地中海学会月報 237
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2001|02  




   -目次-










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学会からのお知らせ

 

 

*第25回大会

 沖縄県立芸術大学(那覇市首里当蔵町1-4)において開催する第25回大会のプログラムは下記の通りです。詳細は決まり次第,お知らせします。

630日(土)午後

 記念講演 堀内清治氏

 地中海学会賞・ヘレンド賞授賞式

 地中海トーキング「島と唄と祈りと」(仮題)

  司会:武谷なおみ氏

 懇親会

71日(日)

 研究発表

 総会

 シンポジウム「海のネットワーク」(仮題)

  司会:高山博氏

 

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*会費納入のお願い

 学会の財政が逼迫しております。会費を未納の方は至急下記学会口座へお振り込み下さい。なお,新年度会費については3月末に改めてご案内します。

  正会員会費 1万3千円/学生会費6千円

  口座:「地中海学会」

     郵便振替 00160-0-77515

     富士銀行九段支店 普通 957742

     住友銀行麹町支店 普通 216313

 

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*会費口座引落について

 口座振替依頼書の今回の受付は223日をもって締め切りました。ご協力,有難うございました。新年度会費の引落日は,423日(月)です。後日あらためてご連絡いたします。

 

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表紙説明 地中海:祈りの場24

               モンセラト/柳澤田実

 

 スペイン,バルセロナ近郊にあるカタルニアの聖地モンセラト。その名の意味するところは「のこぎり山」である。この地が眼の前に現れる時,誰もが少なからぬ驚きを覚えることであろう。生々しい肉塊のような大地が立ち上がり,隆起し,今にも天に至らんとしている。この荒々しい自然を目の当たりにしつつ,ロープウェイで山上へと昇るならば,人は再び驚異と感嘆に包まれる。そこには美しく整備された修道院や教会,広場や遊歩道があり,清澄な空気に満ち溢れている。この空間の持つ天上的な透明さは,天空の青さとは限りなく調和し,また余りにも地上的な背後の山々とは厳しく拮抗しているように見える。相対立する天上的なるものと地上的なるものとの両者によって,この不可思議な聖なる空中庭園は構成されているのである。

 天上的なるものと地上的なるものという矛盾する二つの要素の混在は,聖堂にまつられている黒い聖母にも見て取ることができる。“La Moreneta”と呼ばれるこの黒い聖母像は,12世紀末から13世紀初めに作られたとされる木彫の作品である。ヨーロッパの,主にガリヤ地方に点在する他の黒い聖母たちと同様に,この聖母の黒さの由来は定かではない。最も清浄なものとして表現されるべき聖母の色が,なぜ敢えて黒なのだろうか。黒は大地の色である。このことから黒い聖母は,しばしばドルイド教の地母神信仰の名残ではないかとも言われている。また,この黒さの根拠を聖書に求めるならば,旧約聖書の『雅歌』の一章五節が挙げられる。それは花嫁が歌う「私は黒いけれども美しい」という詩句である。この句の解釈の歴史は古代にまで遡るが,黒さについて多くの観想を費やし,その黒さを積極的に位置づけるところにまで至ったのは12世紀のシトー会士クレルヴォーのベルナルドゥスであった。彼の論は,黒くても美しいという黒さへの消極的評価から,黒いからこそ美しいという積極的評価にまで進んで行く。この場合の黒さとは,地上的本性,不完全さに他ならない。不完全であっても美しいのみならず,不完全であるからこそ美しく成りうるとベルナルドゥスは考えるのである。清らかで天上的な聖母像が,最も地上的な色,黒色によって彩られる必要性は,以上のことから推測しうる。すなわち,罪深い人間の願いを神に取りなす仲介者であるマリアの像こそ,最も地上的でありながら最も美しいものとして提示される必要があったと考えられるのである。

 地上的なものこそが天上的なものに限りなく接近しうること,この聖地はまさにそのことを告げ知らせるべく,異形の山の上に作られたのではないだろうか。大地は神によって造られた地上的なものとして,無秩序な姿を形づくりつつ,天に向けて上昇を試みている。そしてその上昇の臨界点に,人々が更なる上昇を続け,真に天上へと至るために祈る場として,この聖地が作られたように思われるのである。この天と地の狭間で,天上と地上とを結ぶ仲介者である黒い聖母は,今日も静かに人々の祈りに耳を傾けているに違いない。

 

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地中海学会大会 記念講演要旨

 

地中海をアフリカから見る

──黒いムーア人,胡弓,トンボ玉──

 

川田 順造

 

 地中海は,ゼウスに拐かされてクレタ島に連れて来られた美女に由来するその名からしてもヨーロッパの源郷だが,イフリキヤ=アフリカを南縁とする世界でもある。地中海から南半球まで広がるアフリカは,フィレンツェに毛織物染色の触媒の明礬を供給していたサハラ砂漠より更に南まで,地中海世界とは幾筋もの絆で結ばれてきた。その内の三筋を,地中海学会という知的多面体の興趣に些なりとも応えるべく,三題噺風に選んでみた。

 北アフリカの先住民を指す,地中海の北側からの呼び名ムーア(モロ,モール)は黒人ではないが,サハラの南から奴隷として連れて行かれた黒人が地中海世界に多数いたことも確かだ。チンティオの『ヴェネツィアのムーア人(オテルロ)』でも,それを下敷きにしたシェークスピアの『オセロ』やそれ以前の『タイタス・アンドロニカス』でも,ムーア人の愛の悲劇は「黒」を禍根として展開する。ゴート族の女王タモーラの愛人,黒いムーア人アーロンに,シェークスピアは「漆黒はほかのどんな色より上等,ほかの色に染まらないが,白い者は不名誉に顔が赤くなる。白は裏切り者の色だ」と言わせているが,アーロンもオセロも白人によって,直情,短慮,粗野の徴としての,黒い皮膚の偏見を負わされている。

 ムーア人を表していたかどうかは不明だが,黒人の表象は図像の領域では地中海世界だけでなくドイツなどにも豊富に認められる。とくに紋章に顕著で,古い例では14世紀初めのバヴァリア地方の司教職の紋章に,黒人の頭が見える。この頃はまた,降誕したイエスを拝しに来る東方の三博士の一人バルタザールが,黒人として表されるようになった時代でもある。パリの国立図書館蔵『ゴドフロワ・ド・ブイヨン物語』(1337)の挿絵に,十字軍とサラセン軍の騎馬戦士の合戦を描いたものがあり,サラセン軍兵士は黒人ではなく褐色の肌で,左に結び目のある白鉢巻姿で描かれているのだが,興味深いのは馬鎧や楯に,その後地中海世界の紋章に頻々と現れる黒人の左向き横顔が,鉢巻なしで,幾つも印されていることだ。

 キリスト教世界でムーア人はイスラム教徒の代名詞でもあったが,1400年頃のアルザス地方のものとされているタピストリー(ボストン美術館蔵)には,キリスト教徒が攻めるサラセン軍の砦から,後鉢巻の黒と褐色の肌の兵士が弓に矢をつがえて撃って出る情景が描かれている。前述の挿絵では楯印だった黒人が,ここでは兵士そのものとして後鉢巻姿で表されていることになる。砦の塔に見える王と王妃は二人とも黒人だ。爾来,様々な異伝と結び合わされながら,18世紀の反乱以来コルシカのシンボルマークになった,白い後鉢巻を締めた左向き黒人の横顔を始め,地中海世界では黒い「ムーア人(?)」のイメージは,多様な想像や言説の源になってきたようだ。地中海世界やフランスのオーヴェルニュやブルターニュに多い,「黒い聖母」における黒のシンボリズムは,これとは別のこととして考えた方がいいようだ。

 弓奏の擦弦リュートを,簡単のために胡弓と呼んだが,楽器のなかでは比較的新しく,馬のシンボリズムや弦の素材としての馬の毛など,馬の牧畜文化と結びついて,10世紀より少し前の中央アジアに生まれたと考えられている。11世紀にはビザンチン帝国やイスラム世界にも知られていたらしいが,これがどのようにしてサハラ以南の西アフリカ内陸社会に広まったのか,謎が多い。

 西アフリカ内陸社会では,瓢箪の半球形共鳴胴に蜥蜴の皮を張り,馬の毛を弦にした単弦の弓奏リュートが,今のナイジェリア北部とニジェール南部のハウサ社会を中心に伝播したと思われる。ハウサ社会へは16世紀のオスマン帝国の東部マグレブ進出以後とくに緊密になった,東部マグレブとチャド湖周辺地域の交渉を通じて地中海世界からもたらされたと考えたくなるのだが,それにしては当時チャド湖周辺で強力だったボルヌー帝国にはまったく伝わっておらず,その弓形ハープ「ビラム」はむしろ東アフリカとの連続性を示している。馬鎧や鎖帷子,鉄砲などは,かつてオスマン帝国の北アフリカから取り入れたことが知られているのだが。

 他方,チュニジアでは単弦の弓奏リュートは,博物館の倉庫に2弦の古びた標本が1挺あるが,現在はまったく見ることができない。しかもその古いタイプのものは,ハウサ社会から黒人奴隷がもたらし,マグレブ各地で盛んな,黒人起源とされる憑依儀礼に使ったのだという。名称もハウサ語の呼び名「ゴーゲー」に近い「グーガー」だ。ハウサ社会でも憑依儀礼に用いられている。北アフリカの「ルバーブ」とは,形も奏法も著しく異なる。

 ヴェネツィア名産で1617世紀に海回りの対アフリカ交易に大量に用いられたトンボ玉については,書くスペースがなくなった。もっともこれは,私がアフリカで集めた古いヴェネツィア玉を学会の皆さんに見せびらかすのが主な目的だったから,書かなくてもいいのだが……。

 

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秋期連続講演会「都市ローマへの誘い──聖年にちなんで」講演要旨

 

古代ローマの偉容

 

本村 凌二

 

 私は,イタリアの旅では,しばしば列車に乗る。ふたたびローマに帰ってくると,列車の窓から古代の水道橋がせまってくる。ほんのわずかばかりの傾斜をつけて水が流れる施設をつくった技術にはびっくりする。市民一人あたりに1日およそ1立方メートルの水が運ばれていたという。

 この偉大なるローマを築いたのはロムルスであり,伝説上,紀元前753年に都が築かれた。ラテン語では,集落としての都市のことをウルプス(urbs)とよんでいた。英語にアーバン(urban)とかサバーブ(suburb)とかいう言葉があるのは,そこに由来する。もともと,その都市とはローマにほかならなかったし,都市すなわちローマであった。だが,ローマは周辺諸国を征服し,やがてイタリア半島のみならず地中海沿岸の全域をも支配下におさめてしまう。こうした時を経て,ウルプスは都市という一般の呼称であるとともに,首都ローマを指す特別の呼称にもなった。

 テヴェレ川に沿って大きな円形の古墳のような遺跡が地下を地面にしてそびえたつ。初代皇帝アウグストゥスの霊廟である。アウグストゥスとは「尊厳なる者」の意をもつ称号である。紀元前27年,百年にわたる内乱を平定したオクタヴィアヌスに与えられた。アウグストゥス帝は紀元1476歳で死んだとき遺書を残し,自分の業績録を青銅版に刻んで霊廟の入口に置くように指示している。そこにあった原本そのものは失われてしまったが,その写しが各地に残存していたので,ほぼその全文を知ることができる。幸いなことに,この「神皇アウグストゥス業績録」の碑文は霊廟にとなり合うアラ・パキス(平和の祭壇)の土台壁面に再現されている。この碑文は皇帝自身による記録という点で,このうえなく重要である。そのなかで,皇帝は,自分は権力ではなく権威において万人にまさることを強調した。皇帝の権威こそがローマの偉容の核心にある,と為政者みずからは考えていた。

その栄えある偉容のために,アウグストゥス帝は「ローマを煉瓦の街としてひきつぎ,大理石の街として後世にひきわたした」と語っていたという。彼はローマの大改造にのりだしたのである。

 アウグストゥス帝の幼なじみにして側近中の側近であったアグリッパはパンテオンを建立した。本堂は,直径も高さも43メートルの円筒形をなし,丸天上の大きな穴から光がもれてくる。神々の上に座す太陽神を示唆するものであった。

 古代ローマの市街地の中心にあるのは,なんといってもフォロ・ロマーノである。壮麗なる神殿,広場,バシリカ,演壇,議事堂,凱旋門が立ち並び,ローマ帝国の偉容を人々に焼きつけた。今日,それらの遺構はもはや古代の華麗なる姿をとどめていない。しかし,昨今では,コンピューターグラフィックスなどの技術を駆使して,その昔日の偉容を再現することもできる。再現案についてはさまざまありうるだろうが,遺跡をながめてばかりでは古代の輝きを肌身で感知することはできないのだ。

 さて,フォロ・ロマーノのはずれにあるのがコロッセオである。やはりこの建物こそ古代ローマの偉容をまがうことなく感じさせてくれる。ここで凄まじい血で血を洗う剣闘士の戦いがくりひろげられた。そのおぞましい光景を民衆は固唾をのんで楽しんだのである。コロッセオは比較的に保存度がいいが,その生きた姿は昨年の映画「グラディエーター」のなかでコンピューターグラフィクスの技術で鳥肌がたつような迫力をもって再現されている。映画のなかで誰かが「これが人間がつくったものか」とささやいているが,それは古代人にも現代人にも同じ思いをいだかせるのである。

 古代の遺跡を考えるとき,今後コンピューターグラフィクスのような方法は「感性と感情の考古学」を築いていくための基礎をなすものではないか,と私はひそかに夢想するのである。

 

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「伝説」の文書館の思い出

 

松尾有里子

 

 今日,イスタンブルの文書館には,世界各地からオスマン史研究者が集まり,文書と格闘している光景が認められる。なかでもイスタンブル・ミュフティー局文書館は,16世紀以降のイルミエ(Ilmiye)と呼ばれたウラマーの官僚組織とイスタンブルやその周辺のイスラム法廷に関する膨大な記録を所蔵していることで有名である。しかし,この文書館はトルコ政府から調査許可を得るのが困難なうえに,未整理の文書が多く,しかも史料の複写は厳禁などの理由が重なり,その実態はあまり知られていない。一部の外国人研究者のあいだでは,所蔵文書が火災で焼失しているのではとの噂も飛び交い,ながらく「伝説」の文書館と言われてきたほどである。筆者は1993年夏に,幸いにもこの文書館で調査することを許され,現在まで自らの研究の核となる史料を調査する機会を得ている。ここでの体験を振り返り,「伝説」のヴェールの内側を紹介したく思う。

 イスタンブル・ミュフティー局文書館は,金閣湾をのぞむ高台の,かのスレイマン大帝の建てたモスクのちょうど裏手にある。この文書館は現在,宗教省のなかでイスタンブル市民の宗教生活に関わる問題を担当するミュフティーによって管轄されている。オスマン朝時代のイスタンブルのミュフティーといえば,シェイヒュルイスラームと呼ばれ,スルタンの改廃を指示したほどの権威をもつウラマーであった。文書館の建物はかつてこのシェイヒュルイスラームの官庁として,またイスタンブルのカーディーの法廷としても使われていたという。建物の二階にある閲覧室は,5畳ほどの広さしかなく,机一つとイス数脚,書棚が据えられているだけの簡素なものであった。閲覧時間は朝8時半から夕方5時までとされていたが,この部屋には驚いたことに電灯も暖房設備もなく,冬季には薄暗い室内で寒さに震えながら過ごさねばならなかった。

 閲覧室には,責任者のオメルさんと雑務を担当するバイラムさんがいつもつめていた。オメルさんはエルズルム出身で,以前,モスクでムエッジン(礼拝呼びかけ人)として働いていたおり,のどを酷使したため,現在ではほとんど声が出ない。しかし,学識の高さから,毎週金曜礼拝の際にイマーム(導師)としてイスタンブルのモスクで説教をしていた。その仕事の関係からか,金曜の閲覧時間は彼の都合でたびたび変更され,閉口したものである。一方,バイラムさんはカスタモヌ出身で,黒海沿岸地域出身者(カラデニズリ)に典型的な,陽気なおじさんである。毎朝,文書館で働く人々に温かいお茶のサービスをしてくれた。

 過酷()な研究環境ゆえ,閲覧室で終日過ごす者は少なかったが,さまざまな研究者とめぐりあうことができた。館長のバユンドゥル氏は,イスラム法廷制度に関する著書で知られるオスマン史研究者である。彼は私に研究の進捗状況を尋ねては,未公開の文書の閲覧をも許可してくれた。また,彼はよく文書館にまつわる面白い話も教えてくれた。例えば,文書館の一階は,かつて罪人の拘束部屋がおかれ,カーディーの裁決に従って拷問がなされたという。それゆえ,今でも時折,拷問に苦しめられたひとびとのうめき声が階下から聞こえてきたり,罪人の亡霊が出ることもあるらしい。バイラムさんは,文書館の閉館時間が近づくと決まって,この亡霊話を引き合いに出して,私の帰宅を促したものだった。また,所蔵文書の整理を担当していたマルマラ大学のオウズ先生は,どんな難解な書体でも初見ですらすらと読み解いてしまうほど文書に精通しておられたが,初歩的な質問にも快く応じて下さった。この二人の協力がなければ,私の研究もそう長くは続かなかったであろう。一方,イナルジクをはじめ,多くの著名な学者にもお目にかかることができた。このような先生方には「多忙で来館できない」ことを理由にマイクロフィルムへの複写が特別に許されていたようで,当時ひたすら筆写していた私はこの待遇の差に反発を覚えたものだ。しかし,あのような閲覧室の状況ではやむを得ないだろう。実際,帰国前の私にも「日本は遠く度々来れないだろうから」という理由で,複写許可がおりた。実は「複写厳禁」とは建前だけで,正当な理由()があれば,ある程度許されていたのである。

 1998年末に訪れたときには,以前と比べて調査許可の取得が容易になり,多くのアメリカ人研究者が調査に来ていた。また,バユンドゥル氏に替わって宗教省生え抜きの官僚が館長となると,以前のほのぼのとした閲覧室の雰囲気はずいぶん失われてしまっていた。先日,我が家に届いたオメルさんの娘さんの手紙によると,彼もバイラムさんも間もなく引退するという。彼らが「伝説」とともに文書館を去る前に,ぜひとも再訪せねばと思う。

 

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自著を語る 22

 

建築家ガウディ

――その歴史的世界と作品――

 

中央公論美術出版 200010月 B5版 480頁(カラー11図 挿図684図)30,000円+税

 

鳥居 徳敏

 

 また『ガウディ』と思われるかも知れない。ガウディ研究は麻薬に似て,中毒現象に陥りやすい。複雑で一筋縄ではいかないからこそ,そうなるのであろうし,それがA.ガウディ(18521926)の魅力でもあろう。もっとも研究とは元来そうしたものだとするならば,繰り返しにならない限り,出版すべきものと勝手に決め込むことにする。

 しかし,近年特に思うことが一つある。それは,研究者が思うほどガウディは理解していなかったのではないか,という問題だ。筆者最初の研究成果(1983)の一つはナイルの鳩舎塔建築とガウディの塔群建築との姉妹関係であり,この時はあらゆる資料が仮説を裏付ける方向に集中することに驚き,満足したことを憶えている。それから十年後,ガウディの聖堂建築のすべてがビザンティンのドーム建築を基礎にその構造ユニットで構成されていることを発掘したときも,多分そうだろうと大いに納得したものだ。しかし,今回の正方形プロポーションの徹底した採用をガウディ作品のなかに次々と発見したときには,ただただ驚くばかりであった。

 ガウディの唯一まとまった手稿,若い頃したためた『レウス覚書』(187879)では上記ビザンティンの構造ユニット本体に立方体という幾何学用語ではなく,造語の「正方形空間」を当て,晩年の語録では建築のプロポーションは人間のそれに似るとし,レオナルド・ダ・ヴィンチの人体プロポーションの分析と同じく「正方形」,及び「縦積みダブル方形」と規定する。半球ドームと組合わさったビザンティンの構造ユニットがササン朝ペルシャでドームを頂く正方形広間に姿を変え,イスラムの典型的なサロンとなる。これが中世のスペインを含み,クバと呼ばれるイスラムの伝統的な廟建築となり,「正方形空間」で大地を,ドームで天を象徴させる。また,スペイン建築はイタリアの黄金比でも,さりとてフランス,イギリス,あるいはドイツの縦長プロポーションでもなく,「正方形プロポーション」を最大特質とする。黄金比は都会的,縦長プロポーションにはどことなくお高く,人を寄せ付けず,孤高なところがあるとすれば,「正方形」はがっしりとした,田舎くさく男性的なプロポーションであろう。

 この正方形プロポーションがガウディ作品のいたるところに見出され,平面のみならず,立面,および断面構成の基礎となり,設計・デザインの最高の武器になっているのだ。それは直線や平面が追放され,すべてが曲面造形に変換されるガウディ独自の作品群,グエル公園(190014),カサ・バトリョ(190406),カサ・ミラ(190610),サグラダ・ファミリア聖堂付属仮設学校(190809)などでも変わらない。

 この「正方形」を基礎とするガウディ操作が意識的なのか,それとも無意識なのか,大いに悩むべきところであろう。余にも多くの「正方形」構成は単なる偶然でないことを示唆する。また同じ多さが,すべてを意識的な操作であろうと考えることをも阻む。おそらく,ガウディが意識的に操作した以上の正方形プロポーションをわれわれ研究者が発見してしまったのではないか。

ほんの一例に過ぎないが,こうしたことが研究では頻繁に起こっているように推測される。また芸術にかかわる分野では,いわゆる直感的な創作活動が大部分であろうから,研究対象の芸術家たち以上に研究者の方が知ることも多々起ころう。つまり,芸術家たちが意識しなかった部分まで研究対象にせざるを得ないから,研究はどこまでも仮説の域を出ず,また常に解釈でもあり,したがって,永遠に終わることはない。冒頭で述べたように,研究が麻薬に似ている所以でもある。

 人はその人が属す歴史的世界と常に一心同体の関係にある。したがって,その人の作品もその歴史的世界と表裏一体の関係にあろう。歴史的世界は構造的に空間軸と時間軸との二つに大別できよう。もとより両軸は複雑に絡み合い,分離できるものではないが,研究手法としては両者を分けざるを得ず,また紙面の制約上,本書ではガウディの歴史的世界のうち空間的世界のみを扱う。すなわち,カタルーニャ,スペイン,さらに地中海という世界である。これらの世界からガウディ建築を構成する組成元の由来を究明し,上記したようなテーマ(エジプトの鳩舎塔,ビザンティンのドーム建築,スペイン建築の方形性など)を扱いながら,この建築がいかに地中海世界(カタルーニャ,スペイン,ギリシア,ビザンティン,イスラム,エジプトなどいずれも地中海に面した地域)に負っていたか,それ故,いかに地中海的な建築であったかなどを明らかにする。

 

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カステルヴェッキオのパスコリの家

 

小林  満

 

 ルッカからセルキオ川を遡っていくと,やがて列車はアペニンとアプアーネ・アルプスに挟まれたセルキオ渓谷の美しい景色のなかへと入っていく。フィレンツェやシエナを見慣れた目には,トスカーナにもこんな山岳風景があったのかと新鮮な驚きを提供してくれる。

 バルガは,この美しい渓谷のなかでも,とりわけ魅力的な丘の上の小さな町である。小さな坂道をいくつもジグザグと登りつめると,360度の眺望のなか,中世のドゥオーモが風に吹かれて建っている。新鮮な大気とさわやかな太陽の光が開け放たれた扉から入り込む,このドゥオーモの一番奥には,12世紀の巨大な木彫りのサン・クリストーフォロが名前のとおり,小さなキリストの幼子像を抱えている。坂を登って疲れた身体をここで休めると,思いがけなく清々しい心の安らぎを感じる。

 1900年前後の世紀末期,ダンヌンツィオとともにイタリアを代表した詩人,ジョヴァンニ・パスコリ。魂の安らげる「巣」を求めつづけた彼が,ついに見つけ,妹マリーアとともに暮らしたのが,このバルガから目と鼻の先にあるカステルヴェッキオの農園付きの家であった。その家は小山の中腹にあり,アプアーネの山々まで眼下に広がる風景をテラスから楽しむことができた。そしてこの土地での詩作が代表作「夜のジャスミン」などを含む『カステルヴェッキオの歌』となって結晶する。

 パスコリ自身テラスから見た風景を次のように描いている。「東から西へと緩やかに傾斜した,緑にあふれた盆地である。この盆地を挟む山々は,北と南でより高くなっているので,太陽の光に愛撫されることはあっても,寒気にやられるようなことはない。森に包まれた山並みから傾斜し始め,次第次第に川と同じ高さに至る。その川はと言えば,切子面を刻んだような荒々しい山並みに沿って蛇行している。巨大な青ダイヤのような空色の山々以外は,すべてが緑色で,草や葉にあふれており,わずかな風が吹くだけで波立ちうねる」と。

 パスコリは,少年時代に,父親を暗殺され,その後次々と姉,母親,兄を失った。彼の作品には,外界から何かが迫りくる不安感と,生垣などに囲まれた自分の小宇宙のなかでの安堵感との危うい均衡から成り立っているものが多い。そして外界から,ミミズクの鳴き声や鐘の音が象徴的な響きをもって,彼に働きかけてくるのである。

 

  小麦の芒(のぎ)がざわめく他は

  なにも聞こえない,私のいるこの片隅に,

  ここからは見えない山の町から,

  風に乗って時を告げる鐘の音が届く。

  その音は,言い聞かせる声のように,

  抑揚なく,穏やかに,降ってくる。

 

  空から穏やかに降りてくる声よ。

  お前は言う。さあ時間だよ。お前は言う。もう遅いよ。

  でも,もう少しだけ,このまま,

  この樹を,この蜘蛛を,この蜜蜂を,この茎を,

  幾世紀の,一年の,一時間の時を経たものたちを,

  あの流れゆく雲たちを眺めさせておくれ。

 

 「バルガの時鐘」(『カステルヴェッキオの歌』)では,夕刻,詩人お気に入りの麦畑の一隅に届く外界からの声は,帰宅を促す,バルガの町の高処から響いてくる時鐘であり,詩人を脅かすものには見えない。しかしながら,この場所で,詩人は「このまま,私の心のなかを見つめさせておくれ。/このまま,私の過去を回想させておくれ」「このまま,私の人生に涙させておくれ!」(第六連)と,悲しみの多い自分の過去に涙している。また,それに続く最終連では,鐘の音は,愛する家族がいる家へ帰るよう促しているように表面上は見えながら,実際に待っているのが妹マリーアひとりだけであることを考えると,最後の「私を愛してくれ,私が愛する人たちがいるところ」とは,少年時代に亡くなった両親や兄弟たちのいる死の世界ととらざるをえず,ここに「もう遅いよ,さあ時間だよ」というバルガの時鐘も,「外界=死の世界」へ誘うものとして響いてくるのである。

 

  さらに再び時を告げる鐘が鳴る。そのうち二度ほどは,

  ほとんど悲痛な叫び声のように鋭く私に突き刺さる。

  それから,穏やかな,落ち着いた音に戻って,

  この片隅にいる私に言って聞かせる。

  もう遅いよ!さあ時間だよ!ああ,じゃあ,戻ろう。

  私を愛してくれ,私が愛する人たちがいるところへ。

 

 このパスコリの家は,書斎から台所,そして庭にいたるまで,当時のままに保存されており,ボローニャで亡くなったときのベッドもここに移され,りっぱな墓所も傍らに建てられている。また,今でも当時とかわらずテラスからは,少し左手の丘の上にバルガの町を,右手にアプアーネの山並みを見晴るかすことができるのである。

 

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意見と消息

 

・今年3月末で33年間勤務した東京電機大学を退職します。その記念行事展覧会「私の建築遍歴 19602000──地中海から中近東へ日本列島からアジアへの視線」を39日〜10日(金〜土,午前10時〜午後5時)の二日間,同大学七号館10階建築学科(東京都千代田区神田錦町2-2)で開催します。ご観覧いただければ幸いです。(入場無料,問合せ先 tel.03-5280-3425)    阿久井喜孝

 

 

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図書ニュース

 

福本 秀子 『プランタジネット家の人々』アンリ・ルゴエレル著 翻訳 白水社 200012

 

 

<寄贈図書>

 

 下記の図書が学会に寄贈されました。

『ヨーロッパの家──伝統の町並み・住まいを訪ねて 4イタリア・ギリシア・ポルトガル』樺山紘一監修 西村太良・渡辺真弓他著 講談社 2000

『ルネサンスの彫刻──1516世紀のイタリア』石井元章著 ブリュッケ 2001

『フレスコ画のルネサンス──壁画に読むフィレンツェの美』宮下孝晴著 NHK出版 2001

『フランス・インド会社と黒人奴隷貿易』藤井真理著 九州大学出版会 2001

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地中海学会事務局
〒160-0006 東京都新宿区舟町11 小川ビル201
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