学会からのお知らせ




*第29回地中海学会大会
 さる6月25日,26日(土,日)の二日間,静岡文化芸術大学(浜松市野口町1794-1)において,第29回地中海学会大会を開催した。会員134名,一般33名が参加し,盛会のうち会期を終了した。浜松市楽器博物館見学も120名が参加し,展示品の豊富さに比べて見学時間が短いとの声も聞かれた。
 次回大会は,東京芸術大学で開催する予定です。

6月25日(土)
開会宣言・挨拶(北脇保之浜松市長)
 13:00〜13:10
記念講演 13:10〜14:15
 「日本にとっての地中海世界」 木村尚三郎
地中海トーキング 14:30〜16:30
 (財)国際文化交換協会後援
 「楽器の旅──地中海から日本へ」
  パネリスト:木戸敏郎/嶋和彦/司会:高階秀爾/演奏者:西陽子/摩寿意英子
見学「浜松市楽器博物館」 17:00〜18:00
懇親会 18:30〜20:30
6月26日(日)
研究発表 9:30〜12:20
 「エジプト,アブ・シール南遺跡から出土した石造建造物の石材をめぐる一考察」 柏木裕之
 「『パルマ福音書』の挿絵《コンスタンティヌスとヘレナ》におけるレクショナリー的性格」
桜井夕里子
 「中世アラゴン王国における三宗教モデルの限界」 櫻井寛彰
 「天のオクルス,あるいはベッカフーミ作《玉座の聖パウロ》について」 松原知生
 「スペイン・エラスムス主義とオスマン帝国」 三倉康博
総会 13:00〜13:30
授賞式 13:30〜13:50
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
シンポジウム 14:00〜17:00
 「地中海とパフォーマンス──古代から現代へ」
  パネリスト:仮屋浩子/鈴木国男/深井晃子/山形治江/司会:高田和文

*第29回地中海学会総会
 第29回総会(宝利尚一議長)は6月26日(日),静岡文化芸術大学で下記の通り開催された。
 審議に先立ち,議決権を有する正会員633名中(2005.6.21現在)610余名の出席を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2004年度事業報告・決算,2005年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2004年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2004年度事業報告
四,2004年度会計決算
五,2004年度監査報告
六,2005年度事業計画
七,2005年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言

2004年度事業報告(2004.6.1〜2005.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXVIII発行 2005.5.31発行
 「古典期ギリシアの聖域逃避を成立させる観念と“hiketeia (嘆願)”」 池津 哲範
 「ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコの正体──15世紀フィレンツェの二人の画家」 伊藤 拓真
 「1770年のナポリ・ヌォーヴォ劇場の興行形態──パイジェッロ作曲《恋のたくらみ》の上演から」 山田 高誌
 「イタリアの現存ギリシア語圏──言語島の現状と将来」 寺尾 智史
 「Il progetto e gli interventi di Edoardo Arborio Mella per il ripristino della Cattedrale di Borgo San Donnino」 Yoshie Kojima
 「書評 キース・ホプキンス著小堀馨子・中西恭子・本村凌二訳『神々にあふれる世界 古代ローマ宗教史探訪』」 秋山 学
 「書評 辻佐保子著『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』」 益田 朋幸







2.『地中海学会月報』 271〜280号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於上智大学)
 「聖都ローマとカタルーニャ──リポイ,サンタ・マリア修道院聖堂における旧サン・ピエトロ大聖堂の影響」 小倉 康之(10.2)
 「金箔ガラスvetri doratiにみる殉教聖女アグネス崇敬」 藤井 慈子(10.16)
 「古代地中海の船」 丹羽 隆子(11.13)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
 秋期連続講演会:「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」2004.11.20〜12.18
 「フィレンツェ──ルネサンスの曙」 高階 秀爾
 「トスカナ大公国以前のシエナ美術──シエナvsフィレンツェ」 小佐野 重利
 「トスカナ大公コジモ1世の文化政策」 北田 葉子
 「豊饒の布(カンバス)──メディチ家のモード」 深井 晃子
 「メディチ家のヴィッラと庭園」 野口 昌夫
 春期連続講演会:「地中海ネットワーク:交易と人の移動」2005.4.23〜5.21
 「エーゲ海交易の中心ペイライエウス港を訪れた人々」 櫻井 万里子
 「ポセイドンの変身──古代地中海世界の近代性」 本村 凌二
 「サハラとヨーロッパ──地中海が結ぶ南北交流史」 私市 正年
 「三大文化圏とネットワーク──ヨーロッパ,ビザンツ,イスラム世界の交流」 高山 博
 「ヴェネツィアのネットワーク」 齊藤 寛海
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:林屋 永吉
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:深見 奈緒子・宮下 規久朗
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「地中海 美の回廊:旅する芸術家たち」
2.同「宮廷文化の華麗な舞台」
3.同「古代からのメッセージ」
VI 会 議
1.常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 7回開催
4.大会準備委員会 2回開催
5.電子化委員会 Eメール上で逐次開催
VII ホームページ
  URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr
  (国立情報学研究所のネット上)
  「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第28回大会(於北海学園大学) 2004.6.26〜27
IX その他
1.新入会員:正会員22名;学生会員11名
2.学会活動電子化の調査・研究
3.展覧会の招待券の配布:「ニューヨーク・グッゲンハイム美術館」展

2005年度事業計画(2005.6.1〜2006.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌『地中海学研究』XXIX発行
2006年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期・春期連続講演会開催







III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力「古代からのメッセージ」
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
 第29回大会(於静岡文化芸術大学) 6.25〜26
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

*新役員
 第29回総会に於いて下記の役員が選出された(再任を含む)。
会  長:樺山 紘一
副 会 長:木島 俊介 宮治美江子
常任委員:秋山  学 飯塚 正人
     石川  清 太田 敬子 
     大高保二郎 小佐野重利
     片山千佳子 小池 寿子 
     込田 伸夫 篠塚千恵子 
     島田  誠 清水 憲男
     陣内 秀信 末永  航 
     鈴木  董 高山  博 
     武谷なおみ 内藤 正典 
     野口 昌夫 福井 千春 
     福本 秀子 堀川  徹 
     本村 凌二 山田 幸正 
     渡辺 真弓
監査委員:中山 公男 牟田口義郎

*論文募集
 『地中海学研究』XXIX(2006)の論文および書評を下記のとおり募集します。
 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
 締切 10月20日(木)
 本誌は査読制度をとっております。
 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。





春期連続講演会「地中海ネットワーク:交易と人の移動」講演要旨

サハラとヨーロッパ
──地中海が結ぶ南北交流史──

私市 正年




 紀元前8000年から紀元前2000年ころにかけてアフリカは雨期にめぐまれ,サハラの全域がサバンナ植物におおわれ始め,狩猟や牧畜に好適な環境になった。サハラ砂漠の中央,タッシリ・ナジェール地方に広がる岩山には,キリン,象,カモシカ,ワニ,牛などの動物,川を泳ぐ人,狩をする人,牛飼い民の姿などがいきいきと描かれている。フランスの先史学者アンリ・ロートの調査により,当時,この地域が豊かな緑におおわれ,狩猟生活がいとなまれていたことが証明された。しかしこの時代にサハラの北と南を結ぶ大規模な交易が行われていたわけではなかった。
 紀元前2000年ころから,サハラは徐々に乾燥化し始めた。乾燥化とともにサハラからは牛飼い民,狩猟民,農耕民たちは各地に移住し始め,他方ラクダがこの地域にもたらされた。紀元後3世紀にはラクダはサハラ地域に急速に普及した。サハラにラクダが普及してから,従来のサハラ南北交通路は交易活動でもさかんに利用されるようになった。その意味では,サハラ交易はサハラの砂漠化とラクダの普及とによって誕生したといえよう。
 エジプトのオアシス地域──チュニジア南部──ニジェール川流域という北東から南西方向ルートが先に開け,モロッコ地方から西アフリカ内陸部に通じる南北交易の発展は遅れた。しかし後者のルートが圧倒的に優位に立つようになった。というのも,サハラ南北交易の最重要商品は塩と金であり,南が必要とした塩の産地は後者のルート上に偏っていたからである。
 近代以前のサハラの南北交易は五つの時期に分けることができる。紀元後3世紀ころから不定期ではあったが,サハラ南北の交易が始まった。これを草創期と呼ぶことにする。内陸アフリカから北アフリカの地中海まで達するサハラ交易が定期的になるのは10世紀ころである。これが確立期である。これにはイスラームのハワーリジュ派が大きな役割をはたした。
 ムラービト朝は熱狂的宗教運動として台頭してきたため,その破壊性や非寛容性が注目されるが,経済的運動としてみると,秩序と合目性を有し,アフリカおよび地中海地域の交易活動にきわめて大きな影響を与えたといえる。西アフリカのサハラ交易を支配したムラービト朝は豊富な金を用いて金貨を鋳造した。同王朝の金貨は質,量ともに地中海周辺諸国のなかで圧倒的にまさり,その
評判はすぐにイベリア半島にまで伝わった。11世紀末,ムラービト朝のアンダルス征服によって,サハラの南北交易ははじめてスペイン(キリスト教スペインの諸国を含む)からセネガルまでつながった。この変化はサハラ南北交易の大きな転換期を示しており,これが第3期にあたる。
 ムワッヒド朝が衰退に向かう13世紀は,サハラの南北交流にとって時代の転換期を意味していた。というのも,この時代にヨーロッパ商人たちが北アフリカの港市に永続的居留地を築き,キリスト教地中海世界がサハラ交易に接合したからである。これが第4期である。
 しかし,この第4期は経済的交易活動とは異なる重大な問題を残した。すなわちこの時代のサハラ交易の発展は,内陸アフリカのマリ帝国に未曾有の繁栄をもたらしたが,アラブ・イスラーム史料はこれを「金のバブル経済」のごとく伝えた。ヨーロッパの中に黒人アフリカ世界の「黄金伝説」と黒人に対する「イメージ」はこうして誤解(妄想)を伴いつつ広がり始めた。14世紀から始まるヨーロッパ人のサハラ冒険旅行は,アラブが伝えたアフリカの豊穣な金のイメージに刺激され,金を探求することを第一の目的としていた。しかし,想像によって膨らんだ彼らの黒人アフリカ・イメージがどれほど問題性をはらんでいたかは,この時期に作製され始めたカタロニア地図に明らかである。
 15世紀から16世紀にかけてサハラ交易の様相は激変する。それは何よりもポルトガルに先導されたヨーロッパ人が大西洋から内陸アフリカに進出し,根こそぎ黒人を奴隷として狩り出してアフリカ社会を破壊し始め,また金は新大陸から供給してサハラの南北交易の意義を根本的に変えたからである。これが第5期である。
 だがサハラの南北交易の歴史的意味は以上の理解で足りているだろうか? 商品とともに伝えられた情報はより重要な意味をもつことがある。それが,私たちの歴史認識に関わる場合はなおさらである。実は中世のアラブ史料や西欧で作製された地図史料を検証すると,このサハラ交易とともに西欧に形成されていった黒人とアフリカ社会に対する認識が,近代の啓蒙思想を経て,現代人に伝えられていることがわかる。その意味でサハラの南北交流の歴史は現代への「問いかけ」なのである。





春期連続講演会「地中海ネットワーク:交易と人の移動」講演要旨

ヴェネツィアのネットワーク

齊藤 寛海




 ヴェネツィアはどことどのように繋がっていたのか,あるいはヴェネツィアを中心とする世界はどのようなものだったのか。14〜16世紀について見ていこう。
 ヴェネツィアの起源は,蛮族侵入による避難民が潟湖の島々に定着した中世初期に遡り,政治・宗教・商業の中心が現ヴェネツィアに定着したのは,9〜10世紀である。住民は河川による内陸交易から海上交易に進出し,やがてこの交易路に沿うダルマツィア沿岸部を平定し,海外領土を形成した。第四回十字軍を契機に東地中海に拡大した領土は,やがてキプロスをも取り込む。イタリア本土における内陸領土は,15世紀初め以降に形成されたが,海外領土が16世紀以降オスマン朝によって侵食されると,唯一の領土となっていく。地中海でヴェネツィア商業の地位が低下すると,資本は商業から農業に移動し,商人貴族は地主貴族に変質した。守旧的貴族の支配する共和国は,18世紀末にナポレオンに征服され,オーストリアに譲渡された後,19世紀中葉にイタリア王国に併合された。
 14世紀のヴェネツィアの商業圏は,モンゴルの平和とレコンキスタによるジブラルタル海峡の開放とにより,黒海東岸から北海のロンドン・ブリュージュまで拡大していた。取引商品は,多種多様であり,高価軽量商品(香辛料)も低価重量商品(明礬)も,地中海外部(東南・中央アジア)のものも地中海内部(ギリシア)のものもあった。東南アジアの胡椒はさらにその一部がロンドンまで輸送されたが,ギリシアの小麦は大量にヴェネツィアで消費された。商品の種類・距離の長短に応じて,船舶の類型・航海の方法が選択された。国有のガレー商船隊による定期的な航海,私有の各種帆船による自由な航海などである。前者の目的地には,黒海,シリア・エジプト,イギリス・フランドルがあり,15世紀にはこれに西地中海一帯が加わった。自由な航海の目的地は,商人ごとに多様であったが,取引商品が農産物の場合には収穫期に合わせた航海が行われた。いずれにせよ,春と秋が航海の季節であり,帰港した船舶が出港するまで停泊する冬と夏に取引が活発に行われた。
 13世紀末頃以降,商人が商品とともに遍歴する遍歴商業から,各地市場に5〜10年間定着した商人が相互に代理人となり,通信によって取引を指示して行う定着商業へと移行した。陸上の通信は14世紀の過程で成立
した通信企業により,海上の通信は目的地への船便に委託して,いずれも頻繁に行われた。記録としての商業通信には,受信者が発信者ごとに区別して保管するものと,発信者が日付順に発信文書の内容を冊子に複写しておくものとがあった。1410年代,ヴェネツィアのある商人貴族のもとにダマスクスに居住するヴェネツィア商人から送られた文書には,^両者間の取引のみならず同市場の状況全般について記した商業書簡,_同市場での各種商品の価格を記した価格表,`同市場でヴェネツィア商人などが購入した商品の数量を記した購入表,a商船団の一航海を単位として両者間で行われた取引の結果生じた貸借関係を記した勘定書,の四種類があった。これに基づいて,相手市場の市況が正確に分析され,取引に関する詳細な指示が行われた。通信に要する標準的な日数は,ロンドンからが33日,コンスタンティノープルが38日,ベイルートが39日であった。ヴェネツィアから広がった波紋は,そこに戻ってきたのである。
 ヴェネツィア政府は,各地市場のヴェネツィア商人居留地の領事,本国から派遣する海外・内陸領土各地の総督,さらには外国の首都に滞在する常駐大使との間で,頻繁な文書のやりとりをした。商人がやりとりする文書と並んで,この政府の文書も,各地の情報の収集,各地への指令の伝達を行った。とはいえ,同じくヴェネツィア人が作成したものでも,両種文書の記録内容は重点の置き所が異なっていたと思われる。
 最近,ヴェネツィアに居住する少数民族についての研究が盛んである。ドイツ人,フィレンツェ人,ダルマツィア人,ギリシア人,ユダヤ人,トルコ人,さらには奴隷として輸入されたキプチャク人,などなど。ドイツ人の靴職人は,同職者組織の機能をもつ兄弟団をヴェネツィアで形成し,北部・中部イタリアに居住するドイツ人靴職人の集団と密接な連携をもっていた。ユダヤ人は,地中海各地に散らばったユダヤ人との間で国際商業を行い,ヴェネツィアもついにはその濃密なネットワークを利用して取引を行うにいたった。
 ヴェネツィアには,このように各種のネットワークからなる立体的なネットワーク組織が存在した。そのかたちは,時には緩慢に時には急激に変化したが,質量ともに顕著なものであった。それを通じて,人,物,情報がヴェネツィア世界内外の各地との間を往来した。





地中海学会大会 記念講演要旨

日本にとっての地中海世界

木村 尚三郎




 地中海には,明るい開放感がある。海へのまなざしは水平に向い,その向うには異国(とつくに)の人が予感される。全世界的に先行き不透明の,大勢として技術文明成熟の現代にあっては,海には生きる「希望」がある。反対に山へのまなざしは上方に向い,その向うには神が予感され,「祈り」がある。山上のキリストやマリア,奈良の大仏や京都の大文字焼き,さらには花火や竿灯,山笠にこめられるのは,「祈り」である。
 生きる「希望」のある明るい地中海に向って,いま沢山の観光客が押し寄せ,地中海沿岸は活況を呈している。古代から16世紀にかけて経済的に繁栄し,その後は20世紀前半まで後進地帯に転じた地中海沿岸諸地域に,いま「陽がふたたび昇りつつある」。
 日本の地中海とも言われる瀬戸内海でも,16世紀までは船乗りのあいだで,日常的に韓国語がきこえていたという。ところが地中海と同じく国際交流の場であった瀬戸内は,近代化とともに産業化の犠牲となり,その美しい風景を多かれ少なかれ損ない,技術文明成熟の今日では経済不振に陥っている。
 「地中海美術館」その他を目指して沢山の外国人客が訪れる,直島のような例外はある。しかし「物・時間・情報からの自由・解放」を実感できる地中海のようになるには,瀬戸内全体が「住んでよし,訪れてよしの地域づくり」によって,21世紀型観光開発へと,発想の転換を進める必要があろう。
 その一方で,地中海文化と日本文化は意外な共通性を秘めている。それは明るく美しい,太陽の「光」に対する信仰である。西ヨーロッパにも,「神は光なり」の心があるが,その光とは,いわば「森の中の木洩れ日」である。これに対し地中海の陽光は,まるでガラスの束のような硬質の光として,天空から降り注ぐ。その強烈な光をもろに信仰の対象としているのが,イスラム教である。
 太陽の光すなわちアラーの神は,ありとあらゆるところに偏在している。グラナダのアルハンブラ宮殿の奥深くにも,壁の細かな装飾の隙間を通し,あるいは天窓を通して,滲むように行き渡る。噴水の技術もイスラムから起り,庭園の噴水が太陽の光を浴びてキラキラと光るさまは,まさに動く宝石である。さらに泉の水面はみごとなまでに日々清掃され,ゆらゆらと建物や木々を映している。砂漠のオアシスと同じく,そこには太陽と水への讃歌がある。
 日本も同じく,水にきらめく明るく美しい光に,神を見る。海面に朝日が当って,波間に光がキラキラと美しく輝く。これこそ,お伊勢様の正体であるとされる。日本の映像作家がこの情景を好んで撮るのは,私たちの太陽信仰にもとづくものといっていい。日本の神道とイスラム教とのあいだには,驚くほどの共通性が存在している。
 しかしながら地中海沿岸諸地域と日本とでは,きわ立った対照性もまた存在する。それは,「点と線」の都市優位の地中海世界と,「面」の発想にもとづく,農村優位の日本社会との,対照性である。
 ギリシア・イタリア南部・北アフリカ・イベリア半島では大都市が点在し,農村の姿は概して見えない。貧しい農村が繁栄する都市に奉仕するのが,地中海世界の古代から現代に通有する特性である。
 これに対し,ピレネー山脈から北の西ヨーロッパでは,都市が農村に奉仕している。車を走らせれば,豊かな畑の拡がるなかにつぎつぎと小さな村が,教会を中心に姿を現わし,数キロに一つの感じで小さな都市が見えてくる。スペインのように,どこまでもオリーブの森がつづき,二,三時間も走らないと都市が出てこない景観とは,大違いである。
 ところが日本では,都市も農村も見えない。集落はあるが,田畑のなかにも住宅が混在し,「面」としてここは何々村,ここは何々町,ここは何々市と行政上定められているだけで,車で走ってもそこが村なのか町なのかは分らない。幸か不幸か近代化から取り残された山間地域の集落,歴史的古都を除いては,美しさもまた失われた。汚くゴチャゴチャした,村らしきもの,町らしきものが限りなくつづくのが,日本の現実である。
 かつてローマ帝国は,ローマと帝国内諸都市との,5,627本の「点と線」で形づくられていた。地中海世界におけるこの「点と線」の,都市の個性をきわ立たせることこそ,21世紀の地球大交流時代にもっとも求められることである。2005年6月,名古屋で開催されたOECD(経済協力開発機構)の国際会議,「将来に向け都市の魅力を高めるには」の基調講演で,私が強調したのもこの点であった。
 地中海世界ないしはイスラム世界のごとく,もっと美しく,もっといい「声」を通して交流し合える,そしてもっと自由・寛容な日本へ。これが,結論である。






地中海学会大会 研究発表要旨

エジプト,アブ・シール南遺跡から出土した石造建造物の石材をめぐる一考察

柏木 裕之




 早稲田大学古代エジプト調査隊(隊長:吉村作治早大教授)は,エジプト・アラブ共和国,アブ・シール南丘陵遺跡において1991年より発掘調査を実施し,これまでに丘陵の頂部から3基,斜面から3基,合計6基の遺構を発見した。
 このうち丘陵頂部に築かれた石造建造物は,古代エジプト新王国時代に,ラメセス2世(第19王朝,紀元前1279〜1213年頃)の第4王子カエムワセトのために築かれた建物で,彼に関係する初の遺構例となった。
 カエムワセト王子は,彫像を「発掘」し,王のピラミッドや太陽神殿を「調査,修復」した人物として知られ,現代の学者からは「世界最古のエジプト学者」の異名をとる賢人である。これまでの調査,研究から,この建物には復古的な様式が数多く採用されており,古建築に対し強い関心と深い造詣を持っていた王子カエムワセトの特質が色濃く反映されていたと考えられる。
 石造建造物では,主たる建材として石灰岩ブロックが用いられたが,基礎石にレリーフの刻まれた石材が使われ,また風食を受けた面が石材同士の接着面で観察されるなど,古い建造物から持ち込んだ石材を,再利用していたことが判明した。
 再利用石材は,レリーフ装飾などが残る場合と,そうした図像資料がなく,古い時代の痕跡や形状だけが残る場合に大別される。特に後者は,旧建造物を示す直接的な手がかりに乏しく,搬入元の特定は難しいが,古建造物を「修復」したと伝えられるカエムワセトが,自身の建物に再利用石材を使っていた事実は興味深く,「修復」の実体や彼の建築観を窺い知る資料として,搬入元の解明は意義ある研究と考える。
 そこで本発表では,旧建造物の特徴的な形状を強く残す石材として三種類を取り上げ,搬入元を考察した。
 一点目は,石造建造物の東側に増築された「ポルティコ」の床,壁,柱で使われた石灰岩ブロックで,これらには約82度の勾配をもつ,風食した面が認められた。また同様の風食面は未完成の柱礎石でも観察され,ここでは,曲率半径が70cm程の整形された曲面が風食を受けていた。ポルティコの規模や風食面の類似性からみて,これらは,同じ遺跡内の,同一箇所から搬入された石材と想定され,傾斜した面と曲面を併せ持つ部位として,頂部に鞍状の笠石を載せた,ピラミッド複合体の外周壁が考えられた。
 そこで,当該丘陵の周辺に築かれたピラミッド及び太陽神殿16基について検討したところ,約82度の転びを持つ外周壁としてサフラー王(アブ・シール)とウセルカフ王(サッカーラ)の二つのピラミッド複合体が候補として上がり,このうち笠石の大きさなどから,サフラー王の外周壁がより近いと考えられた。
 二つ目の石材は硬質緻密な石灰岩ブロック2点で,1点は凸型の形に加工が施されていた。凸型の幅や奥行きに該当する部位は本石造建造物では見あたらず,この凸型は旧建造物の形状を保っていると考えられた。周囲に位置する古建造物のうち,この形状に合致する例として,サッカーラのネチェリケト(ジョセル)王あるいはセケムケト王のピラミッド複合体の外周壁が挙げられ,石材の規模などから前者の可能性が高いことを示した。
 三点目は石灰岩製のピラミッド表装石である。石材の規模から判断し,王のピラミッドの周囲に築かれた小型のピラミッドと考えられた。また,多くの石材で,52〜54度の傾斜角度が認められ,こうした傾斜角度をとる小型ピラミッドの例は,第5王朝にほぼ限られることから,これらが数多く築かれたアブ・シールピラミッド地区が搬入元として有力視された。
 王子カエムワセトが王の命を受けて,その所有者を「調査」し,名前や銘文を刻んだとされるピラミッドや太陽神殿は,これまでに9基を数える。「修復碑文」として紹介される銘文だが,彼の「修復」活動の実体は不明であり,この訳語をあてることに異論を唱える学者もいる。
 注目されるのは,この遺構群の中に,本発表で搬入元として挙げたサフラー王,ネチェリケト(ジョセル)王のピラミッドが含まれていることである。すなわち,「修復」を行ったとされる同じ建造物から,石材の採取が進められていたことになり,さらに小型のピラミッドから石材を入手していたという事実を加味すると,歴史的建造物としてのピラミッドの保存整備といった,現代的な意味での「修復」活動がなされたとは考えがたい。
 むしろこれらがギザからダハシュールまでの各ピラミッド群にまんべんなく分布している点に着目すれば,ピラミッドの復興とともに,その所領地や労働者をも再興した可能性が指摘でき,その中に再利用石材の分配も含まれていたならば,彼が「修復」をした遺跡から石材を入手した事実を矛盾なく説明することが出来ると考える。






地中海学会大会 研究発表要旨

『パルマ福音書』の挿絵《コンスタンティヌスとヘレナ》におけるレクショナリー的性格

桜井 夕里子




 『パルマ福音書』(パルマ,パラティーナ図書館所蔵5番)は,11世紀後半にビザンティン帝国の首都コンスタンティノポリスで制作されたと考えられる15点もの挿絵を有する写本である。当写本の挿絵は,いずれも四福音書に関わる神学的な序文や福音書本文に基づくものであるが,福音書からは説明することが出来ない挿絵が一点ある。マタイ福音書本文前に描かれた《キリスト降誕/コンスタンティヌスとヘレナ》(f.13r)である。この全頁大挿絵は長方形画面を上下二つに区切り,上段に「降誕」,下段に「コンスタンティヌスとヘレナ」を描く。十字架の両脇にコンスタンティヌスとヘレナが立つ図像自体は珍しいものではなく,中期ビザンティン時代(9〜13世紀)の聖堂等に頻繁に描かれる。しかし「聖十字架伝説」との関わりから,十字架に関係する主題であるいう漠然とした解釈があるだけで先行研究は殆どない。また『パルマ福音書』において,なぜこの図像が描かれたのか,当挿絵がどのような意味をもっているのかについての説明はない。発表ではコンスタンティヌスとヘレナが『パルマ福音書』に描かれた理由を明らかにし,さらに当主題がどのように受容されていたかについて新たな解釈を提示する。
 『パルマ福音書』は,テキスト余白に祭日が記されるレクショナリー(教会典礼において朗読される福音書章句を教会暦に従って編纂したもの)的性格をもつ四福音書である。「コンスタンティヌスとヘレナ」図像は,まずf.242vの余白に記される5月21日のコンスタンティヌスとヘレナの祭日に典拠を求めることができるだろう。しかし『パルマ福音書』に記載される聖人は30人以上いる。複数いる聖人の中からなぜこの二人を選んで挿絵化し,さらに四福音書の冒頭という重要な位置に配することになったのか。当図像が描かれるためには,5月21日の祭日図像である以上の,もっと別の理由がなければならない。
 『パルマ福音書』をはじめとするコンスタンティヌスとヘレナの図像は,献堂(ἐγκαίνια)の祭日図像であるというのが私の解釈である。5月21日の祭日が記されるf.242vにつづくf.243vの余白には,「聖堂のエンゲニア」と記される。「エンゲニア」とは「聖堂献堂」を意味するギリシア語であり,狭義にはコンスタンティヌスの在位30年にあたる335年,9月13日のエルサレム
における聖墳墓聖堂献堂祭を,広義には任意の聖堂献堂に関わる祭日,儀式を指す。4世紀のエルサレムにおける献堂祭の情況は巡礼女エゲリアらにより記録され,それによると献堂祭と同時に聖十字架の発見が祝われたという。聖堂献堂と十字架のイメージはもともとキリスト教世界において密接な関係をもっていた。両者は次第に別の祭日として祝われるようになり,9世紀以降ビザンティン世界においては9月13日に聖墳墓聖堂の献堂を,つづく14日は聖十字架称揚を祝う。「真の十字架」を発見したヘレナはもとより,コンスタンティヌスも十字架の幻を見て,「十字架のトロパイオン」を護符として戦いに勝利するなど十字架と強い関わりをもっていた。また両人ともエルサレムの聖墳墓教会をはじめ,数々の聖堂を献堂している。5月21日(Jh:10:2-5, 27-30)とエンゲニア(Jh:10:22-30)の朗読箇所は重なり,終了部分は同じである。『パルマ福音書』においては,終了箇所に「エンゲニアとコンスタンティヌスとヘレナの終了」と両者が併記される。おそらく9世紀以降,典礼において福音書の共通箇所が朗読されることによって,コンスタンティヌスとヘレナのイメージは献堂祭と関連付けられ,聖堂献堂,十字架,コンスタンティヌスとヘレナの三者は三つ巴の不可分な結びつきを得ることになる。
 発表において,コンスタンティヌスとヘレナ図像は十字架に関わる主題であるという見解に加え,聖堂献堂という文脈においても受容されていた可能性を新たに指摘し,傍証の一例としてキプロスのアシヌウ,パナギア・フォルビオティッサ聖堂を挙げる。この聖堂の身廊南西の壁龕には,コンスタンティヌスとヘレナとともに奉献銘が記されている。両人が献堂の祭日図像でもあるとするならば,とりわけ聖堂に頻繁に描かれる理由も説明することができるだろう。コンスタンティヌスとヘレナの図像は,5月21日,そして9月14日の聖十字架称揚の祭日だけでなく,各聖堂が献堂された日の祭日図像として三重に機能していたと推察される。『パルマ福音書』の挿絵《コンスタンティヌスとヘレナ》は,当写本が献呈された聖堂の献堂祭の祭日イメージであると考えられる。





自著を語る43

『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』

角川書店(角川選書) 2003年12月 262頁 1,600円

片桐 頼継




 この本が出版されたのは2003年の末だったので,一般の読者にその存在が知られるようになったのは年が明けてからのことだったと思う。ちょうどその頃からダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』がたいへんな話題になり始めた。そのため私の本はこの小説の謎を説くといったキャッチフレーズの副読本の類ではないかと誤解されそうである。
 実のところ私はこの本が出版されるまで,『ダ・ヴィンチ・コード』という小説の存在を知らなかった。同じ角川書店から出たものの,拙著の担当者もそのことを知らなかったそうだ。同じ会社でも部署が異なればそんなものである。後日,販売促進の目的から,いくつかの書店で『ダ・ヴィンチ・コード』が積まれたコーナーに拙著も置かれることになった。ますます副読本のようである。もっとも,副読本ではないものの,まあたしかに内容を読んでもらえれば,あの小説のどこがフィクションで何が史実であるかを理解してもらえるだろう。そのような読者が増えてくれれば幸いである。
 ところで私は,昨年4月から今年3月まで,海外研究休暇をもらってイタリアに一年間滞在した。ローマにアパートを借り,ほぼ隔週でレオナルドの生地ヴィンチ村のMuseo Ideale Leonardo Da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館)に通った。ここはレオナルド研究者として知られるアレッサンドロ・ヴェッツォージ氏が設立した博物館で,レオナルドのオリジナル作品はないが,主としてレオナルドの手稿類に残された図やノートに基づいてこの博物館で復元した模型類が陳列してある。
 私はここで研究員兼特別臨時学芸員として研究およびこの博物館の展示企画等に参加した。ヴェッツォージ氏はこのヴィンチ村を拠点にして緻密かつ大胆なレオナルド研究を展開している。彼はレオナルドの生地(ある意味でレオナルド研究者にとっては聖地でもある)にいる利点を活かして,それこそダ・ヴィンチ家縁りの人や場所と地道なコンタクトをとりながら,レオナルドの生い立ち,家庭環境,縁故,人格形成の過程などについて詳細に調査し,研究成果を上げている。
 今回私は彼からそうした最新の研究や情報を得たり,一緒に研究活動をしたりで,とにかくたいへん有意義かつ心躍る研究休暇を過ごすことができたが,それは自著を出版した後のことだったため,この一年間の体験を自
著に反映させることができなかった。それが実に残念である。
 ヴィンチ村には今もレオナルドの祖母の家が残っており,現在はレストランとなっている。また,父セル・ピエロが所有していた家もあり,小高い山の上にあるこの家の庭先からは谷間を見渡すことができるが,レオナルドはこの谷をスケッチしており,その視点がこの家と一致することが最近明らかになった。レオナルドは父の家から長閑なヴィンチ村の風景を見下ろしたのだ。現在この場所から見る光景は,彼が眺めたものとほとんど変わっていないだろう。ここで得た感動をも自著の中で語れればどんなに良かったことか。
 とはいえ,大筋では私が自著で語ろうとした内容や私の姿勢について,現地で改めて確認することができたことがうれしい。私はレオナルド・ダ・ヴィンチの実像に迫ろうということで自著を書いた。研究書ではなく,多くの読者に読んでもらうことを目的とした読み物なので,状況証拠に基づく推測や憶測についても思いきって述べてみた。
 正直なところ,レオナルドの生涯を扱うのは荷が重かった。レオナルドは膨大な手稿を残しており,また歴史的な記録や情報も多い。にもかかわらず,彼はプライベートな事柄,とくに心情などについてはほとんど語らない。そこで彼の手稿類はもとより,種々の記録や状況証拠から推論せざるを得ないのである。
 したがってそこに私自身の主観が混入することもしばしばである。但し,そのような推論については,註はつけなかったものの,研究者の倫理として,文章表現の上で,事実と推論の区別がつくよう心掛けたつもりである。
 最後に,また『ダ・ヴィンチ・コード』を引き合いに出すが,私としては,何もレオナルドが《最後の晩餐》にマグダラのマリアを描いたとか,シオン修道会なる秘密結社の総長だとか,そんな突飛なアイディアをひねり出すまでもなく,レオナルドの生涯とその活動を素直にかいま見るだけで,充分ドラマティックかつスリリングなのだということを切に訴えたい。
 彼の人生はもうそのままでも,サスペンス小説的な謎やオカルトめいた逸話などよりもはるかに興味深い事柄に溢れているのだ。本書を読んでいただいて,読者の方にそのことが伝われば,これほどうれしいことはない。