学会からのお知らせ

*常任委員会
・第2回常任委員会
日時:2004年12月18日(土)
会場:上智大学L号館9階911室
報告事項 秋期連続講演会に関して/『地中海学研究』XXVIIIに関して/科研費申請に関して 他
審議事項 第29回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/学会活性化に関して(「若手研究者(学生会員)交流会」の提案)
・第3回常任委員会
日時:2005年2月25日(金)
会場:上智大学10号館3階322室
報告事項 『地中海学研究』XXVIII(2005)に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/2004年度財政見込みに関して/NHK文化センター協力講座に関して 他
審議事項 第29回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して 他


*会費自動引落
 会費の口座自動引落の手続きをされている方は,4月25日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください。領収証をご希望の方には月報次号に同封してお送りする予定です。

*石橋財団助成金
 石橋財団の2005年度助成金がこのほど決定しました。金額は申請の全額で95万円(内55万円は連続講演会会場費補助)です。






表紙説明


旅路 地中海12:スルタン・カーイトバイのワカーラ・ラブァ/山田 幸正


 エジプト・カイロ旧市街の北側,11世紀末ファーティマ朝によって建設された石造の門のひとつ,ナスル門(「勝利の門」)のすぐ南側(市内側)に,ブルジー・マムルーク朝の第21代スルタン・カーイトバイによって1480〜81年建設されたワカーラ・ラブァがある。ワカーラ・ラブァとは,建物の下階に隊商交易で取り扱われる商品の保管,陳列,売買取引など商業業務のための施設(ワカーラ)を配し,その上階に集合住宅(ラブァ)を複合された,カイロに固有な建築タイプである。この建物は,ほぼ完全な状態で現存するものとしてはカイロ最古の例であり,また規模,構成,意匠などあらゆる点で代表的な作品といえる。建物正面の通りは,フトゥフ門(「征服の門」)から延びるムイッズ・リッディーン・ラー通りとほぼ並行して,商業的中核であるハーン・アル・ハーリーリー地区につながる重要な幹線街路である。
 街路側のファサードは比較的保存状態はよく,南の一部で5層まで現存している。ただ,南東隅部を占めていたサビール・クッターブ(公共給水場兼コーラン学校)が1階部分のわずかな一部を残すのみで,ほぼ全壊状態である。建物1階東面では入口左右に5軒ずつの店舗・工房が,また南面では4軒の工房がそれぞれ道に面して設けられている。三葉形をした入口ポータルにはマムルーク朝後期に独特な垂直性を強調した意匠がみられる。それに続く入口通廊は8本の稜線をもつ交差ヴォールトで覆われている。

 約26×11mの南北に長い長方形をした中庭に面して,1階には計19,2階には計32の小部屋が並ぶ。1階全体と2階西側部分はそれぞれに頑丈そうなトンネル・ヴォールトで覆われているが,中庭の南側および東側では2階以上の部屋の構造はこれとは異なり,比較的薄い煉瓦積みの壁に木造の床組が架けられている。これらは明らかにそれぞれが住戸ユニットで,街路側に2層分の高さをもつ主室を設け,中庭側に便所・階段などを含む前室,その上階に一つの部屋(おそらく寝室)を配している。さらにこの上に同じ2層の住戸ユニットが積層させていた。ワカーラの上階に載るラブァは,下階の業務用部分とアクセスを分け,ほぼ完全に分離されている。隊商交易施設と集合住宅というまったく異なる機能を積み重ねて5層におよぶ高層としたこの建築は,高度に発達した都市文化を反映している。
 エジプト国立図書館に保管されている古文書によると,カーイトバーイは1441年にメッカ巡礼から戻り,聖地メディナ周辺に滞在する人々の多くが困窮している様子をみて,そうした人々に対してダシーシャ(パン用の小麦粉)を支給するための大規模な寄進を思い立った。この建築はそうした目的のために建設されたもののひとつである。地中海,紅海・インド洋,砂漠のオアシスなどを経て,世界各地の様々な物資と情報がここに集められ,送り出されただけでなく,その収益の一部は,ワクフというイスラームの寄進制度のもと,聖地巡礼の擁護にも充てられていたのである。




ロンドンのカラヴァッジョ展



宮下 規久朗



 昨年の秋にナポリで開催され,今年2月にロンドンに巡回した「カラヴァッジョの晩年(Caravaggio The Final Years)」展を見ることができた。近年,欧米におけるカラヴァッジョの人気は凄まじく,毎年のようにどこかでこの画家の名を冠する展覧会が開かれるだけでなく,そこには常に長蛇の列ができる盛況ぶりである。2001年にわが国で初めて開催されたカラヴァッジョ展でも,予想外の大量の入場者を動員し,会場となった東京都庭園美術館でも岡崎市美術博物館でも開館以来の記録となったことは記憶に新しい。今回の展覧会も欧米では大きな話題となっており,ナポリでは好評につき会期を1か月延長し,ロンドンでは完全予約制の時間指定の入場となっていて,当日の入場券を買うのは困難であった。ナショナル・ギャラリー西館地下の会場は超満員で,容易に作品に近づけないほどであった。ロンドンでは,2001年にロイヤル・アカデミーで開かれた「ローマの天才 1592-1623」展に,《ロレートの聖母》を初めとする10点ほどのすばらしいカラヴァッジョ作品が出品されていたが,このときも大変に盛況だったことを思い出した。
 近年のこうしたカラヴァッジョ人気は何に起因するのだろうか。伝記や小説があいついで出版されたことから,カラヴァッジョの波乱の生涯が以前にもまして注目を集めてきたのかもしれない。ノルウェーの作家アール・ネスの小説『トマスの不信(Doubting Thomas)』は,カラヴァッジョの殺人と死の真相をスリリングな推理小説タッチで描いて世界的なベストセラーとなっている(残念ながら邦訳はない)。今回の展覧会は,画家が1606年にローマで殺人を犯して逃亡し,南イタリアを放浪してポルトエルコレで野垂れ死ぬ1610年までの4年間に絞っている。これは,カラヴァッジョの晩年作品の多くが修復を終えて研究も進展したという事情だけでなく,画家の人生のうちでもこの放浪時代こそが,ゴッホのそれにも似て,もっともドラマチックで悲劇的であることと関係するのかもしれない。

 会場ではまず,ナショナル・ギャラリーとミラノのブレラ美術館にあるふたつの《エマオの晩餐》が並べて展示されていた。細部まで緻密に描きこまれた1601年の作品と荒っぽいブラッシュストロークと薄塗りが顕著な1606年の同主題作品を比べることは,カラヴァッジョの様式変化を比べる場合の常套となっているが,実物を実際に比較すると,人物の大きさや色彩の微妙な相違など,さらに様々なことに気づかされて興味が尽きなかった。次の第一次ナポリ時代の部屋には,近年修復された《キリストの笞打ち》とクリーヴランドの《聖アンデレの殉教》という堂々たる大作が目を引き,その傍らになぜかクレモナの《祈る聖フランチェスコ》が並んでいた。いずれもフィレンツェのピッティ美術館にある《マルタ騎士の肖像(アントニオ・マルテッリ)》と《眠るアモール》のみのマルタ時代の部屋を過ぎると,メッシーナの《ラザロの復活》と《羊飼いの礼拝》のふたつの大作に迎えられる。両者ともメッシーナ州立美術館で何度も見ているが,そのときよりもさらに大きく見えた。とくに《ラザロ》の荒々しく不気味な迫力は圧倒的であった。ナンシーの《受胎告知》とボルゲーゼ美術館の《洗礼者ヨハネ》もそこにあったが,保存状態が悪く,研究の進んでいない《受胎告知》も,メッシーナの大作に伍する力作であることを認識した。次の第二次ナポリ時代の部屋では,ロンドンとエル・エスコリアルのふたつの《サロメ》が比較展示され,修復が終ったばかりの《聖ウルスラの殉教》,それに最近メトロポリタン美術館に入った《聖ペテロの否認》が展示されていた。制作時期が確実な最後の真作である《ウルスラ》の顔が妙に青白かったのが印象的で,軽視されている《ペテロ》もよく見ると意外に上手く,同時期の真作かもしれぬと感じた。最後の部屋は,ボルゲーゼ美術館の《ダヴィデとゴリアテ》のみがぽつんと展示されており,最後の自画像であるゴリアテの生首のうつろな目つきが観客を見送っているようであった。
 以上の16点のみの展覧会であったが,大作を含むこれだけのカラヴァッジョ作品がまとめて展示されるのは1985年にナポリとニューヨークで開かれた「カラヴァッジョとその時代」展以来,20年ぶりである。ナポリ会場ではさらに《慈悲の七つの行い》や《聖ルチアの埋葬》といった重要な大作や,アトリビューションの問題作なども展示されていたようであり,こちらに行かなかったことが悔やまれた。カタログは近年の研究成果が盛り込まれた良書であった。会場で提示されたクロノロジーには必ずしも全面的には承服できなかったし,会場が混雑して照明が暗すぎることなどの不満はあったものの,最近カラヴァッジョについての研究書を上梓したばかりでやや気が緩んでいた私にとっては,カラヴァッジョ作品とカラヴァッジョ研究の底知れぬ闇をあらためて見せつけられて身が引き締まる思いがした次第である。







ある商社マンの地中海空間
──異文化共生への実験──

山本 東生



 白のVW1600でアルプスを超え,旧ユーゴを南下,アドリア海沿岸をひた走り,コソボとアルバニアの国境の難所をスコピエに抜けて程なく,漸くサロニカの街の向こうに明るいエーゲ海が視界に入った。1972年の春,この無鉄砲な旅行が私の最初の地中海だった。この頃にアンダルシア,キプロス・レバノンにも足を延ばした。地中海を北と西から見た訳だ。この様にして地中海の外縁を行けば行く程にイスラム圏に近づく事を実感した。
 それから25年間も地中海に縁が無かった私が三井物産(以降物産)での現役最後の海外任地バハレンへの異動(1996)で地中海を東と南からも見る幸運を得た。バハレンから中東を管轄する役目で東地中海沿岸は私の重要な守備範囲だった。ビブロスの黄金色の海,ガザの日没,アレキサンドリアの銀色の海,と少しずつ角度を変えて地中海を眺めた。ヨルダン川を渡りエルサレムを抜けると遥かテルアビブの彼方に海が迫って来た。私が地中海を留守にした25年は中東の悠久の歴史では一コマにもならないが,その間にむかし駆け抜けたユーゴは分裂,レバノンは長い内戦を経験し,キプロスは分断された。四方から見た地中海の面積と25年の時間軸で私の中に大きな立体的空間が出来上がった。
 処で日本人の地中海見聞としては天正少年使節以来,開国後の遣欧・遣仏使節を経て,開通直後のスエズ運河を通った新政府の岩倉使節団などがある。では東地中海での商活動はどうだったか? 遣欧使節団(1864)に福沢諭吉などと共に当時16歳の益田孝(初代三井物産社長)が父親に随行,往路スエズからカイロ経由の鉄道で通過したが商活動ではない。中東赴任の機会に会社の中東史を編纂した。旧三井物産の1938年の職員録に亜暦山出張員の名称が見える。最初の中東拠点は綿花の集積地アレキサンドリアだった。1939年の出張所名簿ではシリアやバグダッドの駐在員が所属,亜暦山が当時中東で広域的な役割を果たしていた事が窺える。処が1941〜42年には北アフリカ戦線でロンメル将軍が連合軍のモンゴメリーと死闘を繰り広げていた。英軍が集結するアレキサンドリアは独軍の空襲を受ける。その後事務所は閉鎖され,職員録での亜暦山の名前は消滅する。
 戦後の中東での商活動は中東のパリとも呼ばれて金融と貿易の中継地として栄えたベイルートを中心に始まる。内戦勃発(1974)で物産の中東総支配人は一時カイロに避難,1983年には湾岸バハレンに現地法人を設立して中東の広域経営の本部とした。更に今年に入り近年隆盛のドバイへの移転を決めた。日本経済の尖兵「総合商社」は文字通り中東の動乱に翻弄され砂漠の流砂の如く姿を変えて来たのだ。

 宗教と民族が複雑に入り組むモザイク国家レバノンは商社の中東史初期で重要な役割を果たしたが,モザイクのバランスが崩れた結果の内戦で荒廃,終結(1991)後の今も和平地域の狭間で緊張が続く。日本企業も殆どが撤退,邦人はなんと70人程度に減った。物産の中東史で特筆すべきは内戦を耐えて我がベイルート事務所を守り続けたヘッセン女史(Mokhaiesch Hessen)の事だ。ヘッセンは千夜一夜物語のホソン王妃に因み,モハイッシュはカワバ神殿を覆う金糸のレースを意味するらしい。その彼女も長い勤めを終えて今年に入り会社を退職した。
 ある時,私はモザイク探求の為の実験を思いついた。レバノンで親しくなった四人の友人に同じ質問をしてみた。サンプルから母集団を推定する自分なりの試みだ。回答を要約するとこうだ。@スンニ派イスラムのアラブ人ヘッセンは古代フェニシアも強く意識。Aシャマス編集長はキリスト教徒だが自分はアラブ人だと認める。B処が同じキリスト教徒でもビブロスの骨董商アルバートはアラブ人と呼ばれる事を嫌いフェニシアンだと主張。Cアルメニア人の老美術商アーチンはトルコに迫害された父母の歴史を語りつつ,オリエント文明の跡を描くDavid Roberts(1796〜1864)のリトグラフを大事にする。激しい内戦で苦労した都会のヘッセンと地方の若手アルバートの考えは遠いが,皆が宗教や民族を超えてオリエントと地中海の融合文化を受け継ぐ事に誇りを感じている。古代社会に帰属を求める姿は民族と宗教の隙間を埋める共生へのツールなのかと思った。和平やイラク問題で憎悪の連鎖が言われるが,レバノンでは内戦の教訓が共存への知恵を生み出したのだろうか?
 私の実験取材中にシャマス氏は宗教の脅威から遮断されている日本人の気楽さを皮肉った。多民族多文化国家の米国が中東の米国流民主化を唱え武力に訴える矛盾には当惑するが,日本人のこの地域への無関心と無知はそれ以下のレベルともいえる。まず日本周辺諸国との共栄努力が中東問題,和平問題の理解への一歩と考える。







変わりつつあるフランスの大学教育

朝倉 三枝



 昨年よりフランスに留学している。学生生活を送る中,自分がどうやらフランスの大学改革の真っ只中にやって来たらしいということがわかってきた。そこで,フランスの現在の教育事情について,一学生の視点からお話したいと思う。
 まず挙げられるのが,大学構造そのものの変革である。これまでフランスの大学では第3課程から成る独自の学年制が採用されてきた。第1課程は大学入学後2年間で「大学一般教育免状(DEUG)」を取得し,続く第2課程では,1年目で「学士(Licence)」,2年目で「修士(Ma îtrise)」を取得,その後の第3課程では,1年目に「高等専門教育免状(DESS:就職希望者)」,あるいは「高等研究免状(DEA:研究希望者)」を取得し,その後「博士(Doctrat)」を取得するというものであった。しかし,1989年以来,欧州諸国で構想が進められてきた「ヨーロッパ単位互換システム(ECTS:European Credit Transfer System)」の流れを汲み,フランスでもヨーロッパ規格のLMD制,すなわち大学入学後3年で「学士(Licence)」,その後の2年で「修士(Master)」,続く3年で「博士(Doctrat)」を取得するという学年制を2007年までに全大学で導入することになった。ヨーロッパ圏共通の学年制を導入することにより,従来の単位互換に伴う煩雑さが解消され,フランスとヨーロッパ圏内の学生の往来がより自由に行われることになる。
 私の在籍するパリ第10大学でも2005年度からいよいよこの新システムが導入されることになった。しかし,新システムへの移行に際し問題がないというわけではない。たとえば私は現在DEA課程に在籍しているが,論文の提出時によって,取得できる学位が変わってしまうという問題が生じる。すなわち今年度中に論文を提出すれば博士課程に含まれるDEAの学位,来年論文を提出すると修士課程の学位を取得することになるのである。これはひとつの例に過ぎないが,単位認定や学位の切り替え,カリキュラムの変更など,現行システムで勉強を進めてきた学生たちにとって不安の種は尽きず,新システムの導入は複雑な思いで学生たちに受け止められているようにも思われる。

 もうひとつの改革は,2001年に発足した「国立美術史研究所:Institut national d'histoire de l'art(以下INHAと略)」を中心に,新しい美術史教育・研究の拠点が築かれつつあるということである。
 INHAは,大きく「教育・研究部門」と「図書館・資料部門」の二つから成る。「教育・研究部門」では,フランス国内外のネットワークの創設と活性化,若手研究者の養成,外国からの客員研究員の受け入れなどを目的に掲げ,すでにさまざまな試みが行われている。パリ2区にある校舎では,研究機関の枠を超えた新しい教育体制が構想され,パリの各大学の第3課程以上の授業と,各種高等研究機関の授業が行われたり,講演会も頻繁に開催されたりしている。また「図書館・資料部門」では,図書館の再編成が行われ,ジャック・ドゥーセ美術考古学図書館,国立美術博物館中央図書館,国立高等美術学校図書館,古文書学校附属図書館の4館の蔵書,総計134万冊が,2008年までに校舎の向かいにある旧国立図書館(リシュリュー館)に納まることになっている。加えて,2003年より電子化計画も進められ,美術考古学関係の文献目録をはじめ,蔵書の中の貴重な資料が次々に電子化されている。
 最後にユニークな校舎についてもお話したい。INHAの校舎はギャルリー・コルベールというパッサージュの中にある。パッサージュとは,18世紀末から19世紀にかけて造られた,ガラス屋根で覆われた歩行者専用の商店街のことであるが,校舎のあるパッサージュは,優美なモザイクタイルでも知られるギャルリー・ヴィヴィエンヌともつながり,地元の人だけでなく観光客が訪れる場所になっている。校舎の外にはおしゃれなブティックやサロン・ド・テ(喫茶店)が軒を連ね,通路に面した教室で授業を受けていると,ガラス張りで丸見えの教室の中を覗き込む人がいたり,記念撮影のフラッシュが教室の中まで届いたりすることも少なくなく,普段,大学で授業を受けている時には感じることのない外の空気というものが強く感じられ,不思議な気持ちになる。
 以上駆け足でフランスの教育事情についてお話したが,いずれにしても言えるのは,フランスの大学が,従来の縦型から横型の,より柔軟で開かれた教育体制に移行しつつあるということである。自分がそのような変化を肌で感じることのできる時期に留学をしていることは,とても面白い体験になると思う。







サン・バウデリオ・デ・ベルランガ礼拝堂

原 陽子



 ニューヨークのメトロポリタン美術館の別館,クロイスターズに行った時,懐かしい気配に振り向いた先に《駱駝》のフレスコ画があった。これはスペインのサン・バウデリオ礼拝堂にあったもので,合衆国の収集家ガブリエル・デレッペが入手した23点の内の一点である。
 モサラベ様式の代表建築,サン・バウデリオ礼拝堂はソリア県の荒涼としたベルランガ近くの丘にあり,ここを流れるドゥエロ河はキリスト教徒にとっては南の,イスラム教徒にとっては北の最重要防衛線であった。これをソリアの人々は今も誇りに思い,市の公園にアントニオ・マチャドの“ソリアよ,戦いの最前線のソリアよ”ではじまる詩が植栽で植えてある。更にベルランガの周辺では大きな街道が五つ交差し,オスマからの街道にイスラムの最重要戦略拠点で欧州最大のゴルマス要塞があり,ベアトス写本の影響が入った。他の道には11世紀に南部のモサラベが植民したアンダルス村があり,かのアルマンソル軍が敗走し,シグエンサへと通じるエル・シドの遠征路もあった。即ち9世紀から11世紀のベルランガはレコンキスタの最前線にあり,この礼拝堂が建設された11世紀末には文明の十字路に位置していた。
 礼拝堂を建てたのはおそらくトレドから逃避してきたモサラベだ。9世紀以来の迫害で,自らのアイデンティティを求めキリストへの信仰心を新たにし,終末の到来を恐れ新しい楽園建設願望をもっていた。これが自らのモサラベ典礼に特別な意味を与えることになり,その願望を実現すべく濃密な建造物となった。建物の外観は開口部が抑えられた簡素な切石積みの箱だが,それに反し内部構造は極めて複雑で僅か80m²の空間に聖書とコーランというふたつの精神を凝縮した。身廊,後陣,高さ1.85mの馬蹄形アーチ5個からなるミニ・メスキータ,2階廊,その床に内部をフレスコ画で覆ったわずか長さ1.1mの祭壇を配置,まるで入れ子式の迷宮の小宇宙だ。堂内フレスコ画には「狩猟」と「聖書」というふたつのサイクルがあり,ゴメス・モレノの研究以来さまざまな解釈がある。「狩猟」のサイクルは近年イスラムの織物,タイファ
の宮殿のフレスコ画,象牙の細工物との関連を,「聖書」のサイクルはセゴビアのマデルエロやレリダのタウル教会,又12世紀にソリアに導入されたクリュニー様式の影響が指摘されている。クリュニー会の僧兵ベルナルド・デ・アヘンが1124年にイスラム教徒からシグエンサを奪還し,1136年にはこの礼拝堂がオスマからシグエンサ管轄下になったことを考え合わせると,興味ある主張と思われる。前述の《駱駝》は「狩猟」サイクルにあり,駱駝は荷を受け取る時に跪くことから謙虚さを象徴する動物とサン・イシドロはした。
 しかしなんといってもこの礼拝堂の圧巻は丸天井を支えている中央の太い柱,8本のリブが葉となる大きな棕櫚の樹だ。「地の中心に一本の木があり……その葉は美しく実り豊かで,そこにはみなの食べ物があった。生きるものはみなそこから糧をうけた」とダニエル書にある生命の樹だ。ジョアン・スレダによるとこれは「天と地をつなぐもの,聖と俗を結びつける臍の緒のようなもの」,まさに天へ踏み出す梯子だ。1086年頃のオスマ写本には神の子羊に棕櫚の葉を奉献するあらゆる国,民族,言語の人々が描かれ,別の写本には詩編の「正しい者は棕櫚のように栄え」を造形化した棕櫚の樹を登る人物がいる。こうして義人は林冠まで登り,その実をえて魂の栄光の極致に到達する。ベルランガに定住した孤独な穏修士はこの義人に倣い,天までとどく樹に登ることを夢みたに違いない。荒涼としたベルランガの地でイスラム教,キリスト教,ユダヤ教という3宗教の精神が凝縮されて8本のリブをもつ一本の太い柱の棕櫚の樹になった。この濃密な空間で華麗なモサラベ典礼が執り行われ,華やかな衣装が蝋燭の光に輝き,楽の音が響き,密室はさながら三つの宗教が溶け合った大演劇場となった。しかし密室の外の現実はそれに反比例して過酷だったことを忘れてはならない。「3宗教の王」を名乗るフェルナンド3世が現れても,現実の過酷さは形を変えて存在した。現実が過酷であればあるほど,人々はこの密室空間に現実逃避し,楽園を夢想し,心を癒したにちがいない。
 蛇の目傘のような8本リブの樹の下にいると何か大きな存在に守られている気分になり,心が平らになる。謙虚になっていく。ニューヨークで呼びとめられた《駱駝》の懐かしさが戻ってくる。その懐かしさがシルクロードを渡ってきた正倉院御物の螺鈿紫檀五弦琵琶に象嵌されている「駱駝」と「棕櫚の樹」に重なり,世界が円く,ひとつになっていく。しかし今も現実は厳しい。21世紀になっても人類は相変わらず「9.11同時多発テロ」に象徴される危機的な状況を性懲りもなく繰り返している。この人類の愚かさのシンボルがこのモサラベ建築かもしれない。







ゴイェスカス素描

西川 理香



 年の瀬が迫ったある日,「グラナドスのGOYESCAS(ゴイェスカス)を卒業試験で弾く生徒のレッスンをお願いしたいと思って……」という依頼が舞い込んできた。アルベニス,サラサーテ,グラナドス,ファリャ,モンポウ,トゥリーナ,トルドラ,エスプラ,ハルフテル,モンサルバッチャ,アブリルなど,現在まで数え切れないほどのスペイン人作曲家が誕生し続けている。しかし,生来耳に馴染んだ作品を好む日本人にとって,未知の世界のスペイン音楽は遥か彼方のことのようだ。そのスペイン音楽がそれほど日本に普及していないにもかかわらず,グラナドスの,それも《GOYESCAS》がプログラムに組まれる場合が多々あるというのも事実である。誰もが耳に心地よい旋律とハーモニーの虜となる。ところが,どこまでも途切れることなく続く美しいメロディーが,まるで即興演奏を楽譜にしたような錯覚に演奏者を陥らせ,まとまりのつかないジレンマに追いやるということも,またcon garbo y donaire(優雅に艶やかに),avec beaucoup de grâce(非常に優美に),con gallardía(颯爽と),lento e rítmico(ゆっくりとリズミックに),con dolore e appassionato(悲嘆にくれ情熱的に)など過剰なほどの演奏上の発想標語に演奏者が自由を奪われたかのように圧倒されるということも,演奏家は知る由もない。
 チェロ奏者パウ・カザルスによって天才的,独創的な詩人と称賛されたグラナドスは,1867年カタルーニャ地方のリェイダLleidaに生まれる。「未だグラナドスの《GOYESCAS》とアルベニスの《IBERIA》を超えるスペイン音楽は誕生していない」といわれる。おそらく《GOYESCAS》はグラナドスの最高傑作といっても過言ではない。ピアノ版は1911年にバルセロナで初演される。その後,それはオペラ化され,1916年のニューヨーク初演で大成功を収めるのである。ところが,ニューヨークからの帰途にロンドンから乗船したサセックス号がドイツ潜航艇に撃沈され,グラナドスは夫人とともに帰らぬ人となってしまう。

 グラナドスは18世紀頃のマドリードを愛していた。《GOYESCAS》はその時代を生きた画家ゴヤのエッチングを通して描かれた音の世界である。グラナドスを夢中にさせたのは,キャンバスに描かれたモデルたち,アルバ公爵夫人,マホやマハ,絹レースや黒ビロードのドレス,しなやかな腰付きに真珠のような手……。彼はゴヤのパレット,その心の内に恋したのである。フランス系ブルボン家がスペインを統治していた宮廷画家ゴヤの時代は,庶民が己を生きた時代である。闘牛やサルスエラzarzuelaは庶民の娯楽となり,マドリードの下町に生きる鍔広帽子に長めのマントを羽織るマホや頭からマンティーリャmantillaをかぶるマハが登場する。そして貴族のファッションまでもフランス風になった。《GOYESCAS》にはその時代の生活を醸し出させる様々なスペイン的要素が織り込まれている。
 第一曲目の“LOS REQUIEBROS”(愛の言葉)に流れるトナディーリャtonadillaも,その時代にスペインで流行した歌のひとつである。グラナドスは曲中に18世紀のトナディーリャ作曲家のひとりであるブラス・デ・ラセルナ(1751〜1816)の作品を引用しつつ,その隙間に自作のトナディーリャを散りばめ我々を楽しませる。第三曲目の“EL FANDANGO DE CANDIL”(ともし火のファンダンゴ)のファンダンゴfandangoのリズムに浮かび上がるのも,1808年マドリード生まれの人気作家メソネロ・ロマノスの作品《LA CAPA VIEJA Y EL BAILE DE CANDIL》(古いマントとともし火の踊り)に描かれた18世紀のマドリードの情景である。一方,特に人気の高い第四曲目の“QUEJAS O LA MAJA Y EL RUISEÑOR”(嘆き,またはマハとナイチンゲール)は,レバンテ地方の娘が歌う民謡から着想を得たものだ。郷愁,悲哀,絶望,苦悩から湧き出る旋律が,ナイチンゲールの囀りとともに見事なハーモニーに包まれ生まれ変わっている。装飾音に次ぐ装飾音,音を音で飾る音だらけの五線譜に書き添えられたフランス語を含む楽譜を,ロココ的というべきであろうか。
 彼のデスマスクはニューヨークのスペイン協会The Hispanic Society of Americaで静かに眠っている。表紙にゴヤの銅版画集《ロス・カプリチョス》シリーズの“Tal para cual”(似たもの同士)が複写された愛すべき楽譜とともに……。







読書案内:樺山 紘一

中山公男著『西洋の誘惑』(新版)

印象社 2004年9月 362頁 2,500円



 『西洋の誘惑』を読んだのは,いまからもう40年ちかくまえ。この本の初版である。1960年代になって,わたしたちは西洋との付き合いかたを変えはじめていた。東京オリンピックと為替自由化。西洋が急速に身ぢかになったころのこと。
 剛直な文体と論述に,圧倒された。ひたすらに憧憬をむけ,誘惑を実感してきたヨーロッパについて,これを論ずるもののがわの主体に,深刻な問いを発しているものだから。ただの憧れをもって対象にむきあうことでは,認識は完結しないのだとも。学問の容易ならぬ形相に,正直にいって辟易もしたし,またそれでもこの障壁をこえねば,西洋に接近することもならぬのだと,説得されもした。
 その10年ほどのち,著者本人に面識をいただき,「剛直」の印象はかえって裏切られる思いでもあった。実際の中山さんは,先入見とはうらはらに,柔和で恥ずかしがりの中年だったものだから。ちなみに,そのころわたしたちは地中海学会を創設した。地中海からの誘惑にこたえるかのように。
 なににもまして,本書の論脈はつぎのところにある。「西欧とは,ひとつの幻影,ファントムなのである。しかし……日本的なものも,また一個の幻影と化してしまう。」西洋研究にとってのターゲットの,したたかな幻影。だが,その身中に蔵した日本という幻影もある。実体ではない幻影による誘惑の実相を解明するためには,「無用で怯懦な民族意識」によって,いたずらに日本へ回帰するのではなく,ひたすらにそのあいだの距離を正確に判定しながら,相手の理念や現実を認識することが要請される……

 21世紀の現在となって,なにをいまさらと異議の申し立てもありえようか。戦中世代の懐古談でもあるまいと。日本人の西洋研究は,なにも認識視座のありようを問いつめなくとも,日常的に可能となった。幻影の誘惑どころか,ただの交流によって,両者の距離はうめられてしまったものだから。
 だが,中山さんの問題提起は,けっして賞味期限がきれてはいない。西洋に対面しながら,わが日本の文化の相対性と絶対性とを吟味する作業は,グローバリゼーションのもとにあっても,現在にたいしてきびしく要請されているから。
 いや,「中山さんの」問題というよりは,その「世代の」というほうがよいだろうか。というのも,この新版と前後して,中山さんは世代人としての回顧を公にした。『私たちは,私たちの世代の歌を持てなかった。』(生活の友社)という「自伝的回想」である。そこでは,「世代の歌」を喪失したはずの知識人たちが,21世紀以降の後進たちに,あらたな「世代の歌」をかなでるようにと,しきりと促している。いまだに,西洋は,そして地中海は,誘惑の仕掛け人であり,その誘惑のよってきたるところを解明せよと,わたしたちに命じているように思えてならない。