地中海学会月報 248

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2002| 3  



   -目次-

 

 

 

 

 

 

 


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学会からのお知らせ

 

 

4月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:レオナルド・ダ・ヴィンチ素描《イザベッラ・デステの肖像》

発表者:松下 真記氏

日 時:420日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 

 レオナルドが1499年末マントヴァ侯妃を直接モデルにして制作したとされる素描《イザベッラ・デステの肖像》には,横顔と四分の三正面上体の不自然な組み合わせが描かれる。侯妃による横顔形式の強要に屈したとして,同素描はしばしば画家の肖像画法の変遷の中では,二級品,失敗作と見なされる傾向がある。しかし同素描の構図を引用したティツィアーノの例は,同素描が同時代の文脈においては「失敗作」ではなかったことを示唆する。

 


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*春期連続講演会

 春期連続講演会を54日より25日までの毎土曜日,ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は午後130分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館受付で予約可能)です。

「地中海都市を読む──歴史と文化」

54日 フィレンツェとヴェネツィア  高階 秀爾氏

  11日 サラマンカ──知の発信拠点  清水 憲男氏

  18日 アレクサンドリア──海底考古学の最新成果から  牟田口義郎氏

  25日 シチリア都市の光と影  陣内 秀信氏

 


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*第26回地中海学会大会

 第26回地中海学会大会を学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において,下記の通り開催します。詳細は別紙の大会案内をご参照下さい。

622日(土)

13001310 開会挨拶

13101410 記念講演

 「シシリー島に背中を向けて──シャルル・ダンジューはどこを見ていたか」  堀越 孝一氏

14251455 総 会

15001530 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

15451715 地中海トーキング

 「江戸と地中海」

  パネリスト:荻内勝之氏/陣内秀信氏/田村愛理氏/司会:末永航氏

18002000 懇親会

623日(日)

10001200 研究発表

 「ヘレニズム時代のキリキア地方──セレウコス朝とプトレマイオス朝の鬩ぎ合い」  芳賀  満氏

 「ウェルギリウス『牧歌』第3歌とオルペウスの像」  日向 太郎氏

 「古代末期美術における人物像着衣装飾文様の用途と変容について──ピアッツァ・アルメリーナとアルゴスのモザイクを中心としたセグメントゥムの表現」  四十九院仁子氏

 「カンパネッラのテレジオ受容」  澤井 繁男氏

12001330 昼 食

13301630 シンポジウム

 「地中海とアルプスの北」

  パネリスト:秋山聰氏/川端康雄氏/吉川文氏/司会:高橋裕子氏

 


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*会費納入のお願い

 新年度会費の納入をお願いいたします。

 口座自動引落の手続きをされている方は,423日(火)に引き落とさせていただきますので,ご確認下さい。ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。

 


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秋期連続講演会「地中海遊歴 II」講演要旨

太陽を慕う者

──イタリアを旅した日本人──

末永  航

 

 維新を経験し明治の日本をつくった世代の後,開国し欧化政策をとりだした新しい日本で育った次の世代がヨーロッパ,地中海世界に旅行しその体験を書き記すようになる。明治の終わりから大正時代を中心として昭和の初めまで,大正教養主義といわれるような雰囲気の中で若い日を過ごし,第二次大戦後の日本を指導するようになるこうした人々のイタリア旅行の記録を,当時の刊本の装丁なども見ながらご紹介したのが今回の講演だった。

 明治初期の美術関係者などを除いて,近代の日本人にとってイタリアは学ぶべき先進国のひとつではなかった。だからイタリアだけに留学したり仕事で滞在したりした人はほとんどいない。渡欧の本来の目的はドイツ,イギリス,あるいはフランスで,イタリアはそこから旅行にいくところだったのである。

 しかしそれでも第二次大戦の戦前戦中期に育った日本の知識人の誰もが知っていて,そして憧れていたイタリアのイメージが三つあった。アッシシの聖フランチェスコと森鴎外訳のアンデルセン『即興詩人』(初版明治35年)の世界,そして詩人で作家で行動の人でもあったダヌンツィオである。どれも今からは想像しにくいほど高い関心をあつめていて,日本人のイタリア旅行にも当然その影響が現れる。

 この世代で最初にまとまったイタリア旅行記を著したのは,嘲風と号した宗教学者の姉崎正治だった。明治35年のイタリア旅行の記録『花つみ日記』(博文館,明治42年)の表紙にはFioretti d'Italia(イタリアの小さな花)と書いてあり,「小さき花」で知られる聖フランチェスコの故地を訪ねることがこの旅の目的だったことを暗示している。文字通りイタリアで摘んだ押し花の写真も添えられたこの愛らしい本のすべてが姉崎のイタリアに寄せる思いを物語っている。

 この後,姉崎の勧めもあって新教旧教両方のキリスト教関係者が次々とフランチェスコ関係の書物を出版し,やがて宗教の世界を越えて「アッシシの貧者」は良寛さんのようなイメージで日本に定着していく。

 有島武郎の弟有島生馬は日露戦争の時,画家修行のためにイタリアに向かった。帰国後『白樺』に参加,『蝙蝠の如く』をはじめ,「イタリアもの」とでも呼べそうな見聞に基づく小説を発表する。しかし生馬はイタリアの美術や文物に,本当には魅力を感じなかったらしく,フランスに移り,やがてセザンヌの紹介者として日本の美術界に登場することになる。

 同じ『白樺』の同人でも,生馬とは逆にイタリアのルネサンス芸術にヨーロッパの本質を見いだしたのが,イギリスで英語の劇作家として生きようとして夭折した郡虎彦だった。郡は結核の治療のためジェノヴァの病院に入り,スイスのサナトリウムで亡くなる。

 大正期になると,西洋美術を研究しようとする若い学者たちが留学をはじめる。イタリアを専門とする人たちでも留学先は英独仏で,そこからイタリアに見学に出かけた。結核で早く亡くなる慶應義塾の澤木四方吉がいちばん早く本物をみた。三月ほどの旅行しかできなかったが,『美術の都』というエッセイでの高い調子のイタリア紹介は新鮮な感動を多くの人に与えた。

 その後三井の総帥團琢磨の長男團伊能,『白樺』同人だった児島喜久雄,東京美術学校の講師矢代幸雄,後にモダニズム・デザインの唱道者としても活躍する板垣鷹穂などがイタリアの風物と美術を紹介するが,もっとも強烈な紀行文は矢代の『太陽を慕ふ者』だった。イギリスにまず渡ったものの北国の暗さに耐えかねた矢代は明るいイタリアに移り,元気を取り戻してボッティチェッリの研究に没頭する。若さにあふれたこの著書ではフィレンツェの美しさを情熱的に語りながら,下宿の女中に欲情する悩みも赤裸々に告白し(後の版で削除),日本の学生のイタリアへの憧れをかきたてた。

 また濱田青陵,大類伸など史学者,太宰施門など仏文学者,伊藤廉などの画家,阿部次郎,安部能成,小宮豊隆など夏目漱石の門下たち,外交官となる詩人の柳澤健もイタリアに長い旅をして紀行記を出版するし,田中耕太郎,大沢章(いずれも法学者),岩下壮一神父といったカトリック信者たちも思想や美術にも深い理解を示している。

 今回の標題は矢代の著書から採ったのだが,考えてみれば日本は決して日光の当たらない国ではない。太陽が恋しくなるのは,この人たちがヨーロッパの北方に居たからだった。日の当たる国から当たらない国に留学した者にとって,イタリアは気休めの,あるいは新たな希望の場所だったのである。

 


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研究会要旨

15世紀後半のフィレンツェにおける<トビアと天使>の図像の注文と受容状況

芳賀 里恵

1124日/上智大学

 

 旧約聖書外典の「トビト書」を出典とする<トビアと天使>の図像は,15世紀後半のフィレンツェにおいて急速に人気を得て大量に描かれた。この図像が制作された背景に関する研究としては,1945年のアッヘンバッハ,1949年のゴンブリッチの説があり,対峙する両説は今日でも必ず参照されるもので,その後は個別研究がされてきた。しかしながら,常に並列的に参照されることからも知られるように,両説は意義が認められているが未だ解決されていない問題を含んでいる。

 当時のイタリアにおいて守護天使の概念自体は広く流布していたことを受けて,アッヘンバッハが主張する商人が息子の旅路祈願の奉納を目的とした説,両者が指摘する兄弟会を中心とした宗教,加えて地域的な状況についても視野に入れ,実際に作品と注文に関わる史料を検討することで,<トビアと天使>が制作された背景について考えた。

 15世紀後半のフィレンツェで最も繁盛した工房のひとつであったネーリ・ディ・ビッチの工房は,ゴンブリッチが注目して指摘しているように多くの<トビアと天使>を制作した。一方,彼は1453(フィレンツェ暦1452年)310日から『覚書』の記載を始め,1475424日までの約22年間,記しているのでこれを考察の軸として用いた。

 『覚書』には<トビアと天使>の図像を含む絵画の制作依頼が9件,作品数で12点,絵画以外の作品3件の制作依頼があったことが記載されている。その中から,ネーリの工房で制作され,現存し,特定もされている<トビアと天使>を含む絵画作品3点に加え,『覚書』に注文の記載がないことから1475424日以降,つまり『覚書』が記された期間の後に,ネーリ工房で制作されたとされる《トビアと天使》1点の計4点を確認した。また,ネーリの工房以外で制作された作品で注文や制作時期の特定に関する研究者の意見が一致している<トビアと天使>を含む作品13点についても検討した。

 その結果,<トビアと天使>が描かれた理由が明確にわかっているのは,大天使ラファエルの顕現を記念して描かれたドメニコ・ディ・ミケリーノの《三大天使》とボッティチーニによる以下3点,イル・ラッファ:大天使ラファエル兄弟会の祭壇画である《三大天使》,「サント・スピリト教会のラッファのために」と記された《トビアと天使》,そしてイル・ラッファのメンバーが息子のために描かせた《トビアと天使》:《ドーニ家祭壇画》の計4点のみで,他の作品は,いずれもアッヘンバッハ説にもゴンブリッチ説にも特定することが困難となった。

 そこで作品の特定はなされていないが,『覚書』に記載がある他の10点も含め,改めて全部で27点を確認したところ,正確に判っているだけでもネーリ工房の14作品中8点と,他の作者による作品7点,計15点は作品の総数27点の約56%と半分以上が,何らかの形でアウグスティヌス会の周辺,及びサント・スピリト教会あるいは地区との関連で制作されていることが判明した。さらに確定的ではないが,その可能性が高いと考えられている作品2点を含めると計17点,割合にして63%が,同修道会の周辺で制作されたことになる。

 《三大天使》制作理由の明確なものにボッティチーニのイル・ラッファの祭壇画があるが,イル・ラッファは多数の<トビアと天使>の制作を依頼した兄弟会である。彼等は活動拠点を1455年にアウグスティヌス会のサント・スピリト教会に置いているのだが,これは同教会の修道士達が彼等に会合場所を無償で貸し与えたことによる。他方,サント・スピリト教会を中心とするアウグスティヌス会自身が,ボッティチーニによるイル・ラッファの祭壇画が制作される以前から,<トビアと天使>の図像の注文主であった事実,そして彼等の周辺で<トビアと天使>が制作された点数の上からも,彼等は<トビアと天使>に特別の関心をもっていたことが理解される。つまり<トビアと天使>の図像が,彼等にとって非常に重要な意味を持つものであったことから,大天使ラファエルを守護聖人にもつ兄弟会を彼等の教会に招いたと考えられるのである。

 時代が下って,17世紀末,ジョヴァンニ・バラッタの《トビアと天使》は,ネーリの《三大天使》がパッラ家の断絶によって取り外されたことにより,入れ替わりで設置され,現在もそこに姿を現わしている。つまりレオーの『キリスト教美術図像学事典』にあげられている「エクバタナへ旅立つ<トビアと天使>」12点中の2点が,同じサント・スピリト教会に据える目的で制作されていることになるのである。これは,時を隔ててもなおサント・スピリト教会には,<トビアと天使>の図像を好む伝統が受継がれていたことの傍証となっているのではないだろうか。

 


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研究会要旨

19世紀イタリアの建築と日本

──ボイトからカッペッレッティへ──

河上 眞理

1月19日/上智大学

 

 ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティ(Giovanni Vincenzo Cappelletti, Milano, 1843San Francisco, 1887?)は,1876年8月末,本邦初の官立の西洋美術教育機関である工部美術学校の教師として,フォンタネージ,ラグーザとともに来日し,教育に携わった。一方,カッペッレッティは《遊就館》及び《参謀本部》の建築家として名を残している。が,これらの建築を彼が生きた時代の中で考察するという視点はこれまで欠落していた。本発表ではカッペッレッティが19世紀中葉のミラーノで建築修業を行ったという事実をふまえて,彼が日本で建てた建築を19世紀イタリアの建築を巡る状況との関連から考察した。

 カッペッレッティは工部美術学校の「家屋装飾術」教師として招聘されたが,開校時これは開講せず,翌年6月に「予科」が新設され,これを担当した。来日から一年ほどの間のカッペッレッティの活動はこれまで不明であった。筆者の調査の結果,工部美術学校の教師としての雇用契約書草稿には,日本政府の要求によって工部省内外への出向の可能性も示されていたこと,また既に来日時には当局側の都合により「家屋装飾術」学科は消失していたことも判明した。従って,来日したカッペッレッティは,むしろ専門の建築に関する何らかの職務において積極的に起用されたと考えられる。事実,1877年1月8日付けのカッペッレッティ発大隈重信大蔵卿宛の書簡(大隈文書)は,建築家としての彼の日本での活動を示す最も早い証拠の一つだと考えられる。カッペッレッティは来日直後から建築に関する職務を得,建築家としての実力が認められて,陸軍省が建設することになった《参謀本部》及び《遊就館》の設計を担当することになったと考えられる。

 1878年2月,靖国神社(当初は東京招魂社と呼称)境内に「絵馬堂」建設の照会が提出され,同月着工した。これが後に遊就館と名付けられる。1881年5月4日竣工し,翌年225日館内の陳列が完成し,開館式が挙行された。《遊就館》は「北イタリアの中世の城塞を思わせるロマネスク様式」と評されたが,中世の北イタリアに流布したロマネスク建築に直接由来するのではなく,カッペッレッティが生きた時代のミラーノを中心に北イタリアに流布したネオ・ロマネスクの建築思潮が反映されているのである。この思潮の中心人物がカミッロ・ボイト(Camillo Boito, Roma, 1836Milano, 1914)である。イタリア王国統一運動期に建築修業をしたボイトにとって,統一された国民国家に相応しい建築の探求は生涯のテーマの一つとなり,具体的には中世建築の復権を謳った。ここには当時の欧州におけるリヴァイヴァリズム思想との関連もある。1860年,ボイトはミラーノ王立美術学校建築学科の教授として着任すると,ロンバルディア地方に見られる中世のロマネスク建築様式こそが,国家の伝統にかなうスタイルであると標榜し始めた。同じ年に初等建築学科に進んだカッペッレッティがボイトから直接,建築の薫陶を受けなかったとしても,ミラーノ市の建築行政にも関わっていたボイトの建築思想に触れる機会はあったと考えられる。1869年から1874年にかけてガッララーテに建てられたボイトの《病院》と《遊就館》を比較すると,ともに左右対称の煉瓦造で,表層には白い石(あるいはストゥッコ)を赤煉瓦の間に挟めた縁飾りのある半円アーチのモチーフが配されており,両者の類似は明白である。《遊就館》は,ボイトの建築思想を如実に反映したネオ・ロマネスク様式建築の日本での作例として捉えることができ,イタリア王国との同時代性をもった建築だといえる。

 一方,《参謀本部》(1878年9月に起工,竣工時期不明)は「イタリア文芸復興式」と評されたが,張り出した正面や青銅葺きと思しきマンサード屋根は17世紀バロック建築を思わせる。瀟洒な佇まいの建築様式の選択は,陸軍首脳陣が集う建築という用途と,皇居外堀という場所を考慮してのことであっただろう。さまざまな古典的な建築モチーフを折衷した建築様式は,ボイトの思想とは相容れないが,19世紀のイタリアを含めた欧州に見られるもので,やはり同時代性を認められよう。

 カッペッレッティの継承者には,サンフランシスコで彼に師事したという平野勇造(1864?)がいる。実際,平野の《上海日本公使館》は《病院》や《遊就館》の系譜にあるといえる。また工部美術学校で彫刻を専攻し,後に《旧秋田銀行本店本館》の外部設計をした山口直昭(1856?)とカッペッレッティとの関係については今後の課題としたい。

 19世紀のイタリアという時空間のうちに出現した建築が,カッペッレッティを通して東洋の国に伝播した事実を見直す必要があろう。

 


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地中海人物夜話

「アフリカ軍」のユースフ将軍と三枚の肖像

工藤 晶人

 

 1830年にフランスがアルジェリアを侵略した時,主役になったのは陸軍だった。この軍事占領地に与えられた正式名は「北アフリカフランス領」といい,そこに展開したフランス陸軍は通称アフリカ軍と呼ばれる。アフリカ軍の軍人達はすすんでアラビア語を習得して有能な統治者たろうとする一方で,現地人の「協力者」を探し求めた。そして,「協力者」はアルジェリアだけから見いだされるとは限らなかった。

 ユースフがアルジェリアに現れたのは,1830616日,フランス軍の上陸2日後のことだったといわれる。はじめは通訳として採用されたユースフは,司令官クローゼルに気に入られて「原住民部隊」の長に任命された。そしてアルジェリア各地を転戦し,ボーヌ攻囲戦,トレムセン遠征など数々の軍功をあげた。だが戦場での有能さとは裏腹に,占領地の統治を任されると残虐さと気まぐればかりが目立ち,評判は芳しくなかった。

 1839年に「原住民としての軍籍を残しつつ」フランス国籍を取得したこの人物は,いったいどのような前歴を持っていたのか。確かなことは知られていない。伝記の伝えるところによれば,1808年頃に当時フランス領だったエルバ島で生まれ,1815年にリヴォルノに向かう途中でチュニジアの私掠船にさらわれたという。チュニジアでは,ベイ(太守)にマムルークとして仕えていた。この時に駐チュニスフランス領事レセップス(スエズ運河建設で有名なフェルディナン・ド・レセップスの父)と知り合った縁で,アルジェリアに渡ったらしい。

 さて,この経歴にはいくつもの疑問がつきまとう。なかでも出生については諸説あり定まらない。イタリア生まれだという説や,じつはユダヤ人だったという説もある。確かなのは,ユースフがフランス語とアラビア語を流暢に操り,ムスリムとしてふるまっていたということだ。この頃に描かれた肖像画を見ると,ユースフはターバンと東洋風のガウンを身にまとい,豊かな髭を蓄えた姿で描かれている。

 ユースフは1845年に上官の妹と結婚し,キリスト教に改宗した。焦土戦術で知られたビュジョー元帥の庇護を得て,赫々たる戦歴は続くかに思えた。しかしこの頃になると,アルジェリア側の指導者アブドゥルカーディルの勢力が弱まり,武装抵抗自体が下火になっていく。ユースフは戦場を求めてクリミア戦争に参加したりもしたが,コレラで戦力のほとんどを失ってしまい成果をあげられなかった。その後のユースフは18561857年のカビリア地方制圧などに参加した。

 戦火が下火になるにつれて,ユースフは猟官に力をいれるようになったようだ。1851年には,『アフリカでの戦について』と題された,どちらかといえば凡庸な政策論を出版したりもしている。同じ年に,ユースフは念願かなって「フランス人士官として」将軍の位を手にした。アルジェ方面師団長をつとめた後にはレジオンドヌール大十字勲章という栄誉も得た。だが,前に述べたように,戦場を離れたユースフは必ずしも有能な行政官ではなかった。アルジェリア総督マクマオンに疎まれた彼は,フランス本国に任地替えになった直後の1866年にあえなく病死してしまう。晩年,将官になった頃の肖像写真は,通常の軍服を身につけ髭をダンディに整えたユースフの姿を伝えている。

 ところで,ユースフのもっとも知られている肖像は,ターバンの肖像画でも,軍服の記念写真でもない。三枚目の絵は,ロマン主義画家アシル・ドヴェリアの手になるリトグラフだ。この絵は,東洋風の装束に身を包んだ美丈夫ユースフが,宮殿の中で美しい娘と抱擁を交わしているところを侍従に見とがめられる,という構図になっている。主題となったのは,チュニジア時代のユースフがベイの娘と密通したというエピソード。この逸話はユースフ自身が広めたもので,作り話かも知れない。いずれにせよユースフが色男だったことは確かなようで,この後宮の恋というエピソードは,当時のフランス人の異国趣味とあいまって大変に流行した。

 アフリカ軍の軍人達は,ユースフに限らず,多くの武勇譚や逸話を残している。それらは植民地史を英雄的に彩るものとして演出され,流布していった。ユースフのロマンスを描いた絵は,アフリカ軍にまつわる一連の物語の中にくみ込まれ,彼が歴史に名を残すのに一役買うことになったのだ。もっともユースフ本人は,そんな名誉よりも,生前のいっそうの出世を望んでいたのかも知れないけれど。

 

 

 


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<寄贈図書>

 

『イタリアの路地と広場』上下巻 竹内裕二著 彰国社 2001

『サレルノ養生訓──地中海式ダイエットの法則』佐々木巌著 柴田書店 2001

『ティツィアーノ ピエトロ・アレティーノの肖像』F.モッツェッティ著 越川倫明・松下真記訳 三元社 2001

『サマルカンド年代記──『ルバイヤート』秘本を求めて』A.マアルーフ著 牟田口義郎訳 ちくま学芸文庫 2001

『フランス・ルネサンス舞踊紀行』原田宿命著 未來社 2002

『色彩の回廊──ルネサンス文芸における服飾表象について』伊藤亜紀著 ありな書房 2002

『エジプト学研究』早稲田大学エジプト学会 7 (1999-1)

『マルカタ南 魚の丘遺跡出土彩画片の研究 II』早稲田大学古代エジプト調査室 1999

『文藝言語研究』筑波大学文芸・言語学系 40 (2001)

『羚Rei 2 (2001年冬季号)

 

 


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表紙説明 地中海の水辺9

スエズのドラマ/牟田口義郎

 

 「東」と「西」の結婚といわれたスエズ運河の開通式は18691116日から21日にかけてエジプト太守イスマイルと建設者のフランス人,F.レセップス主催のもと,フランス皇后ユジェニー,オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフらヨーロッパの名士1,000人以上を乗せた蒸気船70隻の参加を得て,盛大に催された。何しろ,長さ160kmのこの運河により,西ヨーロッパからアフリカ南端の喜望峰経由でインドに至る航路の日程が半分近くも縮まったのである。

 これはまさに交通革命と呼ぶにふさわしい世紀の大事業だった。以来,「世界最大の海洋運河」という記録は破られていない。

 しかし,このような国際的大事業の陰には,必ず政治ドラマが介在する。スエズの場合は,運河建設に終始反対したイギリスが,開通後の繁栄を見て政策を転換,一夜にして運河支配者になるという超一級のドラマである。

 そもそも近代において,スエズ地峡に運河を掘る計画を建てたのは,1798年,エジプトに侵略したフランス軍の司令官ナポレオン。彼の戦略目標は,この運河により,イギリスの生命線であるインド・ルートの死命を制することで,自身,現地調査さえやっている。

 この「見果てぬ夢」を受け継いだのがレセップス。エジプト駐在の領事だった彼は,フランスのその後のスエズ調査資料に通じていたため,退官後,運河の掘削事業に生涯を賭け,「門を世界に開く」という理想主義をスローガンに掲げたが,イギリスにとって見れば「フランスの利益になるものはわが国の利益にならない」のであった。

 しかし,運河が開通してみると,利用船舶の8割が英国籍であるという事実を突きつけられ,イギリスは国策変更を迫られたが,経営者である国際スエズ運河会社の1株株主でさえなかった。どうすればよいか?

 その時,千載一遇の好機が訪れた。背伸びしすぎた近代化のおかげでエジプトは借金の山をかかえ,187511月,イスマイルは最後の資産である運河会社の持株全部を手放さざるを得ず,400万ポンドでパリに買い手を求めた。これを知ったディズレーリ英首相は言い値で買い取ったので,イギリスは即座に同社の筆頭株主となる。それは会社の総株数の44%に相当したからだ。「世紀の乗っ取り」……。

 以後同社は「国の中の一国家」としてエジプトを支配していく。この「宝の川」を取り戻したのは新生エジプトの大統領ナセルで,彼は1956726日における運河会社国有化宣言のなかで,手掘り作業という人海戦術に駆り出された農民たちの苦労を回顧した上で,次のように演説した。

 「運河はエジプトの利益に奉仕すべきだったのに,反対にエジプトが運河に属するようになってしまった。今日,われわれはその権利を取り戻した。私はエジプト人民の名において,この権利を守り抜くことを宣言する!」(図版はアメリカ議会図書館蔵,C.Z. Rothkopf, The Opening of the Suez Canal, New York 1973より)

 


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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
電話 03-3350-1228
FAX 03-3350-1229

 



 
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