地中海学会月報 243

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|10  



   -目次-

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学会からのお知らせ

 

 

11月研究会

テーマ: 15世紀フィレンツェにおける≪トビアと天使≫の注文と受容状況

発表者: 芳賀 里恵氏

日 時: 11月24日(土)午後2時より

会 場: 上智大学6号館3階311教室

参加費:会員は無料,一般は500円

 

 ≪トビアと天使≫の図像は,15世紀後半のフィレンツェで,急速に人気を得て大量に描かれた。この主題の作品の制作に関しては,1940年代のアッヘンバッハとゴンブリッチ,二つの説があり,その後は個別研究がなされてきた。しかし,実際に作品と注文を検討すると,これら両者に分類されない作品の存在に気づく。そこで,この主題の図像が好まれ,注文,受容された背景について,史料を軸に改めて考えたい。

 

 






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* 常任委員会

 

・第2回常任委員会

日 時:2000年12月9日(土)

会 場:上智大学7号館12号館

報告事項 科研費に関して 他

審議事項 第25回大会に関して/地中海学会賞に

 関して/地中海学会ヘレンド賞に関して

・第3回常任委員会

日 時:2001年2月17日(土)

場 所:東京大学東洋文化研究所

報告事項 石橋財団助成金について/朝日サンツ

 アーズ講演会に関して/小委員会に関して

審議事項 第25回大会に関して/役員改選に関し

て/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/春期連続講演会に関して 他

 

 

 

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表紙説明 地中海の水辺4

水の都イスタンブル/鈴木董

 

 

 古えの江都,江戸の都が往にし日,水の都であったとすれば,君府,すなわちイスタンブルもまた,水の都であった。ただ,江戸の水上の大動脈が大川こと隅田川であったとすれば,君府の水の大路は,ボスポラス海峡と金角湾であった。オスマン朝時の君府の表玄関は,旧市街の北縁,金角湾に面した港であり,街の晴れの顔(かんばせ)もまた,金角湾に向かっていた。そして,16世紀中葉に旧市街中央の小高い丘の北側面の頂点にスレイマン大帝がスレイマニエ・モスクを建立すると,オスマン建築史上の巨匠シナンの手になるこの荘厳なモスクが,金角湾上から君府の旧市街に接近する船の旅人の目を奪うこととなった。

 金角湾を西航して湾奥に至れば,緑と真水の流れに恵まれたキャート・ハネの景勝が湾の北岸にひろがり,スルタンから庶民に至るまで,イスタンブルに住む人々にとり,こよなき遊楽の地となった。

 東に向かい金角湾を出れば,南はマルマラ海,北はボスポラス海峡に連なっていた。水の都としての顔をもつ君府の水上の足は,江都の猪牙ならぬ,カユクと呼ばれる先の尖った小舟であった。庶民は船頭のあやつる乗り合いカユクで,大官貴顕はお抱えのカユクで,水上を往来した。こうして,古くはめぼしい建物にも乏しかったボスポラス沿岸も,17世紀から19世紀にかけて,次第に開け始め,水辺には,ヤルないしサーヒル・ハネと称せられる邸宅,別荘が次第に数をましていった。19世紀にはいると,海峡ヨーロッパ岸の旧市街よりやや北方の地にドルマ・バフチェ宮殿が造営され,ついにスルタンの宮殿すら,15世紀以来の旧市街東北部のトプカプ宮殿から移るに至った。

 ボスポラス海峡沿いに立ち並ぶ離宮,邸宅,別荘もまた,水上からの視線を意識して建てられ,華やかな正面を水辺に向けていた。カユクでボスポラスを行き交う人々は,淡青の海の青さと周辺の丘の木々の緑とともに,趣向をこらした離宮や別荘のたたずまいに目を楽しませたものであった。

 さて,表紙は,19世紀の建築家で画筆も振った英人トマス・アロームの手になる君府の水辺の風景である。舞台は,ボスポラス海峡ヨーロッパ岸にあって君府旧市街より遙か北方に位置するベベキである。画中右側には,中東のムスリム都市の多くに見られる張り出し二階つきの家々が立ち並んでいる。家々はすべて木造である。路上では絨毯が拡げられ古風な服装の男性たちが集い水煙管などを楽しんでいる。図中央には子供連れの顔を覆った婦人たちがみられる。すぐ左側の岸辺には,小ぶりのカユクが停泊しており,櫂をもつ船頭がみえる。背後のなだらかな丘は木々の緑につつまれている。この地は,今もボスポラス屈指の景勝で高級住宅地として知られる。しかし,木造の邸宅の多くは姿を消し,丘の緑も宅地化で後退し,ボスポラスの美も永遠ではないと実感せざるをえない。

 






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春期連続講演会「地中海世界の歴史:中世から現代へ」講演要旨

地中海文明:過去と現在

樺山 紘一

 

 地中海世界のはるかな過去から,現在にいたるまで,ほぼ連続してその一角をしめる地域は,いくつもある。どれをとっても,過去と現在とを祖述するための素材としての資格に,こと欠かない。そのなかで,あまり重きをおかれてこなかった地域を,ここでは取りあげておこう。モロッコである。

 ベルベル系部族の居住地として,前史以来の歴史をもつ。ローマ時代には,「我らが海」の一部となり,その最西端としての地位をうけとった。ゲルマン人ヴァンダル族の侵入から,イスラム教徒アラブ人の侵攻へ。対岸のイベリア半島をも領有したウマイア朝,後ウマイア朝のもと,モロッコは地中海世界にしっかりとつなぎとめられた。

 重大な転換は,11世紀以後におとずれる。ベルベル系住民のうちから,イスラム教の革新と高揚をめざす運動が,あいついで生まれてきた。はるか南方,セネガルやモーリタニアにいたる西アフリカ海岸地帯からやってきた,厳粛な神秘主義をともなった信仰の運動であった。まずは,ムラービト,ついでムワーヒド。ともに王朝を建設し,北上してモロッコを政治的にも統一して,余勢をかってジブラルタル海峡をわたり,イベリア半島にまで領域を拡大した。

 ベルベル系イスラム信仰は,モロッコとイベリアの両方の土地に,共通の文化を定着させた。マラケシュ,ラバト,メクネス,フェズなどのモロッコ都市は,現在でもその風貌をのこしている。他方,イベリアでは旧都コルドバやセビーリャに,モスクの尖塔や霊廟をうちたて,イスラムによって裏うちされる芳醇な都市風暮らしを,実現させた。ゆたかな装飾文様,音楽と色彩の乱舞,女と男の機微をあらわす詩句。これらは,しばしばアンダルス文化とも総称される。つまり,南スペインのアンダルシアで成熟した文化が,海峡をもこえてモロッコにまで浸透したということだ。

 ムラービト朝やムワーヒド朝の時代,アンダルシアとモロッコ,ヨーロッパとアフリカとは,ひとつの文化によってつなぎとめられた。むろん,この時代は,べつの方面からみればキリスト教徒による「再征服運動(レコンキスタ)」が,はげしい盛り上がりをみせるときでもあった。軍事と政治の緊張もはしるなか,アンダルス文化は爛熟をむかえる。

 やがて,イスラム教徒は半島から追いたてられてゆく。13世紀には,セビーリャとコルドバが陥落。15世紀末には,最後の拠点であるグラナダも。おおくのイスラム教徒は,モロッコをはじめとする北アフリカ・マグレブ地方へと退避・亡命していった。だが,そこでもアンダルス文化は,息をとめることはなかった。モロッコの古都にあっては,かつての栄華を追憶するかのように,アンダルス追想がしきりとかたられた。

 イスラム,キリストの両教徒だけではない。そのはざまにあって,アンダルス文化をはぐくんだいまひとつの当事者であるユダヤ教徒も,参加と追放の運命を経験した。アンダルシアとモロッコに居住するユダヤ人は,その数からいっても,またアンダルス文化への貢献からみても,ほとんど中核といってよい位置をしめる。モロッコには,いまだユダヤ人居住区(メラッハ)が,濃厚な影をおとしている。

 あまり引用されることのないモロッコを素材として,地中海世界とその文化の構成を考えてみた。そこで目撃されるのは,ことなった部族や文化のあいだの対抗関係である。あらたに到来した人びとは,その地に定着するために,排除や抗争をつらぬこうとした。征服やら再征服とは,その政治的経過のことである。だが,ほどなくして両者は同居のルールを体得しはじめ,つぎには融合のための知恵を開発するようになる。アンダルス文化のように,両大陸を股にかけて,追想をもさそうような共同の宝庫を建設するにいたることもある。

 ただし,その過程はいつも幸運や和解によって彩られるわけではない。抑圧にさいなまれながら,追想と亡命,離散と放浪をしいられる民族や集団もあとをたたない。モロッコの土地は,そうした輻輳した事件や体験によってみちている。もっとも,このことは,なにもモロッコだけの特殊事情ではない。むしろ,地中海世界の諸地域にとって,普遍の原理かもしれない。現在の地中海を旅していると,過去から現在にいたる長大な経験の集積が,大地と住民のうちに刻みこまれていることを実感せざるをえない。これこそが,地中海をかんがえるものにとっての愉楽だというべきであろうか。

 なお今回は,2シリーズ8回にわたるレクチャーの最終回にあたっていた。仄聞するところによれば,毎回,好評をいただき,いずれもブリヂストン美術館のホールをうめつくす聴衆によって迎えられたとのことである。アンカーランナーとして,企画者や聴衆のみなさんに,あつくお礼をもうしあげる。

 






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源への旅

──地中海学会賞を受賞して──

多田智満子

 

 地中海関連の様々な分野で大きな業績をあげられた学者が綺羅星のごとく居竝んでいられますこの学会で,私のようにきちんとした論文一つ発表したこともない者がこのような栄誉を与えられるとは全く思いもかけぬことでした。私の気ままな探求に高い評価を与えて頂いてたいへんありがたく存じます。

 思い起せば小学6年の頃『プルターク英雄伝』に熱中したことが,私がギリシア・ローマ世界に近づくきっかけとなりました。たとえばプラトンの『饗宴』などを読んでいて,アルキビアデスが登場しますと,あっ,これ知ってる,というような具合で,十代半ばの私にとってプルタルコスの英雄たちに馴れ親しんでいたことが,プラトン哲学をぐっと身近なものに感じさせてくれたのです。

 私は本来詩を書く人間ですが,ごく初期から作風がヘレニストだといわれておりました。おそらく私の感性がギリシア的,もっと広くいえば地中海的な風土に適合していたと思います。さらに結婚して東京から移り住んだ土地が神戸,それも六甲山の麓であったことも幸いでした。東京は関東ローム層の赤土黒土で,とにかく土が粘っこく色が濃く,ころんだりすると服が黒く汚れました。今はすべて舗装されていますからそんな事はないでしょうけれど,私の幼い頃の東京の郊外は,雨が降ると泥んこでした。一方神戸は,六甲山系の花崗岩が風化した砂土ですから,白っぽくてさらさらしたやせ土です。しかも小島の多い瀬戸内海に臨んでいますから,湿潤な気候を無視して瀬戸内海をエーゲ海ないしは地中海に見立てるならば,これはなかなか地中海的風土ということができます。こうした土地で暮していることもあるいは一つの縁というものかもしれません。

 1962年に,当時日本では全く知られていなかったM.ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』を翻訳した,ということを認めてくださったからでしょうか,本学会が創設されたとき発起人の一人として会員の末席に加えて頂き,それから四半世紀の間,ずっとこの学会でお世話になって参りました。年に一度の大会で会員の皆様にお目にかかれるのは私の大きなよろこびです。

 もともとギリシアかぶれだったのですけれど,次第にもっと古い方へ眼が行くようになりました。子供の頃,宇宙空間が無限で,どこまで行っても壁がない,ということに気づいて大いに悩んだ時期がありましたが,それ以来,無限と永遠とは私の潜在的な固定観念になっておりました。スピノザのsub specie aeternitatis(永遠の相の下に)というのが私のいちばん早く憶えたラテン語の一つでした。

 ともあれ古い方へ古い方へとさかのぼって行くうちに,私はエジプトに出会いました。『神々の指紋』というエッセイ(同じ題名の翻訳書が出ていますが,私の著書の方が古いのです)の中で書いたことですが,ギリシア人の情熱が「美」にあったとすれば,エジプト人の情熱はまさしく「永遠」と「無限」にあった,と私は感じたのです。永遠と無限,これは結局同じものに還元されるでしょう。永遠とは時間的無限にほかならないのですから。エジプト人の生をとりかこむ遠景は無限そのものでした。西はリビア沙漠,東はアラビア沙漠,太陽は広漠たる地平線から出て,広漠たる地平線に沈みます。そして沙漠のただ中を偉大なナイルが流れています。世界一長いその大河の水源は,古代人にとって踏査可能な地域を越えた南方にあり,天上の銀河から流れ出ている,と神話的に想像する人々もいたのです。要するにナイルは無限に長い川なのでした。

 子供時代から「無限」と「永遠」にとり憑かれていた私は,このエジプトを自己流に発見して,これだ!という歓びを覚えました。学者ではなく詩人でありますから,自分の思い込みを学問的に裏づける義務はなく,ただそれを詩的に表現すればよろしいのです。昨年上梓した『長い川のある國』という詩集は全篇エジプトに捧げられていますが,その中に「源」という短い作品があります。ナイルの水源を探し求めて旅立った男は遂に帰らなかった。どうやら旅路の果に銀河まで辿りつき,微細な星の一つになったらしい,という噂を詩にしたものです。その噂を

 

  信じようと信じまいと

  夜になれば川は満身に星を鏤める

 

  水が原郷を恋うているのだ と

  感傷的な人たちは語り合う

 

とまれ古代へ古代へとさかのぼることは,人類の源をたずねる旅でもあります。この詩の中の男とちがって私は未だに銀河に辿りつくこともなく,この齢になるまで地上をうろうろしているうちに,この度の受賞の栄に浴しました。地上にいてよかったかな,と思っております。

 






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第6回地中海学会ヘレンド賞を受賞して

秋山  学

 

 このたびは,地中海学会ヘレンド賞という名誉ある賞をいただくことになり,大変光栄に存じております。審査に携わってくださった諸先生方,会長・事務局長の先生方をはじめとする地中海学会関係の皆様,そしてスポンサーのヘレンド日本総代理店・株式会社星商事の鈴木社長様ほかの方々に,この場を借りて,心より御礼申し上げたいと存じます。

 創文社より公刊されました拙著『教父と古典解釈−予型論の射程−』は,初期キリスト教期から中期ビザンティン時代にいたるまで,地中海東西の教父たちにおける西洋古典文学受容のあり方を文献史的に辿りつつ,終末論神学との関連において認められる「予型論」の視座を明らかにし,文献伝承に携わった写字生たちの地平を照らそうと試みたものです。

 わたくしは西洋古典学の出身ですが,ギリシア・ラテンの純文学から古典受容史の領域へと次第に関心が移ってゆくなかで,この地中海学会に出会いました。それは,前任校である東京大学の教養学部(駒場キャンパス)で助手を勤めている時期でした。東大の西洋古典学コースは,創設の頃から伝統的に,ギリシア・ラテンの古典文学と初期キリスト教文学とを併せ研究対象とするという特質を持っておりました。わたくしが在学しておりました当時は,この地中海学会にも縁の深い久保正彰,荒井献両教授が同専攻を主宰しておられました。その母体である駒場の古典語教室の助手を長く勤めるうちに,わたくしの関心はつねに,古典古代と初代教会というこれら二つの領域を,いかに複眼的に視野に収めうるかという点に注がれることになりました。

 大学院の重点化とともに,駒場の古典語教室は大学院・地域文化研究専攻の一部に組み込まれ,実質的に「地中海・イスラム文化論」という,より大きな枠組みの中に再編されました。その中で,オリエントあるいはイスラム文化の研究者の方々ともおつき合いが始まり,わたくしもヘブル語をはじめとするセム系の言語に親しむようになりました。

 職場が移り,現在の筑波大学で西洋古典学担当のポストに就いて4年が経つのですが,筑波大学は前身の東京教育大学の頃から,伝統的にオリエント学の盛んなところです。最近わたくしもオリエント学会に入会し,関心領域は西洋古典文化圏とオリエント文化圏の関係,そして教父たちがこれらに対していかに自らの態度を定めたかという点に移りつつあります。

 そのようなプロセスを経るなかで,わたくしの学位論文を受理してくれたのは,母校の「超域文化科学専攻」というコースです。ここで中世哲学,聖書学,古代ギリシア哲学,中世史,神秘主義を専攻する先生方に学位論文を提出することができました。そして拙著は,この論文を基にしてでき上がったものです。論文を審査して下さった先生方,そして公刊の際に御高配に与った創文社の方々にも厚く御礼申し上げたいと存じます。

 拙著は幸い,本年11月に北海道大学で行われる中世哲学会におきましても,書評シンポジウムで取り上げられることになっております。このように,拙著は旧来の西洋古典学の分野に留まらず,哲学や神学の領域にも関わるものとなりました。こういった分野は,本学会の中ではかなりマイナーな領域だと思いますが,地中海学会からこういった領域にも光を当てていただいたことに,改めて大変感謝しております。

 地中海東西の世界にあって,古代から連綿と受け継がれる輝かしい文化が,いかなる形でルネッサンスさらには近代へと伝えられたかということを考えるとき,実践的な形で写字に携わった有名無名の修道士たちだけでなく,異教文化の受容姿勢を理論的な形で確立した東西の教会教父たちによる働きをも思わずにはいられません。欧米の大学では,ギリシア・ラテン研究とオリエント学の研究者が相互に協力しながら多角的なプロジェクトを推進しております。わが国において,中世をも視野に入れながらこのような学際的な分野を担いうる学会は,まさしくこの地中海学会に他ならないと考えます。

 現在わたくしは,地中海東西の典礼様式を基盤に,広く文化伝承のあり方を捉える試みを始めております。その意味で,東西文化が交差するハンガリーという国に縁のあるこのヘレンド賞を頂けたことは,今後のわたくしの研究生活の道しるべとなってくれるように思います。奨励賞としてのこの賞を頂けたことを謙虚に受けとめ,かつ大変名誉あることと感じて,これからの研究生活に励みたいと存じます。本日はどうもありがとうございました。

 






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トスカーナのヴァル・ディ・キアナ

野口 昌夫

 

 フィレンツェから特急(IC)に乗って40分,アレッツォまで出ると,もうそこはヴァル・ディ・キアナの北端である。ここからキウジ方面の準急(Dir)か各駅停車(Loc)に乗り換えて,めざす丘上小都市の最寄駅で下車し,青色の路線バス(Pullman)に乗って丘上まで行く。さらに次の丘上小都市をめざすには,そこから直接,路線バスに乗れば良い。こうすれば,鉄道の駅に戻ることなく,効率的に丘から丘へ移動できるのだ。

 ヴァル・ディ・キアナとは,北はアレッツォから南はキウジに至る細長い谷であり,その東と西の丘の上や斜面に魅力的な小都市が連なっている。その奥は東にアペニン山脈の山裾,西にキアンティの丘陵地が広がり,谷をはさむ雄大な風景がつくられている。

 トスカーナの大地溝であったこのヴァル・ディ・キアナの中世は,ダンテが描いたように,マラリアの発生する恐ろしい湿地帯であったが,14世紀に入って干拓事業が開始された。レオナルド・ダ・ヴィンチによるこの谷の潅漑システムの計画図(16世紀)を見ると,当時はまだ南北に細長い湖になっていて,キウジに近いヴァリアーノの渡し場で東西が結ばれている。1551年,治水のためのマエストロ運河が,アントニオ・リカーソリによって着工され,その10年後,運河に集められた水がアルノ川に注ぐようになった。

 そもそも,この谷はフィレンツェに流れ込むアルノ川と,ローマへ向かうテヴェレ川の分水界にあることから興味深いエピソードが多い。例えば,古代のローマ人は都市ローマを水浸しにするテヴェレ川の水量を減らすため,キアナの水の流れをアルノ川の方向に変えようとした。また,二つの川の分水界をどこに定めるかで,トスカーナ大公国とローマ教皇領が争い,1780年にようやく,キウジのすぐ南とすることで合意した。

 19世紀に入ってヴィットリオ・フォッソンブローニという水利技術者の指導で大規模な干拓事業が開始され,20世紀の初めに完了,アレッツォからキウジまで,緑豊かな谷あいの平野が広がるようになった。ヴァル・ディ・キアナで古来育てられてきた肉付きの良い白い牛は,キアナ牛と呼ばれ,古代ローマの神前のいけにえとして使われた。その後,フィレンツェのサンタ・クローチェ広場でのカルチョの賞品にもなるが,何よりも身近なのは,フィレンツェを代表する料理ビステッカ・フィオレンティーナである。これはキアナ牛のリブ付肉を炭とやわらかい木の燃えさしで焼いた逸品である。

 さて,谷の話はこれぐらいにして,丘上の小都市に登ろう。谷の東側にあるコルトーナは,サンテエディジオ山(1,057m)の南側の裾野にある。最も高いジリファルコ城砦(651m)に登ると,左手にトラジメーノ湖,正面に肥沃な農地と化したキアナ谷が一幅の絵のように広がる。これが,2000年にわたる潅漑事業の成果であり,水の利権をめぐる都市国家間の争いの舞台であったのだ。

 コルトーナのもう一つの見所は,市壁のすぐ外にある二つの聖堂である。フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニが設計したサンタ・マリア・デレ・グラツィエ聖堂(1485〜1513)と,ジョルジョ・ヴァザーリが手がけたサンタ・マリア・ヌオヴァ聖堂(1550〜1600)である。これはフィレンツェ大聖堂のクーポラを設計したブルネレスキの影響が強いルネサンス様式である前者と,バロックへの移行がみられるマニエリスム期の後者との鮮烈な対比をなす。

 キアナ谷の西側では,モンテ・サン・サヴィーノとモンテ・プルチアーノが重要である。この2都市に共通するのは,中世後期に確立した都市構造に対し,ルネサンスの著名な建築家たちが果敢に介入し,市庁舎,聖堂,パラッツォ,市門を設計し,実現させたことである。前者では,アンドレア・サンソヴィーノ,アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオ,ジョルジョ・ヴァザーリ。後者では,サンガッロに加えてミケロッツォ・ディ・バルトロメオ,バルダッサッレ・ペルッツィ,ヴィニョーラと枚挙にいとまがない。

 少し足を伸ばせば,ルネサンス都市ピエンツァもある。ここ出身の教皇ピウス2世は,在位した1458年,この田舎の小村をルネサンス様式の理想都市に大改造することを,建築家ベルナルド・ロッセリーノに委託した。大聖堂とパラッツォ・ピッコローミニのあるピウス2世広場に立つと,大都市からこれだけ離れた丘上にルネサンスの空間を実現させようとした教皇の並々ならぬ意志に驚かされる。

 このようにヴァル・ディ・キアナを訪れる意味は二つある。一つは谷の美しい風景を一望し,人間と自然との闘い,そして水をめぐる人間同士の争いの歴史に思いを馳せること。もう一つは,主にフィレンツェを出身とする数多くの高名な建築家たちが,丘上の小都市を舞台に繰り広げたルネサンスの饗宴をこの目で見ることである。その後は,キウジから特急に乗って一気にフィレンツェに戻り,大都市のルネサンス建築との違いを味わいたい。

 






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オック語のうた

原田 宿命

 

 

  Aqueli mountagno / Que tant au soun ...

  山々は高く遮る,山の向こうの私の愛する者たちを,

  私は歌う,くりかえし歌う,

  自分のためではなく,いとしい友のために。

 

 情感にあふれた熱い思いのこの歌は,オック語圏すなわちフランス・ロワール河の南一帯で人々に親しまれている。人が集まれば皆で腕を組んで歌いだす。郷土の心というような熱気につつまれる。オック語とは古く中世の昔から南仏で用いられていた。俗ラテン語カタローニヤ語そしてイタリア語の混じった,母音の響き明るい言葉だ。「早咲きのばら」にたとえられる12世紀抒情詩の作者たちトルバドールがもちいたのも,この言葉だった。歴史家,音楽学者のアンリ・イレーネ・マルーは「我々の基層言語」といっている。

 私がオック語に巡り合ったのはトルバドールの詩や音楽への関心からだった。彼らの生きた時代や土地の言葉を知りたいという好奇心に過ぎなかった。だがパリでオック語の集まりに出たり,旅の途中で山里の講習に出席したりして少しずつ身近になってきた。一緒にオック語を学んだ仲間は,それぞれに南フランスの出身が多く,郷土愛がない交ぜになって,オック語のなかでもリムーザンやプロヴァンスの言葉の相違なども良く話題になった。また集まりには彼らに忘れられない,カタリ派撲滅の歴史が語り継がれた。異端として徹底的に滅ぼされた悲劇はまた,オック語の衰退の歴史でもある。

 オック語に関わる集まり,あるいは郷土の祭りなどで,必ずといって良い程に歌われたのが「高い山の向こう」なのだ。遠い高嶺の彼方への思いを込めて,少し哀調を帯びて前半を歌い,後は気分を変えて皆で合唱する。低音の響きが山の谺をかえすようで,腕組んだ輪が広がった。

 

  A l'entrada del tens clar Eya ...

  新しい季節が始まって エイヤ

  新しい喜びも始まる エイヤ

 

 12世紀の無名のトルバドールの歌だが,詞も旋律も残り,唱い継がれてきた。現在ラングドック地方の民謡集のなかにも収められている。演奏されることも多い。中世文学者のペルヌー女史は,歌詞のなかの「四月の女王」を英仏の女王となったアリエノール・ダキテーヌと看做している。だが私のイメージでは,土埃が舞い上がり,草いきれにむせる村落の,開放感とエネルギーの溢れた里唄と思われるのだ。大西洋沿いの村では「四月の女王」選びの行事があるとも聞いた。年に一度のハレの日に,花笠に野の花を飾り,精々めかした逞しい村の女王に群れ従う村人。はや濁り酒に酔った妬きもちやきの亭主。「五月の女王」の若い乙女が,野を行くのとは,異なった情景が浮かんでくる。

 私が以前トゥールーズの夏の祭りで聞いた時も,歌い手は裸足で舞台に立ち,汗を滴らせて歌う。エイヤという大勢の掛け声も激情に高まった。

 

  Veicito uno bono nouvello, pauri bergie ...

  喜びの報せが 羊飼いに告げられた,

  初めてのマニフィカトを歌おう

 

 ヨーロッパでは欠かせない行事のクリスマスだが,特に南仏プロヴァンスでは今でも厳粛な祈りの時の思いが強い。動物たちの深夜のミサなどは,都会では見られない風習だ。濃く重い闇に星のきらめきが降りそそぐ夜,プロヴァンスの広野を,岩山を黙々と辿る羊たちの群れが呟くのはマニフィカト(マリア賛歌)だ。小さな山麓の礼拝堂の中には,嬰児キリスト生誕の場面の,クレーシュが光眩しく飾られる。南仏特有のサントン人形が,動物たちはもとより,羊飼いも農夫も樵も漁師まで喜びに駆け付ける様子が,作られている。

 両手をあげて歓喜を現すサントン人形の,歌声も聞こえそうだ。

 

  Un Ange a crida / Que Dieu ero na

  天使の歌声が 神の子の誕生を報せる

 

 このようなノエルの古謡は,単純,素朴。すぐにくちずさんで,伝わるのだろう。エクス・アン・プロヴァンスのノエルの民謡「天使の歌声」などは,所どころに少し長く延ばす音が,天使の声の余韻の趣のようだ。「クレーシュの唄」と呼ばれて,これは冬でも明るいエクスの町の,晴れやかなノエルの賛歌かと思って,人びとと声を合わせた。

 






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<寄贈図書>

 

 下記の図書が学会に寄贈されました。

An Abridged History of the Greek-Italian and Greek-German War 1940-1941, Athens 1997

A Consise History of the Balkan Wars 1912-1913, Athens 1998

An Index of Events in the Military History of the Greek Nation, Athens 1998,上記3冊Hellenic Army General Staff刊

『中世衣生活誌──日常風景から想像世界まで』徳井淑子編訳 伊藤亜紀・伊藤理奈訳 勁草書房 2000年

Pittura giapponese dal 1800 al 2000, Iseki Masaaki, Ginevra-Milano 2001

『教父と古典解釈──予型論の射程』秋山学著 創文社 2001年

『中世ジェノヴァ商人の「家」──アルベルゴ・都市・商業活動』亀長洋子著 刀水書房 2001年

『この私,クラウディウス』R.グレーヴス著 多田智満子・赤井敏夫訳 みすず書房 2001年

『地球環境と東京──歴史的都市の生態学的再生をめざして』河原一郎著 筑摩書房 2001年

『経済史への招待──歴史学と経済学のはざまへ』C.M.チポッラ著 徳橋曜訳 国文社 2001年

『ギリシア世界からローマへ──転換の諸相』地中海文化を語る会編 彩流社 2001年

『ローマ皇帝ハドリアヌス』S.ペローン著 前田耕作監修 暮田愛訳 河出書房新社 2001年

『物語 中東の歴史──オリエント五〇〇〇年の光芒』牟田口義郎著 中公新書 2001年

『イタリア・ルネサンス』澤井繁男著 講談社現代新書 2001年

『ガウディ建築のルーツ──造形の源泉からガウディによる多変換後の最終造形まで』鳥居徳敏著 鹿島出版会 2001年

『イスタンブールからバスに乗って──旅の終わりはキプロス島』渋澤幸子著 恒文社 2001年

『トルコ近代文学の歩み』保科眞一著 叢文社 2001年

『イタリア 都市と建築を読む』陣内秀信著 講談社+α文庫 2001年

『“文明”とは何か“野蛮”とは何か──新しい人文学の構築をめざして』阿部泰郎・小川正広編 名古屋大学大学院文学研究科公開シンポジウム報告書 2001年

State Formation and Ethnic Relations in the Middle East, ed. A. Usuki, JCAS Symposium Series 5, Osaka 2001

『地域研究論集』国立民族学博物館地域研究企画交流センター 3-2(2000)

DRESSTUDY』京都服飾文化研究財団 38(2000)

SPAZIO』ジェトロニクス・オリベッティ 60(2001)

『イタリア図書』イタリア書房 27(2001)

Silk Road Art and Archaeology, Institute of Silk Road Study, 7(2001)

『文藝言語研究』筑波大学文芸・言語学系 39(2001)

『スペイン・ラテンアメリカ美術史研究』スペイン・ラテンアメリカ美術史研究会 2(2001)

『日本中東学会年報』日本中東学会 16(2001)

2000年度刊行イタリア関係図書目録』イタリア文化会館 24(2001)

 

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