表紙説明
旅路 地中海7:アンティオキアの聖ペテロ教会と大地女神像/池田 黎太郎

 古代シリアの首都,オロンテス河畔のアンティオキア(Antiocheia on the Orontes,現 Antakya)はPisidiaにある同名の都市と区別してこのように呼ばれる。この町は紀元前300年にセレウコス一世Nicatorによって建設され,その父アンティオコスの名に因んで命名された。それ以来ペルシア,ビザンチン,アラブ,アルメニア,セルジュク・トルコの支配を経て様々な転変を繰り返した。この都市は「絹の道」の最西端にあり東西交易の要の位置を占め豊かな富を誇っていたが,1268年にエジプトのmameluke軍団によって徹底的な破壊を蒙った。その繁栄の跡は市内の美術館に残された数十面に及ぶ壮麗なモザイクで偲ぶことができる。
 この市街地を少し離れた東北の岩山の麓に聖ペテロ教会がある。これは聖ルカが所有していた洞窟を初期のキリスト信者たちの集会のために提供し,聖ペテロと聖パウロもここで説教をしたと伝えられる。この説教壇の奥の一隅に抜け穴があり弾圧が厳しいときには信者が出入りするのに使われたというが,この背後の岩山には古代の水利施設の洞穴が縦横に走っているので秘密の集会には便利だっただろう。正面の壁と内陣は1098年に十字軍が占領した時に建築され,テラスからは市街地が眼下に広く展望される。この教会はエルサレム以外にある最初の教会であり初期の信者たちの拠り所として,聖パウロも数回の大旅行の出発点にしていた。
 背後の岩山を200メートルほど登ると大きな女人像の上半身が自然の岩壁を利用して彫り込まれている。これは明らかにヴェールを纏った女神像であり,古代のアナトリア各地の岸壁に刻まれた大地女神像のひとつと考えられる。この像はキリスト教が盛んな時代にはマリア像とみなされて崇拝されていたが,少し遡って紀元前2世紀のセレウコス朝時代の作品であり,右肩に乗っている人物はAntiochus Epiphanes IVであるとみなす説明もある。
 しかし岩山と聖なる水と樹木の組み合わせを考慮に入れるなら,これは大地の女神の像であり小さな男性像はそれに付き従う植物神であると考えるのが自然である。むしろこの像に様々な解釈を加えることによって激しい時代の変革を乗り越え迫害と破壊の手を免れて来たのだろう。この女神像の周辺の洞穴は互いに連絡し,その中の幾つかは立った姿勢のままで通り抜けることができるほど大きい。教会の奥の抜け穴はこれらに通じて信者に避難路を提供したのだろう。いまでも祭壇の脇からは清水が湧き出してそれには治癒力があると信じられている。この初期の教会の果たした役割については使徒行伝の記述を参照(6:5, 11:25-29)。
(表紙上:教会から見た現市街/表紙下:Cave Church of St. Peter)










学会からのお知らせ
*第29回地中海学会大会
 第29回地中海学会大会を2005年6月25日,26日(土,日)の二日間,静岡文化芸術大学(静岡県浜松市野口町1794-1)において開催します。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2005年2月11日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*秋期連続講演会
 11月20日よりブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において秋期連続講演会を開催しております。12月の講演は下記の通りですが,聴講券は各回とも完売になりました。会場の座席数の都合で,聴講券がなければ入場できません。この点をご了承下さい。
「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」
12月4日 トスカナ大公コジモ1世の文化政策  北田 葉子氏
12月11日 豊饒の布(カンバス)──メディチ家のモード  深井 晃子氏
12月18日 メディチ家のヴィッラと庭園  野口 昌夫氏
*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報本号(274号)に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円
    学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について

 会費の口座引落にご協力をお願いします(2005年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,今年度(2004年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(274号)に同封してお送り致します。
 会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:  2005年2月21日(月)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2005年4月25日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
*常任委員会

・第1回常任委員会
日時:2004年10月30日(土)
会場:早稲田大学34号館2階第3会議室
報告事項 第28回大会会計に関して/研究会に関して/秋期連続講演会に関して/NHK文化センター協力講座に関して/展覧会招待券配布等に関して 他
審議事項 第29回大会に関して/日本学術会議会員候補者に関して 他











研究会要旨

聖都ローマとカタルーニャ ──リポイ,サンタ・マリア修道院聖堂における旧サン・ピエトロ大聖堂の影響──

小倉 康之
10月2日/上智大学

 カタルーニャの要衝,リポイのサンタ・マリア修道院は,中世ヨーロッパにおける学問の府である。ここではイスラーム文化が摂取され,ヨーロッパ各地から集められた写本をもとに高度な学芸が栄えた。
 9世紀初頭,カロリング朝フランク王国は,バルセロナやジローナをイスラーム勢力から奪還し,イスパニア辺境領を設置した。9世紀後半になると,ギフレ多毛伯による事実上のカタルーニャ統一が果たされ,888年にはリポイのサンタ・マリア修道院聖堂が献堂された。以後,数次にわたる増改築が行われ,935年,977年,1032年にも献堂式が行われている。リポイのオリバ修道院長は,1020年頃から1032年に内陣部分を改築し,貫通型のトランセプトを加えてT字型のプランとした。プッチ・イ・カダファルクが指摘したように,これは,ヴァティカンのサン・ピエトロ旧聖堂の平面型を踏襲したものだと推察される。旧サン・ピエトロのバシリカは殉教者記念堂,有蓋墓地を兼ねた典礼用バシリカであり,リポイ修道院聖堂もバルセロナ伯家歴代の霊廟としての属性を有する。
 リポイの研究史において,プッチの説は等閑視される傾向にあり,ロンバルディア・ロマネスクからの影響が強調されてきた。しかし,リポイの主祭室における外部壁面分節は,柱形と小型の二連ブラインド・アーチによってなされており,同時代のロンバルディア地方の建築とは異なる「古様」を呈している。他方,カタルーニャ地方の初期ロマネスク建築は,アプシス内部における垂直性の強いニッチ列や建築全体を覆う石造ヴォールトなど,いくつかの先駆的な特徴を備えている。
 カタルーニャの初期ロマネスク聖堂は,単廊式,広間式,バシリカ式の三つのタイプに分類されるが,いずれもトンネル・ヴォールトを特徴としている。リポイ修道院聖堂では円柱ではなくピアが身廊側壁を支えており,トランセプトには横断アーチを支持していたと推察される柱形が4組付けられている。すなわち,建設当初からトンネル・ヴォールト架構であった可能性が高い。
 これに対し,リポイ修道院聖堂が五廊式であり,貫通型のトランセプトを採用している点はカタルーニャ独自の建築伝統に根ざすものだとは言えない。アデイ・イ・ジスベルトは,初期キリスト教時代には五廊式バシリカが各地に建設されたため,リポイとローマとを直接結びつける根拠とはならないと指摘した。
しかし,重要なのはむしろ「貫通型トランセプト」を用いている点であろう。11世紀前半のロマネスク聖堂では三分割型トランセプトが一般的であったが,リポイでは敢えて貫通型のものが採用された。貫通型トランセプトとは,十字形プランの横木の部分が竪木の部分を横断する連続した空間であり,ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂が最初期の例である。クラウトハイマーによれば,貫通型トランセプトを用いた「ローマ式more romano」の平面型は,二重の宗教的機能を持つものであった。第一に,典礼空間として用いられる場合には,トランセプトは聖職者の領域となる。第二に,ペテロの墓を訪れるための霊廟空間としても用いられた。旧サン・ピエトロ大聖堂は,ペテロの墓を含む墓地の上に建てられ,元来,霊廟建築としての性格を有する。このことは,修道院の付属聖堂とバルセロナ伯家の祖廟とを兼ねるリポイの場合と条件が一致している。貫通型トランセプトでは,祭壇や墓を巡る際,訪れる者が交差部によって遮られることがないよう,可動式の主祭壇が用いられていたとされる。トランセプトを連続したひとつの空間にすることにより,側廊からトランセプト,そして反対側の側廊へと至るコの字型の動線が意図されていたのではないだろうか。
 10世紀後半,カロリング朝西フランクは衰微し,王統は絶えた。イスパニア辺境領,後のカタルーニャは,以後,ピレネー以北のキリスト教勢力からの援護を見込むことができなくなった。カタルーニャは元来フランク王国の一部を成していたが,この頃に独立を遂げたと考えられている。イスラーム勢力によってバルセロナを破壊される,存亡の危機に瀕していたカタルーニャは,地中海を隔てた聖都ローマへと目を向けた。951年の教皇アガペトゥス二世の教書,および977年と1032年の献堂記録により,カタルーニャの聖職者が教皇の承認と保護を求めていたことが裏付けられる。オリバ修道院長もローマに長期間滞在し,教皇との繋がりを深めた。そして,リポイ修道院を旧サン・ピエトロ大聖堂と関連づけ,リポイの街を学芸の都へと導いていったのである。即ち,リポイ修道院聖堂は典礼空間と霊廟空間を兼ねる旧サン・ピエトロ大聖堂を手本とし,カタルーニャ独立の背後にローマ教皇の保護と承認があることを建築によって視覚化したものだと結論付けられる。




















民族共存のかけ橋
──モスタル スタリ・モストの再建──
山下 王世

 2004年7月23日,旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ南部の町モスタルでは,町の中心を流れるネレトヴァ川に架けられた石橋の再建と開通を祝う式典がとりおこなわれた。翌日には,非常に短く簡単なものだったが,日本のニュース番組でも報道されていたので,ご覧になった読者もいらっしゃることだろう。
 その石橋は,モスタルでスタリ・モストの名で親しまれている。繊細な三日月形のスタリ・モストは,エメラルド色に輝くネレトヴァ川に架けられている。古くから多くの詩人や旅行家たちが,その橋の美しさをめでてきた。しかしこの橋が人々の心を捉える理由は美しさだけではない。内戦以前には,モスタルに住む少年たちにとって大切なセレモニーの場所であった。かつて少年たちは,民族という枠組みに縛られることなく,大人になったことを証明するためにスタリ・モストのちょうど中央からネレトヴァ川へと飛び込み,肝試しをしたのである。
 1566年,スタリ・モストはオスマン朝最盛期のスルタン,スュレイマン大帝の命によって建設された。それまでこの場所には木造のつり橋があったと考えられている。オスマン朝の著名な旅行家,エヴリヤ・チェレビは,オスマン朝下のモスタルに建設されたスタリ・モストを,時の宮廷建築家であったミマール・スィナンの作と記述しているが,実際はミマール・スィナンの弟子であるミマール・ハイルッディンの作である。16世紀はオスマン朝の最盛期であり,帝都イスタンブルには,直径およそ25メートルから30メートルの大ドームをいただく石造大モスクが建設されている。頂点を極めたオスマン朝の建築技術が,約30メートルの川幅をまたぐスタリ・モストにも用いられたのである。
 1566年の創建以来,400年余りの長い時間,スタリ・モストは,モスタルの街で複数の民族が共存するさまを見とどけてきた。しかし,今から約10年前の1993年11月9日,旧ユーゴスラビアの内戦中にスタリ・モストは,クロアチア軍によって破壊されたのである。 本年7月末に行われたスタリ・モスト再建と開通を祝う式典に話を戻すと,この式典にはモスタルの住民はいうまでもなく,ボスニア・ヘルツェゴビナ中から多くの人々が集まった。そして海外からは,この修復事業に関わった様々な機関・政府の要人たちが参加した。かつて殺戮が繰り返されたボスニア・ヘルツェゴビナの地に恒久的な平和が根づくことを願う人々は,
この日,この式典に参加するだけでなく,各国に流されたテレビ中継の映像をとおして,海外からも熱い視線で見守ったのである。いうまでもなく,この再建事業には,単なる橋梁の再建以上に深い意味が込められている。
 スタリ・モストの再建には,約2年におよぶ調査期間を含む通算約5年の歳月が費やされた。施工を担当したのは,トルコの建設会社であった。破壊されたときに川底に沈んだ石材を丁寧にかき集め,また不足部分についてはこの土地固有の石材を使って補った。  スタリ・モストの再建費用は総額1,250万ドル(約13億7,500万円),そのうちの三分の一を世界銀行が負担し,残りの三分の二については,ボスニア・ヘルツェゴビナ政府(200万ドル),イタリア政府(300万ドル),オランダ政府(200万ドル),クロアチア政府(50万ドル),そして欧州開発銀行評議会(100万ドル)がそれぞれ負担した。これらのドナー機関の他に,ユネスコが再建プロジェクトの統括を行い,フランスとトルコの専門家たちが石造橋梁建設の技術面で多大な貢献をした。さらに,ネレトヴァ川の両岸にひろがるモスタルの街の再建事業については,NGO組織であるアガ・カーン文化トラスト(本部:ジュネーブ)とワールド・モニュメント・ファンド(本部:ニューヨーク)が今も継続している。橋の再建とは直接関係なくみえるかもしれないが,街の再建事業の重要性は極めて高い。両岸の町並みとコミュニティーの営みを再構築してこそ,両岸を結ぶスタリ・モストの存在が生かされるからである。
 ところで世界銀行が,橋や街の再建のために,各国政府やNGOなど他のドナー機関とともに名を連ねることは極めて異例のことだ。この再建事業には,単なる橋の再建だけではなく,1990年代に悲劇が繰り返されたボスニア・ヘルツェゴビナに生きる諸民族の和解の架け橋になってほしいという国内外の関係者の強い願いが込められている。
 橋梁としての再建は,世界中の諸機関から提供された資金,専門家の努力を結集し,成功したといえるだろう。しかしながらボスニア内戦以後,今なおネレトヴァ川をはさんで東岸にムスリム,西岸にクロアチア人というすみわけが続いている。両民族それぞれの心の中に,和解と融合の架け橋が築かれるには,まだ長い年月が必要だろう。このスタリ・モストが400年もの間,諸民族が共存してきたさまを常に現代の人々に思い起こさせ,和解への挑戦を勇気づける存在でありつづけることを願ってやまない。





















中世における「国際結婚」

櫻井 康人

 グローバル化という言葉をよく耳にする昨今,その指標の一つとなるのが国際結婚の増加であろう。独特の国民意識を持つ東洋の島国である日本においても,例えば2001年度の厚生労働省の統計によると,約4万組の国際結婚カップルが誕生し,それは結婚総数に対して約5%を占めるという。とくに大学という職場に身を置いていると,国際結婚している人を目のあたりにする機会は少なくなく,「いよいよ国際化の波が身の回りにも押し寄せてきたか」と妙に納得してしまうこともしばしばである。しかし,そもそも国際結婚とは何であろうか。広辞苑第5版によると,「国籍を異にする男女が結婚すること」とある。ということは,国民国家が成立してはじめて国際結婚が存在しえることとなる。従って,国際結婚とは近代国家の産物であると言える。つい先日までテレビ画面上を賑わせていた,日本の閉ざされた皇室と西欧の開かれた王室という対比の中で,国際結婚も一つのキーワードとなっていた。あるコメンテーターは,西欧の「国際結婚の伝統」に言及していたが,果たして国際結婚という意識と自覚が西欧の王室にどれだけ認識されていたかは,疑問である。こう考えてくると,先の引用文の中で重要になってくるのは「異」という点にあり,どの点で「異」と認識するのか,ということのように思われる。以上のことを念頭に置きながら,私の研究対象であるエルサレム王国の「国際結婚」を垣間見てみたい。
 まず考えられるのは社会層の差異である。確かに,洋の東西を問わずいくつかの「シンデレラ・ストーリー」がある。だが,職能と社会身分が密接に結びついていた西欧中世期に,このような結婚がどれほど一般的であったかは疑問である。「子は腹に従う」との慣習もあるが,社会層を超えた婚姻やそれによる社会層の上昇は,少なくともエルサレム王国では見られず,『クール・デ・ブルジョワの法』第158条では,近親婚と共に一般自由人と女使用人の,領主の息子と一般自由人の娘の結婚を禁じている。一方で,非常事態にブルジョワに騎士叙任することはあったことを考えると,同法は騎士数が減少するのを抑制するための(必然的に男女差を伴う)予防策であったと言える。
 次に考えられるのが,宗教の差異である。
ギリシア正教徒について,ビザンツ皇帝家の者とカトリック世界の有力者との結婚はしばしば確認される。エルサレム王国でも,ボードワン3世とアモーリー1世がビザンツ皇女を娶っているが,いずれの場合も結婚式の前にビザンツ皇女は聖祓を行っていた。すなわち,宗教という差異の境界を越えれば(もちろん,それは我々の想像を超える困難さを伴ったであろうが),問題は社会的差異に収斂されることとなった。他の東方キリスト教徒については,ボードワン2世とアルメニア王トロスの娘との結婚ぐらいであろうか。上に触れた法の同条では,異端との婚姻を明確に禁じている。一方で,確かに同法の159条および180条では,キリスト教に改宗したサラセン人がキリスト教徒と結婚することを容認している。しかし,興味深い史料がある。1193年,教皇クレメンス3世がアッコン司教テオバルドに宛てた書簡である。それは三つの問答を記す。(1)キリスト教徒捕虜を処刑したサラセン人が,キリスト教に改宗した後に殺害されたキリスト教徒の未亡人を娶れるか。否。(2)戦場でキリスト教徒を殺害したサラセン人が,キリスト教に改宗した後に,殺害されたキリスト教徒の未亡人を娶れるか。是。(3)信仰と妻を棄てたキリスト教徒が,異教徒の妻を娶り子をもうけた上で,前妻の死後に妻子と共にキリスト教信仰に回帰した場合,その子は合法か。是。やはり,宗教の差を越えることを前提としているが,興味深いのは(1)と(2)の対比である。(1)は死刑執行人を,(2)は騎士(戦士)を対象としているからであり,やはり社会層の差が大きな問題であったことがわかる。
 もちろん他の差異(慣習・言語・経済力等)も考えられるが,結局のところ,いつの時代,どの地域でも何らかのものを「異」なるものと捉え,その境界線を越えることはかなりの困難を必要とするのであろう。確かに,交通手段やメディアの発展は世界を小さなものにし,従来は「異」であったものへの抵抗感を減らし,そこに人は一つの進歩を感じとるのかもしれない。だが,その次に待ち受けているのは別の「異」というハードルである。このように考えると,「国際結婚」には先進性も後進性もなく,それは各々の社会が設けた価値観とその微妙な変化に大きく影響されるハードルそのものであるような気がする。とりとめのない文章になってしまったが,オリンピック観戦によって否が応でも高められるナショナリズムを感じつつ,寝不足の頭でこのようなことを考えてみた。




















ベルギーの城砦都市,ナミュールを訪ねて

今井 澄子

 「ムーズ川の真珠」と謳われるベルギーの街ナミュールは,ブリュッセルから電車で一時間ほど南へ進んだ緑の豊かな丘陵地帯にある。街にはフランスからオランダへと流れる全長約950kmのムーズ川とその支流のカンブル川が流れ,ブルーグレーの屋根の美しい端正な街並みに潤いを与えている。二つの主要な川が合流するという立地条件の良さのため,交通の要所および軍事拠点として発達し,長い間重んじられてきた。この街の成立は古く,一説には,紀元前57年にカエサルによって攻囲されたガリア人アトゥアートゥキー族の「自然によって守られている町」にあたるとも言われ(カエサル著『ガリア戦記』近山金次訳,岩波文庫,1964年5月,95頁),街の考古学博物館にはローマ時代やメロヴィング朝時代の遺物が集められている。
 駅から街の中心部を通り抜け南へ10分も歩けば,カエサルが包囲した場所であったであろう,敷地8万・もの大きさを誇る城砦(シタデル)へと行き当たる。今日の姿は,17世紀後半にスペイン人によって作り上げられたものだが,既に937年にはその存在が伝えられ,アンシャン・レジーム期にはヨーロッパで10本の指に数えられる大きさであったという。なるほど丘の上に聳えるその姿は巨大で,今日でこそ緩やかな遊歩道が設けられているものの,頂上までの長い道のりを踏みしめてみれば,たやすく攻め入ることができなかったであろうと実感できる。しかし,いくら地理に恵まれた堅固な要塞をかまえていても,川や空からの砲弾攻撃には抵抗しきれなかったのだろう。のみならず,強力な後ろ盾を欠いたため,ナミュールは様々な権力者の支配や侵略に苦しまねばならなかった。10世紀にはナミュール伯の居城であったが戦渦が絶えず,15世紀にはブルゴーニュ公からハプスブルク家へ,17世紀にはオラニエ公からルイ14世へと支配者が替わり,近年では第一,第二次世界大戦でも多大の被害を被っている。
 このように,ナミュールは長い間外部の侵略や征服に甘んじねばならなかったが,他方でその環境は文化的交流を促すことにもなった。街には,バロック様式の聖オーバン大聖堂などイタリア人によって作られた歴史的建造物や芸術作品も残されている。この地域独自の芸術として特に注目に価するのは,ムーズ川流域で11〜12世紀に発達した「モザン美術」が生み出した作品群であろう。
モザン美術は,カロリング朝美術,ライン・ロマネスク美術の影響を受けつつ,聖遺物箱,十字架,装丁など数々の美しい真鍮製品や典礼用の金銀細工品を世に送り出した。この街の女子修道院に保管されている,修道士にして金銀細工師であったユーゴ・ドニーの作品群は,ベルギーの七大秘宝のひとつに数えられるほどである。修道院の奥の小さな一室に入ると,ドニーによる聖遺物箱や聖杯が所狭しと並び,そのまばゆさに圧倒される。中でも,《福音書装丁》(1228〜30年頃)はひときわ輝きを放つ。32.5×23.2cmの二枚の板に各々キリストと四福音書記者,磔刑の場面を表わした小品であるが,金,銀,宝石によって細部まで驚くほど丹念に装飾されている。花や動物,唐草文様などのモティーフを細かく組み合わせ張りめぐらせる彫金や黒金象眼の技術はドニーならではのもので,貴金属のもつ華やかさ,力強さに深みをもたらしているようだ。装丁の片隅には,修道服をまとったドニーその人が作品を捧げる姿も描かれており,ラテン語でドニーがこの作品を制作した旨も記されている。署名や自画像の挿入が必ずしも一般化されていなかった時代において,作者の自意識,自己主張のあらわれがこの地に垣間見られるとは興味深い。

 現在ナミュールは,人口3.5万人ほどの静かな観光地となっている。穏やかなたたずまいを見せるムーズ川は,時としてどこかもの悲しくもあり,遙か遠いカエサルの時代から外部の力に翻弄されざるをえなかった街の暗部も感じさせられる。しかし,夏に訪れるならば,城砦から見える街並みときらきらと輝くムーズ川の美しい眺め,そして数々の芸術遺産に心打たれることだろう。




















オペラ『ラビュリントス』公演



長 榮一

 今夏,アテネ五輪開催のプレ・イベントとして,希政府大使館の力強い支援の下,去る6月20日,21世紀を担う二期会の中堅キャストと学習院大学音楽部(オーケストラ,混声合唱団)現役の若いスタッフ総勢55名の熱意と力を結集して,拙作創作オペラ「ラビュリントス」(クレタ神話)を学習院大ホールで上演し,好評を博したので,概要をご紹介いたします。  脚本・作詞 笠原由里(主演ソプラノ,桐朋学園大学声楽研究科修了)  作曲・指揮 安藤由布樹(東京芸術大学作曲科卒,パリ国立音楽院,S. メルレに師事)  演出 十川稔(大阪大学文学部,早稲田小劇場を経,新国立劇場研修所でオペラ指導)  振付 堀内充(新国立劇場バレエ団ソリスト,大阪芸術大学助教授),他多数。 **********  今を去る4千年昔の古代クレタ,ミノア期クノッソスに伝わる著名なミノタウロス殺しの神話を中心に,昨今のグローバル,テロ撲滅のテーマをオーバー・ラップした作。  アテナイ初期のアイゲウス王が,運動競技に優れ,パンアテナイア祭で全ての相手を負かしたミノス王子,アンドロゲオスをマラトンの牡牛退治にやり,牡牛に殺させた。
 この報を受け,ギリシア随一の海軍力を誇るミノス王はアテナイを包囲して屈伏させ,9年に一度,ミノタウロスの犠牲に少年少女各7名を差し出す約束を取りつけた。  この屈辱に憤った王子テセウス(小宮一浩 東京芸術大学大学院独唱科修了,藤原歌劇団)が,犠牲の一員となり,黒帆を張った船でクレタを目指す。当時の国力,軍事力はクレタの方がアテナイを上廻り,父アイゲウス王の苦悩は計り知れなかった。 **********  当時のクレタは下エジプトより西北進した旧約ヘブライズムの西セム民族と共通した源流をもつミノア期ギリシア,オリエント混融の異様な祭祀を司る豊饒の原理に基づくアジア的女権制社会であった。  蛇と獅子を伴うクレタの蛇女神パイドラ(山本ひで子 洗足学園大学声楽科卒,二期会)は再生を意味する大地母神の象徴であり,宮殿には,鳩,牛,蛇,山羊,グリフィン,獅子,楯,両刃の斧が飾られていた。  他方,蛇女神はファロス信仰の徒とする異説もある。恋に落ちたアリアドネのデュエットを醒めた目で見詰める夜の星座は,ミノス家の祖とも云える祈りの対象に他ならず,王家の未来を占う神秘な神性を持っていた。  アラベスクな物語の展開につれ,或る時は繊細で優美な,又或る時は荒々しく狂暴な旋律が響き,愛と祈りと殺戮の闘争が,宮殿に展開するこのオペラは,古代の姿を今に伝える数少ない作品と云えようか。  三笠宮崇仁殿下,島村農水相,希政府高官,新旧学習院長始め多数の方々の賛辞を頂いた。