地中海学会月報 256

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM




        2003| 1  

   -目次-






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学会からのお知らせ


3月研究会

 下記の通り研究会を開催します。

テーマ:アリストテレス,イブン・シーナー,バル・エブラーヤー

──『気象論』の伝承を中心に

発表者:高橋英海氏

日 時:31日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500


 イブン・シーナーの『治癒の書』を含む複数のシリア語,アラビア語作品を直接の典拠として用いたシリア正教会の聖職者・博識家バル・エブラーヤー(1225/61286)の哲学作品『英知の精華』の出典研究を出発点として,アリストテレス『気象論』のシリア語およびアラビア語における様々な伝承経路に光を当てることを試みる。




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*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

 地中海学会では第8回「地中海学会ヘレンド賞」の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。応募用紙は事務局へご請求ください(詳細は255号に記載)。

募集要項

自薦他薦を問わない。

受付期間:19日(木)〜210日(月)

応募用紙:学会規定の用紙を使用する。




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*第27回地中海学会大会研究発表募集

 金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において開催する第27回大会(621日〜22日)の研究発表を募集します。発表を希望する方は27日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です





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表紙説明 地中海の水辺16


 フィラエ島・アスワン/山中美知


 河口より遡ること約1,000km,水量の少ない河口付近に比べ,アスワンにおけるナイル川は川幅も広く,その美しい水の色は,砂漠の土色と河畔の緑色との見事なコントラストを構成している。古代エジプト時代の遺跡が多く残るこの地域は,古くから交通・軍事上の要所として発展した。その中で,フィラエ島は末期王朝からローマ時代までイシス女神信仰の中心地として栄えた場所である。

 本来のフィラエ島(表紙)は南北約460m,東西約150mの島であったが,アスワン・ダムの建設によって一年の約半分を水に浸かった状態となったために遺跡の破損が進み,その上1960年にアスワン・ハイ・ダムの着工でナセル湖が形成されることによって遺跡が完全に水没する危機に見舞われた。そのため,ユネスコの遺跡救済キャンペーンの一環として遺跡を約4万個に切り分け,1972年から約7年かけて近くのアギルキア島に移築し,これ以後アギルキア島を通称フィラエ島と呼ぶようになった。

 現在のフィラエ島において目にすることのできる遺跡のほとんどは,第30王朝(B.C.380340頃)からローマ時代にかけてのものである。イシス神殿,ホルス神殿,ハトホル神殿など古代エジプトを代表する神々の神殿の他に,トラヤヌス帝のキオスク,ハドリアヌス帝の門など,ローマ皇帝の影響力を物語る遺跡も数多く残っている。これらの中でもイシス神殿は,その壮麗さにおいてエジプト屈指の神殿遺跡のひとつである。この地におけるイシス女神信仰は,第25王朝4代の王タハルコ(B.C.7c頃)治世下にはすでに行われていたことが,発掘された石材によって確認されている。

 イシス女神は古代エジプトにおいて最も崇拝された女神の一人で,頭上に玉座をあらわす標章を冠した姿で表現されることから,エジプト語で3stが語源であると考えられている。彼女は,プルタルコス(A.D.45120頃)が著した『イシスとオシリスについて』で描かれるように,冥界の神オシリスの献身的な妻であり,息子である天空の神ホルスにとって愛情深い母であった。古代エジプト人にとってイシス女神は母性の象徴のような女神で,その信仰は,フィラエ島の他にもデンデラ(現:ケナ近郊)や遠くパレスチナのビブロスにも及び,ローマ帝国内においても密儀宗教の一つとして神殿が造営されるなど,地中海世界に広まっていた。フィラエ島でのイシス信仰は,キリスト教が国教となった以降も存続し,神殿が閉鎖されたのはユスティニアヌス帝の時代(A.D.535頃)であったと考えられている。

 このようにフィラエ島は,古代エジプトの宗教が最後の命脈を保った聖地なのである。




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春期連続講演会「地中海都市を読む:歴史と文化」講演要旨


フィレンツェとヴェネツィア


高階 秀爾


 ルネサンス時代には,イタリアという国はまだない。地中海に長靴のようなかたちで長く突き出ているこの半島のなかには,大小さまざまの都市国家が存在していた。それらの都市国家は,規模も,政体も,産業も,歴史もそれぞれ異なっていて,決して一様ではない。15世紀から16世紀にかけて,ルネサンス文化の栄光の時代に焦点を絞ってみれば,そのなかで特に有力な存在として,五つの町が浮かび上がってくる。フィレンツェ,ミラノ,ヴェネツィア,ローマ,ナポリである。いずれも都市であると同時に,独立した国でもあった。このうち,美術の歴史を考える上で特に重要な役割を果たしたのが,フィレンツェとヴェネツィアである。

 ミラノが公国,つまり領主国家であり,ローマが教皇領,ナポリがスペインと結びついた王国であったのに対し,フィレンツェとヴェネツィアはともに共和制国家であった。ただしその中身はかなり違う。フィレンツェは制度的には最も徹底した共和体制を作り上げたが,実質的には有力な同業者組合の勢力が強く,一時期は富裕なメディチ家の独裁的支配を許した。一方ヴェネツィアでは,統治機構の頂点に立つ総督は少数の有力家族のなかから選ばれるのが通例であり,実質的には寡頭政治であった。

 このふたつの都市は,その豊かな富の源泉を,ともに商業活動に負っている。フィレンツェでは,メディチ家に代表されるような銀行業と,絹織物や羅紗製造のような高品質の加工産業が中心であり,ヴェネツィアではもっぱら貿易に力を注いだ。

 さまざまの都市国家のあいだで抗争の絶えなかったこの時代,国の防備を固めることは重要な問題であった。ふたつの都市はいずれも国防を傭兵隊長に委ねたが,その遣り方はやはりそれぞれの町の性格を反映している。すなわちフィレンツェでは,必要に応じて傭兵隊を雇い,実績に応じて報酬を支払うというある意味ではきわめて合理的な方式を採っていたのに対し,ヴェネツィアでは,金銭的報酬以外に,町の広場に記念像を建てたり,その他さまざまの栄誉を与えることによって,傭兵隊長の忠誠心をつなぎとめる方策を講じた。傭兵隊長を主題とするモニュメンタルな芸術作品として,フィレンツェでは大聖堂の壁にウッチェッロの描いた《ジョン・ホークウッドの騎馬像》が残されているだけであるのに対し,ヴェネツィアはコッレオーニの功績を称えるために,壁画よりもはるかに高価なブロンズの騎馬像彫刻(ヴェロッキオ作)を町なかに建てたところに,傭兵隊長に対する両都市の処遇の違いが端的に示されている。ヴェネツィアの衛星都市であったパドヴァの町に建てられた《ガッタメラータの騎馬像》(ドナテッロ作)も,同じような意味を持っている。はなはだ皮肉なことに,これらの見事な騎馬像を作ったのは,二人ともフィレンツェの彫刻家であった。そのことは,フィレンツェ芸術の優秀性を物語るものであるが,彼らに活躍の場を与えたのはフィレンツェの町ではなく,ヴェネツィアとその衛星都市であった。逆に言えば,ヴェネツィアは他国の優れた芸術家を自国のために利用するという巧みな方法を用いたのである。パドヴァやマントヴァ,フェラーラなどの近隣の諸都市と有効な関係を結んで衛星都市化するという外交政策も,防衛戦略の一端である。このような巧妙な国家経営によって,ヴェネツィアはフィレンツェよりもはるかに長くその共和体制を保つことができた。

 自然条件の違いも大きい。フィレンツェは半島内陸部にあって丘陵に囲まれた町であり,ヴェネツィアは海の町である。それだけにフィレンツェ人は閉ざされた世界のなかで知性と技術の錬磨に励み,ヴェネツィア人は開かれた国際的環境のなかで柔軟に生き抜く智慧に富む。フィレンツェが理知的,理想主義的で,ヴェネツィアが感覚的,現実主義的だと言われるのも,環境に由来するところが小さくないであろう。

 美術の世界においても,このような地域的特性はやはり反映されている。17世紀以来しばしば繰り返された「デッサンのフィレンツェ派,色彩のヴェネツィア派」という言い方は,両派の特徴を簡潔に要約していると言ってよいであろう。この場合,「デッサン」というのは単に下図のことではない。それは,形態の把握,空間の構成,意匠の創意など,知的創造力活動のすべてを意味する。実際,遠近法,明暗法,物語表現の構築など,ルネサンスがもたらした新しい表現手段は,フィレンツェ派の芸術活動の成果である。アルベルティがその『絵画論』において述べているように,マサッチオ,ブルネレスキ,ギベルティ,ドナテッロなどがその主役であった。

 一方その成果を受け継いだヴェネツィア派は,豊かな色彩感覚と新しい油絵技法を武器として,ジョルジョーネ,ティツィアーノ,ヴェロネーゼなどの豊麗な絵画世界を生み出した。ともに,人類にかけがえのない美の遺産を残してくれたのである。




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サフユーン修道院文書


松田 俊道


 歴史研究者にとって未知の史料との遭遇は胸がわくわくするものである。特に,古文書ともなれば心躍るような思いが湧き上がってくる。筆者は,一昨年一年間カイロで研究生活を送っていたが,偶然,中世のエルサレム問題を記した文書に接する機会を得た。ある日のこと読書をしていた際に,サフユーン修道院文書なるものがカイロのフランシスコ派会修道院に保存されていることがわかった。しかし,修道院の所在については地区名しか記載がされていなかった。仕方がなく,車を雇い,運転手とともに探し回り,ようやくこの修道院を見つけ出すことができた。訪ねてみると,対応してくれた司書は,知らない日本人がいきなり文書の話を持ち出してきたこともあり,そのようなものは知らないし,いったい何処でそのような情報を仕入れてきたのかと問い質されてしまった。事情を説明すると,今度は中から一人の修道士が現れようやく話がついたのである。

 地中海世界を舞台にして中世に行われた十字軍運動は,現在にいたるまで続く大きな問題であると言えよう。聖地エルサレムの帰属をめぐる問題は未だ解決をみていないからだ。カイロで,歴史研究者であるとともに歴史書の出版社を自ら経営するカーシム・アブドゥフ・カーシム教授に,十字軍関係の本を,自らも何冊か執筆し,それ以外にも翻訳も含めて数多く出版していることの理由を尋ねたところ,十字軍の問題は現在のパレスチナ問題とリンクしているからだという答えが返ってきたのを思い出す。

 この文書は,エルサレムのフランシスコ会修道士たちによって良好な状態で長い間保持されてきたが,十字軍勢力が中東から撤退した後のマムルーク朝政権との関係や,歴代スルターンがエルサレムの宗教的マイノリティーをどのように取り扱ったのかなども記されている興味深い文書である。

 まずこの文書の経緯をふり返ってみよう。エルサレム旧市街の南西の城壁外に位置するシオン山と呼ばれる小高い丘には,かつて二層に分かれた建物があった。上の階はイエスが使徒たちと最後の晩餐をとった場所として知られていた。やがて4世紀にはここにシオン山教会が建てられた。また,この教会の周りに1219年にフランシスコ会の修道院の建設が認められ,サフユーン修道院として知られるようになった。

 一方,下の階には何世紀もの間,誰が埋葬されているのかがわからない墓のある小部屋があった。ユダヤ教の伝説は,12世紀以来,これがダビデの墓であることを主張し続けてきた。14世紀にユダヤ教徒たちがこの部屋の所有を強く要求したため,そこを占有していたフランシスコ会の修道士たちとの間で長い間争いが継続した。このため,マムルーク朝のスルターン・ジャクマクは,この問題の解決と称してここをムスリムの管轄下に置き,1452年マスジド(モスク)に変えてしまった。

 イスラエルが建国され,中東戦争が始まると,ダビデのマスジドはユダヤ教の宗教施設に変えられた。さらにイスラエルは執拗にこの文書の入手に動き出した。そのため,フランシスコ会の修道士たちは,この文書をカイロにあるフランシスコ会修道院附属の東洋学研究所に移し保管したのである。

 この文書の存在は長い間歴史研究者の目にはそれほどとまらなかったようである。しかし,1922年には,Castellaniによって,アラビア語,トルコ語で記された全文書のカタログが作成されている。ついで,1931年には,修道士Rishaniによって,アラビア語の文書の一部が出版されている。アラビア語の文書は,スルターン・バイバルスからカーンスーフ・ガウリーの治世に至るまでのマムルーク朝時代の83文書で,その内容は,スルターンから修道院長に発布された布告,スルターンに提出された嘆願書に対する布告,エルサレム総督から発布された布告,エルサレムのカーディーが発給した様々な法文書などである。また,この文書からは,キリスト教徒のエルサレム巡礼,とりわけ,パレスチナのヤッファ,ガザ,ラムラなどで巡礼者に課された諸税などについて知ることができる。

 この東洋学研究所には,エジプトを中心とした中東のキリスト教に関するものを中心に収集した文献が数多く所蔵されており,研究者の利用に供されている。修道院から一歩外に出れば,そこは様々な商品が道にまで溢れ,香辛料の香りが漂い,売り買いする人々の声や車の騒音などが入り乱れた喧騒の世界である。けれども,がっしりした石造りの修道院の中は,清々しい風が微かに吹いているようで,何とも心地よい空間である。静かな一室で文書を眺めていると,地中海を舞台にして活動した人間たちの蠢きが目に浮かぶようである。




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モンマジュール修道院を訪ねて


高野 禎子


 作家アンドレ・シュアレスの著書『プロヴァンス讃歌』の中に,次のような一節がある。「アルルのほうから行っても,あるいはレ・ボーのほうから行っても,私はモンマジュール大修道院の塔が見えるのを楽しみにしている。塔はどこからでも見える。道が曲がると塔はその向きを変える。修道院は要塞のようだ。」(高野優訳)

 モンマジュール修道院の巨大な石の廃墟に立ったとき,それ以前に訪れたロマネスクのどんな聖堂でも味わったことのない不思議な感動を覚えた。修道院はレ・ボーとアルルの中間にあって,標高43mほどの小高い丘の上に建てられている。ここは,源をスイス南部に発したローヌ河が,広大なフランスの国土を潤して真っ直ぐ南下しながら地中海に注ぐ,ローヌ・デルタの北側にあたる。カマルグ地方と呼ばれるこのデルタ地帯には,桃色のフラミンゴが遊び,野生の白馬がたてがみを風に翻して疾駆する雄大な湿地帯である。そんな風景を背にして修道院全体を眺めると,特徴のある建築物と出会う。

 丸みを帯びて緩やかに突き出た半円形アプシスの真中に,ぽつんと一つ丸窓が開いている。その下は一面,岩盤に穿たれた多数の墓がひしめいて並んでいる。墓は整然と東を向いて,葬られた主の姿は無く虚ろな内部を陽光にさらしている。この建物はモンマジュール修道院付属の墓地の礼拝堂で,サント・クロワSainte Croixと呼ばれ12世紀後半に建てられた。サント・クロワの名の由来は,かつてそこに「真の十字架」の聖遺物が納められていたことによる。礼拝堂の平面プランは四葉形で,四つ葉のクローバーを墓地の真ん中に置いたようだ。丸窓は東側にあり,さらに東南側に二つの半円アーチ形窓がある他に開口部は見当たらない。

 モンマジュール修道院は,中世プロヴァンスを代表する巡礼路聖堂の一つで,10世紀半ばに聖ペテロに献げられた聖堂が,次いでノートル・ダム聖堂が11世紀後半に建てられた。前者が粗石積みの素朴な造りであるのに対して,後者の聖母聖堂は下層クリプトと上層の祭室が重ねられた大規模な建築である。特にクリプトには,同地方に類例のない独特な構造が見られる。それは,主祭壇のある中央部から周囲に五つの放射状祭室の広がるもので,周歩廊を通して祭室全部が見渡せるものである。この主祭壇にあったのが,1030年頃にもたらされたという「真の十字架」の聖遺物である。当時の主祭壇が今も残っていて,良くみると祭壇の外側に四葉形のモチーフが二つ並んで表現されている。四葉形モチーフはもう一つ,クリプトを出て上階に上がり,翼廊部の天井を見上げるとある。穹窿の交差する頂点に祝福する神の姿が四葉形の中に表わされている。年代は13世紀である。

 「真の十字架」の聖遺物は,11世紀から12世紀にかけ多くの巡礼をこの地に集めた。53日のパルドン祭が特に有名で,巡礼達のもたらす富により修道院の経済は大いに潤ったという。巡礼が盛んになって手狭になったためか,聖遺物は新たに建立された墓地の礼拝堂へと移される。これが先述のサント・クロワ礼拝堂である。

 修道院の二つの聖堂は,中世末から16世紀の宗教戦争の時代多くの戦乱に見舞われた為に,要塞化を余儀なくされた。壁を厚くして開口部を極端に減らし,堅牢な壁体と防御塔の建設がなされた。冒頭のシュアレスの文章にある塔は14世紀に作られたもので,高さは26mある。サント・クロワ礼拝堂もまた窓が極端に少なく,小規模ながら要塞のごとき外観である。さらにこの礼拝堂は内部構造にも特徴があって,中央の穹窿天井は‘回廊アーチ型’と呼ばれる珍しい構造をもつ。穹窿の四面が同じ高さで立ち上り頂点で会合するもので,屋根の四面が均等になるよう配慮されている。

 礼拝堂の全体は聖十字架の遺物容器としての,いわゆる‘スタヴロテーク’の形の反映と見ることができる。四葉形の形の連鎖がここに認められるのは興味を惹くもので,聖十字架の置かれた位置に呼応してそれは最初ノートル・ダムのクリプト主祭壇にあり,次いでサント・クロワ礼拝堂へと聖遺物の移送に伴い三次元の建築物となった。さらに先述の如く同じ形がノートル・ダム上堂の天井を飾っている。11世紀初頭から13世紀に至るこうした形の連鎖は,聖遺物崇敬の有り様を物語る貴重な証言であるといえよう。




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ロセッティの身体表現にみるヴェネツィア派の予兆

──ウィンスロップ・コレクション展から──


山口 惠里子


 国立西洋美術館で「ウィンスロップ・コレクション展」が開催された(今後,ニューヨーク,ワシントン,ロンドンでも内容を変えて巡回する)。アメリカの実業家G.L.ウィンスロップがハーヴァード大学付属フォッグ美術館に寄贈したコレクションが,館外で初公開された記念碑的な展覧会だった。展覧会にはコレクションの核をなす19世紀イギリス,フランス絵画の秀作から,アングル,モロー,ラファエル前派,バーン=ジョーンズ,ビアズリー,ホイッスラーらの作品が集められた。

 ラファエル前派のメンバーの一人D.G.ロセッティ(182882)の作品も,初期の水彩画から,《ベアータ・ベアトリックス》の画家自身によるレプリカ,《祝福されし乙女》,そして晩年の作品にいたるまで,フォッグ美術館を訪れたとしても見ることが難しいものも出展された。会場を巡り,ロセッティ作品をみていくうちに,描かれた女性の過剰ともいえる身体描写に圧迫感を感じた方もいるかもしれない。この圧迫感はどこからくるのか,出展作品から考えてみたい。

 中世を主題とした初期の《クリスマス・キャロル》(185758)には,クラヴィコードを弾く女性が描かれる。女性の身体や姿勢を統御しているのは,彼女が坐る背当てが伸びた個人用の箱形椅子である。このような一人用の椅子が作られるようになるのは中世末期である。それまではチェストやベンチが座具として用いられ,人びとはその上で身体を接して坐った。だが一人用の椅子に坐るとなると,他者から離れて,背筋を伸ばして坐らなければならない。椅子に坐る人は,その姿勢で個人空間を経験しはじめたのである。近代の「閉ざされた人間」(N.エリアス)の誕生は,個人用椅子が使用されるようになったこととどこかで結びついているはずである。ロセッティはそうした中世風椅子を画面に挿入して中世的空間を再現しようとしたのだが,そこに現れたのは近代的な閉ざされた身体が坐る空間だった。《クリスマス・キャロル》でも女性は椅子がつくる箱空間に坐るが,そこから流れでる長い髪の効果によって閉塞感がやわらげられている。

 60年代ロセッティは,ティツィアーノらヴェネツィア派の影響を受け,色彩と装飾性を強調して感覚に訴える絵を試みた。椅子空間は,窓枠や欄干で区切られた空間,さらには女の私室へと変えられ,この中に女の半身やゆったりと坐る女が描き入れられる。女の身体は平面的に表現され,鑑賞者に近づくかのようにみえるが,その動きを抑制するかのような身ぶりもまだみせる。たとえば《イル・ラモシェッロ(小枝)》(1865)では,欄干から出ようとする身体を制止させるかのように,女の手が組み合わされている。

 やがて画面から窓枠や欄干が取り除かれると,そこには女の立像が現れ,さらに身体に「歪み」が加えられるようになる。《パンドラ》(1879)で露わになった肩や腕,首はまさに歪んでいる。椅子や窓枠というみずからを位置づける道具を失った身体が,自身で立たなくてはならなくなったとき,その境界が歪んでくるのだ。この歪みの表現にはミケランジェロの影響があると指摘されるが,それはロセッティが明確な一つの輪郭をもつ身体を否定したこと,すなわち運動するものとしての身体を描きはじめたことを示すものでもある。奥行を欠いた画面で歪みをみせる身体が,絵を見る者へと迫ってくる。

 このような身体の運動性が,ロセッティ晩年の作品を特徴づける。《海の呪文》(187577)のセイレーンが楽器を弾く手は,ドレーパリーとともに曲線を描いて,セイレーンを鑑賞者に近づける。同時に,鑑賞者を絵のなかに誘い込み,描かれた身体との距離を縮めていく。ダンテの『新生』に登場する「窓辺の淑女」を描いた油彩画(1879)では,淑女は欄干の上で重ねている手を今にも差し伸べてくれそうである。彼女が着るモスリンの上着は,欄干からこちら側にすでにはみ出しているのだ。

 ロセッティにこのような鑑賞者に接近する身体を描かせるきっかけをあたえたのは,前にふれたヴェネツィア派の絵画だったことを強調しておきたい。その影響下でロセッティは,中世風椅子に背筋を緊張させて坐っていた身体に楽な姿勢をとらせ,感覚を開き,ついには身体から椅子を奪う。支えを失った身体は,額縁から溢れ出るかのように,見る者に近づいてくるのである。ロセッティがヴェネツィア派を重視したのは,イギリス美術界における当派への再評価の動きと連動するものだが,この動きはヴェネツィア派の色彩美を称揚するにとどまらず,外部へと(他者へと)開かれていく身体の可能性も示したのだ。身体が身体そのものとして存在しようとする欲望に,ヴェネツィア派の絵画が応えたのだろう。これは近代的身体の解体を予兆する事件だった。ロセッティはこの予兆を感じとっていたにちがいない。





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点景人物の世界


廣川 暁生


 イタリアでルネサンス芸術が開花していた15世紀,アルプスの北,ネーデルラントの画家たちは,中世的宗教の敬虔なる精神を新たに芽生えた自然主義的感覚で描き出そうと模索していた。

 今日のベルギー南部トゥルネーで活躍した画家,ロベール・カンパン(1378/91444)は,しばしば聖なる出来事の舞台を日常的世界に移して描き出している。《授乳の聖母》(本図,63.5×49.5cm)では,舞台となるのは都市に住むブルジョワジーの邸宅の一室である。ここでは暖炉の前の柳で編んだ火除けが,聖母の光輪の役割を演じている。長椅子ではなく,おそらくは一段低い足置きの上に坐す聖母が‘謙遜の聖母’のポーズをとることが,従来指摘されてきた。カンパンが室内を舞台に描く一連の聖母像は,14世紀シエナ派絵画から北へと伝えられたこのテーマのオリジナル構図の一つの変形と考えられている。聖母は,彼女の特性の一つである‘謙遜’を強調するため玉座を降りて床に近い位置に坐り,その一方で,部屋の窓の外に広がる都市風景は上から見下ろす視点で描かれ,聖母のいる空間自体が,実際は地面からかなり高いところに位置することが仄めかされているのである。

 さて初期ネーデルラント絵画においては,宗教画の背景に世俗の風景がしばしば導入されている。それがある特定の場所の実景であっても,また単に地方的特色のある景観にすぎなかったとしても,画家はこうして聖なる場面に同時代の現実的な枠組みを与えたのであった。ミケランジェロが当時のフランドル美術について語った言葉を借りれば,「画家は織物や石造建築,野の草や樹々の影,川や橋などいわゆる風景と呼ばれるものに,多くの人物をあちこちに配して描いて・・・・・・・・・・・・・・・・・」いた。《授乳の聖母》(本図)においても,画面左上,窓枠内のわずかなスペース(部分,約13×4cm)に,ネーデルラントの典型的な都市風景が日常生活を送る市民と共に,驚くほど詳細に描き込まれている。よく見ると向かいの家では,二人の人物によって屋根の修繕作業が行われている。そして彼らが作業をする家の背後には,ゴシック聖堂の尖塔がひときわ高く聳え立っているのである。当時,都市に建設され,街中のどこからでも眺められたゴシック聖堂は,しばしば聖母マリア(Notre dame)に捧げられ,市民の信仰生活を支えていた。ここでは,風景のほぼ中央に配置されたこれらの人物が,地面と教会の塔との中間に位置することで,我々の視線を巧みに導いているといえるだろう。すなわち二人のうち一人が掴まっている大きな梯子は,文字通り地面と屋根とを結び付け,その屋根の上で働く人物はやや右,聖堂の尖塔の方へと身体を向けているように見える。このように,聖なるできごとはもはや過去のこととしてではなく,日常的経験の領域において捉えられるべきものとなったのである。

 ところで,描き込まれた点景人物の大きさに比すれば,聖母のいる前景の部屋は,向かいの家々をはるか下方に見下ろす,現実にはあり得ないような超高層建築の一室として構想されていることになる。初期ネーデルラント絵画においては,天上性と地上性,聖性と世俗性といった性質の異なる要素を画面に共存させるために様々な工夫が試みられていた。カンパンは,画中画のようにはめ込んだ,窓から見える景観を利用するという独自の手法を用いて,聖なる人物の聖性を損なわずに,現実的世界とともに描き出すことに成功したのであった。

 X線調査によれば,もともとは窓の方へと向けられていたという幼児キリストの視線は,我々がそこに目をむけるべきことを教えようとしていたのかもしれない。






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読書案内─堀井 優


斎藤完著『飲めや歌えやイスタンブール──トルコの酒場で音楽修行』


音楽之友社 2002年8月 230頁 1,700


 ふとした機会に手にし,軽いノリのタイトルにふさわしい,軽快な文章にのせられて,最後まで一気に読めた。トルコの楽器ネイに魅せられて音楽民族学を専攻し,現地の音楽院に留学した著者は,ある日,民謡を聴かせる音楽酒場(カフェバー)の熱気を目の当たりにする。そして「なぜトルコでは民謡がいまだに人々に愛されているのか?」という問いへの答えを求め,ある店に「タダ働き」を志願する。こうして著者は,トルコの酒場で,コミ(ウエイター兼雑用係)として週末ごとに働くという興味深い体験を,約1年半にわたってすることになる。

 次から次へと語られる体験や観察は,読者を決して飽きさせない。職場の仲間とのつきあいや仕事の捌き方,部屋探しの苦労やハウスメイトとのやりとり等々の描写は精彩に富み,心情の率直な吐露も,嫌みなく自然に納得できる。読み進むうちにトルコ人の中で生活しているような気にさせる,なかなかの筆力である。私の最も印象に残った部分は,カフェバーの土曜の夜を描写した第4章の中の「歌うあほうたち」と「踊るあほうたち」である。民謡を歌い奏でるミュージシャンに導かれて店内の盛り上がりが加速して頂点に達したのち,閉店時間にむかって静かに冷めていく様子は,ある種の無常感を感じさせる。この印象は,第5章の中のミュージシャンの真情を明かす部分を読んだ時,さらに深まった。

 本書のいまひとつの読みどころは,著者が,カフェバーで接する民謡の背景をシーア派の一派アレヴィーの音楽に探るため,聖人ハジュ・ベクタシの聖廟のある同名の地を訪れた時の体験(第5章)だろう。著者はアレヴィーの人々と親交を結び,彼らがハジュ・ベクタシの記念祭にあわせて行う集会(ジェム)に参加することができた。結局カフェバーの民謡とアレヴィーの音楽との間に明確な関わりを見いだせなかったものの,集会での熱気に満ちた宗教儀礼を実見した経験そのものは,得難い価値をもつものと思われる。

 著者は,カフェバーで働く理由となった最初の問いに対して,本書の最後の方で,ある答えを提示する。すなわちトルコの民謡には型にはまらない柔軟性と気軽さがあるとし,その比較対象として,型にはめる傾向のある日本の民謡を,《江差追分》を実例としつつとりあげる。比較論としては興味深いが,むしろ問題は,なぜトルコの民謡が柔軟性を持続しえているのか,民謡の音楽的特徴によるのか,それともトルコ社会の特徴によるのか,ではなかろうか。門外漢の勝手な疑問ではあるが,いずれ著者が,本書で示した行動力と観察力でもって,その答えを見いだすものと期待している。


 


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地中海学会事務局
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