地中海学会月報 239
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|04  




   -目次-

 

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*会費納入のお願い

 新年度になりましたので,会費の納入をお願いします。請求書および郵便振替払込用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。

 口座自動引落の手続きをされている方は,4月23日(月)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください(領収証をご希望の方には月報次号に同封して発送する予定です)。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願い申し上げます(12月頃の予定)。

 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円

    学生会員  6千円

    賛助会員 1口 5万円

振込先:口座名「地中海学会」

    郵便振替      00160-0-77515

    富士銀行九段支店   普通 957742

    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

    (旧住友銀行麹町支店)

 

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*石橋財団助成金

 石橋財団の2001年度助成金がこのほど決定しました。金額は申請の全額で40万円です。

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*第25回地中海学会大会

 第25回地中海学会大会を沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵町1-4)において,下記の通り開催します。詳細は別紙の大会案内をご参照下さい。

6月30日(土)

13:20〜13:30 開会挨拶

13:30〜14:30 記念講演

 「古代エジプトの建築」  堀内 清治氏

14:45〜15:15 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

15:30〜17:00 地中海トーキング

 「島とうたと祈りと」

  パネリスト:赤嶺政信氏/井本恭子氏/松田嘉子氏/司会:武谷なおみ氏

18:00〜20:00 懇親会 [都ホテル]

7月1日(日)

10:00〜11:30 研究発表

 「建築物階数の数え方−−聖書における《ノアの箱船》をもとに」 杉浦  均氏

 「メディチ家支配期のピサにおける都市構造と建築形態の変容」 吉田友香子氏

 「L.ノットリーニによるルッカの古代ローマ円形闘技場遺構再開発計画」 黒田 泰介氏

 「16世紀前半のフィレンツェ公国における印刷・出版とプロパガンダ−−公国印刷所ロレンツォ・トレンティーノ(1547〜1563)」 北田 葉子氏

 「Istanpitta(イスタンピッタ)の音楽的起源についての一考察」 岡村  睦氏

 「ジャケス・デ・ヴェルトの手紙−−16世紀のイタリア世俗声楽曲研究から見たその意義」 園田みどり氏

11:45〜12:15 総 会

12:15〜13:30 昼 食

13:30〜17:00 シンポジウム

 「海のネットワーク」

  パネリスト:齊藤寛海氏/豊見山和行氏/濱下武志氏/司会:高山博氏

 

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*大会案内の訂正

 先にお送りしました大会案内「第二十五回地中海学会大会」を下記の通り一部訂正します。

会場校の住所と郵便番号

  沖縄県立芸術大学

  〒903-8602那覇市首里当蔵町1-4

地中海トーキングのテーマ

  「島とうたと祈りと」

 

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コンソラータ広場のビッチェリン

──わたしの『クオレ』──

松本 修自

 「ビッチェリン」をご存知でしょうか。チョコレートの溶け込んだ,冷たいコーヒーなのです。脚付きのグラスに盛られたそれは,とろりとして,上四分の一ほどにクリームを載せています。チョコレートはトリノの名産で,今でこそスイスが有名ですが,トリノっ子に言わせると,スイスにその製法を伝授したのは,他ならぬトリノなのだそうです。今空港の免税店などでも見かける製品名は,「ジャンドゥーヤ」といって,ナッツが配合されたその味は洗練された,というよりもむしろ素朴な,なつかしい味がします。

 ここコンソラータ広場にある,むかしながらのバールのショウケースにも,ジャンドゥーヤが並んでいました。店内では中年のカップルが仲良くビッチェリンを飲んでいたりするのも,ほほえましい光景でした。

 ところで,味もさることながら,わたしにはその場所が大変です。なぜなら,この広場こそ,『クオレ』の主人公,エンリーコ少年が住んでいた可能性が唯一ある場所だからです。コンソラータ広場の名前は,エンリーコ自身の日常の生活の記述のなかには現われません。もし,物語の中で,この広場の出てくる場面をすぐ思い出すことができるならば,あなたもかなりの『クオレ』通といえましょう。

 それは小さな広場で,西側の通りに開いたコの字形の北側に教会,他の二方にあのいつものように赤くくすんだ街の建物があります。建物の年代は,エンリーコが住んでいたとしても充分な古さです。今でもそうですが,こうした建物には多くの人が住んでおり,当時は一階や二,三階に主たる居住者が,そして屋根裏部屋には貧しい人々がいるのが常でした。それはアンデルセンの名作『絵のない絵本」でもおなじみのところです。だとすれば,同じ建物の最上階のどこかに,改心した鍛冶屋とその息子,プレコッシも住んでいたことになります。エンリーコのお姉さん,シルヴィアは,教科書を買うお金がほしいと言ったばかりに,「階段からまっさかさまに突き落とされた」プレコッシの悲鳴を聴いたのでした。

 おそらく,エンリーコはこのような広場から毎日学校(バレッティ校というのは,残念ながらまったくの架空のようです)に通い,「大通り」を通ってコレッティの薪屋さん(これも今はない職業です,そういえば,がんばりやのスタルディのお父さんの放血医というのも)の前をとおり,そしてあの気取り屋のヴォティーニと,リヴォリの並木道へ散歩に出かけていった……遠からずそんな設定なのでしょう。

 トリノ,わたしにとってそれは,19世紀から20世紀初頭にかけて活躍した小説家エドモンド・デ・アミーチスの,日本でも最も親しまれている作品,『クオレ』の舞台にほかなりません。はじめてこの街に着いた日のこと,ちょうど昼時だったためもあって街に人影がなく,他のイタリアの都市にくらべると,いささか寂しい印象でした。ところが,ホテルから数十メートルも行くと大きな広場に出,河に向かって開けたその景観に思わず息を飲みました。河の名前はポー河。対岸に,ローマのパンテオンを小型にしたような古代風の円形神殿が建っています。神殿の名はグラン・マードレ・ディ・ディーオ。その背後は丘になっていて,すべての視線は否応なく神殿に集中するように企まれており,背景の緑とあいまって,これはおそらくイタリアでも一,二を争うような,魅惑的な都市景観だと直感しました。

 この場所は,わが『クオレ』では,学年末をひかえたエンリーコたちが,ピクニックに出かけていったところでした。そのころ,ナポレオンが献堂したというこの建物と周辺の景観はもうこの街になじんで,トリノの名所になっていたのでしょう。橋のたもとまでは馬車で,そこからは徒歩で背後の緑の丘に登り,そして彼らは手をつないで降りてきたのでした。トリノ到着後すぐに,昔どおりの『クオレ』の世界が,それも圧倒的な姿を取って現われたことに一瞬たじろぎ,しばらくして,格別な幸せの感情がひたひたと押し寄せてきました。

 こうして気がついてみると,この街には,『クオレ』の時代の通りが,建物が,今もなおそこここに実在しているのでした。ところが残念ながら,イタリアで『クオレ』は現在ほとんど読まれていません。人々の記憶にはもう19世紀は存在しません。しかし街はひそやかに,そして確かにその記憶をとどめています。これこそが「モニュメント」(思い出させるもの)の面目であり,イタリアにはそれがいたるところにあります。短いトリノ滞在の間に,『クオレ』の記憶をできるだけ訪ねようと思い立ち,そして最後の日に,ここコンソラータ広場にたどりついた,というわけです。

 一杯のビッチェリンを前に,ふと浮かんだ幻影です。

 

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古代教会スラブ語の魅力

秋山  学

 旧チェコ・スロバキア共和国のアカデミーは,1966年に『古代教会スラブ語辞典』(Lexicon Linguae Palaeoslovenicae; Slovník Jazyka Staroslověnskéno, Praga/Praha)の刊行に着手した。この辞典はそれ以降,東欧の政変にも耐えて継続的に刊行され,手許の資料によれば現在第49巻まで公刊されている。筆者が実見できたのは合本の第I巻(A〜I)と分冊のvol.19〜29だけなのだが,この辞典企画は実に壮大な視野の下に立てられたことが,全体の序文からうかがうことができる。序文はまずチェコ語によるものに始まり,続いてロシア語,ドイツ語,そしてラテン語による訳文が付されている。このことだけをとって見ても,スラブ語文化圏での学問的寄与を目指すのみならず,学界・教界双方における実用的・象徴的な普遍性を目指したものであることが理解される。

 辞典本文の記述からもそれが推察される。語義もチェコ語,ロシア語,ドイツ語によって記され,さらに(スラブ語訳原本が遡る該当語彙指示の必要から)ギリシア語,ラテン語の対応語彙が付されている。かくしてこの辞典は,スラブ語の淵源を究めるという作業から発して,言語学的に古典的印欧祖語の再構築に貢献するのみならず,教会一致のための一つのあり方をも提示しているように思われる。

 古代教会スラブ語の文献としては,新約・旧約聖書や教父著作の翻訳をはじめとして,いくつかの典礼文が残されている。典礼のあり方は,一つの民族のもつ霊的・精神的な意味での最も深い次元を表現するものであるため,これを何語でまた何式で行うかという問題は,キリスト教神学における最も深い部分に関わる問題となってきた。スラブ民族に対するキリスト教宣教の次第に関しては,メトディオス(825〜885)およびコンスタンティノス(後のキュリロス;826〜869)兄弟の尽力が有名であり,言うまでもなく,スラブ語を表すための文字とその文章語を確立した功績は,かの兄弟に帰せられてよい。もっともその陰には,スラブ文化圏をめぐってローマとコンスタンティノポリス双方が繰り広げた勢力争いの経緯が隠されている。彼らのモラヴィア地方宣教に先立って,すでにバイエルン地方からやって来たアイルランド系修道士たちによるローマ式典礼(「ペトロ典礼」)が流布していたと思われ,兄弟らはこれをスラブ語に翻訳するとともに,ビザンティン式の典文(「ヨアンネス・クリュソストモス典礼」)をスラブ語に訳して伝えた。このためビザンティン式/ローマ式双方による教会スラブ語の典礼文が遺されているのである。

 バチカンは中世末期から,東方との折衝のおりあるごとに,ラテン語の使用とローマ典礼への改革を強制する傾向を見せるようになる。教皇自身はそういった抑圧的な態度を採ることは少なく,したがっていわゆる「東方典礼カトリック教会」の成立する余地があった。さらに第二バチカン公会議(1962〜65)以降は,東方典礼を積極的に保護するようにもなる。けれども,東方と西方が対等の関係で,しかも一致を保ちつつ典礼の優越性を競ったのは,まさしく中世初期,ちょうどスラブ民族宣教の時期に当たっている。したがってこれら残存教会スラブ語文献を辿って,初代キリスト教の典礼の次第をも推測することができるのである。

 現在われわれがこの「古代教会スラブ語」に接するためには,もちろん故木村彰一氏の記念碑的労作『古代教会スラブ語入門』(白水社,1985年)が最もよい手引き書になる。もっとも古代スラブ語のもつ美的内実を体験するためには,たとえばチャイコフスキー(1840〜1893; op.41/1878年)やラフマニノフ(1873〜1943; op.31/1910年)らによって作曲された,前述の『クリュソストモス典礼』のCDを聴いてみるのも有効である。これらのCDのライナー・ノートには,典礼文の翻文が載録されている場合が多く,その表記がロシア文字による場合,一見ロシア語訳の典文かと錯覚するが,変化語尾などによく着目すると,実はそれが教会スラブ語のロシア語式表記であることが判明する。特にラフマニノフによるものは,チャイコフスキーによる曲が主に会衆部の言葉で構成されているのに対し,司祭・助祭の言葉をも含んでいる場合が多く,ビザンティン典礼の全体構造をそのまま把握できる。ラフマニノフはこのほか,主日の聖体礼儀に先立つ「徹夜祷」に曲を付した『晩祷』(op.37;1915年)でも有名で,作品としては後者の水準が高いと言われる。ともかく,こうして近現代スラブ圏にも教会スラブ語がそのままの形で伝えられているため,その文化史上の経緯を辿り,ビザンティン世界を経由することで,古典古代と初代キリスト教の織りなす世界がほの見えてくるように思えるのである。

 

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「夜」の表現

四十九院仁子

 夜の場面をいかに描くかということは,美術家の創作意欲をかき立てるテーマの一つだろう。見る者に夜であることを認識させるのは天空に輝く月星,あるいは暗闇に灯された炎といった影に相反する光を描くことが一般的かもしれない。しかし古代の美術には夜そのものを擬人化して表すことがあった。

 古代末期に作られたホメロスの叙事詩『イリアス』の挿絵入り冊子本(コデックス)の断片が今日に残されている。それは1608年に枢機卿ボロメオによりミラノのアンブロジアーナ図書館に納められ現在もそこに在る,いわゆる《イリアス・アンブロジアーナ》である。この冊子本は,本来羊皮紙のフォリオ300余葉に『イリアス』の15,693行のテキスト全てが書かれ,それにおよそ200点の挿絵が添えられていたと考えられるものである。今日では52フォリオに描かれた58点の挿絵が,絵の縁取りぎりぎりに裁断されて残るのみである。この《イリアス・アンブロジアーナ》の挿絵に「夜(ニュクス)」が登場するのである。

 その一つ,挿絵番号XXXIV(図)は『イリアス』第10書の376行に続く内容に対応している。そこには夜の闇に紛れ,トロイア方からギリシア方の様子を探りに来たドローンがオデュッセウスとディオメーデースに捕らえられ,逆にトロイア方の様子を聞き出された後,惨殺される場面が描かれる。画面左には灰色の狼の毛皮をまとったドローンの首を捕まえて引きずるオデュッセウスとディオメーデース,右側には惨殺したドローンの亡骸を囲むオデュッセウスとディオメーデースが描かれている。そして中央の地面にはオデュッセウスが踏み付けている剥がされた毛皮が見える。オデュッセウスは鍔のないフリュギア帽をかぶり,2筋の縦縞(クラブス)の付いた膝丈の白の上着(チュニック)を着て,その上にオレンジ色のマントをなびかせている。ディオメーデースはローマ風の鎧兜を身に付け,鎧の上に紫のマントをまとう。問題はその上方である。すなわち画面中央上部に雲間から地上の出来事を見つめる,大きな紫色の翼を左右に広げ,青みがかった暗色のベールで頭から腕を含む胸までをすっぽり覆った女性の半身像が浮んでいるのである。彼女はギリシア神話に登場する夜の擬人化「ニュクス」である。そしてそれは鮮やかな色彩を用い,明確な輪郭線で一点の翳りもなく描かれたこの残虐な場面が,ニュクスの支配する闇の中で演じられたことを語っている。しかもその形姿は後のキリスト教美術における天使を思い起こさせる。

 確かに《イリアス・アンブロジアーナ》にはしばしば上空に出現し,地上の死すべき人間達の争いを見守ったり,あるいは人間達の祈りに耳を傾ける神々が描かれる。それら神々は,例えばゼウスやヘラ,アテナは比較的小さな胸像,時には光背を付けた頭部だけの姿で表わされる。彼らは人間の運命に関与する神々である。しかし「ニュクス」はそうではない。彼女はただそこにいることで,その場面が夜であることを見る者に示唆するのである。このようなニュクスの登場はそれ以前のギリシアやローマの美術では確認されていない。ゆえに《イリアス・アンブロジアーナ》でのこの「夜」の表現がいつ生まれたのか,図像学的にいつ確立されたのか,それを知ることは美術史にとっても非常に興味深い問題である。

 

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デモステネス・パイアニエウス

杉山晃太郎

 アテネ中心部の東をほぼ南北に走っているイミトス山系(古代名ヒュメットス)の山並みを越えた向こう側では,新国際空港が今まさに動き始めようとしている。2004年のアテネ・オリンピックに向けて,従来の手狭で悪名高い空港の後を継いで,世界中から訪れる観光客を迎える空の玄関となるためである。新空港が建設された辺りは,エーゲ海とイミトスの間に広がる比較的平坦な地域で,その山側に一つの街(区)がある。古代にはパイアニア,現在はペアニアと呼ばれている小さな街で,とりたてて観光客を呼べるような遺跡もなく,山の中腹にある洞窟が唯一の観光名所である。しかし,それ以上にこの街の名前を有名にしたのは,古代アテナイの愛国の弁論家,デモステネスであろう。彼は,紀元前384年ごろ,このパイアニアに生まれた。

 私が最初にパイアニアを訪れたのは2000年2月初めのことである。私は友人とともに彼の運転する車で上述の洞窟を目指していたが,道に迷い,二人で途方に暮れながら,狭い路地の多いパイアニアの街中を走っていた。このとき密かに私は,街中のどこかにデモステネスに関係する何かがあるのではないかと期待を抱いていた。そんな折,薄暗い小さな広場の一角に建つ白い彫像のようなものが見えたが,確認する間もなく視界から消え去ってしまった。私は,その「白いもの」はデモステネスの彫像かもしれない,いやそうに違いないと思うようになっていった。それを確かめるべく再度パイアニアを訪れる日を期待する一方で,ひょっとしたら千載一遇のチャンスを逃したのかもしれないという不安も消せないまま,私たちは洞窟の入口に続く道を発見してしまった。

 結局この日は,日も暮れてしまい,洞窟内に入ることはできなかったが,500mほど登った山腹から,夕暮れの中に広がるパイアニアの街,その先に見える大きな新空港,さらにその先に霞むエーゲ海や,デモステネスが戦闘に参加したという対岸のエヴィア(エウボイア)島などを見渡しながら,彼もこの場所からこんな風景を何度となく見たのだろうという月並みな想像をめぐらせた。

 ところが,その機会は思いの外早くに訪れた。先の友人とともにヴラヴローナ(ブラウロン)のアルテミス神域を訪れた帰り,アテネに戻る道を間違えて,パイアニア近くで渋滞に巻き込まれたのである。私は友人に,もう一度パイアニアに行きたいと告げ,散歩好きの彼に街中の散歩を提案した。この作戦は功を奏し,彼もその気になってくれたので,街の中心広場を探し出して車を止め,私たちは辺りの散策を開始した。土曜日の昼下がりだったためか,広場は人影まばらである。前回のこともあるので,ここは訊くのが一番と思い,ペリプテロ(キオスク)の婦人に,この辺りに何かデモステネスのモニュメントはないかと訊ねると,その婦人は目を輝かせて,隣の広場にあると指差しながら教えてくれた。教えられた通りに行くと,それは前回の微かな記憶と同じ風景の中に立っていた。そして,私の期待に違わず,デモステネスの胸像であった。

 広場そのものはそれほど大きくはない。胸像は常緑樹の植え込みの中にすらりと建っている。近づいてみると,台座に,1938年建立の文字とともに,古典ギリシア語の短い文章が刻まれている。

  デモステネス/デモステネスの子/パイアニアの人/もしも見識に劣らぬ力を/

  デモステネスよ,あなたが具えていたならば/ギリシア人を/マケドニアのアレ

  スが支配することなどなかったであろうに。

 ここで「マケドニアのアレス」とは,もちろんアレクサンドロス大王のことである。「もしも」以降の句はプルタルコスの『デモステネス伝』31節に見えるが,プルタルコスによれば,デモステネスの死後,アテナイの民会が生前の彼の栄誉を称えて,彫像を建立し,そこに刻んだ銘文であるという。しかし,私には,台座に刻まれた「パイアニエウス」,つまり「パイアニアの人」という一語の方が誇らしげに輝いているように見えた。

 胸像が建つこの広場は,そのままにデモステネス広場と名づけられ,周囲には薄暗い伝統的なカフェニオが軒を並べている。その前の路上に無造作に置かれた椅子には,ギリシアではお決まりの光景だが,年輩の「パイアニエウスたち」が腰を下ろして,カフェを飲み,煙草をくゆらせている。

 デモステネス広場は,これまたデモステネスの名を冠した短い通りで先ほどの新しい広場に直接つながっている。新しい広場ははるかに広く,明るい。中央には噴水があり,ギリシア正教の新しく立派な教会が建ち,まわりには現代風のデザインの店が立ち並ぶ。加えて,現代ギリシアが経験した戦争を戦った若き愛国の戦士を称える大きく立派な記念碑が静かに広場を見つめている。

 隣り合う二つの広場が見せる対照はかえって,現代のペアニアが,ひいては現代のギリシアが持ち続けているアイデンティティの一面を浮かび上がらせ,2000年を優に超える隔たりをさりげなく埋めているかのようである。

 

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自著を語る 24

『中世ジェノヴァ商人の「家」──アルベルゴ・都市・商業活動』

刀水書房 2001年2月 520頁 12,000円+税

亀長 洋子

 大学院生の頃,受験産業で採点のアルバイトをしていた。そのときの同僚で東洋史専攻の方との会話。

相手:「何の研究をしているんですか?」

 私:「イタリアのジェノヴァの中世史を勉強です」

相手:「なぜジェノヴァなんかやってるんですか?ヴェネツィアに負けたじゃないですか!」

 私:「はあ?」

 偉大なる作家のおかげか,専門外の方がこんなことまで知っているのに驚いた反面,何でこんな風にいわれるのかとちょっとむくれたひとときでもあった(笑)。とはいえ,短絡的で通俗的な(?!)国家観に基づく評価はさておき,ジェノヴァやジェノヴァ人について,イメージがわきにくいというのは事実であろう。ジェノヴァのことを話題にすると,「コロンブスの故郷ですよね」「『母をたずねて三千里』のマルコが旅立ったところですよね」といった反応が圧倒的に多く,そのあとの会話はすぐさま途切れてしまう(コロンブスもマルコの話も,実はそれぞれの時代のジェノヴァやイタリアを理解する上で,重要な鍵となる要素を含んでいるのだが)。

 もう少し国家にとらわれないでジェノヴァ人のダイナミズムを人にわかってもらえるとうれしいなあ,と思いながら研究を続けて10年程たったこの2月に,幸運なことにこれまでの研究成果をまとめて本にすることができた。本書は序論,第一部,第二部,結論と展望によって構成されている。第一部では中世盛期,第二部では中世後期を扱い,それぞれの時代に発展したジェノヴァの「家」を一つずつとりあげ,商業活動と都市生活の両面から「家」を中心とする人と人との結びつきの諸相を解明したものである。制度的な枠組みに基づいてではなく,個人の行動を一つ一つたどるような形で,商売のさいの事業相手の選択や,結婚相手,遺言の遺贈先など様々な観点から人と人との結びつきを描いてみた。

 本書で扱ったいくつかのトピックと,それにまつわる筆者の雑感を述べたい。まず副題にも掲げたアルベルゴについて。現代イタリア語で宿屋を意味するこの言葉は,中世後期のジェノヴァ史においては,大規模で堅固な結束をもつ「家」を意味する語として広く知られてきた。筆者が自分のフィールドをジェノヴァに定めたのも,このジェノヴァのアルベルゴについて解明したいと思ったことに由来する。研究を始めた頃は,アルベルゴの結束の鍵となるものを探し出せればいいと考えていたのだが,史料を分析して事例研究を行ううちに,ジェノヴァの「家」は,アルベルゴの定説として知られている姿とは,随分違うものなのではないのかと思うようになった。その上で従来のアルベルゴ論を見直していくと,既存の研究にもいろいろと再考すべき点があることに気づいた。改めて史料から考えることの重要性を再確認させられたトピックである。

 本書で最も紙幅を割いている第二部では,ロメッリーニ「家」,なかでもナポレオーネ・ロメッリーニとその子孫が主たる分析対象である。このナポレオーネは,私にとっては今もって謎めいた存在である。彼は本書の中心史料の時期には既に死亡しているのだが,史料を読み進める過程において,彼の子供が多かったせいもあり,筆者は「故ナポレオーネの息子○○」という形で,彼の名前を何度もパソコンに入力した。公債所有額や遺言の内容などから,彼が大金持ちであったことは判明するし,代々の子孫のなかにも彼は強烈な存在感を示しているが,彼の富の源泉は,ついにわからないままであった。中世のジェノヴァ人には,各地で商業特権などを獲得して一代で財をなした英雄達が何人も存在する。ナポレオーネも恐らくそうした一人なのだろう。ロメッリーニの研究を終えた今でも気になる存在であり,今後もジェノヴァの研究を続けるなか,偶然にでもまた彼に巡り合えれば,との感傷を私に残した人物である。

 また本書の内容を通じて,筆者はジェノヴァ人の対外進出に関心を抱くことになった。イスラム圏をも含む東西地中海世界はもとより,黒海沿岸から北西ヨーロッパに至るまで,実に多くの地域にジェノヴァ人は拠点を築き進出しており,史料を読みながら随分いろいろなところへ連れ回された。滞在先の事情については本書ではあまり検討できず今後の課題となるところが多いが,あちこちに赴くジェノヴァ人のパワーは,研究する側の私にも多くの活力を与えてくれた。各地のジェノヴァ人拠点を実際に訪れるのは,目下の筆者の夢でもある。

 本書自体は専門書の体裁をとっているが,難解な日本語で書いているわけでもないので,ジェノヴァという都市空間,ジェノヴァ人の行動様式,ジェノヴァ人の商業活動と地中海世界,中世の古文書が語る世界,また家族の歴史などについて興味を抱く方が本書を手にとって下さり,ジェノヴァについてのイメージを少しでも膨らませていただければ,筆者としては幸いの限りである。

 

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表紙説明 地中海の水辺1

ナポリのルンゴマーレ/末永 航

 今回から新しい表紙のシリーズ,地中海の水辺が始まることになった。初回は大物真打ちからいきたい。となれば,ナポリである。

 何といっても,最初からいうのも変だが「ナポリを見て死ね」というくらいだ。

 海辺の町はたくさんあるがいろんな意味でこれほどの大都市はない。スタンダールは「ナポリはイタリアで唯一の首都である」と書いているけれど,19世紀にはほんとうにパリに次ぐ人口を擁するヨーロッパの大都会だった。この二,三十年は汚い危ないと敬遠されることが多かったが,1994年のサミット以来,このところの復活ぶりは目を瞠るものがある。

 そのナポリの景色といえば,煙を上げるヴェスヴィオ火山ととことん明るい空を遠景に,堂々としたホテルが建ち並ぶサンタ・ルチア地区,海に突きだした卵城,その西につづく遊歩道,ルンゴマーレ(海岸通り)が見えるこんな構図が絵はがきなどでもいちばんのお馴染みだろう。

 この図はそのあたりの18世紀の景色である。スペインのブルボン家からナポリ王がでていた時代,王様の長々とした行列を描いた横長の絵の,一部を切り取ってみた。当時いちばん大きな祭りの日で,宮殿を出発した国王は馬車を連ねて海沿いにピエディグロッタの聖マリア聖堂に向かっている。

 これを描いたアントニオ・イォッリは,18世紀始めにモデナで生まれ,ローマでも学んだ後ペルージアやヴェネツィア,さらにドイツやイギリスにも行き,1772年ナポリに移って77年ここで亡くなった。サン・カルロ劇場などの舞台美術のデザイナーとして活躍する一方で景観画家としても知られていた。

 この絵は現在スコットランド,セルカークのバクルー公爵家が所蔵している。ナポリを訪れたイギリス貴族のグランド・ツアー土産だったのだろう。ウィーンの美術史博物館にも同じ作者のほぼ同様の絵があり,何枚も描かれた人気の画題だったのかもしれない。制作年代ははっきりしないがおそらく画家晩年のナポリ時代,ということは二代目のフェルディナンド王の時代である。

 海沿いの道は砂浜とつながっているみたいで今よりもさらに水に近い感じがするが,現在でも舟で持ってきた魚を売る店もあり,海と触れる気分で散歩ができる場所であることに変わりはない。

 ただこの有名な景観が絵になったのは,そう古いことではなかった。これが初めてではないが,以前にはあまりこんな風景は描かれなかったのである。西の海岸地区が主に18世紀後半から19世紀に開発された新しい街区だったせいなのだが,古い時代には海側から街全体を見下ろした構図の鳥瞰図が多く,ヴェスヴィオ火山もほとんど登場しない。飛行機のない頃,人間が実際に鳥の視角からものを見ることはなかったからそれは想像上の景色だった。現実的な視点から絵を描くようになった時代に,海岸に広壮な建物が登場し,そこでようやくこのナポリの景観がステレオタイプになったのだった。

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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
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