地中海学会月報 240
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|05  




   -目次-











学会からのお知らせ



6月研究会

 下記の通り研究会を開催します。

テーマ:15,16世紀フィレンツェにおける劇場建築の成立過程

    ──スペッターコロのための空間の固定化と専用化

発表者:赤松 加寿江氏

日 時:6月9日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3階311教室

 15,16世紀イタリアにおいて,フィレンツェはルネサンスを率いた人文主義文化が培われていたにも関わらず,北イタリアの都市と比べ独立型の劇場建築の成立が半世紀近く遅れた。しかしその一方で劇場建築が成立するまでに,社会的・政治的な意義をもつ演劇活動のために様々な空間が劇場として設えられていた。本発表は演劇的活動を総称する「スペッターコロSpettacolo」に着目し,そのための空間が固定化・専用化していく過程を軸に近代劇場建築の成立過程を検討したい。

 

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*学会賞・ヘレンド賞

 学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。両賞の授賞式は6月30日(土)に沖縄県立芸術大学で開催する第25回大会の席上において行います。

地中海学会賞:多田智満子氏

(副賞 エールフランス航空提供パリ往復航空券)

 多田氏は,地中海世界の歴史や神話についての造詣の深さをいかした数多くの詩集やエッセイを著し,さらにユルスナール等の翻訳により文学のもつ想念と思考の深みを心にしみる筆致で読者を楽しませてくれた。このような「歴史をさまよう詩人」ともいうべき多田氏の一連の業績は,本邦における地中海認識にとり画期的意義を有する。

地中海学会ヘレンド賞:秋山学氏

(副賞 星商事提供50万円)

 秋山氏の『教父と古典解釈──予型論の射程』(創文社 2001年)は,これまでほとんど没交渉のうちに行われてきた西洋古典文献伝承史学と,中世においてそれら古典文献の伝承に携わった修道士・聖職者たちの奉ずる神学的内実の究明とを,原典資料に基づき相互の密接な関連のうちに展開した。

 

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*『地中海学研究』

 『地中海学研究』XXIV(2001)は下記のとおりに決まりました。第25回大会会場で配布します。

・古代地中海の怪物ケートスの系譜とドラゴンの誕生──ジローナの《天地創造の刺繍布》における二匹の海 獣に関する一考察    金沢 百枝

・中世後期南西フランスにおけるバスティドの創設──13世紀後半から14世紀初頭のアジュネ地方を中心に              加藤  玄

・ドビュッシーのポー受容とオペラ《アッシャー家の崩壊》制作過程    栗原 詩子

<研究ノート>紀元前5〜4世紀のスピナとアドリア海を介した交易活動──エトルリア人の活動を中心として    長田 千尋

<研究ノート>ベラスケス作《バッカスの勝利》──ボデゴンとの関連性とその制作意図について     貫井 一美

・書評E. Castelnuovo, La cattedrale tascabile--Scritti di storia dell'arte    児嶋 由枝

 

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*第25回総会

 先にお知らせしましたように第25回総会を7月1日(日),沖縄県立芸術大学で開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いします。

一、開会宣言

二、議長選出

三、2000年度事業報告

四、2000年度会計報告

五、2000年度監査報告

六、2001年度事業計画

七、2001年度予算

八、役員人事

九、閉会宣言

 

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*会費自動引落

今年度の会費は4月23日(月)に引き落とさせていただきました。引落の名義人は,システムの都合で,地中海学会名ではなく,「三井住友ファイナンスサービス」となっています。この点ご了承下さい。

 

 

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25回大会開催にあたって

 

浅野 春男

 

 地中海学会の大会を沖縄で,しかも沖縄県立芸術大学で開催するのは大きな喜びであり,たくさんの参加者があることを願うばかりだが,実際,創立15年の芸大はいまだに試行錯誤の最中の組織であり,大会開催の場としてふさわしいかどうか,心配ばかりが先に立つ。大学の規模も小さく,歴史も浅く,学生数も少ないので,いろいろと不手際が生じると予想されるので,参加していただく方々にはどうかご寛恕いただきたい。

 沖縄が日本のなかに占めている位置を考えてみるだけでも,この地を沖縄の視点で捉えるか本土の視点から見るかでは大きな違いがあって簡単には語ることが出来ないし,東京生まれで細々と西洋美術史を弄んでいる身には,ここで沖縄の美術を歴史的に語る自信もない。

 沖縄が政治的にかかえている諸問題については,いくつも論説があって小生の出る幕はないが,ただ沖縄を日本の中の一つの県としてでなく,かつての琉球王国の地として把握し,沖縄の独自性を主張する意識はこの地の文化人において抜き差しならぬ強度をもっているように思われる。その意味で言えば,本土生まれの者は何年たっても余所者でしかない。

 しかし,沖縄の中に住む余所者の目からみると,沖縄県立芸術大学の問題点とおぼしきものが気になることがある。沖縄の青い海や豊かな自然,長寿をもたらす琉球料理や美酒泡盛のうまさを記して地元を宣伝するのも良いが,逆に,いつも考えていることを正直に書いて自己批判するのもいいかもしれない。沖縄には独自の歴史と文化があり,その個性を継承し育むことが我が芸大の役目のひとつだと思うが,大学の中には,本土のどこにでもありそうな美術教育と大同小異のことをしているのではないかと疑いの念を抱かせる専攻もある。本土との格差是正を目指しているとすれば,地域の個性や特性はどうなるのだろうかと考えさせられる。では,沖縄の地に根差した教育は工芸専攻や邦楽専攻でなされているのかというと,こちらの方は,職人養成の専門学校的な雰囲気があって,大学らしくないものを感じる。私に答えがある訳ではないのだが,いったい芸術大学とは何をするところなのだろうか。一方では近代主義の影響下にあって普遍的なアートを目指すかと思えば,他方では地域主義の職人芸を理想としている。

 しかし,そのような矛盾を抱え込んだ大学があることが,反面教師ではあっても,沖縄という地に良い意味の刺激をあたえているのかもしれない。

 またモダニズムがアジアにもたらした功罪を考えるうえでも,沖縄は地の利を得ているといえそうだ。この地に住むとアジアがぐっと近くなった感覚があるし,沖縄の作家たちも韓国や台湾,中国,東アジア諸国に親しみを懐いている。とともに,一方でアメリカ治世下にあった時代を考えれば,沖縄が文化的に置かれている扇の要のような位置に気づかされる。

 芸大のすぐ隣にある首里城正殿は1992年11月に復元された。14世紀末に遡る歴史を秘めた赤漆の正殿を訪れると,中国との深いつながりをもつ沖縄の優美な建築を味わうことができる。また,これも大学のすぐ近くにある県立博物館を訪れると,沖縄の歴史を概観しつつ美術工芸,民俗,自然環境の諸側面を知ることができる。浦添市美術館は漆工芸を中心とした美術館であり,14世紀から16世紀にかけて中継貿易で栄えた琉球の朱漆や黒漆に輝く小箱や食器,衝立,そして螺鈿をちりばめた逸品を鑑賞できる。だが,今日沖縄で見ることのできる工芸品は,残念ながら,かつての琉球王朝のすぐれた美術工芸のほんの一部分にすぎないことはいうまでもない。

 大会の本編については,私の力量に余るのでここには記さないが,期間中に芸大で開催される「沖縄・水/アート・フォーラム2001」というのは,「水」をテーマとした新しい芸術運動であり,近代主義を越える視点を模索しつつ,アジアに固有の有機的なアートの試みとなる予定なので,ご覧いただければ幸いである。あるいはまた,私の個人的なアイディアをここに記すことをお許しいただければ,琉球絵画史に思いを馳せるためにも,失われた琉球国王の肖像画「御後絵」の復元された作品を展示してはどうかと,現在検討中である。

 また,大会翌日のバス・ツアーでは首里城や玉陵などの有名どころだけでなく,南部にも足を伸ばし,沖縄人の始祖が降り立った久高島を遙拝する斎場御嶽を見学したい。出来れば稲作発祥の地とされる受水走水や,日本の名水百選に沖縄で唯一選ばれた垣花ヒージャーなど,ふつうの観光では訪れることのない場所にも赴き,古き時代の琉球のたおやかな生活を偲びたい。歴史の大きな波に揉まれる小舟のような地で地中海学会の大会が開催される意義は大きい。私は,沖縄の海が世界の大海とつながっていること,この地球が美しい水惑星であることを実感する瞬間のあることを今から念願している。

 

 

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研究会要旨

 

ビザンティン典礼の形成と本質

──ゲルマノスの注解を中心に──

 

秋山  学

 

4月14日/上智大学

 

 ビザンツ帝国をめぐるアプローチとして,社会科学的な方法は極めて一般的である。けれども,ビザンツ人のほとんどすべてが日々その典礼日課に生きた人々であったということは,社会史的な研究にあっては通常まったく意識されない。ビザンツ世界を根本的に統御していたのがビザンツ特有の神学思想であり,典礼であったということは,改めて注目されてもよいのではないだろうか。

 「典礼」とは,各個人が話す母語ないし各々の持つ民族性になぞらえられるものである。すなわちそれは,神聖なものに対する畏敬や感謝・願いなどを表す際に拠る,人間の最も深い部分を表しうるような表現形式であるから,世界の様々な地域各々に根ざした多様な典礼形態があってよい。わが国の場合を考えてみると,正教会の典礼形態がロシア経由によるビザンティン典礼の忠実な継承であるのは別として,諸宣教団によって移入されたのは基本的に西方のローマ典礼であり,典礼刷新を経た後もなお,それが真に日本の風土と心性に合致しているかどうかに関しては再考の余地がある。この点で東方の典礼から学びうるものは少なくない。今回の発表は以上のような意識の許に,ビザンティン典礼の形態と形成過程を辿り,その本質的なメッセージを汲み取ることを目標とした。

 東方キリスト教典礼の一つビザンティン典礼は,初代教会の典礼形式を留め,スラブ文化圏を中心とした地域に伝える貴重な遺産である。まず発表全体の序論として,通常「東方教会」と呼ばれるもの,すなわち正教会・東方諸教会・東方典礼カトリック教会の成立と沿革を辿り,その分類を通して,そこで行われている「東方典礼」と呼ばれるものの全体像と変遷を示した。続いて典礼様式の分類に移り,東方典礼のなかで最も有力な「ビザンティン典礼」の占める位置を確認した。さらに,現行の「ビザンティン=スラブ典礼」の式次第を参照することにより,この典礼様式を順に構成する奉献礼儀・啓蒙者礼儀・信者礼儀の内容を辿った。この際,通常われわれにはあまり馴染みがないと思われるこの典礼形態に関しては,ラフマニノフやチャイコフスキーのCDが意外に効果的な示唆を与えうることを指摘した。

 続いて本論に入る。現行のビザンティン典礼が現在の定式に沿ったものとなったのは,ほぼ8〜9世紀のこととされる。またその解釈の上では,8世紀のコンスタンティノポリス総大司教ゲルマノス(715〜730在位)による『教会の史実と神秘の観想』が,それ以降,ビザンティン特有の象徴的典礼理解を決定づけた。このゲルマノスの解釈は,先駆者マクシモス・コンフェッソル(580〜662)の神学思想を消化しつつ,モプスエスティアのテオドロス(350〜428)によるアンティオケイア学派の理解をも取り込んだものとなっている。このような神学理解の上での変遷の原因としては,激しい勢いで拡がったイコノクラスム(聖画像破壊運動)による質料否定的な神学観に対して,典礼神学をも,歴史と質料に根ざしたものとすべく行われた反動的な解釈の影響が指摘されている。

 ゲルマノスがマクシモスとは異なった象徴理解を展開する箇所としては,まずマクシモスにあっては,福音朗読ののち高座より司祭が降りることが,キリストの再臨・第二の到来を表すとされているのに対して,ゲルマノスでは現行の解釈に近く,福音朗読が「言葉」としてのキリストの到来を表すものだとされている点がある。またマクシモスにおいては,いわゆる「小聖入」と「大聖入」が,いずれもキリストの再臨・天国の実現に近い形で捉えられているのに対し,ゲルマノスでは後者がキリストの犠牲的受難をかたどるという観点から,全体としてキリストの地上での生に立脚した解釈が展開されている。その背景には,大聖入をキリストによる十字架の道行きとし,祭壇をその葬りの場と解しつつ,聖変化の際に信者が想起すべき事柄とは十字架上のキリストの犠牲であると説いたテオドロスの影響を明確に読み取ることができる。

 ゲルマノスは,聖体礼儀の構造だけでなく,教会建築・服装・聖器物にも象徴的解釈を加えることで,純観想的な解釈に徹したマクシモスに拠りつつも,典礼の象徴解釈をあらゆる場面へと拡充させた。このことは,一面においてマクシモスの秀逸さを際立たせる結果となった。しかしそれと同時に,ゲルマノスがテオドロスに認められるアンティオケイア学派的な歴史認識に基づいた典礼理解をも十全に消化したことにより,ビザンティン典礼が,アレクサンドレイア学派を承けた宇宙的な観想的典礼として存続するとともに,アンティオケイア学派の史的イエス理解をも盛り込んだものとなる道を開いたと言える。

 

 

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アレッツォの奇蹟の泉とベルナルディーノ

 

大黒 俊二

 

 1428年頃,説教師ベルナルディーノ・ダ・シエナはトスカナ南部の町アレッツォで説教した折,市民を説いて郊外のある泉を破壊させた。この泉は病気治癒の奇蹟を起こすとして古くから民衆の信仰を集めていた。ベルナルディーノはこれを異教の慣行,悪魔の仕業として破壊したのである。泉の跡地には聖母マリアに捧げられた教会が建立された。

 このエピソードは,キリスト教古来の異教との戦いの一こまとしてありふれたものである。とはいえ,ベルナルディーノ伝で最初にこの事件に出会って以来,私の脳裏を去らない疑問がある。つまらぬ疑問かもしれないが,これをふくらませると最後はルネサンスとは何かという問いまで行きそうである。そこで事件の顛末にもう少し踏み込んでみることにする。

 この泉は「屋根つき泉」Fonte Tectaと呼ばれ,図に見るように石造の屋根で覆われている。ベルナルディーノはこの屋根もろとも泉を破壊し埋め立てたのだが,破壊に先立ち,泉を掘り返し水源を探ろうとした。掘り進むと地下に広々とした一室が現れた。さて,その頃アレッツォで見つかった年代記には,「屋根つき泉」の地下には聖所があり,そこには異教の偶像を祭る祠があると記されていた。つまり掘り当てた地下室は異教の神々の神殿であったのだ。「屋根つき泉」は,古代異教神と泉水の治癒力への民衆信仰に根ざしていたのである。

 泉,樹木,巨石などが信仰の対象となることは洋の東西を問わず珍しくない。西欧でも中世初期のキリスト教化とは,そうした自然信仰との戦いであった。ゲルマニアの森深く分け入った修道士たちは巨木を伐り倒し,泉を埋め,異教の神々と奇蹟の力を競いながら福音を広めていった。「屋根つき泉」の破壊も,そうした無数に繰り返されてきた戦いの一つにすぎないともいえる。

 この事件が特異なのはイタリア・ルネサンスのただなかで起こっている点である。アレッツォは多くのヒューマニストを輩出したルネサンス文化の一中心地であったし,ベルナルディーノ自身もヒューマニストとの交流が深かった。泉の跡に建つサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は,ルネサンス様式の優美な姿を今にとどめている。周囲は十分にルネサンス的である。その中で起こったこの事件は異教の慣行を「悪魔の仕業」,「老蛇の働き」として弾圧した。こうしたあからさまな異教への敵意は,広く流布しているルネサンスの異教イメージにはそぐわない。私の疑問はこの点に発する。

 異教の復活や古代の神々の再生はルネサンス文化を語る際の常套句となっている。しかしその異教とはいかなる異教なのか。シエナ・カテドラルのシビラやヘルメスの像,ピコ・デッラ・ミランドラとカバラ,ボッティチェリ描くヴィーナスの誕生……などが思い浮かぶ。異教の復活を説く学者たちが注目するのもこうした作品である。しかしこれらの「高級」な作品からは,民衆の生活に息づいている異教は見えてこない。ルネサンス文化を担ったエリートたちは,「屋根つき泉」のような身近で泥臭い異教にどのようなまなざしを送っていたのか。こうした迷信まがいの民衆信仰は「復活」したのか,生き延びたのか。ルネサンスのイタリアには,あたかもエリートの異教と民衆の異教の二つが存在したかのようであり,両者が交わるところは容易にみえてこない。

 ベルナルディーノの足跡をたどると,しばしばこうした疑問を抱いてしまう。彼はある著作の中で,撲滅すべき異教慣習を「〜に抗して」Contra…の語とともに数十も挙げている。また魔女とサバトのイメージもそうである。魔女に関する彼の説教は,C.ギンズブルグによると変身,サバト,妖術などが緊密に一体となった魔女イメージの最初の表われであるという。ユーラシアのシャーマニズム的伝統に由来する魔女は,ベルナルディーノにおいて初めて明確な形をえた。異教の伝統がルネサンス・イタリアのただなかで魔女に変身したのである。

 「屋根つき泉」にしろ魔女にしろ,15世紀トスカナにおける民衆的異教は,E.ヴィントの描く「ルネサンスの異教秘儀」からはあまりに遠い。両者を含めた「復活」や「再生」を考えることは可能なのだろうか。これは,説教師という民衆に身近な存在を通してルネサンス・イタリア社会をのぞいている私の素朴な疑問である。

 

 

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画中の蝿をめぐるはなし

 

秋山  聰

 

 先般,幸いにも科学研究費によりデューラーについての博士論文の日本語版を上梓することが出来たのだが,そこにちょっとした悪戯(?)を施してしまった。巻末に「画中の蝿リスト」という珍妙な附録を添付した上,編集者の妙案に従い,裏箱に蝿をプリントしたのである。

 そもそもはデューラーによる「画中の蝿」について調べる過程において,フライブルク大学での指導教官であったヴィルヘルム・シュリンク教授にもちかけてみたことにはじまる。半ば冗談のつもりだったのだが,昨今小説『朗読者』によってわが国でも知名度の高まりつつあるベルンハルト・シュリンク氏の令兄でもある我が師は,悪戯っ子がそのまま大人になったような方で,快く同意されてしまった。そこで自分から言い出した手前,従来の研究を上回る数の画中の蝿を探さざるをえなくなったのだった。「画中の蝿」研究には実のところかなりの歴史がある。しかもなぜか高名な研究者たちがこのテーマに取り組んできた。古くはドジソン,ヴァイクスルゲルトナー,さらにはピグラーがおり,パノフスキーやシャピロにも言及がある。シャステルにいたっては,このテーマについて豪華本を上梓しているほどである。近年ではアラスも取り上げているし,邦語でも『ハエ全書』や谷川渥氏の『だまし絵』などが刊行されている。ただこれらの研究には「画中の蝿」に普遍的読解を与えようとする傾向が認められ,取り上げられる作例も専らネーデルラントとイタリアの比較的著名な作品にしぼられがちである。これに対して拙著ではデューラー研究という性格上,デューラーにおける「画中の蝿」の包含するメッセージを解析することに重点を置いた。するとその過程で15世紀後半のドイツ絵画に予想以上に多くの「画中の蝿」が存在することがわかってきた。結果として1500年前後の作例だけでも百点近く確認できてしまった。このような作業は図版等だけで行なうには無理がある。汚れなのか,ゴミなのか,それとも蝿なのか判別しがたいのだ。結局は現地で確認するほかはない。生来本末転倒に陥りがちな質なもので,留学中の一時期は博論の本筋を忘れて,蝿探しにはまっていた。慣れてくると勘が働くようになる。例えばある美術館に行く。すると「ここには蝿がいるぞ」という確信が湧くことがある。大体の場合この勘はあたる。次第にどの美術館に行っても,五分とたたぬ内に蝿の有無がわかるようになった。

 そうした一時期,カールスルーエの美術館を訪れた際,グリューネヴァルトの絵に蝿を認めた。デューラー,クラーナハ,ハンス・バルドゥンクらが蝿を描いたことは確認していたが,「グリューネヴァルトもか」と半信半疑ながら絵に近づいたところ,「画中の蝿」は飛び去ってしまった。ジョットやマンテーニャは巧みに蝿を描き,人の目を欺いたと伝えられるが,本物の蝿を「画中の蝿」と見間違った例はあまりないかもしれない。何となくがっかりしながら,他の作品を見ていたところ,突然耳元で「蝿は見つかりましたか?」と聞いてくる輩があり,ギョッとして振り向くとシュリンク先生が立っておられた。驚かされたのが癪だったもので,思わず「グリューネヴァルトの絵の上に見つけました」と言ったところ,今度は先生が逆に大変驚かれた。そこで思わずニヤニヤしつつ「画中ではなく,絵の上に見付けたのですよ。本物の蝿をね」と告げると,拍子抜けされ,こちらとしては何だか溜飲を下げた気がしたものだった。

 実際「画中の蝿」をめぐってはしばしば狂騒曲的現象が生じる。最も多いのは「画中の蝿」が画集の中で校正者により消されてしまうことで,これは随所に認められる。逆に蝿など描かれていない絵に,蝿が描かれていると主張する書物もある。あるデューラー研究書にはデューラーの《鶸の聖母子》(ベルリン美術館)に蝿が描かれているとあった。ためつすがめついろいろな画集を見ても一向に認められない。そこで困ってシュリンク先生に相談に行ったところ,その著者と親交のあった先生が言われるには,「彼は筆が早いからねえ。記憶が混交したのかもしれない。あるいは彼がこの絵を見た時に,たまたま蝿がとまっていたのかもね」とのことで,安心したものであった。

 ところで「画中の蝿」さがしは,単独で行なうべきものだったかもしれない。蝿探しに邁進していた頃,ケルンにおいて旧知のフォーゲル教授夫人が幾つかの美術館にご同行下さった。この折も確か二点の蝿を見出すことが出来たのだが,夫人には思いがけない後遺症を与えてしまうことになった。この後彼女はどこの美術館に行っても,どの絵を見ても蝿を探してしまう習性がついてしまったというのである。これが五月のことであったなら「それはうるさいことで」と謝れたのだが(ドイツ人には通じないでしょうけれど),残念ながら初秋のことであった。

 

 

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シャフツベリーの哲学

 

──ケンブリッジ・プラトン学派の継承と展開──

 

黒瀬 勝利

 

 第3代シャフツベリー伯(1671〜1713)。彼は,祖父である初代シャフツベリー伯の庇護の下にあったJ.ロックを家庭教師として育てられた。しかしながら,彼はロックが構築した経験論哲学を肯定的に受け継ぐというよりは,むしろ当時その論争相手であったケンブリッジ・プラトン学派が提唱する思想へと傾倒していった。シャフツベリーが受容したケンブリッジ・プラトン学派の哲学とはいったいどういうものだったのか。

 ケンブリッジ・プラトン学派の哲学的基礎は,イギリス・ルネサンス期に醸成されていたのだが,そのイギリス・ルネサンスの時代精神には,イタリア・ルネサンス期にキリスト教の教理とプラトン哲学を折衷させ総合させようと試みたM.フィチーノの思想的影響が色濃く窺える。フィチーノにとっては,異教的と考えられていたプラトンやプロティノスの哲学はキリスト教に対立し異議を唱えるものではなかった。こうした宗教と哲学,信仰と理性を調和へと導く考えが,J.コレットによってイギリスに持ち込まれ,エラスムスやトマス・モアによって喧伝された。例えばトマス・モアは,そのユートピア理念の核心は純粋な理性に基づく普遍的な有神論であると説く。ここには,教会によって規定された,理性的な思考を認めない信仰ではなく,人間の理性によって普遍的形而上的存在を観照しようとする自由な信仰を唱えるルネサンスの精神,すなわち人間中心的な信仰の精神を読み取ることができる。この精神はケンブリッジ・プラトン学派に受け継がれていく。この学派の創始者といわれるB.ウィチカットは,「人間の魂は主の灯し火である」という旧約聖書の言葉を引用しつつ,理性は信仰にとって相容れない対立するものではなく,信仰にとって不可欠なものであると説いたのである。

 しかし,なぜケンブリッジ・プラトン学派は信仰と理性を調停しなければならなかったのか。それは,当時矛盾を孕んだ極端な神中心主義あるいは無神論が台頭してきたからであった。ケンブリッジ・プラトン学派が精力的に活躍した時代は,1630〜50年とされている。この学派が反駁しようとした論敵として,その時代の革命精神であるピューリタニズムや,ホッブズらの主張する経験論哲学が存在した。ピューリタニズムは,神聖な存在を捉えようとする人間個人の自由な精神や理性を認めず,<神>を絶対化し,盲目的に狂信的に崇拝するよう説く。また経験論は,超越的な神的存在を極端にまで矮小化し,科学的分析を通じて唯物的に世界を捉えようとするが,その結果導き出そうとするものは,普遍的に見える法則あるいはこの世を統べる<掟>である。いずれにおいても,個人の自由な意志は認められず,世界の創造主である<神>,あるいは世界を動かす根源的力である<掟>は,結果的には人間を支配する装置となってしまう。

 シャフツベリーが生きた時代は,ケンブリッジ・プラトン学派が活躍した時代よりも少し後になるが,しかし同じように経験論は隆盛を極めていたし,ピューリタニズムの勢いも少なからず残存していた。権力をかざして人間の自由な精神の発動を抑制する両者に対して,シャフツベリーもまたそれらが孕む矛盾,信仰や科学を突き詰めていった結果,人間の支配へと陥ってしまうという逆説を看過することはできなかった。

 シャフツベリーの哲学の礎には,ケンブリッジ・プラトン学派が提唱した信仰と理性が共存しうる自由な精神が存在する。このことは,彼がプラトンやクセノフォン,そしてケンブリッジ・プラトン学派の人々の著作を終生読み続けていたと伝えられていることからも裏付けられる。ただし,彼はこの学派の思想を継承しただけではない。彼の功績は,むしろその思想を展開したこと,つまり宗教・道徳の領域において獲得した自由な精神を美学・芸術の領域にも敷衍したことにある。シャフツベリーはその精神によって真理だけでなく美をも捉えようと考えた。彼にとっては,真は美であるし,またその逆も成立する。したがって,彼は形式上の美しさの中に真実を観取する。真であるものはその内部に美を備えており,それゆえその内的な美が外面に顕れるはずである。内的な美とはいわゆる物質界を司る<魂>そのものであり,それがもつ創造力・形成力によって外的な美が表現されるというわけである。このようなシャフツベリーの思想は,プラトンの説くイデア論の相似形と考えられるだろう。

 

 

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表紙説明 地中海の水辺2

海港都市アレクサンドリア/堀井 優

 

 表紙は,エジプトの地中海沿岸部を代表するこの都市の景観図である。1547年にエジプトを訪れたフランス人,ピエール・ブロン・デュマンの旅行記に付された。地形の描写は不正確だが,この都市の近代以前の外観の特徴をよく表している(下はナポレオン遠征時の測量図)。

 まず都市をとりまく防壁である。その起源はイスラーム期以前にさかのぼるといわれる。ムスリム支配者たちは幾度かにわたってこれを強化し,また壁に沿って百近くの塔を建設してきた。これらは遊牧民の襲撃から都市を守るとともに,ムスリム領域を防衛する施設としても機能し,キリスト教徒の海上からの襲撃を防いだ。

 都市の前面にのびる地峡の東側の突端は,古代からの伝説的な灯台があったファロス島にあたる。この灯台が数度の地震で崩れた後,マムルーク朝スルターンのカーイトバーイは,1479年ここに大きな城塞を完成させた。度重なる沿岸への襲撃にたえかねたためである。

 一方この都市は,海上と内陸に開かれた商業拠点でもあった。前面の二つの湾は,ここを訪れる船舶の停泊港として利用された。東港は外来のキリスト教徒用だった。西側の湾口(実際はこの図よりはるかに広い)の大部分は鉄鎖で防備されていたが,ムスリムの船舶は西港(旧港)に入ることを許されていた。

 港と都市の内側をつないだのは「海の門」である。門を入ってすぐ向いは税関だった。防壁の東端の「カイロ門」からのびる道はナイル河口都市ロゼッタに連絡し,さらに河をさかのぼってカイロに通じていた。南側の門は「胡椒の門」と呼ばれた。カイロからデルタ地帯西側の砂漠を通って隊商が運ぶ香辛料は,おそらくここから都市に入ったのだろう。

 都市の南に広がるマルユート湖は塩水だから,用水の供給はナイルからひかれた運河に頼らざるをえなかった。その維持は支配者にとって大きな課題であり,また水質の悪さは,疫病の原因となることもあった。

 防衛・商業拠点として機能しつつ不便な面もあったこの都市の重要性は,オスマン支配時代の16〜18世紀に徐々に低下する。海上からの襲撃の脅威が薄らぎ,オスマン領内の交通が緊密化するにつれて重要となったのは,水運でカイロに直結するロゼッタだった。アレクサンドリアが再び脚光を浴びるのは近代に入ってからである。しかしそれは,ヨーロッパ列強の圧倒的な軍事力と資本がエジプトに浸透していく窓口としてだった。

 

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