地中海学会月報 244

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|11  



   -目次-











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学会からのお知らせ

*第26回大会研究発表募集

 第26回地中海学会大会は,来年6月22日〜23日(土〜日)の二日間,学習院大学(東京都豊島区目白1-5-1)において開催します。詳細は決まり次第お知らせします。ご期待ください。

 なお,本大会での研究発表を募集します。発表を希望する方は2002年2月8日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。


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*常任委員会

・第4回常任委員会

日 時:2001年4月7日(土)

会 場:上智大学7号館

報告事項 第25回大会に関して/『地中海学研究』XXIV(2001)に関して/研究会に関して/石橋財団助成金に関して/月報広告依頼に関して 他

審議事項 2000年度事業報告・決算に関して/2001年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/会費長期未納者に関して 他

・第5回常任委員会

日 時:2001年6月30日(土)

会 場:沖縄県立芸術大学奏楽堂

報告事項 役員人事に関して/研究会に関して/春期連続講演会に関して/科研費に関して 他

審議事項 第25回大会に関して/秋期連続講演会に関して/自動退会者に関して

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表紙説明 地中海の水辺5


中世初期の井戸/城戸照子

 多くの支流を網の目のように張り巡らせて,イタリア北部を東西に横断して流れる美しいポー河。クレモナを起点にポー河河畔の都市を訪ねて,豪華客船で1週間を過ごすクルージングツアーが,人気上昇中だそうだ。二隻目としてカサノヴァ号(終点がなぜかヴェネツィアだからこの名だろうか)の就航を見込んでいる程らしい。

 ところでおよそ千年前のポー河は,今よりもっと美しかったろうが,豪華客船の似合う優雅さにはほど遠い。水辺と水流はもっと切実に日常生活に関わっており,時に経済的利害関係の対立する紛争の舞台でもあった。中世のポー河流域の人々の水辺の生活を,王文書や修道院の土地台帳を繰ってちょっと覗いてみよう。

 まず川辺には,修道院の粉挽き水車が何基もある。利用者は穀物を粉に挽き,設備の使用料として一定の穀物を納めていく。魚釣りも重要な経済活動で,河川に権利を持つ領主は川の一部を囲って,魚溜まりになる養魚池を作っている。ある王文書には修道院の苦情をうけて,舟は養魚池をよけて航行せよと書かれている程だ。

 舟着き場に舟を係留すると,そこの権利を持つ領主に利用税を支払う。ポー河とその支流域は行き交う舟の多い重要な交通路で,ヴェネツィアの塩などが搬入される大事な流通経路でもある。河川の支配権は税収源として重要なのだ。幹線水路のポー河から支流の例えばアッダ川に入るときは,合流地点の舟着き場で河川航行税や渡河税を支払わなくてはならず,この税の徴収をめぐって王領地の役人とクレモナ司教が争う係争文書が残っていたりする。どうやら一見静かな水辺にも,賑やかで忙しい活動が展開していたようだ。

 もちろん水の調達にも,河川は重要だった。農業用水としても生活用水としても,ポー河とその支流の水が人々の命を潤してきたのである。ローマ帝国期の導水システムが残存したイタリアでは,河川から導水管で水を引く設備も含め,公共の井戸や雨水を貯めて汲み上げる地下の貯水槽などが,中世にも利用できた。早い時期から司教や修道院が中心となり,それらが改修,拡充されて再利用される。大がかりな導水設備が利用できない普通の人々でも,井戸か貯水槽から水を汲むことができた。こうした水は料理用だったらしい。

 そこで,井戸である。図版は,ラヴェンナ司教マキシミアヌス(546〜556)の頃の象牙レリーフで,イエスがサマリアの女と井戸端で出会った挿話の表現とされる。女性はイエスの方を向いてつるべの端をしっかりと握り,水瓶が石積みの井戸の壁に立てかけられている。レリーフ製作当時の井戸の姿がこうならかなり立派な給水設備だといえるが,こうした井戸は同時期のポー河流域の集落にもあったと思われる。ただし料理用とは別に,身体を洗う水と洗濯用水は泉や水流で汲んで家屋内の水桶や水槽に貯めておいたらしいので,河川に水汲みに行く人々もいただろう。いずれにせよ,水の管理と支配,利用には,当時の社会関係が映し出されて興味深い。まさしく「水鏡」といったところだろうか。

(図版出典:Paolo Squatriti, Water and Society in Early Medieval Italy. AD400-1000, Cambridge, Cambreidge University Press 1998)


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地中海人物夜話

北仏人と地中海

──アルフォンス・ド・ポワティエの生涯──

加藤 玄

 前から気になっている人物がいる。名はアルフォンス。1220年生まれ,フランス国王ルイ8世の五番目の息子である。成人後に与えられた所領に由来する呼称ポワティエ伯アルフォンス(Alphonse de Poitiers)の方がむしろ人口に膾炙しているであろうか。

 彼の生きた時代は,まさにフランス王家の所領拡大期にあたる。アルビジョワ十字軍終結後の1229年,彼は南仏最大の諸侯であるトゥルーズ伯レモン7世の娘ジャンヌと婚約。ポワトゥとオーヴェルニュ地方を所領とし,岳父レモン7世の死後1249年に伯領を獲得した。かくして,王国最大の諸侯となった彼は同時に優れた行政手腕を発揮する。後に王国統治のモデルとされた南仏の行財政司法制度の基盤を確立し,兄の国王ルイ9世がイェルサレム滞在中は国政を代行している。しかし,彼に関する叙述史料はあまり残されておらず,一個人としての彼を知りたいという欲求を満たすのはなかなか困難である。『テオフィールの奇蹟劇』で著名なリュトブフが残した頌歌『ポワティエ伯哀歌』において,アルフォンスの描写は「神を愛し,聖教会を敬い」,「騎士の鏡」,「貧者を愛し,施しをなし」,「厳格な裁判者」云々と続く。これには敬虔なキリスト教徒,熱心な十字軍指導者であるルイ9世像が重ね合わされているふしもあろう。

 彼の病気に関する一つのエピソードがある。お付き司祭がルイ9世に宛てた手紙によれば,アルフォンスは1251年末に麻痺に襲われている。幸いにも一命は取り留めたものの,病根は深く,今度は眼病を患ってしまう。フランス人医師にさじを投げられ,藁をも掴む思いでイブラヒムなるユダヤ人医師にすがる。この医師の来歴も興味深い。「サラセン人の国」の出身であり,アラゴン王国にて開業しつつ,交易で財をなしたという。南フランスで名声を博したところから察するに地中海を叉に掛けた人物であったらしい。しかし,むろん,教会会議の決議はキリスト教徒がユダヤ人医師にかかることを禁じている。また,当時のフランス国内でのユダヤ人に対する仕打ちを鑑みるに,パリの宮廷まで遠路はるばるというわけにはいくまい。件の医師が実際にアルフォンスを治療したかどうかは不明である。アルフォンスが失明したという記録もないから,治療法を指示し,治療薬を煎ずる程度のことはしたのではないか,という推測は成り立つ。もっとも,以後アルフォンスがユダヤ人を厚遇したわけでもなく,ラングドックにおいて,ユダヤ人の財産没収並びに追放を容赦なく行っている。このあたり,敬虔と言うよりも柔軟であると言うべきか,悪く言えば,節操がない。

 アルフォンスにつきまとうイメージには「侵略者の北仏人」というものもある。普段はパリ周辺に居住し,二度の十字軍遠征時に短期間だけ南仏に滞在した彼に南仏人の忠誠が及びにくいのも当然かもしれない。上記のジャンヌとの婚姻では,勝者の息子が敗者の娘を娶るのだから,領地の併合を目した政略結婚の性格が強いとあればなおさらである。ただし,この解釈にも若干の留保を要する。1269年2月,兄ルイの要請で,アルフォンスは妻ジャンヌとともに二度目の十字軍へ出発する。帰途中に二人とも病没することを予測していたのか,同年5月,遠征軍の集結地点エグ・モルトの近郊で夫婦は遺言を作成している。この遺言中のトゥルーズ伯領の相続に関する部分に夫婦の差異が見られて興味深い。ジャンヌのそれは,ラテン語でローマ法に則って作成され,伯領の大部分を自身の親族に,残りをシャルル・ダンジューに遺贈することが詳細に記述されている。それに対し,アルフォンスのそれは,フランス語で書かれ,長さの割に中身が乏しい。相続人への遺贈にも言及しているが,「法と慣習による」という以外には具体的な相続人を定めてはいない。伯領の簒奪者と言うよりも用益権者として,真の相続者である妻に対する遠慮を窺うこともできよう。

 ジョワンヴィルのような優れた伝記作家に,敬虔さを喧伝され,列聖されたルイ9世。飽くなき征服欲を持ち,ナポリ・シチリア国王となり,1282年のシチリアの晩鐘事件でその「地中海帝国」建設の夢を絶たれたシャルル・ダンジュー。同時代を生きながら,強烈な個性を持った他の兄弟と比べるとアルフォンスの生涯はやや地味な感じは否めない。しかし,兄のようにパリにサント・シャペルといった華美な教会を建設するよりも,南仏にバスティドと呼ばれる集落を地道に建設して所領の統治に役立てる方を好んだ彼は,十字軍という兄の夢に殉じながらも,名よりも実を取る現実主義者だったのではないか。彼の残した膨大な行政史料を前にすると,そんなアルフォンス像が浮かんでくる。


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ブワイフ朝以前の10世紀前半のダイラム人・ギール人傭兵隊長の活動

柴山 滋

 10世紀前半のイラン北部の地域はアッバース朝カリフの権力が衰退し,様々な地域の利害関係者が互いに競いあった,イラン史上の「ダイラム人の幕間」と呼ばれる時期であった。9世紀末にエルブルズ山脈西部の山岳民であるダイラム人とその麓のギーラーンの農耕民であるギール人の大部分は,アリー家のハサン・アル・ウトルーシュの宣教に応じてイスラームに改宗し,タバリスターンとグルガーン地方のアリー家国家の再建に協力し,917年のハサンの死後は宗教の影響が薄まった国家を建設した。この地域は935年以降,ブワイフ朝によって統合されていくが,その前段階で活躍するのが,リーリー・ブン・アル・ヌウマーン,アスファール・ブン・スィーラワイフ,マーカーン・ブン・カーキー,マルダーウィージ・ブン・ズィヤールの4名のダイラム人・ギール人の傭兵隊長である。

 リーリー・ブン・アル・ヌウマーンについては,多くのことが知られているわけではない。彼はハサン・アル・ウトルーシュの息子達に仕えた指揮官の一人であった。彼はハサンの義理の息子で,かつ後継者であるハサン・ブン・アル・カーシムにより,920年にグルガーンの代官に任命された。921年,ハサンはダイラム人・ギール人に略奪のはけ口を与えるためにリーリー指揮の下,当時サーマーン朝の配下にあったホラーサーンに派遣した。彼はダームガーンを占領し,さらにニーシャープールとメルブまで手中に入れたが,サーマーン朝の大軍によりトゥースに追い込まれ,敗死した。

 アスファール・ブン・スィーラワイフは,923年,前述のハサン・ブン・アル・カーシムとハサン・アル・ウトルーシュの息子達の紛争の中で台頭した。最初,彼はハサン・アル・ウトルーシュの息子のアブー・アル・カーシムと結んだので,マーカーンに追われ,サーマーン朝のニーシャープール総督の支配下に入った。925年のアブー・アル・カーシムの死により彼の甥のアブー・アリーをもりたて,927〜28年にマーカーンをタバリスターンから追放した。しかしアブー・アリーの死後,マーカーンはタバリスターンを回復し,アスファールはグルガーンに戻り,サーマーン朝からそこの知事に任命された。その後,ギール人のマルダーウィージの援助で,再びタバリスターンの支配者となった。彼の勢力はグルガーン,ライ,カズウィーン,その他のジバール地方の諸都市に拡大した。彼はサーマーン朝に貢納することで彼の権威の一層の拡大を図り,次第に独裁を強化した。しかし931年,配下のマルダーウィージの反乱を招き,アラムートに逃れる途中で,殺害された。

 マーカーン・ブン・カーキーは,タバリスターンのアリー家の王子達の配下で実力を伸ばした。彼はハサン・ブン・アル・カーシムと同盟し,アスファールと対立した。928年にアスファールに敗北し,一時ダイラムへ逃れたが,勢力を挽回し,930年までにタバリスターン,グルガーン,ホラーサーンのニーシャープールに至るまで支配した。しかしマルダーウィージの躍進を止めることはできず,彼はタバリスターンを失い,ホラーサーン地方のサーマーン朝の領内に撤退し,同朝からキルマーンの知事に任命された。935年のマルダーウィージが殺害された後,彼はサーマーン朝下のグルガーン知事となった。その後サーマーン朝から自立したが,同朝の討伐を受け,940年12月にライ郊外で敗死した。

 ズィヤール朝の創始者であるマルダーウィージの活動が明らかになるのは,前述のアスファールに仕えた後のことである。彼は主君の殺害後,その領地であるダイラム,ギーラーン地方を受け継いだ。その後,931〜32年までにディーナワール,イスファハーン,ハルワーンに至るジバール地方の大部分を獲得した。933年,マーカーンを破りタバリスターン,グルガーンを支配下に置いたが,貢納と引き替えにサーマーン朝と和解した。この時,ブワイフ家の兄弟が彼の配下に入った。934年,ブワイフ家のアリーの反抗を抑えるために軍隊をアフワーズに派遣し,そこを支配下に入れた。このようにマルダーウィージは,短期間でダイラム,ギーラーン,タバリスターン,グルガーン,ジバール,そしてアフワーズに至るまでの広大なイラン西部の諸地方を征服した。さらに彼はバグダードに進軍し,カリフ制を廃止し,ペルシア帝国復興を意図していたといわれるが,935年1月,イスファハーンで配下のトルコ人親衛隊の一部に殺害された。

 マルダーウィージの死により,その配下から自立したブワイフ家三兄弟のアリー(後のイマード・アッダウラ)はファールス地方,ハサン(後のルクン・アッダウラ)はジバール地方,アフマド(後のムイッズ・アッダウラ)はキルマーンとフージスタンをそれぞれ支配した。これがブワイフ朝の始まりである。


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地中海学会大会 研究発表要旨

メディチ家支配期のピサにおける都市構造と建築形態の変容

吉田友香子

 ピサはアルノ川下流域最大の都市だが,上流にはフィレンツェがある。フィレンツェもピサと同様に,古代都市がアルノ川の片側の岸に起り,中世の拡大を経て,街は川を挟さんで両岸に広がった。しかし両都市の川を都市構造の視点から比較すると,相違点が二つ浮かんでくる。一つは,ピサはフィレンツェよりも遥かに水運において,川への依存度が高かったことである。この影響が,川に点在した船着き階段スカーロ(scalo)や,川周辺の路地や広場の位置関係に読み取れる。二つ目は,ピサのアルノ川の方が曲線的で,両岸の建物と川が一体化していることである。古代から水運で利用されていた川は,メディチ家がピサを支配した15世紀以降(メディチ大公国時代)に整備され,「景観美」を伴った。そして川周辺の建物は,中世の塔状住宅カサ・トッレ(casa torre)からパラッツォへ変容した。結果として,アルノ川はより一層活気を増し,生活の主な機能が川周辺に集中した。また,川を舞台とした行事も多く行われた。

 具体的にメディチ家の支配期にピサで行われた都市整備計画を見てみると,沢山ある。それらの計画の中でメディチ家は,ピサが持つ「海洋都市国家」という長い歴史と栄光を,自ら「継承者」と称することで手に入れ,地中海で円滑に貿易を行うことを目論んでいる。このことは,古代からの政治の中心だった広場を,ヴァザーリに命じて全面改修し,そこにフィレンツェの海軍である「サント・ステファーノ騎士団」(Cavalieri di Santo Stefano)の本部を置いたことから推測できる。当時この広場は,セッテ・ヴィエ広場(Piazza delle Sette Vie),日本語で「七つの道の広場」と呼ばれ,実際に方々から道が集結し,市庁舎が置かれていた。メディチ家はピサを支配すると直ちに,中世の塔状住宅の構造を呈した旧市庁舎を,ルネサンスのパラッツォに改め,外壁に将軍の胸像や紋章を施した。さらに,騎士団の衣装を身に付けたコジモ1世の彫刻を正面に配置し,メディチ家と騎士団の権力誇示を,広場全体に打ち出した。

 地中海貿易と水運を手に入れたメディチ家は,アルノ川の東西の端に砦や要塞を築いて堅固にし,市内のアルノ川の安全を確保した後,川沿いにパラッツォを二つ建設した。また,川周辺の広場の整備も行った。中世では,店舗は種別で点在する傾向にあったが,ルネサンス以降,川周辺の広場の市に集約されていった。絵画的資料から,川のすぐ際まで仮設店舗が並んでいたことが確認できる。

 ピサのアルノ川の特徴である曲線も,河岸の様相を変える要因の一つと言える。何故なら,曲線的な川の流れと河岸の建物の連続性から,そこに「美意識」が芽生え,メディチ家支配期に,中世の塔状住宅カサ・トッレからパラッツォへ変容する現象が発生した。現在は中世の構造を好む傾向にあり,改修の際,中世のアーチを見えるようにしているが,メディチ家の時代はその逆で,それらを覆い隠していった。このことは,建物の側面が中世の構造を残す簡素なつくりであるのに対し,川に面した正面のみ綺麗にしている事実から立証できる。さらに壁面だけでなく,軒の装飾においても同様のことが言える。

 川沿いの建物のパラッツォ化が進むと,壁面の連続性の追及により,スカーロに対して伸びていた中世の路地の上にも建物が建設され,路地が一部トンネル状になる現象が連鎖的に起った。このようなトンネル状の路地は,ピサ市内では川沿いと,中世初期の城壁沿い(この城壁は現存せず)に集中している。

 以上のように,ピサはフィレンツェと同じアルノ川が流れていても,川と人々の生活が密接な関係にあり,メディチ家の政策と川の形状から,フィレンツェと全く異なった景観が形成されていった。メディチ家支配期に行われた川沿いの景観美の追求が,今日見られる賑わいとエレガントな立面構成を築く元になったと言える。このためピサでは,水辺の都市でよく行われる競艇レガッタ(Regatta)の他に,守護聖人のお祭の一つである灯火祭(Luminaria di San Ranieri)や,地区毎に形成されたチームが対戦し,街の中心のメッツォ橋上から相手を川に突き落とす「ジョーコ・デル・ポンテ」(Gioco del Ponte)といった行事が盛んに行われ,現在もその伝統を引き継いでいる。


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地中海学会大会 地中海トーキング要旨

島とうたと祈りと

パネリスト:赤嶺政信/井本恭子/松田嘉子/司会:武谷なおみ

 「自分の身のまわりを海に取り囲まれたことのない人は,世界という概念も世界と自分との関係も理解することはできない」と記したゲーテ。「もう私は後ろを振り返ることはありません……プロセルピーナの故郷が見たいのです。そして冥王がなぜ,彼の地で妻をめとったのかを知りたいのです」と手紙を認めたフランス人クーリエ。だが,異国の人間の想像力をかくも刺激する現実の<島>と<海>は,内に住む人間にとって,シチリア作家のシャーシャが語ったように「移民を連れ去り,侵略者を上陸させる」場所にほかならない。沖縄行きの飛行機が珊瑚礁の海に近づいたとき,今年の地中海トーキング「島とうたと祈りと」の司会役にあたっていた私の胸には,作家の想いが時空を超えて,次々と蘇ってきた。

 今回のパネラーは3人。チュニジア音楽の研究者で,演奏家でもある松田嘉子氏は「チュニジアは島ではないのに」と首をかしげながらも,アラブ世界を代表しての登場である。サルデーニャ島の習俗を文化人類学の視点から追うのは井本恭子氏。地元沖縄からは,民俗学が専門の赤嶺政信氏のご参加をえた。分野が異なる3人の間で,関心の共通項を求めるのはむずかしい。そこで唯一の約束事は,各人が「意中のうた」を名訳により紹介すること。その<うた>に説明を加えつつ,各自の専門領域に聴衆を誘いこんでほしいとお願いした。

 松田氏の話は,チュニジアの伝統音楽が,アラボ=アンダルース音楽の流れを汲むという歴史解説で始まった。アルジェリア,モロッコ,リビアなどと共通するもので,アラブがスペインを支配していた9世紀から12,3世紀にかけて発展し,その音楽はその後ふたたび北アフリカの地に持ちかえられたという。チュニジアの音楽には,エジプトやシリアなど,地中海の東側のアラブ諸国,およびトルコの音楽の影響もまた強いらしい。

 アラブ音楽では歌がもっとも重んじられ,器楽はそれを模倣する。そして古典から現代に至るまで,チュニジアの歌には愛の歌が圧倒的に多い。恋人の不在を嘆き,その帰還を待ち望む気持ちが神を待ち望む気持ちにも似て,恋歌の中に真摯な祈りとして結晶しているのだと,松田氏は語った。その後,20世紀を代表する歌手サリーハが歌う「いかに酌み交わす恋の杯」に,会場全体がうっとり聴き入った。イスラム世界でも酒は自由に楽しめるのだろうか,女性がヴェールをとる瞬間の恋人達の恍惚感やいかに,と想像をめぐらせながら。

 井本氏の報告は,地中海第二の島サルデーニャで,かつて死者を前にして即吟され,土地の言葉でattitu, at-tittiduと呼ばれた「嘆きのうた」である。個人的な悲しみを吸収してしまうほど強く,かつ儀礼的にうたわれる「嘆きのうた」は,泣き女によって吟じられる。一人の泣き女が独唱で死者に呼びかければ,他の女たちはAhi!Ahi!Ahi!, Ohi!Ohi!Ohi!と叫び声を上げてこれに唱和する。それを繰り返すうちに,訣別のときが訪れる。

 家族の誰が死んだか,また死に方によっても「嘆きのうた」は異なっている。幼くして死んだ者を鳩や花にたとえて喪失を嘆き悲しむ一方で,銃弾に倒れた夫や息子に捧げるうたには,生命を奪った者に対する怒りや憎しみがこもっている。復讐を促すほど激しいうたもある。葬列にカメラを向けることは憚られるので,映像資料に欠けるという井本氏の説明に,聴衆はさもありなんとうなずきながら,配られた黒装束の女たちの行列の写真に,イタリア本土とは異質の,大母のイメージを感じとった。井本氏自身もサルデーニャ人にとって死は大地=母胎に帰ることであり,再生を導く旋律として哀悼のうたが存在したのだろうと、報告を締めくくった。

 沖縄の赤嶺氏は「男の子が生まれたら国王さまのご奉公。女の子が生まれたら聞得大君(きこえおおぎみ)のご奉公」という久高島に伝わるうたの紹介からはじめて,この島の女たちが担ってきた役割を解説した。

 12年ごとの午年に久高島で行われたイザイホーの祭りでは,神女就任儀式に参加する女たちが身に付ける衣装を,兄弟がプレゼントしたという。この習慣をはじめとして,久高島ではいかに兄弟,姉妹の結びつきが強いかを,様々な例で示した。航海に出かける際も男たちは姉妹の霊に守られるよう,彼女らの髪の毛や手拭いを携えて旅立った。故郷を離れる男に姉妹が,オナリ神となってつき従うという考えによるらしい。赤嶺氏は最後に,久高島の祭りを1978年のビデオで映し,浜辺で海の安全を祈る女性の姿を印象づけた。

 3人のパネラーをつなぐ意見交換の時間も能力も司会者には不足して,用例の紹介を願うにとどまったのは心残りだが,報告はいずれも人間の生と死にまつわるもので,とりわけ島の古層と家族の存在が,うたを通して,幾重にも浮き彫りにされた点が興味ぶかかった。6月のあの日,激変する世界への予感はまだ,なかったにしても。

(武谷なおみ 記)


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地中海学会大会 シンポジウム要旨

海のネットワーク

パネリスト:齊藤寛海/豊見山和行/濱下武志/司会:高山博

 沖縄と地中海との間には,東シナ海,南シナ海,インド洋,紅海と呼ばれる大小の海(域)があり,古来より多くの船が行き交っていた。中・近世期には,イタリア商人,ムスリム商人,中国商人,琉球商人などのネットワークが連続的・重層的に形成され,そのネットワークを通して,人が動き,香辛料や絹,陶磁器などの商品が運ばれていた。近年,ヨーロッパ近代主権国家を中心に形成された世界史像に対する反省も込めて,このようなネットワークや海からの視点を重視すべきだという主張がなされるようになってきた。このシンポジウムでは,そのような海のネットワークを検討し,海域の特性と多様性を考察することにした。果たして,海域には,しばしば主張されるように,陸とは別の論理や指標というものが存在するのだろうか。それとも,海域は,陸との関係によってしか規定されえないものなのだろうか。また,私たちが,一つの歴史世界として把握しうる海域とはどのようなものなのだろうか。

 地中海商業史を専門とする齊藤寛海氏は,「中世後期の地中海世界」という題目で,近年の地中海海域・地中海世界論に対する自らの見解を提示し,地中海海域の中世後期における具体的な歴史的展開を論じた。同氏によれば,我が国では,ブローデルの『地中海』の翻訳を契機に,土地・国家中心史観や西欧中心史観に対する批判の動きが強まり,地中海世界の見直しも盛んに行われるようになってきた。しかし,地中海地域を過度に完結した世界とみなすべきではないし,内陸部の政治・社会状況と切り離した議論を行うべきでもないという。私たちが「地中海世界」と呼ぶような有機的な世界は,経済・政治・文化いずれの領域でも成立するし,複数の領域で重層的に成立するからである。そのような世界は,地中海内部で完結する側面を持つと同時に外部への通路となる側面を持つ。そして,地中海世界の有り様は,時代によって大きく変化するのである。

 中世後期から近世初期にかけて,地中海における商業の主要な担い手は,南西ヨーロッパとりわけイタリアの商人であった。この時代には,南西ヨーロッパの海港都市が地中海の覇権をめぐって,激しい競争を展開していたのである。しかし,この状況は,近世に入って変化した。16世紀,スペインを中心とするキリスト教徒勢力がオスマン・トルコと対峙するようになり,17世紀には,大西洋へ活動の中心を移したスペインに代わって,イギリス,フランス,オランダが広大なトルコ領域と取引を行うようになった。

 東アジア・東南アジアのネットワークを研究する濱下武志氏は,「海の理念・海の方法──19世紀学問論の再検討と海のアジア」という題目で,海の視点から歴史を見直す意味と海の視点から行うアジア研究の重要性を強調した。同氏によれば,海は,文化や文明の境界形成に深く関わってきたにもかかわらず,その固有な特徴・地域的な特徴が議論されることはなかった。また,海は,陸と対立的に論じられると同時に,民族や国家,文化の境界として意識的に無視されてきた。しかし,「海」を中心に据えた議論は,19世紀以降の国家学のもとで形成されてきた人文・社会科学や自然科学とは全く異なる発想から,現代世界を解き明かす手掛かりを与えてくれるのだという。

 濱下氏は,また,これまでのアジア研究は,国家とそれらの関係を基本的枠組みとしてきたが,今後は,海国としての中国,一国二制度の中国・台湾地域,国をまたぐネットワークの活況などを総体として捉えることが必要だと論じた。さらに,今後のアジア論は「海」の思想に基づいて,宗主・主権・ネットワークの相互作用や,海域・地域関係を議論していく必要があり,そこでは,海を組み込んだ地域論すなわち海と陸との交渉論が具体的に論ぜられはずだという。

 琉球及び沖縄海域の歴史を専門とする豊見山和行氏は,「海域とネットワークから見た琉球史(14〜19世紀)」という題目で,琉球海域研究の現状と琉球海域の交易構造の歴史的展開を論じた。同氏によれば,琉球諸島は,広大な海域に弧状に点在する島嶼地域であるにもかかわらず,海洋や海域という視角をもつ研究がこれまでほとんど行われてこなかった。しかし,近年は,交易品としての貝に注目して琉球諸島と日本列島・中国との交流・交易を探る研究や,中国大陸・東アジア・東南アジアにおける人的ネットワーク,朝貢システム,海域の中に琉球を位置づける研究がなされるようになってきたという。

 14〜16世紀,琉球王国は,朝鮮半島・日本・中国・東南アジアと活発に中継貿易を展開したが,その交易は国営貿易であり,対東南アジア交易の主要産品は中国製貿易陶磁であった。琉球がその貿易陶磁の流通路の一結節点となっていたという。しかし,17〜19世紀には,琉球の直接的な交易エリアは中国市場と日本市場に縮小・固定化した。この時代,琉球列島海域は,基本的に薩摩の公用船,琉球の公用船が往来していたが,大和(薩摩)船の優位体制下に置かれた。同氏は,琉球諸島における陸上権力による海事政策は,薩摩藩(広く幕藩制国家),中国(明清),そして琉球王府自身の三つの論理の交錯する中で再度,検証する必要があると主張する。

 パネリストの報告に対し,会場から多くの質問が寄せられた。「ネットワーク」や「海域」をどのような概念としてとらえているのか,陸の領域支配と異なる「海域原理」のようなものは理念化できるのか,ネットワークの中で川をどのように考えるのか,という本質的な質問から,東南アジアや南アジアで使われている「港市(国家)」はどのような概念で,ヨーロッパの海港都市国家とどのように異なるのか,といった専門的な質問まで,多岐にわたった。

(高山博 記)


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<寄贈図書>

『落日のボスフォラス』澁澤幸子著 集英社 2001年

『西洋古典学研究』日本西洋古典学会編 岩波書店 XLIX(2001)

A Survey of the Tombs in the Valley of the Kings: Pictorial Report, ed. S. Yoshimura-J. Kondo-N. Kawai, 2000, 『エジプト学研究』8(2001),別冊4(2001),以上3冊早稲田大学エジプト学会


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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
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