地中海学会月報 270
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2004| 5  



   -目次-














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学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。両賞の授賞式は627日(日)に北海学園大学で開催する第28回大会の席上において行います。


地中海学会賞:辻佐保子氏
 辻氏は地中海世界の初期中世の美術について,ビザンツ世界と西欧世界の両世界にまたがって精緻且つ広汎な研究を進めてきた。その学術的貢献は国内外の学界において極めて高く評価されている。『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版,200311月)では欧米における関連文献が博捜されるとともに,独自の方法論に基づく学問的達成が遺憾なく発揮されている。
地中海学会ヘレンド賞:京谷啓徳氏
(副賞 星商事提供50万円)
 京谷氏は『ボルソ・デステとスキファイノイア壁画』(中央公論美術出版,20032月)で,イタリア・フェッラーラのスキファノイア宮殿「12ヵ月の間」に残る15世紀後半の上下3段の大壁画を対象として取り上げ,文字および画像の同時代資料を渉猟しつつ図像学的な分析を展開した。さらに異教神話や占星術的主題からの従来の解釈に対して,注文主ボルソ・デステの存在に着目することにより新知見を達成した。特に,ルネサンス君主の政治・外交プロパガンダの媒体としての美術作品の機能を「君主称揚のレトリック」のもとに分析し,新しい研究領域を拓くものである。






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*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXVII(2004)の内容は下記のとおり決まりました。本誌は第28回大会において配布する予定です。
・キリキア地方オルバのゼウス神域  芳賀 満
・ヴィスコンティ家宮廷におけるヨハネス・チコニアの音楽--ルッカ写本の作品を中心に  吉川 文
・アントーニオ・チェスティの修道会記録および手紙の分析--17世紀イタリアにおける聖職者の世俗音楽活動に関する一考察   佐々木 なおみ
・カラヴァッジョ作,通称《洗礼者聖ヨハネ》の主題解釈に関する一考察  木村 太郎
・マグレブの現代フランス語小説におけるハンマームというトポス  石川 清子
・書評 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン著中山典夫訳『古代美術史』  篠塚 千恵子






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*第28回総会
 先にお知らせしましたように第28回総会を627日(日),北海学園大学で開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いします(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)。
一,開会宣言
二,議長選出
三,2003年度事業報告
四,2003年度会計決算
五,2003年度監査報告
六,2004年度事業計画
七,2004年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言





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*春期連続講演会
 ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 )において開催中の春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」の太田敬子氏(522日)のタイトル「イスラームの地中海進出とビザンツ帝国」を「イスラームとビザンツ帝国」に訂正します。





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*会費自動引落
 今年度の会費は423日(金)に引き落とさせていただきました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファイナンスサービス」となっています。この点ご了承下さい。学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。





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地中海と北海道は近い?
──
28回大会へのお誘い──

宝利 尚一



 札幌に移り住んで4年が過ぎた。北海道は「内地」に比べ,全体にゆったりと時間が流れる。札幌の大通り公園の春は美しい。公園内に歌碑が建っている。
 「家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」(吉井勇)
 札幌の秋も美しい。
 「しんとして幅広き街の秋の夜の玉蜀黍(たうもろこし)の燃えるにほひよ」(石川啄木)
 札幌の地下鉄も良い。
 パリの地下鉄と同じシステムらしく,騒音が非常に少ない。それに,東京の地下鉄のようにホームや車内でマイクによる騒々しいお知らせ,ご注意が繰り返されないのが良い。
 その札幌で,第28回地中海学会大会が62627日の両日開かれる。会場はJR札幌駅から地下鉄東豊線でわずか6分,学園前駅から徒歩0分の北海学園大学で開かれる。北海道で大会が開かれるのは初めてである。
 大学事務局の人は「地中海と北海道は何か関係があるのですか」と不思議な顔をする。特に関係があるとは思えないが,4年前,私が北海学園大学に赴任して以来,学会事務局は「一度でよいから北の街で南の地中海を考えたい」と示唆していた。
 とはいえ,地中海と北海道に似たところがない訳でもない。北海道は日本で一番温泉の数が多い。北海道と呼ばれるずっと以前から,蝦夷地ではアイヌの人々が「ヌ」とか「ユ」とか「セセキ」と呼んでいた温泉に入っていたという。
 地中海海域でもギリシア,ローマ時代から人々は「入浴」に強い関心を示していた。ドイツは欧州屈指の温泉国で,温泉の数も欧州で一番多い。温泉(クア)療養には一部保険も適用される。フランスでは,温泉水の飲用療法も盛んだという。
 もう一つ,こじつけかもしれないが,地中海海域の南欧と札幌の都市環境が似ていないこともない。札幌の中心街は碁盤の目のように,東西南北にきちんと分けられているが,札幌は山と川のある美しい街である。南欧も北海道も都市と自然が共生している。
 大会案内でもお知らせした通り,札幌市街から北東へ車で一時間弱,豊平川の支流に囲まれた地に,彫刻家イサム・ノグチの遺作であるモエレ沼公園がノグチ生誕百年の今年,完成する。東京ドームが38個も入る広大な敷地にノグチの夢見た子供の楽園,「彫刻的風景としての遊園地」が姿を見せる。
 春5月,札幌市の木に指定されているライラック(フランス語でリラ)がかぐわしい花をつけると,「さっぽろライラック祭り」が始まる。
 6月の北海道は梅雨もなく,一年で最も美しい季節である。上旬のよさこいソーラン祭りでは,若者も高齢者も鳴子を手にダイナミックな踊りを披露する。中旬には北海道神宮の例大祭(札幌祭り)が賑々しく行われる。明治11年から続く神輿渡御が市中を巡る。そして下旬には地中海学会大会が華やかに開幕する。
 最後に忘れてならないのは,地中海に勝るとも劣らない北海道の食の豊かさ,である。ホッケにホッキ,タラバに毛ガニに花咲ガニ,ホタテにウニにイカ,イクラ,お化けカボチャにエリンギ,大豆に小豆,豚丼にジンギスカン……。グルメは海の幸,山の幸を前に「たまらんです」を連発するだろう。そして札幌には味自慢を誇るラーメン店と北海道のビール園が会員を待っている。
 大会初日に地中海トーキング「温泉・テルメ・ハンマーム,いやしの空間」,2日目にシンポジウム「都市と自然のユートピア」と題して,地中海と北海道を分かりやすくコメントする。
 そして,大会の懇親会場と宿泊地は,札幌市街からバスで1時間弱,札幌市内の温泉地,定山渓温泉である。その昔,修験僧,常山がアイヌの若者の案内で現在の定山渓ホテル付近にこんこんと湧き出る温泉を見つけた。そこで,湯治による治療と祈祷を始めたとされる。定山渓温泉の始まりだった。
 大会初日の記念講演は,北海学園大学の土屋博教授(宗教学)の「旅と宗教―パウロが歩いた古代地中海世界―」である。土屋教授は北海道大学名誉教授で,日本学術会議,日本YMCA同盟委員会など,学外でも積極的に活躍されている。格調高い講演をご期待ください。
 最後に,大会会場について説明したい。会場の7号館は昨年夏に完成した地上10階地下1階の新教育棟で,ほぼ全室にAV機器(液晶プロジェクター,無線LAN装置,など)が完備され,マルチメディア教育の実践に最適な環境にある。7号館で全国レベルの大会が開かれるのは本学会が初めてとなる。
 本学のキャンパスは手狭だが,大会前後に広い北海道の旅を楽しんでいただければと願っている。





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秋期連続講演会「宮廷をめぐる芸術」講演要旨

ディエゴ・ベラスケス,絵筆をもち王に仕える従者

大高 保二郎



 「フェリペ四世の宮廷画家」という呼称がベラスケスほどにふさわしく,で深遠な響きと含意をもつ画家が他にいるであろうか。例えば,ルーベンスは複数の王侯貴族に仕えたし,近代のゴヤは宮廷とは別に独自の世界を築いていた。
 若くして即位(16歳)し,俗に“不能王”とまで噂されたスペイン国王フェリペ四世。6歳年長のディエゴ・ベラスケス(15991660年)はその王に見出され,24歳の時に宮廷画家に抜擢された。以後の38年間,ベラスケスは王と王家メンバーや,宰相オリバーレスの厚遇に浴し,廷臣として日夜働くかたわら,絵筆をとりながら,また王宮の装飾デザイナーにして絵画館のごとき豊かな王室コレクションの監督官,キュレーターとしても,スペイン・ハプスブルク家の姿を美しい記憶に永遠に留めるのに成功したのである。
 一方自らは平民出身で,しかも改宗ユダヤ人(コンベルソ)の家系という,あの17世紀当時にあっては重く辛い負の遺産を背負いながらも,早くに宮廷画家の首座を占め,侍従代から王宮配室係へ,最後はスペイン最高位の貴族の称号,サンティアゴ騎士団の十字章さえ獲得している。権謀術数と野望と嫉妬が渦巻き,無気力と倦怠と退廃が交錯する宮廷社会。国王の強力な庇護がなければそうした社会をベラスケスは生き抜くことができなかったであろうし,ベラスケスの絵画がなければ,17世紀のスペインは,無味乾燥なイメージをしか抱けない国となったであろう。
 国王と宮廷画家の親密な間柄は,「余に仕える画家」,「余の王室画家」,「王がアトリエの鍵を持ち,画家の制作場面に立ち会う」といった王室保管の当時の文書に見出せようし,フェリペ四世の絵画マニアぶりは,ルーベンスの報告「この若き国王は確かに絵画を無上の喜びと感じ」とか,イギリス大使の「国王はこの12ヶ月の間に古代と近代の最上の作品を多数獲得された」(16387月)等の書簡にもうかがえるだろう。
 かくして王が遺産として継承したものを基盤に,国内外から熱心に収集し,またベラスケスをはじめ自らの宮廷画家たちに描かせて大きく膨らんだ豊かな絵画コレクションをどこにどう飾るべきか。各宮殿,各部屋の機能を考慮しながら装飾プログラムの,その多くを(すべてではないにしても)担当したのもベラスケスであった。宮廷が置かれた政治の場,首都マドリードの王宮アルカーサルではハプスブルク王室の正統性と君主の称揚が,隠遁と娯楽の場の離宮ブエン・レティーロでは「諸王国の間」を除いては,休息と憩いの環境が,パルドの森の狩猟休憩塔(Torre de la Parada)では古代に辿る狩猟の意義とプリンスの教育が視覚的に演出されたのである。
 1660年の6月,その前年に締結されたピレネー条約に基づいて,スペイン王女マリア・テレーサをフランス王ルイ十四世に嫁がせるための引き渡しの儀式が催された。場所は両国の外交交渉がよくなされてきた所で,西仏国境沿いのビダソア川の中州,フェザン(西語ファイサネス)島である。当時,王宮配室長(Aposentador mayor de Palacio)にまで昇進していたベラスケスは,宿泊所を準備するために王家一行に先がけて出発,両国王の会見の場となるパビリオンの設営と装飾も指揮している。スキピオとハンニバルをタピスリーの題材としたフランス側に対して,スペイン側は信仰の擁護を意味する黙示録からの四場面を選んでいる。その会見の様子はル・ブラン原画のタピスリー(図参照)を通して伝えられている。
 右側がスペイン,左側がフランスで,よく見れば,人物の衣装や雰囲気も厳粛対優美の,好対照をなしている。サンティアゴの十字章を付けたベラスケスが右側のグループに見出せるのであろうか。
 ともあれこの誉れある公務を最後に,ベラスケスは「夜間に旅し,昼間働くという日々の連続に疲れて」(友人への書簡)帰還するも,その後間もない86日,王宮内の自宅で世を去った。それから八日後,妻のフアナもその後を追うように去った。






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イタリアの大学 

児嶋 由枝



 つい最近まで,イタリアの大学は新学期をむかえると学生で溢れかえっていた。高校卒業資格とわずかな授業料を払う余裕さえあれば入学できたのだから,当然かもしれない。しかし,月を追うごとに次第に教室は閑散としてくる。入学試験のない一方で,卒業はとても難しかったのである。試験も卒論も本当に大変だった。卒論審査はとりわけ厳しく,日本の修論よりもずっと高いレベルがもとめられた。
 しかし近年,日本と同様にイタリアでもずいぶん大学事情は変わってきている。大学にも経営理念が採りいれられ,学費が大幅に引き上げられたと同時に学生への対応が手厚くなってきている。
 たとえば,1年ほどで仕上げることが可能な小卒論(tesina)を出せば,卒業できることになった。より本格的な研究を希望する学生は大学院に進む。かつては大学院は博士課程しかなかったが,現在では日本の修士課程に相当する各種の専門コースが設けられている。選抜はあるが,もちろんここでも高額の学費を払わなくてはならない。多種多様な学科も新設された。私の専門の美術史に限っても,「文化財保存科」「美術館マネージメント科」などができている。そしてどの大学も学生確保のために宣伝にも乗り出している(数年前にフィレンツェ大学のテレビコマーシャルを初めて見たときは,びっくりして本当に椅子から転げ落ちてしまった)。
 こうした状況に対するイタリア人研究者の見方は厳しい。毎年イタリアに行くたびに,そろそろ大学に就職しはじめた留学時代の友人たちの愚痴をきかされる。貧しい家庭の子供は大学に進学できない,小卒論ではお話しにならない,新学科,学部といってもどれも掛け声倒れ,大学になぜ宣伝の必要があるのか,など否定的な意見ばかりである。美術史学者ルチアーノ・ベッローシや中世史学者キアーラ・フルゴーニなど,各分野を代表する研究者たちも異を唱えて教授職を辞している。
 しかし実のところ,少なくとも人文学に関しては,イタリアの大学の学生,そして研究の実態は従来とさほど変わらず,将来を悲観する必要はないのではないかと私には思われる。だいたい従来も,哲学や歴史など人文系の学科を卒業し,さらに博士課程にまで進むのは比較的裕福な知識人階級出身者がほとんどだった。難しい学科試験をこなし,優れた卒論を書いて博士課程に進むには,学校教育だけではおぼつかない,各家庭で培われた教養,特に古典の教養が必要なのである。そして何よりも,この古典の教養が,いまだイタリアの社会では実体として存在しているからである。肯定するにせよ,否定するにせよ,叩き台としてよって立つことのできる確固とした価値観があるのである。
 言うまでもなく,はるか昔から西洋の人々にとって教養といえば,まずは古代ギリシア,ローマの古典であった。どの時代においても,変形され,再生され,あるいは否定されながらも,ともかくも古典は規範として,すなわちまさに古典(クラシック)として存続し続けてきたし,そして,今後もまたそうであろうと思われる。また,そこには,ごくおおざっぱに言うと,西洋の古典古代が調和,比例,明晰さ,理性といった性格をそなえていることも関係しているかもしれないと私には感じられる。そこではすべての価値観が明晰かつ確固としているかのようなのであり,そうした明確さに裏付けられているからこそ,西洋古典は強靱なのではないかと思われるのである。
 話は逸れるが,イタリア人は何かを批判するときにsquilibratoという形容詞をよく用いる。「調和,バランスがとれていない」といった意味であるが,この語を用いるには,調和,あるいはバランスがとれていることは良いこと,正しいことであり,さらに,何をもって調和,バランスがとれているかという認識が普遍的であるという確信が必要となる。実際には調和やバランスの具体的な内容は各自異なるにしても,しかし,確固とした価値観がこの世に存在するという確信が前提となるのである。そうした前提が成立しうることと,彼等の社会が西洋古典という規範を内包していることとは無関係ではないと考えるのは飛躍しすぎだろうか。ともあれ,私はこの言葉を耳にするたびに,そのような確信をもつことができる人たちが眩しいような羨ましいような気持ちになる。と同時に,違和感もある。私は決してそこに本当に入っていくことはないという寂しさを感じたり,自分がその透徹した明晰さとは違うあいまいな世界に属していることにどこかほっとしていたりする。






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50th Anniversary of Renaissance Society of America

金 一



 Renaissance Society of Americaの大会が今年はニューヨークで41日から三日間にわたって開かれた。この大会で受けた印象を私の雑感として少々書かせていただく。今年が創設50周年ということとニューヨークという場所がらか,例年を上回る大きな大会となった。私もあるセッションで自分のペーパーを読んだのだが,印象としては,とにかく巨大な学会であること。一時間半ごとのセッションが平均24も同時進行し,それが,朝845分から夕方5時まで午前二つ午後二つの時間組の中で行われていた。つまり合計約300近いセッションが開かれたことになる。発表者たちはほぼ博士論文を終わりかけの大学院生から著名な大御所教授まで様々で,アメリカ全土のみならずヨーロッパからも多くの研究者達が発表に訪れる。この学会がユニークなのは,地中海学会のようにInterdisciplinaryな団体であることと,近年は,学会の内容がほぼヨーロッパ全土を中世末期から17世紀までカヴァーしているということであろう。従って,ある絞られたひとつのテーマの下に異なる時代や地域の専門家達がいっしょに発表したり,分野を超えて同時代のある問題を扱ったりという,地中海学会の皆様好みのセッションが,純粋な哲学,神学,歴史,音楽史,美術史,医学薬学史などのセッションに混じって,多々見られるという現象になる。私例をあげて恐縮であるが,たとえば私の場合は専門の15世紀のイタリア建築についての発表を同時代の哲学のセッションで発表することによって,建築史の専門家のみならず哲学者神学者達からの建設的な助言を得ることが出来た。
 日本でいえば教科書サイズの学会のカタログは360ページに及び,発表一つ一つのabstractが載せられているので,どのセッションでどの人のペーパーを聞くかを決めるのに大いに役立つ。総勢約1,500人の学者が参加し,その内900人以上は自ら発表するというこの特殊な学会では,とにかく興味をそそるセッションがいくつも同時に重なっていて,あきらめざるを得ない講演が続出してしまうという大きな欠点も持っている。なぜこのような巨大な大会が開催可能かというと,この学会は多くのより小さな専門化した学会や研究機関,例えばErasmus of Rotterdam SocietyInstituto CervantesFederation Internationale des Societes et Instituts pour Etude de la Renaissance,そしてHarvard UniversityI Tattiなどに場所と時間枠を提供しているからである。したがって,あらかじめそれぞれの小さな学会内で選別されたペーパーがRenaissance Society of Americaの大会で発表されることになる。(このカタログ全ページが大会のひと月前頃から学会のホームページwww.rsa.orgにて公開)
 一日の終わりには特別講演がこれもまた二つ三つ同時に開かれ,そしてそれに続いて毎晩どこかでレセプションがあったり,プロの俳優達によるJohn MiltonSamson Agonistesの朗読会といった賑やかなエンターテイメントも用意されていた。
 今年は学会創立50周年ということで,全てのプログラムの後に行われたいわゆる総会では,アメリカにおけるルネッサンス研究盛り上がりの初期にどのような人々が貢献したのかを検証する講演があった。それを聞いて改めて,1930年代にナチズムを逃れて漂泊してきたユダヤ系ドイツ人達がいかにアメリカの学問のレベルを高め,後に続く世代を育ててきたかを認識させられた。
 そのユダヤ系ドイツ人たちの中でも一際突出した歴史家,おびただしい一次史料発掘やIter Italicumの出版で名高いPaul Oskar Kristellerの業績と,彼が収集した古文書の一部,そして彼と他の著名な学者たちとの間で交わされた手紙を紹介する,小さいが見ごたえのある展覧会が,本大会に併せてColumbia Universityで開かれている。15世紀半ばにFelice Felicianoの手によって書写されたPseudo CiceroRhetorica ad HerenniumFritz SaxlCecil Graysonなどからの専門的な質問状などに加えて,展示物の中で特に興味深かったものの一つは,Kristellerの元学生でルネッサンスの女性人文主義者やAlbertiの研究で名高いJoan Gadol Kellyからの1959111日付けの手紙である。彼女はその中で,それまで知られていなかったVespasiano da BisticciTrattato delle lodi e commendazioni delle donneのマニュスクリプト(Firenze, Biblioteca Riccardiana, MS 2293)を自分が見つけ出したが,それが果たして本当に発見であるのかを恩師Kristellerに尋ねている。簡潔に要点のみが記されている手紙ではあるが,その文脈から研究者としての冷静な情熱が滲み出ていて心を打たれる(彼女は後にそのマニュスクリプトを出版しているがそこにKristellerが解説を寄せている)。Kristellerやその同僚によって日の目を浴びた実際の古文書や,彼らどうしの書簡による情報交換の様子を垣間見ることによって,今日のルネッサンス研究がこうした先人達による一次史料出版の苦労の上に成立していることを改めて想起させられる展示であった。








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「ジョルジョーネ,芸術の驚異」展

本間 紀子



 ヴェネツィアのアカデミア美術館で,「ジョルジョーネ,芸術の驚異」展が2003111日から2004222日にかけて開催された。アカデミアといえば,《ラ・テンペスタ(嵐)》と《ラ・ヴェッキア(老女)》,そして《裸婦》(ドイツ人商館の壁画の一部で,近年カ・ドーロで展示されていた)を所蔵しているが,さらに国内外から優れた作品が集められた。画家の郷里カステルフランコからはドゥオーモの《カステルフランコ祭壇画》が,ウィーン美術史博物館からは《ラウラ》と《三人の哲学者》が,ロッテルダムのボイマンス=ファン・ビューニンゲン美術館からは期間限定ではあったが素描《風景の中の人物》が,ヴェネツィアのスクオーラ・グランデ・ディ・サン・ロッコからは《十字架を運ぶキリスト》が,そして,イギリスの個人コレクションから《プットー(童子)》(ドイツ人商館の壁画断片)が貸し出された。1996年のアンダーソンのカタログ・レゾネ(Jaynie Anderson, Giorgione, Paris/New York, 1996)によれば,ジョルジョーネの真作と判断されているのは,ボイマンス美術館の素描を加えても僅か26点である。展示作品中8点がそこに含まれているのであり,まさに驚異的な企画展であったと言えよう。
 私がヴェネツィアを訪れたのは,会期も終わりに近づいた2月上旬であった。ヴェネツィア派の研究者である高橋朋子氏によると,《カステルフランコ祭壇画》は,カステルフランコまで足を運んでも,柵の向こうにあってよく見えなかったそうだ。アカデミアの企画展は,間近で鑑賞することができる絶好の機会なのだという。また,ウィーンの《ラウラ》が《ラ・ヴェッキア》の隣に並んで展示されているということも,大変魅力的に感じられ,ぜひこの目で見てみたいと思った。
 会場は,美術館の第23室,すなわち旧サンタ・マリア・デッラ・カリタ教会の建物内であった。教会の後陣部にあたる場所に,特注のガラス・ケースに入れられた《カステルフランコ祭壇画》がまるで主祭壇画のように置かれていた。特別なガラス・ケースは,どの角度から見ても光が反射することがなく,全くと言ってよいほど鑑賞の妨げにはならなかった。どの作品も魅力的であったが,特に私が惹きつけられたのは,この板絵であった。
 修復を終えたばかりの祭壇画は,冴えた色彩を取り戻していた。修復前の図版を見ると,かつては夕暮れを思わせるような黄色いトーンであったが,現在では透明感が増し,どちらかというと朝の光のような印象である。以前はテンペラと油彩の混合技法で描かれていると考えられていたこの作品は,修復の結果,テンペラ画である事が明らかになった。ジョルジョーネ作品といえば大半は油彩だと思い込んでいた私にとって,この事は驚きであった。改めて図録の部分拡大図を見てみると,確かにテンペラ独特の繊細な筆の跡を確認することができた。表現の上での新しさについつい目を奪われてしまうのだが,ジョルジョーネという画家は技法においてはむしろ15世紀の伝統的な手法を受け継いでいるのだということを認識させられた。
 ラファエッロを研究している人間としては,この作品とおそらく同じ頃に描かれた《アンシディの祭壇画》(ロンドン,ナショナル・ギャラリー)を比較したくなる。画面中央を垂直に区切るように置かれた背の高い玉座,その左右に二人の聖人がバランスよく配されているという点は共通しているものの,両者の雰囲気はかなり異なっている。ラファエッロは聖母子と聖人たちを円環構図でまとめており,それぞれ違う方向を向いていても精神的な統一感を感じさせている。一方ジョルジョーネは,聖母子を画面上方の極端に高い位置に座らせ,三角形構図の頂点にしている。聖人との距離も離れており,森田義之氏の言葉を借りるならば「聖母子と二人の聖者は空間的にも心理的にも孤立化」しているのである。
 この祭壇画の特徴の一つに,聖母子が高いところから下を見下ろしているという点があげられる(この事は,玉座の高さと三角形構図によって強調されている)。一点透視図法の消失点の位置も高く,聖母の膝の少し下にあるので,観者もまた高い位置から下の方を見ているように感じられる。この「見下ろす」という表現に何か意味はあるのだろうか。聖母子は礼拝堂内にある注文主トゥツィオ・コスタンツォの息子マッテオの墓を悲しげに見下ろしているのだという解釈もあったが,アンダーソンは,墓はもともと壁面の方にあったという理由から退けている。だが,今回の図録において,墓は祭壇画そのものの中に描きこまれているという説がセッティスによって提示された。彼は玉座の下の部分(注文主の家紋が描かれている色の違う部分)を棺と見なしている。「聖会話」には,注文主の意向でしばしば跪く寄進者像が描き込まれるが,それに代わって紋章付の棺が表されているというのである。棺という解釈に疑問は残るものの,聖母子の極端に高い配置や下に向けられた視線に特別な意味が付与されたという点は大変興味深い。







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表紙説明

旅路 地中海4:大正9年のアッシジ/末永 航



 このぼんやりした墨絵のような写真は「アツシジの町(伊太利)」と題されていて,大正91920)年,日本人の画家三宅克己が撮影し,著書『歐州寫眞の旅』(大正10年,アルス)に収めたものだ。
 三宅克己(みやけ こっき)は明治7年徳島に生まれたが子供の頃東京に移り,曽山幸彦,原田直次郎について絵を学んだ。もっぱら水彩画に力を入れ,明治30年から翌年までアメリカ,イギリス,フランスに留学,帰国後白馬会の会員となって作品を発表,明治末まで日本全国で広がった水彩画ブームの中心となった。その後も光風会を創立,帝展審査員を務めるなど活躍し,昭和26年芸術院恩賜賞を受賞,29年に亡くなった。
 『白樺』創刊の同人で美術史家になった児島喜久雄も学生時代三宅に絵の手ほどきを受けていたが,明治末から昭和にかけて,三宅といえば水彩画の先生としてよく名を知られた存在だった。文章もよく書き,水彩画の描き方,といった本も出している。
 しかし実は,あまり知られていないけれど三宅はアマチュア写真術の指導者でもあった。
 たびたびヨーロッパに出かけたが,明治43年の三回目の「洋行」のときには『歐州繪行脚』(明治44年,畫報社)という本をまとめ,水彩のスケッチをいくつも掲載した。だが10年後のその次の旅行では「ゴルツのヴエストポケツトテナツクス」と「cテツサー附きアーグスカメラ」を持っていき,旅先で現像しながら撮影して,翌年それに文章をつけて出版したのだった。アグファ社のフイルムというものを使ってみたらなかなかいい,などという記述があるので,たいていは「種板」といっている乾板をつかった写真だったようだ。またこの本では,べた焼きのような図版を載せた上で,それをどのようにトリミングして最終的な作品として焼き付けたかを紹介していて,実際の「趣味の」写真家たちの実用的お手本になるようにも工夫してある。
 そして冒頭で三宅はこんなことを書いている。「学者美術家」にとって「洋行」は「娘が嫁に行く」ほどの「一生一度の大仕事」だと思われている。昔は素人が写真を始めるといえば「大金が要つて」「身代でも潰す」かと思ったものだが,写真「隆盛の今日」,「そんな馬鹿氣た考えを持つ者は殆ど無い」。それと同じように,今や実際の「洋行とは,そんなに恐ろしいものでも無い」と。もちろん今とは違うが,ヨーロッパに旅する日本人がずっと多くなった時代を感じさせる。
 この写真のアッシジは,ちょっと辺鄙な田舎ではあるが,この頃から日本人がよく訪れた場所だった。ヨーロッパでの再評価を受けて明治後半,姉崎嘲風などからはじまった聖フランチェスコの紹介は日本の知識人たちに大きく広まり,西洋の良寛さんのような親しみをもってたいていの人が知っているくらいになっていた。イタリアに行ったら是非この聖人の町にも行きたいと思うのはごく普通のことだったようだ。












地中海学会事務局
160-0006
東京都新宿区舟町11
小川ビル201
電話
03-3350-1228
FAX
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