地中海学会月報 253

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM




        2002| 10  

   -目次-


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学会からのお知らせ



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*特別研究会

 下記のとおり特別研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

日 時:1130日(土)午後2時〜515

テーマ:メセナの現在と未来

──文化擁護のアイデアとシステム

 講演(午後2時)

  福原義春氏(資生堂名誉会長)

 シンポジウム(午後315分)

  永井一正氏(グラフィック・デザイナー)

  三枝成彰氏(作曲家)

  樺山紘一氏(国立西洋美術館館長)

  木島俊介氏(司会,共立女子大学教授)

会 場:慶應義塾大学三田キャンパス北館ホール

    (東京都港区三田2-15-45

参加費:会員は無料,一般は500


 人がいかなる文化を生みだしうるかは,個人においてのみならず,あらゆる種類の共同体においても重要な関心事と思われます。こう考えますと,今度の特別研究会にあげた「メセナの現在と未来──文化擁護のアイデアとシステム」というテーマは古い問題の蒸し返しと言えるかもしれません。しかしながら,国家の文化施設や教育機関などのエージェント化,あるいは経済不況による公・私立の同種機関の廃止や停滞など,昨今の文化的状況に関しての危惧の念はいよいよ高まりつつあるものと思われます。このような視点から,特別研究会として上記の講演およびシンポジウムを開催いたします。



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公開講演会「ガウディとその時代」

日 時:111617日(土〜日)午後230

会 場:上智大学(東京都千代田区紀尾井町7-1

主催・問い合わせ先:上智大学イスパニア研究センター(電話03-3238-3533)。

16日(会場:8号館207教室)「ガウディとその時代」J.J.ラウエルタ氏(通訳付)/「ピカソが生きたバルセロナ──モデルニズムの光と影」大高保二郎氏/17日(会場:6号館210教室)「ガウディ作品とその時代造形──洞窟造形のガウディ様式」鳥居徳敏氏/「世界遺産『グエル公園』とその時代──カタルーニャの聖地デルフォイ」J.J.ラウエルタ氏(通訳付)/質疑応答(入場無料)



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*常任委員会

・第1回常任委員会

日 時:2001106日(土)

会 場:上智大学7号館

報告事項 第25回大会に関して/研究会に関して/秋期連続講演会に関して 他

審議事項 副会長に関して/第26回大会に関して 他

・第2回常任委員会

日 時:20011221日(金)

会 場:上智大学7号館

報告事項 秋期連続講演会に関して/研究会に関して/『地中海学研究』XXV(2002)に関して 他

審議事項 第26回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他

・第3回常任委員会

日 時:2002216日(土)

会 場:東京大学東洋文化研究所

報告事項 石橋財団助成金に関して/研究会に関して/『地中海学研究』XXV(2002)に関して 他

審議事項 第26回大会に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して/春期連続講演会に関して/新事務局委員に関して 他

・第4回常任委員会

日 時:2002413日(土)

会 場:上智大学7号館

報告事項 第26回大会に関して/春期連続講演会に関して/研究会に関して 他

審議事項 2001年度事業報告・決算に関して/2002年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して/事務局長交代に関して他

・第5回常任委員会

日 時:2002622日(土)

会 場:学習院大学百周年記念会館

報告事項 第26回大会に関して/協賛事業に関して/会費未納者に関して 他

審議事項 第26回大会に関して/特別研究会に関して/第27回地中海学会大会に関して 他


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ヘレンド賞受賞にあたって


秋山  聰


 このたび第七回地中海学会ヘレンド賞を拙著『デューラーと名声』に授けて頂き,大変恐縮致しております。地中海学会のみなさまおよびヘレンド日本総代理店星商事のみなさまに篤く御礼申し上げます。些か風変わりなテーマを追いつづけ,時に「いいのかな,いいのかな」と首を傾げながら勉強を続けてきた身にとって,このような形で学際的な学会から認めて頂けたのは望外の幸せであり,大変励みになります。ありがとうございました。

 『デューラーと名声』は,私が1997年にフライブルク大学哲学部に提出した哲学博士号請求論文の邦訳に大幅に加筆したものです。生前も死後も一貫して有名でありつづけ,ドイツ美術の象徴的存在となったデューラーが,いかに生前から自覚的に自らの名声形成に取り組んだか,について具体的作例と文献史料に即して明らかにすることを目的としたものですが,1505年から07年にかけての第二次ヴェネツィア滞在中の作品分析が中核をなしています。この時期のデューラーは,作品の中に人目に付く仕掛け──蝿や醜い人物,わざと粗雑な仕上げ等──を施していました。これらは鑑賞者の意識が絵へ没入しようとするのを阻害し,否応なく画家へ向かわせるための仕掛けであったようです。このイタリア滞在時の作品分析を手がかりに,デューラーの画業を見なおしたところ,彼および彼の周辺環境が名声の流布と残存を強く意識していたことが浮かび上がってきました。結果として従来研究上神話として剥ぎ取られてきた画家の名声が,美術の歴史的展開の動因として果たした役割の大きさについて些かなりとも注意を喚起できたのではないかと思います。

 しかし最初から名声という大きなテーマを思い描いていたわけではありません。元来あまり人が見向きもしないような些末なテーマを追いかける性質で,実のところ本書のはじまりも蝿でした。しかも蝿に目を向けたきっかけも生来の粗忽に起因したものでした。大学院に進学したての頃,画中の楽器のシンボリズムに興味を持ち,音楽図像学関連の文献を渉猟していたのですが,Revue de l'art誌にフランスの碩学アンドレ・シャステルがデューラーと音楽について一文を寄せているのを知り,手に入れて読んでみました。辞書を引きまくりながら慣れないフランス語に四苦八苦しつつ読み終えても,音楽の「お」の字も出てきません。これは読み違えたかと思い,もう一度読みなおしても一向に音楽に関わる話題に行き当たりません。狐につままれた気分で,しげしげとタイトルを見なおして目が点になりました。musicaだとばかり思っていたタイトル中の文言が,実際にはmuscaだったのです。今思えば己の間抜けさに汗顔するばかりですが,この時の衝撃(?)はなおまざまざと思い出せます。苦労して読んだものを無駄にしたくないという思いから(とはいえ,たかだか二頁に過ぎなかったのですが),全くそれまで知りもしなかった画中の蝿について調べ始めたところ,やがてそれが博士論文の中核テーマとなるに至りました。

 それにしても独日両国で寛容な師に恵まれました。重箱の隅を突っつき続ける私を,あきれながらも見守り,適度な放任主義により,長い目で育てていただきました。日本の先生方は蝿をメイン・テーマに渡独することに甚だ懐疑的だった私の背中を押して下さいましたし,彼地の指導教官のシュリンク先生は,極東からデューラーの蝿について博士論文を書きたいとやって来た無謀な髭面の学生(喩えれば南半球から日本に来た学生がいきなり雪舟の鼠で博士論文を書きたいと言うようなものでしょうか)を,「僕だってmuscaなんていう単語は覚えてないよ」と勇気づけながら受け入れて下さいました。さらに出版にあたっては中央公論美術出版の大島正人さんに大変なご苦労,心労をおかけし,また多くの方々に短期間に助言や校正をしていただきました。拙著はこれらの方々の温かい支援なくしては成立しえなかったものであり,大変感謝しております。

 ドイツ美術史を専門とする者の著書がヘレンド賞を頂くことが出来たのは,もとよりそのテーマがイタリア,なかでもヴェネツィアと深く関わるものであるからといえるでしょうが,デューラーとヘレンドが全く無縁というわけではありません。デューラーの父は金細工師としてニュルンベルクで活躍しましたが,実はハンガリーからの移民で,ジュウラ市近郊のアイトシュ村の出身でした。それ故,ハンガリー二世ともいえるデューラーの地中海体験を扱った書物に対して,地中海学会からヘレンド賞を頂けるこの偶然を興味深くかつ大変嬉しく思う次第です。


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火山に生きる

──クーマからネアポリス建設まで──


中橋  恵


 古代ギリシア人は地中海に多くの植民地を残したが,西地中海で最初に建設されたのはナポリ湾であった。こうして始まるナポリ都市文化の特徴は,火山性と大きく関係している。またナポリ都市発展は,自然脅威からの逃避の歴史ともいえる。

 79年にソレント半島の小さな山が爆発を繰り返し,ポンペイなどの町を埋没させながら標高1281kmにまで達した。こうして誕生したヴェスヴィオ火山は,その後何世紀もナポリを脅威にさらし続けており,ナポリへの溶岩流を止めたという聖ジェンナーロを町の守護聖人にしている。しかしそれより先に注目された火山地は,湾の西側のフレグレイ平原周辺であった。この平原は,ギリシア人が理想とした農業拡大,職人産業,航海中継地としての機能を十分に備えていた。肥沃土に広がる柑橘類,ブドウ園などの農地,鉱泉の温泉地,変化に富む海岸は海水浴客で賑わい,港間を頻繁に船が行き交う光景は今も同じである。

 ポジッリポの丘から西方を望むと,ギリシア人の軌跡が一直線に並ぶ。眼下にニシダ島,バニョーリからポッツォーリへの海岸は半円を描いてミゼーノ岬で迂回し,そしてクーマ,ローマ方面へと続く。左手の小さな島がプロチダ島,その奥は標高788mの山をもつイスキア島が並ぶ。

 最初にギリシア人が定住したのはピュテクーサイ(イスキア島)で,中央にそびえるエポメオ山の尾根,つまり島を囲むどの海岸からも温泉が湧出し,古代から保養地として賑わっていた。起源については様々な説があるが,紀元前9世紀が有力である。そのわずか数十年後に,対岸のフレグレイ平原にクーマが建設される。フレグレイ平原中央のマグマは常に活動しており,地面から硫黄の噴気が上がり,幾つもの火口(火口湖)からなる穴だらけの土地である。そしてプロチダ島も五つの火口で湾が形成されている。

 ところでクーマやピュテクーサイを建設したのは,ギリシアはエウボイア島からのカルキス人で,他にも植民地を建設している。シチリア島の火山エトナ近郊や,ティレニア海とイオニア海を結ぶメッシーナ海峡付近が選ばれた。ギリシアからシチリアを経由する航路を利用し,カンパーニャ州の海岸全域の支配権を握るが,しかし彼等の理想社会システムを実現するには,フレグレイ平原は不十分な土地であった。というのも頻繁に起こる隆起や地盤沈下による建築物への被害は,深刻な問題であったからである。その証拠に,ポッツォーリの市場遺跡に残る円柱に,海面レベルの変化を示す穴を彫り込んで記録している。紀元前5世紀になると,カルキス人はクーマの地を捨て,湾を東に進んだゆるやかな傾斜地にネアポリス<新都市>を建設した。これが現在のナポリ旧市街の核となった。その少し前,クーマ東の岬に建設された居住核,つまり後のパラエポリス<旧都市>はロードス島からのギリシア人による。その後ナポリは城壁を徐々に拡げ,郊外の集落を吸収しながら西方へ向かって拡大していく。それはギリシア人が辿った行程を逆に進む拡張である。これには多くの理由が考えられるが,その一つはヴェスヴィオ火山からの逃避があるだろう。ヴェスヴィオ火山がどれほどナポリ市民を脅かし続けたかは,多くの絵画,古図,旅行者の日記などの記録にみることができる。真っ赤に炎が吹き出す地獄絵図のようであり,同時に抵抗不可能な様子を感じさせる。

 実際のネアポリス建設には,建設に最も適しているといわれる多孔質で耐久性のあるトゥーフォ(溶灰石)が使われた。そしてナポリの地下は,このトゥーフォ同様に空洞の連続となっている。ギリシア・ローマ時代に建設された水道施設やカタコンベが縦横に広がっているのであるが,2000年に渡って重層化したナポリの町を下からしっかりと支えている。

 ナポリで昔使われ,現在減りつつある名前に,<フィロメーナ>(filomena)というのがある。ギリシア起源の名前で,<歌人の愛人>という意味をもつ。女性の名前として使われることが一般的だが,フィロメーナの最後のアルファベットがギリシア文字ηに変型した名字を持つ人もいる。このフィロメーナという名前の女性を描いた,ナポリを舞台にした有名な映画と劇がある。元娼婦の主人公が,絶対絶命の状況において投げやり,無気力を感じながらも,トゥーフォのように耐えながら積み重ねていくしかない人生は,ナポリ都市史だけではなく,いかにもナポリのギリシア性を象徴しているようでもある。映画は有名俳優共演によるコメディで,原作はナポリ出身の劇作家エドゥアルド・デ・フィリッポによる。

 今年919日も,ナポリの守護聖人を祝うジェンナーロ祭がやってきた。聖人の血が入っている容器を市民の前で翳してみせ,その血が溶ければナポリは一年災いから守られるとされている。そして奇跡を見学に集まった市民の前で,聖人ジェンナーロは今年もナポリの安全を私達に保証してくれたのである。


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地中海人物夜話


ルイ・マシュエルと仏領北アフリカ


杉山 佳子


 1883年,第三共和政フランスによって保護領化されたチュニジアに公教育局が設置され,ルイ・マシュエルはその初代局長に任命される。彼はプロテスタントの信仰を持つヨーロッパ人でありながら,ムスリムの通う学校でコーランとアラビア語を学ぶが,他方ではフランス語による教育も受けている。ここでは,チュニジアの地で「諸民族の融合fusion des races」を掲げて教育に一生を捧げる彼の経歴を見てみたい。

 彼は18486月,つまりアブドゥルカーディルによる抵抗がフランス軍によって制圧された翌年のアルジェで生まれる。アルジェリアを支配するフランス陸軍は,各地で起こっていた反仏蜂起に対して武力による弾圧を繰り返し,他方で先住民の監視・統制を強化していった。大変な緊張状態にあったと思われる当時のアルジェにおいて,マシュエルはヨーロッパ人でありながらコーラン学校に通い,他方でフランス語による教育も受けているのである。

 マシュエルをコーラン学校に通わせたのは,父ブレモン・マシュエルであった。現地社会を研究するアラブ局の軍人の間では,アラビア語をあやつるヨーロッパ人というのも珍しくはなかったが,フランス軍のアルジェリア侵略開始時期(1830年)にフランスから渡ってきたであろう一介の民間人にすぎないブレモン・マシュエルもアラビア語をすでに習得していたのである。

 学業を終えた20歳のルイ・マシュエルはまず,アルジェリア総督府が設立した帝立アラブ・フランスコレージュのアラビア語教師に任命される。彼の仕事は,先住民首長の子弟たちの教育である。続いて,アルジェ,オランでアラビア語教師の職を歴任したあと,トレムセンのマドラサ視学官に就任する。ムスリム先住民ではないアラビア語教師マシュエルは,「現地社会を知っている」フランス人として,植民地当局にとって次第に重要な存在となっていく。

 1883年,マシュエルは保護領チュニジアの公教育局長に任命される。公教育相と首相を歴任したJ. フェリー,教育学者としても有名な公教育省初等教育担当課長F. ビュイッソン,外務省チュニジア問題担当課長J.-J. ジュスラン,チュニジア初代総督P. カンボンらが,ムスリム先住民に対する教育政策に関してすでにアルジェリアでの実績があるマシュエルの意見を求めたのである。一介の民間人の子弟であるマシュエルが,植民地社会安定の鍵を握る教育政策の立役者に大抜擢されたわけである。

 チュニスの公教育局でマシュエルは,学校の教室に理想の植民地社会を描く。彼によれば,チュニジア社会に暮らす「諸民族の融合」は,学校の教室で互いに肩を並べて勉強する経験によって実現される。しかしそこにおいてさまざまな出自を持つ生徒達がまず最初に学んでいたのはフランス語であったことに注意したい。彼らはフランス語を通じて思想を形成し,フランスの指揮下で保護領発展のためそれぞれに働くことを学んでいたのである。カンボン,ジュスランらと共にアリアンス・フランセーズ設立(1883年)にも関与していたマシュエルは,アラブ・イスラーム世界の言語文化に一定の敬意を示しつつもやはり,保護者フランスとフランス語を頂点として階層序列化された植民地社会を理想としていたということだ。その一方でマシュエルは,チュニジア人向けのアラビア語・イスラーム教育の保存に努めると同時に,ヨーロッパ人向けアラビア語教育の普及にも力を入れた。フランス語に限らず通訳を介さない直接の意志疎通に,「諸民族」の相互理解の鍵を見たのである。彼自身の言葉で要約すれば,次のようになる。「さまざまに異なった民族が互いに理解しあうのならば,彼らは意見の一致に非常に近いところにあるのです。反対に,互いに理解できない場合には,通訳の必要から衝突が生じてしまうのです。」

 自らの経験をもとに,学校の教室に植民地社会安定の夢を託したマシュエルは,1908年,公教育局長の職を辞任する。世紀転換期のチュニジアでは,次第にその数と政治的影響力を増していたヨーロッパ人植民者,本国から派遣される総督が指揮する保護領当局,およびチュニジア人としての権利を主張する先住民知識人層のあいだで,教育をめぐる対立が先鋭化していた。おそらくマシュエルにとっては,理想の実現を半ばにしての不本意な辞任だったに違いない。

 19228月,教師時代からの夢であったアラビア語辞典の出版を見ないまま,マシュエルはチュニス近郊の街マクシュラ・ラデスにて死去し,イスラーム様式の墓に現在も眠っている。


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失われた街道集落

──紀元千年のヴィア・フランチジェナとブルグス──


西村 善矢


 イタリア中部の農村景観をいろどる要素のひとつに,丘の上や斜面に点在する城塞集落がある。一般に城塞集落の起源は,10世紀から13世紀にさかのぼる。中世の領主は,自然の要害に城塞(カストルム)を建設し,さまざまな優遇措置を講じて,近隣の村落に居住する農民を囲壁の内部へと引きつけていったのである。しかし,城塞集落の建設に先だち,一部の地域では9世紀までに集村化の動きがみられた。それは,「ヴィア・フランチジェナ(フランキアからの道)」という街道に沿って形成された,通常は防備施設をともなわない集落である。

 この交通路を敷設したのはランゴバルド人である。だが,この街道がヨーロッパを代表する幹線道路としての地位を獲得したのは,774年にカール大帝がランゴバルド王国を征服してからのことだ。それ以後,フランキアをはじめとするヨーロッパ諸地域の人々は,ローマ行のルートとしてこの街道を好んで使用するようになる。そのひとりに,990年頃ローマに赴いたカンタベリ大司教シジェリックがいる。この大司教はローマを発ってイングランドに戻るさいに,ヴィテルボからシエナ,ルッカを経てアペニン山脈を越え,さらにパヴィアから大サン・ベルナール峠を経由してアルプスを通り抜けている。第三回十字軍遠征を終えたフランス王フィリップ・オーギュストも,1191年にこの道路を通ってフランスに帰還している。もっとも,王侯・貴族や教会人,軍隊ばかりでなく,ローマ巡礼に赴く農民や品物を携えた商人も,この道路を頻繁に往来したのはいうまでもない。

 フランチジェナ街道沿いに立地する集落は,当時の史料では「ブルグス burgus」という用語で表現された。このブルグスについては,南トスカーナのモンテ・アミアータ修道院に伝来する羊皮紙文書からうかがうことができる。ここで,紀元千年頃ある巡礼者が,シエナから南東に約40キロの地点にあるサン・キリコ・ドルチャを出発し,アミアータ山岳地帯を越えてローマをめざしたと仮定しよう。自分の足に頼るしかないこの巡礼者にとり,サン・キリコからローマ教会領の入口にあるアクアペンデンテまでは,徒歩で3日を要する行程であった。それでもこの旅人は,数キロごとに分布するブルグスで休息をとることができた。まずオルチャ川を渡ってレブリッコレという街道集落を通り,フェルモーネ渓谷を遡って同名の集落を通過すると,分水嶺付近でムリエルマラ(「悪女」という意味)というブルグスに達する。そこから今度は,モンテ・アミアータ中腹にたたずむ修道院を西方に望みながらパーリア渓谷を下ると,カレマーラ(「悪路」),ヴォルトーレ,ブルゴリコ(「リゴ川のブルグス」),チェンテノという4カ所のブルグスを経て,アクアペンデンテにたどり着く。

 これらの定住地が成立した背景には,交通路整備と巡礼者支援の任務を王権からゆだねられていたモンテ・アミアータ修道院が,トスカーナ辺境伯やシエナ伯,在地貴族と競合しながら,街道沿いに巡礼者用の施設を建設したという事情がある。しかし,活発な人と物の流れに引きよせられた近隣の村落住民の移住が,街道集落の発展を決定づけた。その結果,たとえばカレマーラはすでに830年に居酒屋(タヴェルナ)1軒をそなえていたが,紀元千年頃には集落を画する堀の内外に複数の居酒屋をかかえ,人口250名を越すブルグスに成長している。また当時のヴォルトーレは,仕立屋3名と石工1名をふくめて 400名の人口を数えた。一方,12世紀の史料からしか裏づけられないものの,これらの集落には巡礼者に宿と食事を提供し,行き倒れの旅人を看護する施療院(クセノドキウム)が付設されている。さらに,ブルゴリコから10キロほど脇道にそれると,ローマ時代以来の温泉町であり,「浴場管理人bagnarius」や靴職人を擁するバーニョ(サン・カシアーノ)がある。こうして紀元千年の巡礼者は,「悪路」(と悪女?)に悩まされながらも,長旅ですり減らした靴を新調し,居酒屋で空腹を満たし,宿泊・救護施設で一夜の床を確保することができた。また,当時は古代や中世後期にくらべて温泉浴がさほど盛んではなかったが,「露天風呂」で一日の疲れを癒すことも可能であった。

 ところがその後,カストルム建設の波がアミアータ地方を襲った。なかでも,パーリア川をはさんで街道筋とは反対側にある斜面の頂に建設されたラディコファニは,軍事拠点ならびに宿場町として急速に発展を遂げ,人の流れをブルグスのならぶ本道から奪うことになった。こうして,12世紀から13世紀にかけて既存の定住地の大部分が放棄されていく。以後この地域の定住地は,ラディコファニや修道院門前町など,わずか数カ所の城塞集落に収れんするのである。

 こんにち,フランチジェナ街道に沿って前世紀に敷設された国道2号を歩いてみると,あれほど多くの住民をかかえていたアミアータ地方のブルグスが,ほとんど跡形もなく消え失せていることに驚く。せいぜい,ぽつんとたたずむ農家や数軒の家屋の群がり,そしてわずかばかりの遺構が,かつての繁栄をとどめるのみである。アミアータ地方の定住史を再構成した歴史家クリス・ウイッカムは,中世初期の定住地と交通路のネットワークを史料から掘り起こし,これを「埋もれた景観paesaggi sepolti」と名づけた。この葬り去られた街道と集落が,多少なりとも千年前の賑わいをとり戻すには,次回の聖年とされる2025年を待たねばならないのだろうか。


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表紙説明 地中海の水辺13


エブロ川/貫井一美


 イベリア半島にあるほとんどの大河川は大西洋側に注いでいるが,エブロ川は,地中海へと流れている。スペインの北,ウエルバやガリシアに源を発するいくつかの小さな川がサラゴサで合流して「エブロ」という大きな流れとなって地中海へと注ぐ。スペインの大河川は他のヨーロッパの大河川と比較するとその水量は少なく,特にエブロ川の水量はドナウ川(毎秒6,520立方メートル)やローヌ川(毎秒1,712立方メートル)と比較すると毎秒614立方メートルと極めて少ない。しかし,たいていのスペインの河川がそうであるように「エブロ」もまた半島の不規則な気候条件によって安定性に欠け,その水量の変動幅が広く,夏に渇水する地中海性気候の影響を直接反映している。エブロ川の水位は春と夏では時には15倍という差が生じる。

 地中海に注ぐこの気まぐれな「エブロ」はサラゴサのピラールの聖母大聖堂の傍らをゆっくりと流れていく。サラゴサの町の名は,ローマ人が建てた町「カエサル・アウグスタ」にあると言われ,西ゴート,イスラムの時代を経て1118年,アラゴンのアルフォンソ1世によってキリスト教徒の手に戻り,王国の首都となった。しかしスペイン王位継承戦争やナポレオン軍の包囲戦などによって歴史的建造物は破壊され,その由緒ある歴史を今日に留めているものは極わずかである。古き時代のサラゴサの景観は,ベラスケスとその弟子で娘婿でもあった宮廷画家マルティネス・デル・マソの《サラゴサの風景》(プラド美術館)によってよく知られている。「エブロ」をはさんで反対側の岸から描かれたこの作品には画面前景に貴族や王の従者たちの姿が描かれ,「エブロ」には舟が浮かび,遠景にサラゴサの町が望まれる。

 17世紀フェリペ4世の治世,特に1630年代,40年代にサラゴサはハプスブルク王家の洗礼式や婚礼,葬礼の儀式の舞台となった。1626113日,しばらくの間国王の訪れがなかったサラゴサはフェリペ4世の来訪に沸き立った。豪華な式典が催され,その夜エブロ川は花火で作られた城で華やかに彩られたと言う。そうしてこの町は30年代,40年代と数回にわたり名誉ある国王の来訪を受けることになる。しかし,サラゴサと「エブロ」の流れは国王フェリペ4世にとって,そしてスペイン・ハプスブルク王家にとって深い悲しみの地ともなったのである。

 1646年,国王は皇太子バルタサール・カルロスを伴ってこの地を訪れた。皇太子は間もなく17歳になろうとしていた。度重なる戦と財政破綻などの重圧に疲弊していたフェリペ4世と王国にとって若々しい力にあふれた皇太子はまさに王国の将来を担う唯一の明るい光であった。しかしスペインはその光をこの地サラゴサで失うことになる。同年109日,皇太子は天然痘に倒れ,サラゴサは彼の終焉の地となった。葬儀はサラゴサのサンタ・エングラシア修道院聖堂で盛大に営まれたと言う。《サラゴサの風景》は,その皇太子自らがマソに命じて描かせたとされる作品である。皇太子の眼に映ったサラゴサと「エブロ」の風景は父王の胸に深い悲しみとなって記憶されたであろう。その後フェリペ4世はこの地を訪れることはなかった。「エブロ」の流れはフェリペ4世の来訪を華々しく祝したが,その絶望的な悲しみを流すことはできなかったのである。


 


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地中海学会事務局
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電話 03-3350-1228
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