代前半に出会い,調査を行った懐かしいチステルニーノ。高台に位置する城塞のような小都市の城門を潜って旧市街に入ると,白い迷宮空間に彷徨い込む。この複雑極まりない都市がどんな秩序で出来ているかを知るべく,私は学生時代に調査を手掛けた。建物は壁も床も天井も屋根も全て石でできている。従って,どの部屋にもヴォールト天井が架かり,雰囲気のある室内空間が生まれている。袋小路を囲んで小さな住戸が数多く取り巻き,外階段を設けながら時代とともに,上に増築されていった。その土着的な形成プロセスの結果,変化に富んだ美しい造形の都市空間が生れたのだ。
 近代には城壁の外側にも発展した。すぐ外の見晴らしのよい高台に,緑溢れる気持ちのよい公園がつくられ,特に夕方から晩に人々の集る人気スポットとなっている。
 隣町,アルベロベッロは円錐形ドームのトゥルッリ民家で有名だ。観光化が著しいが,アイア・ピコッラ地区に足を伸ばすと,素朴な農村の雰囲気を留める貴重な一画に出会える。
 我々法政大学の陣内研究室では,南イタリアでの有名所,レッチェも研究対象に選んだ。バロックのフィレンツェとも言われる美しい都市だ。宗教建築が中心で,しかも軸線を真っすぐ伸ばし,広場にオベリスクを設けながら展開するローマのバロックとは性格が異なる。レッチェでは,中世に形成された迷宮状の複雑な都市構造の上にバロックの建築が挿入されたから,意外性のある面白い都市空間が随所に生まれたのだ。むしろ世俗の住宅にバロックの興味深い演出がなされた。パラッツォでは,建物の角の巨大な円柱,幻想的な持ち送りの装飾で飾られたバルコニー,壮麗なるアーチ玄関に造形的な演出が見られる。中流の住宅では前庭をとり,その前面の道路側に書割り的な正面を設け,そのアーチ状入口の上に,ミニャーノという装飾的なバルコニー(通路)を設ける。
こうして,まるで舞台美術のように街路沿いの空間が飾られ,都市が一種の劇場と化す。
 だが同時に,内部に豊かさを隠すという地中海のよき伝統もレッチェに見られる。貴族の邸宅には,必ず美しい中庭があり,背後に緑豊かで香しい庭園がとられている。レッチェの旧市街は戦後の郊外への人口流失で荒廃していたが,この数年,蘇りを見せているのが嬉しい。
 次に,この2年,陣内研究室で調査を行ってきた海の町,ガッリーポリを紹介したい。古代に起源をもつが,海に囲われた島状の要塞として中世に大きく発展した。複雑に巡る道路網はその時代のものだ。庶民的な雰囲気を見せる袋小路も多い。内陸部のチステルニーノやレッチェではかつて袋小路には農民が住んだが,ここガッリーポリでは,漁師達の家族が主に住んできた。一方,17,8世紀には,照明用のオリーブオイルの生産とそのヨーロッパ各国への輸出によって,巨大な富を蓄え,都市づくりに投資した。パラッツォの地下には,オリーブオイルを搾り製造する立派な施設(フラントーイオ)が幾つもつくられている。折しも広がったバロックの華麗な様式で,古い建物を次々に建替え,あるいは改造した。小さな都市には不似合いな位に,堂々たるバロックの邸宅が多いし,中流階級のミニャーノをもつ住宅が沢山ある。高密な島の中だけに,レッチェ以上に変化に富んだ空間にバロックの驚きの演出が潜んでいて,面白い。コンフラテルニタと呼ばれる同信組合の教会がこの時期に数多くつくられ,漁師,沖仲仕,樽職人など,業種ごとに人々が集るコミュニティの拠点となった。
 最後に,もう一つ海の町,トラーニを見たい。従来から,ここは真っ青な海をバックに聾える白い外観のロマネスクの大聖堂と中世・ルネサンスの城で有名な町だが,観光客はもっぱら大聖堂だけを見て大型バスで次へ移動するのが常だった。旧市街は荒廃しイメージが悪かった。ところが,近くの大都市バーリの旧市街と同様,この数年,海に囲われたトラーニの旧市街が見違えるように蘇ってきたのだ。素敵なレストラン,エノテカ,食料品屋などの店舗が次々にオープンし,都市再生に大きな役割を果たしている。夕方から晩にかけて,港のまわりには散歩(パッセジャータ)を楽しむ人々で溢れんばかりの賑わいが見られるのだ。こうしてプーリア地方の都市の魅力が近年,益々高まってきているのが注目される。







マリア・アマリアのマイセン
大平 雅巳


 ヨーロッパで最初の硬質磁器であるマイセンが,1709年,磁器に熱中したザクセン選帝侯アウグスト強王の厳命のもと,錬金術師ベトガーと科学者チルンハウスらの懸命の努力によって生まれたことはよく知られている。磁器に関する十分な知識も情報もないまま,東洋の磁器の実物をもとに分析と実験を繰り返し,製法の解明に至るのは並大抵の苦労ではなかった。また,この磁器の開発のために強王が投じた費用も尋常ではない。
 当然のことながら,新たに発見された磁器の製法は国家機密として厳重に管理された。工場はマイセンの丘の上に聾える要害アルブレヒッツブルク城と定められ,ベトガーの身柄も長いこと虜囚のままであった。
 マイセン磁器の生産が軌道に乗るにはさらに数年を要したが,磁器の販売がザクセンに収益をもたらすようになると,強王の磁器収集熱はますます加速した。彼がマイセンと東洋の磁器で埋め尽くす磁器の城「日本宮殿」の建設を計画したように,マイセン磁器は自らの威信を示す最良にしてもっとも重要な手段でもあった。
 しかし1733年に強王が没すると,後を継いだ子のアウグスト3世はマイセン磁器にほとんどといってよいほど無関心であった。彼は政治向きのことばかりか,工場の経営を宰相ブリュール伯爵に委ね,自らはイタリアやオランダの絵画,高価な宝飾品を収集し,イタリア・オペラに興じた。そして事あるごとに,マイセン磁器を惜しみなく与えた。
 彼の長女マリア・アマリアが,1738年,両シチリア王国の王カルロス(後のスペイン王カルロス3世)と結婚するに際しては,マイセン磁器が嫁入り道具として整えられた。制作に数年を要した磁器の数々は,一点ずつ器の形に合わせて特別に作られた革製の容器に入れられ,遠くナポリまで運ばれた。
 磁器の国から来た王女に刺激されたものか,カルロスは1743年,カポディモンテ王宮の敷地内に磁器工場を創設する。ここの製品はマイセンとは異なり,原料にカオリンという成分を含まない軟質磁器だったが,その意匠はマイセンにじつによく似ていた。しかし,マリア・アマリアのため,ポルティチ宮殿内に設えられた「磁器の間」は独特の美意識と装飾性を発揮したもので,王女をも驚かしたにちがいない。
 現在はカポディモンテ宮殿に移されたこの「磁器の間」
は,6メートル四方ほどの部屋のすべての壁と天井を白磁のパネルと色絵磁器の彫刻で覆い尽くしたもので,ロココ風の花綱模様の間に中国風の人物や蝶などのシノワズリー装飾があしらわれ,中央には磁器のシャンデリアが下がっている。色鮮やかで過剰なまでの装飾が四方の大きな鏡に幾重にも映り合い,なんとも不可思議な空間を生み出している。アルプス以北に残る,壁面一杯に磁器を飾り立てた部屋とはまったく趣を異にするもので,タイルを巧みに取り入れた南イタリアらしいというべきか,あるいはイスラムの影響を見るべきか,「磁器の間」はここにきて地中海的変容を遂げている。
 1759年,カルロスはスペイン王位を継承するにあたり,イタリア領を子のフェルディナンドに譲り,マドリードへ移った。しかし磁器工場は手放さず,機械設備から道具や原材料,それに熟練した職人たちもすべてマドリードに移転させ,カポディモンテに似た雰囲気のブエン・レティーロに新たな磁器工場を開いたのである。カルロスはここでも「磁器の間」の制作を命じ,アランフェス宮殿にはポルティチ宮殿に似たシノワズリー装飾の部屋が作られ,マドリードの王宮のそれは趣を変えてディオニュソスの祝宴のアレゴリーで飾られた。
 ブエン・レティロ工場は40年ほど彫刻的な磁器を製作したが,ほとんどが王宮用に限られていたため,やがて財政的に行き詰まる。またナポリでもフェルディナンドが新たに磁器工場を始めていたが,これもまたコストがかさみ経営難に陥った。そうして19世紀初頭,ふたつの王立磁器工場は相次いで閉窯し,ナポリにもマドリードにも磁器は根づかなかったのである。
 今,マドリードの考古学博物館には,マリア・アマリアの婚礼祝いであったマイセン磁器が数点並んでいる。「緑と金のワトー・サーヴィス」と呼ばれるもので,その名のとおり,ワトー風の男女が戯れる情景を緑彩で描き,周囲には金彩がふんだんに用いられ,すべてに両シチリア王国とザクセン=ポーランドの同盟を表す紋章がつけられている。冷たいまでの白さ,洗練された形,豪華にして上品な絵付けは,最盛期マイセンの技量を遺憾なく示すものである。王女とともにマイセンからナポリ,マドリードと長い旅をしてきたこのマイセン,形も模様も軟らかなスペインのやきものの中にあって,いささか不釣合いな,異質な輝きを放っているように見える。








自著を語る46
セルバンテス著『ドン・キホーテ』
新潮社 2005年10月 全四巻1,464頁 14,700円
荻内 勝之


 『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチヤ』を翻訳いたしました。昨年10月,新潮社から出版。前篇,後篇「全4 巻」であります。堀越千秋の大胆な挿絵が入っていますが,まえがき,あとがき,注釈,解説はいっさい付いておりません。この場は,あとがき代わりにお読みください。「全4巻」が出来上がるまでの珍奇ないきさつをお聞かせいたします。
 原作本はセルバンテスがスペイン語で書いたものです。出版は1605年。昨年は400周年。世界中でさまざまな催しがありました。
 スペインでは全巻通しのリレー朗読会がおこなわれました。数百人で読みました。カーニバルまがいの賑やかな行列も出ました。映画も新作が立て続け,旧作はつぎつぎDVDになりました。舞台は舞台でドン・キホーテものを打ちつづけました。本は,どでかいのが出来ました。前篇の全文を幅36メートル,高さ14メートルのビニール製パネルに描いたのです。291行。地上から見上げて読めるよう,字の大きさは書き出しに近い上段ほど大きく,最後は1センチほど。読みきるにはパネルに沿って往復300回,21キロ歩くことになります。同時に,極小,手のひら大の紙一枚の片面に印刷したものも出ました。分厚い普及版が街頭で無料で配られることもありました。まさに国をあげ,業界,学会あげての「ドン・キホーテ」祭りが展開されたのです。
 日本では志摩スペイン村が4月22日,23日とリレー朗読会をおこないました。120人がひとり1頁ずつ音読しました。4月23日はセルバンテスの命日。ユネスコが定める「本の日」です。スペインではこの日,リレー朗読会をやるのが恒例で,これがヨーロッパやアメリカ諸国に広まっています。アジアではフィリピンが昨年この慣わしをとりいれましたが,読むのは現地語本ではなくスペイン語本でした。だから,志摩スペイン村は現地語リレー朗読アジアで一番乗りをしたわけですが,この朗読会で用いた本も稀観本ともうしますか珍本なので,ここでその制作のいきさつをお話しします。
 朗読会は,はじめ,子供向けの文庫を用いることになっていました。誰にも分かりよい言葉で書かれた本を使おう,ということにしたわけで,志摩スペイン村は子供の入場が多いところですから,しごくもっともな理由といえます。しかし,この件で相談をうけていた私は予定
を聞いてあわてました。そして,嘆願しました。400周年は原典でいかなきゃセルバンテスが泣きます,と言い,もう少しで私の日本語訳ができます,それを読んでください,と袖に縋りました。出来上がってもいない本を読めとは図々しい限りですが,そんな事情はつゆ知らないスペイン大使館が,原典が望ましい,という判断を下したので,志摩スペイン村も折れました。 かくして,荻内訳『ドン・キホーテ』が採用されることになって大喜びしたのでありますが,じつはその時まだ出版社が決まっていませんでした。あわてました。文章も手を入れたほうがよいところが多々ありましたが,大口を叩いた手前,間に合わさねばなりません。読み手をえりすぐってやるわけですから,装丁もふさわしい本であってほしいと願わずにおれません。そこで,なにかにつけ助っ人とたのむ扇子屋の伊場仙さんに協力を求め,和紙に印刷することにしました。これをバラのまま積み上げよう。本は綴じるものと誰がきめた,という声が上がって,1,040枚に片面だけ印刷したのです。インクジェット方式で1枚1枚丹念に刷りました。紙は格(こうぞ)製。土佐の人間国宝,浜田さんが趣旨に賛同して,一月かけて漉いてくださったのです。こうして,たった一部ながら,荻内訳『ドン・キホーテ』がひとまず本になりました。2日後,これを抱えて志摩スペイン村へ乗り込み,壇上にのせたときは,おれの本がよい,と大口をたたいたあとだけに,耳をそろえて借金を返す気分でした。かくして,朗読会は大成功,東京に凱旋した荻内は,こんどはスペイン大使館を訪ね,大使館でも朗読会を開いてほしいと願い出ました。大使館は快諾,10月14日と決まりました。
 数日後,新潮社が名乗りを上げ本格的な出版を引き受けてくれました。10月13日は講談の田辺一凛と落語の柳家三太楼が土佐紙の本から抜き出した箇所を読んでくれることになっていました。井戸光子さんが江東区ティアラの小ホールを用意してくれたのでした。本はその日までに仕上げよう,と新潮社の斎藤,佐々木,栗坪,高橋の各氏と荻内が鉢巻で誓い,滑り込みセーフ,開演1 時間前に届きました。
 大使館では,各界の個性派54人が舞台で朗読を演じ,松本紀保さんがドゥルシネア・デル・トボーソの墓碑銘を朗誦して,めでたく幕となりました。






表紙説明

旅路 地中海19 ロマニャーノ・セジア 聖金曜日の受難劇/水野 千依



 プレアルプス麓の小村,ロマニャーノ・セジアに足をとめたのは,昨年の復活祭の時期だった。サクロ・モンテの調査のために,ノヴァーラからヴァラッロ・セジアに向かうバスのなかで,偶然,受難劇の貼り紙が目にとまった。18世紀以来の古い演出法を継承してきたというそのうたい文句に惹かれ,3日間にわたる劇の中日,再びロマニャーノに向かうバスに乗り込んだのだ。 バス以外に交通手段のないこの村の受難劇にわざわざ外から足を運ぷものは,どうやらほとんどいない。村のはずれのバス停で降ろされたのは,私一人であった。しかし,歴史的中心である広場には村民たちがすでに群れをなしており,マドンナ・デル・ポポロ聖堂を起点とする行列を待ち構えていた。当時の衣装を身につけた300 人以上の役者たちが町を練り歩くなか,死せるキリストの寝台や受難具,苦しみの聖母のエフィジーが次々と運ばれていく。十字を切り,.祈りをささげるかたわらで,観衆は,役者たちのなかに,自分の家族や知人の姿を認めては目配せをしている。村民自身が演じ,かつ観衆となる,村をあげての受難劇である。
 この「遍歴型民衆劇」には,固定された舞台装置はない。村の広場や道沿いに再現された特定の「場」を舞台に,受難の15の場面が演出される。役者たちは,観衆の見守るなか,舞台から舞台へと徒歩や馬上で移動し,観衆もその後を追って劇の展開に参加する。日々の生活の場が,この日にかぎっては聖なる舞台と化し,日ごろ見知った人々が,聖書の人物と化す。
 ロマニャーノの受難劇は,1729年4月17日にサント・エンテッロ信心会のもとで在俗信徒たちの支持を得て創始された。すでに中世からこの地に存在した「死せ
るキリストの悲劇」を革新したものである。その後3世紀にわたって,キリストの受難はこの村で再現され,追体験されてきた。現在,わたしたちが目にする聖劇の表面には,幾重にも古の記憶が刻印されているのだ。
 そもそも「遍歴型民衆劇」はルネサンスにも存在した。共同体が一体となって演じる聖劇は,その結束力を高めるとともに,日常の親しい場や人物を聖なる物語のコンテクストに変換させることで,身をもって受難を追体験でき,さらに記憶にとどめるのにも役立ったにちがいない。当時の祈禧書『実り豊かな祈薩の庭』(1494年)には,まさにこの演出を彷佛とさせる瞑想法が説かれている。いわく,「(イエス・キリストの)歴史を心によりしっかりと刻み,そのいかなる行為をも記憶にとどめるためには,心のなかに,場と人物を固定させるといいし,そうする必要があります。エルサレムの町には,あなたがよく知っている町を選びなさい。その町に,受難のあらゆる出来事が起こった主要な場を見出すのです。(……)このようにこれらの人物や場があなたに再現されたなら,この場の記憶によって,主イエス・キリストがこの世で行ったことすべてをより容易に思い出すことができるでしょう。さらにまた,自分がよく知っている何人かの人物を心のなかに形作ることも必要です。(……)」。
 古来の「場の記憶」(memoria locale)と「力あるイメージ」(imagines agents)に基づく記憶術は,受難の瞑想をいわば外在化させた聖劇においても,その演出の基層に存在したことがうかがわれる。これは,ヴァラッロのサクロ・モンテの初期構想にも息づいている。集団的記憶の長い伝統の産物であるこの受難を,ロマニャーノの小村は,この春もまた,再演することだろう。