地中海学会月報 250

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2002| 5  



   -目次-

学会からのお知らせ

 

学習院大学への招待
      島田  誠

グローバルとローカルの間のイタリア
      尾形希和子

フィデンツァへの旅
      児嶋 由枝

最古の国際外交書簡
──アマルナ文書──
      直江千寿子

自著を語る
『色彩の回廊──ルネサンス文芸における服飾表象について』
      伊藤 亜紀


表紙説明 地中海の水辺
アルノ川/仲谷満寿美

 

 

 

 

 

 

 


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学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞

 地中海学会では今年度の地中海学会賞および地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次のとおりに授与することになりました。両賞の授賞式は622日(土)に学習院大学で開催する第26回大会の席上において行います。

地中海学会賞:イタリア文化会館

(副賞 エールフランス航空提供パリ往復航空券)

 イタリア文化会館は長年にわたり,講演会・シンポジウム・音楽会などを催し,その地道で継続的な活動によってわが国におけるイタリア文化の紹介,日伊文化交流に大きな成果を上げ,さらに地中海文化の紹介にも功績があった。

地中海学会ヘレンド賞:秋山聰氏

(副賞 星商事提供50万円)

 秋山氏の『デューラーと名声──芸術家のイメージ形成』(中央公論美術出版 2001年)はルネサンス・イタリアとドイツの関係を視野におき,ドイツにも広まるイタリア人文主義の影響のもとで,画家デューラーがいかに芸術家としての自己イメージを形成し,今日まで続く名声を手中にしたかを文献を駆使しつつ斬新な視点から分析した画期的な業績である。


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*『地中海学研究』

 『地中海学研究』XXV(2002)の内容は下記のとおり決まりました。

・トリマルキオの邸宅における「ポルティクス」(Sat.29および72)──空間とその機能について  藤沢(今井)桜子

・ビザンツ帝国の異端対策──異端学と対策法規の分析から  草生 久嗣

・ジャケス・デ・ヴェルトの手紙──16世紀のイタリア多声世俗声楽曲研究から見たその意義  園田みどり

・フィレンツェ公国における印刷・出版とコジモ1世の文化政策──ロレンツォ・トレンティーノによる公国印刷所(15471563)  北田 葉子

<研究ノート>ローマ支配下ヒスパニアの都市法典──法律の中の都市のイメージ  志内 一興

<研究ノート>ルネサンス後期の「君主論」と政治プロパガンダ──ヴァザーリ《コジモ1世の戴冠》を解読する  石黒 盛久

・書評 秋山学著『教父と古典解釈──予型論の射程』  野町  啓


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*第26回総会

 先にお知らせしましたように第26回総会を622日(土),学習院大学で開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いします(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)。

一、開会宣言

二、議長選出

三、2001年度事業報告

四、2001年度会計決算

五、2001年度監査報告

六、2002年度事業計画

七、2002年度会計予算

八、役員人事

九、閉会宣言


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6月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。発表概要は月報249号をご参照下さい。

テーマ:『書簡集』からみるマルシリオ・フィチーノ像

発表者:小倉 弘子氏

日 時:68日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

    (最寄り駅:JR・営団地下鉄「四ッ谷」)

参加費:会員は無料,一般は500


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*会費自動引落

 今年度の会費は423日(火)に引き落とさせていただきました。引落の名義人は,システムの都合上,地中海学会ではなく,「三井住友ファイナンスサービス」となっています。この点ご了承下さい。

 なお,学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。


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学習院大学への招待

島田  誠

 

 6月22日・23日の両日,学習院大学にて第26回地中海学会大会が開催される。東京で大会が開催されるのは第22回大会(慶應義塾大学)以来になるので4年ぶりと言うことになる。現在,盛大かつ意義ある大会とすべく準備を進めている最中である。主催校所属の会員として,できるだけ多くの会員の方々に参加していただくために学習院大学と目白のキャンパスを紹介したい。

 学習院大学は,昭和24年4月1日に新制大学として設立された私立大学である。設立当初には文政学部・理学部の2学部,学生数320名であったとのことである。現在の学習院大学は,法学部・経済学部・理学部・文学部の4学部に大学院6研究科を加えて学生数9千人あまりの中規模大学である。筆者の属する文学部には,哲学,史学,日本語・日本文学,英文,独文,仏文,心理の7学科が設置されている。

 学習院大学の母胎となった学習院は,弘化4年(1847年)に京都で開講された公家の教育機関である学習所を淵源とする。その後,明治10年(1877年)1017日,東京の神田錦町に華族子弟の教育機関として学習院が開業された。開業当初の学習院は文部省管轄の私立学校であったが,明治17年に宮内省所管の官立学校となった。宮内省の下の学習院には,一時期,大学相当の別科(大学科)が開設されたことがあるが,基本的に初等・中等・高等科からなる学校であった。第2次世界大戦敗戦後の昭和22年,学習院は宮内省の所管を離れて私立学校として再出発し,2年後に新制大学として学習院大学が発足したのである。

 学習院の校地は,開業以来,神田錦町・虎ノ門・四谷を経て,明治41年に至って中等科・高等科が北豊島郡高田村(現在の目白)に移転した。現在の目白キャンパスは,北は目白通りに面し,東には明治通りと都電荒川線,西にはJR山手線が走っている。最寄り駅は山手線目白駅であり,改札を出て右に曲がると直ぐに学習院西門が見える。日曜日には西門は閉められるが,目白通りを生け垣沿いに数分間歩くと正門に着く。また都電では早稲田から2駅目,鬼子母神前の一駅手前が学習院下である。

 目白は,山手線で新宿から6分,池袋からは3分と,東京の繁華街からさほど離れてはいない。しかし学習院のキャンパスは緑の木々に恵まれ,落ち着いた教育的雰囲気を保っている。そのキャンパス内には歴史的に価値ある建物や特色ある建物がある。また史跡や名所も幾つか学内に所在する。

 正門を入ると,右側に,22日の懇親会会場となる創立百周年記念会館が見える。正面には緑の木々に囲まれた白い木造建物(北別館)がある。北別館の後ろには10階建の白い建物である北2号館が見える。この建物は,文学部の研究棟として用いられているが,1階の展示室で西田幾多郎の史料が展示される。正門から学内に進むと,右側にグランドがあり,その南側に比較的新しい茶色の建物が見える。この建物には法人と大学の本部,さらに大教室が幾つか入っており,その2階が,今回の地中海学会大会の会場となる。

 さて学習院のキャンパス内で,最も古く歴史的に価値ある建物は,先に触れた北別館である。この建物は,明治42年に旧学習院の図書館として建てられたものであり,現在も約7万点の古文書を所蔵する史料館として用いられている。北別館の東側には,車寄せ付きの玄関を備えた古い木造建物である東別館がある。この建物は,現在も演習など少人数用の教室として用いられている。その他,昭和2年に建てられ,クラシックな外観の南一号館(現在は理学部研究棟),昭和35年に建てられたピラミッド型の中央教室なども特色ある建物である。

 キャンパスの西南の奥には,幾つかの史跡(名所)がある。まず「血洗の池」は,堀部安兵衛が「高田馬場の決闘」の後で血刀を洗ったと伝えられる場所である。その南の富士見台は,江戸時代には眺望の優れた場の一つであり,富士見茶屋(別名,珍々亭)があったという。富士見台には,江戸時代の歌碑や芭蕉の句碑などがある。また「乃木館」と呼ばれる古い木造家屋がある。明治41年に開寮した寄宿舎の一部だが,第10代院長であった乃木希典が学生と寝食を共にした建物である。その建物の側には「御榊壇」がある。乃木院長が当時の日本領土各地から集めた80個の石で築いた塚に榊の木を植えたもので,乃木希典と明治天皇をしのぶ場所とされる。

 このような歴史を有し,都会の真ん中とは思えない雰囲気を持つ学習院大学のキャンパスで開催される第26

回地中海学会に是非ともご参加下さい。


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グローバルとローカルの間のイタリア

尾形希和子

 

 2,3月とローマに滞在した。今年1月より通貨がユーロに切り替わったこともあり,EUの中のイタリアを強く感じた。変化は様々なところに現れ,たとえば,午後1時に閉まっていたヴァティカンのアポストーリカ図書館は,閉館時間が夕方5時になっていた。これはイタリアがヨーロッパ・スタンダードに近づきつつあるということで大変喜ばしいと,関係者の間ではもっぱらの評判だった。一方で,ドイツの学術研究機関が運営するヘルツィアーナ図書館が新館建設のため1月より休館になっていた。フェデリーコ・ズッカリが設計,フレスコ画装飾を施したパラッツォにあるこの美術・建築関係図書館は夜遅くまで開いており,フィレンツェのドイツ研究所とともに美術史家にとってきわめて貴重な図書館である。同館ホームページによれば工事期間は未定だが2005年一杯までかかりそうだとあり,蔵書の一部が近代美術館に移されるという噂もあり,はっきりとしたことがわからないドイツらしからぬこの「いいかげんな」事態は,反対に「ドイツがイタリア化したのだ」と冗談まじりに囁かれていた。展覧会なども,現在ヴェネツィアで開催されている,フランス人のキュレーション,ヨーロッパ企業の後援による「ピュヴィ・ド・シャヴァンヌからマティス,ピカソまで」のように,マルチナショナルな大規模な企画が目立つようになった。

 昨年は訪伊の機会を逸したが,思えば2000年の聖年にはすでに「ヨーロッパの中のイタリア」が強調されていた。サン・ピエトロ聖堂を頂点とするローマの七つのバジリカの巡礼のため世界各国から信者が訪れ,ヨーロッパ内からは陸路で入る巡礼者グループの大型コーチがローマ中に溢れ返り,本屋には七つのバジリカや他のローマの巡礼地ガイドはもちろん,ヨーロッパの巡礼路網に関する本,中世の巡礼ガイドブックの復刻本などが平積みされていた。サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路に連なる路には,聖ヤコブにちなむ巡礼者のシンボルの「帆立て貝」の印が看板や浮き彫りなどの形でいたるところに見られるが,イタリアでも,いわゆるヴィア・フランチージェナと呼ばれる中世の巡礼路沿いのフィデンツァやポッジボンシなどにその印が見られた。ヨーロッパ中に張り巡らされた巡礼路網の存在を今一度見直すこうした動きも,おそらくはEU統合の歩みと歩調を合わせて行なわれていたのだろう。

 2月一杯までは各国の従来の通貨も並行使用されていたが,3月1日からはいよいよユーロのみの使用となった。1ユーロは1,936リラである。それまで大きな数字で買い物をしていたものが,急に数が小さくなり,たとえば千リラのチップも,50チェンテージミ(セント)ではあまりに少ないような気がして,ついうっかりお金を使いすぎてしまう。またユーロへの換算の際の半端分は大抵切り上げされる。少なくとも今までの1.5倍の早さでお金が飛んでいくというのがイタリア人の言である。それに見合うだけ給料がアップするかどうかは疑問であるが,物価は確実に上がって「ヨーロッパ・スタンダード」に近づいていくのであろう。

 ずっと慣れ親しんできたリラが無くなるのは残念だと思う人は多い。228日にはトレヴィの泉前で,リラに別れを告げる祭典があったという。紙幣そのものの質が良くデザインも美しいイタリアが誇る近年のリラ札のかわりに,どの国のものもほとんど同じユーロ紙幣や貨幣に変わってしまうのにもかかわらず(裏面のデザインのみが異なる。ちなみにドイツのコインは帝国の象徴の鷲の図柄で,やはりお国柄が出ているとイタリア人は顔をしかめていた),イタリア人はユーロを意外にもすんなり受け入れた。ユーロ導入は確かに一つのヨーロッパとしてアメリカと並ぶ経済圏となるために必要であり,換金の不便も解消されるのかもしれない。しかし,リラの時代にはイタリア独自の貨幣というだけでなく,時には500リラ貨幣にヴァティカン市国やサン・マリーノ市国独自のものが混じっていて,イタリアという国の多様性を感じさせてもいた。

 沖縄に住んでいると,世界中で同じ情報を共有できるグローバル化の簡便さと同時に,個々の地域の特性が失われる危機感を強く感じる。今更ながら「スローフード」などと銘打って取り沙汰されねばならないほどに,イタリアですらかつての独特の生活習慣や時間の流れを失いつつあるのを,訪伊のたびに目の当たりにしてきた。一方でイタリアでは,日本とは比べ物にならないほど各州の自治が認められており,いまだに地方独特の文化が強く生き残っている。同時にボッシ率いる北部同盟などの北部ナショナリズムのようなものも内部に抱え込んでいる。現在ヨーロッパ全体が右傾化の流れの中にあるが,経済のグローバル化に反対して警官隊とデモ隊が衝突したのも昨年のイタリアのジェノヴァ・サミットでの出来事であった。世界中の地域がグローバル化とローカル性の間で揺れているが,イタリアもまた同様に自身の道を模索している。


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フィデンツァへの旅

児嶋 由枝

 

 イタリア留学中,ピサのスクオラ・ノルマーレ・スペリオーレというところに提出する博士論文の準備に没頭していた。テーマはフィデンツァ大聖堂(12世紀〜13世紀前半)の建築と彫刻について。フィデンツァは北イタリアを横断するエミリア街道の真ん中あたりに位置するとても小さな町である。

 現地調査と古文書館に通うため,ピサとフィデンツァの間をローカル線に乗って本当に何度も何度も往復した。列車はピサからちょっとだけアドリア海沿いを北上した後,サルザーナから内陸へ入り,アペニン山脈を越えてポー川平原へと下る。もうひとつのアペニン越えであるフィレンツェ─ボローニャ線が幹線で,トンネルをいくつもくぐってあっというまに到着するのとは対照的に,幾度も大きく迂回しながらゆっくりと縫うように険しいアペニン山脈を抜ける。ピサを朝一番の6時8分に出発する列車をいつも利用していた。早朝,まだ薄暗い時刻に当時暮らしていた学生寮から駅に向かう。そして白々と夜が明けるなか,隣駅のリボルノ発のがらがらの客車に乗り込み,約3時間の列車の旅が始まる。この旅はいろんな意味で特別である。

 アペニンの峠を境に空気も植生もがらりと変わる。アペニンの南側ではいかにもトスカナの,からりとひらいた風景にオリーブなど地中海性低木林が点在している。それに対し北側では,穏やかな日差しと柔らかい肌触りの空気のなかに肥沃な穀倉地帯が広がり,そこに大陸性の混合樹が微妙な陰影を落としているのである。同様に列車の中でかわされる言葉も変化する。近隣への通勤・通学客がほとんどなので乗客が頻繁に入れ替わるのだが,アペニンの南ではトスカナ特有のかわいた響きと明快なアクセントが車内を賑やかにしている。一方,峠を過ぎると,今度は柔らかくささやくような,低声で歌うようなエミリアの言葉が耳に心地よく響く。

 そして列車は平野にすべりこんでしばらくしてからフィデンツァ駅に到着する。冬期は平野部に入ったとたん真っ白な霧につつまれ,やがて突然,霧の中から駅が現れる。50センチ先も見えない濃い霧の中では音さえもおぼろで,ホームに降りたっても,人々の話し声も走り去る列車の汽笛もどこかとても遠くから聞こえてくるようである。こうした光景は夏には一変する。端から端まで歩いて15分もかからない小さな町の周囲にひろがる田園から,土と家畜の匂いが駅にも漂ってくる。そして,そうしたのどかさにはおよそ似つかわしくない広い,何本もホームが連なる,しかしがらんとした駅が見渡せる。

 フィデンツァ駅に何本もホームが並んでいるのは,ミラノとボローニャを結ぶ幹線といくつもの支線が交差する交通の要衝だからである。そして,ここに美しい大聖堂が建造されたのも同じ理由による。フィデンツァは中世初期から交通の要地で,かつては北イタリア,さらにはアルプスの北からローマに向かう人々は,北イタリア各地を結ぶ街道を通ってフィデンツァに集まり,大概フィデンッツァに一泊してからアペニン越えの街道を進んだ。それゆえにフィデンツァには沢山の市場や宿場が立ち並ぶようになり,さらに守護聖人の聖遺骸を奉じる聖堂は重要な巡礼地となった。そして,小さいながらも豊かな町の聖堂であると同時に巡礼聖堂として,今日の大聖堂が建てられたのである。

 ところで,先のフィデンツァを起点とするアペニン越えの道は,中世にはヴィア・ロメア(ローマ街道),もしくはヴィア・フランチージェナ(フランク人の街道)と呼ばれていた。この道はカール大帝によるロンゴバルド平定以降,特にローマに赴くフランク人によって利用されたからである。その後,16世紀以降,この道は次第に使われなくなっていった。しかし実は,この道はピサとフィデンツァを結ぶ今日の鉄道路線とおおよそ重なる。すなわち,この列車の旅は中世の道をいくらかでもたどる旅でもあるのである。

 それは私にとっては夢と現実を結ぶような不思議な旅でもあった。ピサでは,大学や図書館に通い,時には友人たちとパーティーをしたりと通常の学生生活であったのに対し,フィデンツァでは神父さん宅にたいがい2週間ほど泊まって,冬は白い霧に,そして夏は田園の匂いにつつまれたこの小さな町とその大聖堂の歴史を聖堂や古文書館の中で探る。晩には柔らかな言葉を口にする農家や職人の家族と夕食や食後酒をともにする。彼らの大聖堂に対する深い愛着に接するたびに,私はいつも自身の研究が途方もない企てのように感じ,無力感を覚えたものだが,でも,彼らの穏やかな口調とほほ笑み,そして柔らかな町の空気にそうしたことすべてが癒されるようだった。そして帰りには,広い駅を次々に停車せずに通過していく列車の汽笛を聞きながらピサ行きの列車を待つのだが,それはあたかも私を夢の世界から現実に連れていく列車を待っているような心地であった。

 


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最古の国際外交書簡

──アマルナ文書──

直江千寿子

 

 古代オリエント世界において,国と国,または地方都市はどのような関わりを持っていたのだろうか。それが分かる史料として豊富に残存するのが,勝者と敗者という関係で記されている戦勝碑文である。しかし戦勝碑文は勝者である列強国の王の側からの記述のみで占められており,国際関係といえるものが見られるものではない。他には経済文書や条約文書,旧約聖書やエジプトのウェンアメン物語のような文学作品等が挙げられるが,国際関係といえるような外交面がうかがえる最古の史料としては,アマルナ文書が挙げられるだろう。

 アマルナ文書は1887年,エジプト中流域に位置するテル・エル=アマルナで偶然にも粘土板文書として発見された。アマルナ文書は,文書が書かれた紀元前14世紀のオリエント世界において,共通語として用いられていたアッカド語で主に記されている。もっとも,アッカド語が母語であるアッシリアとバビロニア以外の国からの文書は,各国の基層言語等の影響を受けた「周辺アッカド語」で記されている。

 現在382点に及ぶアマルナ文書(EA 1-EA 382)には,350点の書簡の他,書記の養成学校で用いられたと思われる32点の辞書や文学テキスト等も含まれている。これらの書簡には差出人名と宛名が記されていることが多く,アマルナ文書が紀元前14世紀後半にエジプトの王であったアメンヘテプ3世と,その息子であり後継者であったアクエンアテンの治世に(その後のスメンクカーラーやトゥトアンクアメンにまで及ぶ可能性もある),エジプトと諸外国とで交わされたものであることが分かる。しかし,残念ながら発見された文書はエジプトで保管されていたものだけで,エジプトから送られた書簡は,一部コピーと思われるものがエジプトに残されている以外,他国では未だ発見されていない。

 書簡がやり取りされた紀元前14世紀後半は,アマルナ時代と呼ばれている。この頃のオリエント世界には,エジプトをはじめ,バビロニアやアッシリア,ミタンニ,ヒッタイト,アラシアという列強の国々が林立し,勢力均衡状態が生じていた。当時エジプトの支配下にあったシリア・パレスティナの都市国家の間では,紛争が絶えず起きていたが,大国同士の戦争が見られなかったという点では平和な時代であったといえる。このような時代背景があって,エジプトと列強国,シリア・パレスティナの属国との間で,平和的な対話ともいえる書簡の交換が行われていた。

 書簡の内容は変化に富み,アマルナ時代のオリエントにおける国際関係の他,各々の国の特徴を垣間見ることができる。エジプトと列強国との間では,友好関係を深めるために,列強国からエジプトへは戦車や馬,ラピスラズリ,銅等が贈られ,またエジプトからは金が諸外国への贈り物として,使者や書簡と共に交わされた。またエジプトはミタンニやバビロニアとの間で,王室間の国際結婚(=エジプト王と外国の王女との政略結婚)を行い,絆をより堅固なものにしようと図っていた。一方シリア・パレスティナの属国に対しては,安定したエジプト支配の為に様々な情報を提供させていた。属国の方からも他の属国との紛争(特にエジプト最北領であるアムルの侵攻について)に関する苦情や,エジプトの介入を要請する内容の書簡が送られてきていた。特にビブロスの領主リブ・アッディからの書簡には,エジプト王が「何故この様に(何度も)宮廷に書き送ってくるのか」(EA 106)と言うほど,ビブロスの圧迫とアムルやシドン等の隣国による不正行為を訴えるものが多数残されており,アマルナ文書においてその数は傑出している。

 しかしこのような平和的な対話は長続きせず,再び大国同士の領土拡張による戦争が見られる時代になっていくが,その予兆がアマルナ文書からもうかがうことができる。台頭してきたヒッタイトの南進によるミタンニの衰退・滅亡と,北シリアにおけるエジプトの覇権の喪失。またアッシリアの強大化によるバビロニアの強大国としての地位のぐらつきや,疫病によってアラシアが壊滅的な被害を受ける等,アマルナ時代末期のオリエント世界ではもはや書簡でもって外交ができる状態ではなくなってしまっていた。

 常に覇権を競い合っていたオリエント世界において,たとえ短期ではあっても書簡を通じて平和的な外交が行われていたことは注目に値する。戦勝碑文等からはうかがうことができないような,細かな諸国の事情や各国の思惑が読みとれる史料として,アマルナ文書はオリエント世界を知る上で欠かすことのできない重要な史料である。


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自著を語る26

『色彩の回廊──ルネサンス文芸における服飾表象について』

ありな書房 20022月 270(カラー8) 4,000

伊藤 亜紀

 

 私は月に一度,友人と渋谷に出かける。そうすると,彼女は必ず私をユニクロへ引っぱっていく。言わずと知れたカジュアルウェアの巨大チェーン店だ。殺風景な店内にある簡素な造りの棚には,色とりどりのシャツ,ブラウス,カーディガンが所狭しと並べられ,ハンガーにはズボン,台上に靴下が雑然とおかれている。安価で品数豊富,大いに結構だが,些かロマンに欠ける光景だ。

 これらの衣類は,同じスタイル,同じ素材でありさえすれば,いかなる色や柄であろうと同じ価格がつけられている。つまり,ここではあらゆる色が等価値に扱われているというわけだ。客は自分の好みにしたがって赤,青,黄,緑,黒,白,その他の色の品を手にとり,レジへもっていくことができる。

 現代とは,色彩の選択が自由な時代だ。我々はもはやそのことに何の疑問もありがたみも感じなくなっているが,それを可能にしたのは,いうまでもなく19世紀に登場した化学染料である。すなわちそれ以前の世界では,染料は自然界の動植物から得ていたため,その価格や染色技術の難易度が各色によって異なっていた。そして美しく染め上がる堅牢度の高い染料は,それにふさわしい素材に用いられ,さらにその布を身にまとうのは,必然的に「しかるべき身分」の者に限られる。かくして各々の色のあいだに,「格差」が生じることになる。

 本書は,そのような色彩のヒエラルキーが明確に存在した1416世紀という時代を対象としている。舞台はイタリア。高名な紋章学者ミシェル・パストゥローの色彩論が,主にフランスの史料に基づくものであるため,あの無数の色彩あふれる絵画作品を擁するイタリアを中心に据えた論をぜひ書いてみたいという気持ちが以前から私にはあった。まず15世紀フィレンツェの新興貴族プッチョ・プッチの財産目録にみえる衣類を分析することによって,当時の色彩の着こなしの一例を提示し,さらに染色マニュアルから各色の染料と染色方法を明らかにした。そしてそのような実生活における色彩使用と,文学・美術作品における色彩シンボリズムとの関わりを論じている。「赤」「青」「黄」「黒」「緑」「ポルポラ」の6章構成だが,赤をとりあげた第1章が全ボリュームの半分以上を占めることになった。フィレンツェの薬種商ルカ・ランドゥッチの日記やレオナルド・ダ・ヴィンチの「マドリッド手稿」にみえる衣裳リスト,その他書簡や説教集の類──それらすべてが,当時の人びとの赤という色調に対する並々ならぬこだわりを物語っている。そしてさまざまな色調の赤い衣裳は,ダンテやボッカッチョ,フランチェスコ・ダ・バルベリーノ等の文学作品をも華やかに彩る。ヒーロー,ヒロインのまとう赤は,時として読者に重要なメッセージを発信する。

 いっぽう青は,今でこそサッカーのナショナル・チームのユニフォームに採用されるポピュラーな色であるが,ルネサンス期以前のイタリアでは,この色の衣裳は財産目録のような史料にも文学作品にも,驚くほど記載が少ない。同じ時代,隣国のフランスでは,青は王家の紋章や服に採り入れられて重んじられたのとは対照的である。その他,ユダヤ人や娼婦に課されたという経緯をもつ黄,14世紀以前は専ら喪の際にしか身につけられることのなかった黒,ある種の祭事には着られたが,高貴さには欠けるとされた緑など,いずれも目眩く展開する多様な赤の世界に比べると,そのシンボリズムは決して豊かであるとは言えない。

 そしてポルポラ。古代以来,富と地位に恵まれた者だけがまとうことができたという歴史をもつこの色であるが,中世末期以降,そのシンボリズムが如何なる展開をみせたかをボッカッチョ作品を例に論じた。ちなみにこれを他の5色と揃えて和名とすべきかについては,私は最後まで悩んだ。イタリア語のporporaには,通常「真紅色」「緋色」「紫色」などの訳語が与えられるが,この色名の語源である貝の分泌液を加工した染料で染めた遺品の色もまた,燃えるような深紅からくすんだ小豆色まで,多種多様である。さらに本書で扱った1416世紀のいかなる文献も,この色の真の色調を明らかにしてはくれない。他国の,しかも古い時代の色名を日本語に移し替えることがいかに難しいかを感じた次第である。

 色彩とは,眼には快いが,一度踏み込むと,その無限の拡がりにただただ茫然としてしまう世界である。本書において私がしているのは,単に「大海の水を小さな穴に移そうとする」ような試みに過ぎないかもしれない。しかし本書を手にとって下さった方々が,今後中世・ルネサンス期の絵画や文学作品に接した際に,そこに描き出された人物の衣裳の色が奏でる響きに少しでも耳を傾けるようになっていただければ,色彩の魔力に囚われた筆者としては光栄の至りである。


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表紙説明 地中海の水辺11

アルノ川/仲谷満寿美

 

 アルノ川は,イタリア半島のなかではテヴェレ川に次いで二番目に長い川である。花の都フィレンツェを流れるアルノ川は,ローマ時代に築かれたというこの都市の歴史を片時も休むことなく見守ってきた。由緒ある古都を右手に見ながら悠然と流れくだるさまは,京都の鴨川の風情と似ていなくもない。フィレンツェは1965年に京都市と姉妹都市盟約宣言を行っている。

 鴨川とはちがって,アルノ川は現代もなお狂暴な顔を見せることがある。夏の観光シーズンには水量が少なくて貧弱な川に見えるが,春先や晩秋の雨の季節になると信じられないほど水かさが増える。渇水季には毎秒7立方メートルしかない水量が,増水すると毎秒2,000立方メートルにも達し,ときには洪水を引き起こす。とくに,196611月の大洪水はフィレンツェやアルノ川下流地域に甚大な被害をもたらし,今日でもなお語りぐさになっている。

 このような暴れ川であるせいかどうかはともかく,『神曲』ではアルノ川はひどい川だと語られている。といっても,この箇所の語り手は地元の人ではなくてロマーニャ地方の人なのだが。いわく,上流のアレッツォ人が小犬のように卑怯なのも,中流のフィレンツェ人が狼のように凶暴なのも,下流のピサ人が狐のように狡猾なのも,みんなアルノ川のせい。アルノ川などという名前は滅びるほうが良いのだ,と。

 だが,アルノ川の名声は滅びはしない。この川はローマ時代には文学的な興趣とはあまり関係がなかったが,ダンテの登場によって,彼の故郷の川としてイタリア文学の表舞台におどり出た。

 ダンテは,ラテン語で書くときには,アルノ川のことを「サルヌス川」と呼んだ。サルノ(サルヌス)川はナポリ近郊を流れるまったく別の川のことである。ダンテを崇敬してやまなかったボッカッチョも,この珍奇な用語には首をかしげた。ダンテとしては,『アエネーイス』にも言及されている「サルヌス川」こそが,理想郷としての太古のフィレンツェを流れる川の名にふさわしいと思われたらしい。

 理想の愛を歌いあげた文学作品としては,ダンテの『新生』にまさるものはないだろう。『新生』は,永遠の淑女ベアトリーチェに捧げられた愛の記憶の書である。純白の衣装に身をつつんだベアトリーチェが二人の女性に付き添われて通りかかりながらダンテに優しく会釈をしてくれた十八歳のときから,彼の愛はさまざまな紆余曲折を経ながらも,生涯変わることがない。詩と散文で巧みに織り上げられたテクストは,平易でありながら重層的な意味を秘めており,「イタリア文学史上最初の書物」とも呼ばれている。愛の心象風景を綴るこの小品には,具体的な地名はまったく現われない。しかし,いつしか,ダンテとベアトリーチェの衝撃的な邂逅の舞台はフィレンツェのサンタ・トリニタ橋のたもとだったと信じられるようになり,後世の芸術家たちの想像力を大いにかきたてた。

 


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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話 03-3350-1228
FAX 03-3350-1229

 



 
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