目次

学会からのお知らせ

*論文募集
 『地中海学研究』XXVIII(2005)の論文および書評を下記のとおり募集します。
 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
 締切 10月20日(水)
 本誌は査読制度をとっております。
 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。

*10月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。発表概要は月報271号をご参照下さい。

テーマ:聖都ローマとカタルーニャ
    ──リポイ,サンタ・マリア修道院聖堂における旧サン・ピエトロ大聖堂の影響
発表者:小倉 康之氏
日 時:10月2日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円

テーマ:金箔ガラスvetri doratiにみる殉教聖女アグネス崇敬
発表者:藤井 慈子氏
日 時:10月16日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円

*秋期連続講演会
 11月20日より12月18日までの毎土曜日(全5回),秋期連続講演会をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において下記の通り開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館受付で聴講券の前売りをしています。混雑が予想されますので,事前の購買をお勧めします)です。
「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」
11月20日 フィレンツェ──ルネサンスの曙  高階 秀爾氏
11月27日 トスカナ大公国以前のシエナ美術──シエナvsフィレンツェ  小佐野重利氏
12月4日 トスカナ大公コジモ1世の文化政策  北田 葉子氏
12月11日 豊饒の布(カンバス)──メディチ家のモード  深井 晃子氏
12月18日 メディチ家のヴィッラと庭園  野口 昌夫氏

*常任委員会
・第8回常任委員会
日時:2004年2月21日(土)
会場:早稲田大学文学部39号棟5階第5会議室
報告事項 『地中海学研究』XXVII(2004)に関して/研究会に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/2003年度財政見込みに関して 他
審議事項 第28回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/事務局長交代に関して
・第9回常任委員会
日時:2004年4月24日(土)
会場:早稲田大学文学部39号棟5階第6会議室
報告事項 第28回大会に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/石橋財団助成金に関して/退会者に関して 他
審議事項 2003年度事業報告・決算に関して/2004年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他
・第10回常任委員会
日時:2004年6月26日(土)
会場:北海学園大学7号館3階D31室
報告事項 事務局長交代に関して/地中海学会賞副賞に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/日本学術会議に関して 他
審議事項 第28回大会役割分担に関して/第29回大会会場に関して


春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」講演要旨
イスラームとビザンツ帝国
太田 敬子


 西ヨーロッパ世界とは異なり,中東イスラーム世界には,西ローマ帝国の滅亡によるローマ帝国の消滅という認識はない。ビザンツ帝国はムスリムにとってローマ帝国そのものであり,キリスト教勢力の代表であった。ここではイスラームのカリフ政権とキリスト教ローマ帝国の衝突と共存の歴史を,その当初の出会いから概説する。
 633年の秋,第1代正統カリフとなったアブー・バクルはビザンツ属州シリアへの遠征を公布した。最初にムスリム軍がビザンツ軍と大規模な戦闘を行ったのは,アジュナーダインであり,勝利を得たムスリム軍はシリア属州の主要都市を次々と陥落させた。その報を受けた皇帝ヘラクレイオスは新たに軍を召集し,正規軍・属州防衛部隊・アルメニア軍団・アラブ軍団からなる大軍を編成する。同軍は636年5月末にシリア中部の町ヒムスを発し,ムスリムの占領地を回復しながらゆっくりと南下した。これに対してムスリム軍は,ヨルダン渓谷東部のジャービヤに結集し,ヨルダン川の支流ヤルムーク川との間に陣を張って迎撃体制を整える。両軍の激戦は1ヶ月に及んだが,8月20日,ビザンツ軍は渓谷間に追いつめられて大敗を喫した。これが地中海イスラーム世界形成の端緒ともいうべきヤルムークの決戦である。この段階でヘラクレイオスはシリア放棄を決定したという。その後ムスリム軍はシリア各地の制圧に着手し,北部諸都市・沿岸諸都市を制覇,640年頃までにほぼシリア征服は完了した。
 アムル・ブン・アルアースに率いられたムスリム軍がビザンツ属州エジプトに侵攻したのは,639年12月のことといわれる。彼はまず港湾都市ペルシウムに進撃し,ビルバイスを征服,バビロン要塞を前にして進軍を止め,640年6月まで援軍を待った。同7月,ヒエロポリスでビザンツ軍は多大な損害を受けて敗退し,9月にビザンツ軍の拠点バビロン要塞の包囲が始められた。641年2月にヘラクレイオス帝が没したことで士気が弱まり,4月9日に要塞は陥落,6月頃から地中海沿岸のエジプト最大の都市アレクサンドリアの攻撃が始められた。包囲戦は当初ムスリム軍に有利とはいえなかったが,結局9月にアレクサンドリア総主教キュロスが定額貢納の支払い・ビザンツ兵士の撤退等を条件に和平を申し入れ,講和条約が締結された。その後ムスリム軍は北アフリカへと侵攻し,8世紀初頭までには同地方のベルベル人勢力を鎮圧してイベリア半島へ侵攻する。8世紀半ばまでに,ムスリムはビザンツ帝国の諸州を次々と浸食していく形で地中海世界の半分以上を占める地中海イスラーム世界を築き上げたのである。
 しかしながら,イスラームの世界制覇を阻む最大の対抗勢力もビザンツ帝国であった。そのためにビザンツ帝国は「イスラームの敵」として象徴的な意味を付与され,ジハード(聖戦)はビザンツ領域への侵入戦の代名詞ともなった。7世紀半から10世紀前半にかけて,一人のカリフの統治するムスリムの統一国家が,一応実体を有していたカリフ政権の時代において,イスラームの拡大に立ち塞がるキリスト教徒のビザンツ帝国の存在は,国家政策だけでなく,イスラームの国家観や世界観にも大きく影響を及ぼした。イスラームの拡大とそれに抵抗する異教徒に対する不断の戦闘は,ムスリムの宗教的義務であり,イスラーム政権の重要な責務である。教義的には異教徒との共存は成立しない。一方で,ジハードの指揮する権利と義務を有するカリフが行った実際のビザンツ遠征の目的や性格には変化が見られる。
 ウマイヤ朝前半期のカリフ達は,艦隊を擁したコンスタンティノープルの直接攻撃によって一挙にビザンツ帝国を滅亡させることを念頭において遠征を企画したと考えられる。陸からの侵入戦が困難を伴うものであったことにも起因しているが,カリフの支配権の安定と権威の確立のために「ローマ帝国」の首都コンスタンティノープルの征服を重視し,ジハードの最大目的としていたことが確認される。これに対して,アッバース朝時代になると,特に第5代カリフ・ラシードの遠征において顕著であるが,ビザンツ帝国の壊滅よりも,イスラームの軍事的・政治的・宗教的優位を顕示することを主眼におく傾向が明らかになる。貢納の支払い,特に皇帝と皇太子を含むビザンツ人にイスラーム領域の非ムスリムと同様の人頭税ジズヤの支払いを認めさせることを重要視する,「敵」の存在を認める「共存政策」へと転換が図られたといえる。また,一時的にジハードの停止が容認される中間領域「和平の家」の概念がイスラーム思想や法体系の中に導入されていった。一方,ビザンツ帝国との境域を再開発してイスラーム化し,異教徒の領域の縮小を計るという実質的な政策も推進された。軍事遠征という形でのイスラームとビザンツ帝国との衝突は,交流や共存の道を模索する基礎ともなった。その後ムスリムの軍事的優位が失われるにつれて,両者の関係は新たな局面を迎えることになる。

地中海学会大会 記念講演要旨
旅と宗教
──パウロが歩いた古代地中海世界──
土屋 博
 古代地中海という環境世界に生き,日本では通常「パウロ」と呼ばれている一人の人間が,キリスト教の展開を通して後世に及ぼすにいたった文化的影響を,われわれは今日,どのような視点に基づいて理解したらよいであろうか。彼が果たした役割の評価をめぐっては,これまで時代にともなって微妙な変化が認められる。それはキリスト教会の自己認識,すなわち,そのつどの時代的背景とのかかわりの中で教会がどのようなものであろうとしたかを示唆しているように見える。パウロの人間像を思い描くための地理的・歴史的情報は必ずしも多くないし,またきわめて不明確である。そのために,彼をめぐる議論は,彼の神学思想をめぐる議論に傾きがちであり,そこには,いろいろな見方が入りこんでくる余地があった。しかし,いきなり神学思想に目を向ける前に,もう少し別な情報を考慮に入れることはできないであろうか。ここでは,古代地中海世界におけるパウロの旅とは一体何であったのかを,あらためて考えてみることにする。
 今日「旅すること」は,宗教現象との関連では,「巡礼」・「移民」・「心の旅」等々を含む総合的な視野に立ってとらえなおされつつある。情報化社会に生きる現代人の特徴として,「ホモ・モーベンス」(黒川紀章)という概念が提唱されてすでに久しいが,この概念は今や,現代人のみならず,人間一般にとってかなり広くあてはまる特質と見なされるようになってきたのではないであろうか。パウロの旅は単なる「伝道旅行」ではなく,彼の人となりそのものに本質的に根ざしていた。パウロの用語法では,「歩む」(ペリパテオー)は「人生を歩む」ことをも意味していたのである。彼にとっては,さまざまな苦難を重ねつつディアスポラ・ユダヤ人のネットワークをたどり,地中海世界を歩み続けることが,自ら望んだ生き方であった。それは,日常性の根底にある非日常的契機を回避することなしに,あえて真正面から受けとろうとする姿勢に通じる。そこでは,異質なものとのなかば強制的な出会いを通して,結果的に一種の普遍性・共通性志向が浮かび上がらざるをえない。パウロの神学思想は,この点をふまえて,あらためてとらえなおされる必要がある。
 欧米の聖書学者たちは,こりもせずに繰り返しパウロ研究の著書や論文を書き続けているが,さすがに,その作業からめざましい成果が生まれることに対してはかなり懐疑的なようである。しかしその中にあって,ここ30年程の間に比較的新しい方向と見なされているのは,E・P・サンダースの説をめぐる議論である。彼のパウロ研究は特に英語圏で高く評価されており,その背後には,ドイツ系の聖書学との伝統的な対立があるように見えるが,どうもそれだけではなく,広く現代社会に通底する問題がひそんでいるのではないかと思われる。
 M・ルター以来定着した見方によると,パウロの神学思想の中心は所謂信仰義認論である。1960年代に日本でも主張されたパウロ批判は,彼のこの考え方,およびそれに依拠するその頃の教会の主流を批判しようとするものであった。その延長線上で見れば,サンダース等の説は,パウロ神学の中心は実は信仰義認論ではないとするものであるから,パウロを擁護する立場とも言えるが,信仰義認論に対して消極的であるという点では,いずれの立場も実は同様であった。サンダースに触発された近年の新しいパウロ研究が立証しようとしている歴史的事実は,パウロは従来考えられていたよりもずっとユダヤ教に近いということである。これは,ルターの流れをくむ内面的な宗教理解をのり越えて,英語圏中心に広がってきた日常的・市民的なキリスト教倫理を何とかして保持しようとする動機によって支えられているのではないであろうか。
 人間は複雑で矛盾した存在であるので,現実のパウロには,新しい研究が強調するような面がなかったとは言えない。しかし,エルサレム教会にとどまることなく,古代地中海世界を「気が変になったように」歩み続けたパウロが,日常倫理を説くことを自分の本来の使命にしたとは考えにくい。「宗教」と呼ばれる人間の営みが,もし処世訓の集積のようなものであったとしたら,特定の営みとして注目されることもなかったであろう。さらにまた,はげしい内面的葛藤を含む信仰義認論がなかったならば,罪人こそが救われなければならないとする他力救済論への道は開かれなかったであろう。自分たちのやっていることこそ正義であると思いこむこと,パウロ的に言えば「自分の義」を立てることがどのような弊害をもたらすかは,今日の国際情勢を見れば明らかである。他力救済論の普遍性は,それがキリスト教以外の宗教にも通じることによって,市民的キリスト教倫理の普遍性を本質的に越えているのではないかと考えられる。

地中海学会大会 地中海トーキング要旨
温泉・テルメ・ハンマーム,いやしの空間
パネリスト:小池寿子/佐々木巌/本村凌二/山田幸正/司会:宝利尚一
 
地中海トーキングは「知的で,興味深くて,役に立つ話」というイメージがある。そして北海道で「地中海を語る」場合,「役に立つ」温泉の話をしないわけにはいかない。北海道は全国一温泉の多いところであるからだ。学会メンバーの中でも自他共に温泉通,いやテルメ通,ハンマーム通で通る4人のパネリストに薀蓄を傾けていただいた。
 小池寿子さんは入浴マニア,温泉マニアである。今でも1日4時間は風呂に入いるという。今年もベルギーで「屍体」の研究をしていながら,欧州の温泉めぐりを続けたという。
 小池さんはベルギーのファーニュ高原にある美しいスパの資料を用意したうえで,カラー・スライドを使って中世から近代に至る欧州の入浴の様子を紹介した。古代ギリシアでは入浴が治療と清め,いやしに利用されたが,中世になると治療,清めと共に快楽が追求されたという。結婚式が男女混浴の浴場で行われたりしたが,16世紀には風紀の乱れや病気の流行で温泉や公衆浴場が一時閉鎖されたという。欧州では,自然治癒力,清浄な空気,良質の食事,緩下剤,入浴が効果的とされた。
 小池さんのお薦めの一つは東京ドーム天然温泉「スパ・ラクア」で,各種の風呂,サウナと共にリラクセーションが充実し,いやしの場になっているという。
 医師の佐々木巌さんは,いやしの空間としての地中海世界を高く評価し,特に西洋最古の医学校,サレルノの養生訓として(1)ゆっくりくつろぐ(2)くよくよしない(3)よい食事をとる,ことを勧めた。
 佐々木さんはパワーポイントを活用して,医聖ヒポクラテスの島,コス島の写真を示しながら「ヒポクラテスの四体液理論」を解説し,高温,低温浴槽,高温,低温サウナの公衆浴場についても説明した。
 また,地中海世界では温泉治療に限らず,ストレス耐性を高めるコンテンツがあふれていると強調した。神話的時間,人間関係を円滑にする都市空間,それに地中海式生活法(ダイエット)で,特にダイエットは食事,運動,安静が大事であるという。「医者の私が地中海式生活法を薦めると,患者さんが減るかもしれませんね」と言って話をまとめた。
 中高年会員の強い関心を集めたのが本村凌二さんだった。「ローマ人は浴場で欲情したか?」というテーマで,内容の濃い話をしたからだ。本村さんは「40歳以下の人に軽蔑されるのではないか,と心配している」と言いながら,「欲情」について話し始めた。ローマ時代のスタビア浴場の遺構図を示しながら,当時のローマ人が冷浴,温浴,熱浴の順に入っていたようだと説明した。スタビア浴場には脱衣室,プール,運動場,店舗のほか,男性用の浴場と女性用の浴場が併設されていたという。ボイラー室を間にして男性用熱浴室と女性用熱浴室は隣り合っていた。
 ローマ時代に混浴があったかという点について,本村さんはハドリアヌス帝,アレクサンデル=セヴェルス帝が混浴禁止令を出したことから,混浴の浴場があったようだと説明した。ポンペイ遺跡のスブルバネ浴場の脱衣所には卑猥な壁画があったが,噴火直前に上塗りされ,隠蔽されたという。本村さんによると,当時その浴場に来た人々は下層民,村人,旅人(船乗り)という通説が変わるかもしれないという。隠蔽は「(圧倒的な男性優位社会における)むきだしの性の表象に親しむ文化」を否定するためだった可能性もあるという。
 本村さんは「卑猥な壁画」2枚を資料として示したが,もともと不鮮明な画像で,白黒コピーだったため,一般参加者や会員の注目度を集めなかったかもしれない。
 4人目のお風呂通(ハンマーム通)は山田幸正さん。イスラーム建築史の研究者で,トルコ,エジプトからモロッコまでフィールドワークを続け,ハンマームの建築構造について詳しい。山田さんはパワーポイントを使って,初期イスラーム時代のハンマームから15世紀のイエメン・サヌアのハンマーム,18世紀のレバノン・サイダのハンマームなど数多くのハンマームを紹介した。イスラーム世界のハンマームは,入浴時間を変えて男女別々に入浴するという。山田さんは,ハンマームはモスク(イスラーム寺院)に不可欠な付属的施設で,ハンマームの脱衣場,休憩室,温浴室は広々とした空間で,人々の社交の場,娯楽の場を兼ねていたという。
 4人のパネリストの話はいずれも熱のこもった「研究発表」で,会場から大きな拍手が沸いていた。問題は各パネリストが一人15分の約束を守らずに熱弁を振るったため,司会者が北海道の温泉を説明する時間はまったく残されていなかった。司会者の不手際をお許しいただき,予定の2時間丁度でトーキングを終えた。
(文責 宝利尚一)
『エル・グレコ展』に思う
松原 典子

 エル・グレコを語る際に常に引用されるのが,“Creta le dio la vida y los pinceles/ Toledo mejor patria donde empieza/ a lograr con la muerte eternidades”という詩の一節である。エル・グレコ亡き後,友人の詩人がその墓に捧げたソネットを締め括る三行で,その意味は概ね,「生地クレタが彼に生(la vida)と絵筆(los pinceles)を授け,より良き祖国トレドで彼は,死と共に永遠に生き始める」と理解されよう。ただし,これには別のヴァージョンと解釈が存在する。la vidaの後にはコンマがあって,los pincelesはCretaではなくToledoにかかるという読みである(pincelesの後にコンマを入れて引用する研究者もいる)。クレタでイコン画家として出発したのは事実だとしても,彼の才能の開花を促した,つまり真の絵筆を授けたのは,30代半ばに移り住んだスペイン随一の宗教都市トレドに他ならないというわけだ。20世紀初頭以降,長身痩躯の人体と超自然的光に特徴づけられる独特の後期様式を彼個人の宗教的陶酔に由来するものと見なし,誰よりもスペイン的宗教精神を表現し得た画家というエル・グレコ像が形成,継承されていく中,絵筆の贈り主をめぐる綱引きが研究者の間で繰り広げられた。しかし1980年代以降この議論が沈静化していたのは,クレタでもトレドでもなく,その中間に位置するイタリアでの修業時代が注目されるようになったことと無縁ではないだろう。その契機となったのはフェルナンド・マリーアスとアグスティン・ブスタマンテによるエル・グレコの旧蔵書,ウィトルウィウスの『建築十書』の発見と,そこに残されたルネサンス,マニエリスムの美術理論をめぐる自筆註釈の解読と分析で,彼らはエル・グレコ様式の完成を支えたのが画家自身の信仰でもトレドの宗教風土でもなく,イタリア時代に培われた純粋に美学的関心であったと主張したのである。
 ところが,昨秋から今春にかけてニューヨーク,ロンドンで開催された『エル・グレコ展』の監修者デーヴィッド・デーヴィスは,カタログ巻頭論文の冒頭でこの詩の議論に立ち帰り,la vidaの後には確かにコンマがあり,エル・グレコに絵筆を与えたのはクレタではないと断言している。デーヴィスは,エル・グレコ自身が神秘家であったとする従来の誤った考えを否定しながらも,彼が聖テレサやルイス・デ・レオンら神秘思想家たちに倣った個人レベルの霊的改革を唱えるトレドの聖職者たちとの緊密な私的連帯のうちに独自の様式を発展させたのだと,1970年代以降一貫して主張してきた。マリーアスらが提示した宗教とは距離を置く冷徹な画家というエル・グレコ像が定着してからも,彼の一定の理知的傾向は認めつつ,基本的に持論を崩していない。同論文では詩の再解釈に加えて難解な『建築十書』の自筆註釈を再検討し,マリーアスらの見解に疑問を投げかけている。マリーアスらはイタリア色の強い書き込みが,トレド移住から15年以上を経た1590年代前半のものだと分析したが,デーヴィスによればそれは誤りで,実際には作品にもイタリア的要素が認められる1580年代前半以前に書かれたものだとしている。つまり,「スペイン的」な後期様式の完成と同時期のものではないというのである。また,画家の非宗教性の根拠として示された「使徒信経(Cristus)を知っていてもあらゆる学問を理解しているとは言えない」と解釈される件りについては,Christus(Cristus)とは使徒信経(Credo)ではなく文字教本の冒頭に置かれる十字架を指す言葉で,「アルファベットすら知らずしてあらゆる学問を理解しているとは言えない」と読むべきだと述べ,エル・グレコの信仰軽視を否定している。  その当否はともかく,註釈解読の難しさと新たなエル・グレコ像がもたらした衝撃ゆえか,発表から二十余年間,本格的に見直されることのなかったマリーアスらの分析の再検討を促すという点で,デーヴィスの指摘は意義深い。筆者自身,彼らの研究に依存し過ぎていたことを反省しなければならない。しかし同時に,トレドの霊的改革運動に寄せていた個人的共感がエル・グレコ芸術の完成に寄与したと力説するデーヴィスの見方に対しても,今のところ態度を保留せざるを得ない。それは,監修者の主張とは別に展覧会自体が,クレタ時代のイコン《聖母の眠り》から最晩年の《羊飼いたちの礼拝》に到る宗教画の重層的な展開を明示したばかりか,古代世界と結びついた《ラオコーン》や風景画に代表される世俗的主題,件のソネットの作者パラビシーノの肖像をはじめとする心理描写鋭い肖像画,さらには小型彩色木彫も加えて,エル・グレコ芸術の多面性を今更ながら再認識させてくれたからである。ギリシア,イタリア,スペイン。どれ一つを強調し過ぎても,どれ一つを過小評価しても,エル・グレコの複雑な全体像は見えにくくなってしまう。その当たり前のことを心に留めて,今後,イタリアへと重心が傾き過ぎていた筆者自身のエル・グレコ観を見直してみたいと思っている。
踊るサテュロス
──ようこそ日本へ──
小森谷 慶子
 この青銅像が,シチリアとテュニジアにはさまれた海の底から漁師たちによって「水揚げ」されたのは,もうかれこれ6年も前の,1998年3月5日のことである。私はその直後,たまたまシチリアを旅していたが,地元の新聞は当初,風になびく髪から「風神アイオロスではないか」と報じたものであった。帰国後しばらくしてから手もとに届いた考古学冊子“Sicilia Archeologica”の表紙には,くだんの青銅像の顔が写っていた。白目のはまった切れ長の目,なだらかな鼻,小さな口もと,ひげのない丸い顎,狭い額は,ギリシア彫刻というよりもむしろ東洋の仏教彫刻を思わせた。
 巻頭の記事によれば,この海域ではすでに前年の7月,青銅像の左足のすね以下の部分が網にかかっていたが,この本体はそれに合致するものであった。そして,ロバのように先の尖った耳,尻尾がはまっていたと思われる背中の穴,大きく胴をひねったポーズから,この青銅像は,酒神ディオニュソス(バッコス)に付き従いながら酩酊して踊る牧神サテュロス(ローマ神話ではファウヌス)であろうと断じられた。当地の考古学研究所でただちに真水にさらされて塩抜きされた後,像はローマの修復センター(ICR)に委ねられ,やがてはマルサーラの考古学博物館(フェニキア船の残骸で有名)に置かれることになるだろう,とのことであった。
 以来,この像のことはいつも頭の隅にひっかかっており,マルサーラを訪れるたびに,サテュロス像の消息を尋ねたものであった。そうこうするうちに,あれからもう6年が経っていた。2003年春,ようやく修復を終えた像は,ローマの下院議事堂やカピトリーニ博物館で特別公開され,新聞やネット上で話題をふりまいた後,マルサーラではなく,シチリア最大の水揚げ高を誇る漁港町マザーラ・デル・ヴァッロにあつらえられた「サテュロス博物館」に収まった。
 そして私はついに,その念願のサテュロスに対面することができた。博物館は,海に面して魚介レストランが並ぶこの町の歴史的中心区に建つサント・エジディオ教会の内部をモダンに改築したものである。サテュロスは,部屋の奥で跳びはねていた。恍惚となって胴をよじり,左足を後ろにはね上げ,首をのけぞらせて踊っていた。両腕と,地についていた方の右足と,尻尾が欠けている。片腕は海面に現れたとたんにぽっきりと折れ,水深490m以上の海に落下したというから,実に惜しいことである。電波探知機による調査の結果,かなり多くの金属片がこの海域に沈んでいるそうなので,そのうち,テュルソス(バッコスの杖)を振り回していたであろうこの像の腕が見つかるかもしれないし,もしかしたら,マイナス(バッコスの信女)など,群像の仲間が現れるかもしれない。
 かなりのヴォリュームを感じるが,身長は2.45mくらいと推定されている(重さは,本体が96kg,左脚部が12kg)。てらてらと鈍く輝く胸や肩の筋肉の美しさは並の出来映えではない。耐震構造だという台座が高すぎるため,ゆるいウェーヴのなびく毛筋を彫刻刀で刻んだ頭髪や,アラバスター(雪花石膏)のはまった目(瞳の部分は欠落している)など,みごとな頭部の細部があまりよく見えないのが残念である。
 ローマ大学のパオロ・モレーノ教授は,この像はおそらく紀元前4世紀,より厳密には紀元前340年頃のギリシア製,それも,サテュロスの題材を好んでいたプラクシテレスの作品ではないかと述べている(この像は,足の指が別に鋳造されて鑞付けされているが,それはヘレニズム期には行なわれなくなった手法だと同教授は説明)が,今では紀元前3世紀頃のギリシア製オリジナルか,ローマ時代の模刻であろうという意見もある。青銅は,銅に錫や鉛やアルミなどを混ぜてつくられる(錫が多いと硬くなり,鉛が多いと造型し易くなる)が,この成分を蛍光X線分析した結果,鉛の含有率が平均16〜17%だとわかった。これは,ローマ時代の組成比率に近いが,必ずしもギリシア彫刻に見られない比率ではないという。青銅の厚みは6〜7mmで,これは,レッジョ・カラブリア考古学博物館の至宝,リアチェの戦士像2体(紀元前5世紀ギリシアの青銅彫刻で,高さはともに約2m,重さは190kg)よりもわずか1ミリほど薄いだけである。
 この踊るサテュロス像が,来年春,愛知万博のために来日することになった(東京国立博物館でも展示される予定)。パリのユネスコ本部やニューヨークのメトロポリタン博物館が頼んでも断り続けてきたというから,異例の決定なのだ。まさか日本人が,マザーラのまぐろの上得意だからということでもあるまいが。なお,この万博のイタリア館には,ヴェスヴィオ山麓のノラの皇帝別荘(おそらくアウグストゥスが他界した別荘が後世に記念建造物化されたもの)を発掘中の東大の青柳正規教授が掘り出した女性像とディオニュソス像も出展されるという。いずれも見のがすことはできない。



表紙説明
旅路 地中海5:アレクサンドリアのロゼッタ門/堀井 優

 この図は,フランス人の画家で建築家でもあったルイ・フランソワ・カサス(1756〜1827)によって描かれた。彼は,フランス大使に随行してオスマン帝国の都イスタンブルを訪れたのち,1785年にエジプトに渡り,パレスチナとシリアをも旅行し,各地の地形や風景を描写した。そのうちエジプトの地中海沿岸部を代表する海港都市アレクサンドリアに関わるものは,本図を含め6点あり,これらはこの都市の前近代の風景を伝える貴重な記録といえよう。
 もともとアレクサンドリアは,海上に伸びる半島およびその東西二つの港からなる港湾部と,市壁によって囲まれる都市部から構成されていた。市壁の一部は二重となっており,また壁上には百近くの塔が建設されるなど,都市部は重厚な防衛機能をもっていた。その一方で都市部は,いくつかの門をつうじて外側と連絡していた。北側の「海の門」は港湾部へ,南側の「ロートスの木の門(胡椒の門)」はデルタ地域の西側の砂漠へ,そして東側の「ロゼッタ門」はナイル河口都市ロゼッタに至る道への出口だった。
 この図は,市壁の外側から見た「ロゼッタ門」の様子を示している。外壁の出入口はかなり狭いが,その背後の内壁上には大きな要塞があり,広い出入口が設けられている。17世紀オスマン帝国の旅行家エヴリヤ・チェレビー(1611〜84?)はこの都市の諸門の建設年を示す碑文を記録しているが,それによれば「海の門」と「ロートスの木の門」がファーティマ朝期に建設された(それぞれヒジュラ暦523年ラビー・アルアッワル月=西暦1129年2/3月,550年=1155/6年)のに対し,「ロゼッタ門」はアイユーブ朝期に建設された(605年=1208/9年)。ただしこの門の,二つの半円筒形の塔が出入口を挟む形式は,ファーティマ朝期のカイロで1087年に建設されたフトゥーフ門(これは現存する)と類似している。
 この門から隊商が出発しようとする風景は,当時のこの都市の状況のなかで解釈される必要がある。18世紀のヨーロッパ人によるいくつかの地形図を見ると,半島に新市街が形成される一方で,市壁内部の都市施設はほぼ消滅し,しかも市壁の一角が取り壊されて,新市街と「ロゼッタ門」を結ぶ直通道路ができたことがわかる。おそらくはオスマン帝国による東地中海支配の継続に伴って,海港防衛の意義が低下し,貿易活動上の利便性が高い港湾部の都市機能が発展したものと思われる。この隊商は,市壁に囲まれたかつての都市部ではなく,新市街から出発したものと見るべきだろう。そう考えると,図中の市壁や要塞の一部が崩れていることにも目がいく。我々が見ているのは,かつて存在した都市の名残りというべきかもしれない。やがて来るべき近代都市の形成により,市壁とそれに付随する諸施設の大半は,19世紀末までに消滅することになる。