地中海学会月報 266
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2004| 1  



   -目次-
















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学会からのお知らせ


*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第9回「地中海学会ヘレンド賞」(第8回受賞者:堀井優氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。授賞式は第28回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
  本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。


募集要項

 自薦他薦を問わない。
 受付期間:1月13日(火)〜2月13日(金)
 応募用紙:学会規定の用紙を使用する。







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*第28回大会研究発表募集
 第28回地中海学会大会は626日〜27日(土〜日),北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は213日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。







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*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2004年度会費からの適用分です)。今年度手続きをされてない方,今年度(2003年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報264号(2003/11)に同封してお送り致しました。2月20日(金)までに事務局へお送り下さいますようお願いします。








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表紙説明 地中海の水辺25

ジブラルタル海峡/阿久井喜孝



 海峡にはロマンがある。隔離と連結。別離と哀しみと出会いの歓び。希望と絶望。交流と攻防。対立する概念やイメージが時代を超えて凝縮同居することで物語性が増幅するのだ。地中海世界にも無数にある海峡の中でもそのグローバルなスケールや神話の世界から現代迄連なる点でもジブラルタルの夢とロマンは群を抜いている。ヘラクレスの業績は古代ギリシア人の地中海制覇物語としても読めるが,彼が海峡の両岸に巨岩(ヘラクレスの柱)を据えたという伝説は周辺の部族を平定して地中海人が初めて大西洋に舟を漕ぎ出したことを示すものだろうか。陸続きだった両大陸を二つの岩山を掴んで引き裂いたとも語られるがこの方がいかにも怪力無双の英雄らしくて好ましい。(実際最後の氷河期には陸続きだった)彼が太陽神から与えられた金の盃に乗ってという話は恐らく金銀を積んだ船団を組んでとも読める。イベリア半島南部は古来青銅器の材料,銅や錫そして金や銀の産地であったからである。カディスはこの海峡の外側にあるが紀元前12世紀頃には既にフェニキア人の植民地であったという。ハンニバルが紀元前3世紀アルプスを越えてローマを脅かした頃カルタゴはイベリア半島の大半と沿岸一帯を支配していたからローマ人が東方に遠征した距離に較べれば意外に近いのだ。
 象の大群を乗せた船団が陽光を浴びてこの海峡を押し渡ってゆく光景は如何にも壮観だったろう。フン族の西進に端を発する民族大移動の波の中でゲルマン人の一部ヴァンダル族は西へ向かい56世紀にはこの海峡を渡って北アフリカに定着し末期の西ローマを襲う一大脅威となる。因みにアンダルシアの地名はヴァンダルに由来するという。下って711年ベルベル人タリクの率いるイスラム軍団が海峡を押し渡りこの岩山(ヘラクレスの柱・標高426m)にタリクの山(Djeber al Tarik)と命名したのが,ジブラルタルの地名の始まりである。以来約800年,イベリア半島の大半はグラナダ王国が滅亡する1492年までイスラム文化の一大中心地として繁栄を誇る。その間この海峡は古代中世の地中海文明の集大成を西欧に注入する巨大なパイプラインの役割を果たし続けた。10世紀頃になると大西洋岸沿いに南進した海の民バイキングの末裔達がジブラルタルを突破して地中海を荒らし廻り,11世紀にはシシリーや南イタリアを占領してノルマン王国を建設するに到る。レコンキスタを完成させたスペインは同じ年(1492)コロンブスの新世界発見と共に大航海時代の幕を開け世界の海を支配する大帝国になる。グラナダ王国の滅亡は1453年のコンスタンチノポリス陥落と並んで中世と近世を区切るいずれも海峡にまつわる象徴的大事件であった。1713年ジブラルタルを領有したイギリスは1805年のトラファルガル(海峡の西の入り口)でのネルソンの大勝以来スペインにとって代わる。近世以降のこの海峡をめぐる物語の展開もまた波乱に満ちているが誌面の都合があるのでいずれ別稿で改めて書くことにしよう。
 一衣帯水。ヘラクレスの柱の一方はセウタ(スペイン領)の岩山である。イベリア半島最南端のタリファ岬から対岸迄は僅か15kmの近さであり,晴れた日には対岸の山脈がよく見える。海峡をはさむ港町はアルヘシラスとタンジェル。いずれも歴史が古い。その間を毎日連絡船が往来し,まるでローカルな航路のように生活感と活気に溢れた短い船旅である。沖合には大西洋航路の大型船がゆっくりと往来している。文字通りの海の十字路である。
(写真は,ヘラクレスの柱。撮影筆者)








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古代エジプトの石切場

西本 真一



 石材は固く頑丈で永遠の耐久性を有するように思われるため,人間が建物を造り始めるようになった時,特に長く持ちこたえて欲しい建築に対しては石造で建立をおこなった。これが誤謬であったという点に,今の建築保存修復に携わる方々は苦しんでおられるはずである。この世のあらゆるものごとは常に変転し,移り変わっており,石材もまた例外ではない。ただその変化の度合がきわめて遅いだけであって,木材と同じく,これも少しずつ摩耗し,滅消し続け,腐っていくのである。その動きを完全に止めようという考えは自然の摂理に反し,ただ私たちは近代科学の成果を借りて,その朽ちていく速度を限りなく遅延させることしかできない。気の遠くなる時間をかけて形成された海底の堆積物の層序が,やがては地殻の変動により水面上に現れ出て浸食を被り,もとの姿へと返ってゆく。熱を受けて変質し,より硬度を増大させたものもあるが,結局は同じ轍を辿ることとなろう。人間はそれらの層序のうち,質の良さそうな部分を穿って内部空間とし,もしくは小規模に切り出して地表に積み上げ,建築としたのであるが,社会の生産諸力の高まりとともに,ここ百年ほどの間にさまざまな石造建築の傷みがかつてないほどに進んだという点は皮肉である。建築作品は自然世界に存在する素材をただ並び替えるに過ぎないのであるけれども,そこにはしかし,当時の社会的な思いが同時に刻まれるのであり,これの保存修復をおこなって後世に伝えようとする際には,コンクリートなどの人造石ではなく,建造当時と同等の材質を使用することが望ましいという考えの下に,例えば近年の石切場に関する研究の進展があるように思われる。
 石切場の研究を挙げるならば,まずはJ.B.ワード=パーキンズによる一連の論考に触れなければならないであろう。古代ギリシア・ローマ建築に関する研究の蓄積は膨大であり,Philip Kenrick ed., with a contribution by Barri Jones and Rojer Ling: Marble in Antiquity: Collected Papers of J. B. Ward-Perkins (The British School at Rome, London, 1992)は彼の考察を纏めたモノグラフであるが,従来の成果を充分に踏まえつつ書かれたその石切場の考察においては,加工道具の吟味に始まって,切り出しの過程,労働者組織の推定,社会組織における生産方法の解明など,今後どのような展開が遠望されるかという概略が明瞭に示されており,他地域における石切場の研究にとっても重要な文献である。おそらくは石材の扱いに関し,人間は地域・時代を問わず,同じような手段を用いたらしく思われ,東南アジアや中南米での石切場の様相も,大きく異なるところがない点に驚かされる。アンコール建築で用いられた砂岩材の供給場所である露天掘りの石切場の外観は,もしワード=パーキンズが現地を訪れたならば,古代ギリシア・ローマの伝統がここまで伝播したらしいという仮説を立てたかもしれないほど酷似した相貌を呈し,世界各地に散在する石切場の建築学的な分析は,これからの大きな課題であるように思われてならない。
 古代エジプトにおける石切場の調査もまた,最近ようやく高まりを見せつつあるところであるが,その中でもアスワーンにおける近年の発掘調査は注目されるべきである。ここは巨大な未完成のオベリスクが残存することで著名であるが,近辺を広域に探査した結果,他にいくつものオベリスクを切り出した痕跡がうかがわれることが明らかになった。それらの大きさを実測することにより,そこから切り出されたオベリスクを同定することができる可能性が指摘されており,また切り出しに関わった労働者による多くのインスクリプションが残され,今後の調査の進展が期待される。エジプトの長い王朝時代にわたって花崗岩が切り出され,その後もローマ帝国が珍重したこの石切場の研究は,ようやく端緒を開いたばかりである。
 ここ数年,石切場の魅力に取り憑かれて中部エジプトを中心に各所を訪れてみたが,古代においては国家的な事業としておこなわれたに違いない石切りという作業の全貌を,改めて眺望してみたいという思いに囚われている。切りかけの半ばで終わった岩盤の形姿は予想外に美しく,ここから切り出されて造られた建築とはまた別に,これもまた反転した建築のあらわれかと思うばかりである。石材を切り出して造られた建築と,切り出されて残った場所での建築の幻影との双方に,もし望み得るならば,この両足をかけながら建築の総体に近づきたいと願っているのであるが。








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秋期連続講演会「宮廷をめぐる芸術」講演要旨

ルネサンスの宮廷芸術家の光と闇
──
出世と「万能の人」──

小佐野 重利



 1464年頃に,フィラレーテが上梓した『建築論』の中に,「もし王侯君主の厚遇と庇護がなかったなら,過去にかくも多くの有能な芸術家が存在したことをどのように考えればよいのでしょうか?」という一節がある。近代以前の西洋美術の発展を考えるとき,世俗の宮廷とキリスト教会諸機関が芸術擁護(パトロネージ)の両輪の役を果たしたといっても過言でない。ここでは宮廷に限って話すが,その擁護の対象となった芸術家を大別すると,いわゆる市井の芸術家と宮廷芸術家に分けられる。それぞれのタイプには,擁護者(パトロン)との関係においてそれなりの長所と短所があったようだ。
 一般的に言うと,市井の芸術家の場合,注文による制作依頼でも断る自由がある反面,工房経営の煩わしさが付きまとい,それゆえ経済的に不安定であり,社会的地位も低かった。宮廷芸術家の場合は,相応の社会的地位の保証や経済的な保証がある反面,主君の突然の死による失職の危機や雑多な職務への有無を言わせぬ隷属などに直面しなければならなかった。一方,宮廷のパトロンにとっては,芸術家を雇い入れ,宮廷の一員にすることによって,宮廷の文化的洗練度を高め,君主にとり政治外交的にも有効であるばかりでなく,時間的に無理のある性急なさまざまの仕事にも芸術家を従わせることができる。
 宮廷芸術家としてのこの桎梏に対する芸術家の反応はさまざまである。対照的な反応の2例のみ挙げる。ミケランジェロはある書簡の中で,「私はパトロンの圧力のもとでは生きることはできない。独りにして描かせてほしい」という主旨のことを述べている。その言葉のとおり,彼は当時もっとも権勢を誇ったパトロンたちと何度も衝突しながらどうにか折り合いをつけて,自分なりの高潔な芸術家人生を全うする。これに対し,レオナルドがルドヴィーコ・スフォルツァ・イル・モーロに宛てた自薦状の草稿らしきものが筆写の形であるが,画家のアトランティコ手稿の中に確認されている。画家がミラノに居を構える以前,おそらく1482年にかかれた草稿であろう。自薦状は前言に続けて,レオナルド自身の特技を10項目にわたり列記する。第9項までは攻撃および防御に使われるさまざまの戦争器具や機械の考案能力,あるいは技術についての自慢。やっと最後の第10項で,「平和時には,建築や,公共および個人の建物の設計において,またある場所から別の場所に水を引くことにおいて,ほかの誰にも劣らぬほどの大満足を提供できましょう。同じく,大理石,ブロンズあるいは粘土の彫刻を制作できますし,絵画では相手がどなたであってもその方に劣らぬくらい巧みに,描ける限りのものを描くことができます」と,自分の芸術的才能を誇る。画家が宮廷に職を得るには,戦時における軍事技師,建築家としての才能が第一要件であって,画家としての才能は添え物に過ぎないといわんばかりである。確かに,レオナルドは古代ギリシアの画家プロトゲネスに比されるほどの遅筆であったから,宮廷に職を得たお蔭で,日々の糧を心配せず,持ち前の才能を発揮できたともいえる。
 この自薦の手順が適当であったことを裏付ける資料がある。最初フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公の小姓,のちオッタヴィアーノ・ウバルディーニ公の給仕となったカステルドゥランテのスゼチ・デ・ベネデクトが1482年以降に著した写本『ウルビーノ公フェデリーコ公爵様と公爵様に扶養された臣下一党に関するいとも幸福な思い出』(Ms. Urb.-Lat.1204, ff.97v-104r e ff.107r-111r)である。スゼチが詳細に記すウルビーノ宮廷の構成員リストには,宮廷に欠かせぬ職にある家臣たちのほか,建築家と技師,宮廷礼拝堂付歌手,ボーイソプラノ,写本彩色師,剣術教師,舞踏教師,ラッパ奏者などが挙げられているのに,宮廷画家の名前は見あたらない。当時は建築家,技師などにはあてがう日常の宮廷職務があったから,召抱えておく必要があったのに対し,画家には常時あてがう仕事がなかったから,よほどのことがなければ召抱えることはなかったのであろう。それゆえ,一旦召抱えられると,何がしかの職に就くものの,実際には何でも屋,「万能の人」でなくてはならなかった。功績によって騎士に叙せられ,封土・年金を下賜されれば,宮廷芸術家として出世したことになる。
 マンテーニャの生涯を詳しく振り返るとき,ルネサンスの宮廷芸術家の一般的なイメージが浮かび上がる。彼は,1459年から没する1506年まで,ロドヴィーコ2世に始まりフランチェスコ2世まで3代のマントヴァ侯爵に仕えた。宮廷画家として貴族に列せられ,封土を賜り理想的な家を建て子供たちまで宮廷人にするという堅実な人生を歩みながらも,時折なめた辛酸な経験が,寓意的な版画などマンテーニャの晩年作品に影を落としている。








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秋期連続講演会「宮廷をめぐる芸術」講演要旨

美術愛好家としての宮廷女性
──
ポンパドゥール侯爵夫人からマリ=アントワネットまで──

 鈴木 杜幾子



 タイトルは「ポンパドゥール侯爵夫人からマリ=アントワネットまで」となっているが,この講演ではつぎの4人の宮廷女性を取りあげたい。La marquise de Pompadour (1721-64):ポンパドゥール侯爵夫人(ルイ15世寵姫)/La comtesse du Barry (1743-93):デュ・バリ伯爵夫人(ルイ15世寵姫)/Marie-Antoinette (1755-93):マリ=アントワネット(ルイ16世王妃)/Joséphine de Beauharnais (1763-1814):ジョゼフィーヌ(ナポレオン1世皇妃)
 これらの女性は旧体制時代と第一帝政期に君主の妻あるいは愛人として大きな権力と財力をもち,文化全般の保護にかかわった。美術パトロネージはその大きな部分を占めていたが,それを実際に示す作品で現存するものはきわめて少ない。遺品の乏しさは建築,絵画,彫刻についても,家具什器,衣裳宝石などの場合と変わらない。
 ポンパドゥール侯爵夫人は商人の娘として生まれ,1745年にルイ15世の寵姫となった。政治的能力をそなえ,ディドロの『百科全書』の刊行継続に尽力したことでも知られている。造形的分野では建築に熱心で多くの館を建てさせたが,現存するものは現フランス大統領官邸エリゼ宮など数は少ない。画家としてはのちにルイ15世の宮廷画家となったブーシェを重用し,いわゆるロココ趣味の華麗な衣裳をまとった自身の肖像画や官能的な神話画を描かせた。後世にもっとも影響のあった夫人のパトロネージとしては,セーヴル磁器製作所に手厚い保護を与え,さまざまな技術革新と販売の援助をしたことが挙げられるであろう。
 ただし,夫人にせよこの講演で取りあげる他の女性にせよ,全員がフランスの「ファーストレディ」であったことを忘れてはならない。その意味で近年彼女たちをめぐる展覧会やテレビ番組などで,「女性の時代」という位置づけでこの時代を現代に結びつけようとする傾向があることは問題である。彼女たちはあくまでも君主の妻や愛人であり,当時大多数のフランス女性は文字すら読めない状態だったのである。一方,現代の日本で「女性の時代」が云々されるのは,女性が消費者として持ち上げられているだけであって,残念ながら実際の政治・経済の場から大多数の女性が閉めだされているという現実は厳然として存在する。その日本でかつてのフランスの宮廷女性を「文化的消費」の対象にするのは,フランス史に関しても日本の現状に関しても判断を誤らせることでしかない。このような認識を根底において話を続けたい。
 デュ・バリ伯爵夫人は下層階級に生まれたが,ポンパドゥール侯爵夫人の死後,1769年にルイ15世の寵姫となった。彼女の最大のパトロネージは,ルドゥにルーヴシエンヌの館の設計を依頼したことである。この建築は二つの意味で,のちに新古典主義と呼ばれることになる新しい潮流に貢献した。第一に館自体が未完成ながらも厳格な古典主義様式のものであったこと,第二に邸内を飾るためにフラゴナールに注文された連作絵画(「恋の成りゆき」連作)が,あまりにロココ風であるとして画家に返却され,代わりの作品(処女が結婚にいたる過程を描いた連作)が,ダヴィッドの師で「ギリシア風」を最初に採用した芸術家の一人ヴィアンに委嘱されたこととである。
 ルイ16世妃でフランス革命中に処刑されたマリ=アントワネットのパトロネージとしては,ポンパドゥール侯爵夫人のためにガブリエルがヴェルサイユの一隅に設計した宮殿プティ・トリアノン付近に英国式庭園を造園させ,ミクに「愛の神殿」などの小建築を建てさせたことが重要である。王妃が田舎娘に扮して戯れたという,アモーと呼ばれるノルマンディの村落を模した田舎家群も,「自然に帰れ」という新思潮を示して興味深い。また,母のオーストリア女帝マリア=テレジアが王妃に遺した日本製の漆の小品はよく保存されている。絵画の分野では,ヴィジェ=ルブランが王妃や側近の宮廷女性の肖像画を多数描いている。
 ナポレオン1世の皇妃ジョゼフィーヌのパトロネージとしてもっとも重要なのは,マルメゾンの館に世界の珍種も含む植物を植えさせたことであろう。特にバラの新種の開発は熱心に行なわれ,画家ルドゥーテはここで栽培された各種のバラを克明に描き,版画にしている。
 このほか,4人の女性は全員衣裳に莫大な金額を費やし,彼女たちは,装飾的なロココから下着のようだと言われたシュミーズ・ドレスへ,さらにスタイルとしては「ギリシア風」のシンプルさを残しつつも豪奢な素材と凝った技術を用いた帝政ドレスへという服飾革命のリーダーたちであった。








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ハンガリーと地中海諸学

秋山 学



 昨年の春休みおよびゴールデン・ウィーク,それに夏期休暇の三度にわたり,ハンガリーと周辺諸国を中心に調査旅行をする機会に恵まれた。主たる目的は,ハンガリーからスロヴァキア,ルーマニアを中心にひろがるギリシア・カトリック教会とビザンチン典礼の視察であったが,同時に地中海学関連の諸領域に関して,ハンガリーが学的蓄積の宝庫であることも実感できた。以下,各分野について述べてみたい。
 まず古代ローマ史に目を向けるなら,ハンガリーは古代ローマ時代,属州パンノニアを形成していた。ブダペシュトから北へ郊外電車で10分ほど行くと,アクィンクムという遺跡があり,考古学博物館のほか軍用と市民用各々の円形劇場跡が残っている。
 続いて西洋美術史関係では,何と言ってもブダペシュト国立西洋美術館に所蔵されたエステルハージ家関連のコレクションが際立っている。当館は六つのコレクションを持つ。1)エジプト・コレクション。約4,000点を所蔵し,地下および1階フロアーが展示コーナーである。新王国第18王朝期の《ハトホル女神像を持つ若い女性》像が有名。2)古典古代コレクションは《グリマニ・青銅水差し》(B.C.460450)に代表される約5,000点を所蔵する。なお以上の二コレクションに関しては,要を得たガイドブックが整えられている。所蔵品だけで古代学の通史が編めるというのは,うらやましい限りである。3)古典巨匠たちの作品陳列室。12世紀から18世紀までの約3,000点の絵画を所蔵する。常に約700点が2階部全フロアーを占め,a)イタリア・スペイン・フランス絵画コーナーとb)オランダ・フラマン・ドイツ・イギリス絵画コーナーにより構成されている。数の上ではイタリアのものが最も多く,オランダのものがこれに次ぐ。さらに数的にはドイツ,オーストリアのものがそれに続くが,最も名高いのは100点あまりのスペイン関係コレクションで,スペイン本国を除けば最大級のものである。主な所蔵品としてはa)ラファエロ《エステルハージの聖母》,クリヴェッリ(カルロ)《玉座の聖母子》,ティツィアーノ《トレヴィサーニの肖像》,ゴヤ《磨き屋》《水を運ぶ女性》,ベラスケス《食卓の農夫たち》,エル・グレコ《マリア・マグダレナ》《園のキリスト》《受胎告知》,b)クラナッハ《アレクサンドリアの聖カタリナの神秘的結婚》などが挙げられる。4)古典彫刻コレクション。レオナルド・ダヴィンチ《騎兵像》など500点ばかりを所蔵。5)印刷/デッサン・コレクション。14世紀から現代までの一万点のデッサンと十万点の印刷物を収める。レオナルド・ダヴィンチのスケッチ《戦士の頭》が有名。6)19/20世紀絵画・彫刻コレクション。ゴーガン《黒い豚》やクールベ《闘技者たち》など現代画家の著名作品を所蔵する。ロダン作《永遠の青春》の大理石バージョンなどもある。
 そしてキリスト教学関係。キリスト教史の上では,ハンガリーはパンノニアに根づいた「古キリスト教遺跡」(e.g. ペーチ)と,聖王イシュトヴァーンのキリスト教受容(1000/01)以降の「中世キリスト教遺跡」(e.g. パンノンハルマ)関連の二面において重要である。モンゴルやオスマン・トルコの襲来,あるいはハプスブルク家との戦争により,国土はたびたび荒廃したが,オーストリアとの国境の町ショプロンなどにも中世以来の史跡が残る。
 筆者が主たる調査目的としたギリシア・カトリック教会は,東北部の中心都市ニーレジハーザを事実上の司教座都市としている。ハンガリーはカトリック国として知られ,国民約1,000万人のうち6割強がローマ・カトリック教会に属する。だが中世以来コンスタンチノープル起源のビザンチン教会の教勢も及んでいて,聖王イシュトヴァーンの母方はこの系統であったことが知られている。近世ハプスブルク家の支配下に置かれた際,ヴァチカン聖座からの働きかけもあり,大ハンガリー帝国領内のビザンチン典礼教会は,16世紀から18世紀にかけて,ローマ教皇の首位権を認めるという条件で東方の典礼と教会法を護持することを認められた。これが「ギリシア・カトリック教会」誕生の由来である。彼らは現ハンガリー領内では約30万人,ウクライナを除く東欧では総計約180万人を数える一大勢力である。日本にはこの教会組織が存在しないために,われわれにはあまり馴染みがないが,当地ではこの教会信徒たちの淵源はよく認識されている。彼ら「ギリシア・カトリック教徒」のアイデンティティーは,聖王イシュトヴァーンによるキリスト教受容の時期が東西教会の分裂(1054)以前だということにある。すなわち彼らは,建国者が目指したキリスト教による国家統一という意向を体現する存在として自らを位置づけているのである。様々な面でローマを志向してきたハンガリーでは,今なおラテン語教育が盛んである。








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自著を語る34

『イスラーム建築の見かた──聖なる意匠の歴史』

東京堂出版 20037月 191頁 2,500

深見 奈緒子



 イスラーム教徒の住まう社会は,7世紀から今日まで,さまざまな地域へと広がりました。イスラーム教徒たちが造り,使う建築がイスラーム建築です。地域的そして歴史的に膨大な蓄積を持つイスラーム建築の歴史を学ぶうちに,風土や民族,そして歴史の相違による多様性を実感するとともに,何らかの共通性を見出すことができるのではないかと思うようになりました。
 本書は,多様なるイスラーム建築に共通するものを求めて,建築要素の歴史をたどってみたものです。時代や地域を切り口とした著作はすでにあるので,イスラーム建築が好で用いたミクロな建築の要素と傾向に注目して章立てを行ってみました。
 第三章「ドーム」,第四章「ミナレット」,第五章「ミフラーブ」,第六章「ムカルナス」,第七章「幾何学性」がその部分です。それぞれがどのように生じたのか,そしてイスラーム教徒が住まう広大な地域にどのような形態でいつ頃広まっていったのか,なぜ彼らはそれを好んだのか,その意味はなんだったのかという点を述べてみようと試みました。
 私が主に取り組んできた研究は,天井がどのように作られているのかということでした。建築探査旅行に行くたびに,天井を写してきます。それゆえ,ドームとムカルナス(鍾乳石飾り)はどうしても述べたい項目でした。ミナレットとミフラーブは各地のモスクに必ずといっていいほど取り付けられる装置なので,比較するのに好都合です。そして,私がイスラームの建築文化と親しんで最も惹かれたのは,特異な方向に発展した幾何学性でした。それは,日本の建築とはまったく異なるものでした。なるべく,多くの方にわかっていただくように書いたつもりではありますが,専門的な記述になってしまった部分も多く,反省しています。
 話は飛んでしまいますが,昨年の秋に,中央アジアを訪れました。ソ連から独立を遂げ,12年が経ました。それぞれの共和国では,歴史的英雄とイスラーム時代の建築遺産が民族のプロパガンダとなっています。都市の広場では,広場の呼称が改められるとともに,レーニン像が歴史的英雄の彫像へと替えられました。そして,紙幣には歴史的モニュメントが印刷され,いくつかの遺跡はあたかも作られたばかりのような形に修復されつつあります。遺跡修復ばかりでなく,新建築や新都市の建設にもかなり力を入れています。現代建築が共和国の象徴として続々と建設されている様は,歴史的モニュメントが建設当時に持っていたヴァイタリティーを垣間見るような気がしました。
 建築とは,建設されたときから現在まで,そしてその建築が生命を終える未来まで,社会と深いかかわりを持ち続けているのです。私個人の性格か,どうしても建築の細かいところや技術に興味が集中しておりましたが,この頃建築の背景や人々との関係を気にせねばならないことを感じております。
 第一章「教祖と建築」,第二章「イスラームの広がり」,第八章「イスラームの美」では,少し大風呂敷になるとは思いましたが,細部から離れて歴史と建築とのつながりから試論を述べてみました。
 預言者ムハンマドが関与した,マッカ(メッカ)のカーバ神殿,マディーナ(メディナ)のムハンマドの家を取り上げて,この二つの建築が,後世のイスラーム建築にもたらした理念について考えてみたのです。さらに,イスラーム教徒が共同体を作り礼拝の場たるモスクを造った社会をイスラーム世界としてとらえ,イスラーム建築を見る場合の歴史的,地理的区分を提案してみました。最後に,時代,地域,民族がイスラーム建築の歴史の中でどのような関係をもっていたのかを探ってみました。
 アフガンに続くイラクでの戦線,イスラームと聞けば,血なまぐさい話題に終始してしまいます。「聖戦(ジハード)」やテロリストという言葉でステレオタイプ視することは,われわれ日本人が腹切り,特攻隊という言葉だけで理解されることと同じではないでしょうか。イスラームという社会規範のもとで育まれた多様なる文化を理解し,彼らの思考法に思いを寄せることは,自分たち自身への覚醒へ,さらにはより大きな我々の未来の平和へと繋がるように思えます。イスラーム,しかも建築と遠ざけてしまわず,壮大な文化体系の一部を少しでも理解する一助となればと思っています。
 最後になってしまいましたが,この本には,谷水潤さんの写真を多用させていただきました。彼とは学生時代からの友達で,よくイスラーム建築のことを語り合いました。本を書きながらも,ときどき彼のことを思い出し,問いかけてみたりもしました。彼がイスラーム建築,特にオスマン朝のシナンの建築にこめた思い,それを凝縮させた数多くの写真は,今,私の手元にあります。天国にいる谷水君,ありがとうございました。













地中海学会事務局
160-0006
東京都新宿区舟町11
小川ビル201
電話
03-3350-1228
FAX
03-3350-1229


















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