地中海学会月報 241
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|6-7  




   -目次-











学会からのお知らせ

 

 

* 第25回地中海学会大会

 さる6月30日,7月1日(土,日)の二日間,沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵町1-4)において第25回地中海学会大会を開催した。会員107名,一般31名が参加し,盛会のうち会期を終了した。

 会期中,同大学付属図書館・芸術資料館では水の沖縄プロジェクト「沖縄・水/アート・フォーラム2001」展が開催され,大会参加者にも公開された。

 バスツアーは首里城,赤嶺政信氏の解説で斎場御獄(セーファウタキ)等を見学し,無事散会した。

6月30日(土)

開会挨拶 13:20〜13:30

記念講演 13:30〜14:30

「古代エジプトの建築」 堀内 清治

授賞式 14:35〜15:05

「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

地中海トーキング 15:30〜17:00

「島とうたと祈りと」

  パネリスト:赤嶺 政信/井本 恭子/

  松田 嘉子/司会:武谷なおみ

7月1日(日)

研究発表 10:00〜11:30

「建築物階数の数え方─聖書における《ノアの箱船》をもとに」 杉浦  均

「メディチ家支配期のピサにおける都市構造と建築形態の変容」 吉田友香子

L.ノットリーニによるルッカの古代ローマ円形闘技場遺構再開発計画」 黒田 泰介

16世紀前半のフィレンツェ公国における印刷・出版とプロパガンダ──公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノ(1547〜1563)」 北田 葉子

Istanpitta(イスタンピッタ)の音楽的起源についての一考察」 岡村  睦

「ジャケス・デ・ヴェルトの手紙──16世紀のイタリア世俗声楽曲研究から見たその意義」 園田みどり

総 会 11:55〜12:35

シンポジウム 13:30〜17:00

「海のネットワーク」

  パネリスト:齊藤 寛海/豊見山和行/

  濱下 武志/司会:高山 博

 

 

 

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*第25回地中海学会総会

 第25回地中海学会総会(宝利尚一議長)は7月1日,沖縄県立芸術大学で次のとおり開催された。

議事

一、開会宣言

二、議長選出

三、2000年度事業報告

四、2000年度決算報告

五、2000年度監査報告

六、2001年度事業計画

七、2001年度予算

八、役員人事

九、閉会宣言

 

 審議に先立ち,議決権を有する正会員639名中(2001年6月28日現在)620余名の出席者を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし,本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2000年度事業報告・決算,2001年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2000年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)

 

2000年度事業報告(2000.6.1〜2001.5.31)

・ 印刷物発行

1.『地中海学研究』XXIV発行 2001.5.31発行

  「古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生──ジローナの『天地創造の刺繍布』における二匹の怪獣に関する一考察」 金沢 百枝

  「中世後期南西フランスのバスティドの創設──13世紀後半から14世紀初頭のアジュネ地方を中心に」 加藤  玄

  「ドビュッシーのポー受容とオペラ《アッシャー家の崩壊》制作過程」 栗原 詩子

  「紀元前5〜4世紀のスピナとアドリア海を介した交易活動──エトルリア人の活動を中心として」 長田 千尋

  「ベラスケス作《バッカスの勝利》──ボデゴンとの関連性とその制作意図について」貫井 一美

  「書評 E. Castelnuovo, La cattedrale tascabile--Scritti di storia dell'arte

児嶋 由枝

2『地中海学会月報』 231240号発行

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

・ 研究会,講演会

1.研究会(於上智大学)

  「ラファエッロと古代名画──素描《アレクサンドロス大王とロクサネの結婚》をめぐって」本間 紀子(2000.9.30)

  「中世後期トスカーナの宗教建築におけるポリクロミアについて」吉田 香澄(2000.11.11)

  「シェイクスピア喜劇におけるローマ受容の軌跡──模倣から創造へ」真部多真記(2001.2.24)

  「ビザンティン典礼の形成と本質──ゲルマノスの注解を中心に」秋山  学(2001.4.14)

2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)

  秋期連続講演会「都市ローマへの誘い──聖年にちなんで」2000.11.25〜12.16(計4回)

  春期連続講演会「地中海世界の歴史:中世から現代へ」2001.4.28〜2001.5.26(計4回)

・ 賞の授与

1.地中海学会賞授賞 受賞者:多田智満子

2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:秋山学

・ 文献,書籍,その他の収集

1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations

2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)

・ 協賛事業等

1.『地中海の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.朝日サンツアーズ講演企画協力

・ 会 議

1.常任委員会 5回開催

2.学会誌編集委員会 3回開催

3.月報編集委員会 8回開催

4.大会準備委員会 2回開催

5.財務委員会 2回開催

6.電子化委員会 Eメール上で逐次開催

 

・ ホームページ

URL=http//wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)

  2001年7月より新アドレス

  http//wwwsoc.nii.ac.jp/mediterrに変更

  「設立趣意書」「役員紹介」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」

・ 大 会

  第24回大会(於広島女学院大学)

  2000.6.17〜18

・ その他

1.新入会員の勧誘:正会員29名;学生会員18名

2.学会活動電子化の調査・研究

 

2001年度事業計画(2001.6.1〜2002.5.31)

・ 印刷物発行

1.学会誌『地中海学研究』XXV発行

  2002年5月発行予定

2.『地中海学会月報』発行 年間約10回

3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布

・ 研究会,講演会

1.研究会の開催 年間約6回

2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期・春期連続講演会開催

・ 賞の授与

1.地中海学会賞

2.地中海学会ヘレンド賞

・ 文献,書籍,その他の収集

・ 協賛事業,その他

1.『地中海の暦と祭』(仮題 刀水書房)編集協力

2.朝日サンツアーズ講演企画協力

・ 会 議

1. 常任委員会

2.学会誌編集委員会

3.月報編集委員会

4.電子化委員会

5.その他

・ 大 会

  第25回大会(於沖縄県立芸術大学)6.30〜7.1

・ その他

1.賛助会員の勧誘

2.新入会員の勧誘

3.学会活動電子化の調査・研究

4.展覧会の招待券の配布

5.その他

 

 

 

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* 新役員

 第25回総会において新役員(再任を含む)が下記のとおり決定した。

 

会  長 高階 秀爾

副 会 長 片倉もとこ 木島 俊介

常任委員 青柳 正規 石川  清 大高保二郎

     小川 正廣 小佐野重利 片山千佳子

     小池 寿子 込田 伸夫 島田  誠

     清水 憲男 陣内 秀信 末永  航

     鈴木  董 高山  博 武谷なおみ

     長尾 重武 中山 典夫 野口 昌夫

     福本 秀子 堀川  徹 本村 凌二

     湯川  武 渡辺 真弓

監査委員 中山 公男 牟田口義郎

 

 

 

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* 論文募集

 『地中海学研究』XXV(2002)の論文および書評を下記のとおり募集します。

 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度

 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度

 本誌は査読制度をとっております。

 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。

 

 

 

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9月研究会

下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

 

テーマ:死と情念を巡る対話──ニュッサのグレゴリオス『魂と復活について』

発表者:柳澤 田実氏

日 時:9月29日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館311教室

参加費:会員は無料,一般は500円

 

 4世紀のカッパドキアに生きた教父ニュッサのグレゴリオス(330頃〜394頃)は,当時死の床に臥していた姉マクリナと,死と復活について対話を行い,『魂と復活について』(De anima et resurrectione)を著した。死に対する怖れや,悲しみの描写から始められる本書において,人間の情念的,受動的側面の持つ意味がどのように考えられているのか,論駁対象とされているギリシア哲学,特にプラトン哲学の文脈を押さえつつ明らかにしたい。

 

 











事務局夏期休業期間:7月30日(月)〜8月31日(金)

 

 

 

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春期連続講演会「地中海世界の歴史:中世から現代へ」講演要旨

 

ルネサンスと地中海世界

 

徳橋  曜

 

 ルネサンスとは14〜16世紀の文化動向である。中世とルネサンスを対置し,後者に合理性や近代性を見るのは必ずしも妥当ではないが,当時の社会に新しい時代の自覚が芽生えていたことは否定できない。「古代」と「現代(近代)」に挟まれた「中世」という概念は,この時代に生まれた。新たな時代は「古代」を規範とするべきものだった。既に地中海世界の中でのイスラーム文化との交流によって,古典古代の文化(就中アリストテレス)は西欧文化に少なからぬ影響を与えてはいたが,「古代」そのものへの関心はルネサンスから始まる。

 そのルネサンスが当時のイタリアに発した背景には,種々の要因が考えられる。まずイタリアには,古代への関心を刺激するローマの遺跡が多くあった。また教会や社会が動揺・変質した時代であり,新しい価値観や理念が受容されやすかったこともあろう。教会は元来「新しさ」を警戒する傾向にあったが,その枠組が崩れたのである。そして地中海商業による都市の経済的繁栄が文化を支える。商業活動で蓄積された富は,商人や同業組合を芸術のパトロンとした。地中海一帯に展開する活動は商人層の視野を広げもした。当時の海図や商業手引の内容に見られる異世界への(商業的)関心と理解は,彼らが地中海世界を正しく把握し,中国までも射程に入れていたことを示す。新奇なものや異教的なものを受容する柔軟性は,この環境の中で育まれたと言えまいか。

 特に人文主義は,地中海世界の広がりの中で刺激を受けた。人文主義の重要な一部をなすギリシア古典文化への関心は,ビザンツの文化人によって促された。オスマン帝国の脅威に直面したビザンツ宮廷は,西欧に支援を求めた。その過程で文化人がイタリアを訪れ,大きな影響を与えたのである。例えばマヌエル・クリュソロラス(1350頃〜1415)は,皇帝の使節としてイタリアを訪れたが,ついにはイタリアに定住してギリシア語を講じた。また,フィレンツェ公会議を訪れたビザンツ使節には,著名なプラトン主義哲学者ゲミストス・プレトン(1355頃〜1450)がいて,イタリアに積極的にプラトン主義を広めた。同じく公会議に出席したヨアンネス・ベッサリオン(1395頃〜1472)は,枢機卿となってイタリアに定住し,西欧のギリシア研究に貢献した。彼は蔵書をヴェネツィア政府に寄贈してもいる。ビザンツ帝国は1453年に滅ぶが,ビザンツが維持・再生してきた古代の知は,地中海世界の東から西へ移植されたのである。

 移植された知は,それを受容する文化的環境があったからこそ根付いた。その環境を作ったのは商人だった。地中海商業の発展と共に簿記,保険,為替などの商業技術が発達し,商人にとって読み書きは不可欠の能力となっていた。「常にインクに汚れた手を持つことが,商人たる者には相応しい」というアルベルティの言葉は,当時の意識を顕著に示す。また,公文書や土地売買・結婚等の契約文書はラテン語で書かれたので,ラテン語と接する機会も少なくなかった。こうした知識の必要の上に,彼らの教養が形成される。しかも,都市社会の主役は彼らだったから,その教養は都市社会上層の要件となった。フィレンツェ商人G. モレッリ(1371〜1444)の処世訓は,父親に教育を施してもらえない孤児への助言として,古典で自学自習することを勧める。そこには,読み書きが商売上の必要を越えて教養の域に達し,社会的成功の前提と認識されていた状況がうかがえる。

 当然,親は子供の識字教育に熱心だった。14世紀のジョヴァンニ・ヴィッラーニ(1280頃〜1348)の『年代記』の記述や,15世紀のカタスト(課税額確定申告)の算定によると,当時のフィレンツェの子供の就学率は極めて高い。これはフィレンツェに限った傾向ではなく,多くの都市に学校や私塾があった。かかる識字率・就学率の高さが,ルネサンスを支える教養を生んだのである。

 蔵書数も市民の識字・教養をうかがわせる。フィレンツェには,15〜16世紀に市民の資産として市当局に登録された蔵書の記録がある。15世紀前半には1〜5冊程度の蔵書が登録中56%を占め,31〜50冊の蔵書登録は1%しかないが,同世紀後半にはこれが8.2%になり,以後,印刷本の普及で平均蔵書数は増える。また,登録総数中のラテン古典とギリシア古典の割合を見ると,15世紀には前者が19%,後者は1%である。ところが16世紀前半になると,前者が16.8%へとやや減じるのに対し,後者は14.5%に急増する。前述のようなギリシア文化への関心の高まりが,市民の蔵書内容に反映したためと考えられる。15〜16世紀,文化的活動・学芸保護の主体は次第に宮廷に移るが,ルネサンスの知は学者のみならず,市民にも受容されたのである。

 以上のような意味において,ルネサンスという文化動向は,地中海世界と結びつけて論じられよう。

 

 

 

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春期連続講演会「地中海世界の歴史:中世から現代へ」講演要旨

 

オスマン帝国と地中海世界

 

鈴木  董

 

 オスマン帝国には,「陸の帝国」というイメージが強い。確かにこの帝国は,アナトリアの内陸部より興り,かつてビザンツ帝国の版図であったアナトリアとバルカンを中核的領土として成立した国家であった。そして,いわゆる「絹の道」の西のターミナルとして栄えた国であった。軍事力においても,トルコ系の騎兵とバルカンのキリスト教徒出身の改宗奴隷を中心とする歩兵であるイェニチェリという陸軍力が有名であった。

 しかし,オスマン帝国は,実際には海とも深い関わりを有する帝国であった。この帝国は,実に地中海沿岸のほぼ4分の3をその版図の中に包摂していた。黒海は,殆ど「オスマンの海」であった。そして,ペルシア湾と紅海の沿岸部の支配を通じて,遠くインド洋とも深いつながりを有していた。こうして,オスマン帝国は,「陸の帝国」であると同時に,「海の帝国」としての顔も有していたのであった。

 オスマン帝国は,欧米でも,またそれにならって我が国でも,オスマン・トルコ,トルコ帝国,さらに単にトルコと呼ばれることが多い。確かにそれは,トルコ系ムスリムが中心となり形成した国家であった。しかし,オスマン帝国は,トルコ民族国家というよりもイスラム帝国として発展していった。そして16世紀以降は,イスラムの多数派の宗派であるスンナ派の世界帝国というべき存在と化した。

 そしてそれは,「旧世界」の三大陸を結ぶ陸と海との交通と交易の大動脈の上に拡がるイスラム世界の中核を占める帝国として,陸上の「草原の道」とそして「絹の道」とも呼ばれてきた「オアシスの道」と,「香料の道」,さらに中国までの拡がりを考えれば「陶磁の道」とも呼びうる海上の道の交わるところ,西方の大ターミナルともなったのであった。

 確かにオスマン帝国は,13世紀末葉,当時イスラム世界とビザンツ世界の境界地帯をなしていたアナトリア西北の内陸部に現われた,指導者オスマンを戴くムスリム・トルコ系の戦士集団に起源をもつ。

 オスマン集団は,14世紀前半にアナトリア西北部で国家の基礎を固め,14世紀後半にはバルカンにも進出した。そして,1453年にはコンスタンティノポリスを征服してこれを新都としビザンツ世界をほぼ包摂し,辺境の帝国として自己を確立したのであった。

 当初,陸軍力に頼るところの大きかったオスマン帝国は,イスタンブルの征服者メフメット2世の下で,15世紀後半,海軍力の増強に努め,15世紀後半中にまず黒海のジェノヴァ人の多くの拠点を征服して黒海を「オスマンの海」とした。15世紀末以降はエーゲ海でヴェネツィアと争うほどになったオスマン帝国は,16世紀初頭,第9代セリム1世によるマムルーク朝征服により当時のイスラム世界の中心地域たるエジプトとシリアを手中にして東地中海東南岸に版図を拡げ,さらに聖都メッカ,メディナと紅海岸の領土をえた。このようななかで,1520年,父王セリム1世のあとをうけて,第10代スレイマン1世が登場した。

 本邦では大帝と呼ばれ西欧では「壮麗者」の名で知られるスレイマンは,エーゲ海の出口を扼して東地中海におけるムスリムの海上活動の一大障害となっていたロードス島の聖ヨハネ騎士団を1522年に攻めてこれをロードスから追い,東地中海の制海権を手中にした。

 ちょうどこの頃,西欧キリスト教世界における最強・最大の勢力は,ハプスブルク勢力であった。1519年に神聖ローマ帝国の帝冠を手中にしたハプスブルク家のカール5世は,スペイン王も兼ね大航海時代の恩恵に最も多く浴した君主でもあり,強盛と富裕を誇った。

 しかし,オスマン帝国のスレイマンは,陸上ではドナウをこえて北上して,ハンガリーを征服し1529年にはハプスブルクの牙城ウィーンをさえ包囲した。海上においてもまた,西地中海の覇権をめざし地中海上でもハプスブルク勢力と対立した。着々と強化されてきたオスマン海軍は1534年にアルジェリア水軍の頭目バルバロッサことバルバロス・ハイレッティンの帰順をえて飛躍的に強化され,ハプスブルク勢力の圧迫の下に援助を求めたフランスの協力もえて,西地中海でも活躍し,1538年にはハプスブルク海軍を中核とするキリスト教徒連合艦隊をプレヴェザで大破した。

 さらに同じ年には,香料の道の確保をねらいポルトガル勢力を抑えるべくインドに大遠征軍を送りさえした。

 しかし,東西地中海の交点マルタに移った聖ヨハネ騎士団を1565年に攻めて攻略に失敗し,オスマンの東西地中海制覇は成らなかった。1571年レパントの海戦での敗北は1574年のチュニス征服でうめあわされ地中海最大の強国の地位は保った。しかし,16世紀末以降,三大洋の時代を迎え地中海そのものが地盤沈下し,海のオスマン帝国もまた黄昏の時代を迎えたのであった。

 

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

16世紀半ばのフィレンツェ公国における印刷・出版とプロパガンダ

 

──公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノ(1547〜1563)──

 

北田 葉子

 

 1532年にフィレンツェは,共和国から君主国へと変わったが,君主国として安定するのは,2代目の公爵であるコジモ1世の時代である。コジモ1世は,1537年に即位して以降,彼の権力と君主国の安定・強化をめざして精力的に活動し,トスカナ全体を領域とする安定した君主国家を確立した。

 彼が権力強化を図っていた1540年代から1550年代にかけての時期には,文化政策も活発に行われた。彼は,アカデミアを組織し,大学を復興し,芸術家や知識人を利用したさまざまなプロパガンダ(ここでは単純に,コジモと君主国のための宣伝の意でこの言葉を使用する)を展開した。このようなコジモによるプロパガンダに利用されたものの一つに,1547年に設立された公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノがあった。本発表では,このトレンティーノを利用したプロパガンダのあり方に注目した。史料としては,トレンティーノの出版目録,トレンティーノと同時期にフィレンツェで活躍していた印刷・出版工房ジュンティの出版目録,そしてトレンティーノから出版された書物そのものなどを用いることにする。

 トレンティーノの出版物を,同時期のジュンティの出版物と比較しながら見ていくと,以下のことが分かる。出版された作家については,トレンティーノでもジュンティでも,コジモの庇護の下に誕生し,フィレンツェの中心となる文化機関であったアカデミア・フィオレンティーナの会員が執筆した著作がもっとも多い。しかし,両者を比べてみると,トレンティーノで出版した作家とジュンティで出版した作家は異なっていることが分かる。トレンティーノからは,フィレンツェが君主国になってから活躍を始めた作家や外国人が多く,ジュンティからは共和政時代から活躍していたフィレンツェ人の作家の著作が多く出版されているのである。出版された著作については,トレンティーノからは,歴史やアカデミア・フィオレンティーナで行われた講演が多い。歴史の著作の半分は,コジモの庇護を受けていた外国人の歴史家パオロ・ジョーヴィオの著作で,偉人伝のようなものがほとんどである。一方ジュンティから出版された著作の半分は,文学である。しかもその中には,トレンティーノからはほとんど出版されていない,諧謔詩や風刺詩といった分野や,喜劇作品が非常に多くなっている。この諧謔詩は,アカデミア・フィオレンティーナの中心となる会員と対立して,アカデミアから追放されたラスカという人物が編纂したものであった。このように,著作家から見ても,作品内容から見ても,トレンティーノとジュンティは住み分けを行っていた。トレンティーノはよりコジモに近い人物の著作や,アカデミアでの講演を出版することによって当時の「宮廷文化」を代表し,ジュンティは,そこには入っていけない,いわば「マージナルな文化」の出版を受け持っていたのではないだろうか。

 次に,トレンティーノの著作とコジモの文化政策やプロパガンダとの関係を見ていこう。メディチ家や君主国を賛美する著作は意外に少なく10点未満しかない。しかし,コジモやメディチ家への賛美は,献辞で行われていた。コジモに対する献辞は,ジュンティが10%未満なのに対し,トレンティーノでは25%を超えている。献辞は,著作の内容にかかわりなく,君主やその一族を称えるための場を提供していたのである。

 トレンティーノはまた,アカデミア・フィオレンティーナと密接に結びつくことによって,コジモの文化政策に貢献した。このアカデミアの目的は,講演や翻訳を通して教育を行うこと,特にトスカナ語を発展させることであったが,それはトスカナ語を通して領域の一体化を図ろうとするコジモの政策にそったものであった。トレンティーノは,アカデミアの会員による講演や翻訳を出版することによって,アカデミアの活動をさらに外へと広める役割を果たしたのである。実際トレンティーノからは,ジュンティと比較して非常に高い割合で,アカデミアの講演や俗語への翻訳書を出版している。

 トレンティーノからもっとも多くの著作を出版したのは,アカデミアで活躍していたジョヴァン・バッティスタ・ジェッリである。彼の著作は,従順な市民を理想化し,君主国に必要な市民の道徳を説くものであった。このような彼の著作が数多く出版されているということは,彼の思想が社会的規律化を推し進めたコジモの政策に合致していたためだったと考えられるだろう。

 以上のことから,トレンティーノは,コジモが権力強化を図っていた重要な時期に,出版によってコジモの文化政策やプロパガンダを担うと同時に,君主国になってはじめて誕生したアカデミアの文化や新しい知識人たちの思想を広めることによって,君主国における新しい文化の形成に大きな貢献をしたのである。

 

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

イスタンピッタの音楽的起源についての一考察

 

岡村  睦

 

 大英博物館所蔵の『ロンドン写本Additional 29987』と称されている14世紀末の北イタリアで作成された写本の中に,イスタンピッタというエキゾティックな調べを持ったモノフォニーの器楽曲がある。同様な名称をもつ音楽として,14世紀初頭に作成されたフランスの写本のエスタンピーがある。イスタンピッタとエスタンピーはどちらもヨーロッパで生まれた音楽と考えられてきたが,実際にその音楽を聞けば,両者が同じ種類の音楽であるという考え方に疑問を抱かざるをえない。本研究は音楽構造のディテールを考えることを通して,歴史的事実を見据えながら,エキゾティックな調べについて考察を進めることにより,イスタンピッタの音楽的起源を見出すことを試みたものである。

 15曲のイスタンピッタをどの様に分類して捉えるかについては研究者によって異なるが,本研究では前半の8曲をイスタンピッタとして捉え考察した。その結果,これら8曲の終止形についてある傾向が存在することが判明した。音楽作品における終止の形は,途中の様々な技法とともに,その楽曲の特徴を印象付ける大きな役割を担っている。終止形の傾向の相違は,それぞれの音楽グループのスタイルの違いを明白にし,ひいては出自の違いを示唆するのではないかと考え,この8曲の終止音に至る音と終止音との関係を調べた。又,同時代のヨーロッパの代表的な作品についても同様に調べ,比較した。その結果,4曲のイスタンピッタ(Ghaetta, Belicha, Tre Fontane, In Pro)に見られる跳躍4度,或いは5度による終止は,エスタンピーにおいても,また14世紀のイタリアやフランスの音楽においても見出せない,独自の音楽的特徴であることが判明した。この特徴は8曲のイスタンピッタを一括りにヨーロッパの音楽として考えることを躊躇させるものであり,少なくともこの4曲はヨーロッパ以外の地域からの音楽なのではないかという考えをもたらした。そしてそれは具体的にどの地域かと考えたとき,当時交流のあった「アラブ」の音楽,中でも特にエジプトの音楽を連想させた。

 アラブ音楽の特徴の一つは微分音を持っている点で,この微妙な音程を記す方法を当時のヨーロッパの記譜法は持ち合わせていなかったことを考慮すると,記譜されたイスタンピッタとを単純に比較するわけにはいかない。そこでイスタンピッタの旋律の装飾的な動き方に着目し,アラブ音楽の装飾技法と比較することにした。10世紀のアラブの音楽理論書『キターブ・アル・アガーニー』によると,器楽に関しては,基本的な旋律的装飾技法とリズム的装飾技法,そして音色に関する技法が述べられているが,音色に関する技法についてはここでは扱わない。そして具体的な装飾技法については,次のような西洋音楽の装飾用語に置き換えて考察した。隣接する音や跳躍音程による刺繍音的なもの,跳躍音程の充填,モルデント,アッパー・モルデント,トリル,ターン,同音反復である。このようなアラブ音楽の装飾技法と4曲のイスタンピッタの旋律を照らし合わせてみると,各技法が単独,或いは重複して,間断なく使用されることによって旋律が成り立っていることが明白となった。T.McGEEは東地中海地域の音楽のイスタンピッタへの影響を述べており,G. D. SAWAによれば,このような装飾技法は20世紀はじめのエジプトの器楽による前奏曲やフォークソングにも見られるという。いずれにせよ,イスタンピッタが東アラブの音楽と類似性が高いということは間違いなく,先述した類推を裏付けるものである。また,10世紀以降に興隆を見たエジプト,シチリア,北イタリアの地中海に於ける交易の歴史からも裏付けられる。

 これまでアラブ音楽の西洋音楽への影響は,主にスペイン経由のものが注目されてきた。トルバドゥール,トルヴェールの音楽,更にはトレチェントの音楽への影響がそれである。本研究で取り上げた4曲のイスタンピッタはこれらの音楽との類似性が極めて希薄で,むしろ東アラブ,中でも当時のエジプトの音楽との類似性を有するという特徴を持っている。このことはスペインに伝播したアラブ音楽とは異なるアラブ音楽が北イタリアに伝播していたということを示唆するものであろう。このことと,エジプト,シチリア,北イタリアが当時,地中海の交易路で結ばれていたという社会的・文化的背景とを合わせて考えると,4曲のイスタンピッタの音楽的起源を当時のエジプトに求めることも可能な推論といえるのではないか。第一次史料としては一冊の写本しかないという事実と,ヨーロッパ中世の世俗器楽音楽というものがごく僅かしか残されていないことから決定的な判断を下すことは難しく,推量の域を抜け出得ない。しかし,イスタンピッタという音楽がヨーロッパで生まれた音楽であるという考え方には,更に検討しなおす必要があるのではないかと考える。

 

 

 

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地中海学会大会 研究発表要旨

 

ジャケス・デ・ヴェルトの手紙

──16世紀のイタリア世俗声楽曲研究から見たその意義──

 

園田みどり

 

 1999年末,16世紀にイタリアで活躍した作曲家,ジャケス・デ・ヴェルトGiaches de Wert(1535〜1596)の書簡集がフェンロンI. Fenlonの編集によって出版された。1990年代初頭に,ノヴェッラーラという北イタリアのレッジョ・エミーリア近郊の町で,かねてより知られていたヴェルトの手紙の倍に相当する,38通の手紙が発見されたためである。ヴェルトは1550年代〜1560年代初頭までノヴェッラーラ伯爵アルフォンソ・ゴンザーガに仕えていた。

 総数57通の手紙は,ヴェルトの作品の成立年を推定したり,伝記を再構築するために役立つばかりでなく,16世紀の音楽史を考察する上でも貴重な資料となろう。本発表では,とくに当時の世俗声楽曲の創作活動における(A)歌詞の選択と(B)作曲様式の選択,以上二つの問題に照らしてヴェルトの証言を検討してゆく。

 まず,(A)については,1568年3月13日付,アルフォンソ・ゴンザーガ宛の手紙が挙げられる。「…殿下が私に美しいと言っておられたクルツィオ・ゴンザーガ様のあの詩をいただきたく存じます…。よろしければ,高名なる妃殿下様を讃える詩をいただきたいのですが。…」

 今日,当時の作曲家たちによる歌詞の入手経路には,(i)市販の印刷詩集を参照,(ii)手書きのまま直接詩人から,あるいは詩人と交流のあった人物から授受,(iii)他の作曲家の楽譜から転用,以上三つが考えられている。発表者がすでに別稿で指摘したとおり,ヴェルトの現存する世俗声楽曲,計229曲のうち,18曲は・の経路によると考えられ,ヴェルトと詩人の間に立つ人物についてもおおむね推測できる。

 ヴェルトが手紙中で言及しているクルツィオ・ゴンザーガの詩による作品は,上記229曲中には確認できないが,この手紙は・による歌詞入手の証拠とみなすことができるだろう。またその文面からは,ヴェルトがかつてのパトロンの歓心を買おうとしていたことが窺える。同様の記述は1567年1月28日付,アルフォンソ・ゴンザーガ宛の手紙にも見られる。ヴェルトからの依頼文は未発見だが,詩人からヴェルトへの返事が残るものも2例ある。

 このように,現存する作品の少なくとも約1割において,ヴェルトはパトロンの趣味に配慮しながら・の経路によって歌詞を入手,作曲したと思われる。歌詞作家が不明のため,入手経路の考察が事実上不可能な作品が125曲にのぼることを考え合わせると,実際にはさらに多くの作品が・の経路によったことも否定できないだろう。

 続いて(B)については,1567年1月28日付,アルフォンソ・ゴンザーガ宛のヴェルトの手紙が挙げられる。「殿下にこの三つのナポリターナをお送りします。…」

 ヴェルトの言う「ナポリターナ」とは,当時のイタリア世俗声楽曲の主要ジャンルであったマドリガーレよりも,歌詞と音楽双方において様式的に軽めに書かれたヴィッラネッラの一種であると思われる。ヴェルトがヴィッラネッラを創作,出版したのはこの手紙の執筆からおよそ20年後のことであるから,手紙でヴェルトが言及した作品は,創作したものの出版されずに失われたのかもしれない。ただし,ヴェルトの言うナポリターナは,「ヴィッラネッラ風のマドリガーレ」であった可能性もある。実際,ヴェルトのマドリガーレ全200曲のうち,29曲には,ヴィッラネッラにしばしば認められる「アリア(=叙事詩の朗唱に起源を有するといわれる一群の旋律定型)」の影響が見て取れる。しかも,29曲のうち24曲は,問題の手紙が書かれた1567年までに出版されている。

 今回の書簡集の出版に伴って明らかになったフランチェスコ・フォッローニコとレアンドロ・ブラッチョーロの手紙によれば,ヴェルトがこのような作品を積極的に創作したのは,アルフォンソ・ゴンザーガ,およびその客人としてノヴェッラーラをしばしば訪れていたペスカーラ侯フランチェスコ・フェルディナンド・アヴァロス一家と行動をともにしていた女性がそれを好んだためである。ヴェルトは1565年にマントヴァ公爵グリエルモ・ゴンザーガに仕え始め,それまでとは全く異なる環境で創作活動を続ける。そのことを考慮すると,ヴェルトが1560年代までにアリアの影響を窺わせる作品を集中的に創作したのは,それを好むパトロンたちの影響であったと推測される。

 以上のように,ヴェルトの証言は,歌詞選択および作曲様式の選択に,作曲家の個人的な趣味よりもパトロンの意向が時に強く反映されていたことを示唆している。この点において,ヴェルトの手紙は,選ばれた歌詞作家の傾向をもとに作曲家の文学性を論じたり,あるいは音楽様式の傾向から作曲家の好みを導き出すことが当時の世俗音楽研究においてどの程度可能であるのかを再考する手がかりを提供しているといえるだろう。

 

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