地中海学会月報 268
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2004| 3  



   -目次-

 
 
 
 
 
 
 
 
 











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 学会からのお知らせ
 
 *第28回地中海学会大会
  第28回地中海学会大会を6月26日・27日(土・日)の二日間,北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。詳細は別紙大会 案内をご参照下さい。
 6月26日(土)
 13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
 13:10〜14:10 記念講演
  「旅と宗教──パウロが歩いた古代地中海世界」 土屋  博氏
 14:30〜16:30 地中海トーキング
  「温泉・テルメ・ハンマーム,いやしの空間」
   パネリスト:小池寿子氏/佐々木巌氏/
   本村凌二氏/山田幸正氏/司会:宝利尚一氏
 17:00〜 移 動(バスで定山渓温泉懇親会場へ)
 18:30〜20:30 懇親会「定山渓万世閣ホテルミリオーネ」
 6月27日(日)
 8:30〜 移 動(バスで定山渓温泉から)
 10:00〜11:30 研究発表
  「ラウネッダスの「古代性」──地中海の音楽世界におけるリード楽器史の一考察」 金光真理子氏
  「中世後期トスカーナの宗教建築における濃強縞模様型ポリクロミアの様態」 吉田 香澄氏
  「フィデンツァ大聖堂ファサード彫刻と聖人祝祭」 児嶋 由枝氏
 11:30〜12:00 総 会
 12:00〜12:30 授賞式
  「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
 13:30〜16:30 シンポジウム
  「都市と自然のユートピア」
   パネリスト:石川清氏/越沢明氏/
   澤井繁男氏/堀越英嗣氏/司会:野口昌夫氏
  なお,懇親会および当日の定山渓温泉での宿泊(定山渓万世閣ホテルミリオーネ 札幌市南区定山渓温泉東3丁目)は,名鉄観光サービス札幌支店(011 -241-4986)へ,別途お申し込み下さい。宿泊費(懇親会費を含む)は18,000円,懇親会参加のみの場合は8,000円になります。申し込み締 め切りは5月25日です(大会参加の締め切り6月12日と異なりますのでご注意下さい)。懇親会,宿泊等の詳細は,名鉄観光サービスからの案内をご参照く ださい。
 











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 *春期連続講演会
  春期連続講演会を5月8日から6月5日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円, 定員は130名(先着順,事前に美術館で予約可)です。
 「地中海における文明の交流と衝突」
 5月8日 南欧都市にみるイスラーム文化の影響
 陣内 秀信氏
 5月15日 オスマン帝国とルネサンス
 樺山 紘一氏
 5月22日 イスラームの地中海進出とビザンツ帝国
 太田 敬子氏
 5月29日 アレクサンダー大王の場合
 青柳 正規氏
 6月5日 フリードリヒ二世と十字軍
 高山  博氏
 











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 *会費納入のお願い
  新年度会費の納入をお願いいたします。
  口座自動引落の手続きをされている方は,4月23日(金)に引き落とさせていただきますので,ご確認下さい。ご不明のある方,領収証を必要とされる方 は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。
  退会を希望される方は,至急,書面(ファックス,メールも可)にて事務局へお申し出下さい。4月20日(火)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさ せていただきます(但し,自動引落のデータ変更の締め切りは,4月10日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。
 会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円
 口座:「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313
 











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 秋期連続講演会「宮廷をめぐる芸術」講演要旨
 
 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの宮廷と建築
 
 石川 清

 
  ルネサンス期の傭兵隊長として著名なウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422〜1482)の人物像は,同時代の著作である書籍商 ヴェスパシアーノ・ダ・ビスティッチの『15世紀著名人伝』や教皇ピウス2世の『備忘録』などからよく知ることができる。その武勇だけでなく,為政者とし ての資質に優れ,あらゆる学問に精通していたとされ,宮廷文化を開花させたことでも名高い。特にこのウルビーノの宮廷の名声は,宮廷作法を説いたバルダッ サーレ・カスティリオーネの著作『宮廷人』によって世に広められたが,実際にそこに描かれたのは,悪名高きチェーザレ・ボルジアに占領された後に再び取り 戻した束の間の平和を享受していた,フェデリーコの息子グイドバルド(1472〜1508)の宮廷であった。それではフェデリーコが当初目指していた宮廷 のための建築,パラッツォ・ドゥカーレがどのような特徴をもっているのか見てみたい。
  現存するパラッツォは,三つの時期にそれぞれ3人の建築家の介入によって建設されたと考えられている。第1期はマーゾ・ディ・バルトロメオの介入時期 で,1449年(サン・ドメニコ聖堂のポルターレ制作年代)から1457年の夏まで,第2期はルチアーノ・ラウラーナの介入時期で,1467年遅くから 1472年夏まで,第3期はフランチェスコ・ディ・ジョルジョの介入時期で,1476年7月から1499年までである。
  パラッツォ・ドゥカーレの建設時期にあたる15世紀後半は,パラッツォ(都市邸館)の中にアパルタメント(個人居住区画)が確立される時期にあたり, それに伴って書斎や礼拝室や浴室などの私室空間が発達する時期である。したがって,この時期は公的空間と私的空間が分離していく過渡期であり,そのような 状況がこのパラッツォ・ドゥカーレにも見出すことができる。
  アパルタメントとは,公共性の高い接客空間から前室,寝室に至り,書斎,礼拝室,浴室などプライべートな小さな個室空間へと連接された個人居住区画の セットを総称した言葉である。細長いリナシメント広場に面して第1期に建設され,フェデリーコが最初に移り住んだ俗称「イオレーのアパルタメント」では, 広間,謁見の間,前室,寝室という等しい間口幅のフェデリーコのための部屋群が直線的に連結され,その背後に裏階段と公妃バッティスタ・スフォルツァの私 室が続いている。それに対して,第2期以降に建設された新しいアパルタメントでは宮廷の祝宴の場を想定した大広間とフェデリーコの私室空間とが適正な規模 と配置によってきちんと秩序立てられている。そこには,単純な直線的配列になりがちな平面計画を巧みにまとめ上げた建築家の技量を読み取ることができる。
  訪問者は,パラッツォのL字型ファサードと大聖堂に囲まれたドゥーカ広場から入口をくぐり,ルネサンス期の最も美しい中庭の一つである「栄誉の中庭」 の見事さを愉しみ,中庭のさらに奥にある「パスクイーノの中庭」の中央に位置するモンテフェルトロ家の霊廟(この円形神殿は完成されなかった)を詣で,元 に戻り「栄誉の中庭」の手前隅にある大階段を昇り,「玉座の間」へとたどり着く。フェデリーコのアパルタメントはそこからさらに「天使の間」,「謁見の 間」,フェデリーコの寝室,衣装部屋,書斎へと続く。それらの個室空間はトッリチーニと呼ばれるツイン・タワーとその中央にロッジアをもつ西ファサード近 くの狭い空間に巧みに納められている。フェデリーコのアパルタメントはそこにとどまらず,トッリチーニ両脇に位置する円形の塔の内部にあるプライベートな 螺旋階段を下って,1階にある俗にツイン・テンピエッティと呼ばれる「贖罪の礼拝室」と「ムーサの神殿」,さらに下って地階の浴室にまで至る。1階入口脇 にあるその蔵書数を誇った図書室はフェデリーコのアパルタメントの最奥部にあると解釈することもできる。
  また,「玉座の間」から直角方向に「夜会の間」が連結し,この両祝宴空間が広場に面するパラッツォのL字型ファサードを形成している。この「夜会の 間」が夜毎宮廷人が参集した,カスティリオーネの『宮廷人』の舞台になった場所である。そして,その奥に公妃のアパルタメントが続く。フェデリーコ公と公 妃のアパルタメントは「空中庭園」を隔てて向かい合い,庭園を囲い込む壁の上には公と公妃専用の渡り廊下が設けられていた。しかし残念ながら,それらの建 設年代からみて,仲睦まじい夫婦が新しく完成したアパルタメントでの生活を十分に享受することはなかったはずである。
  現在では美術館として機能するパラッツォ・ドゥカーレを訪れ,宮廷が営まれた大広間や,フェデリーコ個人の精神的な必要性から生まれた,精緻な装飾が 施された私室群を巡るだけでもフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの公私双方の想いを垣間見ることができる。
 











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 ローマ時代の公共浴場の向き
 
 渡邊 道治

 
  古代ローマ市の地図を眺めると,城壁に囲まれた市域の中でキルクス・マクシムスや皇帝のフォルムなどとともに,大きな面積を占めるカラカラ浴場などの 公共浴場が目にとまる。これらの公衆浴場をローマという都市の中で眺めていると不思議なことにすべて同じ向き,すなわちいずれも真南かあるいは南西方向に カルダリウムの位置が置かれていることに気づく。たとえばカラカラ浴場,トラヤヌス浴場,ディオクレティアヌス浴場は申し合わせたように南西の方角にカル ダリウムが置かれている。一方,アグリッパの浴場,ネロの浴場,コンスタンティヌス浴場,ティトゥスの浴場はほぼ真南向きにカルダリウムが配されている。
  浴場の配置について,紀元前後の建築家ウィトルウィウスは彼の建築書の中で(V, 10, 1),「まず,できるだけ熱い場所,すなわち北風または北東風に背を向けたところが選ばれるべきである。カルダーリウムそのものとテピダーリウムそのもの は冬季西から光りを採る。しかし,場所の状況がそれを妨げるならば,とにかく南から採る。なぜなら,入浴の時間は大てい正午から夕方までに定められてい る。……」と述べている(森田慶一訳『ウィトルーウィウス建築書』東海大学出版会,1992年,p.137より)。ローマ市の公共浴場の方位は正しくウィ トルウィウスの記述通りなのである。
  浴場建築はオリンピアに見られるようにすでに紀元前5世紀頃からギリシア世界で造られはじめており,イタリア半島でも紀元前2世紀には公共浴場として 出現している。公共浴場の建築はその平面計画,建築空間の壮大さや空間の連結といった点でローマ建築を代表する建築タイプとなり,古代末期まで営々と建設 され続けた。現在では地中海世界に数百の公共浴場が確認されているが,その中でカルダリウムの方位がある程度判明している約240ほどの浴場でその方位を 見ることにしたい。
  まず西向きが最も多く全体の約40%を占め,次いで南向きが約32%,そして約15%が南西向きであった。南東,東,北西,北向きはそれぞれ3%ほど ずつであり,北東向きは1%にも満たない。この結果を見ると,ウィトルウィウスの記述が現存する遺構とあまりに一致することに驚きを感じるし,これほど現 存遺構とウィトルウィウスの記述が一致する場合もきわめて珍しいといわざるを得ない。別の見方をすれば,ウィトルウィウスの述べる採光という理由が正しい とするならば,浴場建築はわれわれが想像する以上に採光を重視した建築タイプであった。
  公共浴場がこれほど方位にこだわる建築タイプであったとすれば,きわめて例外的であり直接光による採光を採りにくい北西,北,北東,東向きにカルダリ ウムが配置されている浴場には何らかの建築的な特徴があるかというとそういうわけでもない。そうした方位をもつ浴場はわずか22例ほど見られるが,その約 6割がギリシア以東の東地中海世界に,約3割が北アフリカに集中しており,イタリア以西のヨーロッパにはほとんど建設されていないという状況がむしろ見え てくる。
  これほど多くの公共浴場のカルダリウムが西向きあるいは南向きに配置されているのは,ウィトルウィウスが述べるように,正午から午後にかけて利用され る浴室への採光のため,そしてまた窓から直接差し込む光による建築空間を造り出すことに重要な価値があったためであろうか。上部構造の残る浴場の例はそれ ほど多くないため,カルダリウムにおける窓の配置や大きさを正確に知ることはできない。たしかにオスティアの「フォルム浴場」などではきわめて大きな窓用 の開口部が開いていたことは明らかであるが,すべての浴場がこうした大きな窓を持っていたとは限らない。むしろ,その意味を解く鍵は前述のウィトルウィウ スの建築書の中の「まず,できるだけ熱い場所……が選ばれるべきである」にあると見るべきであろう。
  カルダリウムは浴場の中でも最も室温を高く保たなければならない部屋であり,その部屋に焚き口が付くことが一般的である。そしてこの焚き口で得られた 熱気がカルダリウムからテピダリウムやその他の部屋へと最も効率的に流されていくことがきわめて重要であった。ある程度の室温を保つ必要のある部屋の床は 二重床となり,壁や床はかなりの厚さで,しかもコンクリートで造られていたために室温をあげるには相当の熱量,つまり相当量の薪を用意しなければならな かった。しかし,コンクリートの壁はいったん暖まると,壁体の熱容量はきわめて大きいためその熱をかなり長い時間保つことができるという利点がある。した がって,北側ではなく南あるいは西向きにカルダリウムを配置することは,直射日光によって壁そのものをある程度暖めることができ,しかも冷めにくい。そう であるからこそ,宗教建築のごとく特定の方位に強いこだわりを持っていたと理解できるし,また別の観点から見れば浴場の室温を高い温度に保つことはローマ 時代には大きな負担であったことをあらためて感じさせる。
 











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ディスクリプションのすすめ
 
 秋山 聰

 
  これまで専ら小便小僧や蠅,あるいは聖遺物といった些か奇矯な対象を追いかけてきましたが,最近は「美術作品のディスクリプション(記述)」というや やまともな(?)テーマに関心が湧いてきています。というのも,教員養成系学部に身を置き,教師になる可能性の高い学生たちを相手に美術史を講じる中で, 比較的興味を持たれやすいのが作品記述(いわゆるディスクリプション)であるということがわかってきたからです。美術史を美術の歴史,つまりは美術史年表 のようなものだ,とする認識は,学生たちはもとより現職教員にも通有の常識と化している観があります。そこで美術史学が美術作品の多角的な研究を行なうも のだと知ってもらおうと,様式論や図像学から受容美学やイメージ人類学に至る様々な方法論を紹介する授業を立ててみました。専門家になる可能性のある学生 がほとんどいない授業ですから,たとえ講義中に専門的内容を話すことが可能ではあっても,テストやレポートでは自ずと試験内容をかなり一般的なものにする 他はありません。結局行き着いたのは,作品記述を重視したスライド・テストでした。これは五点ほどの美術作品をスライドで十分程度の間隔で見せ,それぞれ についてa.作品記述,b.作品解釈を区別して記述させるものです。つまりa.では知識の有無は関係なく,目に見えるものを言葉により可能な限り網羅的 に,b.では授業で学んだことを反映させて意味内容や印象・感想を述べてもらっています。こうすると授業に熱心に取り組んだ学生と単位だけを必要とする学 生とを容易に弁別できますし,後者は基本的な日本語能力を駆使して奮闘すれば,なんとか合格点に到達することも不可能ではないわけです。このテストの着想 の一端は,パノフスキーの高名な論文「イコノグラフィーとイコノロジー」に負っています。彼は美術作品の意味の位相を三つに分け,それぞれの解釈方法を 1.「イコノグラフィー以前の記述」,2.「イコノグラフィー的分析」,3.「イコノロジー的解釈」と呼んでいます。スライド・テストではおおざっぱに 言って,a.が1.に,b.が2.(および3.)にあたります。パノフスキーも言っているように「イコノグラフィー以前の記述」は人間の実際的経験があれ ば原則可能なものですので,そう難しいこともないだろう,と学生諸君も考えるようです。
  しかし当初楽観視した彼らを当惑が待ち受けています。客観的な記述と主観的な印象・感想とを分離するのは容易なことではないようですし,日頃自覚して いない己のボキャブラリーの貧困さに直面したりもしています。言葉を紡ぎ出すのに悪戦苦闘し,「生まれてこの方こんなに苦しい思いをしたのは初めてだ」と いう感想もありました。作品を記述するという行為は多かれ少なかれ作品を見た折に脳裏で行なっている,と思われがちですが,実際に文章に書きつけようとし てみると,そう容易ではないことに気が付きます。そして実際に作品記述を行なうつもりで見ると,それまで見えてなかったものが見えてくることがあるのだ, と身をもって知るようです。全員の作品記述を取りまとめ,要点を列記して配布すると,同じ作品の記述であっても,人によって相当に異なること,時としてそ の人の背景が色濃く反映しうることなどにも驚きます。私自身デューラーの銅版画《騎士と死と悪魔》についての学生による作品記述を読んでいて,馬と馬具に ついての極めて精細な記述と説得力ある解釈に遭遇し驚いたことがありますが,筆者の女子学生は熱烈な競馬ファンだったようです。古代の大画家アペレスが, 完成した絵画を戸外に立てかけ,一般の人々の意見を聞くべく,絵の裏に身を潜ませていたという逸話がありますが,今ではその真意がよくわかるような気がし ます。作品を見るとき,ともすると知識が目を曇らせることがあります。学生諸君の新鮮な視線による作品記述は,しばしば専門家のまなざしが先入観に囚われ がちであることを気付かせ,反省する契機を与えてくれるのです。
  最近では現職教員のリカレント教育の場においても作品記述を取り上げてみているのですが,ここでもかなり積極的な反応がみられます。情操教育という観 点から印象・感動に重点が置かれがちな鑑賞教育において,鑑賞者が個々の感想を述べ合う前に前提としての共有できる土台形成のために,作品記述は多少の役 割が果たせるのではないかと思われます。また欧米と比べて我が国では美術鑑賞においてのみならず,日常的に記述を行なう度合が低い気がしますが,「記述の 異文化間比較」を行なってみると,その相違がどこから来るのかが浮かび上がってくるかもしれません。と,まあこのように,最近作品記述について語り出すと とめどが無くなりがちなのですが,いずれ非力を顧みずに「作品記述の文化史」などにでも取り組んでみようかなあと夢想している此の頃です。
 











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イタリア・ドナーティの自死と名誉の規範
 ──名誉と近代の相関と相克──
 
 菊川 麻里

 
  1886年6月1日,イタリア中部ピストイア地方のポルチャーノ村で,小学校教師のイタリア・ドナーティが首吊り自殺した。兄宛ての遺書には次のよう に記されていた。「私の遺体を引き取って医学検査を行わせ,秘密を明らかにして下さい。私の純潔が証明され,だれの頭にも微塵の疑いも残らないよう,必ず 私が言ったことを実行してください。そのために私は死ぬのですから。」彼女は〈不名誉〉(disonore)な女,すなわち,身持ちの悪い女という汚名に 苦しみ,純潔を証明するために自死の道を選んだのである。遺言どおり遺体は検査され,彼女が処女であったことが明らかにされた。ことの始まりは1883 年,同じピストイア地方ランポレッキオ村出身のドナーティがポルチャーノ村の小学校教師に任命され,単身で赴任してきた時にさかのぼる。女たらしとして有 名な村長は,彼女に自分の家の隣に住むことを強要した。まもなく,ドナーティはふしだらな女であるという噂が流れ始めた。それは,実は村長自身が吹聴した ものだった。騒ぎを受けて開かれた村議会ではそれが事実無根であると認められ,ドナーティも別の集落に引っ越したが,噂が消えることは無かった。そして赴 任から3年の後,この悲劇が起こったのだった。
  事件は大きな反響を呼んだ。日刊紙『コリエーレ・デッラ・セーラ』が紙面を割いて大々的に取り上げたためである。ドナーティへの同情と村長への憤激は あおられ,遺体が故郷のランポレッキオ村に運ばれるとき,約20キロの道のりはそれを一目見ようという人々で埋め尽くされた。その数は2万人にのぼった。 事件が世間の耳目を引いたのは,必ずしもそれが例外的な出来事であったからではない。1880年代,工業化の進展によって外に働きに出る女性の存在が目立 つようになり,その行動に対して注意深く猜疑心に満ちた関心が払われるようになっていた。とりわけ女性の小学校教師は,そうした関心の標的となっていた。 なぜなら,女性の教師はその賃金の低さゆえ財政の逼迫した農村の学校に配置される確率が高く,出身地を離れて一人暮らしを余儀なくされることが多かったか らである。
  繊維工場に働きに行く若い女性や農村にひとりで赴任する女性の小学校教師は,19世紀後半,とくにイタリア統一以降に現れた新しい女性のあり方の典型 であった。けれども,それは決してばら色のものではなかったのである。イタリアの研究史は,近代化の進展がむしろ仕事の場における女性の立場を不利にした とみなしている。この自死事件も,女性教師の置かれた悲惨な状況を示す例としてしばしば引用されてきた。しかしながら,この事件にはもうひとつ重要な要素 が関わっている。それは,ドナーティが苦しめられた〈名誉〉(onore)という名の性規範の存在である。
  この事件で語られている〈名誉〉とは,女性の身の潔白,処女性であり,それを疑われないことである。当時,イタリアの多くの地域で女性の性が守られる ことを〈名誉〉とし近親者がその責務を負う規範が生きていた。〈名誉〉が損なわれた場合,しばしば男性近親者の報復によってその回復が試みられた。 1889年に成立した統一後初の刑法典は〈名誉〉のために行なわれた犯罪に対して刑の軽減措置を講じたが,それは1981年まで約1世紀にわたって存続し た。一見,前近代的因習のように見えるこの価値観は,実は19世紀を通じて徐々に強化されたものではないかと推測される。〈名誉〉のための刑の軽減措置が 統一前各国の刑法に登場したのは,19世紀に入ってからのことである。〈名誉〉の規範が共同体の内部において作用するとき,それは人間関係を再調整する役 割を果たす。しかし,共同体はドナーティのように外からひとりでやって来る女性を想定していない。そのため,彼女のような女性にとってその規範は矛盾に満 ちたものとなる。ある公文書が記しているとおり,女性教師たちが誹謗中傷されるのは「〈家族という鎧〉を剥がれた存在」だからである。当時の新しい女性の 生き方を選んだイタリア・ドナーティは,家族の保護によってではなく自分自身の命と引き替えに〈名誉〉を守ろうとした。彼女は共同体的なその規範を自己の 尊厳の問題として受け止め,ひとりでそれに対峙しようとしたのである。遺体への送別に人々を馳せ参じさせたのは,あるいは,小学校教師ドナーティのその強 烈な自我への畏れだったのかもしれない。
 











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パラッツォ・ピッティ
 ──ヴェールを剥がされた王宮──
 
 和田 咲子

 
  「グロッタは凍って危険なため,見学できません」
  ボーボリ庭園まで来て,しかも今回の展覧会のハイライトなのに,と怒ることなく納得して帰途についたほど今年のフィレンツェの寒波は激しい。
  昨年12月からピッティ宮殿とボーボリ庭園を会場に開催されている,「パラッツォ・ピッティ──ヴェールを剥がされた王宮」展(会期は5月31日ま で)は,ピッティ宮殿がメディチ家からロレーナ家に至るまでトスカーナ大公国の王宮としていかに重要な働きを果たしたかを教えてくれる格好の機会である。 またこの展覧会を契機にボーボリ庭園の野外彫刻やメディチの彫像コレクションが修復され展示されたことも特筆される。会場となっているパラティーナ絵画館 を含めた宮殿内には,フィレンツェ中の美術館やローマのヴィッラ・メディチから集められたメディチ家の彫像コレクションが展示され,王宮の室内装飾といか に密接な関係をもつのかを鑑賞者に教えてくれるのも嬉しい配慮である。
  トスカーナ大公国の初代大公コジモ・デ・メディチ(1519〜1574)は,精力的に(彫像)蒐集をおこなった古代彫像のコレクターであり,また同時 代彫刻家のパトロンでもあると同時に,16世紀中期にピッティ宮殿と周囲の土地を購入して王宮へと増改築した人物である。さらに,父コジモの影響を受けた 長男フランチェスコ(1541〜1587)は,当時の行政官庁舎(それゆえ現在ウフィツィ(美術館)と呼ばれるようになる)の最上階東廊下に,彫像コレク ションを置くためのギャラリーを,ヴァチカンで枢機卿を務めていた次男フェルディナンド一世(1549〜1609)もまたローマに邸宅を設け,古代彫像の 蒐集に熱中した。これらのメディチ家のコレクションや宮殿の室内装飾についての最新の研究成果は,本展の企画者でもあるドイツの美術史家デットリーフ・ハ イカンプを中心に編纂され,ピッティ宮殿の重要な研究書となるであろうカタログに収められている。
  また,16世紀中期に造営が始めれ,メディチ家の栄華と権力を示す噴水彫刻や植物コレクションで構成されたボーボリ庭園も,ピッティ宮殿と切り離すこ とができない。本展では,宮殿と庭園の鳥瞰図をはじめ,時代の流行によって変化した庭園の見取り図,様々な意匠の版画,庭園彫刻なども展示されており,豪 奢な祝祭の舞台として頻繁に用いられた庭園の役割を確認することができる。
  最後に,長年の修復を終えて見学が可能となった,ベルナルド・ブオンタレンティ(1531〜1608)による《グロッタ・グランデ》を紹介したい。庭 園の「グロッタ」は,古代ローマに起源をもち,ルネサンスと共に復興し,16世紀の庭園には不可欠な要素となった意匠である。貝殻や小石そして大量のス プーニャを用いて,自然の洞窟を模倣したグロッタは,神による自然創造への芸術家の挑戦であり,宮廷芸術家ジョルジョ・ヴァザーリも「大層自然らしく,よ り一層本物らしく」つくることが肝要であると述べている。そして自然の鍾乳洞のようにスプーニャを天井から吊り下げ,内部に配した管から水を滴らせる技巧 まで凝らされた庭園のグロッタはまた,屋外で涼を得る実用的な役割も担っていた。
  このようなグロッタ意匠制作の,最も優れた芸術家といえるブオンタレンティが手掛けた《グロッタ・グランデ》の第一室は,スプーニャや多彩色の石で装 飾され,水で表面を濡らすことによって自然石の色がより鮮やかに浮き出る仕掛けが施されている。さらに天井に嵌め込んだガラス製の水鉢で魚を泳がせ,まさ に五感に訴える光と影の饗宴を楽しむ趣向も凝らされていた。続いて,ヴィンチェンツォ・デ・ロッシ(1525〜1587)作の大理石像が置かれた第二室を 通過すると,鳥と草花のフレスコ画で彩られた室内の中心にジャンボローニャ(1529〜1608)の《ヴィーナス》の噴水が設置され,ニッチに飾られたス プーニャの噴水とともに賑やかな水音をたてている(内覧会ではこれらの趣向を体験できたが(水鉢を除く),その後,内壁に黴が生じたため,現在は水の使用 が中断されている)。同時代にブオンタレンティが,大公フランチェスコ一世のために造営し,創意と技巧を凝らした多くのグロッタ意匠を設置したプラトリー ノ庭園は残念ながら荒廃し,当時の姿をまったく留めていないが,修復されたボーボリ庭園の《グロッタ・グランデ》は,その壮麗さの一端を垣間見ることがで きる重要な要素となるだろう。
  16世紀フィレンツェ美術を研究する筆者にとって,トスカーナ大公国の栄華を追体験できる本展覧会の空間に身を置くことは,優れた美術品蒐集家とし て,また芸術家たちの熱心なパトロンとしてメディチ家が果した往時の役割を,ウフィツィ美術館にも劣らぬピッティ宮殿の魅力と共に再認識させてくれる絶好 の場であると言える。












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 表紙説明

 旅路 地中海2:カスバ街道/山田幸正

 
  モロッコ南部の都市マラケシュから高アトラス山脈ティスカ峠を越えると,茶褐色の荒涼とした光景に一変する。そうしたなか,ナツメヤシのわずかな緑と ともに堂々たる土の建造物が点々と出現してくる。アトラス南山麓のウワルザザートから東方に,ダデスやトドラの渓谷を経てエルラシディアにいたる道は一般 に「カスバ街道」と呼ばれている。こうした土の住居や集落はよく「カスバ」と呼び習わされているが,地元ではほかに「ティグレムト」「ティルヘムト」「イ ルヘルム」「アガディール」「ケラー」「クサール」などと呼ばれている。
  高アトラス山脈の南麓にあるダデス,ゲリス,ジッズ,ドゥラーなどいくつかの渓谷に沿って点々と続くナツメヤシのオアシス社会には,「ベルベル (族)」と呼ばれる土着の人々が,西暦7世紀のイスラーム伝播とともに住み着いたアラブ系の人々とは異なる独特な社会・文化を継承しながら暮らしている。 侵略と移住,そして融合が繰り返された複雑な歴史を反映して,彼らの住居や集落は,極めて防備的で独特の形態をもっている。上述のさまざまな呼称をもつ土 の建造物がそれである。集落本体から少し離れた高みに位置し,非常時にはそのなかに住民が立て籠もる最後の拠り所となるものをアンティ・アトラス地方では 「アガディール」と呼ぶ。この基本的な機能を残しながら,より居住的な要素が強くなり,集落のなかで宗教的・精神的な意味で重要な家系・家族の住まいを含 み,集落のひとつのエンブレムとなるような中核的な建築は,地方ごとに「ティグレムト」「ティルヘムト」「イルヘルム」などと呼ばれている。もともと「カ スバ」は,外来の支配者が既存の都市を支配する目的で建造した「城砦宮殿」「城館」に対する呼称であり,モロッコ南部に現存する実例のほとんどが19世紀 の政治的混乱のなかで建設されている。こうした歴史的背景から,形態上「ティグレムト」などの延長上にありながら,周辺の部族を征服・支配する政治的な目 的から堂々たる印象をもつものを「カスバ」と呼ばれるようになったと考えられる。一方,「ケラー」や「クサール」は有力者の防備された館ではなく,集落全 体が防備されたものをさす。とくに「ケラー」は,丘の麓など地形に沿って不規則な形態をなし,象徴的な要素に乏しく,放牧用にある期間一時的に住むための 集落であることが多く,最も原型的な山岳集落をさすものである。このように多様な名称で呼ばれるものの,これらは建築形態的にはきわめて類似しており,ま た言語的にも複雑で,単純に類型化して定義することは難しい。ただ,現在最も一般的に用いられているのは「カスバ」と「クサール」で,前述したように,前 者は社会的支配者層の居館を中心としたもので,後者は城壁をめぐらした集落で,外観的には類似していても,その発生的な意味が異なることに留意する必要が あろう。
  表紙の写真は,ウワルザザートから南東に続くドゥラー渓谷のクサールである。この渓谷はモロッコで歴史的・文化的に重要な都市ザゴラに通じ,さらには 沙漠の黄金交易で有名なトゥンブクトゥーへと通じている。渓谷の両側に聳える山の斜面は色の異なる地層が重なり,渓流の両脇にナツメヤシの林が広がり,そ の足元には小麦や野菜の畑が営まれている。集落はそれを見下ろすように段丘の上にある。背景としての層状の山並み,ナツメヤシの緑の帯,そうした景観のな かに,クサールは違和感なく,自然の一部のように美しく存在している。
 












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