学会からのお知らせ

*第29回地中海学会大会
 第29回大会は,静岡文化芸術大学(浜松市野口町1794-1)において下記の通り行います。
 見学会の入館料は大会参加費(二日間,会員1,000円,一般2,000円)に含まれます。懇親会費は6,000円です。当日大会受付でお支払い下さい。

6月25日(土)
13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
13:10〜14:10 記念講演
 「日本にとっての地中海世界」 木村 尚三郎氏
14:30〜16:30 地中海トーキング
 「楽器の旅──地中海から日本へ」
   パネリスト:木戸 敏郎氏/嶋  和彦氏
   司   会:高階 秀爾氏
   ハープ奏者:西  陽子氏
17:00〜18:00 見 学「浜松市楽器博物館」
18:30〜20:30 懇親会「天神蔵」
6月26日(日)
9:30〜12:00 研究発表
 「エジプト,アブ・シール南遺跡から出土した石造建造物の石材をめぐる一考察」柏木 裕之氏
 「『パルマ福音書』の挿絵《コンスタンティヌスとヘレナ》におけるレクショナリー的性格」  桜井 夕里子氏
 「中世アラゴン王国における三宗教モデルの限界」  櫻井 寛彰氏
 「天のオクルス,あるいはベッカフーミ作《玉座の聖パウロ》について」  松原 知生氏
 「スペイン・エラスムス主義とオスマン帝国」  三倉 康博氏
12:00〜13:00 昼 食
13:00〜13:30 総 会
13:30〜13:50 授賞式
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
14:00〜17:00 シンポジウム
 「地中海とパフォーマンス──古代から現代へ」
   パネリスト:仮屋 浩子氏/鈴木 国男氏/深井 晃子氏/山形 治江氏
   司   会:高田和文氏

*春期連続講演会
 春期連続講演会を4月23日から5月21日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)です。
「地中海ネットワーク:交易と人の移動」
4月23日 エーゲ海交易の中心ペイライエウス港を訪れた人々  櫻井 万里子氏
4月30日 ポセイドンの変身──古代地中海世界の近代性  本村 凌二氏
5月 7日 サハラとヨーロッパ──地中海が結ぶ南北交流史  私市 正年氏
5月14日 三大文化圏とネットワーク──ヨーロッパ,ビザンツ,イスラム世界の交流  高山 博氏
5月21日 ヴェネツィアのネットワーク  斉藤 寛海氏

*会費納入のお願い
 新年度会費の納入をお願いいたします。
 口座自動引落の手続きをされている方は,4月25日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認下さい。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。
 退会を希望される方は,至急,書面(ファックス,メールも可)にて事務局へお申し出下さい。4月20日(水)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさせていただきます(但し,自動引落のデータ変更の締め切りは,4月8日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。
会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円
口座:「地中海学会」
   郵便振替 00160-0-77515    みずほ銀行九段支店 普通 957742    三井住友銀行麹町支店 普通 216313





死の舞踏
──アドリア海への旅──

小池 寿子



 イストラ半島の懐深くに二つの「死の舞踏」壁画がある。旧ユーゴスラヴィアに属していたこれらの壁画は,今日ではスロヴェニアとクロアティアの国境によって区切られてしまい,さながら,プラトンが『ティマイオス』で語る「男女」(おめ)が,ゆで卵を髪の毛ですっくりと切られるごとく,身体を分かたれてしまったように,もどかしくも一筋縄では届かぬ位置にある。長年,その存在を知りながらも,さまざまな足枷がありすぎて四半世紀を見過ごしてきた壁画だ。
 昨年度1年間,在外研究員という昨今の大学にあっては夢物語のような機会に恵まれて,私の美術史の原点であるブリュッセルに居を定め,「死の舞踏への旅part 3」と,自ら銘打った旅回りを目論んだ。「part 1」は,20歳代末から30歳にかけて学術研究員として得た浮遊の年間に挑んだ1ヶ月余の「死の舞踏への旅」である。確かにそれ以降,毎年の休暇を利用してヨーロッパを彷徨し,多くの作品と邂逅した。その経緯を「part 2」とするならば,今回は「part 3」ということになろうか。1年間というまとまった期間を自らの研究に捧げられる機会など滅多にはない。あるいはこれが全身全霊を投入できる最後かもしれない,という思いも手伝って,勢い,これまで訪ね損ねていた地域の,とりわけ15,16世紀の「死の舞踏」壁画と写本挿絵,そして近年新たに壁画の上塗りが剥がれて「新生」した往時の死のテーマの壁画をできるだけ見ることに終始した。
 年末も押し迫った12月26日,ブリュッセルからローマ経由でトリエステへ飛んだ。そこから20キロほど南に下ったスロヴェニア側イストラ半島のコーペルという港町を拠点としたからである。都市ならばともかく,山間の田舎にある壁画めぐりは拠点をどこに定めるかによって効率が大きく異なる。地図上で入念に調べて,コーペルというイストラ半島の古代以来の港町を宿と定めての3泊,ついで未見のトリエステを巡る2泊の旅となった。
 限られた3泊の中で,未知の,しかも山間の,かてて加えて,教会の鍵を地元の人が有するという二つの「死の舞踏壁画」の撮影が果たしてうまくゆくのだろうか。そもそも,トリエステから順次国境を越えてスロヴェニアさらにクロアティアへの旅が何の支障もなくゆくのだろうか。何より私は欧州滞在ビザを所有していない身である。不安要素は大きく,しかも山間への交通手段はバスしかない。おまけに,12月26日から年末にかけて,
いわば祝祭日となっていたために頼みの綱であったバスは運行していない。トリエステの駅で呆然とした私に声をかけてくれたのは,空港と市内を結ぶバスの運転手であった。パバロッティも民間に下ればかくや,と思われる風貌のその男は,コーペル行きのタクシーを手配し,かつ二つの教会への行き方を指南してくれたのである。
 コーペルからスロヴェニアのフラシュトウリエ教会へ,さらに国境を越えてクロアティアのベラム教会へと誘ってくれたのは,初老の,温厚なタクシー運転手であった。彼はスロヴェニア語もクロアティア語も自在で,両方の教会堂を開けてもらうために通訳もしてくれる。イストラ半島は,旧ユーゴスラヴィアとして統一されていたというより,むしろ,かつてのヴェネツィア共和国として,共通の文化遺産を有しているのである。
 ロマネスク建築を基礎としたフラシュトウリエ教会の壁画は目を見張るばかりで,たぶんにクルゾーネ教会付属鞭打ち苦行者礼拝堂外壁の「死の舞踏」をはじめとする北イタリアの巡礼路沿いの壁画を思わせる。さらにそれは,オーストリアのメットニッツの教会付属納骨堂外壁壁画にも通じる描写である。かたやベラムの墓地付属礼拝堂内部の壁画も同様に,アルプスを越える巡礼路沿いの教会堂あるいは礼拝堂に描かれた「死の舞踏」に与するものであるけれども,「運命の女神」図像との組み合わせが,何より異彩を放っている。
 思いがけず,わずか半日で調査と撮影を終えてしまった私は,夕刻,暖冬の年末にわずかな賑わいを見せるコーペルの浜辺を散策した。ヴェネツィア共和国の支配下に置かれていたこのイストラ半島に,二つの,しかも図像の上できわめて刺激的な壁画が残っているのは,地中海の広範で仔細な人と物の交流による。やや沈んだ,それでも深く青いアドリア海を渡る風が,「死の舞踏」の伝播への思いをくすぐっていた。

キャプション
《死の舞踏》部分 フラシュトウリエ教会壁画 15世紀末






秋期連続講演会「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」講演要旨

トスカナ大公国以前のシエナ美術
──シエナvsフィレンツェ──

小佐野 重利



 シエナ市の建国神話は,雌狼に養育された双子ロムルスとレムスによるローマ建国神話のいわば後日譚である。統治をめぐる仲たがいから,ロムルスがレムスを殺したため,レムスの息子たちセニウスとアスキウスは,神から授かった黒と白の駿馬にまたがり,雌狼と双子の像を携えてロムルスのもとから逃れる。トスカナに辿り着き,シエナ大聖堂が聳えるカステルヴェッキオの丘に要塞を築き,今日,アポロンとディアナに感謝の捧げものをしたところ,アポロンの祭壇から黒煙が,ディアナの祭壇から白煙が上がったという。シエナ市の紋章(白黒の2色紋)はこの譚に基づく。またシエナ市民は「古きシエナ(セーナ・ウェトゥス)」の伝承を誇るためにレムスの息子たちが携えてきた雌狼の像をルーパ・セネーゼ(シエナの雌狼)と呼んで,彫像や絵画でその姿を作り市のあちこちに設置した。
 12世紀には,シエナは金融業を基盤にトスカナ地方有数の都市国家に成長し,イタリアを二分するギッベリーニとグエリフィの政治対立と絡んでフィレンツェと抗争を繰り返す。1260年,フィレンツェの大軍を迎え撃つモンタペルティの戦いで奇蹟の勝利をおさめる。この奇蹟が聖母マリアの篤き加護によることに市をあげて感謝し,ここに「古きシエナ」に加え「キウィタス・ウィルギニス(聖母の都市)」と名乗ることになる。当時の24人委員体制,続く9人(ノーヴェ)体制の共和政によって,一時は宿敵フィレンツェを凌ぐ繁栄を遂げた。しかし,1348年のペストの猛威にフィレンツェ以上に大きな打撃を受け,15世紀に一時勢いを盛り返すものの,同世紀後半に共和政からパンドルフォ・ペトルッチ一族による寡頭政治へと移り政情不安となる。1523年に急進的共和派が政権を奪取することにより,ペルッチ一族の亡命先のフィレンツェと教皇,すなわちグエルフィの干渉を招いたため,ハプスブルク家皇帝カール5世へ援軍を要請する。1526年対フィレンツェのカモッリーア門の戦いで勝利したものの,1530年にはスペイン兵の駐留を認めざるをえなくなる。しかし,スペイン兵の粗暴極まりない挙動に耐え切れなくなり,1552年彼らを追放するが,それが却って1555年から3年に及ぶスペイン軍およびフィレンツェ軍による包囲を招き,1560年にはフィレンツェ公国の支配下となり,シエナ共和国は滅亡への運命を辿った。

 大聖堂,市庁舎,マンジャの塔,ガイアの泉,カンポ広場など主要な建造物や広場のほとんどは,モンタペルティの戦いを勝利に導いた24人委員体制の共和政とその後1355年まで続いた9人体制の共和政の時代に整備されている。シエナ美術といえば,何より先ず,モンタペルティの勝利を記念し大聖堂主祭壇画《マエスタの聖母》を制作したドゥッチョにはじまり,シモーネ・マルティーニやロレンツェッティ兄弟が活躍したこの時代が念頭に浮かぶであろう。大まかにシエナとフィレンツェを対比してみると,前者は建国をローマ神話に,文化的には聖ベルナルディーノや聖女カテリーナに代表される聖人の町の敬虔な雰囲気,美術面では聖母画,聖人画,祭壇画といった宗教画および市庁舎の政治的な寓意壁画,それに市の出納台帳を装丁するビッケルナ(Biccherna)と呼ばれる歴史的,政治的寓意内容の板絵を特徴とする。これに対し,後者は建国を一時はエトルリア神話(特にメディチ家のコジモ1世公爵時代)に求め,文化的にはダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョという詩人・文学者とフィレンツェの俗語を殊のほか誇り,美術面では宗教画のほか,古代神話画,とりわけ婚礼用長櫃(カッソーネ)や誕生盆(デスコ・ダ・パルト)にみる神話・世俗的な絵画に特徴がある。
 14世紀シエナ美術は,ペトラルカがフィレンツェのジョットと並べてシエナのシモーネ・マルティーニを並外れて名声の高い画家と言及したことに始まり,当時から高く評価されていた。フィレンツェ大聖堂付属洗礼堂青銅門扉の作者ロレンツォ・ギベルティは晩年(15世紀半ば)の『回想録』で,13,14世紀のフィレンツェ美術と並んで,シエナ美術の歴史を振り返る。例えばジョットとアンブロージョ・ロレンツェッティにそれぞれ同じ分量の紙幅を費やし,ギベルティ自身はシモーネ・マルティーニよりアンブロージョ・ロレンツェッティを一段と評価していることがわかる。
 講演では,アリストテレスやトマス・アクィナスによる正義と慈愛の徳に関する考えに依拠するシエナ共和政の理念を描き出した,アンブロージョ・ロレンツェッティの市庁舎「平和の間」の寓意壁画《善政と悪政》や,シモーネによる「世界地図の間」の壁画から,1530年皇帝カール5世のシエナ訪問を見込んでソドマに描かせたサント・スピリト聖堂聖大ヤコブ礼拝堂,通称「スペイン人礼拝堂」の壁画までのシエナ美術を概観した。






秋期連続講演会「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」講演要旨

豊饒の (キャンバス)
──メディチ家のモード──

深井 晃子



 ルネサンス芸術発祥の地,フィレンツェは町全体が,一つのイタリア芸術の作品でもある。フィレンツェの芸術が一同に集められた今回の展覧会「フィレンツェ──芸術都市の誕生」は,絵画にとどまらず様々な生活にかかわる作品が展示されている。銀職人が作った銀器,陶磁器職人が作った花瓶,織物職人が織り上げた絹地など,既に芸術品であるそれらを,画家たちはキャンバスの上に絵筆で再現し,芸術へと昇華させていった。
 「豊饒の布」の<布>が意味するのは,キャンバスに生き生きと定着されたルネサンス期フィレンツェの人々が着ている洗練の極致である服,つまり素晴らしい絹織物そのものであり,と同時に,画家たちの絵筆によって再現されている画布(キャンバス)=絵画それ自体でもある。
 着るものはどんなときにも,常に人間の最も身近な存在だった。地位,名誉,財力,そして美しさ。服には人のそんな思いが凝縮している。そしてそれは時代の思いとして鮮やかに浮かび上がっている。
 画家たちが時代の服飾流行の様々な面を綿密に描きながら,そこにその時代のスタイルを規定する基本的な特徴を捉えようとしたことを見ていく。肖像画は,単に個人の物理的な容貌の正確な記録というだけではない。そこに描かれた人物の特徴や性格を伝えている。また単なる美的表現というだけではなく,服装の記録でもあり,純粋な芸術的価値を超えて,時代と環境を証言する物として私たちの心に生き生きと働きかける力を持っている。
 フィレンツェを支配したメディチ家の安定した経済的政策の基に,フィレンツェには知識人,芸術家が集まり,コジモ1世(1519〜74)の治世下,文化芸術は繁栄した。彼は自分自身,そして1539年に結婚した妻,ナポリ副王の娘エレオノーラや子供たちの公的な肖像画をお気に入りの画家ブロンズィーノを初めとして何人もの画家に描かせている。今回展示されているロレンツォ・ヴィアーニ《エレオノーラ・ディ・トレドと子息ガルッティア・ディ・メディチ》(1584〜86,ウフィッツィ美術館)は,ブロンズィーノの《エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニ》(1545c,ウフィッツィ美術館)に基づいて描かれた。
 元の絵とは,彼女とともに描かれているのが一方は上の息子,他方が下の息子,そして背景で大きく異なっているのだが,エレオノーラの豪華な衣装は同じである。

ドレスは精巧な絹織物製,凝ったディテールを持ち,宝石と真珠がさらに豪華さを見せている。この時代の肖像画では描かれた人は,社会的・文化的・政治的に要請された役割を演じていた。この肖像画も,描かれている人たちは個性よりは権力の表象だといえようが,それは構図全体が彼女の豪奢な衣装のために構成されていることでもわかるだろう。服装は,性格はもとより,社会的地位,財産などを示すという役割を持っている。またそれは文化的芸術的なレベルを明らかにもしている。つまりここでは「フィレンツェという都市の最上の生産物を代表する」ものが彼女の着ている服だった。
 この豪華さと威厳にあふれた16世紀イタリア・ファッションは,詰め物をして幾分堅苦しい形を作り出している。かつて袖は身頃と別々に仕立てられた。ポッライオーロ《若い女性》(1475,ウフィッツィ美術館)でもそのことはよく分かる。絹織物はルネサンスを代表する物の一つだが,中国からオリエントを経由してヨーロッパに伝わった。絹ビロード,ダマスクなど高度に洗練された絹織物は,イタリア・ルネサンスにおいて飛躍的に発達し,とりわけフィレンツェは中心的な産地だった。技法的にも文様的にも東方の影響が強く現れていて,ルネサンスの文様にしばしば見られる竜,キリン,鳳凰といった架空の動物,唐草模様などがそれである。
 それにしてもエレオノーラの服の金糸使いの紋織りカットビロードの贅沢さには眼を奪われる。織物史上でも最高級のものである。今回色こそ違うが,ほとんどエレオノーラのものと同じタイプの織物も出展された。金糸使いの贅沢さばかりではなく,織物の組織自体が極めて複雑で,高度な技術を持った熟練した職人しか,それも1日4〜5センチしか織れなかった。職人には高い報酬が支払われたが,そのかわりとしてフィレンツェを離れることが厳しく禁止されていた。
 また,当然のことだがこれほどの豪華で贅沢な織物や宝飾品の様々な質感を描き分けるには,並外れた画家の技量が必要だったことは言うまでもない。肖像画,そして描かれた人物が着ている服は,そのことを明快に示している。また,服の織物,造型,さらには豪華な宝石など,それら自体が既に芸術品だった。芸術家たちは,そうした芸術品が持っている本来の質を素晴らしい技で再現し,さらなる高みへと引き上げている。描かれるものと,描かれたもの,それはまさしく<豊饒な布>だったのである。






スタジオ・アッズーロによる「地中海を巡る旅」展

瀧口 美香



 地中海を巡る想いを,かたちに表すとしたら,どんなふうになるのだろうか。「映像と音声による5つの風景が,地中海を描き出す」というチラシの文句にひかれて,六本木ヒルズ森アーツセンターにでかけた。スタジオ・アッズーロによる「地中海を巡る旅」展,2003年初夏のことである。スタジオ・アッズーロとは,1982年に設立された「映像制作の実験の場」である。
 五つの風景は,映像と音声,そして鑑賞者の参加によって成り立っている。たとえば鑑賞者は,映像の前に立って手をたたいたり,足踏みしたり,一歩ずつ画面へと近寄ったり,車座に座ったり,さまざまな動作を求められる。その動作に反応して,映像が動き出す。床面の絨毯模様が突然動き出し,足元に映像が現われた時には,空飛ぶ絨毯に乗って,映し出される光景を眺めているかのような気分になった。

 五つの風景には,それぞれタイトルがつけられている。第一の風景,「大地は息を吐く」。映像は,イタリア南部ポッツォーリの硫気孔を映し出す。ポッツォーリは火山地域で,火山ガスの吹き出す噴気孔や温泉が多くあるという。
 地面から水蒸気がたちのぼっている。穴から吹きだす噴気を,大地の吐く息に見立てているのだ。大地は確かに呼吸している。それは,深呼吸のような深く長く静かな息から,やがて苛立つように小刻みに揺れはじめ,怒りを爆発させるかのようなすさまじい息に変貌する。
 続いて,噴火で生き埋めになったポンペイの人々の,行き倒れの姿が映し出される。大地がうごめき,腹の底から息を吐き出す時,その息を吹きかけられた人は,もはや生きながらえることができない。

 第二の風景は,火山から海へ。海もまた,大地と同じように息を吐く。潮の満ち引きは,まさに海の呼吸なのだ。
 第二の風景のタイトル,「水は塩の中にとどまる」。ギリシアのメッソロンギ塩田の映像である。海水は濃縮され,結晶化し,真っ白な塩の山となる。
 そこに映し出された石の神殿は,あたかも塩で固められた建築であるかのように見えた。風雨に洗われて彩色を失い,白い廃墟となった神殿が,青い海から生まれた,陸の上の結晶のように見えたのだった。


 第三の風景へ。タイトルは,「風は香を運ぶ」。南仏プロヴァンス地中海沿岸のラヴェンダー畑が映し出される。目が痛むほどに強烈な青と白の塩田から,くぐもった薄紫のラヴェンダー畑へ。その畑の上を,昆虫の大群が飛び交う。まるで熱にうかされているかのように,うなり声をあげながら,駆け抜けるような勢いで。耳元で何千何百という羽のこすれ合う音がする。
 昆虫たちが群れをなして畑の上を右へ左へと敏捷に蛇行するさまは,あたかも風を目に見える形にしたかのようだ。風の擬人化とでもいえばいいのか。

 そこから,第四の風景へ。「色は音とからみあう」。モロッコの市場が映し出される。職人の音は規則的で迷いがない。途切れることのない繰り返し。全身の力をこめて皮をなめす。銅をたたく。機織りのペダルを踏む。木を削る。ろくろを回す。まるで人間の二つの手が,何かと格闘しているように見える。こんなふうに何かとがっぷり四つに組んで,力をこめて,全身全霊をぶつけた時のような音を,わたしには出すことができない。

 第五の風景,「光は空間を彫り出す」。北アフリカ,リビアの砂漠と遺跡。砂丘の稜線を見ると,線のこちら側は強烈に明るく,向こう側は闇に近いほどに暗い。あたかもナイフで切り裂くかのような鋭い線である。光の激しさと,そこから切り離された闇の救いがたい暗さを,砂漠の人は同時に目の当たりにする。
 強烈な光は強烈な影を生みだし,石造の建築は,光の彫刻刀
によって削られているかのように見える。あいまいにあたりを包みこむような光ではなく,明暗をすっぱりと分ける光。それは,光の子と罪人とを分ける,最後の審判を思い起こさせる。
 まことの光であるという神は,うむを言わせずに光と闇とを切り裂く審判者であり,刃物のような鋭さを持つ光なのかもしれない。
 天地創造の時,神は光あれと言って,光と闇とを分けられた。その光と闇が,そのままに,地中海には生き続けているように感じた。そのような光だからこそ,市場で山と積まれたスパイスや果物が,あれほどまでに鮮やかに見えるのだ。東京のスーパーで棚におさめられた野菜からは決して感じられないような,命の根源を見ているような鮮やかさがそこにあるのは,それが創造の当初から続く光の中にあるからなのかもしれない。






自著を語る41
『青いチューリップ』

講談社 2004年11月 309頁 1,680円

新藤 悦子



 青いチューリップの存在に興味を持ったのは,イスタンブルのスルタナーメット・ジャミィの二階席を訪れたときだった。現在は一般に公開されてない,かつて女性の礼拝席だった二階を,現地の建築家が特別に案内してくれたのだ。
 「このモスクがブルー・モスクと呼ばれる本当のわけをご存じですか?」
 建築家の問いかけに,わたしは壁のタイルに目をやった。一面に貼られたイズニク・タイルの青が美しいから,そう呼ばれるようになったと聞いている。
 「でも,タイルの色は青だけじゃない,赤もある。おかしいとは思いませんか? 本当の理由はこれです」
 そう言って彼は,一枚のタイルを指さした。そこに描かれていたのは,青いチューリップだった。
 「他のタイルのチューリップは赤で,ここだけが青です。実は,当時,青いチューリップが咲いたのを記念して,このタイルが作られたんですよ」
 そのときは彼の話を信じたが,後日チューリップの球根栽培が盛んな砺波市で,青いチューリップは存在しないと教わった。交配が盛んなチューリップの世界でも,青はいまだに幻の花なのだ。
 では,彼の話は嘘だったのか。作り話だったとしても,魅力的な話である。礼拝に集う女性のあいだで,こっそりと噂された伝説だったとしたら……
 そんな想像が,この物語を書くきっかけになった。
 時代は16世紀半ばに設定した。トルコでチューリップの交配が盛んになり,改良新種が次々と生まれた時代である。チューリップ専門の庭師も誕生し,イスラム長官エブスード・エフェンディまでもが,「楽園の光」と名づけた新しいチューリップを作った。神聖ローマ帝国大使ビュスベックがチューリップに出会い,その美しさをヨーロッパに伝える前夜である。
 時のスルタンはスレイマン一世。領土を最大にしたオスマン帝国の都イスタンブルと,ペルシアとの境にある東のクルディスタンを舞台にした。
 登場人物の中で実在するのは,スルタンと妃のフッレム,スレイマニエ・モスクの建築に取りかかった建築家シナン,宮廷の絵画工房長シャー・クルだけ。シャー・クルの孫娘で絵師になりたい少女ラーレも,青紫のチューリップの球根をクルディスタンの山から都に運んでく
る羊飼いの少年ネフィも,妄想が産みだした人物だ。
 神学校の薬草博士であるラーレの父アーデム教授,青いチューリップの交配に反対する母アイラ,シャー・クルの弟子で文様絵師のメフメット,聖地エユップの乞食のボス・ジェム,宮廷の庭師頭兼処刑人頭ハサン,イズニクのタイル職人ケマル,流れ者バロ,キャラバンの駱駝引きマモ,クルドの義賊の女長カジェ,伝説のシャフメーランをキリムに織る少女ナゼ……
 妄想から生まれた人物たちが,幻の青いチューリップを巡って動きだすと,書きながらその時代に引きずりこまれていく。コーヒーは都でも珍しかった時代。ブルー・モスクもスレイマニエもまだなく,アヤ・ソフィアを凌ぐモスクを建てようとシナンが挑んでいた時代。イズニクのタイルに,この時代に生まれ50年ほどでなくなったため幻と言われる赤色が加わった時代。のちにオスマントルコの代表的な文様となる,花びらの先が細くカールしたチューリップ文様が生まれた時代。
 チューリップはトルコ語及びペルシア語でラーレという。主人公の少女につけた名前である。ラーレは野生の赤い花の代名詞でもあったし,綴りにアッラー(神)の文字が隠れているため神秘の花とも言われた。
 そして,原産地の中央アジアからトルコ人と同じように西に旅し,ヨーロッパに伝わってトゥリパンと呼ばれたのは,トルコ語でターバンを指すトゥルベントがなまったらしい。花の形がターバンに似ていたからとも,ターバンに花を挿していたからとも伝えられる。
 本書は小学生の高学年以上を対象にしているので,13歳のラーレはちょうど読者と重なる。箱入り娘のラーレは,読者と同じように,この時代の様々なことに疑問を持つ。どうして女は絵師になれないの? どうして(イスラム教徒は)人の顔を描いてはいけないの?
 日本の読者にとって遠いイスラムの世界,16世紀のオスマンの国は,そのままでファンタジーの設定になった。宮廷の人間は妃から大臣まで,異教徒を改宗させた奴隷だということも,宮廷の宝物庫にしまわれた細密画の数々が,人を描けば地獄に堕ちると一般には戒められていたことも。
 そんな設定の中で展開する物語に入りこんで,ラーレやネフィと一緒に旅をして,遠い世界を近くに感じてもらえたら,これほど嬉しいことはない。




表紙説明

旅路 地中海11:キオスとジェノヴァ人/亀長 洋子

 エーゲ海に浮かぶ小島キオス。近現代の歴史に興味がある方には,この島の名を聞いてまず思い浮かべるのはロマン派の画家ドラクロワの《シオの虐殺》かもしれない。しかし中近世地中海史においては,この島は,ジェノヴァ人との希有な関係によって歴史にその名をとどめている。キオスは,対岸のフォカイアから産出される明礬や,周辺地域からの乳香などの特産品を商うジェノヴァ商人の一大貿易拠点だったのである。
 キオスに進出したジェノヴァ人としては,まずは,ベネデット・ザッカリアとその子孫があげられよう。1304年から1329年にかけて,地中海の諸勢力とかけひきをしつつ,三世代にわたってビザンツと契約してキオスの支配者として君臨したザッカリア家の人々は,「ジェノヴァ人=個人主義者」という評価の典型例ともいえる。ザッカリア家の興亡ののち,1346年にこの島の統治はジェノヴァ政府に委ねられた。本国政府による支配と同時に,この島の占拠に関わったジェノヴァ人たちに始まるマオーナと呼ばれる植民者組織もビザンツの同意を得てこの地での統治機構を有する。ジェノヴァ人の個性とされる私的性格の象徴として,またときには株式会社の起源としてマオーナの存在は語られ,キオスとジェノヴァの関係を語る上で欠くことのできないトピックである。

 ジェノヴァ人によるこの島の支配はオスマン帝国の支配を被る1566年まで続く。ジェノヴァ人はこの地の産品を支配するだけでなく,この地に城塞を築き,水道を備えるといったインフラ整備も行った。200年を越える統治期間に,多くのジェノヴァ人がこの地を訪れた。商取引目的の短期滞在者もいれば,現地に土地を購入し定住する者も現れ,ギリシア人との婚姻も見られた。中世キオスの農村の風景はジェノヴァのあるリグリア州の農村のそれとよく似ており,ジェノヴァ人にとっては,郷里を懐かしみながら穏やかに暮らせる地だったのかもしれない。オスマン領になってからも両者の関係は断絶してしまうわけではなく,ジェノヴァ系ギリシア人の社会は残存した。時が流れ20世紀に入っても,人々はジュスティニアーニほか,ジェノヴァ系の姓をこの地にて発見でき,ジェノヴァ人支配の名残を感じることができる。
 表紙はキオスにあるジェノヴァ人の建物の扉上部にある装飾壁である。ジェノヴァの守護聖人の一人サン・ジョルジョが刻まれているのがわかる。この地を旅したジェノヴァ商人が,異郷の地に浮かび上がる郷里の守護聖人の姿をみて安堵する光景。この装飾壁はそんな中世ジェノヴァ人に思いをはせるひとときを現代に生きる我々に与えてくれるのである。