地中海学会月報 263
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2003|10  



   -目次-





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 学会からのお知らせ

*第28回大会
 第28回地中海学会大会は2004626日,27日(土,日)の二日間,北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。詳細は決まり次第お知らせします。





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*常任委員会

・第4回常任委員会

日時:200345日(土)

会場:早稲田大学39号館5階第5会議室

報告事項
 第27回大会に関して/春期連続講演会に関して/研究会に関して 他

審議事項
 2002年度事業報告・決算に関して/2003年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員人事に関して 他

・第5回常任委員会

日時:2003621日(土)

会場:金沢美術工芸大学研究所棟2階講義室

報告事項
 役員人事に関して/研究会に関して/日本学術会議推薦人会議に関して 他

審議事項
 第27回大会役割分担に関して/第28回大会会場に関して 他





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表紙説明 地中海の水辺22

古代からの港町サイダ(シドン)/山田幸正


 ギリシア語でシドン,アラビア語でサイダと呼ばれるレバノン南部のこの都市は,古くはフェニキア時代から重要な港町として知られ,紀元前4世紀はじめよりギリシアの支配下に入り,次いでローマ帝国に属し,西暦636/37年にはイスラーム化した。12世紀初頭より十字軍の重要な拠点となったが,13世紀末マムルーク朝によって奪還され,その後オスマン朝の支配をうけ,近代をむかえた。このように時代を通じて常に各勢力の争奪の的となりながらも,地中海の東端中央部に位置する地理的好条件ゆえに,古代からその経済的・文化的な重要性を失うことなく命脈を保ってきた歴史的にみて極めて注目すべき都市である。
 十字軍時代のホスピス1291年に改修されたオマリー大モスクをはじめ多くのモスク,マロン派教会やシナゴーグ,港町として栄えていたことを如実に物語る巨大なハーン・フランジ,海と陸の二つの要砦,デッバナ邸など,旧市街地内には30棟近くの歴史的建造物が遺存している。また,歴史的環境として重要なのは,人々で賑わうスークやバーブ・サライ広場,また日常生活の場である路地裏であり,なにより漁港を中心とした海辺の景観である。
 19世紀末までのサイダは海辺に面する小都市に過ぎなかった。西側を海に面した面積約20haあまりの市街地は東側を北から南にかけて堅固な市壁によって防備されていた。都市的状況を大きく変えたのは,1949年のリアド・アルソルフ通りの開通であった。この幹線道路の完成によって,南部レバノンは突如,首都をはじめ沿岸の主要都市と直結され,サイダはこれまで経験したことのない巨大な経済的・政治的な外部圧力にさらされることになった。この道路を中心に,市壁外の東側地区には多くの商店や事務所,銀行,倉庫,カフェなどが立ち並び,その周囲に新たな居住地が急速に形成され,サイダはベイルート,トリポリに継ぐレバノン第三の都市となった。狭く複雑な街路網による旧市街は一度に廃れ,パレスチナからの移民など貧困層が多く住む地区となり,衛生面や建築環境の悪化も進んだ。一方,新市街では近代的な自動車用の街路が整備され,新たに移入してきた人々だけでなく,経済的に比較的余裕のある人々が旧市街から移り住むようになった。その後1956年,サイダから20kmほどを震源とする大地震が発生,2,250戸に被害が出たとされる。復旧に際して,当時シリアの都市計画局にいたフランス人都市計画家ミシェル・エコシャルが招聘され,サイダ全体の都市計画的な再構成が提案された。こうした混乱を機に,有産階級の人々の郊外への移転はますます加速され,旧市街における商業・手工業・漁業などに影響を及ぼしはじめていた。
 1975年以降,断続的に15年間続いた内戦によって,政府はじめ統治機構が無力化し,サイダの都市化は大混乱をきたした。高層の建物が旧市街に近接した部分や海岸線に面した部分などに無秩序に建設された。旧市街の景観に重大な被害が出たのは,82年のイスラエル軍の侵攻であった。オマリー大モスクはじめ多くの象徴的なモニュメントが攻撃の対象にされただけでなく,海岸線にたつ多くの建築が破壊された。
 激動の中東を象徴するかのように,歴史的港町サイダは,20世紀において新興市域との顕著な社会的格差のなかで旧市街の孤立化が進むという,猛烈な都市的変容を経験してきた。





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『地中海学会賞』を受賞して

中山 典夫




 謝辞
 ただいまは,『地中海学会賞』という名誉ある賞をいただき,ありがとうございました。

 わたくしのこのたびの仕事,ヴィンケルマン著『古代美術史』の翻訳が,「地中海」という海を知るひとたちの集まりであるこの学会で認めていただけたことは,格別の意味があると思われます。たしかに地球の表面は,その四分の三が海とのことです。ですが,地中海は特別です。
 ヴィンケルマンはこの著のなかで,「美術は汲み尽くせないものである。美しいものは,ひとめで見つかるものではない。大切なもの,難しいものは深くに沈み,おもてには浮かばないのである」と書いております。そしてつづけて,「感受性をもつ者にあっては,美しい彫像への最初の眼差しは,はるかな沖合への最初の眺望に似る。そこで彼の眼差しは目標をうしない,こわばる。しかしくりかえし見るうちに,こころは落ち着き,目はしずまり,視線は全体から個へと向かう」と述べます。
 ここで彼がいう海は,明るい太陽の下で,水平線の存在さえあやうくする,青く光る地中海の海です。その岸辺に立って,はるかな沖合を眺めた者の眼差しは,そこで目標をうしない,こわばる,というのです。しかし,やがてくりかえし見るうちに,こころは落ち着き,目はしずまり,輝く海の深くにかくれる大切なもの,難しいものが見えてくるというのです。
 このように,この著のなかでヴィンケルマンは,ギリシア美術から受けた感動を伝えようとするとき,ギリシア美術の形の繊細な動きを伝えようとするとき,そのたびに暗い北に生まれた彼は,やがて彼が崇めるまでにあこがれた海をたとえとして引き寄せるのです。
 ゆえに,あるいは海を知る者,地中海を知る者のみが,彼を真に理解し,彼をとおしてギリシア美術に近づくことができるのではないかと思われるのです。

 かさねて,褒賞ありがとうございました。 (平成15622日,金沢)

 余白が生じますので,『古代美術史』からの一節を「ギリシア美術への近づき方」と題して引用します。

 「美に関するこの考察の最後に私は,若い初学者や修学旅行者(訳註Grand-Tourist)にとって,ギリシア美術に近づく際の何事にも先んじ何事にも優る大切な教訓になるであろう一つの忠告を付け加えることとする。美しいものを認識しそれを探し出すことなしに,美術作品に欠点や不完全さを発見しようとしてはならない。この忠告は,日々の経験に基づく。人は,生徒になる前に成績を点けたがる。それゆえ彼らには,いつまでも美は認識されない。いわば彼らは,教師の弱点を見つけるに特別の才を発揮する学童のようなものである。私たちの虚栄心は,何も成すことなく対象の前を通り過ぎることを望まず,自惚れの心は,くすぐられることを好む。それゆえ私たちは,一つの判断を下そうとする。しかも否定の言葉は肯定の言葉より先に思い浮ぶのであり,不完全なものは完全なものより容易に目につくものである。まして他を非難することは,自らを高めるほどの努力を要しない。また人は,美しい彫像に近づくとき,その美しさを言い古された言葉で褒め称える。それには,何の労も要さない。だが彼の視線が,おぼつかなくためらいながらその彫像のまわりに彷徨い,その各部の素晴らしさやその理由も発見できないでいると,それはやがて,彫像の欠点らしき所に貼り付く。またある人たちは,古代人の作品に近づく際に,それらの長所についてのすべての先入観を予め排除せんとする慎重さが過ぎて,同じ誤りに陥る。人はむしろ,その偏見に凝り固まって,古代人の作品に近づくべきである。というのは,多くの美を発見するであろうと確信を抱いて美を探せば,その幾つかは確実に発見されるのであるから。発見するまで,何度も立ち返ること。それは在るのだから。」(訳書154ページより)





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春期連続講演会「地中海世界の宮廷と文化」講演要旨

フランス宮廷の女たち

福本 秀子




 フランスのイメージはずっと芸術・モード・香水といった女性に関するものであった。歴史をひもといて見てもメロヴィング朝のクロヴィス王をキリスト教に改宗させたクロチルド王妃から始まってカペ朝のルイ七世の王妃アリエノール・ダキテーヌ,宮廷の女ではないがシャルル七世を戴冠させたジャンヌ・ダルク,アンリ二世の王妃カトリーヌ・ド・メディシス,ブルボン家のアンリ三世の王妃マルゴ,ルイ十五世の寵姫ポンパドール夫人,ルイ十六世と共に断頭台に消えたマリー・アントワネット,そしてナポレオン皇帝の妃ジョセフィーヌ及び2度目の妻マリー・ルイーズとその華やかさの話題にこと欠かない。彼女たちの気まぐれ,権力欲,政治力で国家の舵は取られ歴史が作られてきたのである。その中から中世とルネサンス期の王妃を一人ずつとりあげてみよう。何故なら彼女らはヨーロッパの歴史を変えた女性なのであるから。
 先ずは12世紀を生き抜いたアリエノール・ダキテーヌについて。
 彼女ほど毀誉褒貶の激しい王妃は少ない。19世紀の歴史家たちは「女性が権力を持つ事は災いの元」と考えていたのだから彼女をエゴイスト,激情家,十字軍の敗戦責任者等々と非難した。しかし彼女の同時代の人々は「比類なき女性」と賛辞を送る。英仏両国の王妃となり三人の王の母となり,娘や孫たちをヨーロッパ諸国の支配者に嫁がせた,まさしく「欧州の母」である。フランス王の領地よりはるかに広く富んだアキテーヌ公領をもってフランス王ルイ六世の王太子,将来のルイ七世と結婚する。二人とも教養あふれる人物だが,教養の内容が違う。ルイのそれは修道士の教養で,神学の影響がしみ込んでいる。アリエノールの方は父アキテーヌ公の宮廷に出入りしていた吟遊詩人たちの歌で培われた教養である。当然二人の関係は上手くゆかず,その上第二回十字軍に共に参加したばかりにかの地でアリエノールが初恋の叔父に会ったのが引き金で,女児二人を残して離婚してしまう。その後の変わり身も早く,2ヶ月足らずで今度はイングランド王の後継者ヘンリ・プランタジネットと再婚し五男三女をもうけ,初婚のフランス王に失意を味わわせる。彼女の宮廷にはベルナール・ド・ヴァンタドゥールの様な吟遊詩人が華やかに活躍し,アリエノールは文化の庇護者であると同時に,イングランド全土に通用する共通貨幣をつくったり,一律の度量衡単位をたてたり,病院を建てたりと八面六臂の活躍をした王妃であった。
 これに反して,カトリーヌ・ド・メディシスは,毒を盛る女,権力欲のかたまりと悪評高いが,バルザックは「困難な時代にあったフランスを巧みに統治した外国人女性で偉大なる王妃,フランスの王権は彼女によって救われた」と言っている。お世辞にも美女とは云えないが,一族のクレメンテ七世教皇の後ろ盾でフランス王フランソア一世の第二王子アンリと結婚し,第一王子が亡くなったので,夫アンリがアンリ二世として即位したが,アンリには20歳年上の寵妾ディアンヌ・ド・ポワチエがいる。そのような境遇の中で彼女は策略と注意力と自制心を身に付けていった。
 夫の死後,三人の息子が若年で次々と王座に昇り,カトリーヌは摂政として死ぬまで実権を握り,王位を安泰に保つため有力なギュイーズ家とブルボン家を,また,新教徒と旧教徒を互いに争わせて,彼らの勢力の均衡を図ろうとした。彼女のすごいところは,娘のマルゴの結婚式日さえもフランス王家安泰のために利用している。教皇の反対を押し切って新教徒のブルボン家のアンリ(のちの四世)と結婚させ,その婚儀祝福にパリに集まる新教徒の貴族たちを殺害しようとしてサン・バルテルミーの虐殺を行なった──と言うのだが,この狙い打ちを証拠付けるものは何もない。結果は民衆が勝手に蜂起してセーヌ川を血で染めたのであった。
 新教徒殺戮の知らせにローマでは祝砲が鳴ったと言う。彼女の強烈な個性がヴァロア王朝を支え,その政治手腕は高く評価される一方,絵画・美術品の蒐集にも熱心であった。占星師の言葉「長生きをしたくば,サン・ジェルマンに近づくな」を地名とばかり思って避けていたのに,臨終の床にやってきた司祭の名が「ジュリアン・ド・サン・ジェルマン」と聞いて,30分後に息を引き取ったのであった。
 中世から近世にかけてのフランス宮廷の女たちの影響力,政治力は,かくも強く,ことに十字軍出征にあたっては,同行した王妃(例えばルイ九世の王妃マルグリット・ド・プロヴァンス)も,自領に残って国を守っていた夫人たち(例えばアデール・ド・ブロア)も発言権・統治権・決定権を大いに発揮していたのである。この様な女性たちの歴史の上に現代のフランス・ヨーロッパは成りたっているのである。





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研究会要旨

1617世紀ヴェネツィアにおける

祝祭,演劇ならびにその空間に関する研究

青木 香代子

67日/上智大学




 1581年,ヴェネツィアのサン・カッシアーノ地区周辺に二つの劇場が開場した。これらは1585年に柿落しが行われたテアトロ・オリンピコ(着工は1580)よりも早く,「最初の屋内劇場」として知られている。また,ヴェネツィアにはその後も相次いで劇場が建てられ,とりわけ1637年の最初の公衆オペラ劇場開場以後17世紀末までには,11を超える数の公衆劇場が建てられた。しかし,それらの建設当初の様態は,絵画,図面など図像史料の多くが紛失しており,また現存している二つの劇場は共に複数回の大きな改造を経ている為,いまだ明確になっていない。
 16世紀末の劇場誕生は,ルネサンス期に盛んに行われた劇場研究,実験の結果として位置付けられることが多い。しかし,その舞台となったヴェネツィアは,ローマやフェッラーラ等で早くから演劇,劇場の研究が熱心に行われていたことに比べると,遅れをとっているとも言える状況であった。従って,1581年の劇場の誕生とその後の発展・変容の実相を明らかにするためには,その背景となったヴェネツィアの社会環境,祝祭や演劇が行われていた空間の特質が重要な鍵になるものと考える。
 そもそもヴェネツィアには他都市に比べると幅広い表現の自由が存在しており,それは祝祭や演劇においても例外はなかった。また,1617世紀という時代は,宗教的なものだけでなく,世俗的な題材に根ざした様々な演劇や祝祭がスクオーラ,青年貴族がつくるサークルの一種であるコンパニーア・デッラ・カルツァなど多様な団体によって組織されていた。なかでもコンパニーア・デッラ・カルツァが祝祭に於いて果たした役割は大きい。宮廷が存在しないヴェネツィアでは,祝祭の多くがコンパニーア・デッラ・カルツァに委託され,屋内での演劇の催しや祝宴には会員個人のパラッツォのサラ・パッサンテとよばれる広間などが使用された。また16世紀末以降に劇場を所有し,その運営に携った者の多くがコンパニーア・デッラ・カルツァに参加していた青年貴族と同じ家系に属することからも,コンパニーア・デッラ・カルツァの活動が,後の16世紀末にみられる劇場の誕生と定着を牽引したひとつの要因であると考えられる。
 最初の劇場が建てられた16世紀末は,すでにコンパニーア・デッラ・カルツァの活動が衰退しており,また祝祭の中心が屋外で行われる競技から屋内でのダンスや演劇などへ移行しつつあった時期であった。当時の記述から判断すると,それら二つの劇場は古代劇場に似た円形,楕円形の階段状観客席をもつ劇場で,運河側と陸側の二方向に入り口が設けられていたと思われる。また,形態や上演内容に関する記述に比べると舞台背景,装置に関する記述が極めて少ないことから,おそらく固定された装置として特筆すべきものはなかったものと考えられる。
 17世紀にはいると,オペラが劇場の形態にも大きな変化を生み出すことになった。1637年に最初の公衆オペラ劇場として開場したテアトロ・サン・カッシアーノは,1581年に建てられた劇場とは異なり,他都市の宮廷で経験を積んだオペラ作家により,宮廷内にみられる劇場の形式を取り入れた設計で完成した。貴族はオペラ劇場の経営を新しい経済投機として受け入れ,こぞって建設に乗り出した。興行収入を得ることを目的としたヴェネツィアの劇場は,権力を誇示するため贅をつくし,華やかな装飾が施された宮廷内の劇場とは異なり,収容人数を増やすことが優先され,桟敷は重層化した。
 数が増えた劇場の間には競争関係が生じ,経営危機に直面する劇場も現れた。そこから脱する為,テアトロ・サン・モイゼが行った入場料の引き下げは,劇場を大衆化させ,上演作品を変化させる引き金となった。その後,次第に劇場内でオペラ鑑賞以外の行為が行われるようになったことは,当時の記述や絵画等からも知ることができる。更に,それは複数の劇場が舞台の見やすさや音響効果よりも社交の場としての魅力を重視したと思われる形態へ改造されていることからも示すことができる。
 このように,ヴェネツィアに誕生し,その社会の特質を背景に急速に定着した劇場は,オペラの流入によって最初の大きな変容をみせる。そして,17世紀中頃になると,ヴェネツィアの内部で生じた要求によって馬蹄型の平土間,重層桟敷席など18世紀にイタリア各地で建てられた劇場にも導入される建築要素を生み出すことになった。





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ナポリの「女性ジャーナリスト」たち

村松 真理子


 ナポリは,古代ローマ貴族から「グラン・トゥール」の北方ヨーロッパの富裕な青年たち,さらには現代の観光客まで,多くの旅人たちを息をのむ風景で魅了してきた。だが,その社会の内に抱える渾沌と矛盾の激しさで,多くの魂を驚愕させ苦悩させもした。たとえば,狭い路地がのびる歴史的中心街に旅人が入り込み,「ラッザロ」と呼ばれる最下層の人々の生活の悲惨がひろがる「バッソ(低層階の住居)」の現実に衝撃を受けることもしばしばあったはずだ。ただし,その頭上,バロックの壮麗な館の上層階には,洗練されたアリストクラシーが富と豪奢を誇る別世界が存在していた。二つの世界は,はっきり境界を保ちながら,一つの空間の中,垂直に分断されて共存していた。
 このまちが常に孕むそんな激しいコントラストのうちに,あえて身をおこうとした3人の女性たちを思い起こしてみたい。
 エレオノーラ・デ・フォンセーカ・ピーメンタル。ローマで1752年,スペインとポルトガルの血を引く貴族の家系に生まれ,少女時代,家族とともにナポリ王国に移り住む。ベネデット・クローチェがその書『1799年ナポリ革命』の第1章をその生涯に割いている。ブルボン家フェルディナンド王とオーストリア・ハプスブルグ出身の王妃マリア・カロリーナの宮廷で若くして女流詩人として認められ,権威あるアカデミーにも迎えられた知識人女性であったエレオノーラは,1799年,フランス革命のナポリ版,パルテノペ共和国に参加,『モニトーレ・ナポリターノ』紙を通じ,細民たちの啓蒙のために彼らと共有可能な「言葉」=「方言」を語る必要性と,平等の理想を説く。しかし,短命だった共和国の終焉において,復古した王室ばかりか,その「ラッザロ」たちまでが,彼女ら知識人の血と「首」を求め,処刑場のメルカート広場へ向かう彼女にも罵倒のことばを投げ付けた,という。こうして知識人の粋をことごとく失ったこのまちは,近代という高い波に立ち向かう舵を失う。20世紀,やはりローマで生まれナポリに深く関わるジャーナリスト,マリア・アントニエッタ・マッチョッキは,エレオノーラの評伝の中,1946年国民投票で,「ラッザロ」たちが激しく共和制を拒否,王制を支持した場に居合わせた自らの体験を,「1799年」に重ねる。現代作家ラッファエーレ・ラ・カプリアも,ナポリ革命200年記念の年,その悲劇的ヒロインを描く演劇に,200年前と同様,主催者や観客のみならず,女主人公をののしる20世紀末の「ラッザロ」たちの姿を書き留める。ナポリ革命は,未だ今日的な記憶なのだろうか。
 『ナポリの腹Il ventre di Napoli』。マティルデ・セラオの有名なルポルタージュだ。ナポリの腹,すなわち深層,錯綜とした古い路地の奥底。19世紀末の統一イタリアで,ナポリは王国の首都から,「ピエモンテ化」されつつある南イタリアの一地方都市へと転落をたどる。コレラ流行を機に,イタリア政府は,ナポリでも生活環境が特に劣悪な「貧民窟」の取り壊しを決定する。1885年のいわゆるRisanamento法だ。建物を壊し,道をひき直すことで,人々の生活の改善,「衛生」化ができるのか。1856年ギリシア生まれ,4歳からナポリに育ち,ダヌンツィオとも親交のあったセラオは,すでに小説を発表している女流作家で,夫スカルフォリオとともにローマで日刊紙を創刊したジョーナリストでもあった(1892年にはナポリで日刊紙『イル・マッティーノ』を創刊)。法施行前の底辺の人々の姿を描き出し,政治家たちに問いかける。時の首相デプレティスの「ナポリを取り壊す必要がある(sventrare=はらわたを出す,腹ventreを裂くから,転じて建物などを取り壊すという意味)」との言葉を受け,新聞紙上に連載した記事の冒頭で,彼女は言う。「何と有効なことば。デプレティス閣下,あなたは御存じではありません,ナポリの腹ventreを。それはあなたの過ちです。あなたこそが政府であり,政府とはすべてを知っていなければならないのですから。」文学的断片に描かれた美しい湾の風景ではなく,薄暗い商店や金貸しの店,くじを売る屋台が並び,悪臭がただよい,その界隈の住民以外の市民は足を踏み入れるのもためらわれる,貧民窟の実体をこそ政府は知るべきだ,と彼女は荒涼とした人々の暮しを描く。
 アンナ・マリア・オルテーゼ。1910年ローマ生まれ,少女時代からナポリで育つ。1953年『海はナポリをぬらさない』で,創作とルポルタージュ的手法の双方を織りまぜながら,1950年代初頭のナポリを描く。バッソに住む近眼の少女がついに眼鏡を手に入れる物語,巨大な共同住宅の住民たちをたずね彼等の人生をまるで『神曲』の地獄巡りのように描くルポルタージュ,このまちの知識人たちの苦渋にみちた姿を率直に描く短編等からなるこの作品は,「反ナポリ的」との批判をよび,彼女はこのまちから「追われるように」,永遠に去らざるを得なくなった,という。ただし,ナポリはつねに彼女の中に生き続け,晩年,ナポリとその歴史を象徴的に描きつくす小説を創作する(『トレドの港』『悲しみの鶸』)。





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自著を語る32

『コルシカの形成と変容──共和主義フランスから多元主義ヨーロッパへ』

三元社 20028月 244+xxxv頁 3,500

長谷川 秀樹


 本書は地中海西部に位置するコルシカ島が,1769年にフランスに併合されてから現在に至るまでに文化,社会,政治,経済の面でどのように変容を遂げたのかについて述べている。
 本書は二部構成となっている。第一部は主として近代フランスとコルシカに焦点が当てられる。ここで明らかにされるのは,今日「民族」あるいは「人民」と呼ばれている「コルシカ人(ウ・ボーブル・ゴールスu populu corsu)」の形成過程である。
 コルシカ島は地中海の他の島嶼に比してきわめて山岳が急峻であり,それだけ各集落(パエーゼpaese)は他の集落との交流が伝統的にはきわめて薄かった。また,海賊の襲撃やマラリアを避けるため,優れた都市建設技術をもち,フランス以前にコルシカ島を支配していたジェノヴァ人やピーサ人を除くコルシカ島民は海から遠く離れた急峻な山岳の奥深くに隠れるようにひっそりと暮らしていた。このような山岳民には,自ら「島民」である,あるいは「コルシカ人」であるという意識を共有することは困難であったと言えるだろう。
 コルシカ島民が自らを「コルシカ人」であるという意識を醸成するのに大きい影響を与えたのが,19世紀前半のコルシカ島民の「島外流出」とフランスでのロマン主義文学である。この時代,フランスでは文学・小説の読者層が民衆にも広がりはじめ,その中で人気を博した要素の一つに近代社会から見れば「非日常的」である「野蛮」さであった。そしてその一つはコルシカ人の復讐「ヴェンデッタ(vindetta)」や山賊行為「バンディ(banditismu)」などの風習だった。バルザックの『ヴェンデッタ』メリメの『コロンバ』,『マテオ・ファルコーネ』などがその代表であろう。19世紀後半にもモーパッサンやデュマがコルシカやコルシカ人を描いており,20世紀初めには社会科学でもヴェンデッタが取り上げられ,エミール・デュルケームの『自殺論』はその事例である(実際にはヴェンデッタは19世紀半ば以降はほとんど見られなくなっているにもかかわらずである)。
 さらに,ボナパルトの盛衰とも重なって,フランス人にはコルシカはボナパルトの故郷で,島民はボナパルト主義者であり,さらに野蛮で復讐心が強いというイメージが醸成され,このイメージとともに「コルシカ人」というカテゴリーが出来上がる。では,そうしたイメージなり図式なりカテゴリーがいったいどうしてコルシカ島民に受容されるのか?
 この点が第一部で明らかにされる。
 第二部では,1981年にミッテラン社会党政権が発足し,革命来初めてフランスでは地方分権政策が実施されてからのコルシカとフランス,さらにはヨーロッパ連合(EU)との関係が明らかにされる。1960年代から高揚した島の民族主義が,多元主義や多文化主義に否定的なフランス共和主義(共和主義は理念としては国家と個人以外に「権利」の主体を認めない。このため,民族や言語,宗教などの集団の権利を掲げる多元主義,多文化主義に否定的である),そして利益誘導とクライエンテリズムを通じてコルシカ島で共和主義を具現化する伝統的政治階層,「クラン(partitu)」とどのように折り合いをつけるのか,その関係変容をヨーロッパ統合という観点も交えながら浮き彫りにする。ミッテラン政権発足は民族主義とクラン(共和主義)は対立関係にあったが,地方分権政策によってコルシカ島に議会が設置されてからは,双方とも勢力が衰え,新興勢力が台頭する形となった。それはヨーロッパ統合を推進し,その中でコルシカに相当の立法権を獲得し,その根拠としてコルシカ人民の法的承認ならびにコルシカ語(ア・リングァ・ゴールサa lingua corsa)の公用語ないしは義務教育化を掲げる「自治主義」と,旧来のジャコバン型中央集権主義や伝統的クランに代表される利益誘導型政治の是正を掲げながらも,フランス共和主義の大枠を維持しながら,従来の地方分権政策の延長上にコルシカをおこうとする「新共和主義」との対立である。両者の勢力の中で係争となっているのは,�統合ヨーロッパへの参加度,�フランスに多元主義原理を導入することへの是非,�コルシカへの立法権付与,ならびに「コルシカ人民」の公認の是非,である。この対立は,単にコルシカ島だけではなく,フランス中央政界も巻き込んだ大論争に発展した。1999年から継続しているコルシカ制度改革がその事例である。一方,これまでにはなかった独自の動きもあり,1996年にイタリアのサルデーニャ島とスペインのバレアレス諸島の行政府との間で築かれた連携組織などがあげられる。コルシカ島内の高校や中学には「地中海学科」や「地中海科目」が設けられ,隣接地域との交流が進みつつあるのも,新たな動きといえるだろう。
 本書は第20回渋沢・クローデル賞特別賞(ルイ・ヴィトン・ジャパン賞)を受賞した。





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意見と消息

・写真家の机です。55日頃より数ヶ月間ギリシア主要遺跡とクレタ島を撮影して参ります。来年にはエッセイ集を刊行の予定です。 小机直人(机直人)

・ローマ帝国最北辺のブリテン島に焦点を当てて帝国の意味を再考しようとした拙書『海のかなたのローマ帝国』が,岩波書店より刊行されました。御一読いただければ幸いです。 南川高志





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図書ニュース

荒井 献 『人が神にならないために』 コイノニア社  20034

石塚 裕子 『ディビッド・コパーフィールド』15巻 翻訳 岩波書店 20027月〜20033

北田 葉子 『近世フィレンツェの政治と文化』刀水書房 20032

小森谷慶子 『シチリア歴史紀行』白水社 20033

竹内 啓一 『伝統と革新──私が読んだ99の地理学』古今書院 20032

長谷川秀樹 『コルシカの形成と変容──共和主義フランスから多元主義ヨーロッパへ』三元社 20028

福本 秀子 『どこへ行ってもジャンヌ・ダルク──異文化フランスへの旅』論創社 20036

南川 高志 『海のかなたのローマ帝国』岩波書店 20035

渡辺 和子 『太陽神の研究』上下巻 共編 リトン 20026月・20033





〈寄贈図書〉

『アリオスト 狂えるオルランド』脇功訳 名古屋大学出版会 20016

『要塞都市アントルモン見学ガイド』ルイ・J.アンドレ他著 渡邉浩司・渡邉裕美子訳 アントルモン考古学協会 200111

16世紀前半の東地中海世界における貿易秩序とヴェネツィア人──マムルーク体制からオスマン体制へ』堀井優著 私家版 2002

『コルシカの形成と変容──共和主義フランスから多元主義ヨーロッパへ』長谷川秀樹著 三元社 20028

『近世フィレンツェの政治と文化』北田葉子著 刀水書房 20032

『スペイン・ロマネスク彫刻研究──サンティアゴ巡礼の時代と美術』浅野ひとみ著 九州大学出版会 20032

『イスタンブールの大聖堂──モザイク画が語るビザンティン帝国』浅野和生著 中公新書 20032

『海のかなたのローマ帝国──古代ローマとブリテン島』南川高志著 岩波書店 20035

『ヴェネツィア詩文繚乱──文学者を魅了した都市』鳥越輝昭著 三和書籍 20036

『古代ローマ帝国の研究』吉村忠典著 岩波書店 20036

『未来派 イタリア・ロシア・日本』井関正昭著 形文社 20036



 



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地中海学会事務局
160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話 03-3350-1228
FAX 03-3350-1229




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