地中海学会月報 259

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM




        2003| 4  

   -目次-










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 学会からのお知らせ




6月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集ください。

テーマ:1617世紀ヴェネツィアにおける祝祭,演劇ならびにその空間に関する研究

発表者:青木香代子氏

日 時:67日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500


 1617世紀のヴェネツィアを対象とし,劇場建築の誕生とその後の展開を,ルネサンス期に隆盛した古代劇場研究と劇場再構成を目指す試行錯誤の結果との位置付けとしてだけではなく,その土壌となった社会の特質と祝祭や儀式,演劇の伝統や特徴,劇場誕生以前また誕生以後も劇場や祝祭の空間に見立てられていた都市空間といった事象に着目し,どのような社会的要因,都市的要因を包括しておこったのかを明らかにしていく。




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*第27回地中海学会大会

 第27回地中海学会大会を621日・22日(土・日)の二日間,金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において開催します。詳細は別紙大会案内をご参照下さい(大会案内に市内ツアーの開催日が漏れておりました。621日に行います)。懇親会は今大会に限り,事前予約のみの受付けとなっておりますので,ご注意下さい。懇親会参加費(1万円)は66日(金)までに学会口座へお振り込み下さいますようお願いいたします。

621日(土)

12301430 金沢市内ツアー]

15001510 開会挨拶

15101610 記念講演

 「アリオストの眼──『狂えるオルランド』における視覚的表現」 脇 功氏

16251825 地中海トーキング

 「宮廷と芸術」

  パネリスト:嶋崎丞氏/鈴木董氏/中山典夫氏/小佐野重利氏(司会兼任)

19002100 懇親会 「つば甚」

622日(日)

9301130 研究発表

 「古代ギリシアの聖域逃避と“嘆願(hiketeia)”」 池津 哲範氏

 「ゴヤ版画集《ロス・カプリチョス》におけるアクアチント技法の一考察」 笠原 健司氏

 「ユルスナールの『沼地での対話』と「能」の関わりについて──『神曲』から『江口』・

  『班女』へ」 久田原 泰子氏

 「《あてなき願い》──マラルメとドビュッシーの曲言法について」 栗原 詩子氏

11301200 総 会

12001230 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

13301630 シンポジウム

 「地中海世界と祝祭」

  パネリスト:京谷啓徳氏/高田和文氏/本村凌二氏/司会:片倉もとこ氏/

  ゲスト・パネリスト:牟田口義郎氏




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*会費納入のお願い

 新年度になりましたので,会費の納入をお願いします。請求書および郵便振替払込用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。

 口座自動引落の手続きをされている方は,423日(水)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください(領収証をご希望の方には月報次号に同封して発送する予定です)。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願い申し上げます(12月頃の予定)。

 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。


会 費:正会員 13千円

    学生会員  6千円

    賛助会員 1口 5万円

振込先:口座名「地中海学会」

    郵便振替      00160-0-77515

    みずほ銀行九段支店   普通 957742

    三井住友銀行麹町支店 普通 216313




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*石橋財団助成金

 石橋財団の2003年度助成金がこのほど決定しました。金額は申請の全額で40万円です。





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オリュンポスとゼウス

込田 伸夫


 ホメロスによれば,オリュンポス山はギリシアの神々の住まいとされているが,とりわけゼウスとの結びつきが強い山である。ゼウスは原初のインド・ヨーロッパ語族にその起源をもち,その名称はローマのDiespiter/JuppiterやヴェーダのDyaus pitar,ゲルマンのTyr(Tiu)などと共通のものと考えられている。その語が示すようにゼウスは夜に対する「昼」,あるいは「澄みわたった明るい空」であり,「光り輝く天空の父」としての特性を有していた。また男系の親族関係を表わす語は細分化され豊富であるのに対し,女系では貧弱でしばしば混同されているものもみられることから,初期のインド・ヨーロッパ語族は大家族制の中で,絶対的な支配権をもつ族長を中心とした父権制社会を構成していたと考えられている。彼らの社会組織は,ギリシアではオリュンポス神族の長として家父長的性格をもつゼウスに明確に反映されている。ティールやインドラなどが早い時期に主神としての地位を喪失していった中にあって,ローマのユピテルとギリシアのゼウスだけが天空の神として,各々のパンティオンで最高神の地位を保ち続けていたのは興味深いことである。

 エピルスやレウカス,マラソンに残る墳墓やレルナの遺跡などから判断して,ギリシア本土には紀元前2千年頃にいわゆる「ギリシア語を話す民族」が,バルカン半島やアドリア海,イオニア海沿いに南下,侵入してきたと考えられている。特にオリュンポスを含む北ギリシアにはアクシオス,ハリアクモーン,アケローンなどの河川名が示唆するように,インド・ヨーロッパ語族系の地名が多く分布している。これに対してボイオティア,アッティカなどギリシア本土の南部やペロポネソス半島東側,及びエーゲ海地域にはこの地名は少なく,パルナッソス,コリントス,ミュケーナイ,クノッソスなど先住民族の非インド・ヨーロッパ語族系の地名が多く残されている。これからも初期のギリシア人の侵入経路と,彼らの影響が及んだ地域などを窺い知ることができる。

 人間は人間と自分を取り巻く環境との相互作用によって,環境に対する概念を形成していくものであろう。ウクライナ・ステップ地帯に生活していた原初のインド・ヨーロッパ語族の主神は,茫漠とした大草原の上に同じく果てしなく広がる天空を支配する神であった。このような自然環境を背景にもつ原郷からギリシア北方に侵入してきたギリシア人が目にしたのは,マケドニアとテッサリア北部の海岸平野に大きく高く連なる山塊であった。山は古来,人間の日常生活の遠く及ばない自然の地として「聖なる所」とみなされ,また神と人間とが出会う場所ともされてきた。バベルの塔やアローアダイの伝説にもみられるように,古代においては塔や梯子によって神のいる天に到達することができると信じられていた。それ故高く聳える山は,人間の生活する大地との関係が希薄である一方,天との結びつきが強まって神の住む天の一部とみなされるようになっていったのではないだろうか。

 このように峻険にして荘厳なオリュンポスの輝く岩峰を,初期のギリシア人は畏敬の念をもって神の暮らす天と考え,オリュンポスと彼らの奉じる天空の神ゼウスとを結びつけたのであろう。オリュンポス山頂に住まいを持つとされたゼウスは,オリュンポスのように高い山でめまぐるしく変化する気象とも関係づけられるようになっていった。ホメロスで「雨の神」,「雲を集める」,「雷を投げる」などのエピセットがゼウスにつくのは,上述したゼウスの特質を如実に物語っている。加えてギリシアには山頂にゼウスを祀る山が百座ほど知られていて,他の神々より圧倒的に多いとされる。これは侵入してきたギリシア語を話す民族が彼らの原郷からもたらした天空の支配と,ギリシアのオリュンポスで獲得した山頂の気象を司るというふたつの特質を併せもったゼウスの原初的な形態が,ギリシア各地にその痕跡を留めていると理解してよいのではないだろうか。

 おしまいに私事で恐縮だが,以前オリュンポスで小雨の中を山小屋に向かっている折,何度か雷の轟くのを耳にした。これは東方の離れ小島からやってきた孤独な旅人に,ゼウスがその存在を示す合図を送ってくれたのかもしれない。





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バジーレ親子と日本


河上 眞理


 1957年,ウィーン。夕暮れ時の雨の中を,傘を差した男が行く。男は辻に玄関を構えたオーペルホテルという宿へ向かった。玄関上部には鋳鉄製と思しき花の装飾がある。この他に建物の外観には装飾はなく,ただ矩形の窓が規則正しく並んでいる。屋内は薄暗い。仄かな光が灰色と緑色を混ぜたような色の壁や柱,白い植物モチーフの装飾を照らしている。男は夜勤のフロント係りをしている。背後の棚から鍵を取って振り向いた時,男は愕然とする。男がナチスの親衛隊員であったときに,収容所内で関係をもった,かつての少女がそこにいたからである。──以上は,リリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐(原題はThe Night Porter)」(1974年)の冒頭シーンである。映画の舞台はウィーンだが,男が働くホテルのフロントやロビーの場面は,現在,ローマの日本大使館として使われている建物内で撮影された。このことは周知のことであっても,建物そのものについてはあまり広く知られてはいない。この建物は,1903年にエルネスト・バジーレ(Ernesto Basile, Palermo 18571932)がアントーニオ・スタラッバ・ディ・ルディニ(Antonio Starabba di Rudiní, Palermo 1839Roma 1908)の邸宅として建てたもので,《ヴィッリーノ・ディ・ルディニ》という。

 ローマに日本大使館の前身である日本公使館が設置されたのは1873(明治6)年のことである。1880年代にローマの日本公使館で働きながら絵画の勉強をした松岡壽が通勤した事務所は,現事務所からさほど遠くないカステルフィダルド通りにあった。岡倉天心の「欧州視察日記」(『岡倉天心全集 5』平凡社,1980)に記載はないが,1887(明治20)年4月ローマ滞在中,天心もカステルフィダルド通りの日本公使館を一度は訪れたことだろう。その後,事務所は転居を重ねている。そして,公使館開設から百年を経た1975(昭和50)年,クインティーノ・セッラ通りの《ヴィッリーノ・ディ・ルディニ》に事務所が定まり,現在に至る。

 エルネスト・バジーレは,パレルモ市中に偉容を放つマッシモ劇場を設計したジョヴァンニ・バッティスタ・フィリッポ・バジーレ(Giovanni Battista Filippo Basile, Palermo 18251891)を父にもち,パレルモ大学建築学科卒業後,建築活動を開始する。ローマ大学及び母校で教鞭も執っている。エルネストの名前はイタリアにおけるアールヌーヴォー,あるいはリバティー様式(イタア人は概して「リーベルティー」と発音するようだが)の建築とともにあると言っても過言ではなかろう。当時,パレルモの大富豪であったフローリオの邸宅や,現在ホテルとなっているヴィッラ・イジエーアなどはその代表作である。エルネストは1902年から長期間に渡って下院議事堂であるパラッツォ・ディ・モンテチトーリオの増築に従事した。その間,ローマにおいて同じパレルモ出身者の個人邸宅も手がけている。《ヴィッリーノ・ディ・ルディニ》はその一つである。

 一方,建築委嘱者のディ・ルディニは,反ブルボン派の貴族で,イタリア王国統一運動に身を投じ,統一後は早くから政治的な頭角を現した人物である。1869年に内務大臣になり,右派を主導し,そして1891年から92年,96年から98年まで五次に渡って首相の座に就いた。1898年,イタリア各地で勃発した騒乱に対して厳格な弾圧をした結果,辞職を余儀なくされ,同時に政界から身を引いたという。《ヴィッリーノ・ディ・ルディニ》は,彼が残りの人生を愉しむための館として設計されたものなのだろう。ほぼ立方体で三層から成る外観からは古典的な印象を受ける。リバティー様式の別名,「花の様式」の名にふさわしく,花と葉の装飾が建物の内にも外にも見られる。だが,アールヌーヴォーの造形上の特色の一つである生命力をもった曲線は最小限に抑えられている。主階はむしろ直線を基調とし,その直線的な装飾の先に生命感溢れる花や葉の装飾が施されている。このような匙加減がこの建物に落ち着いた佇まいを与えているように思われる。

 エルネストが手掛けた《ヴィッリーノ・ディ・ルディニ》は,1908年に家主没後,所有者の変遷を経て,日本の所有となった。これは,偶然の結果なのだろう。

 やはりパレルモの出身者で,工部美術学校の彫刻教師だったヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa, Palermo 18411927)は滞日中,日本の美術品・工芸品を蒐集し,帰郷した。その後,経済的な事情からラグーザは蒐集品を売却した。そのほとんどは現在,ローマ市エウルのルイージ・ピゴリーニ先史民俗誌博物館に所蔵されている。だが,エルネストの父フィリッポもラグーザから蒐集品の一部を購入したのである。あまり知られていないこの事実に遡ってバジーレ親子を想うとき,彼らは日本と縁があったのかもしれないとも思われるのである。





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地中海人物夜話


ニッコロ・アッチャイウオーリ

──14世紀フィレンツェの「著名人」──


三森 のぞみ


 14世紀フィレンツェの年代記作者ジョヴァンニ・ヴィッラーニの甥で年代記を引き継いだフィリッポ・ヴィッラーニに『都市フィレンツェの起源とその著名な市民たちについて』というラテン語著作がある。後半の列伝部分は『フィレンツェの著名人について』と題された俗語版もあり,30人ほどが紹介されているが,その中にニッコロ(ニコラ)・アッチャイウオーリという人物が含まれている。フィレンツェ商人の出でありながら,ギリシアやシチリアに軍事遠征を行い,ナポリ王国の実質的な統治者として辣腕を振るった地中海スケールの「著名人」である。

 ニッコロは1310年,アッチャイウオーロ・アッチャイウオーリの息子として生まれた。アッチャイウオーリ家は,12世紀中頃に皇帝フリードリッヒ1世の脅威を逃れて北伊の都市ブレシアからフィレンツェへ移住してきたと言い伝えられているが,他のフィレンツェ商人たちと同様,貿易や銀行業に積極的に従事し,14世紀初頭にはすでに都市政府の役職者や高位聖職者を輩出するフィレンツェ有数の家門であった。

 1331年,21歳のニッコロは父に呼び寄せられてナポリに赴く。父アッチャイウオーロは当時教皇庁のあった南仏アヴィニョンとナポリ王国を中心に活発な商業,金融活動を行っていた。14世紀のフィレンツェとナポリは現代よりも遙かに密接な関係にあった。グェルフ都市フィレンツェは,近隣のギベリン諸都市やミラノとの対抗上,同じグェルフの雄ナポリ王の軍事支援を欠かすことができないでいたが,ナポリ王国の経済はフィレンツェ商人に牛耳られていた。バルディ,ペルッツィ,そしてアッチャイウオーリといった大商会がオリーヴ油や小麦の輸出,王国内の徴税請負などを独占して巨益を上げ,宮廷においても特権的な地位を得ていた。

 ニッコロがやって来た頃のナポリは,シャルル・ダンジューの孫ロベルト王の治下,華やかな宮廷文化に彩られたアンジュー朝の最盛期にあたる。この地ではすでに,ジョヴァンニ・ボッカッチョがバルディ商会のために働く父の命で商業見習いを始めていた。ニッコロは同世代のボッカッチョと友人になったが,30年後にこの旧友をすげなく扱い,繊細な文学者を憤激させている。

 若いニッコロは宮廷に入り込み,夫を亡くしたターラント公妃カテリーナ(カトリーヌ・ドゥ・ヴァロワ)の信頼を得(愛人になったらしい),ほどなくターラント公家の諸事を任されるようになった。カテリーナは母方のクルトネー家から名のみのコンスタンティノープル(ラテン帝国)皇帝位を受け継いでいた。ニッコロは東方における彼女の権利の回復のため13381341年にギリシア遠征を行い,公妃と自身のために多くの土地を獲得した。その後カテリーナの息子ターラント公ルイージに仕え,1343年に死去したロベルト王の娘で王位を継いだジョヴァンナとルイージを結婚させることに成功する。1348年にはナポリ王国の「大執事」となり,諸勢力の入り乱れるナポリ王国の統治に精力的に取り組んだ。さらに1354年には,シチリアの晩祷事件によりアンジュー朝が失ったシチリア島の奪回に着手し,一時は島の大部分をアラゴン王家から取り戻したほどであった。しかし,野心家のニッコロには敵が多かったようである。晩年には教皇庁との軋轢に悩まされてもいる。

 フィレンツェの南約4キロの丘の麓,ガッルッツォの集落のはずれにイタリア語でチェルトーザ,つまりカルトゥジア会の修道院がある。ヤコポ・ポントルモのフレスコ画連作《キリスト受難》で知られているが,この修道院の創建者はニッコロである。ギリシアから帰国した1342年に彼は自身の土地を寄進し,巨額の私財を投じてチェルトーザの建設を行った。1365118日ニッコロがナポリの自邸で死去すると,遺言に従い遺体はこのガッルッツォの修道院に運ばれた。今も敷地内のトビア礼拝堂に,オルカーニャ工房の作とされる,仰臥像をともなったニッコロの壮麗な墓碑が見られる。

 そしてウッフィーツィ美術館には,1450年頃にアンドレア・デル・カスターニョが描いたニッコロ・アッチャイウオーリの肖像がある。男女9人の「著名人」を描いた有名なフレスコ画連作だが,その中に,フィレンツェゆかりの武将として,ファリナータ・デッリ・ウベルティ,ピッポ・スパーノとともに,ニッコロの姿がある。甲冑の上に長衣をまとい指揮杖を手にした画中の人物は,すでに額が禿げあがり髪も灰色だが,私たちに端正な横顔を向けている。フィリッポ・ヴィッラーニの記述によると,ニッコロ・アッチャイウオーリは「中背で胸板が厚く,幅広の顔,男らしく均斉のとれた体つきで,美しい外貌を持ち,教養はなかったが,優れた弁舌の才があった」そうである。





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「ガスパーレ・ヴァンヴィテッリとヴェドゥティズモの始源(Gaspare Vanvitelli e le origini del vedutismo)」


新保 淳乃


 17世紀末から18世紀前半に,いわゆる<ヴェドゥータ>と呼ばれる都市眺望を主題とした絵画を多数制作したオランダ人画家ガスパール・ファン・ヴィッテル(Gaspar van Wittel, Amersfoort 1652/3Roma 1736)の展覧会が,ローマ(Chiostro del Bramante, 20021026日〜200322),およびヴェネツィア(Museo Correr, 2003228日〜518日)で開催されている(監修:Fabio Benzi, Claudio Strinati)。自然描写を核とする風景画や,廃墟や想像の都市風景を描くカプリッチオと混同されがちであるが,厳密には実際の都市景観を忠実に再現する作品がヴェドゥータと呼ばれる。すでに16世紀末から聖都ローマへの巡礼記念や都市案内としてモニュメントや都市風景を描く伝統はあったが,17世紀後半からローマ,ヴェネツィアで活躍した北方画家らの作品によって,一絵画ジャンルとしてのヴェドゥータの基礎が築かれた。中でも1675年の聖年から1730年頃までローマを拠点に(1690年代末ヴェネツィア等旅行)活発に活動したファン・ヴィッテルは,18世紀ヴェネツィアでのヴェドゥータ画隆盛に先立つ都市風景画家として知られている。しかしその歴史的位置付けや作品解釈が十分になされているとはいえない。今はなきブリガンティの先駆的研究(cfr. G. Briganti, Gaspar van Wittel e l'origine della veduta settecentesca, 1966)を契機に近年再評価が進んだ結果,ファン・ヴィッテルその人に焦点をあてた展覧会がヴェドゥータ画の二大都市で開かれることの意義は大きい。本展はヴェドゥータの歴史を考えるためのみならず,ファン・ヴィッテル作品そのものに基づいて近世イタリアの都市眺望への眼差しを知るまたとない機会となるだろう。

 現在巡回中のヴェネツィア会場では,カナレットやカルレヴァリスらの作品と対峙させることによって,18世紀前半にヴェドゥータが一絵画主題として成立する前史として,このオランダ画家を位置づける意欲的試みがなされている。同地では2001年にカナレット初期作品とヴェドゥータ成立に焦点を当てた展覧会が開催されており,この領域への関心の高まりを窺わせる。本展カタログに収録されたラウレアーティ論文,バルシャム論文では(Roma, Viviani arte, 2002, pp.47-56, 56-67)17世紀半ばからの旅行案内書挿図や舞台背景制作との関わりも考慮したヴェドゥータ画ジャンル形成の再考と,ファン・ヴィッテルの再評価とが試みられている。

 評者が観たローマ会場には上記ヴェネツィア画家の比較作品は出品されていないが,ファン・ヴィッテルが1674年秋頃にローマに移ってからサッケッティ,オデスカルキ,そしてコロンナ家などの当時有力人物の保護を得て名声を獲得してゆく過程が,未公開の個人所蔵作を含む90点余りの絵画・デッサンによって再構築されている(cfr. Trezzani論文,pp.33-44参照)。ヴェドゥータ画は一般に,18世紀のグランド・ツアーの隆盛と関連付けてその非人称的・写真的な都市眺望描写のまなざしが理解されてきた。ヴェネツィアのサルーテ聖堂とカナル・グランデをカメラ・オブスクラを通して捉えた一連のデッサンはファン・ヴィッテルの制作技法を知る上でも興味深いが(cfr. Benzi論文, pp.21-32),これとローマを描いた作品とを比較すると,両者のまなざしの差異が見て取れよう。彼のローマ景観図の中には斬新な角度から見た建築物と路地裏の日常風景とが等価に捉えられたものも多く,地理学的視点ともピクチャレスクへの興味とも異なる居住者ならではの(1709年ローマ市民権を獲得している)親密な眼差しを見出すことができる。これらのほとんどが,外国人旅行者ではなく,ローマ近郊に所領をもつ貴族からの注文作であることも大いに関係している。一方1699年からファン・ヴィッテルはコロンナ家を介してナポリ副王の保護を得ている。これを契機に後に息子の建築家ルイジ・ヴァンヴィテッリがカセルタ王宮建築を手がけるに至るのだが,芸術保護の連続性だけではなく,建築家F.ユヴァッラと親交のあった父の作品においてすでに見られる高い建築的関心を改めて理解できる。

 閉会まで残り僅かであるが,出品作に描かれた都市の中枢で18世紀ヴェネツィア・ヴェドゥータと比較しながらファン・ヴィッテル作品をつぶさに鑑賞できる絶好のチャンスとなろう。





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表紙説明 地中海の水辺19

16世紀のジェノヴァと地中海世界/亀長洋子


 16世紀の地中海世界。皇帝カール五世は,ヨーロッパ世界の覇者たるべく,フランス王フランソワ一世と数々の抗争を繰り返したが,1538年にニースの休戦条約を結び,フランスとの関係をひとたび正常化した後,オスマン勢力を打破すべく神聖同盟を結んだ。この絵は,神聖同盟の背景をシンボリックに表現したものである。

 ハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲が船首に描かれた最前列右の船には,船尾の天蓋の下に三人の人物がいる。うち二人は皇帝カール五世と,ニースの休戦条約の立役者である教皇パウルス三世である。右方向に手を差し出しているのが,ジェノヴァ人提督であり,カール五世の艦隊を率い,地中海世界で数々の海戦に従事したアンドレア・ドーリアである。彼が手を差し出した方向,それはオスマンに向かって船を進める東地中海の航路であった。この船の中央と船首にある二つの女性像は,慈愛と希望を象徴し,船の後方に描かれた灯台が照らし出す信仰の光と共に,異教徒に対する戦いを導いている。前方左の船には,赤地に磔刑のキリストを描いた軍旗が見える。当時のカトリック世界において,聖俗それぞれの頂点にあった君主たち。大規模な艦隊を率い,オスマンとの戦いへの意気込みを君主たちに語る,カトリック世界の防衛者たるジェノヴァ人提督。新たな十字軍の推進者たちを称揚し励ましている数々のモチーフ。16世紀カトリック勢力の熱気がこの絵にはあふれている。

 同時にこの絵は,ジェノヴァとスペインとの強い結びつきをもさりげなく示している。背後で艦隊を操る司令塔のごとく描かれたジェノヴァの町には,中世以来の高層建築が立ち並んでいるが,市壁の左端の左隣に,一つの建物が大きめに描かれ強調されている。それはアンドレア・ドーリアが建造させた,現在パラッツォ・デル・プリンチペと称されるファッソーロの有名なドーリア宮殿である。1528年,アンドレア・ドーリアは自身の忠誠を尽くす相手をフランスからスペインに変更した。以後,ドーリアはスペイン艦隊の指揮官として,バルバリア海賊やトルコ人などとの戦闘を地中海・エーゲ海の各地で繰り広げたが,このファッソーロの宮殿は,1533年にアンドレア・ドーリアがカール五世をもてなした自身の邸宅なのである。

 歴史の顛末としては,アンドレア・ドーリア指揮下のスペイン艦隊は,教皇やヴェネツィアの同盟艦隊と共に,ハイレッディン率いるスレイマン大帝のオスマン艦隊と対決姿勢を示すが,1538年のプレヴェザ沖の海戦で手痛い敗北を帰すことになる。この絵は1538年頃,在ジェノヴァの北方系画家の手によるものといわれているが,休戦協約から神聖同盟を経てプレヴェザの海戦に至る一連の出来事や,その歴史的評価をふまえたうえでの描写かどうかは定かではない。確かなのは,『地中海』の著者F. ブローデルが広めた「16世紀はジェノヴァ人の世紀であった」との言葉に象徴される世界のひとこまを,われわれはこの絵画の中に幾重にもかいま見ることができるということである。




 


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地中海学会事務局
160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話 03-3350-1228
FAX 03-3350-1229



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