学会からのお知らせ

*10月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:モチーフの伝播──アレッソ・バルドヴィネッティとピサ大聖堂ステンドグラス
発表者:伊藤 拓真氏
日 時:10月8日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 バルドヴィネッティ作《降誕》壁画と,ピサ大聖堂のステンドグラスの一場面に共通して描かれた人物像の関係を出発点とし,15世紀のトスカーナ美術における類似モチーフの利用に関する考察を行う。
従来の研究はステンドグラスのデザインをバルドヴィネッティに帰属することで両作品の関係を説明するに留まっているが,本研究ではそれをさらに発展させより広範な文脈の中に関連する諸作品を位置づけることを試みる。

*第4回常任委員会
日 時:4月23日(土)
会 場:法政大学80年館7階大会議室
報告事項:第29回大会に関して/石橋財団助成金申請に関して/退会者に関して 他
審議事項:2004年度事業報告・決算に関して/2005年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/学会活性化に関して(「若手研究者(学生会員)交流会」の提案) 他


訃報 6月25日,会員の竹内啓一氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。









表紙説明

旅路 地中海14:ジャン=ピエール・ソヴァージュ《息子としてのサント=ヴィクトワール山》/浅野 春男



 セザンヌにとって故郷エクス・アン・プロヴァンスの自然は彼の絵画の揺籃であった。松の木や野外の情景は親密な表現の対象であり,とりわけサント=ヴィクトワール山は生涯を通じて彼の偏愛のモチーフとなった。セザンヌはその生涯にこの山をモチーフとしてたくさんの風景画を描き,故郷の山の姿を執拗に追求した。
 セザンヌの初期作品である《掠奪》の背景に小さく描かれている山をサント=ヴィクトワール山とみる見方がある。もしかしたら,それは彼がこの山を油彩画で描いた最初であったかもしれない。初期の大作《切り通し》の背景にも同じ山の姿が現れている。ロンドンのコートールド美術研究所の所蔵作品では,山そのものが構図の中心となる。同じことはニューヨークのメトロポリタン美術館の所蔵作品である《ベルヴュから見たサント=ヴィクトワール山》についてもいえる。
 ベルヴュとは,エクスの中心から西南に約3キロ行ったあたりの地名である。ロンドンの作品は,エクスの町から東に向かって伸びるトロネ通り(現在のセザンヌ通り)を,これも3キロほど行ったところから描かれた作品であろう。このトロネ通りの途中にシャトー・ノワールという館があり,セザンヌはこの建物も好んで描いた。東京のブリヂストン美術館の作品にもシャトー・ノワールと山が登場する。セザンヌ最晩年の傑作であり,この時期になると画家は山を前景に配するように,あるいは
望遠鏡をのぞきこむような具合に意識を集中して描いている。
 位置関係から言うと,シャトー・ノワールから北東に1キロほど離れたところにビベミュスという石切場があった。ここもセザンヌが好んで自分の絵画のモチーフとした場所である。バルティモワの美術館が所蔵している《ビベミュスから見たサント=ヴィクトワール山》は石切場の幾何学的な造形と山の力強い形姿とが一体となった傑作である。
 南仏在住の現代作家のなかにも,セザンヌのサント=ヴィクトワール山愛好に特別の関心を寄せる人がいる。シャルル・ド・ラルティーグの主催したパーティで私はジャン=ピエール・ソヴァージュと顔をあわせた。背の高い,弁舌さわやかな人物で,会話の中心となっていた。ここに取り上げた彼のパロディ作品は,このバルティモワのカンヴァスに描かれた山の姿が人の横顔にみえるという事態を巧みに利用したものだ。それをセザンヌが息子を描いた肖像画と組み合わせることで,思いがけない効果を生み出している。なぜセザンヌはこれほどまでに故郷の山に執着したのか。彼は山をあたかも人間の肖像のようにして描いた。現代作家ジャン=ピエール・ソヴァージュがここにえぐり出したように,セザンヌにとってそれは「息子のようにいとしい我が山」であったにちがいない。





地中海学会大会 シンポジウム要旨

地中海とパフォーマンス
──古代から現代へ──

パネリスト:仮屋浩子/鈴木国男/深井晃子/山形治江/司会:高田和文



 今回のシンポジウムの狙いは,演劇を中心に舞踊などを含めたパフォーミング・アーツの地中海世界における発展の歴史を探ることにあった。とはいえ,「古代から現代へ」というのは実に壮大なテーマであり,どのような成り行きになるのか司会者として不安なところもあった。
 パネリストは,仮屋浩子(法政大学/スペイン中世演劇),鈴木国男(共立女子大学/イタリア文学・演劇),深井晃子(静岡文化芸術大学/文化史・服飾・美術),山形治江(ギリシア演劇)の各氏である。報告は時代に沿って古代から現代に至るという順序を取った。
 まず,山形氏が古代ギリシアにおける悲劇上演について報告した。その発祥の起源から,事件の目撃者としてのコロスの役割,神を演じる俳優の重要性,神を舞台の上下に移動させる機械仕掛けの装置(デウス・エクス・マキナ)などについて図解も交えながら解説した。そして,公衆性と宗教性がギリシア悲劇を支える土台となっていたことを論じた。さらに,現代ギリシアの主要な演出家によるいくつかの舞台をビデオで紹介した。「ペルシャ人たち」「供養する女たち」「エレクトラ」から,特にコロスの場面を取り出して比較するというもので,いずれもコロスの動きが非常にダイナミックで興味深い内容だった。最後に,「現代において神を演じられる俳優ははたしているのか?」との問題提起がなされた。
 次に,仮屋氏はスペイン,カタルニア地方のエルチェに伝わる聖母被昇天劇について,実際の映像を交えて報告した。中世ヨーロッパで広く行なわれていた聖史劇の流れを汲むもので,現在はUNESCOの世界無形文化遺産に指定されている。特に,ここで用いられる空中舞台装置は非常に大掛かりなもので,ビデオの映像からもそのスケールの大きさが実感できた。その空中舞台装置の起源はまさしくギリシア悲劇のデウス・エクス・マキナに他ならず,さらにルネサンス初期のイタリアにおける聖史劇の受胎告知の場面や,続くバロック期のオペラ上演などで同様の装置が用いられていたことを考えると,地中海の演劇においてこの種の仕掛けが時代・地域を超えて継承されてきた事実がうかがえる。
 次いで,鈴木氏がヴェネツィアのカーニヴァルと演劇の関係について報告を行なった。カーニヴァルの起源,18世紀ヴェネツィアにおけるカーニヴァルの様子と市
民の生活ぶりなどを解説した後,当時の人気劇作家カルロ・ゴルドーニの『コーヒー店』の舞台の一部をビデオで紹介した。自分の素性を隠し匿名性を得るために仮面を用いるなど,ヴェネツィアの人々の生活の中には演劇的ないし演戯的な要素が深く浸透していた。ゴルドーニの喜劇からは,ギリシア悲劇や聖史劇の対極とも言える世俗的な性格が強く感じられる。古代ローマの喜劇や野外スペクタクルも含めて考えると,宗教性(聖)と世俗性(俗)という捉え方は,地中海の演劇を見るうえで一つの重要な座標軸となりそうに思われた。
 最後に,深井氏は20世紀初頭のパリのバレエ・リュス(ロシア・バレエ)の公演と地中海世界の関連を論じた。時代は一挙に現代に近づいたものの,深井氏はバレエ・リュスのレパートリーの中にギリシア神話を題材としたものやコンメディア・デッラルテに影響を受けたものが多数あることを示し,そのパフォーマンスが地中海世界と深く関わっていたことを明らかにした。また,そうした主題の選択の理由が,当時のパリにおけるギリシア文化への関心の高まりとプロデューサーとなったディアギレフの流行に対する敏感さにあったことなどを指摘した。さらに,歴史上ビザンティンを介してロシアとギリシアが文化的に通底していたという興味深い見方も提起した。その後,ニジンスキーが踊った「牧神の午後」の貴重な映像を見せ,その動きがギリシアの壺絵から示唆を受けたものであったこと,また踊りの技術的水準が超人的に優れていたことなどを述べた。
 4人による報告の後,パネリストの間の意見交換,次いで会場の参加者を交えた質疑応答へと移った。聖史劇と絵画における聖母像の関連,演劇と祝祭における仮面の役割,現代におけるギリシア悲劇上演の方法,演劇と都市空間,他にもかなり専門的に踏み込んだ質問があった。取り上げた時代が多岐にわたることもあって,司会者がそれらを的確に集約することができず,明確な結論らしきものは得られなかった。ただ,地中海世界において古代からパフォーマンスあるいはスペクタクルの豊かな伝統が培われ,地域的な多様性を保ちながら連綿と受け継がれてきたことは理解していただけたかと思う。そうした無形の文化もまた,地中海世界が我々に残してくれた貴重な財産であることは間違いない。
(文責:高田和文)






地中海学会大会 研究発表要旨

後期中世アラゴン王国における三宗教カテゴリーによる研究の限界

櫻井 寛彰




 「イスラム」を奉じる政権下にある世界の構成員は全てがイスラムに入信したムスリムからのみ構成されていた訳ではなく,ユダヤ教徒やキリスト教徒が存在していたとして今日議論されてきている。この共存のモデルが,イスラムの影響などとして中世アラゴン王国の「キリスト教」政権下の共同体にも適用され,共存モデルとして議論されてきていた。しかし,当時の史料から少なくとも言えるのは,次の二つのことに過ぎない。一つは,三つの共同体が存在していたことである。後期中世アラゴン王国ではユダヤ教,キリスト教,イスラムを信奉する信者が宗教的義務を遂行していく傍ら,共同体を構成していた。そして,キリスト教徒が構成していた共同体はウニヴェルシタスと呼ばれ,ユダヤ教徒とムスリムが築いていた共同体はアルハマと呼ばれ,それぞれ法的な管区となっていた。もう一つは,王に直接仕えていた「ムスリム」と「ユダヤ人」が存在していたことである。これら別々の史料を使って,三宗教の「共存」の研究が構築されてきた。中でも,この共存関係を支えた「寛容性」の有無の問題が主な関心事となり,14世紀の半ばに起きた宮廷や社会の変化にまで関連付けられて議論されてきている。その結果,今日の研究の多くは,「寛容性」の有無こそが,14世紀半ば以降の変化の直接原因であったかのように論じられ,三宗教間の関係に関心が向けられてきている。
 この三宗教のカテゴリーに依存した研究は,その研究の枠組み自体に限界を作り出し,当時の史料に含まれた他の多くの情報を見逃してきている。例えば,この共存の議論の前提となっているサブ・カテゴリーとしてのキリスト教徒の共同体や上述のユダヤ教徒やムスリムのアルハマは,その内部において同質な信徒のみから構成されていたかのように議論されてきている。しかし,当時の史料上の「ユダヤ人」や「サラセン人」として記された言葉には様々な意味が含まれていた。このことを考慮していくのであれば,「ユダヤ人」や「サラセン人」「モロ」として記されていた集団全てが必ずしもユダヤ教徒やムスリムであったとは限らなかった。逆に言えば,ユダヤ教徒やムスリム以外にも当時の記録に「ユダヤ人」や「サラセン人」「モロ」として記されていた者が存在していた。つまり,今日の研究では,宗教カテゴリーにばかり関心が向けられ,重複していたエスニックとしてのカテゴリーや言葉の持つ様々なニュアンスに関しては
あまり関心が向けられてこなかった。実際,当時の史料上の「サラセン」という言葉は,ピレネー山脈の北側に出てきた場合は,ムスリムとしてのみ訳されている訳ではないし,中世アラゴン王国の「モロ」という言葉自体も「北アフリカのムスリム」などとして決め付けることはできない。「モロ」という言葉は矮小化された様々な対象を指すことができた。
 以上のようなイベリア半島内の共存関係よりも,当時のアラゴン王国の場合は黒海や東地中海にまで広がっていたことに注目していく必要があるだろう。エスニックの多様性は,決してイベリア半島内に限定するのではなく,東地中海の多様なエスニックを含めた上で分析していく必要があるだろう。実際,今日残されている史料には東地中海の多様なエスニックが記録されている。また,「ユダヤ人」という言葉と東地中海のエスニックが同時に記されていた事例も存在している。例えば,14世紀後半のアラゴン王国で多くの書籍を保管していた人物であったレオ・モスコーニに関する史料においても,レオ・モスコーニの名前には「ギリシア人」と「ユダヤ人」という言葉が同時に併記されていた。
 また,14世紀後半以降に急増する東方出身者の中でも,「奴隷」と記された人々に注目していく必要があるだろう。中世地中海世界で使われた「ユダヤ人」という言葉自体に隷属の意味合いが含まれていたケースを考慮すると,三宗教の枠組みの議論で頻繁に議論されてきた「ユダヤ人の改宗」という現象は「奴隷の解放」という現象と重なりあっている部分が存在していた。当時のアラゴン王国で解放された「奴隷」と「改宗者」とが重なっていた事例としては,15世紀前半のカタロニアで最も有名な祭壇画家が自らの名を授けて弟子としていたタタール人を挙げることができる。このタタール人は解放奴隷であると同時に改宗者であった。
 要するに,当時の宮廷や社会の変化を分析していく際には,この認識の違いと重複を意識した上で分析していく必要があるだろう。史料上の宗教集団とエスニック集団の違いとその重複を再検証していくことによって,「キリスト教」政権下のスペインでの三つの宗教集団の共存という20世紀のモデル自体の限界を示すと共に,14世紀半ば以降の変化の原因を再考していく必要があるだろう。




地中海学会大会 研究発表要旨

天のオクルス,あるいはベッカフーミ作《玉座の聖パウロ》について

松原 知生




 シエナの画家ドメニコ・ベッカフーミ(1486〜1551年)初期の傑作,《玉座の聖パウロ》(シエナ,国立絵画館,1516〜17年頃)は,きわめて特異な画面構造を有する作品である。すなわち,中央の台座上に位置する聖パウロの背後には,両側にロッジャのごとき空間が広がり,その中で聖者にまつわる二つの物語場面(回心と殉教)が展開している。さらにその上方には,円形の枠に縁取られた開口部に聖母子が姿を見せ,その前に掛けられたカーテンを天使たちが脇に引くことで,聖母子の顕現が演出されている。本発表では,特にこの円形の開口部に注目し,それが〈イメージの中のイメージ〉としてもちうる多義的な意味とその思想的文脈について論じた。
 まず念頭に置くべきは,この開口部が,ベッカフーミによってしばしば制作された個人礼拝用のトンド画に類似しているという事実である。ベッカフーミはおそらく,中世シエナにおいて流行した祭壇画のタイプ,すなわち,中央の聖者像の両脇に物語場面を,その上にトンドを配した,いわゆる「伝記祭壇画(Vita Retable)」の伝統的形式を参照したものと推測される。とはいえ,こうした回顧的な着想にとどまらず,ベッカフーミが,トンドの前にカーテンを開く天使たちを描き加えることで,あたかも自分の描いた画中のトンドが〈開帳〉に値する霊験あらたかな聖画像であるかのような,大胆な演出を行なってもいることは,特筆に値する。
 だが,この部分は〈画中画〉であるのみならず,ひとつの〈窓〉のようにも見える。実際,画面の構造は全体として,中世・ルネサンス期の建築に認められる窓の形状を踏襲していると考えられるのである。そして,この仮説が妥当であるとすれば,聖母がその向こうに姿を見せるこの円窓は,マリアの伝統的な隠喩のひとつ,「天の窓(fenestra coeli)」を連想させずにはおかない。ベッカフーミは,これ以外の宗教画においても,画面最上部にしばしば円形の開口部を設け,天上的な存在(神やキリストや聖霊)が地上に降り来たる際の通路として機能させている。それゆえ《玉座の聖パウロ》における開口部も,天上へと通じる〈穴〉として構想されていると考えることも不可能ではない。とはいえ留意すべきは,円形のフレームに収められたこの聖母子が,画中画のトンド(=物質的なイコン)にも,また窓を通じて顕れた
聖母の幻視(=非物質的なヴィジョン)にも見えるという,奇妙な両義性あるいは〈揺らぎ〉それ自体である。
 ところで,この聖母子のイメージの下端は,その下に座する聖パウロの頭部と接している。パウロは聖母子像の方を見てはいないのだが,このような両者の隣接関係によって,このイメージが,パウロの内面に啓示された不可視のヴィジョンであることが暗示されているように思われる。実際パウロは,キリスト教における最初の幻視者の一人であった。『コリント人の手紙 第二』において語られるおそらく彼自身の幻視体験は,本図とも興味深い親和性を示している。さらに,ルネサンス期の新プラトン主義思想においてパウロは,「実体をもたない眼でもって観ずる」(ピコ・デッラ・ミランドラ)神の観照の理想として再評価されていたことも考慮する必要がある。ベッカフーミ作品が描く,聖母子のトンドに背を向けて読書に没頭するメランコリックな聖パウロは,観想的生(vita contemplativa)に積極的な意義を見出す,新プラトン主義的な意味での〈憂鬱質〉の幻視者なのだ。
 さらに注目されるのは,聖母子が見つめるのが画中の聖パウロではなく,絵の外の観者であるという事実である。本図の元来の観者は,独自の司法権によって町の商業活動全般を司る,シエナの「メルカンツィーア」の役人たちであった。ルネサンス期の司法機関にはしばしば,聖母を描いたトンド画が掛けられ,地上における適切な正義の執行を監視する番人として機能していたことが知られる。ベッカフーミ自身,そうした場面を一枚の素描に描いているのみならず,1536年にシエナ市庁舎に描いた《正義》の擬人像において,トンドと天窓の混合形式を再び採り上げてもいるのである。この《正義》像を描くベッカフーミが典拠としたのは,『詩篇』の一節,「正義は天から見下ろしています」(85:11)であったと考えられるが,この文章は,天を見上げる《正義》よりも,《玉座の聖パウロ》において観者を「見下ろす」聖母子の方によく当てはまるだろう。作品の最上部に描かれたこのトンドは,そこを通じて聖母子が天上から臨在するとともに,それによって商業裁判所の役人たちの司法活動を見守る,いわば天に開かれた〈窓=眼〉オクルスなのである。





地中海学会大会 研究発表要旨

スペイン・エラスムス主義とオスマン帝国
──アルフォンソ・デ・バルデスと『トルコへの旅』──

三倉 康博




 デシデリウス・エラスムスの著作が皇帝カルロス五世時代のスペイン文化・思想に大きな影響を与えたことは,誰もが認めるところであり,エラスムスの宗教思想の根幹つまり「キリストの哲学」(philosophia Christi)に共鳴したスペインの知識人たちが,一般にエラスムス主義者と呼ばれている。しかし,エラスムスの多岐にわたる思想のすべてを,スペインのエラスムス主義者たちが一様に受け入れたわけではない。エラスムスのオスマン帝国観は,スペインへの浸透が容易でなかったものの一例である。この問題について,今回の研究発表では,スペイン・エラスムス主義最盛期を代表し同時代人に「エラスムス以上にエラスムス的」とまで評されたアルフォンソ・デ・バルデス(Alfonso de Valdés, 1490?〜1532)が1528〜29年頃執筆した『メルクリウスとカロンの対話』(Diálogo de Mercurio y Carón)と,1550年代後半に執筆された作者不詳の対話編で,スペイン・エラスムス主義文学の最後の輝きである『トルコへの旅』(Viaje de Turquía)のそれぞれにみられる対照的なオスマン帝国観の比較検討を通して,考察を試みた。
 アルフォンソ・デ・バルデスは1520年代からその死まで,皇帝カルロス五世の秘書官として活躍しつつ文筆業にも携わったが,それは同時に,オスマン帝国がハンガリー方面に進出した時期でもある。ヨーロッパ中に幅広い人脈を持っていたバルデスの書簡からは,彼がそうした中東欧の緊迫した情勢に精通し,オスマン陸海軍の動向に深い関心と懸念を抱いていたことがわかる。
 しかしながら,強大なオスマン帝国とトルコ人にキリスト教世界がどう向き合うべきかという問題に関して,バルデスが『メルクリウスとカロンの対話』の中で示す姿勢は,同様にオスマン帝国の脅威を強く意識しつつも,その平和論・政治論諸作の中で一貫してトルコ人との戦争に厳しい制約を加えていたエラスムスのそれに非常に近く,強い影響を受けているのは明らかだ。つまり,自らの宗教的・倫理的内面改革を果たしたあと,キリスト教徒はまずトルコ人の平和的なキリスト教化に努めるべきであり,やむをえず彼らと戦争をする場合も,ヨーロッパの防衛とキリスト教布教のみを目的としなければならない,というのである。また,エラスムスの理想主義的なトルコ人キリスト教化論の背後にあるのは,オスマン帝国を宗教的文脈の中にのみ位置づけ,キリスト教徒
より宗教的・倫理的に低い次元にある存在としてトルコ人を単純化する考え方だが,バルデスのトルコ人観にも,同様の思考を見出すことができる。その帰結は,キリスト教徒の内面的浄化のみによって「トルコの脅威」が解決可能だとする,空想的楽観論である。
 それに対し,『トルコへの旅』は,聖遺物崇拝の行き過ぎなどカトリック信仰の形骸化を批判し内面的キリスト教信仰を称揚する点で,宗教思想の面ではエラスムス主義の系譜のうえに位置するものの,エラスムスの平和論・政治論からの影響は希薄であり,バルデスとは異なるコンテクストの中にオスマン帝国を位置づけている。
 この対話編は,冒頭の「献辞」をはじめ各所でオスマン帝国に対する戦いを唱えるが,内面浄化を果たしたキリスト教徒がトルコ人を教化するという理念はそこにはない。しかし,オスマン帝国に対してより好戦的である,とこの作品を片付けてしまうことはできない。アルフォンソ・デ・バルデスとの比較から浮かび上がる注目すべき点は,『トルコへの旅』においては宗教的視点が後退して,より世俗的な,政治・軍事的視点が顕在化し,オスマン帝国そしてトルコ人のイメージがより複雑なものになっている,ということである。また,キリスト教徒が神と真摯に対話し内面を浄化しさえすれば,トルコ人のキリスト教化への道が開け,オスマン帝国の脅威という問題は解決されるという,空想的楽観論はもはや現れない。オスマン帝国に対抗するには,まず何よりも,その内実,長所と弱点を具体的に知らなければならない,というのが,この対話編の根底にある思考である。
 1550年代には,スペインにおけるエラスムス主義の最盛期はすでに過ぎ去っていた,という事情が両者の差異の一因になっているのは確かだろう。しかし同時に,『メルクリウスとカロンの対話』と『トルコへの旅』を隔てる時期に,スペインとオスマン帝国の関係が緊迫化し,地中海の各地で,両国が激しい抗争を繰り広げたこと,そしてオスマン帝国の政治・社会に強い関心を示したイタリア人の様々な著作のスペインへの紹介が進んだことを,忘れてはならない。『トルコへの旅』の作者がバルデスよりも現実的な視点からオスマン帝国と向き合っているという事実は,そうした大きな政治的・社会的・文化的変動の中で考える必要があると思われる。





長崎県美術館と須磨コレクション

森園 敦




 須磨コレクションとは,須磨彌吉郎(1892〜1970)が外交官として欧米諸国や中国に赴任した際に各国で蒐集した作品・資料であり,総数は数千点にものぼるといわれる。長崎県美術館にはスペイン美術を中心としたコレクションが収蔵されている。
 特命全権公使としてマドリードに赴任した須磨は,後に自らが制作した“Catálogo de Colección Suma”によると,1,760件の作品を同地で蒐集している。戦争終結に際して須磨はコレクションの大部分を個人に売却したのであるが,その他依然須磨に所有権のあった作品をスペイン外務省に寄託し,裸同然で帰国の途に着いた。その後1960年代になってそれらに対する返還交渉が行われ,一部がスペイン国家によって強制的に買上げられたものの,結果的に全コレクションのうち約500数点が須磨の許へ戻された。1970年に104点が須磨自身によって寄贈されたのを皮切りに,長崎県はその後も寄贈と購入を重ね,スペインより返還された大半の501件が現在長崎県美術館に収蔵されるに至った。
 当初須磨自身によりグレコ,ベラスケス,ゴヤといった巨匠たちの手による作品とされてきたものも数十点含まれていたが,須磨の死後執筆された故神吉敬三(上智大学教授・当時)による「須磨コレクションの“大いなる幻影”」(『芸術新潮』昭和47年5月号)を機に,須磨コレクションの真贋問題が浮上した。以後マスコミによる行き過ぎともいえる「ニセモノ」報道によって,コレクション自体の存在価値が危ぶまれる状況に陥ったのだ。結果的にそれら巨匠たちに帰属されていた作品は,遺族との話し合いの上,「作者不詳」と表記変更されることとなった。
 須磨コレクションについて,長崎県では過去2度の調査(1980年,1995年)を行っている。今回は,長崎県美術館のオープニング記念展「よみがえる須磨コレクション─スペイン美術の500年」の開催にあたって,国内外の研究者と当館学芸員が共同であらたに3度目の調査を行った。
 展覧会監修者である大高保二郎早稲田大学教授,またスペイン・ラテンアメリカ美術史研究会を中心に15世紀から20世紀までの作品を改めて見直すという大規模な調査が行われ,これまでにない成果を上げることができた。なかでもこれまで調査が進んでいなかった20世
紀のスペイン絵画に新たな知見を得ることができた。
 近年大回顧展が開かれたグティエレス・ソラーナ(2004年,レイナ・ソフィア芸術センター),バスケス・ディアス(同上)など,再評価の著しいこれらの画家は,まさに須磨コレクションの核を成している。また,現在では全く無名となった画家たちの作品も数多く含まれている。長崎県美術館には須磨の遺族からスペイン滞在期の遺品も寄贈されているが,そのなかに当時のマドリードで開催された個展のパンフレットが100点以上含まれている。一例をあげると,1943年に開かれたゴメス・カーノの個展パンフレットがあるが,その表紙に掲載された作品を須磨は購入している。彼らは現在では忘れ去られた画家たちであるが,20世紀中頃のマドリードにおける美術界動向を考える際,これらの作品や書籍類は重要な資料である。
 また須磨コレクションにはエドゥアルド・ビセンテ・ペレス作《「サロン・デ・ロス・オンセ」第2回展(1944年)》が含まれている。この展覧会は『プラド美術館の三時間』や『バロック論』などの著書で知られる美術評論家エウヘニオ・ドールスを中心として1941年に結成された美術批評短期アカデミーが主催した反アカデミスムを標榜するものだった。この展覧会には,ソラーナ,ミロ,ダリ,タピエスといった錚々たる芸術家たちが出品した。長崎県美術館が所蔵する作品はその第2回展のポスターの原画とされる。このアカデミーが当時のスペイン前衛芸術において果たした役割の大きさを考えると,その資料的価値は非常に高いといえよう。
 須磨がどういった経路でこの作品を入手したのか知る由もないが,マドリード美術界に深く分け入っていたことは確かであろう。またヘスス・グティエレス・ブロン(マドリード,コンプルテンセ大学教授)は須磨がマドリードの美術家たちのパトロン的な存在だったのではないかと推察している。
 これまで玉石混交といわれ,評価の定まっていなかった須磨コレクションであるが,今回の展覧会で再評価の足がかりはできたように思われる。長崎県美術館では今後常設展示室に須磨コレクションコーナーを設け,順次紹介していくとともに,継続的な作品調査を行っていく予定である。