学会からのお知らせ

*秋期連続講演会
 秋期連続講演会を10月22日から11月26日までの毎土曜日(全6回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名です(先着順,美術館にて前売券購入可。混雑が予想されますので,前売券の購入をお勧めします)。

「地中海都市めぐりシリーズ──その芸術と文化」
10月22日 バルセロナの光と影,ガウディとピカソ  大高 保二郎氏
10月29日 南仏と20世紀美術の創始者たち  太田 泰人氏
11月5日 芸術都市ミラノ  上村 清雄氏
11月12日 アルジェリア女性作家たちから見た<アルジェの女たち>  石川 清子氏
11月19日 野外オペラとジュリエットの町ヴェローナの15世紀絵画  小佐野 重利氏
11月26日 プーリア地方の都市  陣内 秀信氏



表紙説明

旅路 地中海15:カンピオーネ(イタリア)/児嶋 由枝


 険しい山並みがつらなるイタリア北端は国境が複雑に入りくんでおり,地図をちょっと見ただけではよく分からない。ルガーノ湖あ辺りも,尾根に沿ってスイス領が楔のようにイタリアに喰いこんでいる。この,南にゴツゴツとのびたスイスのティチーノ州の中に,離れ小島のようなとても小さなイタリアの飛び地がある。これがカンピオーネである。スイス領内のイタリアということから現名称はカンピオーネ・ディタリア(Campione d'Italia),広さは約1.7平方キロ,人口は約3,000人。国境の町キアッソを出て約15キロ,深い山あいを抜け,ルガーノ湖東岸をしばらく北上したところにある。イタリア語が公用語であるティチーノ州の大部分は中世にはコモ,次いでミラノ公国に属していたが,16世紀初頭にスイス連邦に併合された。しかしカンピオーネだけは,既に7世紀からミラノのサンタンブロージオ修道院領であったことから,スイス領になることはなかった。現在はロンバルディア州コモ県に属している。
 ルガーノ湖の他にコモ湖やマッジョーレ湖など,険しい山あいに深く澄んだ湖が横たわるこの一帯は19世紀末以降,風光明媚な避暑地となっている。カンピオーネもその例にもれず観光が重要な産業であるが,しかし主幹産業はカジノである。イタリア政府は,飛び地かつ観光地という特徴を活かして,カンピオーネを公認の賭博場に定めたのである。
 けれども,19世紀までこの地方は極めて貧しかった。土地といっても,ところどころ岩を剥き出しにして聳える山々と湖しかなく,猫の額ほどの平地は僅かな家屋を建てただけで一杯になってしまう。また,厳しい冬のあいだは雪に閉ざされてしまう。それゆえに,スイスのテ
ィチーノ州は長らく傭兵を各国に送り続けてきた。
 カンピオーネが,コモやインテルヴィと並んで,中世を通じて多くの石工を輩出したのも同じ理由による。彼らは貧しい故郷を旅立ち,イタリア半島はもとよりアルプスの北側やフランス,イベリア半島にも乗り出して,優秀な石工として重用されたのである。
 彼らはmagistri campinesi(カンピオーネの工人)と呼ばれ,現存する最も古い記録は11世紀であるが,コモやインテルヴィの工人と同様,起源はロンゴバルド時代に遡るとされる。そして,やはりコモやインテルヴィの工人と同じく,彼らの移動と建築・彫刻様式の伝播との関連が,研究者の間で議論されてきている。あるケースでは工人たちが方々に拡散し,定住した後は,カメレオンのようにそれぞれの定住地の様式を吸収している。他の場合では,ミラノなど定住先で大きな工房を構え,自らの様式を生み出し,展開させている。また別のケースでは,ある地方の革新的な様式を他に移植している。最後のケースとしては,サン・ジル・デュ・ガール聖堂など12世紀プロヴァンスの擬古典的彫刻様式を,北イタリアのモーデナやスイス東部のクールに伝えた例が名高い。
 彼らの活動に共通する唯一の特徴は,故郷ゆかりの様式などは存在しないということである。荒涼とした山岳地帯に大規模な建築工房が設けられたことは一度もなく,ひとたび石工として故郷を後にした人々は,生地に戻ることはほとんどなかった。
 だから今カンピオーネを訪れても,カンピオーネの工人を思い起こさせるものは何も残っていない。ただ,深い山並みに囲まれて湖が静かに佇んでいるばかりである。







春期連続講演会「地中海ネットワーク:交易と人の移動」講演要旨

三大文化圏とネットワーク
──ヨーロッパ,ビザンツ,イスラム世界の交流──

高山 博


 ローマ帝国の人々は,地中海を「われらの海」と呼んだように,地中海のほぼ全域を支配し,地中海全体の制海権を保持していた。彼らの支配圏は,シリア,エジプトからブリテン島にまで及び,その帝国の支配域が一つの巨大な交易圏を成していた。そこにはローマを中心に道路が整備されものや人の移動が容易にされ,帝国の貨幣が流通していた。巨大な護送船団が,エジプトや北アフリカから大量の小麦やオリーブオイルを,ローマ近郊のオスティアの港へ運んでいた。このような平和な状況は,危機の時代と言われる3世紀に変化する。皇帝権が衰微し,地中海の安全な航行が損なわれ,交易もその影響を受けることになる。やがて,ディオクレティアヌス帝(284〜305)が帝国の秩序を回復し,4名の正副皇帝が帝国を東西に分けて統治を行う四分統治の制度を導入したが,皇帝が力を失った西ヨーロッパでは,次々とゲルマン人の王国が生まれ,5世紀後半には,西側の帝国そのものが失われてしまう。ローマの地位は低下し,西地中海沿岸部の経済活動は衰退していった。他方,東地中海は,5世紀の終わりまでに,二つの活動的な海上交易圏を形成していた。一つは新都コンスタンティノープルを中心とした東地中海・黒海交易圏,もう一つは西の首都ラヴェンナを中心とするアドリア海交易圏である。
 やがて,東の帝国,すなわち,ビザンツ帝国が,ゲルマン人たちに奪われていた西地中海を取り戻し,地中海にその覇権を確立する。6世紀半ば,ビザンツ皇帝ユスティニアヌスが,ゲルマン人たちに奪われていた西地中海周辺地域の大部分を再征服し,ほぼ地中海全域の制海権を手に入れたのである。商人たちは,より安全になった地中海を5世紀の頃よりも容易に行き来できるようになった。この時代,首都コンスタンティノープルを中心とした東地中海・黒海交易圏が繁栄し,西地中海においても交易活動が復活した。ビザンツ帝国が地中海の制海権を握った状況は,100年近く続くことになる。
 7世紀に,地中海の南岸にイスラム教徒の帝国が出現すると,ビザンツ帝国の独占的な地中海支配の時代は終わりを告げ,三つの文化圏が鼎立する新しい時代が始まる。地中海南岸は,中東・北アフリカ・スペインを征服したイスラム文化圏となり,地中海北岸は,西側がラテン・西ヨーロッパ文化圏,東側がビザンツ文化圏となる。ビザンツ帝国は,依然として地中海における覇権を保持していたが,イスラム帝国やヨーロッパの国々の海上活
動をコントロールすることはできなくなっていた。
 9世紀になると,長い間ビザンツ帝国の支配下にあった地中海の大部分が,イスラム教徒の支配下に置かれるようになった。ビザンツの支配域は,ギリシア,小アジア,南イタリアに縮小し,彼らが支配できた海は,エーゲ海・黒海周辺だけとなる。それと対照的に,イスラムの海上交易圏は,スペインやマグレブからシチリアを経由してシリアやエジプトまで拡がっていた。このイスラムの海上交易圏では,大きな丸型帆船が使用され,大量の貨物が,季節に応じて編成される巨大な船団で運ばれていた。この交易圏は,インド洋やアフリカのスーダンともリンクしており,巨大なイスラム交易圏の一部となっていた。ヨーロッパでは,この時期,フランク王国が勢力を拡大し,シャルルマーニュ治世の8世紀末から9世紀初めにかけて,西ヨーロッパをほとんどその支配下に置いた。しかし,その死後,広域秩序が失われ,経済活動が沈滞し,西地中海北岸も海上交易における重要性を失った。
 その後,10世紀末から11世紀末にかけての100年間に,地中海の島々の支配権がイスラム教徒の手からキリスト教徒の手に移り,地中海におけるイスラム教徒の覇権は徐々に失われていく。
 11世紀末から14世紀末は,北イタリアの二つの都市ヴェネツィアとジェノヴァが,地中海の制海権と交易の独占を狙って相争う時代である。これらのイタリア都市国家は,交易で富を蓄積し,強力な海軍力によって自らの勢力圏を拡大していった。東地中海に影響力をもつヴェネツィアは,1202年に始まる第四回十字軍で,自分たちに敵対するキリスト教徒の都市ザーラを占領し,1204年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを攻略して,ラテン帝国を建設する。こうして,東地中海における覇権を確立するのである。ヴェネツィアとライバル関係にあったジェノヴァは,ギリシアのキオスやフォカイア,黒海沿岸の諸都市をその植民地としていたが,西地中海と大西洋をその主な勢力圏としていた。14世紀には,勢力圏の棲み分けが進行すると同時に,地中海における激しい覇権争奪戦を繰り広げることになる。両都市は,13世紀半ばから14世紀半ばにかけて,三度戦争を行い,1381年のキオッジアの戦いでようやく決着が着いた。勝利者ヴェネツィアは,15世紀初頭に絶頂期を迎え,その繁栄は16世紀まで続く。





地中海学会大会 地中海トーキング要旨

楽器の旅
──地中海から日本へ──

パネリスト:木戸敏郎/嶋和彦/司会:高階秀爾/演奏:西陽子/摩寿意英子


 先頃浜松の静岡文化芸術大学で開催された第29回地中海学会大会では,地中海トーキングとして「楽器の旅──地中海から日本へ」と題する催しが行われた。音楽の町浜松にふさわしい企画で,パネル討論に古代楽器の実演つきという華やかなものである。
 「旅」をした楽器というのは,ひとつは古代エジプトのハープであり,もうひとつが日本の正倉院にある天平時代の箜篌(くご)である。箜篌は,西アジアからシルクロードを経て日本にまで伝えられたハープ属の絃楽器で,現在正倉院には二張残されている。明治期に藤島武二が描いた名作《天平の面影》(石橋美術館蔵)で天平美人が手にしている優雅な楽器がそれだと言えば,思い出す人も少なくないであろう。
 だが現存する箜篌は,損傷がはげしくて演奏することはできない。それを実際に音の出るかたちに復元したのは,現在京都造形芸術大学教授の木戸敏郎氏である。単に外形を再現するだけでなく,実演可能な姿に復元するためには,さまざまな苦労があったらしい。
 箜篌の構造は,垂直の響鳴胴とその下部のホゾ穴に直角にさし込んだアーム(腕木)からなるL字形の枠に絃を張ったものである。絃はピンと張ってないと鳴らないから,何本もの絃を張ると,その張力でアームが響鳴胴の方に引っ張られて,接合部分が折れる危険性がある。事実,試作の段階ではしばしば折れたという。
 この問題を解決するために,木戸氏は,正倉院の箜篌の響鳴胴底部とアームを差し込むホゾ穴とのあいだに若干の空隙があることに目をつけ,その空間に支柱を立てれば絃の張力に対抗することができる筈だと考えた。この仮説に基づいて正倉院の学芸員とともに残された遺品を探索したところ,まったく別の場所でちょうどこの空間にぴったりはまる木片が発見された。その木片の上に残っていた装飾模様がアームのそれと一致することも確かめられ,それが本来箜篌の一部であることが明らかになった。そこで復元にあたっても同様の支柱を立てることによって,安定した,そして実際に音の出る箜篌を制作することに成功したのである。
 この時の経験を生かして,次に木戸氏が取り組んだのが,古代エジプトのハープの復元である。この実物は現在パリのルーヴル美術館に所蔵されているが,これも破損がはなはだしく,もちろん鳴らない。その外形だけを復元したものがニューヨークのメトロポリタン美術館に
あるが,これも演奏できる状態ではない。基本的な構造は箜篌の場合と同じで, 木の枠に皮を張った響鳴胴とその下部に直角に差し込んだアームのあいだに,絃を張ったものである。ここでも問題は,響鳴胴とアームの接合部分を安定させることであった。
 その方式は,エジプトの場合,箜篌とは異なっている。響鳴胴底部のアームを受けるホゾ穴が貫通していて,アームの先端が裏まで突き抜けているのである。木戸氏は,その先端の折れている状態とホゾ穴部分の痕跡から,貫通したアームと響鳴底部の間にクサビを差し込むことによって力のバランスを保ち得ると推定して,見事に復元に成功した。日本人による世界最初の完全復元という快挙である。今回の催しは,その復元成功の記念の意味もあった。
 トーキングにおいては,まず嶋和彦浜松市楽器博物館館長から,18世紀におけるピアノの誕生についての興味深い講演が行われた。張った絃をはじく楽器であるチェンバロ(ハープシコード)から,絃を叩くピアノがどのようにして生まれて来たか,その際の制作者のさまざまの苦心談や,メカニズムにこらされた多くの工夫の説明は,改めて聴衆に深い感銘を与えた。
 続いて,木戸氏から二つの楽器の構造解説と復元の過程の説明があり,いよいよ実演である。演奏を担当したのは,エジプトのハープが箏曲家の西陽子さん,箜篌がハープ奏者の摩寿意英子さん,いずれも現役の演奏家として多彩な活躍を続けておられるお二人である。二つの楽器は,それぞれ21本の絃が同じ音程になるように調絃され,比較のために同一の曲が代わる代わる披露された。古代地中海世界と天平時代の日本という時間的にも空間的にも遠く隔たった土地に鳴り渡った神秘的な楽の音は,互いに対話を交わしながら会場いっぱいに拡がった。構造的に同じでありながら,使われた材料が響鳴胴は皮と板,絃はガット絃(羊の腸)と絹糸という違いがあるため,音色にも微妙な差異がある。その違いを味わうことが出来るという点でも興趣は尽きないが,何よりもしめやかにむせびなくような嫋々たる響きに,時空を越えた悠久の世界への思いをかきたてられた一時であった。
 なおこの催しに対して,財団法人国際文化交換協会より,特別の助成を頂いた。記して深く感謝申し上げる次第である。 (文責:高階秀爾)





日本とスペインの文化交流

林屋 永吉


 地中海文化に関する秀れた研究を発表したわけでもないこの私が,地中海学会から学会賞を授与されようとは,全く夢にも思わぬことだった。授賞の理由には「長年にわたってスペインとの文化交流」云々とあるので,おそらくこれは,昔から私を御存じの方々が,可成年をとった今もまだ何やらやっている私を御覧になっていて,この辺りでねぎらってやろうと,敬老精神を発揮された結果に違いないと思い,私としては誠に面映ゆいことながら,その御好意を謝し,有難く拝受した。
 そこでこの機会に,私が留学中に学んだことや,40年にわたる外務本省と在外公館での本来の仕事──その可成は文化交流に関係深いものではあったが──は別として,その余暇にしてきたことで,主としてスペインの文化に関するものをここに洗い出してみよう。
 初めて私がスペインへ行ったのは,同国の内戦が終わって2年たった1941年の5月で,外務省留学生として3年間,サラマンカ大学文学部の教養課程に学んだ。授業では,外語を卒業してきたのに,当初は殆ど何も理解出来ず呆然としたが,2年目からは,何とかついて行けるようになって,課目では中世史と美術史が一番興味を惹いた。特に後者ではスライド説明や時々の市内実習が理解を助けてくれた。夏期休暇中は,地方の夏期大学を選んで,サンタンデール,サンチアゴ・デ・コンポステラ,ラ・ラビダ(ウエルバ)の三市で3回の夏を過ごした。いずれも特色のある講座を開いていたが,特にラ・ラビダの大航海時代研究講座(セビリア大学)は,新大陸の先住民文化にも及ぶ充実したものだった。
 1944年6月,留学を終わって公使館に勤務したが,1945年4月の国交断絶により館内に軟禁された。敗戦をはさみ9ヶ月,読書以外にすることのない毎日を送り,1946年1月離西,3月浦賀に到着し,変わり果てた祖国の姿に愕然とした。
 1952年の外交再開までは国内各地で終戦連絡事務に携わっていたが,1948年頃京都に勤務中,久し振りにお目にかかった須田国太郎先生から,近く刊行予定の世界美術全集(平凡社)のスペインの部分を手伝わないかとのお話があり,とてもその任ではないと申し上げたが,「実物を見てきた許りなのだから」と励まされ,結局ルネッサンスI,II,とバロックの3巻に,先生と分担して執筆することとなり,1950年から52年にかけて各巻が出版されて行った。
 これがきっかけとなって数年後に世界美術大系(講談
社)のスペイン美術の巻の編輯を委嘱された。丁度美術史専攻の神吉敬三氏がスペインから帰国した許りだったから同氏に協力を願い私は回教建築を含めての中世スペイン美術のみを執筆し,1962年に出版された。
 こうして何時の間にか美術史の世界へ近づいて行ったが,帰国以来私の頭から離れなかったのは,ラ・ラビダの僧院での講座で度々引用されたコロンブスの第一回航海日誌と4回にわたる航海に関するその書簡だった。私はかねてからこの基礎的資料を是非とも日本に紹介しようと,少しずつ翻訳を進めていた。そこへ岩波書店の大航海時代叢書の話が来て,1965年7月に書簡集が同叢書の第一巻に入り,航海日誌は注と解説のため大分おくれて,1977年9月,岩波文庫本となった。
 また1965年には河出書房から,世界の文化のスペインの巻が共編著で刊行された。これには「スペイン民族の形成──中世のスペイン」を私が書いたが,幸い各分野の最高の人材が執筆して下さったので,良い入門書になったと思っている。
 スペインと同様2回(1952〜56,1968〜74)にわたり在勤したメキシコは,植民地時代の建築が見事だったし,今も各地に残る先住民文化の遺跡は誠に魅力的で革新的な近代絵画は正に驚きだった。その上にこの国では日本文化に対する関心が高く,政府も日本との文化交流に極めて積極的であった。おかげで公務面でも私的にも,思い出に残るいくつかの仕事が出来た。
 そして1981年,私は再びスペインに在勤することになったが,ここで感じたことは,相互理解を更に進めるためには,この国でも日本語及び日本文化の教育及び研究が大学レベルで行われることが望ましいということだった。在任中にはそのほんの一部しか実現しなかったが,幸いサラマンカ大学が,両陛下の2度(1985年と1996年)に及ぶ同大学御訪問を記念して1999年大学の一機関として日西センターを設置し,日本語及び日本文化の特別講座を開いた。更に2004年他大学と計って大学令の改正を成就し,2005年より東アジア研究学士課程を文学部に設けている。
 本邦からは1998年に設置された日本・サラマンカ大学友の会が,国際交流基金をはじめいくつかの大学や進出企業の協力を得て図書寄贈や講師派遣を行っている。これでようやく第一歩を踏み出したが,その成果を得る迄にはまだ暫く時を要するだろう。





ヘレンド賞「地中海の庭」に思う

深見 奈緒子


 「地中海の庭」と題する優美なお皿をいただいた。緑の羽をした小鳥が花綱にとまり,レースのように打ち抜かれた金の垣根と鮮やかな花々がとりまく。オレンジ色の頭をかしげ,今にも歌いながら庭から羽ばたいていきそうな光景である。「HEREND PRIZE for COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM」と裏書きが金色にきらめく。ヘレンドとは1826年にハンガリーのヘレンド村に創設された名窯という。1826年というとちょうどイスラームに翳りがさしかかった頃,東欧という場も,イスラームと因縁が深い。古代文化を継承し,ムスリムの支配者の下で高い文化を築いてきた国々は,近代西欧に席を譲った。そこで構築された世界観がわれわれ日本人をも包み込み,イスラーム,そして彼らの遺産である文化は,遠くてわからない存在のままである。
 今,世界でイスラーム教徒は13億人を超える。ムスリムが造営した建物は,世界中にちりばめられている。アジアそして日本にも多くのモスクがある。加えて,それらの歴史的遺構は,優れた芸術作品であることが多い。こうした建築文化を,より多くの日本人に身近に感じてもらうための紹介書『世界のイスラーム建築』をもくろんだ。中東だけでなく広く世界から事例を紹介し,7世紀以来21世紀までの長い歴史を振り返り,モスクや学院などの宗教建築だけでなく都市や宮殿などさまざまなジャンルの建造物にも目を配った。
 イスラームの建築の歴史を捉えるため,その中心ともいえるアラビア半島のメッカ,メディナからはじめた。そして,石の建築文化の根強い地中海世界,土の文化の根強いペルシア世界,そして周辺世界という大枠をつくってみた。前近代の建築文化にとって,宗教に加え風土は大きな影響力を発揮すると感じたからである。短い17の章の事例が,なるべくそれぞれの地域に平準に分布するよう,そして一応7世紀から21世紀までの各世紀に当てはまるよう工夫した。
 イスラーム教自体が,7世紀にはじまった後発の文化なので,各地に伝播し,既往の建築文化と出会い,折衷していくという観点を大事にした。そして,単に建造物の情景描写にとどまらぬよう,地域や時代における意味を紐解き,広く世界の中で位置づけるようこころがけた。
地中海世界からは,シリアのウマイヤ・モスク(8世紀)で初期キリスト教建築との影響関係について,スペインのアル・ハンブラ宮殿(14世紀)で庭園と中庭に共通す
る楽園思想について,モロッコのフェズの旧市街(12世紀)では同時代のムカルナスと比較しながら混沌の秘める論理について,チュニジアのスーサのリバート(9世紀)では住居系公共建築の起源について,エジプトのカラーウーンの複合建築(13世紀)ではワクフ制度の生み出した建築について,トルコのトプ・カプ宮殿(16世紀)では宮殿建築とその生活について,ボスニア・ヘルツェゴヴィナのモスク(20世紀)では現代のモスク建築設計の立場を記した。
 ペルシア世界からは,イラクのムタワッキルのモスク(9世紀)で土と煉瓦の建築文化について,イランのイスファハーンにある王の広場(17世紀)で都市計画思想について,ウズベキスタンのサーマーン廟(10世紀)ではドームと墓建築の関連について,カザフスタンのアフマド・ヤサヴィー廟(14世紀)では神秘主義の修道院建造物について,インドのガーワーン学院(15世紀)ではヒンドゥー建築との折衷についてかんがえた。
 周辺世界からは,アフリカの泥のモスクと珊瑚のモスクで交易と建築文化伝播の関連について,中国の西安の木造モスク(18世紀)でモスクの中国的変容について,マレーシアのクアラルンプールのモスク(19世紀)では東南アジアの伝統とオリエンタリズムについて,日本の東京ジャーミとアラビアン・コースト(21世紀)では現代建築の可能性について述べた。
 今夏,久しぶりにイスファハーンを訪れた。「聖職者長のモスク」に入り,融けこんでしまいそうな感覚に襲われる。大柄な網目模様のドームを二重の格子窓を透過した青い光が包み込む。八方のトルコ・ブルーのアーチと,その間を埋めるこまかなモザイクタイルに気づき,イスラームの建築を研究している自分に戻る。どうしたらこんな空間ができるのだろうかと。世界には魅力的なイスラームの建物が数多い。だからこそ,学び続けているのかもしれない。中でもこの建築は大好きだ。
 こうして,イスラームと触れて四半世紀がたち,数多くの建築を訪れ,周囲の皆様から大きな示唆をいただいた。今回のヘレンド賞は,その賜物であり,地中海世界さらには世界中にのこる美しくて素晴しいイスラームの遺構への賞賛であろうと考える。この栄誉をはげみに,ヘレンド製の「地中海の庭」を時折みつめなおし,あの小鳥のように,より広い世界へと飛翔したい。






第10回地中海学会ヘレンド賞を受賞して

宮下 規久朗


 このたびは,地中海学会ヘレンド賞という栄誉ある賞を授けていただき,まことにありがとうございました。この場をお借りして,常任委員の先生方はじめ地中海学会の皆様,社長の鈴木猛郎様はじめヘレンド日本総代理店・株式会社星商事の皆様に,衷心より御礼申し上げます。地中海学会は,1991年の第15回全国大会(於京都外国語大学)でカラヴァッジョについての研究発表をさせていただいて以来,シンポジウムや講演,月報執筆も何度かさせていただき,私にとってもっとも親しみのある学会でした。その学際的性格にはいつも新鮮な刺激を与えていただいたので,嬉しさもひとしおです。
 受賞の対象となった拙著『カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)は,20年にわたる私のカラヴァッジョ研究の集大成です。以前あちこちに発表した論文にいくつかの論文を加えて全体の統一をはかったものです。私は卒業論文以来,カラヴァッジョ芸術のいわくいいがたい芸術の魅力をなんとか解明しようとして研究してきました。日本でも最近ようやくカラヴァッジョが人気を博してきましたが,欧米でも近年とみにカラヴァッジョが注目を集め,毎年のように展覧会が開かれ,そこには長蛇の列ができるようになりました。私が研究を始めたのは,1985年にニューヨークとナポリで大規模なカラヴァッジョ展が開催されたときであり,折よくカラヴァッジョ研究が飛躍的に発展する時期にあたっていました。以後,毎年のように世界中で次々に発表される研究や出版物を青息吐息で追い続け,カラヴァッジョについて自分なりに細々と考えてきました。もし今カラヴァッジョ研究を志したとすれば,その研究量の多さに圧倒されて萎縮してしまったかもしれません。
 カラヴァッジョはバロック美術の先駆者として美術史上非常に重要な画家ですが,その短い生涯は血と暴力に彩られており,たびたび官憲の手を煩わせて出入獄を繰り返し,ついには殺人を犯して死刑宣告を受け,南イタリアを逃げ回った挙句に野たれ死んだのでした。彼の作品はその気性を表すように明暗の対比が強く,劇的で暴力的であるため,カラヴァッジョの芸術を語るときは,いつもこうした破滅型の人格と結びつけられてきました。ゴッホの燃えるような作風があたかも彼の狂気によって生み出されたと思われているように,カラヴァッジョの暗く激しい画風は彼の凶暴な人格と不可分と見なさ
れてきたのです。彼がしばしば描いた斬首の情景も,彼の殺人体験や贖罪意識の反映と説明されました。しかし,画家の作風を生涯や人格と安易に結びつけても,その芸術の本質を理解することにはなりません。カラヴァッジョの作風は生地ロンバルディアにおける写実的な傾向に影響されて形成されたものとされてきましたが,私は21歳でローマに来たこの画家が当時未曾有の美術ラッシュに沸いていたローマ画壇から強い影響を受けたにちがいないと考えました。一時の師であったダルピーノからライバルであったアンニーバレ・カラッチやロンカッリ,さらに今や忘れかけられつつあるジョヴァン・バッティスタ・ポッツォといった画家たちの作品まで,具体的にカラヴァッジョ作品に影響したものを検討し,革新的なカラヴァッジョの作風が今では忘れ去られた多くの画家たちに負っていることをあきらかにしました。
 また,一度見たら忘れないようなインパクトをもつカラヴァッジョの宗教画は,反宗教改革の時代になって流行した幻視(ヴィジョン)という神秘体験と関連するのではないか,つまりカラヴァッジョの写実主義とは,単に卑近な事物を写生したものではなく,画面全体がヴィジョンのようにリアルでありながら,説得力をもって観者を神秘劇に参加させるものではないのかという論を展開しました。このほか,いくつかのカラヴァッジョ作品の問題について図像学的・様式的な考察をいたしましたが,とくにマルタ島で描かれたカラヴァッジョ畢生の大作である《洗礼者ヨハネの斬首》が,単に洗礼者の殉教を表したものではなく,当時マルタ騎士団を取り巻いていたトルコとの戦闘状態や頻出する戦死,つまり殉教を暗示したものであり,騎士たちの戦死を洗礼者の死に重ね合わせて悼み,彼らの救済を願うという意味を持つものであったということを検証しました。地中海に浮かぶマルタ島は太古から数奇な歴史の舞台となってきましたが,カラヴァッジョの傑作もこの島の特異な環境が生み出したものであるということが,マルタ島に何度か赴いて調査してわかったのです。
 このように,地中海ゆかりのカラヴァッジョ芸術の成り立ちや意味について考えた本書が地中海学会で評価をいただいたことは光栄のいたりであり,これからの研究生活の大きな励みとなりました。本当にどうもありがとうございました。





意見と消息


・『湘南考古学同好会会報』100号(25周年記念号)に「藤沢ゆかりの二人の西洋古典学者 呉茂一 1897〜1977/村川堅太郎 1907〜1991」という短文をのせて頂きました。地中海学会2代会長の鵠沼時代についてです。  赤桐 邦子

・青山学院大学定年退職後のゆたかな時間を「トロイア戦争物語とヨーロッパ文学」という壮大なテーマと取り組み,まず五巻本の翻訳篇の第四巻を校正中ですが,既刊第二巻は13世紀,シチリアのフレデリック二世の宮廷で活躍したGuido delle Colonneの著名なラテン語作品『トロイア滅亡史』です。研究篇は2007年以降刊行予定で,まずホメロス以前の地中海文化論『ホメロス序説』の予定です。  岡 三郎

・ギリシア語はギリシア文字で表記すべきである。ローマ字で書いてアクセント記号や「下書きのイオータ」を省略するのは愚考という他ない。また,マエケーナースをメセナなどと呼ぶべきではない。学問の魂はオルトドクシアーである。大衆への迎合はその実,大衆蔑視であると知れ。学者はサムライの心を持て。(士魂商才は悪くない)  草川 秀




図書ニュース



石塚 裕子 『ヴィクトリアンの地中海』開文社 2004年7月
金原由紀子 『プラートの美術と聖帯崇拝』中央公論美術出版 2005年1月
澤井 繁男 『短編集 鮮血』未知谷 2004年2月/『短編集 時計台前仲通り』編集工房ノア 2004年5月
下重 暁子 『鋼の女』集英社文庫 2003年8月/『くちずさみたくなる名詩』海竜社 2004年12月/『「ふたり暮し」を楽しむ 不良老年のすすめ』集英社文庫 2005年6月
高橋 友子 『路地裏のルネサンス──花の都のしたたかな庶民たち』中公新書 2004年1月
丹野 郁 『西洋服飾史 図説編』東京堂出版 2005年3月(初版2003年)
藤内 哲也 『近世ヴェネツィアの権力と社会──「平穏なる共和国」の虚像と実像』昭和堂 2005年2月
福本 直之 『聖王ルイの世紀』翻訳 白水社クセジュ文庫 2004年12月
福本 秀子 『フランス中世歴史散歩』白水社 2003年6月/『リチャード獅子心王』R.ペルヌー著 翻訳 白水社 2005年3月
横山 昭正 『現代日本文学のポエジー──虹の聖母子』渓水社 2004年3月
吉川 節子 『巴里・印象派・日本』日本経済新聞社 2005年4月

訃報 10月6日,会員の名取四郎氏,同7日、元常任委員の谷村晃氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。